なせばなる、かも。

なせばなる、かも。

E.St. 3


           -3-
          すりぬける者

 警察署の廊下の長いすに腰掛けている3人に、突然強い光が差しこんだ。

「眩しい!」

芙美と今日子は思わず顔をそむけた。

「あれかな。」

山本は、今光が差しこんだ方を指差して言った。芙美と今日子がその先を見ると、紺色のアウディーが駐車場に収まるところだった。

「さっきの光はあの車の反射した光だったのね。」

今日子がつぶやく横で、芙美がじっとその車の主を見詰めていた。車の主は、身軽に階段を駆け上がると、3人に向かって一礼した。

「お待たせしました。特捜の者ですが、佐々木時郎の件でお話しがあると...。」
「はい、1度きちんと調べていただきたいのです。」

芙美は1歩前に踏み出して言った。

「松坂。悪いなあ、無理言って。奥の部屋を使ってくれ。あ、それから、これがそこのお嬢さんが撮った写真だ。証拠物件として使わせてもらおう。」

さっきの刑事が額のしわをより一層深くして言った。

「分かりました。では、こちらへどうぞ」

松坂は3人を奥の部屋に通すと、刑事に一礼して部屋に入った。

「頼むぞ、哲也。」刑事はその後姿にボソッと言った。

 部屋に入ると、早速本題に入っていった。一通りの話しを聞いて、松坂は自分の書き記したメモを睨みながら考え込んでいた。

「非科学的で話になりませんか。」

山本は、思い詰めたように言った。

「だけど、彼の様子は普通じゃない。それに、彼の事務所で見た秘書の女性の遺体の下にあったモニターには、確かに彼女の姿が映っていたんです。あっ。」

そこまで言って、山本は佐々木の家のパソコンのことを思い出した。もし、警察の人間がパソコンの電源を切ってしまったら、佐々木の命に影響が及びかねないのだ。

「パソコンの電源。」

今日子も同じ事を考えていたようだ。

「佐々木のマンションのパソコンの電源を切ったら、佐々木はモデルの人格と共に死んでしまうかもしれないんです。お願いです。すぐに現場の方に知らせてください。」

山本は、松坂にしがみつかんばかりに叫んだ。

「わかりました。」

松坂は背広の内ポケットから携帯を出すと、すぐに現場に連絡を取った。現場保存を徹底すると、今度は別の場所にも電話をかけた。

「俺だ。通信部門の石塚を呼んでくれ。…松坂だ。この前話してたペットウイルスの事だけど。ああ、見つかったんだ。すぐ来てくれ。」

電話を切った松坂の顔は、自信に満ちていた。

「お陰様で、しっぽが掴めそうですよ。実は、僕と今電話してた石塚の二人で、何年か前から追いかけてた奴が居るんです。それがペットウイルスです。インターネットなどで使うペットモデルが一人歩きして人間を操縦するんです。まだ、マスコミには出してないんですけどね。」

松坂が初めて笑った。その左頬に小さなえくぼがあるのを、芙美は見逃さなかった。
 松坂は、すっくと立ちあがった。

「コーヒー、飲みますか?」

急に肩の力が抜けて、やわらかな雰囲気になった松坂に、3人は一瞬ぽかんとしてしまった。


「あ、そうだな。僕、頂きます。今日子ちゃん達は?」

今日子と芙美もそれぞれ頷くと、松坂はにこやかに頷いて部屋を出て行った。松坂を見送ると、山本は深い溜息をついた。

「まったく、今日と言う日は何て日なんだ。いろんな事が1度に起って、頭の中が大混乱だよ。」
「そうね。でも今の刑事さん、以前からこんな現象があった事、知ってたみたいだったね。やっとしっぽをつかんだって言ってたじゃない。」

今日子はホッとしたように言った。

「うん、でもラッキーだったわね。モデルの人格の話、まともに聞いてくれる刑事さんが来てくれて。後は、佐々木さんの人格をどうやって取り戻すかって事よね。」

そう言いながら、芙美はそんなことより、あの松坂刑事に会えた事をラッキーだったと、心の中でつぶやいていた。

 石塚がやってきた。がっちりと言うよりも、ぽっちゃりと太ったその身体に似合わない小さな箱を手に持って部屋に入ってくると、「あれ、松坂知りませんか?」とトボケた表情で言った。 

