クレドのにっき

クレドのにっき

群青の海・弐


群青の海 弐


 たたしーこはーいて。
たーたしこはーいて。
たたしーこはーけば
みのりのよしはあしによし…

「……ん」
目覚めは、サイアク。
外を見れば霧雨。
旦那様は夕べは珍しくちょっと早く帰った。見送りをしようとしたら、寝ていていいよ、と云われてしまった。曰く、「きみの寝顔が可愛いからね」だそうだ。
 身体を起こし、湯屋に向かう。
女中さんも起きてきたらしい。
「あら、杳ちゃん。湯屋に向かうのでしたら、私たちもいきます」
「うん。有り難う。」
彼女たちは、オレの世話が仕事だ。…それにつけても。
温かい湯が、身体を浸していく。疲れた身体をもみほぐしてくれる手に、気持ちよく心を預ける。
「…♪たーたしーこはーいて。たたーしこはーけば。みのりのよしはあしによし…」
口ずさんだ歌。
「あら、それって…杳ちゃんの、くにの?」
もんでくれている女中さんがきいてくる。オレは目をつぶったまま答えた。
「…ん。そう。こう、畳みたいなのをね、稲刈りが終わった後、かぶせて子供たちが踏むんだ。『はく』ははきものを『履く』のはく。たたしこ…はなんだっけ、忘れちゃった」
「そう…」

 別に郷里が恋しいわけじゃない。
寧ろ、もう二度と帰ることなんて無いだろうと思っている。
上には兄も姉も腐るほど居たし、農家だからあんま関係はないだろう。
だから。
その再会に、オレは思ったよりも、動揺していた。
「…黄ぃ兄ぃ」
本屋の帰り、橋のたもと。
少し疲れた表情で、痩せてはいたけどしっかりとした足取りで、そのひとは確かに、上から2番目の兄、黄三郎兄貴だった。
「杳!…お前を捜して、ここまで来たんだ!」
その目が怖かった。
オレは思わずあとずさる。その左腕を、黄ぃ兄ぃは掴んで、無理矢理引っ張る。
「ちょっと来い!」
「あ!兄ぃ!」
橋の下へ連れて行かれて、逃げられないように顔の両脇に手を付かれた。
「……何故、出た?」
オレは目をそらす。怖いよ、兄ぃ。その目…怖い。
「杳、おらと一緒に暮らそう。な?おらは、お前が」
「――っ!」
聞きたくなかった、そんな言葉。
「オレは…違う、黄ぃ兄ぃのことをそんな風に見てない!今だって!見られないよ!」

たーたしこはーいて。
たーたしーこはーけば。
「おらは杳と履く!」
たーたしこはーいて。
たたーしこはけーば。
みのりのよしもあしによし…


「やだっ!兄ぃ!やめてよ」
その目が。その目が。その目が!怖い!
「杳、どうして嫌がる?昔だって、お前には優しくしてやった。こうして、触った…なんで嫌がるんだ!」
ぱぁん!と頬を張られた。
「あ…あ…」
怖い。怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い!!
「ほら、云う通りしないからだ。な?おとなしくしてろ。兄ぃが今、いいことしてやっから」
違う。違うよ黄ぃ兄ぃ…!
オレはこんなこと望んじゃいない。

「いいことって、なに?」
「ここを触ると…」
「ん…あ、なんかあついよ」
「杳は可愛いな。かわいい。」

「兄ぃ、お願い、やめて。オレは…違う、そんなつもりないんだ、兄ぃ、お願いだからやめて…」
音がするほど、殴られて、目眩がする。
「大人しくしろって云ったはずだ?ほら…昔みたいに可愛い杳でいろ。」
「………!」
こんなの違う。こんなの、兄ぃじゃない!
オレを殴って、犯そうとしてるなんて、オレの好きだった黄ぃ兄ぃは優しくて…よく笑うひとだった。
目の前にいるのは誰なの?
こんな、獣みたいにギラギラ目を光らせて、怖いひと。
オレの喉を舐めて、着物を乱暴にはだけて、シャツを破る。
知らない、こんな怖いひと。
「や…兄ぃ」
ぎらり、と目が光った。そして、「大人しくしろって…云ったよな?おら。杳、お前が欲しくて欲しくてたまらんかった。…大人しくしろ」
目の前が、閉じていく。

