どくだみ音楽

どくだみ音楽

彼の手塚治虫観ほか



 手塚治虫の第一の魅力が「エロティシズムにある」といったのは誰だったでしょう…。『nの日常日乗』です。

 手塚作品といえば『鉄腕アトム』くらいしか読んだことのないダメ読者のりじょですけど、それでもその言葉には納得させられました。ははあ、なるほどなってわけです。「エロティシズム」っていうのはアレですよ、エロとかグロとかの「エロ」じゃありません。
 で、その評者は同時に「そのエロティシズムは、晩年になるほど影を潜めてしまう」ともいっていました。それもまた、然りと納得したものです。
 「エロティシズム」が少し刺激的すぎるのならば、「ダイナミズム」に置き換えても伝わらないこともないんですけど、やっぱりちょっと本質からずれが生じます。

 手塚さんは『アトム』を「私の描いた最大の駄作」と自評してましたけど、その『アトム』にも評者のいった傾向は如実に表れていると思われます。それは、絵に関しての門外漢のりじょにも判るほどに。
 それが後半では見る影もなくなる、といいました。例えば、線の質。アトムの輪郭にしても、初期のそれは本来機械の塊であるはずのアトムにあたかも生命が宿っているかのように描かれています。劇画ではなく、あくまで「漫画」であるのに、逆説的な写実性をもっているといえるでしょう。
 後半になると、本当にそれは「なれの果て」とでもいうしかないようなものに変質する瞬間があります。一筆書きのディテールの、始点と終点が一致しない、なんてのは最たる例でしょう。

 のりじょも思い出したように絵を描きます。趣味で、クロッキーというのでしょうか、鉛筆書きの写生をするんです。
 それは、多少のスランプは(一丁前に)あっても、エロティシズムやダイナミズムの介在する場所は限りなく少ないものです。ですから、失うべきそれらを最初から持っていません。
 それに較べて、手塚さんはじめ「この世にないもの」を書く人達は、ある程度以上になると自己模倣をしていくしかなくなります。人間のクロッキーから始めたとしても、いったん生み出した以上はアトムは手塚さんが生み出したひとつの世界になってしまうわけです。それを自分の外に求めることができません。
 人間は、およそ「馴れ」に弱いものです。知らず知らず、自己模倣は変革を生み出す手段ではなくなって、単なる「模倣」になってしまいます。その時失われるのが、「エロティシズム」だと思うんです。

 同じく自己模倣という無間地獄に苦しんでいるのが、つんくでしょう。一度、たったの一度世間に対して体制側に立ってしまった彼は、やはり変革の手段を見つけられないままにそのエロティシズムやしなやかさを失いつつあります。
 もうそこにはかつてのアトムがそうだったように、躍動感を失っていく者の姿しか見えないような気がします。
 躍動感を失い切る前に手塚さんの筆を失ってアトムは飛べなくなりましたけど、つんくはどうなるのでしょう。墜落する前に自分から空を諦めるのも、もうそろそろ現実的な道かもしれないと思うんですが…。

 あ~またネガティブになっちゃいました(苦笑)。ちょっと真面目に話してたんですけど、やっぱりネガティブにしか終われない今の状況。まったく、こっちサイドはこんなに心配してるって彼は理解ってるんでしょうかね。まあ、彼自身が一番「あ~!」って感じに思ってるのかもしれませんけど。そうだと良いけどなあ…あ、でもそれも可哀相かも。





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