-小麦粉記-

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章のいち



 バカらしいほどどこまでもブッ飛びそうな夏空のしたの、ススキの下公園屋外バスケットコート。死に物狂いで鳴き叫ぶセミの声を掻き消すほどに声を張り上げる中学生。なんかもう、夏だって言うのが面倒なくらい、夏だったね。
 そう、そんとき夏休みは、残すところ一日で終わりだった。まだ夏は終わる気配が無いけれど、それでも夏休みの終わりは、もうすぐだった。
 至極当然、課題を終わらしているものは、一人としていなかったわけだ。
 要するに、「いまさら宿題やったってまにあわねぇんだから、とりあえずバスケやるべ」という、集団現実逃避的バスケだった。それゆえ、全員がいつになく全力。テスト前に長編漫画を一気読みしてしまうあの精神状態で、全力で目の前のボールを必死に追っていた。頭の中から「課題」というに文字を消すために。
 その間違った努力が実り、コートに集まった俺たちの目からはギラギラした輝きが宿り始め、本当に頭の中がバスケの色に染まってゆく。
 そんな集団のなかに、俺はいた。
 身長は178センチ、体格は平均から見るとがっちりしているけど、周りの連中はみな俺以上にごついので、そんなに強そうには見えない。さすがに180センチを越すデカ物が五人もいれば、仕方が無い。っていうか中三で180越えは、反則よね。