 「たーたしこはーいて。たーたしこはーけば。……みのりの…」
杳は、ぼんやりと焦点の合わない瞳で郷里の歌を細く、歌っていた。
頬は腫れ、破られたシャツ、着物も乱れ、髪も乱れて、…いっそ痛々しい。
黄三郎は思う。
杳はおらのもんだ。
杳が、暴れたから殴るしか無かった。
大人しくしてれば、殴ったりなんかしない。
優しくして、ちゃんと扱う。
杳は大事なおらのものだもの。
 黄三郎は杳の前に座って、目線を合わせた。
「さ、行くぞ杳。今回はこげな酷い目さ あわせちまったけど、お前さえ大人しくしてれば、殴ったりなんか、しねぇからな。痛かったろう?だめだぞ、もう暴れたりしちゃあ」
――このひとは、なにをいってるんだ?
――オレは、やだって云って…
――このひとは、オレの兄で…
――兄・と…
黄三郎は征服感で満足していた。だから杳の目に現れた危険な色を知る事なぞ出来ようも無かった。
後ろから抱き付かれた。やっと杳もわかったのか。振り向こうとしたのに、首に冷たい感触。
振り向きざまに見た杳は、笑っていた。
「さようなら、黄ぃ兄ぃ」
冷たい感触の所から、一気に熱さが吹き出した。真っ赤な…血?
杳の左手に、小さな小刀が握られていた。
「なんで…だ、杳」
 それは冷静な殺人。
橋の下で見付かった死体は、どうせ無縁仏で始末されるか、このまま腐って行くだけ。
今日が霧雨で良かった。
傘も無いけれど、返り血は浴びなかったから…ああでも、汚い。
このまま川に入ろう。
何故か、涙が零れていた。
「オレは、何で泣いてるんだ?」
自分が実の兄に犯されたこと?それとも、その兄を殺したこと…?
「…ははっ、あははっ、アハハハハハ」
違う、違う違う違う違う違う違うよ!
楽しくってしょーがねーんだ!
殺しが楽しかったんだ!
あははっ、オレは、そういうやつなんだ!
こんなオレの血は赤いのか?
つうっと手首を切ってみた。
真っ赤な血が川の流れに乗せられて綺麗。
ああ、紅い。
全てが真っ赤だ。
橋の足も赤に染まった。
あの死体も紅い。
紅い紅い紅い紅い紅い紅い紅い紅い紅い紅い紅い紅い紅い紅い紅い…。

「お帰り、杳ちゃん…どうしたの?!」
ずぶ濡れで帰ってきた杳は酷い有様だった、顔は腫れているし、着物は乱れているし、一見して乱暴されたのだと分かる。おまけに、左手首には深い傷があって、出血していた。
出迎えた一番年かさの女中、まいは彼の手首にとりあえず包帯を巻き、医者を呼んだ。
 医者は、とりあえず頬や殴られた痣全てに湿布を貼り、そして一番酷い手首の傷に目をやった。
「これは…縫うのう。この角度からだと…自分…で?」
杳は出血の所為もあってか、何処か虚ろな目つきだった。
そして、呟くように云った。
「……確かめたんだ」
「?」
今度は、はっきりと医者を見て笑った。
歪んだ、酷い笑みだった。
「オレの血が赤いのか、確かめたんだよ」

 普通はそんなことがあったら棄てるだろうに、旦那様は反対だった。
「誰が杳をこんな目に!……杳、よく養生するんだよ。食べたいもの、欲しいもの、何でも云いなさい。早く元気になって、笑っておくれ」
と、前髪を梳いてくれる。
「ありがとう…旦那様」
……前髪を梳いて。
優しく笑い掛けてくれて…
 旦那様が帰った後、天井を見ていた。
「………たーたしこはーいて。たたーしこはーけば。たーたしこはーいて。みのりのよしもあしによし…」
優しく笑い掛けてくれて。
土産だなんだといつも構ってくれて。
でもそれは全部ああいいう事?
ねぇ黄ぃ兄ぃ答えて?
オレに、これ以上アンタを嫌いにならせないでよ。
大好きだったんだ。
「大好きだったんだ…」
涙が零れて、止まらない。
大好きだったのに。
でも、もういない。
「オレが殺した…!この手で殺したから…」
黄ぃ兄ぃはもういない。
常世のひと。

TO→参?



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