「松坂刑事なら、今コーヒーを入れてくださってます。」

芙美が答えると、嬉しそうな顔をして廊下に向かって言った。

「松坂、俺の分も頼むよ。」

そして、部屋に向き直って明るく言った。

「いやあ。丁度良かった。ここに来る途中に、うまいケーキ屋があるんですよ。有力な情報をいただけると聞いて、手土産にこれ、もって来ました。あ、僕、石塚です。よろしく。皆で食べましょう。」

石塚は慣れた手つきで袋から紙皿を出すと、あっけに取られる3人をよそに、さっさと取り分けていった。

「お待たせしました。」

そう言って松坂が入ってくると、石塚は待ってましたと言うように、松坂の持っているトレーからコーヒーを皆に配り始めた。

「おい、石塚。お前またこんな物を....。糖尿病になっても知らないぞ。」
「何カリカリしてるんだ。お前こそ、カルシウムが足りないんじゃないの?」

お構い成しの石塚に、松坂は眉をピクッと上げただけで怒りを押さえた。これ以上取り乱すのは、松坂のプライドが許さなかったのだ。

 和やかな雰囲気の中で、事情聴取が始まった。さっきまでふざけてばかりいた石塚もすっかり目の色が変わってしまって、大きなぷっくりとした手を忙しそうに動かして、3人の話す内容を寸分残さず記録していった。

「どうも、ありがとうございました。僕達は、これからちょっと佐々木の様子を見てきます。今日はお引取り頂いて結構です。」

松坂が頭を下げると、芙美が食い下がった。

「あの。何か判ったら、私達にも教えていただけますか。」

松坂はちょっと考え込んだ。

「いいんじゃない?マスコミに伏せてくれさえすれば。」

石塚が後ろからとぼけた顔で言った。

「うん、そうだな。それに、また協力していただかないと行けないかもしれません。よろしくおねがいします。」

松坂が芙美に答えると、芙美はぱっと明るい顔になった。今日子はそっと山本を突付いた。山本も気がついたのか、今日子に目配せしてにこっと笑った。

 帰りの車の中で、今日子は一人ニヤニヤしていた。

「芙美。よかったね。」
「え?何が?」

思い当たらずに問い返す芙美に、今日子はニヤニヤ顔のまま助手席から振り向いた。

「とぼけちゃって。松坂刑事がすきなんでしょう。」

芙美は顔を真っ赤にしてうろたえた。


「ええ、どうして分かっちゃったの?」

それを聞いて、山本も今日子もどっと笑った。

「芙美ちゃん、あれだけきらきらした瞳で見つめられたら、松坂刑事もきっと気づいてるんじゃないかな。」
「ええー。どうしよう。」

芙美は大パニックに陥ってしまった。

「もう、笑わないでよ。冬からずーっと今日子達のアツアツ振りを見せられてるのよ。私だって恋したくなるじゃない。今日子、気づいてないかもしてないけど、貴方随分ほっそりなったのよ。それに、キレイになった。」

芙美は、ちょっとふくれっつらで言った。

「それって、スリミックのお陰だけじゃないでしょ?」

今度は前の席の二人が赤くなる番だ。

「ああ、山本さん!信号赤、赤よ!」

芙美に言われて山本は慌ててブレーキをかけた。

 松坂と石塚は、取調室で刑事と向きあっている佐々木を、隣の部屋から観察していた。こちらからは見えるが取調室からは見えないというよくあるガラスだ。
取調室の中は硬直状態が続いていた。佐々木は名前を言ったきり、事件の事に付いては一切黙秘していた。そして、口を開くとパソコンが気になるから家に帰らせろの一点張りだった。

「早く家に帰らせてよ。パソコンつけっぱなしなんだから。」
「気になるなら、現場に居る刑事に言って、切らせますよ。」
「あ、それは絶対止めてくれよ。データが消えちゃうだろ。」

