-小麦粉記-

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前傾姿勢で。


 人間が生物として最も人間らしく進化したのは、長い距離を走り続けることらしい。そういう話を聞いたことがある。なんでも、人間ほど長距離を地面を蹴って走り続ける動物はいないそうだ。空を飛ぶという点では渡り鳥なんかは物凄い距離を飛ぶが、そこんところはよく知らない。とにかく、人間のもっとも人間たるものの一つが、長距離走だっていう話。
 短距離走もあるけど、人間はチーターには勝てないよね。
 チーターのように一気に獲物をしとめられなかった俺たちのご先祖様は、じわりじわりとマンモスを攻め立て、どこまでもどこまでも追いかけていって仕留めたんだろう。その努力に、敬服。
 そうして時間は経ち、槍や矛を持って戦場を駆け回る時代もすぎた。というか、戦争はとりあえずこの日本ではなくなった。いうまでもなく、もう俺たちは石の刃をつけた槍を持ってナウマンゾウやオオツノシカを追いかける必要もなくなった。いまや家に居るだけでケータイかパソコン一つでなんでも手に入る始末だ。年中部屋に引きこもっても、なんとか生きていける世の中で、俺たちは暮らしている。もはや、走る必要性は失われたといってもいいんじゃないだろうか。いや、そりゃあね? 郵便局の配達員さんとか、宅急便屋さんとか、いそがなきゃいけない人達はちょっと別にしてさ。
 そうそう、コレはあくまで俺の問題なんだから。いや、かってに「俺たち」とか言っちゃってるけど。ウン、まぁ、「俺たち」と言いやあ「俺たち」なんだけど、今俺の150メートル先を走ってる栗林が同じコトを思っていれば、の話よ。
 気温、マイナス二度くらい。水はけのいいグリーンサンドも、雪が積もったらそんなものは関係ない。超寒い。少なくとも、一般人が5000メートルを走る気候条件じゃないことは確かだ。さっきからもう肺が痛い。汗をかきはするけれど、体は温まらない。肌がちくちくと針で刺されるようにいたい。それでも、まだ今日は暖かいほうだ。昨日はマイナス七度まで冷え込んだことを考えれば、五度も気温が高くなったことに感謝せにゃなるまい。
 つか、鼻水凍る。
 昨日やけに丁寧にひげをそったから鼻の下とかあごがハンパねぇ。切れそうだ。雪までぱらつきやがった。
 スタートラインでぬくぬくのジャンパーを着て七輪で火を起こし、餅を焼いている閣下様がストップヲッチをみて、俺に怒鳴る。
「シギサワ、貴様ァ! ペース落ちてんぞ! 栗林に負けてどぅすんだァ! この青二才が!」
 うるせぇ。デブ・デブ・デブ・デブ・デブ・ひげ・ひげ・ひげ・ひげ・ひげ・走っているとろくな悪言の文句すらでてこねぇ。すっすっ・はぁっはぁっ・すっすっ・はぁっはぁっ・デブ・デブ・ヒゲ・ヒゲ!
 「天空の城ラピュタ」に出てくるあの『閣下』に似ているから、『閣下』。それ以上でも、それ以下でもない。本名は大沢武治。52歳。進路指導部長。科目は体育かと思いきや家庭科だ。あの体つき、あの顔つきで家庭科だぜ? 信じられるか? 「ウム」とか言って俺たちに作らせたデコレーションケーキを眺めて、試食して、『評定・2』を下す。いや、俺は数少ない『評定・5』だがな。
 趣味はお菓子作り。
 いま食ってる餅だって、あべかわときたもんだ。砂糖醤油の。
 いや、そんなことは今どうだっていい。問題は、奴が高校三年間を通して俺の担任だったことだ。「シギサワ、貴様ァ! このボケナスビがぁ!」という怒鳴り声を何度聞いたかわからない。
 ところで、なぜ俺たちが(あ、俺と栗林ね)このクソ寒い中で5000メートルを走る羽目にはっているのかも、閣下のおかげだ。
「シギサワ、貴様、ちょっとこい」と入学早々閣下に呼び出された俺は、「いいか貴様。俺が貴様の担任である間は暴力沙汰を起こしたらいついかなる状況状態心境でも、グラウンドで5000メートルを走らせる。いいな。もし誰か殴りたくなったら、俺を殴れ」と釘を刺された。
 いいか。入学式が終わった、直後だ。俺もまだ閣下が担任になることすらしらないタイミングでだ。当然、意味が不明だ。俺を殴れだ? 中学の頃はそりゃあひとしきり悪いこともしたし卒業式の前の日にみんなで記念に職員トイレを破壊したけど、それでも暴力沙汰を起こすようなことはしなかった。トイレを壊したのだって、俺たちなりの感謝の印だったんだ。
 みんなとは別の、市内の進学校に入学して(そう、何をトチ狂ったのか、俺は合格率2パーセントだった高校を受験し、合格した)それをイキナリ「シギサワクン! 暴力沙汰は5000メートルだからねッ☆(ウソ)」だなんて、冗談じゃねぇ。
