naomiの日記

naomiの日記

私の父


自分をしっかりと持っていて、芯がしっかり通っている。
自分に厳しく、人にも厳しい人でした。

父は前に、日記にも書いた通り、家の事をガンガンやってくれる人でした。
主導権握って。
母は、のんびり屋で、父はせっかち。

父がどんどん指示を出して、母がそれに従うって感じ。
母は、楽だったろうなー!!!

ま、でも父は家の中でかなり威張ってる独裁者だったので、ただののんびり屋ではない母は、反発覚えて、いつでも父をギャフンと言わせてやりたい!!ってその機会を狙っている感じだったので、子供としてはハラハラするし、いい夫婦関係にはちぃとも見えず、つか、むしろこういう夫婦にはなりたくないって反面教師みたいなものだったw

父は母を馬鹿にしてる感じで、いつも「まったくお前は・・・」って顔をしかめてた。

私と父の関係もずーっとこじれっぱなしだった。

私は三姉妹の真ん中で、姉とは6歳離れていて、私が生まれるまで一人っ子だった姉は、両親の愛情を一身に受けて幼少期を過ごした。

で、私が生まれたわけだけど、久しぶりの赤ちゃんだし、可愛がられただろう。多分w
赤ちゃんが大好きだった姉は私をとても可愛がってくれたらしいし。当然、残念ながら記憶にないけどw

そして私が二歳半の冬、妹が生まれた。

自然とみんなの注目は妹にw


女の子が二人続いた後の子なので、父としては当然男の子がほしかったわけだけど、また女の子。
でも、不思議なもので、妹は女の子っぽい遊びにはあまり興味がなく、おもちゃを買ってもらうのにも、りかちゃんには見向きもせず、マジンガーZの人形を買ってもらうような子供だった。男の子っぽい子だった。

妹は頭も良く、虫の名前や習性を覚えたり、宇宙に興味をもったり、人体の不思議について興味があったりで、学校で『理科博士』と呼ばれるようになった。

父が好きだった釣りにも興味を示し、よく海に二人で行っていた。

息子が欲しかった父は、女の子らしからぬ妹が嬉しかったに違いない。

父の興味は自然と妹に集中し、私には見向きもしなかった。
ただ、私のちゃっかりした要領の良さ、甘っちょろい考えは頑固な父には相当お気に召さなかったようで、しょっちゅう怒られてた。私も気が強かったので言い返すし、小学校高学年の頃からは近所に聞こえる位の大声で喧嘩しまくっていたw
姉と妹は大人しかったので、父に逆らったりする子じゃなかったけど、みんなの分を一手に引き受けて、私は逆らいまくってたw

女の子だから、手は上げられなかったけど、怒りが頂点に達すると、腕をねじあげられるか、玄関にたたきつけられるかどっちかだったw
激しいー!!

父の喧嘩した時の決まり文句は、「社会は厳しいんだ!お父さんを社会だと思え!!!」でした。

私の甘さをなんとか叩き直してやりたいって親心だったんだろうと思うけど。

子供な私は、お父さんは妹の方が好きなんだ。私は理科博士じゃないし、釣りもやりたいと思えないし、お父さんの気に入るような子供じゃないからだめなんだ。と、いじけていた。

喧嘩ばかりの思春期を抜けて、父の事は嫌いだったけど、やっぱり私のことも認めて欲しい。っていう気持ちはずっともったままだった。私のことも好きになって欲しかった。

でも、中学三年だったか、高校一年の時に父と大喧嘩した時に、母に、「いくら親子でも、あそこまでやると、本当に憎たらしいと思うものだってお父さんが言ってた。」みたいなこと、わざわざ教えてくれた。母ー!!!なにしよん!!