「蒼太!チェック!チェック!」
「陽輔後ろ入ってる!パスさせんな!」
 マンツーマンディフェンスで守る俺たちに、速いパスで隼人たちのチームがオフェンスをかける。五人と五人の視線がバチンとはぜた。俺と蒼太のコンビを中心にしたチームと、隼人のパスワークを中心にしたチーム。いつものメンバー。
「マツ!きれろ!」
 隼人の指示が飛んで、相手方のチームの動きが格段によくなる。絶妙のパスワークと、数瞬のアイコンタクト。隼人には司令塔の才能、チームには長年の付き合いから生まれる連帯感があった。すばやい指示でチームを動かす。さっきからエンドラインを三回も抜かれてる。こいつらのチームだったら、本職のバスケ部連中にも勝るとも劣らない。隼人個人だったら、部活の連中の誰よりもバスケが上手いだろう。
 それに対してこっちのチーム。俺と蒼太、他の三人も別にこれと言って才能は無かった。ガキの頃から一緒なのは向こうと同じ。だから全員お互いのことをよく知っている。連帯的なバスケというより、三人がボールを運び、俺と蒼太がドライブで切り込む。180センチの奴が入れ替わったり、はたまた一気に展開、切り込みして3Pが上手いやつを生かしたり、蒼太の得意のミドルシュートのために四人でスクリーンを張ったり。要するに個人個人の得意なところを、全員でサポートして確実な点に結びつけるチーム。一人はみんなのために、みんなは一人のために。みたいな感じ。
 いままでパスをまわしていた隼人が、今度はボールを持った瞬間切り込んできた。当然ディフェンスにつく。これで絶対抜かせない。
 だけど隼人も俺たちを抜けないのは最初から承知だった。さっきまで隼人がいたところに走りこんだ奴に「打てっ!」っと叫んでボールをパス。フリースローライン辺りから、ノーマークでシュートフォームに入られる。
「みんなアウト!」みんなに俺が叫ぶ。
「オッケ陽輔リーバンしっかりぃ!」
アウト、とはスクリーンアウトのこと。敵が打ったシュートんリバウンドを確実に取るために、敵を中に入れさせない、アウトさせるのだ。
 予想通りフリースローが苦手だった奴が放ったシュートはリングに当たって跳ね返る。
 体をぐいっ、と持ち上げる跳躍。まだ誰も達していない高みへ目一杯手を伸ばし、スローモーションで空中を漂うボールへ力を集中。体が、空中へと跳躍する。重力から一瞬だけ開放される感覚が、体を包んだ。その快感に浸るまもなくボールにかけた手を一気に自分の体へと引きつける。絶対に、逃がさない。
 右から手が伸びてくるが、さらにその上の空間でボールをキャッチ。行き場所をなくした手、たぶん隼人の手の平が、虚しく何も無い空を泳いだ。
 お前らじゃ、俺には届かない。俺の、勝ちだぜ。
 リバウンドのボールを完璧に自分のものにして、着地。一足先に右サイドに寄って待ち受けていた蒼太にパスをする。俺にリバウンドを取られた隼人が、前のほうを指差して何か叫んでいるが、もう遅いぜ。味方が開けてくれた道を全力で抜けて、センターライン辺りで蒼太からのボールを受け取る。
 前にはぽっかり、って感じで青空がまぁるく広がってて、開放感というより制約するものが無くて、どうしようもない感じ。このまま空に飛んでいけそうな気すらしてきた。
 決してドリブルは上手ではないけど、前方に誰もいなければそもそもターンも、フェイクも必要ない。前に進むことさえ出来たなら。
 眼にはゴールしか映さないで、突っ走る。バッシュはしっかりとコートをグリップ。他のものには気を配る必要もないし、邪魔なだけ。その視界には自分の姿を描き出す。どこで踏み切るか、どこまで行くか、ビジョンを作り出していく。
 コンクリートの地面を最速で走る。走る。はしるハシルはしるハシル!
 トップスピードにのったまま、勢いを殺さずにコンクリートの地面を踏み込んだ。もうゴールはすぐそこ。横方向のベクトルを程よく切り替え上方向のベクトルへとスムーズに移行。一切の無駄を作らない、踏み切ったときに音も出さない、出来るだけ完全な運動エネルギーの移行。
 今日も調子のいい感じで踏み込み。体が、空で踊る。地面から一切のしがらみを断ち切り、俺自身の力だけで高みへ臨む。ボールを片手に持ち、頭の上へ。この快感がなかったら、正直バスケなんて、しないぜ。
 赤いリングと所々切れているチェーンのネットが、すぐそこに迫ってくる。そのリングは、まだ指先しか届かない。だから決めるのは、高めのレイ・アップ。
 カジャン!と、チェーンネット特有の音が鳴り、心地のいい響きを立ててボールがコンクリートを跳ねた。
 心には爽快感。飛翔した後の足に残る痺れ。抑えることの出来ない表情筋が俺の顔を笑顔にする。走り寄るチームの奴らと手を打ち合い、汗を飛ばしてハイタッチ。後ろでは隼人が悔しそうな、でもキラキラとした笑顔を浮けべている。
 これがいいんだよ。だからバスケットは止められない。
 俺のバスケは、パスもそんなに上手くない。ドリブルだって下手くそだ。敵陣に切り込むタイミングも取るのが下手。3Pも試合中に入ったためしがない。成功率は15%以下だ。
 だけど俺には、スピードと、ジャンプがあった。子供の頃から、何故かジャンプだけは一番だった。といってもかけっこみたいに誰かと比べたわけではないけれど。ただ、中学三年という時期に、既にバスケットゴールのリングに手が届いているのだから、身体能力は高めだ。突出しているわけではないが、並みのものではない。と思う。リバウンドだって、俺のところに来たのなら絶対に負けない。
 プレーに迷ったとき、振り返ったらちゃんと見えていて、解決策を教えてくれる。俺が絶対の自信を持てるもの。コイツでなら他の連中にも対等に勝負できると思える、俺のアビリティ。
 ススキの下公園バスケットコートの、中学3年だった俺、九堂陽輔の、たった一つのアイデンティティだった。

二年後─。九堂陽輔 高校二年の、夏、真っ盛り。
 カジャン、、、カジャン、ゴン、カジャン、パイン、、、パイン、、パイン、パテン、テン、テン・・・・・
 ところどころ、くらいでは済まないくらいもうかなり切れてしまっているチェーンネットが、使い込まれたバスケットボールを受けとめ、優しく落とした。
 キャッチしてもらえなかったボールはコンクリのコートの上を転がっていって、セミの死骸にチョン、と触れて静止する。あー、まだ夏も真っ盛りなのに、あのセミ、死んじゃったんだ。
 ボールが止まったのを見て、僕もススキの下公園のコンクリートコートに大の字になって寝転んだ。
 日差しが強くてとても眼が開けられない。なにしろ閉じたまぶたを通過して眩しいんだ。開けたら眼が焼けるに違いない。気温は・・・・33度くらい。湿度は・・・・わからない。Tシャツが汗でグショグショだから、湿度もくそもあったもんじゃないぜ。焼け付いたコンクリートにむき出しの腕が触れて、結構熱い。汗が太陽熱で乾かされて、ほっぺたがひりつくし。口の中はネバネバした唾液が絡んで、息がしにくくなる。バッシュは蒸れて、足の指一本一本が汗でぬるぬるだ。さぞかし臭いんだろうぜ。

