Laub🍃

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2014.07.29
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三次元だと虚勢と本音(虚勢も建前もある意味本音と繋がっているわけですが)の区別が難しいことが理由としてあるのかなと思います。


ここで私が書いていることも、割と赤裸々でリアルでは言わないことが多いけれど
ある程度「時間が経っている・整理した」から客観的になっていたり、露出狂ブログである以上人(例えば、今これを読んでくださっているあなた)に見られることが前提になっているからこその独特の書き方、本音とちょっとした飾りが入り混じった状態になっているという部分もあるように思えます。


三次元では伝えるという行為そのものが、「ありのまま」を何か変化させてしまいます。


一方、二次元では三次元よりかは、直接的に想いが、葛藤が伝わってきます。
モノローグ、過去回想の描写のあるキャラクター達は、皆読者に対してサトラレなのです。
読者達がそれに共感すると、その過程は、発信/送信側と受信側が相当に近いという状況を生み出します。
反射のような、というと語弊があるかもしれませんが
動かすものと動かされるものの「途轍もない近さ」がそこには在ります。


ただ、二次元と三次元では、三次元である読み手が「読み取る」ことはできても、

そこは数・量・数多の二次創作の中で正解に近いもの、で補うという形になるのですが、
この場合は解釈というものが伝えるという行為になっているため作者の考えから独立したものも発生します。

二次創作しか見ていない人の創作、二次創作からのみ創られた純正の三次創作は、一次創作を見た人の創作とは違ったものに思えるのはこういった理由からではないでしょうか。
というか、この「又聞き」スタイルは三次元で言うところの噂に近いような気もします・・・

ただ、作者の考えから独立したものが悪いというわけではなく、それが1.5次 オリジナルのような存在として立派に独り立ちしたならば、それはそれで新たな情報の発信源として活躍することが出来るように思います。歴史上の「名言」をわざと取り違えてみたり、「論述」の揚げ足取りを本気でやった結果、発想の転換に行き着いたり・・・という場合。これは新しい可能性を開拓したということになります。

際限なく広がっていく可能性を収束させるのがある意味一番大変なのですが。

三次元では、捏造を当事者たちから喜ばれることは少ないですが
二次元ではそもそもが「創造された」側です。
理想。これは二次元でありながら、三次元の存在でもあります。

三次元である世界から、三次元である作者が、二次元へと落とし込んだものが「一次創作」です。
つまり二次元はそれそのものが「伝達」でもあるのです。


三次元による伝達も目など感覚を通してのもの
自己分析も自分の感情価値観を通してのもの



私がこうして考えているのも誰かによる伝達の結果、
私がこうして書いているのも伝達
貴方が読んで何かを考えているのならばそれも私による伝達と貴方のこれまでの経験考え方が関係した結果ということ。



一体存在と認識と伝達の境目はどこなのでしょうか























ps




哲学者の「伝達が全てなんだ」派を思い出すなーとか思いつつ、ここで一旦止めます。

境目がどこか分からずとも、こうして一旦区切りをつけて、自分の認識できる範囲内で動くことしか出来ないのが私達という存在な気もします。
とデカルトさんが言ってたような気が。




閲覧ありがとうございました。








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最終更新日  2014.07.29 14:04:25
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