明治の町家   姫路の春霜堂  

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モンテンルパ秘話 「炎は流れる」から






かって日本最多の署名を集めた「戦場の歌姫」 渡辺はま子さんという伝説的な名歌手がおられた。
渡辺さんはデビュー間もない頃、ハンセン病施設「愛生園」を慰問に訪れ、ただ売れるだけではなく、歌で人に勇気を与えることができるような歌手になろうと決意すされたような方で、戦時中には慰安のため戦地を精力的に回られる勇気ある歌手でもあられた。

この度、私が小冊子にまとめさせて頂いたのは、その渡辺さんに窮地を救われた郷里、姫路の連隊におられた故・山下末吉少佐の血と汗と涙の記録である。

戦時中、渡辺さんは主に中国、満州で7年間ほど激戦地で慰問コンサートを行われていて、敗戦の時も天津におられた。その慰問活動として収容所の中でも引き上げの船でも歌われ続けた。そして、ようやく帰国できたのは終戦の翌年の五月だった。しかしその歓びの直後、お兄様を戦争ゆえの栄養失調で失われた。

そして帰国されるやいなや、日本国内で、兵士達の残された家族までがたいそういじめられてるのに、憤慨され
「あんな優しかった兵隊さん達が悪い人なわけないわ!」という思いから
巣鴨拘置所や傷病兵のみならず、戦犯家族までもを慰問して歌い続けられた。

そして、播州地方の兵士が数多く収容されていたフィリピンのモンテンルパ刑務所でも、渡辺さんが日本の各地を慰問されている事が知られるようになった。

当時、「異国の丘」というシベリア抑留者の歌が流行していたこともあり、モンテルンパの日本人戦犯も 「俺達の事を歌ってもらいたい」と、死刑囚代田銀太郎作詞、同じく死刑囚伊藤正康作曲で「あゝモンテンルパの夜は更けて」が出来上がった。もちろん二人とも言われ無き冤罪での収容であった。
その頃の彼らの安らぎといえば日本から加賀尾秀忍という僧侶の教戒師が来られて、囚人達と寝起きを共にしながら、なんとか彼らを救おうと孤軍奮闘されている姿だけであった。

師は前任者が病気になり、最初に白羽の矢がたってから赴任まで「できれば辞退したい心境だったそうだが、一方で戦争犠牲者として異国で囚われの身で悲惨な生活をおくる同胞のことを思い、佛教徒として避けることができないと思われ、全て佛さまにお任せする気になられたそうだ。

ともかく、師は彼らの救出や死刑囚を弔う為に、休む暇なく暁に起きて読経を続けられたり、マニラに出てキリノ大統領に釈放運動を続けられる他、日本当局、マッカーサー元帥、アメリカ当局、はてはローマ法王にまで嘆願書を出されるほど超人的に活動された。

何とか囚人達を救いたい一心で、彼らと日夜、寝食を共にされていたせいか、心臓を悪くされた。そこで、山下さん達がひそかに師を日本に帰還されるように運動していたのを知られた時は、とても怒られ、「私はみんなと一緒に帰る為にここに来た。皆さんを残してどうして帰られましょう。私はここで死んでも本望です。」と泣いて叱られ、
その時は、山下さん以下、みんなが男泣きに泣いたということだ。

囚人たちは師に救済の願いを込められて刑務所内で作られた曲を手渡す。
加賀尾師は日本に帰国後、はま子さんに出来た曲を送る。その歌は、曲も歌詞も トイレットペーパーにヨードチンキで書かれていた物だったそうだ。
モンテンルパの現状を聞かれた渡辺さんは、元々、フィリピン駐日大使のデュラン議員に「モンテンルパに慰問に行かせてくれ」と言われていたほどで、感動してすぐに手直しして曲にした。

そして、ついにここに「ああ、モンテンルパの夜は更けて」が発売され当時として大変な20万枚の大ヒットになる。そして、親日派のデュラン大使は、すっかりはま子のファンになってしまいフィリピンの慰問を許可し、はま子にビザを発行する。そして、やっとの思いで、待望のモンテンルパ刑務所での慰問コンサートが実現した。

はま子「皆さん、やっと来ましたのよぉ」

フィリピンは常夏の国だが、故郷を偲ぶ兵士に為に、暑いなか、ずっと振袖で歌い続けた。

はま子は泣かずに歌うと決めていたのだが、数々の歌の後、「あゝモンテンルパの夜は更けて」を歌う時には、全員が泣くのにつられて思わず涙を流し、泣きながら歌にならない歌を歌う。その時、彼女の歌声にフィリピン人の看守が唱和し、むごたらしい戦争体験を超えた素晴らしい時間と空間が、そこに生み出されたそうだ。

