-小麦粉記-

-小麦粉記-

掲示壁 ver.2


 腹が立って、ちょっと悲しいまま、帰り道を遠回りしたときに偶然見つけた、灰色のコンクリートの壁。
 それだけなら、特には気にもとめなかったはずの、夕陽の中の長い壁は、
 その表面が、びっしりと文字でうめつくされていた。

 「掲示壁 on the wall word」


 落書きなんかのレベルじゃない。曲がり角で壁が見えなくなるところまで、途切れることなく何かが書き込まれている。この長い壁の終わりがどの辺りなのかは全くわからないけれど、見える範囲は、全てうめつくされている。
 壁に近づいて見てみると、それは短いものから長いものまでの、さまざまな文章だった。
 一番端、手前のブロックに、大きく「利用説明」という文が見える。
─「掲示壁」 抱えている悩みや相談、それに対してのアドバイスを書き込みましょう。一ヶ月で古いブロックの書き込みは消されます─
「掲示、壁?」
 聞いたことがない。が、基本的にはネットの掲示板と同じようなものらしい。確かに書かれている内容もスレッドがあって、例えば人気マンガのことについてたくさんの人が書き込んでいる。
 ただ「掲示壁」の大部分はそういうスレッドは立てられていない。特にテーマのない書き込みに対していろんな反応の書き込みという形が多いようだ。
 すこし探して壁を歩くと、一ヶ月が過ぎたのか真っ白に消されたばかりのブロックが見つかった。まだ誰の書き込みもされていない。ただの、白いコンクリートの壁だ。
 日が暮れる、たそがれどきの掲示壁には、俺以外に人影は見あたらない。
 どこかおかしい雰囲気の中で、気が付いたら、俺は手にペンを握りしめていた。
─くだらない事で、好きな人とケンカしてしまいました。「好きだ」と告白すればきっと解決するのですが、それができません。どうすればいいでしょうか─
 怪しいんじゃないか。こんなところに書き込んでしまってよかったのか。そう思いながらも、内心返事を期待している俺が、そこにいた。
 帰りぎわに見返すと、実に情けない、俺の心中を表すような震えた字だった。

 次の日の朝。登校した教室はどこかよそよそしい。
 ケンカしたクラスメイトの女は、俺の顔を見ようともしない。表情は、長い髪の向こう側に隠れてしまってよくわからないが、どうやらまだ昨日のことを引きずっているらしい。
 確かに、一日や二日程度の時間でさっぱりと解決するようなケンカじゃなかった。けれど、昨日の奇妙な「壁」のせいで、俺の中の熱していた感情はどこかへ消えてしまっていた。
 文字にして書いてみることで、気持ちの整理がついたのかもしれない。「掲示壁」なんていう、えたいのしれないものではあったけれど。
 二人とも、吐いた言葉に責任を持たずに、思ってもいないヒドイ言葉の応酬をしてしまった、そんなケンカ。口論最中のサイアクのタイミングで俺が折れたので、彼女のほうが引き際を見極められずに、言い返さなくなった俺へと言葉をザクザク刺してしまった。
 きっと彼女も、もう怒ってはいないと思うのだ。気まずいだけで。
 しばらく間を置いたほうがいいかもしれないと、俺のほうからは特に話しかけようとはしないまま。そんな風に、ただ無為に時間を浪費して、放課後を迎えてしまった。
 魚の小骨が喉に刺さったままのような、そんな気分で学校を出た。
 帰り道、一度も迷うことなく掲示壁に向かう。早くも俺の書き込みに対する返事が書き込まれていた。
─私も好きな人とケンカしてしまいました。少しムキになって、やりすぎて。きっともうきらわれちゃってます。私みたいになる前に、ちゃんと告白して、仲直りした方がいいです─
 あまり綺麗な字ではなかったけれど、何故かそのところどころ震えている文の一文字一文字が、大事なものに思えた。
─お返事、ありがとう。今まで女の子に告白をしたことが一度もありません。どのような告白がいいと思いますか。教えてくださると嬉しいです─

