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ゴールデン テイル 2
その日はいつも一番にジェシーの部屋を訪ねてくれるセイラが風邪をこじらせてしまった。セイラから連絡を受けた監督が代役に選んだのはとぼけた美術監督だ。
「もうすぐそっちにリチャードが到着する予定だから、セイラはゆっくり休んでいてくれ」
ビリーの声を聞いて、セイラもほっとしていた。ジェシーはいつものように学校にいく用意をすると、セイラを部屋に残して学校に向かうことにした。
「大丈夫よ。リチャードもこちらに向かってるらしいし。それに、このままじゃ遅刻しちゃうよ」
しかし、どんなに歩いてもあのとぼけた美術監督には会えなかった。
リチャードのことだから、またどこかでカッコイイ看板を見つけて立ち止まっているのだろう。幼馴染のジェシーには、彼の行動が手に取るようにわかるのだった。
結局、校舎が見えるあたりまで来てもジェシーはリチャードに会えなかった。ジェシーの脳裏にミシェルの顔が浮かんだ。
「あのガイコツ、また悪巧みでもしてるんじゃないでしょうねぇ」
唇をかみしめ、ジェシーは信号待ちをしながら学校についてからのミシェルとの戦いに思いをめぐらした。後ろから、大勢の学生に混じってスティーブンが近づいていることにも気がつかないで。
「君を、愛していたのは本当なんだ。だけど、一度この耳に入ってしまった事実を、消し去ることはできない。君をあの家に迎え入れることはできないんだ。…」
傍目には、スティーブンは自分の書いたシナリオをただ静かに読んでいるだけだった。しかし背の高いスティーブンは、ジェシーに追いつくのにそんなに時間がかからなかった。
ビアンカの心をめちゃくちゃに切り裂いた恋人ウイリアムのセリフは、ジェシーの心にナイフを突き立てた。信号が青になって、学生たちがぞろぞろと道路を横断していく中、ジェシーだけが一歩も足を勧めることができなくなっていた。
信号が点滅を始め、幾人かが道路を渡ってしまおうと駆け出した。そんな人の波に押されて、ふらっと道路におどりでたジェシーに道路わきからやってきたバイクがつっこんできた。
どーんという鈍いながらも大きな音、ガシャーンっという金属が倒れる乾いた音、周りにいた学生たちのどよめき。
ジェシーは道路に横たわったままいろんな音を聞いていた。痛さは感じなかった。ただ、脱力感だけがそこにあった。
遠くでリチャードの声が聞こえている。やっと来たのね。まったく頼りにならないなぁっと、そんな気持ちを持ったままジェシーは意識を失った。
白い天井にアルコール臭の強い室内。ジェシーが意識を取り戻したのは、病院のベッドの上だった。事故で飛ばされた拍子にかばんがクッションの代わりとなって、奇跡的に大きな怪我は免れた。1週間ばかりの入院生活を強いられることになったが、奇跡的に舞台には間に合った。
ぼんやりと窓の外を眺めながら、事故当時のことを思い出そうと何度か試みたジェシーだったが、どうしても思い出せなかった。
学校が終わると、セイラやビリーが見舞いに訪れた。しかし講義のある午前中は来る人もなく、ジェシーを不安という名の迷宮へと引きずり込んだ。
『ジェシー、しっかりするのだ。お前は舞台に立つために今まで練習を重ねてきたのだろう。こんなことで自分を見失ってどうするのだ。』
懸命に警鐘を鳴らしたが、女優は力なく微笑むだけだった。簡単に行き場を失った自分、台本を読むだけで乗っ取られてしまう心。頼りない後姿にそっとケットをかけても、テイルの表情は沈んでいた。
1週間は瞬く間に過ぎた。会計を済ませ病院の建物を出た女優は、タクシーに差し出した手がほんの少し震えていることなど気付かない振りで早々に乗り込んだ。不安、焦燥、絶望、後悔、どす黒い想いがうずまいているこの場所を、一刻も早く抜け出したかったのだ。
ビリーやセイラには知らせずに出てきた。自宅に帰ると荷物を整理してシャワーを浴び、すぐさま練習に復帰する。
大丈夫。自分できちんと判断できている。声の張りも以前と変わらない。その事実がジェシーや周りの部員たちを安心させた。明るく振舞うジェシー、その姿を苦々しい目でみつめていたのはガイコツといわれた女優だけだった。
部活が終わって外に出ると、空は群青と紫のグラデーションを描いていた。温かくなってきたとはいえ、まだまだ肌寒い夜風がジェシーに不安な気持ちを呼び起こそうとする。
「退院できたんだな、ジェシー。おめでとう。気をつけて帰るんだぞ」
ほんの一瞬立ち止まっていたジェシーに、ジェフが暖かな笑顔をなげかけた。
「ありがとう。じゃあ、またね」
きちんと応対できることにほっとしている自分がいる。ジェシーはそんな自分に戸惑っていた。
「ジェシー!もういいのか?」
振り向くと監督が部室に鍵をかけていた。
「うん、もう、大丈夫よ。ごめんね、心配かけて」