それまで、こんなに喧嘩してるけど、やっぱり親子だし、どこかで愛してくれているんだろうと思っていた私はかなりショックだった。よくグレなかったよw
友達がよかったお陰かなー。

そして、20歳を過ぎた頃、決定的な喧嘩をしてしまった。

それまでは喧嘩しても翌日にはケロッとして話しかけてくる父だったけど、その後は1年以上、口も聞かない状態だった。

あまり原因は覚えてないけど、帰ってくるなり、靴がそろってないだかなにかで、怒鳴りまくってる父に対して私が文句を言ったのだと思う。

そこで、「お父さんが帰ってくるとねー、家の雰囲気が変わるんだよ!!!それまで楽しくしてても、お父さんが帰ってきたら台無しだよ!!それ自覚してるの??」って、言っちゃいけない事言っちゃった。それまでも両親が喧嘩すれば必ず子供たち皆母につくし、男一人だし、疎外感感じてた父なのに。そんなこと言っちゃった。

その時の父は今までで一番怒ってた。
泣きそうになってた。

はじめて取っ組み合いの喧嘩になった。

で、それ以来口を聞かなくなった。

私が結婚する少し前から、なんとか和解していって、一度母が切れて、離婚届持ってきた時は父の相談に乗ったりもした。
そして結婚。

結婚式の前日、大阪のホテルで私は父に泣きながら謝った。
父は、私の目をしっかりと見ながらうなずいた。
本当の意味で和解できたと思った。

そこからは、大人同士として、話ができるようになり、なにか問題が起きると、父ならどう思うだろうか?と思って意見を聞いたりしていた。

本当に頼りになる父だった。

「お父さんを社会だと思え!!」と、厳しくしてくれた事、今ではとても感謝している。

そして 父は私の結婚式の夜、具合が悪くなり、倒れた。

脳腫瘍だった。

多発性のもので、手術で取り去る事ができたのは一部で、脳幹にからみつくようにできた腫瘍は取り除くことができなかった。

強かった父が弱っていく姿は本当に辛かった。

それでも、次第に弱っていく体に鞭打って、家にあったルームランナーで、やせ細った体で取っ手にしがみつくようにして歩いた。

やがて目の奥にできた腫瘍の為に、目がだんだんと見えなくなっていき、最後には完全に見えなくなってしまった。

だんだんと視力が失われていく中、お見舞いに行った時、「この前はあそこの建物が見えていたけど、今はもう見えなくなった。昼間でも夕方みたいだ。」と、寂しそうに言っていた。

その頃、私は長男を身ごもっていた。
姉の子供は二人とも女の子だったので、孫も男の子ができず、家の長女が生まれたときもまた女の子かー。と、少し残念がっていたので、男の子が生まれるのは、とても嬉しい出来事だった。

でも、私のお腹が大きくなると同時に、父の具合もどんどん悪くなっていき、出産が終わって5日目に千葉の病院まで息子を連れていき、意識のない父に病室の外からほら、男の子が生まれたよ!!と、見せてきた。
私のできる事といったら、それくらいしかなかったから。

母と妹は交代で泊り込みをして看病し続けたけど、私はお産が近かったので、なにもできなかったから。

息子を見せにいった5日後、父は亡くなりました。


私が実家に着いたときには、もうお棺の中に入っていて、死に化粧が施されたあとでした。やせこけてしまった頬に、わたが詰められ、元気だった頃の父に戻ったような死に顔でした。

父が亡くなってから、私の人生はどんどん波乱含みになっていったけど、苦境に立たされるといつも、父が生きていたら、私にどんなアドバイスをくれたんだろう・・・。
もっと父に頼りたかった・・・。って思ってしまいます。

だって、本当に強くて賢くてクールで頼りになる父だったから。

父の意思で、父のお墓はありません。

三浦の海に散骨してきました。

なので、お墓参りは海です。

「海に行ったら、お父さんの事思い出してくれればいい。」
と、父は言っていました。

元夫と別居になった時、子供が寝た後によく一人で山下公園まで行きました。お父さん、助けて!!って言いながら泣きました。

亡くなる前にもっと親孝行したらよかった。

私が本当はお父さんに好かれたかった事、たくさん反発したけど、尊敬してる事、伝えたかった。

後悔先に立たずって奴ですね。

これ読んでくださった方で、ご両親がご存命の方は、出来る限りの親孝行をなさって下さいね。
亡くなってからでは、取り返しがつかないのですから・・・。



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