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日本顎関節症リハビリ研究室 /より安定した快適咬合を求めて
03_1.提言の背景
1.提言の背景
「食べる」ことは,身体的,精神的に健康な状態を営むための基本的な活動であり,栄養摂取という生存にとって不可欠の行動として生命維持に直接的に関与して「健康長寿」に寄与する。すなわち,「食べる」ことは,生涯にわたり健康で生きがいのある人間生活を送るための基本をなすものと言える。
さらに,「食べる」ことは,文化でもある。食生活は日常生活の中心をなしており,「食育」という言葉に代表されるように,その場面を通じて,人々は健康で活力ある生涯を営むだけの知識・態度や,社会生活上の基本を構築する会話やしつけ(教育)を学習する。また,食を通じた伝統や習慣も数多く存在し,これらが我が国の社会を理解していく手段となっている。それゆえ,「食べる」ことを育むことは,社会を育むことと言っても過言ではない。このような点から,「食べる」ことは社会政策の基本にとらえられるべきものと言える。
この「食べる」ことは,食物認知から始まる。最近の健康ブームの中,さまざまな補助食品や栄養剤が発売されているが,なかには簡便のみを追及したものもある。これらによる不用意な栄養摂取は健康に寄与しないばかりか,社会的にも誤った認識を生み出す場合もあり,前述したような「食べる」ことが持つ本来の重要性を揺るがすことになりかねない。「食べる」ことは人間の本能的行為であり,さらに食物の選択は長い歴史の中で人間が経験の中から生み出してきた知恵の集約である。この本来の「食べる」ことのあり方を科学し,その知見に基づいて,さらに守り育てることが,国民の「生きる力」を支援するうえに最も大切であると考えられる。
このために必要なことの第一は,「噛んで食べる」ことである。よく噛むこと(咀嚼すること)による効用については,
1>食べ物本来の味がわかり,おいしく味わえる,
2>口顎・顔面構造の発育を促進する,
3>唾液の分泌を促進する,
4>胃腸の働きを促進する,
5>栄養素の吸収を助ける,
6>肥満を抑制する,
7>脳の血流を促進する,
8>歯,歯肉,歯槽骨を強くして,これらに関わる疾患を予防する,
9>食物中の発がん物質の作用を弱める,
10>体全体に力を入れることができる,
11>骨粗鬆症を予防する,
などと報告されている.(1~11)
すなわち,「噛むこと」は,生きていくための基本である。
実際に,多くの動物では,噛めなくなることは,生命の終焉と同じことを意味する。
一方,高齢となり,うまく食べられなくなったペットの犬猫に対して,軟らかい,噛む必要のない食事の提供が健やかな天寿の全うに役立っていることも否めない。
このように,「いかに食べるか」が重要である。したがって,健全な状態である「噛んで食べる」ことを続けるためには,口腔や顎を含めた咀嚼系(用語を参照)ないしは機能的咬合系(用語を参照)の諸器官が健康な機能を営めるよう,特に主な構成要素である中枢神経(用語を参照),顎関節かんせつ(用語を参照),筋,歯(噛み合わせ)が総合的かつ機能的に不可分の形で協調することが最も大切である。
つまり,「噛んで食べる」という動作は,歯の歯根膜,顎がく関節かんせつ,咀嚼筋,舌,あるいは口腔粘膜などの感覚受容器からの鋭敏なフィードバックインパルスが反射的に統合されて,すべてfinal common path<最終共通路>であるところの末梢神経筋系の遠心路を帰ってくる咀嚼筋群の活動という形で表される。そこで,咬合が失われ,噛めなくなったときには,歯科的手段を用いて上記の機能を十分に回復させることが重要となる。
また,咬合は上下顎の28 本の歯(親不知歯:智歯がある人では32 本)がきちんと噛み合う咬頭嵌合位(用語を参照)で神経筋機構の調和がとれ,咬合力(噛んだ時の力)も前後的,左右的に均衡が得られており,これには前述の歯根膜の感覚受容器が食物の識別や下顎の前後,左右の運動のコントロールに極めて重要な役割を果している 12~14>。
したがって,歯列不正<悪い歯並び>,う蝕<むし歯>による歯冠の崩壊,歯周病による歯の植立の不安定や移動,あるいは歯の喪失による咬頭嵌合位いの不正などの咬合の異常が生じてそれらが持続すると,咀嚼系のみならず,身体にもさまざまな機能的問題や障害を起こすことになる。