「いいさ。ちゃんと公演にも間に合ったしね。そうだ、退院祝いにとっておきのところに連れて行ってあげるよ」
「しょうがない。つきあってやるか」
二人は楽しげに笑った。
ビリーが案内したのは、学校の裏通りを少し行ったところにある小さなレストランだった。
「こんなところにレストランがあるなんて、知らなかったわ」
「だろ? ここは部の先輩がやってる店なんだ。味もなかなかいけるんだよ」
「へぇ。。。ビリーはいつもここで晩御飯を食べるの?」
監督は学校近くのアパートで一人暮らしをしていた。ハイスクールの頃は、近くに家族と暮らしていたのだが、父親の転勤で家族が引っ越したとき、彼だけそのアパートに残ったのだ。
ビリーは屈託無く笑った。
「僕はそんな金持ちじゃないよ。半分は自炊してるし、ホットドックだけでしのぐ日もある。ここに来るのは特別なときだけさ」
彼に続いてビルの裏手にある階段を上がっていく。小さいながらもシックな店内には、静かにジャズが流れていた。
「よ。監督さん! 久しぶりだね。」
口ひげを蓄えたマッチョな店長が二人を穏かに迎えてくれた。
「今日は彼女も一緒なのかい。いいねぇ。若いってことは」
いかつい風貌に似合わず、軽いノリでビリーを冷やかす。とたんに監督の頬が真っ赤に茹で上がった。楽しげに笑う店長は、なめらかな動きで二人をテーブル席に案内し、メニューを手渡した。
メニューを開きながらそっと向かいに座るゆでダコの様子を見ると、いつもの名監督の貫禄がすっかりなくなって、しどろもどろの少年がそこに座っていた。
ジェシーはなんだかとっても楽しくなって、クスッとメニューの影で笑ってしまった。
「ちぇっ。笑うなよ。焦るだろ」
「ごめん。だけど、なんだか久しぶりに心から笑った気がするよ。ありがと、ビリー」
「ば、ばか。僕は監督なんだよ。主演女優の精神安定を図るのは当たり前だよ」
そんな二人のテーブルに、うっとりするような薔薇の香りが近づいてきた。
「あら。監督さんと主演女優さんのカップルなの? いらっしゃい。」
「あ。。 エリザベスさん!」
「ふふ。べスでいいわよ。それより、公演はいつ?」
「6日後です。もしよかったら、見に来て下さい」
「あ~、残念だわ。明後日からNYに行く事になってるの。帰ってくるのは来月よ。だけど、しっかりがんばってね。じゃあ、ごゆっくり」
エリザベスの視線がジェシーを優しく包む。ジェシーはその瞳の奥に宿る自信に満ちた強い輝きにたじろいだ。
エリザベスはそんなジェシーを楽しげに一瞥すると、厨房の中に消えていった。
「きれいな人ね。」
「うん。実は、今日ここに君を連れてきたのは、あの人に会わせてみたかったからなんだ。彼女は僕らの演劇部の先輩で、当時はクレイジーべスって言われていた人なんだ。」
「クレイジーべス?」
ジェシーは妖艶なエリザベスとクレイジーに大きなギャップを感じていた。
「ああ、今からはそんな風には見えないんだけど、当時の彼女はそれこそ狂気に満ちた役者だったんだ。とことん役にのめりこんじゃって、手がつけられない。そんなところからクレイジーと呼ばれるようになったんだろうな。」
厨房の入り口から、ほんの少し彼女の姿が見えていた。手際よく働く彼女からはそんな狂気の余韻など、感じるすべもなかった。
ジェシーがなにか言いかけたとき、店長が注文を取りにきた。
「君がジェシーちゃんだね。いやぁ、監督の言ったとおりだ。なかなか魅力的な瞳をしているね。しかし監督には気をつけろよ。どうも私情が優先されるようだからね。ふふ」
「店長!注文だよ。ディナーコースのAを二つ!!」
店長の言葉を遮って、ビリーは大声で叫んだ。店内が一瞬しんっと静まる。そのことに再び焦りを覚えたビリーに店長が追い討ちをかけた。
「おい、払えるのか?」
「え? あ、あの。。。」
ビリーは水から飛び出した金魚のように口をパクパクさせている。
「ね。私、今日はピザが食べたい気分なんだけど、ダメかな?」
「え?ピザでいいの?」
緊張でガチガチになっていたビリーは、ふうっと胸をなでおろし、乾ききった口元を水で潤した。
「気の利く彼女だね。ビリー。ディナーAは、プロポーズの日までお預けだぜ」
店長は楽しげにそういうと、ほっとしていたビリーをむせさせて再び大笑いした。
「私も…。私もやっぱりクレイジーなのかな。。。」
店長が席を離れると、ジェシーの本音がぽろりと零れ落ちた。
やばいな。どうしてこんなこと呟いてるんだろう。誰にも見つけてもらえない本当の自分を、ビリーが見つけてくれるとは思えないのに。
鼻の頭がつーんとなった。監督は真面目な顔でじっとジェシーを見据え、そして言った。
「クレイジーなんかじゃないよって言ったら、ジェシーは余計不安になるだろう?確かにクレイジーだと感じている連中もいる。だけど、君がもう少し自分自身をしっかりと認めてあげれば、それは解消されるんじゃないかと僕は思っている。」