 ギンギンに日差しを手で庇いながら公園の時計を見ると、ちょうど少し二時を過ぎたところだった。昼飯を食ってからススキの下公園のバスケットコートに来たから、一時間近く炎天下の下で「一人バスケ」をしていたことになる。
 「一人バスケ」要するにシュートばっかりひとりで打ってる。・・・別に寂しくなんてないからな。

 嘘。結構寂しいよ、一人バスケって。

 今日は水曜日。そうね、ばっちり平日。きっちり学校がある日だ。今頃みんなは化学の授業を受けているころ。それでもって僕は今日、学校をサボタージュ。かっこよく言い換えると自主休校。「おい、九堂は休みか?」「自主休校です。」みたいな。かっこいいじゃん、「自主休校」
 ・・・まぁ、だれかに言い訳するでもないんだけど。
 こうやって炎天下の下でバスケをやるくらいだから、体調はいたって良好。というか最高。滅茶苦茶いい。
 僕が学校を休むのは、たいてい元気がよくて体力もてあましてるような日。つまり今日みたいな日だ。体調がすこぶるいいとき、こうやってススキの下公園でバスケットをしにくる。折角調子がいいのに、体を動かさないで学校で座っているなんて、ナンセンス極まりないとおもわない?
 なぜ病気なんかしたことの無いあんたが学校休むのよ?と馴染みのクラス会長に聞かれたときにそう答えたら、それ以降あまり口をきいてくれなくなった。
 あいつと話をするのは密かなたのしみだったのに、残念。
 二年前までは、学校をサボるにしても最低三人はコートではしゃいでいた。偏差値がサッカリンの栄養価くらいの中学だから、「サボってバスケしようぜ」って言ったら、五人くらいはコートに集まっていたのに。
 今となってはススキの下公園でバスケをしにくるのは、僕だけだ。中学を卒業して、「いつものメンバー」的なバスケ友達は、見事にばらばらになった。
 卒業式の日に、「別々の高校になっちまったけど、またこのメンバーでバスケやろうや!」と真っ先に言った司令塔の隼人は、入った高校のガラの悪い連中と仲良くなって(?)来なくなった。二年に上がる前に、質の悪いクスリをやって惚けているところを警察のお世話になって鑑別所にテイクアウト。
 つかまる前に一度会ったとき、以前の快活な彼とは似ても似つかない腐った野郎に成り果てていた。でもなんか、疲れてたような感じだった。あのバスケをやってたときの司令塔の面影は、全く無かった。
 そういえばあの時の別れ際、アイツ、隼人が最後にいった言葉が、胸に残っている。
 「なぁ、またバスケできるようになったら、付き合ってくれよ」って。結局、あの日以来僕は隼人をみていない。
 頑張って進学校に進んだ奴らは「勉強についていくので精一杯だ。」とすぐに来なくなり、あつまさえ「バスケをやって手でも骨折したら勉強が出来ない。」などとのたまう始末。勉強と結婚してしまえ。がり勉どもが。
 僕と一緒の高校に入学したと蒼太はそれでもしばらく1on1に付き合ってくれた。何と言っても、僕と蒼太のコンビは、2on2をやらせたら最強だった。
 どっちもそんなに技術があるわけじゃないけど、何というか息がぴったりって言う感じ。
 それが入学して半年。
「彼女がさぁ、「バスケと私と、どっちに付き合ってるの?っていうか九堂君と仲良すぎ」ってすねちゃ
ってさ。全く、女ってのはすぐに何かと比べたがる。というわけで、わりぃな。九堂はバスケが恋人かもしれんが、僕はサツキが恋人になってしまったのよ。まぁたまにならやろうぜ、バスケ」と、今では可愛い彼女とイチャイチャばかりしている。羨ましい、といえば羨ましいさ。
 かなりな。
 あいつらは彼ら自身の道を進んだ。そのことについて文句をはさむことは、僕には出来ない。そして今日も僕は、炎天の下自主休校して、一人でバスケをしているというわけだ。
 バスケ部に入ったって別にいいんだけど、なんか、ねぇ、ほら。顧問に怒鳴られながらパス練したりフォーメーションやったりゲームしたりっていうのもいいけど、ああいうのって、コミュニケーションとか、大事じゃん。そういうの、苦手なんだよね。しかもうちの学校のバスケ部、微妙に強いのよ。全国大会にでてガンガンやれるレベルではないにしろ、地区大会なら余裕で優勝できるくらい。僕みたいな半端者がはいたって、迷惑なだけ。でしょ?
 要するにバスケ部に入る度胸が無いって事か。僕は。

