ナラティヴ ひとり語り

ナラティヴ ひとり語り

『物語としてのケア』



 「ナラティヴ」とは、「物語」「語り」を意味する言葉だという。「言葉」、「物語」、「語り」についての考察が興味深い。「言葉は世界をつくり、状態を識別する」という。私たちは「言葉をたよりに現実を認識し、自分の生きる世界を構成している」というのだ。そして、自己とは「自己語り」によって作り直されていくのだという。しかし、自己を語る時、この語りを確かに聞き届けてくれる人の存在が必要なのだ。
 この本では、カウンセリングの臨床現場での3つのナラティヴ・アプローチが紹介されている。ナラティヴ・アプローチに共通する最も重要な点は、語り手の語りを途中で遮らず聞き届けるということのようだ。しかし、肯定も否定も、指図もせず、最後まで黙って聞くということは、私達、ごく一般の人間には至難のわざであろうと思う。そして、私たちは、問題を抱えてカウンセラーの元を訪れるのでない限り、生活の中で、このようなアプローチを受けることはないだろうと思われる。けれど、私達にはこのような場が一つだけ与えられている。キリスト教会での祈りの場だ(私にはキリスト教の教会以外での祈りの体験がないので、このように限定するが)。
 祈りの場には、この本で紹介されている3つのアプローチの要素が全て備わっていると思う。
 長く祈りの場に集い続けていると、不思議な感覚を体験することがある。日常の生活の中で一つの具体的な問題を抱えて祈り会に臨み、「今日はこの事を是非とも祈らなくては」と思っていたはずなのに、説教者から聖書の話を聞いているうちに解決されてしまったような気がして、別の祈りを祈ったというようなことだ。これは、この本に書かれている「問題に振り回されていた自己が、問題を外在化して新しい別の[語り]を語った」ということと等しいように思われる。
 教会によっては、短く祈ることを指導されたり、祈りの課題というのが提示されるところもあるかもしれない。が、祈りを誰かに否定されたり、変えられたりすることはないし、あってはならない。又、祈り会では、特別な一人の人間だけが祈るということはない。交代で一人一人が神に向かって祈る。これは、神に向かって一人一人が自己を語るということと等しいのではないだろうか。神に向かって「自己語り」をしながら、私たちは罪を抱えた自己を認識する。そして、さらに、罪を抱えているにも関わらず神によって愛されている自己を、祈りの度ごとに、新たに認識し直していくのである。
 キリスト教会の祈り会では、一人の祈りが終わるごとに皆が「アーメン」を唱和する。この「アーメン」という言葉は、「まことに」とか「たしかに」と訳されるそうで、祈りの中では、「私も、あなたの祈りに合わせて同じ祈りを真心から捧げる」というような意味合いになるようだ。互いの祈りの言葉を最後まで聞き届け「アーメン」を贈り合うわけだが、この祈りの群れの中にいるのは人だけではなく、神がその中心に臨在し給い、一人一人の祈り([語り])を完全に聞き届けていて下さる。

 「もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイによる福音書18:19,20)

 最後に、「語り」のない場について考えたいと思う。鬱病が重くなっていく時、語ることすら出来なくなるという。また、まだ大人と等しい言葉を持たない乳幼児の場合はどうだろうか。「語り」のないところでは、ナラティヴ・アプローチの可能性が断たれているかのように思われる。しかし、「傍らに居ること」、その中にナラティヴへの可能性が開かれているということを本書の引用から示して、終わりたいと思う。
 「ラップ人は、・・。彼らの伝統では、ある家族に突然不幸が訪れ誰かが亡くなったりすると、その親戚一同がやって来て、何を言うともなくそこにただ一緒にすわっている。・・。悩みをもつ人の呼吸を肌で感じ、その無言の言葉を聞きとる作業こそ、われわれ臨床家のできる最大の貢献ではないだろうか」

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