 しかしてその約束はきっちりと守られて、俺は今雪が降り始めた一月の真ん中で、雪上5000メートルをひた走っている。
 足の感覚なんて、とうに無いね。
 後ろでズザ・ズザ・ズザと音が聞こえて振り返ると、栗林が表情一つ変えずに俺を抜こうとしていた。っていうか、振り向いている最中に華麗に抜かれた。
 栗林のキレイすぎるフォームに、しばらく寒さを忘れて見入ってしまった。
 体の真ん中に、一本強くて、しなやかな芯があるように見える。一定の呼吸、腕の振り、足、抜き去るときに少しだけ俺を振り返った、ほんの少し上気して赤くなったほっぺの、色白の顔。切れ長の目。引き締まったケツ。長い足。走ることに特化しているようなそんな全身。ただちょっと邪魔そうに、一本に束ねた長めの黒髪と、小さくも大きくもない胸がゆさゆさ上下に揺れていた。うなじの後れ毛が、ベリィグッド。心臓がドキドキ…は、走ってるからか。
「シギサワ、貴様ァ! なに抜かれてんだボケナス!」
「うるっせ、かはっ、んだ、っつの、はぁ、かっ、ぺっ、ひゅう、ぜぇ、黙って、餅詰まらせて、ぜぇ、死ねぇ!!!!!」
 と、せっかく栗原の観賞を妨げられて思わず怒鳴った、つもり。実際は「死ねぇ!!!!!」くらいしか聞こえてないと思う。のどをつかったせいで余計に苦しくなった。のどが、閉まる。へばりつく。そして、冷気が気管を刺激して、咳が出そうで、でない。あと半分、2500メートル。
 あぁ、ムスカになりたい。
「閣下。キミのアホ面には、心底うんざりさせられた」とかナントカ言って飛行石をかざすと、閣下がラピュタからスポーン! ってかんじで落ちていくの。最高じゃんよ。
 ………。
 ばかばかしい妄想をして悔しくなったので、ペースを上げて栗林の背中に向かって無理やり足を回転させる。雪が、踏みしめられていくググッっていう感触だけが、足を通じて伝わってくる。履き古しのバッシュが、重たい。
 栗林の背中に追いつくと、彼女がまたちょっとだけこっちをみて、また前を向いた。

 人間の体が一番適している姿勢も、実は走っているときのちょっと前傾の姿勢らしい。ゆするに、人間が一番楽で、負担がかからないのは、走っている最中だという。たぶん、そりゃ骨格から見た上の机上の理論でしかないとは思うんだけど、それもあながち間違いじゃないかもしれない。
 寝たきりのじじばばはともかく、引きこもって寝転がっているか座るかの人間より、はしっている人間のほうが健康なのは絶対確かだ。走っている人がじつは食道ガンとか、じつはロリコンとかそういうことじゃないぜ? 人間の、生きる姿勢がさ。
 そうね、たぶんそう。
 生きる姿勢だ。
 いや、つか、そんなもん関係ない。
 たったいま、関係なくなった。
 栗林が、ギアをあげやがった。
 まっすぐ前をむいて、白い息を吐きながら、グッとスピードを上げた。
 さぁ、どうしようか。
 1・頑張ってついていく。
 2・あきらめて見送る。
(いまここでムリしてついていったらもうこうはんはついていけないよ完走できないよさっきのでおまえはもう限界だって栗林についていけるわけ無いじゃんなに目的は栗林についていくことじゃなくて5000メートル完走することだろ閣下なんてきにすんな走る競技は孤独にやるもんだ栗林についていったってアイツがオマエのことを振り返ってくれるとでも思ってんのか三年間すきなのかそうじゃないのかそこで悶々して結局ほとんど話さずにおわったくせにこの期に及んでなにをするっていうんだそもそもオマエ野郎を殴ったのも栗林のことであたまがいっぱいになったからじゃないかどうせオマエはろくに言葉も捜せずにとりあえず殴ったタダノバカタダノバカタダノバカタダノバカ栗林はなんともおっちゃいねぇよオマエのことを三年クラスが一緒だったそして最後の最後でこんな5000メートル走のきっかけをつくったタダノバカタダノバカタダノバカタダノバカだとしかおもってねぇよというかあの調子じゃバカとも思ってないかもしれないぜ嫌われてるならともかくもムカンシンだよムカンシンやめとけやめとけオマエにはオマエをおいてさってゆく栗林のケツをながめることしかできないんだよそうケツを眺めるだけだ、オマエにできることはな)
 唾を吐いて、ターボをかけた。
 足の回転、ギアはこれ以上上がらない。だから、過給器をかける。今までよりも前に前に前に前に足を着地させる。フォームなんてばらばらだ。あごも上半身も見事に上がってぐじゃぐじゃだけど、腕を振って足を前に出す。
 栗林が、俺を振り返った。
 ちょっと、笑ってる?