刑事の言葉に佐々木は焦った様に言った。

「ですから、貴方の秘書だった西村冴子さんの事と、前田志穂さんや伊藤芙美さんへの誘拐疑惑に関してはっきり説明してくだされば、容疑が晴れ次第、お帰りいただきますから。」

刑事はもう何度目かの押し問答を繰り返して、溜息をついていた。

 石塚は松坂に向き直って言った。

「おい、どう思う。あいつさっきから同じ言葉の繰り返しのように思わんか?」

石塚の言葉に松坂ははっとした。

「バグッたのか。やばいぞ、このまま放っておくと佐々木の命が危ない。」

松坂はすぐさま携帯で取調室に居る刑事に連絡した。

「とりあえず、佐々木を奴のパソコンの前に座らせてみよう。間に合うかどうかは分からないが、このままにはできない。」

松坂は警察署を駆け出ようとした。

「おい、どうしたんだ。」

さっきのベテラン刑事が声を掛けた。

「佐々木がおかしいんだ。バグってるかもしれない。1度、奴をパソコンの前に座らせてみようと思うんだ。間に合わなかったら、秘書の西村冴子と同じ結果になる。」
「何!こうしちゃあおれんな。」

ベテラン刑事は急いで上着を手にして松坂に続いた。


 芙美はパソコンの前でぼんやりしていた。朝、このパソコンの前に居た時は、絶対佐々木時郎の化けの皮を剥ぎ取ってやると意気込んでいた芙美だったが、今は複雑な気分に沈んでいた。電源を入れていないモニターには、お人形のような白い肌のどちらかと言えば幼く見られてしまう自分の顔が映っていた。

「私にとって、あのモデルは何だったんだろう。」

『猥褻な物をあからさまに喜ぶ男達への挑戦?女の子はこうあるべきと言う世の中の先入観に対する反感?それとも、自分に無い物への憧れだったのかも。』

混沌とする心を抱えたままで、芙美は無意識の内に、パソコンを立ち上げ、いつものようにチャットを訪れていた。

fumi― こんにちは。誰かいませんか。
tokio-こんにちは。今日は暖かくて春らしい1日だったね。

『tokio?』

芙美は、一瞬手を止めた。が、tokioがチャットに居るはずはないか、と考え直して話し始めた。そう、佐々木時郎は警察署に連行されたのだから。


fumi- そう、でしたね。でも、今日はなんだか気持ちが落ちこむの。
tokio-どうしたの?僕でよかったら、話しを聞かせてよ。
fumi-今日、とても素敵な人に出会ったの。礼儀正しくて、賢そうで、笑うと左頬にえくぼが出来てチャーミングなの。でも...
tokio-でも、どうしたの?
fumi-私はこんな姿だけど、本当の自分とは随分印象が違って、こんな姿の私も私なんだけど、本当の私がこの姿を否定したがっているの。

画面の中では、大きく胸の開いた黒い皮のパンツスーツを来て、きりっとつりあがった目をした大人の女が憂いを秘めたようにタバコをふかせながら嘆いていた。

「渡りに船とは、このことだな。さっさとこの身体からおさらばするか。」

男は小さな声でつぶやいた。

 キーボードを打つ芙美の指先に電流が流れた。

「痛い。」

芙美はそう言ったきり気を失ってしまった。モニターには、先ほどまで話しこんでいたtokioとfumiの姿が止まったままになっていた。

 佐々木の動きは隣の部屋でモニターを通して見られていた。松坂は、佐々木をマンションに連れて行く前に、現場の刑事に頼んで隠しカメラを仕掛けてもらっていたのだ。
そして、10分だけと言う条件付で、佐々木を本人のパソコンの前に座らせ、松坂、石塚、そして、ベテラン刑事の森村の3人は、隣の部屋で佐々木の様子を見つめていた。