例えば,上下顎の垂直的位置関係が変化すると咀嚼筋,特に噛むときに主働的な役割をする咬筋の筋紡錘が反応し,余計な脳活動を強いるようになり,噛み合わせが不安定であると咀嚼筋の活動を変調させて疼痛を発現させることもあり,さらには食塊の流れを妨害したり,全身の姿勢に影響を及ぼすこともある14 >。また,顎がく関節の構造を変化させ,顎関節に分布する神経や脈管を刺激し,顎関節かんせつ付近や顔面・頭・頸部に疼痛を起こさせることもある15,16>。
その他,身体の運動機能や学習能を低下させたり,聴力に影響を及ぼすことなども報告されている15~17>。
特に,歯が接触するときの0.1~0.5mm の小さな噛み合せの異常は,長期に持続すると,感覚情報が脳に興奮を起こし,健康な人でも1夜に10~15 分程度行う歯ぎしりあるいは噛みしめなどといわれる睡眠中のブラキシズムbruxismを増大させ,病的なレベルに助長し,自律神経系の機能の変化,情動ストレス,睡眠障害などを起こし,特に睡眠障害では,レム睡眠を阻害してうつ傾向の状態にしたり,中枢型の睡眠時無呼吸症候群を発現させる傾向が強くなることなどが確認されている15~17)。
このブラキシズムは,無意識下で行われるので,食物を強く噛んだ力より数倍から10 数倍になることもあり,前述の咀嚼そしゃく系ないしは機能的咬合こうごう系の諸器官に破壊的な影響を及ぼし, さまざまな症状の発現に繋がることになる。
これらが示すごとく,「噛んで食べる」ことが健やかな生命維持の基本であると認識できる。食事時間の短縮を図る軟らかいファーストフードの氾濫や安易な栄養補助剤,個人の摂食機能を考慮しない病院での食事形態の安易な選択など,我が国で展開されている「噛むこと」,そのための噛み合わせの重要性の認識を欠いた「食べる」ことの現状は,大きな危機といっても過言ではない。
少子超高齢社会を迎える我が国における大きな課題は「健康長寿」である。そこで,国民が等しくQOL(quality of life,用語を参照)の高い自立した生活を維持していくためには,噛むこと,すなわち咀嚼とその基礎となる咬合をベースとして,「食べる」ことの適切なあり方を追求していかなければならい。
日々の各種メディアや各種世論調査などからも明らかなように,「食べる」ことは健康や生きがいとの関わりの中で国民にとって最大の関心事である。したがって,この「食べる」ことを科学し,得られた知見に基づいた行政施策を実施することが,今最も必要とされるものである。
日本学術会議 咬合学研究連絡委員会報告 咬合・咀嚼が創る健康長寿 平成16年12月16日
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2.「食べる」ことに関する現状と課題
「食べる」ことは,生きるために必要不可欠であることはもちろん,個人の各ライフ・ステージにおいて様々な重要な側面を含んでいる。ここでは,基本となる「噛んで食べる」ために必要な咬合や口腔機能などに関する口腔保健の現状を,各ライフ・ステージに対応して俯瞰し,その問題点や課題について整理する。
1)胎児期~乳児期( ~1 歳)
胎児期の口腔保健活動としては,従来から一部の市町村において,妊産婦に対する歯科健診が行われている。しかし,これは,あくまで任意的実施事業であることや,その目的・効果が必ずしも充分に認識されていないこともあり,実施率・受診率はさほど高くはない。最近,う蝕誘発性細菌の乳幼児への感染源が母親であることが多
いと報告され18),さらにアメリカ歯周病学会の報告では,重度歯周病に罹患している妊婦に早産が多いという19)。これらの事実は,母親の口腔の健康が,生まれてくる子供の健康に深く関わっていることを示唆している。それゆえ,より効果的な妊産婦の口腔健診の実施と,そのための啓発活動が必要となる。
2)幼児期~小児期(1 歳~6 歳)
離乳期から実際に口から噛んで食べることが始まる。これまで,この成長過程における食事指導は,ややもすると栄養のバランスのみを強調したきらいがある。例えば,カルシウム補給として小魚などの食品を摂ることが勧められているが,これらの食品をしっかり噛むことによる他の効果,すなわち顎骨および咀嚼筋が成長発達することや学習能力が向上することなどは,一部の歯科医師やその他の医療関係者が国民に知らせているものの,広く国民に理解されているとは言えない。この時期の咀嚼そしゃくを通じた顎骨への力の伝播が顎骨の成長をもたらし,後続する永久歯の萌出スペースを作り,健全な歯列と咬合の育成に不可欠であることは,教科書に記載してある衆知の事実である。したがって,柔らかい食事から生じる咀嚼刺激の欠落は,この時期の口腔の成長にとって重大な問題となることが容易に想像できる6)。