 あ、やべ、俺、鼻水でてたんすけど。

「栗林さん。本をしまいなさい」
 俺の隣で本を読んでいた栗林に、なぜかイキナリ教室に入ってきたニコラス・ケイジがそんなことを言った。
「え?」と顔を上げた栗林に、ニコラス・ケイジはさらに続ける。
「本をしまいなさいと言ったんです。さっさとしまいなさい」
 俺を含め、教室のみんなが注目した。
 栗林が不本意な顔をしながらも黙って本をかばんにしまうのを見届けて、ケイジは舌なめずりをした、ように見えたのは、俺だけだったかもしれない。
「まったく、周りのことも考えなさい。みんな二次試験に向けて猛勉強してぴりぴりしてるって言うのに、あなただけ本を読んでいたら邪魔でしょう。ほかの人の気が散るでしょう。明らかに。みなそういったことを我慢しがんばっているのに、独りだけ楽して、本なんか読んで。そういうことが考えられないのですか? あんなチンケな大学の推薦入学を取たのは、早々と遊び惚けたいかでしょう。それとも、「わたしはもう受かりましたよ」なんてことを本を読んで見せびらかして、ほかのみんなの気を散らすためですか? どちらにせよ、邪魔であることに変わりはありません。ほかの難関国公立の推薦やAOなら話は別ですが、我が校の名誉のたしにおならない、いや、むしろマイナスイメージにしかならない大学ですからね、あなたは。まったく、この高校にきて何をしていたんですか」とそこまで聞いて、気がついたらニコラス・ケイジの後ろに立っていた。
「ん? そういえば、あなたは進学ではなく就職でしたね。この、伝統の、進学校に来て、就職ですか。それもどこぞと知れない怪しい貿易会社。まぁ、それでも銭を稼ぐのだから、テキトウな大学の推薦合格で遊び惚けているよりましでしょう」
 栗林が、ペンケースからいつも使っている細身のシャープペンを取り出すのが目に入った。無表情の目は、どこをも見ていなかったような気がする。
 言いたいことが山ほどあった。栗林がいかに成績がいいかということと、尊敬する教授がいるからあえて三流の大学に進むということ。過程の経済状態から推薦で合格しておきたかったこと。読んでいたほんは、その教授の著作だということ。
 でもって、それを全部言ったら、俺は栗林のストーカーになってしまうし、言い切るだけ頭が冷静でいられなかった。
 で、栗林がそのシャープペンを握り締めるまえに、ケイジのスーツの襟を掴んで引きずり倒し、上から下へかためた拳をばっつり振り下ろすことにしたわけだ。俺の拳が炸裂したケイジの鼻からは見事な鼻ちの花が咲き、首の後ろがめりっといやな音をたてた。そして名俳優ニコラス・ケイジは、プラトーンよろしく立ちひざのまま、後ろ向きにゆっくり倒れていった。
 俺は黙って、殴って痛む拳を、たかだかと突き上げる。
 割れんばかりの拍手の中、閣下の怒り狂ったタックルを背中からくらい栗林の机に突っ込んだ俺は、彼女のあきれた顔をみながら、十戒のように割れた教室のドアへの道をレッドカーペットのようにみんなに拍手されながら、ターミネーター2のラストシーンよろしく親指を突き立て、閣下に足を引きずられて運び出されたのち、進路指導室にぶち込まれた。
 ニコラス・ケイジ…によく似た現代国語教師秋山治憲。鼻骨骨折&首もおかしくなったらしい。1時間進路指導室に留置された後、閣下がそう俺に告げた。「よっしゃ」とガッツポーズする俺に容赦の無いボディーブロー。だめだよ閣下。そこはピストルを撃ちまくって弾切れで「あれ? およっ?」とかいわなきゃ。
「シギサワ、貴様ァ! 週一回の登校日であとは三月に卒業するだけだというのに何をしでかしやがるぁぶぉけなすびがぁ!!!」
 ボディーブロー二発。
「俺を殴れといっただろうがぁ!」
 言葉通りに、俺も閣下のビール腹に一発決めてやったが、不敵な笑顔を見せた閣下は拳を腹にめりませたままん低姿勢の俺の後頭部に両手を組んでハンマーのように振り下ろし、床の木の臭いにおいと味がわかったと同時に、いったん俺は意識をどこかにやってしまった。
 寒さで気がついたらなぜかグラウンドで、