「おい、何をカタカタやっとるんだ。」

森村は、その年齢にありがちなパソコン音痴だった。

「チャットで他の人と話をしているんですよ。」松坂が言った。
「なんだ、それは?」

森村は額のしわをより深くして言った。

「いわば、パソコン通信による井戸端会議ですね。」

そう言う松坂を、石塚が突付いた。

「おい。左頬にえくぼがあるって、あれお前の事じゃないのか。」
「まさか。伊藤芙美さんはあんな感じの子じゃなかっただろ。」

戸惑ったように松坂は言ったが、石塚は何か直感的にひらめいたようだった。

「そうかなあ。自分にないイメージのチャットモデルを使う例は結構多いんだぞ。それに、...」

言いかけて石塚は、画面を食い入るように見つめた。

「おい、佐々木の様子が変だぞ!!」

3人が佐々木の居る部屋になだれ込むと、佐々木はするするとすべるように椅子から転げ落ちた。

「佐々木!しっかりしろ。」

森村が佐々木を抱え込んで叫んだが、佐々木はすっかり気を失っているようだった。佐々木はすぐ、救急車に乗せられて運ばれて行った。後に残された3人は、顔を見合わせて深い溜息をついた。

「俺、ちょっとデスクに帰ってこのチャットルームに入ってみるわ。このfumiちゃんって子のことも気になるしな。」

石塚は画面に映されたfumiの姿を心配そうに見ていた。画面は静止したままだった。


 石塚は太い指でがしがしと頭を掻いていた。

石塚たちはすでに署に戻ってきた。そして、事件の現場と言うべき場所を探しているのだ。

「おかしいなあ。どうなってるんだ。」

難しい顔はおよそ似合わない雰囲気の石塚だが、彼はさっきからそんな顔のまま、あちらこちらのチャットルームに参加しては、fumiの姿を探していた。

「どうだ、見つかったか。」

松坂が声をかけていた。

「いや、どこにもいないんだ。」
「もう、さっさと回線を切ったんじゃないのか。」

気のない松坂に、石塚は眉を潜めて言った。

「おい、お前は心配にならんのか?あんなかわいい子がペットウイルスに狙われてるって言うのに。」
「個人的な感情を持たない方が良いんじゃないのか。一応彼女も事件の関係者なんだから。それに、まだ彼女と断定されたわけじゃないし」

松坂はそう言いながら横に常設してあるコーヒーのポットから、2杯分のコーヒーを入れて、一つを石塚に差し出した。

 石塚はモニターを睨んだまま紙コップを受け取ると、そのまま口にして、「にが。」と驚いた。

「おまえなあ。コーヒーには砂糖はつき物だろ。脳の働きの栄養源としては砂糖の糖分が一番効率がいいんだぞ。」

松坂は溜息をついた。

「おまえの場合は、もう充分身体に蓄えられてるから、要らないだろう。そろそろそのためこんだ栄養を使って脳みそを働かせるときなんじゃないの。」
「うるせぇ。これは大規模な災害を想定した体形なんだ。ところで、松坂、さっきの伊藤さんの友達の連絡先わかるか。彼女からそれとなく伊藤さんの様子を見てもらった方がいいんじゃないかと思うんだ。」

松坂はちょっと考えてから、「わかった。」と言ってメモを渡した。

「え?芙美の様子をみるんですか?分かりました。でも、どうして芙美が?」 

今日子は動揺を隠そうともせずに、問いただした。

「うーん、さっき佐々木をパソコンの前に座らせて、自由にしてみたんだ。すると...」

石塚はさっきの出来事を今日子にも話してやった。

「それで、そのチャットに出ていたモデルは、露出度の高い黒い服を着て、赤い口紅とハイヒール姿だったんですね。....
それ、間違いなく芙美です!
彼女、前に私に見せてくれました。彼女、見た目は清楚なお人形のような女の子ですけど、中身は全然そうじゃないんです。もっと強くて、しっかりしていて、ちょっと過激なところもあったりして。とにかく、彼女はその外見と自分自身の性格のギャップに苦しんでたぐらいです。だけど今日はあんなに嬉しそうにしてたのに....」