 平日に加えてこの時間帯に、ススキの下公園は人がいない。
 三時をまわれば学校を終えた小学生のガキ共がやってくるので、その前に汗でグショグショの着ているものを何とかしないといけない。
 公園に備え付けられた水道の蛇口を上向きにして全開に捻り、放物線を描く水に頭を突っ込んだ。いきなり頭とか後頭部を冷やすのはよくないんだけど。頭だけじゃなくシャツも脱いで水浴び。水とは言いがたい温度だったけど、一応水には違いなくて火照りに火照った僕の体の温度を気持ちよく下げてくれた。もってきたバッグからバスタオルを引っ張り出して体を拭き、一応周りを確認。はいていた短パンとトランクスをがばっと脱いで全裸になる。ムスコの辺りがスースーと風に晒されて、気持ちいい。コンマ5秒だけその感覚を楽しんでからすばやく新しいパンツと大き目のジャージをはき、太陽の匂いのする麻のTシャツを着た。やっぱりTシャツは、太陽の匂いがするのが一番いい。
 濡れた衣類をスポーツメーカーのロゴがプリントされたビニールの袋に詰め込み、キュッと紐をしばって自転車のかごに放り込む。・・・汗が重かったのか、かごには入ったものの派手な音を立てて自転車が倒れた。
 自動販売機でポカリスエットを買って、水道水と交互に飲む。そうしないとスポーツ飲料なんて甘くて甘くて飲めたもんじゃ無い。CMで芸能人が汗かいて運動した後「運動した後はこれが一番!」みたいにして飲んでいるけど、あれ絶対嘘だ。実際運動した後あんなに立派な飲み方したら、口の中ネバネバで息できないし。あんな爽やかな笑顔作れないし。たぶん。
 コートを出る前に転がしたままのバスケットボールを手に取った。
 一度ゴールを睨んでから、ドリブルして、走りだす。走る。はしるハシルはしるハシル!体重が前のほうにぐぐっと移動してゆき、トップスピードへ。フリースローラインの辺りから踏み込み、リングを目指す!
 カジャン!
 ボールはリングを通過したものの、二年前からあいもかわらず「高めのレイ・アップ」のまま。まだダンクシュートには、高さが足りない。
 高さだけじゃなくて、なんか足りない感じも、する。なんか。


 高校二年の夏のうちに僕はダンクが出来るようになるだろうか。
 出来なかったら、きっと僕が大事に持っていた「スピードと高さ」という自信は、まがい物になるような気がする。漠然と、そんな気が、さ。
 あの当時、中学三年のレベルでリングに手をかけられるのは、自身として持ってもいいモノだったとしても、二年経って尚進歩が無いのなら、今の僕にとってこの二つは、なんなんだろう。
 部活をしているわけでもない。
 宿敵の強豪校も、ライバルの選手もいない。
 一緒に高みを目指す友達もいない。
 スポコン漫画みたいに「ナニカ特別ナ才能」が、僕にあるとも思えないし、万が一あったとしてもそれを見出してビシバシ鍛えてくれる凄腕コーチも見当たらない。
 ただ少し、何もしていない人より、バスケが上手いだけ。ジャンプ力が、ちょっとあるだけ。
 そんなことはわかってるさ。だからそんな、そんな僕がナニカを得られるとしたら、
 それはダンクシュートなんだ。と勝手に思っている。
 そりゃNBAじゃ特に珍しくも無いけど、高校生でダンクシュートができる奴っていうのは、そんなにいないんじゃないだろうか。全国大会くらいになるとそりゃいるだろうけど、少なくとも僕の学校のバスケ部連中の中に、ダンクをできる奴はまだいないと聞いた。
 いや、本当は他の奴らがどうとかじゃなくて、僕の中にある一つの基準が、ダンクシュートなんだと思うんだ。
 なにがあるわけじゃない。だけど今は、ダンクを成功させることに、なにか意味があるように思える。本当にそれは、なんとなく、なんだけどさ。
 で、今日もダンクには届きませんでした。はい、もう帰ろう。そう思ってコートから出た僕は自転車を起こし、公園の出口に向った。
 七日間という短い成虫時代のうちにどうにか子孫を残そうという悲壮感さえ感じられるセミのなき声に、少し足を止めて聞き入る。
割と悪くないBGMかも。こうして耳を済ませて聞いてみると実は結構芸術的な鳴き声・・・・・・なんて聞こえないよな。やっぱり。 夏全開、みたいな。
 普段は気にしないセミの鳴き声から意識を戻そうとおもった瞬間
 ガジャン!
 聴きなれた、いや、いつもより強いチェーンネットの音が、セミの合唱を切り裂いて僕の耳に突き刺さった。
 カジャン!じゃない。明らかに強い音。ガジャン!