「シギサワ。事情はよく聞いた。ニコラス・ケイジは(うそ、ちゃんと秋山先生って言った)俺からよく言っておく。約束の5000メートルだ」と、意識を回復したばかりの俺につばを飛ばしながらうなった。体が寒さでこわばっているのに無理やり立たされる。ボディーブローは中学で慣れているせいか、手加減をしていたのか、もう痛くは無かったけど、後頭部はまだズギズギしていた。
 そして、なぜか栗林までスタートラインでストレッチをしている光景。
 七輪で餅が焼ける。
「走れ、シギサワ」
 閣下が、砂糖しょう油でやけた餅を食って、飲み込んだ。
「走れ! 前を向けシギサワ! 前傾姿勢だこのボケナスビがぁ!」
 うるせぇ。閣下、俺はナスビじゃねぇ。餅喰ってんじゃねぇよ。


 ターボをかけたところで、こんどの栗林にはなかなか追いつけない。
 栗林だって、つらいはずなんだ。さっきからみると、息だって上がっていやがる。キレイだったフォームも、だんだん崩れてきた。なのに、ヤケで走っているはずなのに、速ぇぞ。ほら、もうつんのえるみてぇにはしってやがる。
 なぁ栗林。
 おまえ、どこ見て走ってるんだ?
 もう俺たち人間に、長距離を走る意味なんて、ほとんど残ってないんだぜ?
 タイムを伸ばすためにはしるのは、なんかちがうから別としてさ。
 走ってるその先に、何が見えてんだよ。
 2メートルの感覚のまま、一周する。閣下がラップをみて、にやにやしていた。
「シギサワ。人生とは、長距離走だ」そうすれ違いざま、囁きやがった。きめぇ。なにあほくせぇこといってんだ閣下。
「シギサワ! あごを引けぇ! 前を向けぇ! 前を、前を、前を、前を向けェ!」
 前っつったって、栗林しか見えねぇよ。栗林の、ケツしかな。
 どたどた嫌な音が聞こえて振り返ると、閣下が走っていた。腹の肉を揺らして、そして恐ろしく速ぇ! なんだ閣下!? めちゃめちゃはぇえじゃねぇか!
「前を向け! 走り続けろ! 後ろを振り向いたところで、体力がなくなるだけだ。踏み出した一歩を帰ることは出来ん。踏み出した一歩で、確実に前に進め! 5000メートルは一万歩か? それだけあるのに、まえに踏み出した一歩のことなど構っていられるか? 三歩前の踏み出しに後悔しても無駄だろうが!」
 なにいってやがる、閣下、あたま、おかしくなったのか?
「踏み出した一歩について人からとやかく言われるのは、三歩前の踏み込みにいちゃもんつけられんのと、おんなじなんだよ!」
 言葉の途中でフッ、フッ、フッよ、閣下の吐息が挟まる。
「人間ってのはなぁ! 走ってるときが、一番正しい姿勢なんだよこのボケナスビがぁ! 紀伊店のかシギサワ! 前に踏み出したことで文句つけられて人殴る暇があったらなぁ、そいつが追いつけないくらい前傾姿勢で踏みだしゃいいんだ! おっぷ、おげぇ!」
 胃から戻った餅をのどに詰まらせて倒れた(憶測)閣下を無視して、もう一度ターボをかけた。
 迫る栗林のケツとさらさらの髪の毛&シャンプーの香り。だんだんスピードが落ちてきた栗林を、ふんぬと抜き返す。ちらっと振り返ってみたら、栗林は、その端正な顔を、涙でゆるゆるにしていた。
 何だ栗林、閣下の話に感動してやがる。
 長距離走は、人生だ? ふざけんな。長距離走は、長距離走だ。人間の特技だ。人の生か? 人生か?
 前傾姿勢で前に前に行くことの、どこが一番人間に合った姿勢だって言うんだよ。疲れて、鼻水は出るし、目から汗が垂れる。冷たい風だから、塩水の通ったところが切れるほどいてぇ。
 ただよ、いま、後ろ、向けないわ。確かに。
 今後ろ振り返ったら、もう走れない。だからもう、走るしかない。一周抜かされてるんだ。栗林のケツを拝むには、さらにスピードを上げるしかないぜ。
 グン、と、前に出る。出る。出る。
 とりあえず、いま俺が走る目的は、栗林のケツを拝むことだ。あわよくば、抱きついてやる。なんかいま閣下の脱げたスニーカーを踏んづけたような気がするけど、別にいいか、閣下だし。
 前傾姿勢。目指せ、栗林のケツ。
 閣下の言うとおりか?