今日子が言葉を濁していると、石塚が促すように言った。

「松坂の事かい?」
「やっぱりわかりましたか?」
「ああ、あんなにきらきらした瞳で見つめられたら、普通の男ならいちころだな。だけど、相手が松坂だからなあ。」

石塚は、横で白々しく新聞を読んでいる松坂に肘鉄を食らわせた。

「彼女の恋が実るかどうかはわからないけど、今日の警察からの帰りの芙美の表情は、普通の恋する女の子のそれだったし。なんだかきゃぴきゃぴして、いつになくかわいらしかったから、彼女にもこんな一面があったんだなあって、思いました。」

今日子は山本の車の中で、珍しく恥ずかしそうにはしゃいでいた芙美を思って、痛々しい気分になっていた。

「とにかく、彼女の様子を見てやって欲しいんです。何か変化があるようなら、すぐ僕らのところに電話してください。」

石塚は、電話を切ると松坂に向き直った。

「どう思う? あのチャットのモデルは伊藤さんのものに間違い無いそうだとさ。」


松坂は新聞をたたむと、デスクの横にきちんと置いて言った。

「さっきの事情聴取の時、山本さんが言ってただろ。佐々木時郎は、精神的に不安定な状態のようだったって。今まで自分が認識していた自分という人格に、別の今まで知らなかった自分の一面を見たとき、人は多かれ少なかれ、驚き、また動揺するもんだ。去年送られてきた資料のN.Y.の事例の時もそうだっただろ。ウイルスに侵されるのは、精神的に揺れ動いている時だった。
そして今、伊藤扶美さんも同じ条件を満たしている。ウイルスはもう、佐々木時郎から脱出して次の媒体に移ったのかもしれんなあ。」
「媒体って....お前はそれでも人間か?もうちょっと情けがあっても良いんじゃないか。」

石塚はとうとう頭に来て、松坂に食って掛かった。石塚が掴みかかった拍子に、デスクの上のコーヒーがひっくり返って松坂のスラックスをびしょ濡れにしてしまった。石塚は慌てて飛びのき、素直に誤った。

「すまん。つい、興奮してしまった。」

松坂はハンカチでスラックスを拭きながら言った。

「いや、石塚は悪くないさ。俺だって、平気で居たわけじゃないんだ。だけど、今その気持ちを認めてしまうと、冷静に物事を見られなくなりそうな気がするんだ。」
「松坂...お前、ひょっとして....」
「とにかく、佐々木の様子を見に行こう。ウイルスが脱出した後、元の人格が戻ってくるのかどうか、まだ分かっていないんだから。」

松坂は石塚の言葉を遮るように言うと、上着を抱えて石塚を急かした。

「おう。」

石塚も巨体を動かした。

 気が付くと11時を廻っていた。今日子は、石塚に言われた通り何度か芙美に電話をしたが、携帯の電源は切られたままになっていて芙美と連絡を取る事は出来なかった。

「今日子、もういい加減にしなさい。あまり遅い時間に電話するとご迷惑ですよ。」
「はーい。おやすみなさい。」

母にたしなめられて、今日子はしょうがなく自分の部屋へ戻った。

「芙美、あんなにいろんな事があったのに、電話もかけてこないなんてやっぱりおかしいわ。」

今日子は考えた挙句に、いつも芙美が参加しているチャットルームに覗きにいくことにした。

kyoko-こんばんは。
takuya-.....
fumi-......

今日子はチャットルームの全貌がモニターに映し出されたとたん、ショックで指先が動かなくなった。そこにいるのは紛れもなく芙美のモデルだった。しかし、そのモデルはタクヤの膝に座りこんで、若い男を手なずけている悪女そのものだった。身動きも出来ずに、固まってしまったkyokoにfumiは冷たく言い放った。