 だれが、なにをしているのか、それは振り返ればわかるんだけど
 コートに背を向けて、自転車をつかんだまま、僕は振り返らない。・・・振り返れない。体ががちがちに固まって、全身で振り返ることを拒否している。いままでまだ聞いたこともない音に。
 たぶん、頭の中では、わかってる、その音の正体に、
 振り返ってしまったら、僕の中の何かが、いままでではいられないような気がして、
 「もう一回やってあげるから。今度はちゃんと、見てなさいよ」
 よく聞こえる女の子の声が、硬直している僕の背中に容赦なく爪をたてた。女の子の声だ。否応無しに振り向かされる。
 そして、僕の眼に飛び込んできたのは、

 背の高い女の子がボールをドリブル。
 黄色いリボンで一つにまとめた長めの髪をなびかせながら
 見とれるような踏み込みと跳躍で
 飛ぶ
 全然乱れない空中フォームで
 ガジャン!と両手でダンクシュートを決めたところだった。

「どう?これがダンクシュート。ちゃんと見てた?」
 リングから手をはなし、タンと地面に降りた彼女は、きれいかつ意地の悪そうな笑顔を満面にうかべて、僕にボールをパスしてきた。
 あわててボールを受け取ったので自転車がまた倒れるが、気にしない。違う、自転車なんかに気を向けることが出来ない。
 「また来るから」と手をヒラヒラさせて僕とは反対側の出口から出て行く彼女を、黙って見つめることしか、僕には出来なかった。

 僕の自信が、一人の女の子に完全完璧容赦なく完膚なきまで粉々に粉砕された瞬間だった。僕の高さなんて、大したものじゃないと思い知らされた。
 いつも振り返ればちゃんと見えていた自信が、ざらざらと崩れていく。二年間僕のアイデンティティだったものが、女の子にダンクシュートを決められたことで、吹き飛んだ。アイデンティティの拡散、というか霧散。消散。
 そして何より、あの高さを持っている、ダンクを決めた女の子に、僕は、はっきり、欲情していた。興奮して、体も心もやばいことになっている。あの高さが、あの女の子が、欲しい。
 脳味噌が、溶け出しているにちがいない。こんな事かんがえるなんて、さ。でもしょうがないじゃない、二年間追い求めてたものが具体的に目の前に現れたんだもの。
 炎天下の下、小学生たちが騒ぎに来るまで、僕はボールを持ったまま倒れた自転車の横で、僕はいつまでもダンクシュートの残像を反芻していた。


