【遙かなる紫の物語】若菜の章



 友雅と夫婦になって何年過ぎたろう……。
 新婚の時の約束通り、結婚してからの友雅は、藤姫だけを伴侶として、品行方正な生活を送っていた。子どもには恵まれなかったが……。
 それが、今になって揺らいできたのだ。

 女房達のうわさ話の広がるスピードは実に速い。
 つまらないうわさ話に過ぎないのだと、一笑に付すこともできるだろう。
 だが。
 このことは、噂の出所が違うのだ。

 噂をもたらしたのは、帝に仕える女房だった。
「主上は、今、女三宮様の御降嫁をお考えです。候補者の筆頭は、こちらのお殿様ですって。」 あり得ない。藤姫はそう思いたかった。新婚の誓いを破って、友雅が内親王を迎えるなんて。いくら帝の信任厚いと言っても。
 しかし、藤姫には一抹の不安があった。
 友雅は、龍神の神子様のことを、単なる思い出、とできたのだろうか?
 自分の心を表面に表さない人だから……。実は、まだ心のどこかで想っているのではないだろうか?
 藤姫がそんな風に考えるのは、女三宮がかつて京を救った龍神の神子にうり二つと言われているからだ。友雅は八葉として神子を守護し、一緒に京を救った。その思い出は、星の一族の末裔として神子を補佐した藤姫の思い出でもある。
 龍神の神子が元の世界に帰ってからの友雅は、うつろだった。どこかに何かを置き忘れてきたように。以前なら休む間もなくあちらの花こちらの花と熱心に恋の冒険をさがしていたのに、それもせず。本気になどなったことがない友雅が、龍神の神子には本気で恋をしていたらしい。 そして、その隙間を埋めるように、藤姫と結婚した。
 そういういきさつがあるから、藤姫は、今度の噂を否定しきれないのだ。



 そのころ、友雅は、帝の御前にいた。
「友雅、私もそろそろ、東宮に座を譲って引退したい。ひいては、後に残る女三宮のことが気がかりだ。そなたに、後見を頼むことはできないだろうか。」
 龍神の神子にうり二つの内親王様……。
 友雅の心が動かなかったと言えば嘘になる。
 八葉として神子を守る、その使命には食指が動かなかったが、可憐なあかねのことはなんとしても守りたい。それが恋だと気づいたのは、もう、八葉の使命も終わりに近い頃だった。八葉全員があかねに惹かれていて、それぞれ、自分のやりようであかねに想いを伝える中、友雅はとまどっていた。自分も想いを伝えるか否か……大人の理性と自身のプライドに阻まれ、伝えるまもなく、あかねは元の世界へ帰ってしまったのだ。
 今一度、あかねに逢えるなら。自分はどうするだろう。あのとき言えなかった一言を伝えたなら、あかねはなんと言ってくれるだろう。自分を受け入れてくれたか、やはりあちらへ帰ってしまったか……。
 友雅は確かめたかった。手応えがほしかった。藤姫との約束が脳裏をかすめたが……
「何事も仰せのままに……。友雅、命に代えても内親王様をお守りいたしましょう。」
 思わず答えていた。
(頼久のセリフだよ……)
と、友雅の中の冷静なものが苦笑した。でも、友雅の情熱はそんなことを意にも介さなかった。あかねが自分の許に来る……。そのことに友雅は夢中になっていた。



友雅の帰りを迎えた藤姫は、友雅の様子がおかしいのに気づいた。
 苦しげな、しかし、心に期待のある顔……。
「藤姫に伝えておかなければならないね。」
 友雅が口を開いた。
「今日、主上から仰せ事でね……。女三宮様を我が家でお世話することになったのだよ。」
 やっぱり! 藤姫は心の中で唇をかんだ。お世話するなどと……。御降嫁なのでしょう? 神子様にそっくりだと噂の内親王様。やはり、友雅殿は、神子様を忘れてはいなかったのだわ。こんなに執着しておられたなんて、八葉の中の誰より、惹かれておいでだったのかもしれない……。藤姫は、涙を抑えきれなかった。でも、帝の仰せ事なら、受け入れるよりないのだろう。信頼されているから、大事な内親王を当家に御降嫁させなさる。私という正室があるのを承知で御降嫁があるならば……。藤姫は覚悟を決めた。
「分かりましたわ。神子様にそっくりでいらっしゃるとお聞きしていますわ。本当にそうなら、あのころに戻ったようでうれしゅうございます。精一杯のお世話をさせていただきますわ。」
 笑顔で言うことができた。
「あなたとの約束を守ることができなかった。でも、主上の仰せだから……。許してくれるのかい?」
 友雅は、藤姫の涙を見逃さなかった。しかし、今一度あかねにまみえることができる期待と、橘の家に内親王を迎える晴れがましさに、気を取られていた。



 その日。日暮れてから、女三宮の乗った輿は御所を出て、橘の館にやってきた。
 友雅は、女三宮を出迎え、輿から抱き下ろした
 あかねにそっくりだ……。友雅は息をのんだ。目元、口元、どこをとっても、あかねとうり二つ。違うのは、髪が身丈よりうんと長いことくらいで、抱いた感じまでがそっくりだった。叶うことのなかった夢が叶ったような……。そのまま抱きしめてしまいたい欲望を抑えて、友雅は宮を部屋に送り、自分の部屋へ戻った。
 友雅の自室では、藤姫が、今宵の婚儀のために、衣に香をたきしめていた。
「宮様ご無事にご到着、おめでとうございます。」
 藤姫は、友雅に気づくと、深々と一礼して挨拶をした。友雅の顔が期待でキラキラしているのを、藤姫は見逃さなかった。深いため息を一つつくと、十分に支度のできた衣を傍付きの女房に渡し、友雅の着替えを手伝わせた。
「……宮様は、やはり、神子様によく似ておいでなのですか……?」
 友雅は返事をしなかった。聞いてはいけなかったのか……。きっと、そっくりなのだ。心がここにないのを私に悟られまいと、返事をしないのにちがいない。曇る心を悟られまいと、藤姫は明るく言った。
「さあ、お支度できました。宮様が寂しがっていらっしゃいますわ。早くお出かけ遊ばせ。」
 友雅は藤姫をじっと見つめた。
「藤姫……すまないね……。出かけてくるよ。」
 本当は出かけたくてたまらないくせに! うずうずする心が見え見えですわ。藤姫は、友雅の衣の裾をとらえて離したくない欲求を必死にこらえていた。



「待たせてしまいましたね、いとしい人……。」
 友雅は、宮の御帳台にすべり入った。
 宮は、身じろぎもしない。じっと横たわったままだった。
「もう、お休みですか?」
 無言である。あかねなら、こんな時、
「友雅さん、何しに来たんですか!」
とか、
「寄らないでください、えっち!」
とか、何かおもしろいことを言いそうなものだが……。宮にそれを期待しても無理だろうねえ……。それにしても、反応がなさすぎる。友雅は、物足りなかった。今まで相手にしてきた姫君の中でも、1,2を争う無反応だ。
 友雅は宮に寄り添うと、そっと髪にふれ、柔らかい頬の輪郭をなぞり、唇に指を触れた。そして、顔をすくい上げるようにして、口づけした。
 さすがの宮も、少し、いやいやをしたようだった。しかし、声に出してあらがうようなこともない。乳母がきちんと教育したのか……。友雅は、もっと大胆な行為を試みた。夜着の衿から手を差し込み、胸に触れた。袴の紐を解き、すんなりとのびた足をまさぐった。
 でも、宮は、何も言わない。声も立てない。気の利いたセリフの一つなども、出てくるわけがない。友雅は、かなりがっかりしていた。まるで人形だ……。容姿が似ているからといって、龍神の神子その人ではないというのに。何を馬鹿な夢を見て、引き受けてしまったのか……。


 その夜の婿の君のつとめだけはきちんと果たして、夜明け前に友雅は宮の部屋を後にした。 藤姫のあたたかいしとねが恋しかった。同じ年頃の藤姫の方が、どれほどおもしろい反応を見せたことか。共に笑い、共に泣き、からかい、ムキになって……。二人でいることはあんなに楽しかったのに、くだらない夢を見て、藤姫を悲しませてしまった。
 妻戸を押し開けて藤姫の部屋へ入り、傍に寄り添うと、藤姫の袖がしっとりと濡れているのが分かった。
「泣いていたのだね……。私があなたを泣かせてしまった。許しておくれ、藤姫……」
 藤姫には、友雅のがっかりした気持ちが伝わっていた。
(神子様とそっくりの方など、そうめったにいるものではないのに。この方は、夢をご覧になって、夢が破れたのだわ……。)
「……泣いてなど、おりませんわ。」
 藤姫は、強がって見せた。しっとり濡れた袖が何もかもを物語っているというのに。
 友雅は、藤姫を抱きしめた。さめない夢がここにあるというのに、なぜ、とっくに去った夢を追いかけようとしたのか。自分の馬鹿さ加減、くだらなさ加減に嫌気がさしていた。神子のくれた情熱を、藤姫にだけ向けていればよかったのだ。もう、戻れないのだから……。
 苦い時間が過ぎる。3日間は婿として通わなければならない。友雅にはそれは苦痛であり、重荷になっていた。


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