ビリーはそういい終わると、ちらっとジェシーの肩の辺りを見上げた。そこには、栗色の巻き毛を揺らして、腕を組みしっかりの頷く精霊の姿があった。どういうわけでそこにいるのかは分からないが、ビリーには精霊がそこにいることがとても自然なことのように思えた。
「ビリー…。優しいのね。もっと冷たいヤツかと思ってた。」
「なんだよ。こんなに優しい監督は他にはいないぞ」
「だって、毎日やってくるたくさんのファンの子たちには、いつだってでたらめで適当なことを言ってるじゃない」
「いいんだよ。彼女達にとって、僕は手の届かない存在でちょうどいいのさ。」
チーズの焼ける香ばしい匂いが漂ってきた。
「おまちどう! ドリンクはサービスしといてやるよ、監督!!」
「あはは。ありがとう、店長」
店長は相変わらずの笑顔で他の客のテーブルに向かった。窓の向こうにはきれいな夜景が広がっている。テーブルにはきれいなろうそくが炎を揺らし、穏かなジャズが腹の底から突き上げるようなメロディーを奏でる。
目の前には嬉しそうにピザを眺めるジェシー。彼女の瞳にもろうそくの炎が宿ってキラキラと輝いている。ビリーは意を決してジェシーに声をかけた。
「ジェ、シ。。。」
「ねえ、これって何の模様?」
「えっ?」
「ほら、このチーズ。これって何かの模様みたい。。。」
完全に出鼻をくじかれた監督は、指差されたピザを見た。向きが違うせいかよくわからない。ジェシーの横に回って頬を寄せ合って眺めた。
「はにわ? 土偶、かなぁ。。」
「土偶?」
怪訝な顔でビリーを振り返ったとき、すぐ目の前に唇が迫っていた。
「ん!…」
「ご、ごめん!!そういうつもりじゃなかったんだ。。いや、そうじゃなくて、その…」
耳が痛くなるほど、心臓が音を立てる。やわらかな彼の唇の感触が、熱を帯びて残っている。鏡を見なくても、さっきのゆで蛸監督以上に真っ赤になっているのは明らかだ。胸が苦しい。。。
体中の力がぬけていくような感覚で、ジェシーは席に座り込んだ。他の客達は二人の変化に気づく様子も無く、静かなジャズだけが店内に流れているだけだった。
気がつくと、心配そうな瞳でビリーが顔を覗き込んでいた。
その日のピザがどんな味だったのか、二人は思い出せない。ただ黙々と食べ、何かから逃れるように店を出てしまった。
夜風に当たりながら、監督は女優を連れてゆっくりと歩き出す。
「今日は、ありがとう」
「いや。こっちこそ。」
それきり二人は押し黙ってしまう。なんとなく気まずい雰囲気が漂い、ジェシーは切なさに負けそうになる。
「僕さ。始めてジェシーとであったときから、君には才能があるって気がしていたんだ。だからあの時も、半ば強引に演劇の世界に引き込んでしまった。こんなに役に飲まれて苦しむとは思いも寄らなくて。。」
しばらく経って、監督は申し訳なさそうにそこまで言うと、どう続けようか言葉を捜すように夜空を見上げた。
ジェシーは、静かに続きを待っている。
「でも、きっと何か打開策があると思うんだ。自分の気持ちをしっかり持つようになれば。。例えば…」
「例えば?」
監督は何か言いよどんでいる様子だった。この状況を打開できるのなら、どんな事でも試してみたいと女優は本当に思っていた。
「例えば、誰かを本気で好きになるとか。。」
まっすぐに前を見つめて言う監督の横顔を、ジェシーはちらっと見上げた。かすかに赤くなった頬から、穏かな愛情がにじんでいる。すると、胸の辺りがまたきゅーっと苦しくなってくる。
これは、なんだろう。そっとつま先あたりを見つめながら、自分に問いかけてみた。
『それは、恋だ。恋というやつは人の心を惑わし、苦しめ、大きな代償を強いる。しかし、お前が女優という道を目指すなら、一度ぐらいは経験しておかないと話しにならんだろうな』
いつの間にかテイルが、監督の死角に入りながら戸惑う女優の耳元でつぶやいた。
『恋…』
心の中でつぶやいてみる。聞きなれた言葉だ。しかし、自分の口からそれが出るのは劇中のことか、役に溺れてその気になっている時だけ。実際に本当に人に恋をしたことがあるかと聞かれれば、答えはノーだった。
『よく考えてみるんだな。もっとも、恋の相手は自分が頭で考えて選ぶものではないがね。邪魔者は退散するとしよう』
テイルはあっさりとロケットに帰ってしまった。後に残されたジェシーは、ぼんやりと考えていた。
「ジェシー。。 気に障ったかな?」
「えっ?…ううん。そんなことないの。ただ、今まで私、恋ってしたことないなぁって思って」
「ふっ…ジェフが聞いたら泣くよ」
ビリーは苦笑いを浮かべていた。
「ねえ。ビリーは恋したことあるの? あんなにモテモテだけど、本当にステディな人っていたかしら」
「どんなにモテモテといわれても、自分の好きな人に振り向いてもらえなくちゃ、意味がないと思うんだ。だから、恋なんてしていなかったよ。ついこの前まではね。」
「ついこの前までは?」
監督はちらっとジェシーの方を伺いながら、うんと言ったきり黙りこんでしまった。