 家に帰ったら、もう晩ご飯が出来ていた。ハムカツ。
 僕の顔をみた姉貴は、一発で僕の精神状況を分析してくれた。
「陽輔、なぁにその顔?一人でノストラダムスの予言を解析したら世界の終わりは実は今日でしたみたいな顔してる。うーん、落ち込んでる?」
 どう反応すりゃいいのかわかんねぇよなぁ。
「なんだそのノストラダムスって・・・」
「え、あんたノストラダムスしらないの?」
「いや知ってるよ。そうじゃなくてなんで僕の顔からノストラダムスを読み取るんだ?」
「なんとなく。・・・・・・なんかその顔、前にも見たことあるかも」
 そういって姉貴はずいっと僕に近づいて、抵抗するまもなくペタっと両頬を手で挟まれた。・・・いや、近いって。なに目閉じてんだよ。いやまて、まてまてまて顔近づけるなっていや姉貴まずいよそのまま行くとくちびるがくっつ
「はーい彰子、陽輔からかうのもその辺にしときなさい。顔真っ赤にしてるわよ?」
 その母親の一言に反応して僕から顔を離した姉貴は、本当に真っ赤になっている僕の顔をみてけらけらと笑い惚けていた。・・・・くそ、姉貴。
「陽輔ったらホントにうぶよねー!」
 姉貴は全く変わらない顔で僕のほっぺたをつっついた。
「そういう姉貴だってまともに彼氏がいたこと無いくせに」
「んー?わたしは陽輔がいればそれでいいよー。あははは」
「ほらほら彰子。馬鹿なこと言ってないでご飯の用意しなさい」
 九堂彰子。
 姉。
 弟の僕が言うのもなんだけど、超美人。反則。地元の大学でミスキャンパスを受賞するほど。例えるなら・・・・なんだろ、綺麗に流れる小川、って言う感じ?わかんねぇな。
 なんかキレイで輝いてるんだけど、そこに自然の強さがあるっつーか。勉強もできるし頭もいい。努力の天才で、一度決めたことは誰にも負けないくらいになるまで頑張る。
で、美人なのよ。もう、最高だろ?完璧だろ?僕の姉貴。
 唯一の欠点(?)は、少々ブラコン気味だということ。まぁ僕はいやじゃない。むしろ嬉しい。あんな姉に好かれていやな奴がいたらそいつはおかしい。というか姉貴の愛を無下にする奴は、僕が殺す。二、三回殺す。そして下心を持って姉貴に近づく奴も殺す。前に何度か「お姉さんのこと教えてくれないかな?」と僕に聞いてきた奴を、膝蹴り食らわして退散させた。・・白状するよ。そうさ、僕はシスコンだよ。
 九堂陽子。母だ。言っておくがシスコンだからといってマザコンではない。料理の上手ないい母さんだ。怒るとまず張り手が来る行動派。昔スケバンやってたらしい。いまの姿からは想像しづらいけど。
 親父の九堂大輔は、ただいま海外出張中。スイスにいる。よくマッターホルンの絵葉書が、「僕の存在を忘れるなよ」って言う感じに送られてくる。でも毎回おんなじ絵葉書。そろそろ一度日本に帰ってくる、みたいな事を言っていた。
 ということで、父親不在の食卓を囲んで「いただきます」の音頭を母さんが取って、食事が始まった。あぁ、ハムカツうめぇ。
「それで陽輔、あんた何かあったの?いまはなんとも無いような顔してるけど、なにかあったんでしょう?お姉ちゃん、気になるなぁ」
「そうね。私も気になるわ。・・・・なんだか懐かしいわねその表情。昔涼子ちゃんにすごろくで負けたときみたいな顔よ。うふふ」
・・・なんでうちの女性陣はこうも鋭いんだ?
 むかし蒼太からかりたエロ本も1日目にして速攻で姉貴に見つかった。
「陽輔。女の人の胸がさわりたいんだったら、わたしのをさわりなさい」といってすげぇやわらかい姉貴の胸をさわらされる、ということがあったのを思い出した。いまでも顔が熱くなる。
 ・・・と、それは今どうでもいい。問題は・・・・・・
「うん。女の子に負けると、いっつもそういう顔するよね。わたしに将棋で負けたときも、社会のテストで勉強できる女の子に一点負けたときもそんな顔してた」
 姉貴、鋭すぎ。エスパー?
「・・・・えーっと、まぁ、そうだね。女の子にまけた、というよりちょっと持ってた自信が粉砕された」
 すると何故か姉貴は顔を紅くした。
「・・・・大丈夫だよ。陽輔のは十分大きいと思うな。きっとその女の子は、すごくおっきい人と比べてるんだよ」と意味不明なことを口走った。
 いや、そんなこと飯中に言うなって。
「違う。そうじゃなくて、女の子に目の前でダンクシュートされた。それだけ」
最初から真顔だった母さんと、急に真顔に戻った姉貴は、二人同時に「「ふぅん。そう」」とユニゾンした。
「うん。それだけ。別に落ちこんだりはしてないから、大丈夫」

 晩飯を食い終わり、風呂に入って部屋に戻ると、ベッドに姉貴がいた。
「これ、読んでみるといいよ」と二冊の本を僕に手渡して、そのまま出て行った。
バスケット教本と、フロイトだった。
 姉貴・・・・バスケットはわかるけど、フロイトって・・・・・・。
 フロイトをぱらぱらとめくってからバスケット教本を開くと、ダンクシュートのところに付箋が張ってあった。
 あの女の子の姿が頭の中でリプレイされて、あの意地の悪そうな綺麗な笑顔が閉じたはずのまぶたに張り付いて、なかなか寝付けなかった。
 そういや、あの女の子、どっかでみたこと、あったかなぁ。
 人付き合い、狭いからね、だめね、僕。
 なんもかんも。

 なんだかセンチメンタル・ジャーニーな夢をみましたとさ。



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