また,近年開発されたポジトロンCT(PET)などによる脳血流量を測定した研究では,咀嚼することで脳血流量が大きく増加することが認められており4,5,20),脳活動の活性化に繋がることが示唆されている4,5)。
実際に,車を運転中の眠気対策にガムを噛むことは,このいい例である。さらに,この脳の活性化は学習効果にも繋がることが明らかにされているし20),幼稚園児を対象とした比較研究では,よく噛む食事をしている児童は,そうでない児童よりも計算能力が高いことが示されるなど,よく噛むことが学習能力の向上に繋がっていると理解できる。
さらに,柔らかい食事は栄養吸収の面からみても大きな問題である。すなわち,噛まない食事は糖質の吸収を遅らせ,基礎代謝量を少なくさせる可能性があり21),このことが,柔らかい食事にはより甘みが必要であることに繋がっている。甘み刺激は,ストレス発散や幸福感をもたらすなど,有益な刺激であるものの,習慣性があることが問題である。この時期における不適切な甘みの摂取は,将来に継続されていく恐れが強く,結果として口腔内のう蝕誘発性を高める22)。甘みの代表である砂糖がう蝕の原因であることは,古くから知られているが,今日のう蝕学の進歩は,砂糖の摂取のみを問題とせず,摂取方法こそ重点をおくべき課題であるとしている23)。
すなわち,間断のない糖質の摂取こそが問題であり,唾液のもつ緩衝能,脱灰歯質の再石灰化作用など,生体の防御反応を有効に利用するためには,むやみに甘みの摂取を制限するのではなく,個人の防御能を考慮した摂取間隔や摂取量を指導することが重要で効果的である。さらに,この糖質の適切な摂取指導は,青少年期の肥満や生活習慣病予防にも繋がるものと期待される3)。
なぜなら,現在の若年者の肥満や糖尿病の増加は,食生活の変化にともなう糖質の摂取過多が主因であり,運動不足やストレスも誘因とされているからである。この糖質の摂取過多にともなう血糖値の急激な上昇は,インスリン抵抗性を高め,糖尿病の最も大きな原因とされている24)。このように,この時期の糖分摂取については,医科・歯科両面から同じ指導が行われるべきである。また,スポーツドリンクや清涼飲料水などの低pH 飲料を,哺乳ビンを使って習慣的に夜間飲用することが最近よくみられ,これに起因する上顎前歯部のう蝕誘発25)や生体内の無機塩類バランスの変化については,歯科だけでなく医科からの予防啓発も重要である。しかし,このような取り組みは,ほとんど行われていないのが現状であり,疾患ごとに専門分化している現在の治療体系を変え,健康をトータルで守る保健指導の推進が強く望まれる。
その際,「食べる」ことは,中心に据えられるべきものである。さらに,この時期は生涯にわたって生きるための身体的,精神的基礎を作る時期であり,その確立に咀嚼の獲得を通じた「食べる」ことが深く関わっている。授乳から離乳,咀嚼の確立に至るまでの母子の触れ合いが,情動の形成に大きく関わっているとされており26),この時期をどのように過ごすかは,人間性の形成に深く関係している。しかしながら,この観点からの保健指導は全くといっていいほど行われていない。
3)青少年期(6 歳~18 歳)
学童期(6 歳~12 歳)は,乳歯列から永久歯列への交換時期であり,う蝕や歯周病への罹患の危険性が最も高く,適切な咬合を獲得するには,ここに至るまでの口腔衛生を含むすべての生活習慣が深く関わってくる27)。それゆえ,まず口腔清掃習慣を確立することが最も大切となる。また,適切な生活習慣を形成するには,家庭が極めて重要であり,とりわけ食事は,家庭における会話や教育(しつけ)などの中心的な場を占めている。食卓という家庭生活における学習場面が,人間関係の構築に不可欠であると強調する教育研究者も多く,食卓での「安心感」や「安全感」といった情緒の獲得の欠落が学習障害(用語の参照)や注意欠陥/多動性障害(用語を参照),高機能自閉症(用語を参照)といった発達障害やいわゆる「きれる」といった心理的な問題を生み出す原因のひとつとなっていることも指摘されている28)。
続く思春期(12 歳~18 歳)は,身体と心の成長の不一致にともなうさまざまな問題を引き起こす不安定な時期である。したがって,不適切な教育はこれを助長することになる。例えば,間違った栄養情報に基づく不適切で過度なダイエットは,過食症や拒食症といった摂食障害をもたらす29)。さらに,ストレスへの誤った順応として摂食障害が引き起こされることもあり,肥満や高血圧といった生活習慣病の早期発症にも繋がる。加えて,ストレスに起因する歯ぎしりや噛みしめなどの悪習癖が歯周組織や顎がく関節などの口腔周囲組織へ及ぼす影響も少なくなく,この年代,特に女性では顎がく関節症の好発年齢のひとつとなっている16)。
このように,この時期は心と体の健やかな成長をどのように育むかが大きな課題であり,ストレスにいかに適応していくかを学習する時期でもある。これらのストレスを発散させるためにも,食事は重要な位置を占めていることは明白であり30),「食べる」ことを通じた生活指導が効果的であると考えられる。しかしながら,このような観点からの保健指導はこれまで行われていない。また,この青年期には健診事業が欠けており,この年代に対する口腔保健の啓発活動が十分でないことが,成人の歯周病の罹患に繋がっている。
4)成人期(18歳~65 歳)
この時期は,ここに至るまでの生活習慣の蓄積が身体に症状として現れる時期といっても過言ではない。すなわち,何らかの症状が出た際に生活習慣の転換ができるか否かが,その後の健康長寿の鍵となる。
さらに,いくつかの生活習慣病やストレス誘発性の自律神経障害は,咬合に関連するものとしてとらえられるし31),
中耳伝音機能障害(用語を参照)や身体平衡障害,睡眠障害や情動障害(用語を参照)なども咬合や咀嚼に深く関係すると示唆されている17)。
とりわけ,糖尿病と歯周病との相互関係は,最近大きな注目を集めており,歯周病によりもたらされる炎症性サイトカインがこの糖尿病の増悪因子になっている。実際に,歯周病は,糖尿病の合併症のうち,腎症,網膜症,神経症,血管障害に次ぐ5番目である32)。この歯周病は,成人期以降における歯の喪失の最大の原因であり,その後の食生活や栄養にも大きな影響を及ぼす。成人の約80%の者が歯周病に罹患しているとされ33),初期には症状がなく,進行も潜在性のため,本人の意識がないまま悪化する例も多く存在する。
また,歯ぎしりや噛みしめといわれているブラキシズムなどの口腔悪習癖も歯周組織に対して為害的な力を加えることで歯周病を増悪させる因子(咬合性外傷)となっていることが示されている34)。
このように,口腔は生活習慣やストレスの存在が顕在化する場所であり,これらを適確に診断し改善に結びつけることができれば,生活習慣病予防に大きく繋がると期待される。しかしながら,現状では,こうした口腔内所見を生活習慣病などの全身疾患の予防管理に生かす体制が構築されていないため,また国民サイドにも,口腔と生活習慣病との関係に関する正確な情報が伝達されていないために,結果として,生活習慣病予防などによる国民の健康長寿の延伸や医療費の適正化に繋がる可能性が生かされていない。
以上の点から,「噛んで食べる」ことの重要性を広く国民に啓発し,社会的理解を醸成して,定期的な歯科受を含めた包括的な健康管理体制を確立することが急務である。
5)高齢期(65歳~ )
以前は老化のひとつとみなされていた歯の喪失も,現在では歯科疾患による後遺障害としてとらえられている。そこで,この時期に至るまでの取り組みを改善することにより,生涯自分の歯で噛んで食べることが可能になるものと考えられる。このためには,口腔健康の保持が健康長寿の延伸にいかに重要であるかを理解してもらう必要がある。すなわち,高齢期のあらゆる健康障害の背景にあるタンパク質・エネルギー低栄養状態(protein-energy malnutrition:PEM)(用語を参照)の問題に対して,「噛んで食べる」ことの有用性を確立して解決し,噛むことによる脳活性化が可能とする痴呆予防など,介護予防の観点からも口腔健康の大切さを訴え続けることが必要である。
ここではじめて,8020 運動に代表される口腔健康の保持が実現できる。歯を喪失した高齢者では,葉酸やビタミンなど身体の新陳代謝を行う上で不可欠ないわゆる微少栄養素が欠如しやすく35),消化吸収に不可欠な食物繊維の摂取が少ない36)などが示されているので,これらの科学的事実を国民に広く正確に伝達することが,今求められている。身体的健康だけでなく,精神的な健康との関わりも大きな注目を集めている。食事がもつ社会的な意義,すなわち他人との会食や食べる楽しみといった高齢者の生きがいなどは,QOL と直結する問題であり,介護予防としての閉じこもり予防にも繋がる37)。したがって,これらをさらに啓発していくことも重要である。
一方,70 歳以上の高齢者のすでに半数近くは,多くの歯を喪失している.