fumi-何?あんた。ここはお嬢ちゃんの来るところじゃないのよ。悪いけど、他に行ってくれるかしら。
kyoko-ごめんなさい。失礼します。

今日子は震える指で何とかそれだけ打ち込むと、急いで退室ボタンを押した。

「芙美じゃない!誰かが芙美を乗っ取ったんだわ、佐々木さんの時みたいに。」

今日子はあふれ出て来るものを止められなくて、ベッドに突っ伏して号泣した。そして、泣きたいだけ泣くと、はっと気づいて居間に向かおうとした。

「あら、今日子ったらまだ寝てなかったの。もう12時になるわよ。いい加減にしなさい。」

今日子は、寝室に向かう母の声に押し留められてしまった。

「ち、ちょっとトイレに。」

苦しい言い訳をして1階に下りたが、居間には父親が座りこんでのんびりテレビを見ていたので電話は諦めるしかなかった。

 翌日、今日子は急いで石塚に連絡を取った。

「やっぱり、様子がおかしいの。」
「どんな風だったの。」
「あの。それはちょっとここでは。」

今日子が言いよどんでいると、後ろから母が声を掛けた。

「今日子、変な電話なら、切っちゃいなさい。変な事に巻き込まれたらこわいのよ。」

石塚は思わず吹き出しそうになった。

「君んち、家族の聞えるところに電話があるんだね。じゃあ、事件の事で警察に呼ばれたってお母さんに説明して、こっちに来てくれるかな伊藤さんちにも連絡しておくよ。それから、山本さんも来れそうなら、お願いしたいんだ。じゃあ、後で。」


 特捜の研究所は警察署の別棟にあった。表側の警察署の喧騒がウソのように静かで落ちついたところだった。

「やあ、いらっしゃい。山本さんは、一緒じゃなかったの?」
松坂に言われて、ちょっと顔を赤らめて今日子ははにかんだように答えた。

「山本さん。お店が忙しくて今は手が離せないんです。お昼前には、パートの人に来てもらえるから遅れてくるって言ってました。」
「そう。じゃあ、丁度よかったかも。君と山本さんと佐々木の間には、何かあったんだね。その辺りを話してくれないかな。君の立場からの見方で良いんだ。」

松坂が穏やかに聞いた。今日子はちょっと面食らって、どうしたものかと考え込んだ。

「あの。それって、何か今度の事と関係あるんですか。」

今日子がちらっと疑わしそうな目つきで松坂を見て言ったので、松坂はおかしくなって笑ってしまった。

「ああ、失礼。君があんまり素直なんでつい。今朝君から貰った電話の内容からして、例のウイルスは佐々木から伊藤扶美さんに移ったと思われるんだ。そこで、伊藤さんの事も気になるんだけど、今手元にいる佐々木が元の人格を取り戻せるかどうか、調べていてるんだ。今までの事例からして、人がウイルスに侵されるのは、気持ちが不安定な時らしい事が分かってきてるんだ。それで、佐々木が不安定な気持ちになった原因を知りたいんだ。そこに、元の人格を取り戻すヒントがあるような気がしてならないんだ。」

松坂が熱弁していると、「あー。はらへったあー。」という呑気な声が聞こえてきた。松坂は振り向きもせず言った。

「石塚、朝からドーナツはないだろ。暇にしてるんだったら彼女と俺の分のコーヒー、入れてくれよ。ノンシュガーで。」
「ええ、どうしてドーナツだって分かったの?」

今日子は驚いて口にした。声にして言ったところで、やっと穏やかなドーナツの甘い香りが漂ってきた。松坂はにこっと笑って「一応僕も刑事なんでね。」と言った。

「なーにかっこつけてんだか。」

石塚は毒づきながら今日子と松坂にもコーヒーを入れて運んできた。今日子は2人のやり取りを見て、ふと山本と佐々木もこんな風な間柄だったのかな、と思っていた。そして、この2人なら、扶美や山本の親友を救ってくれるかもしれないと思えるようになった。
 石塚が入れたコーヒーを一口のむと、今日子は顔を上げて言った。

「お話しします。佐々木さんとの事。」

今日子はチャットで佐々木と知り会った事や、佐々木のモデルが山本の姿だった事、それに佐々木に強引にキスされて必死で言った言葉などを、一つ一つ思い出しながら語った。所々で、松坂が石塚に目配せしたり、石塚がメモを取って松坂と頷きあったりしていた。

「後の事は、山本さんでないと詳しく分からないと思います。」

話しを聞き終わって、松坂が言いにくそうに今日子に尋ねた。

「もし、佐々木にもう1度同じように怒鳴って欲しいって言ったら、できるかな。」

今日子はふと下を向いて考えたが、思いなおしたように顔を上げて頷いた。

「はい。私、松坂さんと石塚さんを見ていて少し分かったんです。山本さんと佐々木さんも、きっとこんな風に仲がよかったんだろうなって。女の子みたいにべたべたしないけど、悪い口聞きながら、何処かで相手のこと思いやってるって言うか。うまく言えないけど、なんだか羨ましい関係だなって思いました。だから、佐々木さんにも早く元の佐々木さんに戻って欲しい。そうすれば、芙美も元に戻りそうな気がするから。」

今日子の言葉に松坂も石塚も嬉しそうに頷いた。

 トントンとノックする音が聞えた。

「どうぞ。」

石塚が声をかけると、山本が入ってきた。

「失礼します。山本です。」
「あ、山本さん。」

今日子の顔が一段と明るくなった。


「大丈夫?今朝は随分落ちこんでたから心配したよ。」

山本が今日子に駆け寄って大切そうにいたわる様子を、松坂はなんとなくぼんやり見ていた。それを石塚が見て突付いてきた。

「早くああなりたいもんだな。」

石塚はニカニカと嬉しそうに松坂を見た。松坂は咳払いをして、声をかけた。

「すみません。何度も呼びたてまして。さっき小林今日子さんには話していたんですが、佐々木の中にいたウイルスが、どうやら伊藤芙美さんに移ったらしいんです。それで、佐々木が元の人格を取り戻す方法はないかと、今お話しを伺っていたところなんです。」

松坂は、石塚にコーヒーの追加を頼んだ。

「突然ですが、貴方と佐々木とのつながりを出来るだけ詳しく教えてください。」

山本は少し考えて話し始めた。

 「僕と佐々木は幼馴染なんです。小さい時から、アイツはなんでも要領よくこなす方で、小学校でも中学でも、スポーツも成績もアイツには勝てませんでした。でも、だからと言って僕達が争うようなことは何も無くて、すらっと背が高くてハンサムなアイツと、何を遣っても中途半端な僕は、傍から見たら変な組み合わせのように見えたでしょうが、とても気の合う友達でした。高校まで同じ学校に通ってました。
高校生の頃のアイツはもうモテモテで、その頃から少しずつ、アイツの忙しさで構ってもらえなくなった僕は、暇な時間に勉強するようになって、気がついたら薬学部に合格していました。アイツは違う大学に進学して、しばらく音信が途絶えた時期もありました。でも、年賀状や暑中見舞いは必ずやり取りしていましたし、年に1度や2度はお酒を酌み交わしていました。
社会人になって、アイツは気づいたら人気作家に成ってましたし、僕も念願の店を開くのに忙しくて、連絡を取れずにいたんです。
 それが、本当に偶然だとその時の僕は思ってたんですけど。僕の店に佐々木が遣ってきて、ああ、久しぶりだなあって事になったんです。
それで、僕の部屋のカギを渡して、もうすぐ店を閉めるから家で待っててくれよ。ってことになって。その時、アイツ僕のチャットモデルの原型をコピーしてこっそり持って返ったらしいんです。それで、僕の知らない間に僕の姿を使って、チャットルームに行って楽しんでたらしいです。その時....。」

山本はチラッと今日子の方を見て言った。

「その時、佐々木の話し相手になったのが、この小林さんだったんです。」

今日子もチラッと山本の方を見た。石塚はニヤニヤしながら松坂の様子を覗った。松坂は石塚の視線に気づいて、ぴくっと眉をあげて見せた。

「実は、小林さんに声をかけられた後に、佐々木と飲みに行ったんです。その時、アイツ言ってました。あんまりカッコよすぎるのも困るんだとか何とか。アイツが本気で向き合いたいのに、相手は、外見にこだわり過ぎて、すれ違いになってしまうって。昔、僕の知らないところでなんかあったみたいで。」

山本はチラッと今日子の方を心配そうに見て、躊躇していた。

「山本さん、私の事気にしないで、全部話して。佐々木さんを助けてあげたいんでしょ。」

今日子に促されて、山本は続けた。

 「中学の時、1度だけ佐々木が本気で好きになった人がいたそうです。その子は、田舎から引っ越してきたばかりの素朴な子で、佐々木はその素直でまっすぐなところに惹かれたみたいだったのに、その子に振られてしまったんです。
―貴方みたいにモテる人が私を好きになるはずがない。私には好きな人がいます。振られても嫌われてもずっとその人のことを守って行きたい。だから、貴方は貴方に見合った人を探してください-って確かそんな振られ方したって、言ってました。
ところがその後、その女の子が僕に告白してきて、僕はどうしていいか分からなくて、逃げ出してしまったんです。あいつには僕に負けたって言う印象が残ったようで.....」

 話しの途中で、今日子はバッと立ちあがった。

「今日子ちゃん?」

山本は焦ったように言ったが、今日子の耳には入らなかった。

「どうしよう。私、その人と、まったく同じ事言ったの、佐々木さんに。」
「え?」

松坂と石塚は思わず今日子を見た。

「私、あの頃今よりもっと太ってて、自分に自信がなかったの。佐々木さんが、無理やりキスしてきた時、太ってるから軽く見られたんだと思って、凄く悔しかった。
だから、今山本さんが言ってた女の子と同じ事を、佐々木さんに言ったの。」

今日子は言い終わると、すとんと椅子に座りなおした。山本はそれを呆然と見ていたが、話の続きを始めた。

「さっきの続きですけど。今日子ちゃん、気にしないでいてね。
その飲み会の帰り際、アイツに言われたんです。今気になる女の子がいるんだって。それが、小林さんの事だって事は、すぐにピンと来ました。だけど、僕も譲れなかったから。アイツ、僕がモデルを使われてるってどうして知ったのか聞かなかったし、僕もあえて今日子ちゃんと出会った事は言わなかったんです。それで、あんな事に。」
「なんだか、キーワードが見えてきた気がするなあ。」

石塚が松坂を覗きこむように言った。

「うん、1度、2人に来てもらって佐々木の反応を見ようか。」

石塚と松坂は、山本達を促して、佐々木のいる部屋に移動した。


 研究所の一番奥に、佐々木の収容されている部屋があった。ノックの音が響いても、返事は無かった。

「佐々木さん、入りますよ。」

松坂はそう言いながらドアを開けた。佐々木は、起き上がろうともせずに、ぼんやり天井を見つめていた。

「佐々木。分かるか、僕だよ。山本だよ。」

山本は佐々木のすぐ脇に駆け寄ると、佐々木の視線の先に顔を出して言った。佐々木は、ゆっくりと視線を外して、もう1度天井を見ようとしたが、うるさそうに眉をしかめて目を瞑ると眠ってしまった。

「佐々木さん。...」

今日子は佐々木の変わり様に少なからずショックを受けていた。

「やっぱり、ただ面会しただけではダメなんですね。少しずつ当時の状態を取り戻すようにして行きましょう。」

松坂は気を落としている山本と今日子を励ますように言った。

「さあて、お昼ご飯にしましょうか。午後からは、伊藤芙美さんが来る事になってます。今のうちに食事に行きましょう。」

石塚は、さっさと気持ちを切り替えているようだった。

 近くのレストランに足を運んだ4人は、それぞれ好きなものを注文して、人心地ついたところだった。

「これから、私達の方で分かった事は、出来るだけお二人にはお知らせしようと思っています。その代わり、申し訳ありませんが、こちらの捜査にもできるだけご協力頂きたいのです。特に、佐々木さんの人格を元に戻す事や、伊藤芙美さんの事に関しては、お2人の協力なしには成り立たないと思います。ご理解頂けますでしょうか。」

松坂が、事務的だがきちんとした口調で言った。

「分かりました。出来るだけ捜査に協力させていただきます。佐々木や芙美ちゃんは、僕らにとっても大切な友達です。なんとしてでも元に戻って欲しいですから。な。」

最後は今日子に向き直って山本は言った。



© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: