ネオテニーワールド

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章子の短編集「わたしの青春時代」



 その頃(昭和10年前後)世の中は、とても活気づいていた。戦争景気に浮かれていた。今で言うバブルだった。父の仕事も時代の波に乗って、池袋の住居より、一気に新橋、京浜国道1号線沿いに父の店を構えることになった。そして、私は、憧れの女学校へ進むことになった。

 わたしは、どこにしようかと考え、父に相談した。進歩的な父の勧めで、当時、出来たばかりの、大塚にある、東京ミシン学校へ入学した。これが、わたしには、向いていて、すっかりミシンの虜になった。毎日、来る日も来る日もミシンを踏み、楽しい日々が続いた。あるとき、父が、蛇の目ミシンを月賦で50円、20回払いで買ってくれた。家に帰ってもミシンを踏み、家中の着物を作った。父と一緒に生地を選び、そして制作した。特に、父は仮縫いのときの試着が好きだった。襟がついては、試着。袖が出来ては、試着。父は、仕上がりをとても楽しみにしていた。

 学校生活の三年間が終わり、銀座のいさみや洋装店へ就職した。華やかな店の屋根裏の仕事場で、わたしは、毎日、好きなミシンを踏み続けた。ある日、父が仕事先で怪我をした。わたしは、当時、全然知らなかったが、前から患っていた心臓病も重なって、44歳で亡くなった。わたしにとっては、父がすべてだったのに。

 それから、わたしは、残された母と兄、そして妹、弟。全員と生きてきた。しかし、今はもう思い出せない。ちょうど、世間では、戦争も激しくなり、田舎のない人は、学童疎開や知人を頼っての疎開が始まった。わたしの家も新橋では危険だということで、山の手の知人宅、目白へ引っ越しした。弟、妹は、疎開させ、母とわたしと弟、妹の四人で銃後を守ることにした。

 兄は、目白に来てすぐに兵隊として出征した。そのうち目白も焼きだされた。知人の勧めもあり、その後、福島県白河へ疎開した。わたしには、はじめての田舎生活だ。わたしの兄弟は、みな若いので、それなりに楽しく生活した。ここでの生活でもミシンは、とても役に立った。わたしは、毎日、縫い物をした。

 そうこうして、やっと終戦になった、兄は、病院船で無事帰還した。やっとわたしの家族全員が揃った。色々と困難もあったが、やっと東京での生活が始まった。またしても、ミシンの出番だ。わたしは、こころが踊り、ひたすらミシンを踏み続け、今日まで来た。振り返ってみれば、その当時のわたしは、毎日がとても充実していた。その思いでいっぱいだったんだ。そして今も変わらず思っている。

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