 閣下のスニーカーを踏んだことなんて、栗林のケツを拝む目的の前には、ささいなタイムロスでしかないぜ。きゅっと引き締まった、もみ応えのありそうなお尻の前にはな。
 いいぜ、閣下。
 あんたの言うとおりだ。
 今の俺の人生は、栗林だ。長距離走の最中に、ぜったい、ものにしてやる。
 誰になんといわれようとな。
 前傾姿勢。たしかに、一番、負担が無いね。
 立ち止まったり、振り返ったら、どっと疲れる。
 人生は長距離走か。きめぇこといいやがって。もう年のくせしてムリしやがって。アイツ、俺ん家の状態、知ってやがったな。俺が働かなきゃならねぇこと。でもって、いつかそのことでニコラス・ケイジが何か言うんじゃないかって、予測してやがったな。
 わかったよ閣下。気にしない。前傾姿勢で追い抜いていけって訳か?
 一周差を取り戻して、栗林のケツを揉んで、5000メートルを、走り終えた。栗林の代わりに閣下にボディーブローを食らった。今度はマジで、本日二度目の、意識、行方不明。

「志木澤君。なんでわたしまで走ったかわかる?」
 保健室。白い壁。ベッド。栗林の、紅く染まったほっぺたの顔。
「さぁ」
「志木澤君が殴って無かったらね、わたしがケイジのこと、刺してたからよ」
「ふぅん」
 俺の受け答えがそっけないのは、閣下のボディーブローが効いていて、腹筋に力を入れるといたいからだ。決して緊張しているわけじゃない。
「殴ってくれて、けっこう嬉しかったけどさ。閣下の話、きいてたよね」
 俺はベッドで寝転がって、栗林は横でイスに座っている。一本にまとめていた長めの髪は、今はほどいて流している。で、いたずらっぽい目で俺のことを見下ろしていた。
「あぁ。一応聞いてた。」
「なんかさ、かっこよかったよね、閣下」
「そうか? 途中でぶっ倒れたろ、あいつ」
 閣下はさっきまで俺の隣のベッドで意識を失っていたが、起き上がってどこかに行った。やはり走ったせいで胃から戻ってきた餅にのどを詰まらせて、窒息したらしい。あほやん。
「別にさ、地元の三流大学の推薦を選んだことに後悔はしてないんだけどさ。なんていうか、やっぱり心のどこかで『母さんたちにムリしてもらえば、いいとこいけたのに』とか、思ってたりするんだよね。自分で選んだのに。あそこの教授が好きで選んだって言うのも、あるけどさ」
 と、栗林は微妙な目をして、どっか遠くを見ていた。
「俺も、そう思うときくらいあるさ。実は大学行きたかったなーとか、そういうこと考えることもある。ま、閣下じゃないけど、踏み込んだ一歩をぐにゃぐにゃ考えるより、その先を見てもう一歩足をふみださなきゃ、なかなか大変だぜ? 実際。前傾姿勢が、一番楽なんだよ、人間」
 やば、閣下に感化されてやがる。
「だからわたしのお尻、さわったわけ?」
「まぁ、あの走り込みの目標は栗林に追いついてケツを撫でることだったからな」
 っておい、なにいってんすか、俺。
「そういうこと、言う?」と、笑う栗林。「っていうかさ、いつまで寝ながら話してるのよ」といわれたので上半身を起こそうとして、栗林が近づいてきて、キスされた。栗林の香りで、頭の中がいっぱいになった。やべぇ、爆発しそうなんですけど。
「ふふっ。初心ー」なんていってベッドのカーテンの裏側に行った栗林。カーテンからは、影しか見えない。
 ごめん、爆発します。
 布団を跳ね除けてカーテンを押しのけるとともに栗林の影の場所に両手を広げ、彼女を抱きしめた。
 柔らかい、何かがむりゅむりゅと腹に当たっていた。ぎゅうーっと抱きしめると、汗臭かった。
「シギサワ、貴様ァ!」
「閣下?!」
「あのさ、こっちだから。あ、ちょっと待って、写メ撮るからさ、あははは!」

 抱きしめた閣下に本気のアッパーをくらいつつも、ふらふらと栗林を抱きしめた。
 ケツを撫でるのは、忘れない。




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