 翌日も教室の雰囲気は空々しい。ケンカした女は、朝に一度だけ無表情な顔を俺に向けたが、それ以降こっちを見ることはなかった。
 ふだんと同じようにふるまっているけれど、ちょっとだけ元気がなさそうに見えるのは気のせいではないと思う。好きな女のことだ。いままで毎日、一番後ろの席から見ている。落ち込んでいるか元気なのか位は、ちょっと見ただけでわかる。
 元気がなさそうだとわかっていても、あいもかわらずなんの進展も無しに放課後を迎えてしまう俺が、なんとなく情けない。
 そんな中でも掲示壁には、返事が書き込まれていた。
 短い謝罪の言葉と、几帳面な文字でつづられた、その人が待っている告白の言葉が。
─ありがとうございます。明日、そう告白してみようとおもいます─
 短く、力を込めて、その返事を書き込んだ。

 その日の夕暮れ。
 一度家には帰ったが、もう一度その告白の言葉を確かめるために掲示壁へ向かうことにした。もうそろそろ日が暮れそうな時間に。
 沈んでゆく夕陽を背中にした、ずーっと長い掲示壁。
 今日は先客、一人の女が掲示壁に何かを書き込んでいた。
 誰かが掲示壁に書き込んでいるところを見るのは、初めてだ。
 眩しすぎる夕陽のせいでよく見えないが、どうやらその女は書き込みを終えたらしい。くるりとこっちに振り返った。
 瞬間、俺の脚が、ピタリと止まった。彼女も、振り返ったまま、固まったように俺を見つめている。赤色の中に、黒く長い髪のシルエットが、風に揺れた。
 心臓が、一瞬その役目を忘れて止まる。
 ごくん、とつばを飲み込む。
 いかなくちゃ。
 頭の中に、一瞬消えた告白の言葉がもどってきてくれた。止まった足にも、力がもどる。
 一度、大きく息をすいこんで、俺は一歩、ふみ出した。
 大丈夫。俺は、彼女が待っている言葉を、知っているから。

 走り去った彼女の影は、もうどこにもない。
 掲示壁に一人で残された俺は、出口を失った言葉をどこへやろうかとまずそれに悩んだ。
 心の中で加速させ、さぁ届けよ!とばかりにエネルギーを持たせたのに、土壇場で行き場をなくして急ブレーキだ。
「なんで、逃げたんだ?」
 生まれて初めての告白は、言おうとしていた言葉とはあまりに違う、世にも情けない呟きとなって掲示壁の影にしおれて消えてしまった。
 あの女は、確かに彼女だった。そう思った。シルエットしか見えなかったが、確かにそう見えた。だから俺は、告白、しようとした。
 もしあの女が彼女だったのなら、こんな土壇場で逃げるような女じゃない。そうだ、あんなに気の強い女が、逃げるはずがない。
 あれは、本当に、俺の好きな女だったのか?みまちがい、かも知れない。
 逆光で、よく見えないのに俺が勝手に彼女だと判断しただけで、全然別の、よく似た人間だったのかも知れない。
 だけど、そうだとしたら掲示壁に書き込まれていたのも、そもそもあの女の書き込みだったという証拠は、どこにあるんだって言うんだろう。よく似た状況にいる、顔も知らない、男か女かもわからない奴だったというほうが、まともかもしれない。
 何しろ、「掲示壁」だ。
 書き込んだ個人が特定されてしまうことは、絶対にないはずのもの。言葉に責任を負うことなく、好き勝手に発言できる。だれかれ、かまわずに。
 そういえば何か書き込んでいたはずだと思い出した。何を書きこんだのかみれば、なにかわかるかもしれないと腑抜けてしまった体を壁のほうへ向け、
─ケンカして遠ざけたはずのムカツク男が、未練たっぷり様子で自分のことをチラチラ見てきます。はっきりいって気味悪いし、顔も合わせたくありません。効率のいい駆除方法があれば教えてください─
 そのまま、二分くらい、頭の中が停止した。