歯科補綴ほてつ治療(用語を参照)による咀嚼そしゃく機能をはじめとする口腔機能の回復は,これら高齢者の「食べる」こと,すなわち栄養摂取の維持はもちろん,食事を通じたQOL の向上にいかに貢献しているのかをより明確にしていく必要がある。多くの高齢者では,食事は一番の楽しみであり,生きがいやADL(activity of daily living,用語を参照)の低下防止に役立っている。この事実を科学的にさらに立証し,高齢者の歯科治療アクセスの確保に努めることが重要である。とりわけ,要支援・要介護状態にある高齢者では,健常高齢者と同等な治療を受けることができない状況が現実に存在し,社会的な機会の不平等と言える。したがって,要支援・要介護高齢者がこのような不利益を被ることがないよう,訪問歯科診療をさらに進め,また要介護施設に常置歯科医師を配置するなど,歯科医療を効果的に提供する体制を整備していくことが望まれる。
また,加齢にともない避けることのできない骨格筋の機能低下に対して,その機能低下を遅らせるために,継続的なリハビリテーションが必要であることが最近注目されている38)。すなわち,四肢の骨格筋は適度な運動によってその機能を保持できることがわかっている。
食べることも顎顔面領域の骨格筋によるひとつの運動である。適度に負荷をかけた運動がその機能維持に効果的であることから,高齢者歯科医療現場は食べる筋力の維持にも関与することができる。実際に,骨格筋で構成される舌の作り出す最大圧力は,加齢とともに低下することが報告されているし,このことは予備能力が低下していると理解できる39)。
また,歯の喪失が嚥下機能の低下や身体的平衡能力の低下を招く可能性も示されており40,41),これらの機能の維持・回復を目指す「口腔リハビリテーション学」を確立することにより,低栄養状態や転倒骨折にともなう介護状態を予防できる。
さらに,これまでの終末ケアではあまり顧みられなかった口腔の問題にも, 「食べる」ことを重視することにより,新たな展開が可能となる。すなわち,身体的,精神的機能の低下にともない,「噛んで食べる」ことが難しくなった終末期の高齢者に対して,いかにして口から食べる楽しみを保持させた上で生命維持のための胃ろうや経鼻胃管などの栄養確保の手段を講じることが,高齢者の尊厳に深く関わって重要である42)。
また,専門的口腔ケアが高齢者の誤嚥性肺炎の予防や発症率の低下に効果的であることは立証されているし43),
要介護高齢者の直接死因の3割を占める肺炎にともなう死亡を減少させるためにも,終末期の高齢者への専門的口腔ケアをさらに推進しなければならない。これらにより,介護予防,介護の重症化予防のひとつである気道感染予防が達成できる。以上,すべての世代に「食べること」,「咀嚼そしゃくすること」の大切さを再認識させること,すべての世代にその礎となる健全な咀嚼そしゃく環境としての咬合こうごうを確立することが,「食べる」ことを通じた健康の維持・増進や我が国の食文化を守ること,さらに介護予防や介護の重症化予防の上にも極めて重要であり,このことが我が国における最も大きな今日的課題のひとつであると断言できる。
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