「私、恋がどういうものなのか何も分からない。ただ好きっていうのとは、なんだか違う気がするのよ。
小さい頃セイラと親友になって、すごく大好きなセイラをいつも守ってあげたいと思うようになってた。だからいつのまにか男勝りな素振りをしたりして、それが自分の使命のようなそんな気がしていたの。」
ジェシーはビリーに向けていた視線をそっと夜空に移して言う。
「だけどこの前、私が落ち込んでいるときにセイラに言われたの。もうじゃじゃ馬を演じなくてもいいのよって。それで始めて、私、自分に演技を強いていたんだって気付いたの。おかしいでしょ?自分のことなのに何も分かってなかったなんて。だから何もかも今から手探りで探さなくちゃ。」
ちょっと寂しげな表情で監督に向き直ると、力なく笑って見せた。そんな姿を穏かに見つめながらビリーは納得したように言った。
「そうか。それで、だったのか。少し前からジェシーはすごくきれいになったんだ。それがどうしてなのか、ずっと気になっていた。君に、その…好きな人でも出来たのかと、一人で焦っていた。」
ビリーは、ふっと肩の力がぬけたように笑った。
「ジェシー、僕はやっぱり君が好きだよ。そのままの君が大好きだ。他の男と話しているのをみると、ものすごくいらだつんだ。これはもう恋だよね」
恋! ビリーが自分に? 頭の中が真っ白になる。彼の顔を見上げる暇もなく、ふいに腕をひっぱられ、気がつくと腕の中にいた。意外に厚い胸板に、また心臓の音がうるさくなってきた。
「君はどうなの? こんな風にされるのは、イヤ?」
なにか言わなくちゃと思って顔をあげると、ビリーの唇が迫ってきた。あっという間に体が熱くなってくる。甘美なキスって、こういうことなんだ。そんなことを思いながらも、体から力がぬけていくのを、ジェシーはどうすることもできなかった。
しばらくしてそっと体を離すと、ビリーは潤んだ瞳でジェシーを見つめた。
「このまま、どこかに連れ去ってしまいたいけど、一応僕は監督だから、今日のところは送っていくよ。舞台まであんまり日がないしね。」
「うん。わかったわ…」
そのまま二人は夜道を歩いた。時々夜風がすれ違って、火照った体を冷ましてくれる。それでもジェシーは、心の中がビリーでいっぱいになっているのを感じていた。
黙ったまま歩いていても、手はしっかりとつながれている。そんなことがうれしかった。
ジェシーの家の前までくると、ビリーはそっと彼女の額に口付けて帰って行った。その後姿が見えなくなるまで見送っているジェシーに、ロケットの住人が姿も見せずにつぶやいた。
『今の状態で台本を読んでみるといい。そのままのめりこまないでいられたら、それはお前が一歩前進したことを意味するわけだ。』
「な、なによ。ちゃんと姿を見せればいいじゃない。」
『ばか者!そんなデレデレした姿など見せられてたまるか!』
ジェシーはクスッと笑うと、上着の袖口でそっとロケットを磨いた。そして、すぐさま自分の部屋に飛び込んで台本を開いてみた。
読み進んでいくうちに、ジェシーはビアンカに感情移入していく。ビアンカの後悔の念が、ジェシーの心に重くのしかかってくる。苦しい。悲しい。
「姉さん! ご飯だよぉ」
階下でジョージが声を掛けてきた。
「はーい!」
とたんにビアンカの苦しみは消え去り、ジェシーはいつもの自分に戻っていた。
「やった、やったわ!!私、ビアンカに負けずにいるんだわ」
『ジェシー、うまく行ったようだな。この平常心をわすれるんじゃないぞ。ふふふ。コレからが楽しみになってきたな。』
ロケットから飛び出したアイオライターは、頬を紅潮させて喜んでいた。そんな姿にちょっとくすぐったいような気持ちで、微笑を返す。テイルはふっと後ろを向いて早く行けと合図した。するとジェシーは蝶のように軽やかに階段を降りていった。
「アイオライターという立場もまんざらではないな」
テイルはそっと窓辺によって、星空を見上げながらつぶやいた。
何百年と言う年月を、彼はアイオライターとして過ごしてきた。それは人間の醜さ、愚かさを知る、歴史にほかならなかった。どんなにすばらしい宝物として扱われても、最後には自分の欲望に勝てない人間の限界のようなものを、テイルは自分の目で見続けてきたのだ。
そんなテイルがここに来て、今まで見たこともないタイプの人間にであった。普段から自分の欲望をあっさりと認め、自分の愚かさを認知しているジェシーは、そういう存在だった。
人間と会話して、楽しいと思ったのもジェシーが最初だった。ジェシーの裏表のない素直な生き方を見ていると、ほっと心の中が暖かくなる。
しかしテイルは、そんな自分にはっとして首を横に振った。
『私としたことが、精霊なんぞに成り下がっていることに喜びを覚えるなど何事だ。早くアイツを一人前に育て上げて、自由な魔法使いに戻らなければ! 世の中は年々秩序を失っている。魔法界も人間も。』
険しい表情は誰にも見せないテイルだったが、ガラスに映ったアイオライターの顔には、暗い影が差していた。