 何かのサークルや集まりの中の掲示板ならともかく、不特定多数の人間が集まる掲示板で書き込んだ人間同士が出会うことなど本来ありえない。もし出会っていたとしても、それが掲示板で書き込んでいた人だとは、わからないはずだ。けれど、それはネットの中の世界の話。
 ネットなんかの世界じゃなくて、「掲示壁」はリアルでばっちりと目の前に、物理的に存在する。
 書き込みをしようとしたら、別の書き込みをしようとしていた誰かとばったり出会ってしまう事だってあったりする。そして今、俺はその状況に出くわした。
 それは、掲示壁にとって、どういう意味をもつのか、俺にはわからない。
 けど、俺の心臓がふたまわり小さくなって、冷たい血が体中を流れはじめるくらいには、しょうげきがあった。
 教科書の字みたいに綺麗で無機質な文字の並び。二度、三度と読み返す。二度、三度と、長い髪のシルエットがフラッシュバックする。
 十分すぎるほどその意味を確かめて、俺はなにか助けを求めるみたいに前の書き込み、告白のセリフの書き込みを探そうとして、かたまった視線を無理やりずらした先に
─ケンカして三日たっても顔をあわせてこなかったら、修復は不可能だと思えよ─
─お互いに好き合っていたら、ケンカなんて自然になくなっちゃうよ─
─好きな女とケンカして謝ることもできずに、この神聖な掲示壁に書き込みをしている時点で、おまえは負け組み─
 思わず、一歩、後ずさった。後ろに下ったところで、逃げられなかった。さがったせいで視界が広がって、掲示壁が、俺の前にそびえたった。
─君のやっていることはガキだね─
─告白を他人に教えてもらうなんて恥ずかしいって─
─あなたは本当にその人のことが好きなのですか?本当に好きなら自分の力で頑張りなさい─告白を他人に教えてもらうなど情けない─信じられなーい─自分の気持ちのこもってない告白なんてされても気持ちわるいって笑笑─つかそんなことで掲示壁荒らすんじゃねーよ─おまえバッドエンディング直行逝ってよし─フられて書き込むなよーうざいから─死ね─お前みたいな奴は女にあいてにされないから銀座の二丁目に行け─彼女なんていらないよ。ディスプレイのなかではいつでもぼくの妹たちが笑いかけてくれるんだ─告ったの?どうせ死亡フラグだけど─自作で電車男みたいのやりたいなら一人でヨロシク─もう一歩、後ずさる。─お前はただの電波男─掲示壁にたよるような意志薄弱男に彼女なんてできるかボケ─二歩、三歩、あとずさるたびに言葉が増えて掲示壁はだんだん大きくなってゆく。どこまでも、広がってゆく。右に左に終わりが見えない壁・言葉・壁が、掲示壁が俺にのしかかってくるように、終わりがないだれも責任を持たない宙に浮いている書き込みが全て俺のほうを向いて、目が合った瞬間に俺に向かって跳んでくる。よせやめろとそう思ったところで「やめてくれ」口に出したところで、一度書き込まれた形をもった言葉は消されるまでその力を失わない。
 今日の学校帰りに見たときから今俺が見に来るまでの間にかかれたわけじゃない。なぜ気がつかなかった?気がついていなかったのか?
 悪意の文章の合間を縫ってあの書き込みを探す。最初に俺が書いた書き込みを。そして、その返事の書き込みを。
 悪意の書き込みの海からやっとの思いで見つけたその書き込みに少しだけほっとして、じっくり読み返す。相手の人間がだれであれ、この書き込みは、嘘ではなかった。
 だけど、それなら気がつかないはずがなかった。俺と誰かの書き込みの周りを囲むように書き込まれている悪意に。だれが書いたのか、いつかかれたのか、絶対にわからない。でも誰かがいつか、俺のことをあざけっていた。

 たぶん、気が付いてはいた。認識はしていた。気が付かないふりをして、無視をしてきた、だけ。
 それでも、赤の他人の集まりの、責任のない言葉が吹き溜まる掲示壁のなかで、俺の書き込みにちゃんと返事をしてくれた人がいた。
 ケンカをしていた、惚れている相手かもしれない人と、こういう形で俺と接することができたと思い込んでいた。思いたかった。
 だから、彼女だと思ったシルエットの女の書き込みは、さすがに無視することはできなかった。