思わず随行していたデュラン大使も感動したのか。
当地では禁じられていた にもかかわらず、「「君が代」をお歌いなさい。私が責任を持ちます。」と言われ。一同が起立して、祖国の方に向かって泣きながら大合唱をした。

そして、それまでは表立った政治的な活動には関わらなかったはま子はここで決意する。 「この兵隊さん達を日本へ帰したい!」

帰国してからは、連日連夜、はま子はラジオで呼びかける
「この『ああ、モンテンルパの夜は更けて』は今もフィリピンで囚人生活を送っている死刑囚が作った歌です。彼らが日本へ帰れるように署名を集めたいと思います。」

この声は各地で元軍人達を中心に大きくこだました。はま子の慰安で戦中元気づけられた人達も多かった。実を言うと、当時も戦犯解放に協力するというのは、とても勇気がいる事で、署名を拒否する人も多かった。山下さんはその事で帰国後、二度目のモンテンルパ行きを命じられたほどだ。

そこは軍人魂で足を使い、方々を回り、何と彼らは 500万人の署名を集めた。大使は「キリノ大統領は家族を日本軍の空爆で殺されてて日本を恨んでるから釈放は無理ですよ。」と言われていたが、ちゃんとフィリピン外務省に届けられた。

そしてとうとうキリノ大統領と加賀尾師が対面する事になる。加賀尾師は、まともに釈放要求してもダメだと思ってたので、何も言わずにアルバム式オルゴールをキリノ大統領に渡す。それは、元軍人のオルゴール製作者が精魂込めて作り、はま子にプレゼントしたもので、はま子から加賀尾師にことづけっれていたものであった。

キリノ「この哀しい曲は何か?」
加賀尾「『ああ、モンテンルパの夜は更けて』という戦犯者が作ったもので故国を忍んで創った歌です。」
キリノ「・・・・・・・・。7月4日の独立記念日を機会に、一部の者に恩赦、釈放の恩典を与える事にする。それに値すると認められるものを指名するように日本政府に伝えよう。」

実は戦争中、大統領が日本軍の捕虜になっていた時、こっそりと彼をかばってくれた二人の兵士がいて、自分の悲しい思い出はあるものの、彼らだけは早くからなんとかしたいと大統領自身も思われていた。

加賀尾師がその場を去ってから、大統領は側近に語ったそうだ。
「今日はきっと涙ながらに戦犯釈放を懇願されるものと思った。しかし加賀尾はなにも言わなかった。あのメロディだけを聴かせた。私は心を打たれた。
じつは私は誰よりも日本人を憎んでいる。妻と子供を日本人に殺されたのだ。
けれどもあのメロディを聴きながら思った。憎しみからは何も生まれない。愛だけが未来を開くのだと……」

雪は解けて、春の訪れが感じられた。
とりあえず一部ではあっても釈放される事に加賀尾師は男泣きに泣く。

だが翌日呼び出された加賀尾は、全く予想もしなった決定をキリノから報告される。
「昨晩500万人の戦犯釈放嘆願書が届いて考えが変わった。死刑囚、無期刑囚を全員釈放。死刑囚は無期に減刑して、日本の巣鴨に送還するものとする。」

はま子と元軍人達が集めた500万人の力がついに大統領を動かした。


1ヵ月後、戦犯109名と17体の遺骨を載せた船が横浜に遂に到着。この先頭を切られていたのが、二度目の日本への帰還であった山下末吉氏であった。横浜港には2万8千人の人が出迎えての大歓声。

はま子はここで『ああ、モンテンルパの夜は更けて』を泣きながら歌う。

モンテンルパの 夜は更けて つのる思いに やるせない
遠い故郷 しのびつつ 涙に曇る 月影に 優しい母の 夢を見る

燕はまたも 来たけれど 恋し我が子は いつ帰る
母の心は ひとすじに 南の空へ 飛んでゆく さだめは悲し 呼子鳥

モンテンルパに 朝が来りゃ 昇る心の 太陽を
胸に抱いて 今日もまた 強く生きよう 倒れまい 日本の土を 踏むまでは

「この兵隊さん達を日本へ帰したい!」

この渡辺はま子の願いはとうとう叶ったのである。

もちろんはま子一人の力ではなく加賀尾師や署名に立ち上がった元軍人達
デュラン大使の力、オルゴール職人、そして何より500万の国民の署名があったからこそだが。。

「あの戦争は間違っていた」との世論に惑わされず、戦中、戦後を通じも慰問する精神を貫いた渡辺はま子の生き方はすごいとしか言いようが無い。

冊子には、その経過が山下末吉氏の手記を通して綴られており、
今回、縁あって私がまとめさせて頂いた。

なお、私の別宅である春霜堂には加賀尾秀忍師が揮毫された身心無垢(しんじんむく)の額が今もかかっており、当時出された状態で渡辺はま子さんの「モンテンルパの夜は更けて」のSP盤も視聴が可能です。







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