一方、階下でジェシーと食事を共にするジョージは、恐ろしい体験をしていた。にやにやと緩んだ顔、時々、意味もなくため息をつく生き物。ふふっと思い出し笑いをしているかと思えば、暗くなった外を眺めては食事の手を止めるソレは、15年間いっしょに暮らしてきたジョージにとって、もはや姉ではなく、異星人にも匹敵する存在だった。
「ね、ねぇ。どうかしたの?」
「え?ん、ちょっとね。うふふ」
心ここにあらず。ジョージは心の中でつぶやいていた。まだビアンカをやる公演が終わっていないのに、違うものに憑依するはずがない。。。ジョージは早々に食事を切り上げ、自分の部屋に戻ると、すぐさまビリーに電話を入れた。
「あの。僕、ジェシーの弟のジョージです。」
ジョージはさっき自分がみた異様な光景を事細かに説明した。きっとこの監督なら冷静な判断をして自分を安心させてくれるはずだ。ジョージは藁にもすがりたい気持ちで監督の返事を待った。
しかし、ジョージはその直後に再び恐怖に打ちひしがれる事になった。
「ええっ。。。ジェシーがそんなに? そうか。わかったよ。はぁ、僕はなんて幸せなんだ。こんなに離れていても、彼女の息遣いが感じられるなんて。。。」
「ビリー? 何の話? 」
ジョージは混乱していた。
「ジョージ。いいんだよ。それでいい。はぁ。僕のこの熱いため息を彼女に伝えてくれよ」
「・・・・・」
ジョージはあまりの気味悪さにすぐさま電話を切ってしまった。
「なんだよ。何が起こってるんだ? 気持ち悪いよぉ!」
ジョージの叫びは夜の町に響き渡っていった。
「今日は、本番のつもりでしっかりとそれぞれの仕事に集中するように」
監督の号令の下、部員達の表情が引きしまる。明日はいよいよ本番となった。それぞれが持ち場について、最後のリハーサルが始まった。
ジェシーが豹変するという噂に怯えて、部活以外では極力ビアンカを避けていた相手役のキースも、舞台の袖でジェシーと肩を並べていた。
「あのさ。変な事聞いて悪いんだけど、その、大丈夫なの?」
「何が?」
「いや、君が役にのめりこむってことは有名な話だけど、俺に逆恨みされても困るからさぁ」
女優はふっと失笑した。
「そうね、一時期はみんな気味悪がっていたみたいね。でも、もう大丈夫よ。」
彼女の瞳は、恋に破れた哀れな女兵士ではなく、今までの活動に自信をつけた女優の瞳そのものだった。
「あれ? その目、何処かで見たことが…」
キースが言いかけたとき、公演の開始ブザーが鳴り響いた。
「さあ! 行きましょう!」
女優の表情は、一気に恋することの喜びに満ち溢れたビアンカに変っていた。
「参ったな。姉さんそっくりだ。」
キースはそんなことをつぶやいて、ビアンカに続いて舞台へと踏み出していった。
劇はスムーズに進み、最後の幕が終わろうとしていた。ビアンカは恋に破れ、大量の薬を飲んで倒れてしまう。そして暗転。エンディングの曲が静かに流れ、会場全体から大きな拍手が沸き起こった。
「すごいわぁ。私、感動しちゃったぁ」
裏方のマージーは、震えた声で監督に賛美を送った。キースは倒れたままのジェシーに手を差し伸べて引き起こすと、そのまましっかりと握手した。
「さすがだね。俺は巷の噂より自分の目を信じるヤツなんだ。ジェシーは最高の女優だぜ」
「ありがとう! 明日はこの調子でがんばりましょう」
和やかな雰囲気が会場を包み込んでいた。そんな会場をそっと抜け出した人物がいたことなど、その彼らは気付く事もなかった。たとえそれが、今まで人一倍目立ちたがっていた人物だったとしても。
それぞれが緊張と期待を胸に、家路についていた。部室を出るまでは平常心を保っていたビリーは、同じく部室を出たジェシーの姿を見たとたん、彼女をさらうようにしてどこかに姿をくらました。
「セシル! 早く帰ろう!」
マージーが声を掛けたとき、セシルはとまどったような表情を浮かべた。
「先輩、小道具が1つみつからないんです。」
「小道具?何がみつからないの?」
「最後のシーンで使う、薬びんが見つからなくて。。。」
セシルが舞台を探しても、備品1つ落ちていなかったという。
「もし、見つからなかったら、うちの薬びんでも持って来てあげるわ」
慰めるようにマージーが言いかけたとき、机の下に落ちていた薬びんをみつけた。
「あら、こんなところに落ちていたわ」
「あ、ホント!先輩、ありがとうございます!」
二人はほっとした様子で部室の鍵をかけ、明日の公演のことなど話しながら楽しげに帰って行った。
翌朝、ジェシーはすがすがしい気分で準備を進めていた。ドレッサーの前で髪をとかしていると、ロケットからテイルが現れた。
『いよいよ、だな。』
「そうね。」
『ジェシー、君も随分落ち着いてきたものだな。』
言葉少なではあるが、テイルの視線は感慨深い色を宿している。
「さて、がんばってくるわ!テイル、しっかり観ててね」
『わかったよ。…ジェシー。』
「何?」
『いや、なんでもないよ。ただ、初めて名前を呼んでくれたなと思ってね。』
テイルは、いつになくそんなことを言うと、さっさとロケットの中に帰って行った。
学校に到着すると、すでに部員達は忙しそうに働いていた。ジェシーもすぐさま衣装に着替え、メイクに集中していく。
舞台の裾からそっと客席を覗くと、今まで以上にたくさんの客が入っていた。
「ひゅ~! こんなにお客がくるのは久しぶりだな。今までの公演の成功が客を呼んでるんだろうな。」
ジェシーの隣にいたキースが軽い口調で驚いている。
「そうだ! 俺、昨日君の事をみていて誰かに似てるなあって思ってたんだけどさ。やっとわかったよ。俺の姉貴だったんだ。その目。そっくりだよ。」
「へぇ。お姉さんは何している人?」
「女優だよ。今はブロードウェイの舞台に出てる。」
「え?それって、もしかして。。。」
ジェシーが言いかけたとき、セシルから合図が送られた。いよいよ舞台が始まったのだ。
キースは普段目立たないが、実際に同じ舞台に上ると他を圧倒する存在感を持っていた。それに負けじとジェシーのビアンカも大きく羽根を広げる。
舞台はすばらしい盛り上がりを見せ、全ての観客が食い入るようにその世界に溺れていった。
「君を、愛していたのは本当なんだ。だけど、一度この耳に入ってしまった事実を、消し去ることはできない。君をあの家に迎え入れることはできないんだ!」
いつかスティーブンが棒読みしたあのセリフも、キースの口から出ると氷の剣のように冷酷で残忍な凶器に変った。
ショックに打ちひしがれるビアンカは、テイルすら心配するほど鬼気迫るものがあった。一人路頭に迷ったビアンカが小さなバッグから取り出した薬の小瓶。じっと見つめたあと、ビアンカはその小瓶の中身を一気に飲み干し、そのままハラハラと花びらが散るように倒れていった。
エンディングの悲しげな曲が流れ、静かに幕は下ろされた。観客は総立ちになって、迫真の演技をたたえた。幕の後ろでは、皆がぞろぞろと並び、カーテンコールに答えようと準備をしていた。
「ジェシー、お疲れ!最高の演技だったぜ!」
キースが倒れた姿勢のまま動かないジェシーに軽くひじ打ちをした。しかし彼女は動く様子もない。
「ジェシー?」
キースがジェシーに手を伸ばそうとしたとき、突然ビリーが飛び込んでキースを蹴散らすようにジェシーにしがみついた。
「ジェシー! ジェシー!! どうしたんだ!! 誰か!救急車を!」
辺りは一気に騒然となった。
「ダメだ!みんな落ち着いて! カーテンコールにはちゃんと答えるんだ! リチャード!後のことは、頼む。」
ビリーは部員を一喝すると、ジェシーを抱えて舞台の裾に下りた。セシルが救急隊を連れて控え室に来たところだった。ジェシーはすぐさま救急車に乗せられ、ビリーが付き添うことになった。
救急車の揺れは激しくビリーの動揺を誘った。
「・・・ですか?」
「えっ…?」
「しっかりしてください!この女性はどういう状態で倒れたのですか?」
ビリーは公演の内容などを話し、救急隊員の判断を待った。しかし、その返事をもらうまえに、救急車は病院に到着し、ジェシーはすぐさま手術室に担ぎ込まれてしまう。
誰もいない病院の廊下に、オレンジ色の日差しが静かに差し込んでいた。赤いランプの灯ったドアの前に座り込んで、ビリーは頭を抱え込んだ。
手術室では、懸命な救命活動が行われていた。テイルはそんなあわただしい中を縫って、何度も何度もジェシーの名前を呼び続ける。
『頼む、一言でいいんだ! 生きたいと、そう言ってくれ!ジェシー!!』
テイルはなりふり構わず叫んだ。長い年月を魔術師として過ごしてきた彼だったが、こんなに相手のことを想った事はなかった。
『ジェシー!頼む、目を覚ませ! こんなまま諦めていいのか! 女優になる夢はどうなる? あんなに一生懸命だったじゃないか?』
しかし、どんなに叫んでもジェシーからの返事はなかった。こん睡状態に陥ったままの彼女は集中治療室に移されることになった。手術室の外では、後から駆けつけたジェシーの両親とジョージが祈るような姿でじっとジェシーの姿を待っていた。
そのまま集中治療室まで付き添う家族を見送ると、ビリーは膝を折って床に座り込み、いつの間にかのぼっていた月に向かってひたすら祈った
気が付くとビリーの後ろには呆然と月を見つめるテイルの姿があった。テイルにとって、ビリーは関係のない人物ではあるが、ここ何ヶ月、ともに女優の成長を願い、見守り続けた同志のような気持ちが芽生えていた。
ビリーは月を見つめながらつぶやいた。
「貴方は、いつもジェシーの近くにいるんですね。僕は貴方が羨ましかった。いつもいつも彼女のそばにいて、彼女もその存在を受け入れていて。。。」
『羨ましいのは私の方だよ。君達は同じ時代に同じ人間として出会い、恋をして、共通の時間を楽しめるのだからね。私はただの魔術師。どんなにジェシーを大切に思っていても、それは幻に過ぎないのだからね。』
テイルは自嘲するように窓の外の暗闇に視線を落として答える。
「じゃあ」
ビリーはテイルに向き直り、つかみかからんばかりの勢いで懇願した。
「貴方が魔術師だというなら、彼女を、ジェシーの命を救ってください!彼女には夢がある。それは貴方もよく知っているでしょう?」
『それは無理だ。私のような魔術師には、決められた掟があるのだ。本人が直接願いを乞わない限り、それをかなえる事は許されないのだよ』
「そんな掟、関係ないだろう!このままジェシーを失ってしまってもいいのか!?大切に思っているなら、どんな犠牲だって払えるんじゃないのか?何が必要なんだ!人の命か?それならこの僕の命をくれてやる!だから!だから、…彼女だけは助けてくれよ…」
テイルの足元に泣き崩れる哀れな監督の姿を見ながら、テイルもまた涙していた。
遠くから、足音が近づいてくる、バタバタと場違いに走っているのがわかる。ビリーが振り返ると、廊下の角をジョージが曲がってくるところだった。
「ビリーさん!姉さんが、もう危ないみたいなんだ。そばに来てやってよ」
ビリーは体中の毛が逆立ったのを感じた。「わかった」っと小さく言うと、テイルに向かって低い声で懇願した。
「僕の身にどんなことが起こっても構わない。だから、ジェシーのことを助けてほしい。頼むよ。」
二人が走り去るのを見送りながら、テイルの頭の中を、まっすぐで飾らないジェシーとの日々が駆け抜けていった。
『まったく、アイツというヤツは!あと少しでアイオライター役目も終われるはずだったのに…」
テイルはそうつぶやくと、栗色の巻き毛をふわっと舞い上がらせて呪文を唱えた。
テイルの頭の中で、自由な魔術師だったころの自分の姿が浮かんでは消えた。今自分がやっていることは、掟破り。この行為をあの方が見逃すはずはない。アイオライターとしての地位を奪われたら、自分はどこに行ってしまうのだろう。ここから先は、テイルには想像すらできないことだ。
テイルの手のひらにできた光の玉が、ジェシーの病室へと飛び込んでいく。ほどなく、ジョージのものであろう叫び声が聞こえた。
「母さん!見てよ!生きてる!ジェシーは生きてる!」
一斉にざわめく家族とビリーの声。テイルは病院の上空からそっと眺めていた。
『ジェシー、間に合ってよかった。これからは、私がいなくてもビリーが傍にいる。夢を諦めるなよ』
名残惜しげにつぶやくと、そっと病院から離れ、空高く舞い上がり、隣接された森林公園の上までやってきた。手ごろな木の枝に座って、体を休める。ロケットに帰らないのは、あの方に罰をうける惨めな姿をジェシーに見せたくなかったからか。
テイルは自分の姑息さが悲しかった。公園の中は生き物の気配もなく、降り注ぐ銀色の月光が、まるで違う世界にきたような錯覚を覚えさせる。
木の幹に体を預け、テイルはふうっと大きなため息をついた。紅茶を飲みたい気分だったが、ここには気の利いた紅茶も優雅なソファもない。
『疲れた』
ぽつりとつぶやくと、テイルはそのまま瞳を閉じた。いつも美しく輝いていた栗色の巻き毛は、夜露を含んで体にまつわりついている。洋服には枯れ葉が張り付いたままだ。
しかし、閉じたまぶたの裏では、スポットライトを浴びてカーテンコールに答えるジェシーの姿がある。それでいい。私がいなくても、ジェシーならきっと、自分の夢をかなえるだろう。私などいなくても、ジェシー…
次にテイルが目を開けたとき、あたりは日の光にキラキラと輝いていた。
『いつのまに?』
テイルは驚いて傾いていた体を起こしてあたりを見回した。しかしさっきとは明らかに様子が違う。
『私はどうなってしまったんだ?』
日の光りだと思われたのは、テイル自身が黄金に輝いていたからだったのだ。そしてどこからともなく香る優美な薔薇の香りに振り向くと、そこには透き通るような美しい女神が微笑んでいた。
『テイル、今回のことはよく決断できましたね。これで貴方に足りなかったものがわかったはずです。』
『私に足りなかったもの?』
何のことだと言いかけて、テイルははっとした。
『そう。貴方にたりなかったのは、愛情です。貴方はそれを学ぶために、アイオライターになることを命じられたのです。貴方はそれをきちんと学びとりましたね。その心に開いた大きな穴が全てを物語っていますよ。』
静かに微笑む女神と目をあわせることが出来ず、テイルは下を向いてしまった。
『でも、貴方はまだ彼女を育て上げている道の途中です。このまま逃げ出すことは許しません。最後まで見守ってあげなさい。そして、彼女がもう貴方を必要としなくなった時、その時こそ、貴方は元の自由な魔術師に戻れるのです。その髪は、最終段階に来た証。さあ、早く戻って彼女の傍にいてあげなさい。彼女にはまだまだ貴方の存在が必要ですよ』
テイルは優雅に頭を下げると、すぐさま病院に向かった。上空を泳ぐように移動するテイルの髪は、まばゆいばかりに輝いている。腰の辺りまで伸びた巻き毛はその輝きから、まるで流星のようだった。
病院にもどったテイルは、病室の外からそっと中の様子を伺った。ジェシーはまだ意識を取り戻してはいなかったが、状態が安定したことで家族がほっとしているのが見て取れる。
「さっきはありがとう。君の力だろ?」
いつのまにかビリーがテイルのすぐそばに来ていた。
「僕の命はとらなくていいのかい?」
ビリーの悪気のない言葉に、テイルはちょっと寂しげな顔をした。
『私には人の命をもらう趣味はないよ。それに、今回のことで私にもいい意味でのサプライズがあったんだ。』
「もしかして、昇格したとか?」
『ふふ。ま、そんなところだ。髪の色が変ったのは、その印なんだそうだ。』
「似合ってるよ。早くジェシーに見せてやりたい」
『そうだな』
二人は静かにジェシーのいる病室のドアを見つめていた。
それから七日がたった午後、ジェシーはやっと目を覚ました。
「あ、ジェシー! 気がついた?」
「ビリー…ああ、頭が重い。」
ジェシーはすぐさま起き上がろうとして、ふらっと頭を抱えた。
「まだ無理しない方がいい。七日間も意識が戻らなかったんだから」
「七日も? 私、どうなってたの?」
ビリーは公演のあった日の出来事をゆっくりと話して聞かせた。そして、その後に起こった犯人の逮捕劇についても。
「私、いつだってミシェルとはケンカばかりだったけど、どこかで彼女の演技力には一目置いていたんだけどな。」
「人として、あまりにも未熟だったんだよ。」
冷静な言葉を聞いても、後味の悪いむなしさが残った。
「君のお母さんに連絡を入れてくるよ。昨日までずっとそばについてたんだけど、もう休みが取れないって、今日から仕事に行かれたんだ。」
ビリーを見送って、そのまま真っ白な部屋の中を見回す。遠くで何かのブザーが鳴っている。見舞い客らしい人々の声、コツコツと響く誰かの足音、入院してるんだ。ジェシーはぼんやりと窓辺に目をやった。
窓が開けられて、レースのカーテンを軽やかに揺らしている。さわさわと風の音がしたとき、舞台で拍手を浴びている感覚がフラッシュバックしてきた。
あれは、いつの事だったんだろう。もうずっと昔のことのようでもあるし、昨日のことのようでもある。
体を動かしたとき、腕にちくりと痛みを感じた。そっと腕を上げてみると、点滴の注射が刺さっている。よく見ると、腕のあちらこちらにあざが出来ている。
「そっか。七日間も眠ってたのか。」
ふと、気配を感じて横を見ると、金髪の巻き毛をなびかせた人物が、窓の外を眺めていた。
『気がついたのか。よかったな』
「その声は、テイル?」
半信半疑なまま答えると、ゆっくりとジェシーに向き直ってテイルは頷いた。
「やだぁー!似合ってない」
『似合ってないだと?!失礼な!これはだな…』
その時、病室のドアが開いて、セイラが入ってきた。憤懣やるかたないテイルだったが、すぐさまロケットに治まった。
「ジェシー! 具合はどう? さっき受付でビリーに会ったわ。お母さんもすぐにこちらに向かうって」
「セイラ。心配かけてごめんね。」
セイラは首を横に振るだけで、言葉がでなかった。ジェシーの手をとってしっかりとその温かみを感じ取って、大粒の涙を溢れさせた。
「ああ、そうだわ。まさか今日意識が戻るとは思ってなかったんだろうけど、この前共演していたキースから手紙を預かっているの。なんでもお姉さんからの伝言なんだそうよ」
ジェシーは手渡された手紙を静かに読み始めた。まだすっきりしないうつろな瞳は、読み進むうちに一気に輝きを取り戻す。
ドアがノックされて、ビリーが缶コーヒーを手に戻ってきた。
「どうしたの?手紙?」
「ビリー。。。 これ、読んでみて!」
ビリーは読み始めてすぐ、緊張した面持ちになり、そして最後にはうぉーっと叫び声をあげた。
「ねぇ。どうしたの?」
一人、訳が分からないセイラが二人を見比べて尋ねた。ジェシーは大きく深呼吸して答えた。
「この前、ビリーと行ったレストランでエリザベスという先輩にあったの。彼女、今ブロードウェイの舞台に立っている現役の女優なんだけど、どうやらキースのお姉さんだったみたい。キースから前回の公演のDVDを見せられたエリザベスが、ブロードウェイの監督にも見せてくれたんだって。それで、体調が良くなったら一度ブロードウェイまで来てほしいって!!」
「ジェシー!! すごいじゃない!」
ビリーもセイラも大喜びだった。ジェシーが振り向くと、すぐそばにテイルが浮かんでその様子を眺めていた。
『ありがとう、テイル。』
『ばかものめ! 乗り越えるべき山はまだまだたくさんあるのだ。気を抜くなよ』
『はい、師匠!』
テイルは、少し照れくさそうに頷くと、そっとロケットに姿を消した。ありがとう。ジェシーはそっとロケットを握り締め、感謝の気持ちをこめてキスをした。
おしまい
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