 告白言葉を教えてくれた人が彼女だったのか、それとも「駆除方法」を聞いていたあの女が彼女だったのか。どちらも、彼女ではなかったのか。
 今日の教室で、少しだけ元気がなさそうにして、一度だけ無表情に俺をみた彼女は、何を考えていたんだろう。二つの書き込みと、周りの書き込みに、胸の辺りが気持ち悪く揺れる。
 気が付けば、もう日は暮れていた。街灯が、しみったれたような、ぼんやりした光で掲示壁を照らしていた。時計がないから、何時なのか、わからない。
 ふと目にはいった掲示壁のブロックに、「星座別今月の占い」という誰かの書き込みが見えた。反射的におひつじ座を探して読んでみる。
─おひつじ座・今月の運勢はよくないよ~(泣)疑心暗鬼になって落ち着きません。まわりにまどわされずに、自分をだしていきましょう!─
 確かに今月の運勢はサイアクだ。しかもまだ月のはじめだって言うのに。
 ケンカして、掲示壁で打ちひしがれて、これ以上よくないことは、おきてほしくない。こういうときは気にしないに限る。何万人いるのかもわからないおひつじ座が全員サイアクなわけじゃない。どうせ占いだ。いい内容のだけ覚えておけばいい…?
 そうやって俺は、悪い書き込みを見なかったことにしていたんじゃないだろうか。
 占いの一文にふりまわされて、今月はサイアクな月だから、まわりに騙されないようにしようとするあまりにチャンスを逃したりするのは、ばかばかしい。つきなんてものは、自分でつかむものだ。運なんて、自分でひきよせるものだ。

 あぁ、そうか。
 掲示壁だって、きっと、おんなじだ。
 何を書き込んだところで、どんな返信がかえってきたところで、俺があの女のことを好きだって事には変わらない。占いも言ってるとおり、まわりにまどわされることなく、自分をだしていけばいい。
 あの女に似たやつが書き込んだ書き込みがきっかけで、みえてしまっただけ。自分の力で、彼女に告白をしてみる。もう掲示壁の書き込みなんて、気にはならない。外からテキトウに書き込んでる奴らのことなんて、気にしなくたっていい。たとえそれが、本当だったとしても、そんなことは二の次だ。
 そして、好意的な書き込みに甘えて、それに頼っていい気分になるのも、もうやめだ。
 俺は、俺自身をしっかりさせて、彼女に告白すればいいんだ。成功しようが失敗しようが、あの女の心の掲示壁に、俺の名前を刻めばいいさ。
 掲示壁
 こいつはきっと、俺を試している。際限ない悪意を書き込んだり、あの女に良く似た女(いや、もしかしたら本人かもしれないけれど)に、あんな書き込みをさせたり。
 それでもお前は、あの女のことを好きだと想っているのか、と。
 小さい、それでも確かな一つの世界の中で、何があってもゆるぎない決心はあるのか、と。
 じっと、掲示壁を見つめた。
 そんなの、Yesに決まってる!
 いつの間にか夜が明け、紫色になっている空を見上げて、デカイ掲示壁に負けないように、俺は叫んだ。

 もうすっかり太陽が昇って、明るくなった掲示壁に背を向ける。
 昨日までは掲示壁に行けば心の決心がついていたのが、いまは背を向け、一歩ふみ出しはなれるごとに、心の中はかたまってゆく。

 誰もいない朝の掲示壁に、誰かが走ってくる音。
 澄んだ空気が、その足音をひびかせる。
 掲示壁にたどり着いたその足音が止んだと思うと、バシャッと何かをぶちまける場違いな音が耳に飛び込んできた。
 びっくりして振り返り、俺の目線の先の、いましがた俺がいた掲示壁には、
 さっきまであった書き込みの上に真っ白なペンキが叩きつけられていて、その真ん中に、ペンキのバケツを持った、髪の長い女が、息を切らしながら立っていた。

 真っ白なペンキが、朝日を受けてキラキラしている。帰ろうとした彼女がくるんと振り返った。
 ばっちり、目が合う。
 ペンキのバケツが、カコンと落ちて、転がる。
 そのまま、真っ白な掲示壁で立ち尽くす彼女に、とりあえず「や、おはよう」なんていって手を上げてみた。




© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: