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リアルタイムで見ていない事もあり、浅間山荘事件の際の事は良く判らないのですが、日本中の注目を集め、現場のテレビ中継は大変な視聴率となった事を後に聞かされています。その際に記録された視聴率、89.7%は視聴率調査が開始されて以来、最高の数値とされ、現在もその記録が破られていない事からも、当時どれだけの人がテレビで事件を見守っていたかを想像する事ができます。 長野県軽井沢の山間部、2月の下旬という酷寒の中、山荘に立て篭もる犯人と取り囲む機動隊員という図式で試験は進行していくのですが、寒々とした画面の中、時折、機動隊員に支給される湯気を立てる温かそうな食べ物が目撃され、それが後の食文化に大きな影響を与える事となります。 事件の現場は山荘であっても取り囲む機動隊員は屋外であり、緊張が続く中での温かい料理は機動隊員にひと時の安らぎを与えるだけでなく、見ている視聴者の興味も大いにそそるものとなりました。片手で持つ事に適した容器に入れられたその食べ物は発売後間もないカップ麺で、事件のテレビ中継を通して得た知名度を元にその後、急速に普及して独自の食文化を形成する事となります。 カップ麺の誕生には、先行して開発された袋から取り出した乾燥した麺にお湯を掛けるだけで食べられる状態になる即席麺の存在を欠かす事ができません。即席麺が日本で発売された後、欧米へも市場を求めて売込みが行われたのですが、即席麺を入れる適度な容器が見付からなかった事から、紙コップに入れてフォークで試食してもらっていた事に着想を得て、カップ入りの即席麺が考案されています。 カップは商品を販売する際のパッケージであり、お湯を注いで食べられる状態にするという調理器具であり、食べる際の食器であるという三役をこなす物であり、もともと手軽だった即席麺の利便性をさらに向上させて、インスタント食品としての一つのカテゴリーを確立する事に大いに貢献したといえます。 今日ではカップ麺を主食として食べて、それで一食を終えるという事も珍しくはないのですが、開発当初は間食という位置付けであった事から袋入りの即席麺の麺の容量が100g程度である事に対し、カップ麺は70g程度と少なくなっているのはその頃の名残りとされ、大盛りである事を強調したスーパーサイズの製品の登場でやっと袋入りの容量に追い付くといった事が見られています。 そんなカップ麺にかつては「標準」と「上級」というランク分けが存在した事は、あまり知られていない事となっています。2009年の6月30日の発売分を最後に撤廃されてしまったのですが、それ以前の製品にはJAS法の厳格な規定による標準カップ麺と上級カップ麺という分類が行われていました。 標準とされるカップ麺は麺の重量に対し「かやく」と呼ばれる具材の重量が6%以上とされ、火薬の重量が麺の重量の15%以上になると上級とランク付けされていました。カップ焼きそばとカップスパゲティでは若干重量が緩和され、4%以上が標準、10%以上が上級と規定されています。 今では世界中で食べられていて、現地生産されている物も多いのですが、個数で考えると日本が輸出したどの工業製品よりも多いといわれ、新商品が生まれては消えていくサイクルの早さも含め、カップ麺は日本固有の文化のようにも思えてきます。
2014年03月31日
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天然痘の撲滅が宣言され、アメリカ疾病予防管理センターとロシア国立ウィルス学・バイオテクノロジー研究センターのレベル4施設内に保管されている研究用のウィルス株以外のすべてのウィルスが処分されて、地上から天然痘のウィルスが消滅する事を知った際、科学の勝利というものを強く感じる事ができました。 天然痘n発祥はインドともアフリカともいわれてはっきりしておらず、最古の記録は紀元前1350年のヒッタイトとエジプトの戦争中に発生した記録が残されており、紀元前1100年代に没したとされるエジプトのラムセス5世が最古の死亡例と考えられています。 それだけ古くから知られていた天然痘の撲滅宣言は1980年の事で、一つの感染症を完全に撲滅する事の難しさや道のりの長さを感じさせてくれます。そしてその難しさを証明するかのように人類にとって最初の撲滅例となった天然痘は、唯一の撲滅例ともなっています。 そんな天然痘に続く第二例目となる感染症の撲滅が間近に迫っているといわれます。その感染症は「メジナ虫症」と呼ばれるもので、ギニアワームという寄生虫によって引き起こされています。 非常に小さなギニアワームの幼虫は水中でミジンコに飲み込まれる事でミジンコの体内に入り、ミジンコが含まれた水を飲む事で人の体内に入り込みます。人の体内に入ったギニアワームは一年を掛けて成虫へと成長しながら体内を這い回り、成熟すると足に移動して皮下に水泡を作ります。その際に激しい痛みを伴う事から、患部を冷ますために人が足を水に浸けると、ギニアワームは水泡を破って体内に蓄えていた無数の幼虫を水中に放って次の新たな感染サイクルを作り出しています。 体長1mにも達する奇怪な姿や体内を這い回るという事、患部の激しい痛みなどから怖れられたメジナ虫症は赤道直下のアフリカを中心に猛威を奮っており、水という生活に欠かせない物を媒介し、清潔な水を確保できないという事を背景に年間350万人以上が寄生されていたとされますが、昨年の感染者は148人となり、撲滅まであと一歩ともいわれています。 WHO(世界保健機構)による撲滅を目指す事を採択して以来、徹底した監視体制の強化や患者の封じ込め、感染サイクルの遮断などが功を奏したとされ、地味ではあっても確実な積み重ねによって第二例目の撲滅を迎える事に新たな勝利の大きさを感じてしまいます。第三例目には何がなるのか、ついそんな事を考えたりもしています。
2014年03月29日
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九州で生まれ育った事もあり、削り花の存在はほとんど知らず、最初に存在を知った時は木を削って造花を作るという事には、どことなく違和感を覚えた事が思い出されます。削り花は仙台を中心とした地域で、花が咲いていない時期に春の彼岸を迎えてしまう事から、生花の代わりにお供えする物として作られています。 削り花の発祥は明治時代の廃藩置県に関連していて、伊達藩がなくなってしまった事により職を失った御殿医、小野木多利治が生活の糧を得るためにはじめたとされ、明治10年頃に売り出されたとされています。 最初の頃は考勝寺の門で細々と販売されていたものが、明治30年頃から広く普及したとされ、当初は木を削っただけの単純な造花であった物が、小野木家の菩提寺である見瑞寺が赤や黄色に着色した削り花を墓地に飾り付ける事を認めたため、着色して売り出した事で普及が進んでいます。 削り花が普及する以前は、彼岸の頃の仙台に咲く花がなかった事から銀色の産毛がきれいなネコヤナギを飾ったり、枯れ枝に小さく切った白い紙を貼って墓前に供えていたとされ、削り花の登場で仙台の彼岸は色鮮やかとなり、春の訪れを感じさせるものとなっています。 同じように木を削った物としては、正月の飾りである「削りかけ」を思い出してしまうのですが、白い木の肌を薄く、細長く削って垂らし、紙が普及する以前は御幣としても用いられていた削りかけと削り花との関連性は薄いように思えます。 彼岸の中日は御先祖様へ感謝する日であり、その日のためにきれいな花を飾りたいという心や、廃藩置県によって失われた生活の糧を得ようとする工夫、墓場には赤い色はそぐわないとしていたものを許可してくれたお寺など、さまざまな思惑の中から生まれてきた削り花ですが、仙台に春の訪れを知らせる大切な存在として今日に伝えられています。
2014年03月28日
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先日、ギニアで謎の病気が発生し、6週間という短い期間に23人が死亡したというニュースがあり、後にその病気がエボラ出血熱であった事が報じられていました。エボラ出血熱というと致死率が90%近くに達する事もある怖ろしい感染症であり、アフリカを中心に突発的に発生が見られる事からまた怖ろしいものが出てきたと思う反面、道の新たな病気でなかった事は幸いとも思えます。 エボラ出血熱の発見は、今から30年ほど前の1976年に遡り、スーダンのヌザラという町で倉庫番の男性が39度の高熱と共に激しい頭痛と腹痛を訴えて入院してきた事が始まりとされます。 病院に収容された男性は、その後消化器や鼻の粘膜から激しく出血して死亡し、その男性の近くにいた2人が同じような症状を発症してしまい、それを皮切りに血液や医療器具を通じて周囲に感染が広まっていきます。最終的にヌザラの街では284人が感染してしまい、151人もの人が命を落とすに到っています。 最初の感染者となった男性の出身地の近くには川が流れていて、その川の名前から「エボラ」の名前が付けられ、今日、エボラの名前は川よりも遥かに高い知名度で致死性の感染症の名前として知られる事となっています。 その後、10回ほどアフリカ大陸で突発的な発生と流行が見られ、感染してしまった際の致死率は最低でも50%、最大では89%にも上るという非常に高い致死率を誇るだけでなく、消化器官などの粘膜から大量の出血をして死に到るという壮絶な病状もエボラ出血熱の恐怖を不動のものにしたようにも思えます。 エボラウィルスの毒性はタンパク質を分解してしまう事にあり、体細胞の構成要素であるタンパク質を破壊される事で出血が起こり、致命的なダメージを受ける事になってしまいます。発症を未然に防ぐワクチンや直接的な治療法は確立されておらず、わずか数個のウィルスが体内に入っただけでも感染してしまう事から、病原体としての危険度を示すバイオセーフティーレベルは最高度の「4」に指定されています。 最初の流行となったヌザラの町では151人もの人命を失ってしまいましたが、発見からの30年間でエボラ出血熱で命を落とした人は600名程度とされ、感染力の強さや致死率の高さから見ると意外なほど少ない事に驚かされます。 高い感染力と致死率を誇りながら意外なほど死亡者が少ない最大の理由は、エボラ出血熱が感染者の血液や体液に触れないと感染しないという点にあります。そしてもう一つは強力な致死性にもあるとされ、一週間ほどの潜伏期間の後に症状が生じると間もなく死に到ってしまう事から、感染者がキャリアとして感染を広めない事も感染の拡大を妨げる要因となっています。 しかし、感染者が死亡してもエボラウィルスは感染力を保持している事や、野生動物がウィルスを運搬するという困った性質があり、感染が起こった地域の古いしきたりとして死体を沐浴させる事や、情報不足からエボラ出血熱による死亡を魔女のせいと考えて、死体の埋葬を行わないといった事は新たな観戦にも繋がっています。 完全な接触感染である事から、患者のそばに行かなければ感染する事はないエボラ出血熱ですが、感染率、死亡率の高さ、治療法がない事、壮絶な病状と、これからも小説などの題材として登場し、新たな恐怖を煽ってくれる事と思ってしまいます。
2014年03月27日
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生命に関するセンセーショナルな発見、その後の信憑性への疑問とそれに伴う大きな転落。19世紀にアンドリュー・クロスという研究者に起きた事件は、今回のSTAP細胞の発見によく似た展開を見る事ができます。 アンドリュー・クロスは1784年、イングランドはサマセットの裕福な家庭に生まれ、子供の頃から好奇心が旺盛だったと伝えられています。好奇心の赴くままに科学実験を行う事が好きで、少年時代にも多くの実験を行い、両親の遺産を相続した後は思う存分実験に開け暮れる毎日を過ごしていました。 そんな彼が52歳を迎えた1826年、人工ガラスの結晶を作る実験をしていた際、その事件は起こりました。実験の4日目、電気を通している対象物に白くとても小さな突起物が生じている事を発見し、観察を続けていると徐々に突起物は成長を続けていき、26日目には完全な虫の形を形成して動き始めました。 注意深く虫を観察するとそれはコナダニの一種である事が判り、慎重に準備したにも関わらず実験器具内にダニが紛れ込んでしまった可能性を感じた彼は、さらに慎重に準備を進め、再度同じ実験を行うのですが、そこでも同じように突起物が生じ、やがてダニへと成長していきました。 電気実験の末に生命を創造したという事に半信半疑ながら事実をレポートにまとめ、電気学会に報告すると新聞記者の知るところとなり、人類史上初の生命の創造としてセンセーショナルな話題となり、彼の事はイギリスだけでなくヨーロッパ中に知られる事となります。 噂を聞き付けて追加実験を行って検証する者も現れ、一部には実験を再現する事に成功する者も見られ、その中には後の科学に大きな影響を与えたファラデーの姿もあり、クロスは生命を創造し神の領域に踏み込んだ男という評価さえ与えられます。 しかし、そうした盛り上がりは長くは続かず、再現性の低い実験は信憑性そのものが疑われるようになり、再現できたとする実験もその厳密さが疑問視されるようになってきます。彼が正式な科学者ではなくアマチュアの実験家でしかない事も実験結果への評価を下げる事となったのですが、それ以上に悲劇的だったのは、生命の創造という神の範疇を冒してしまった事で神を冒涜したと捉えられ、多くの宗教団体の攻撃対象とされてしまった事です。 折悪く小麦に病害が蔓延し、それが神を冒涜した事への報いと受け取られてしまったために、誰もが彼を避けるようになり、彼の家へと向けた露骨な悪魔払いが行われたり、暴力的な場面に遭遇したり、彼を目撃すると人々が慌てて窓やドアを閉めたりという事が見られ、商人たちも彼と取り引きする事を拒んだといいます。 結局、不遇の中で彼はこの世を去る事となり、最後まで前世で冒した罪の報いと嘆きながら息を引き取ったといいます。今日では慎重を期したつもりでも目に見えないダニの卵が実験器具の中に混入したという真相とされ、電気を使って生命を創造したという話題は小説のフランケンシュタイン博士のモデルとなったともいわれます。 実際には小説の発表は彼の実験の20年以上も前の事なので、彼がフランケンシュタイン博士のモデルとなる事はありえないのですが、神の領域に踏み込んだための悲劇としては共通点があるようにも思えます。いつの時代もセンセーショナルな発見とその反動というのはある事なのかもしれませんが、最近の報道を見ながらつい重ねて考えてしまいます。
2014年03月25日
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いつもニュースは原稿を書いているパソコンの画面の隅にあるガゼットを通じて見ています。幾つかのニュースソースが最初から選択されているのですが、スポーツ系の新聞が多いせいか知りたいニュースよりもアイドルグループの話題の方が多く、本当に社会の関心事はこんな事にあり、こんな話題を焙じる事が報道機関の役目なのだろうかと疑問に感じてしまう事もあります。 最近気になっているニュースは万能細胞とされる「STAP細胞」に関する事で、論文の発表が伝えられた当初はこれで再生医療の在り方が大きく変わると思え、幹細胞研究の発展を期待しながらこの世を去った俳優のクリストファー・リーブが聞いたら、どんなに喜んだだろうなどと考えたりもしていました。 当初は「快挙」であり「今世紀最大の発見」といった伝えられ方がされていたのですが、すぐに研究チームのリーダーが若い女性であった事もあり、研究リーダーの人となりに関するニュースばかりが聞かれるようになり、白衣代わりの割烹着や研究内容を説明する際の大きなデザイナーズブランドの指輪、プレゼントのために手作りしたケーキなどが研究そっちのけで時間を割いて報じられるようになり、何となく違和感を感じていました。 その後、論文の中に散在する不自然な部分に関する事がいわれはじめ、同じ分野の研究に携わっていても幾つかの会派があり、先日の血圧降下剤の研究データ捏造で大きな打撃を受けた医療業界が今回の成果を面白く思ってなく、攻撃を加えているといった事がまことしやかにいわれたりもしていました。 論文に使われていた画像が使い回しであった事や、論文の一部が他の論文からの引用コピーが使われたものである事がいわれるようになると、遡って博士論文の内容にまで言及されるようになり、博士号の撤回や支給された研究助成金の返還といった話題に変わってきています。 急転直下とはまさにこれという感じで、ずいぶんと話が変われば変わるものだとと思えてきます。そんな中、研究者がどのような人物であるのか、論文がどのように作成されたかよりもSTAP細胞が本当に存在するのかだけが気になります。STAP細胞が存在する世界と存在しない世界では、大きく違った未来となるとさえ思えます。 研究リーダーの研究者としての経験の少なさやそれゆえの稚拙さ、コピペ、捏造といった言葉が繰り返しいわれている中、STAP細胞の存在と発見が裏付けられる事を願いつつ、19世紀に起きた酷似した事件を思い出し、「アンドリュー・クロス、あなたのようですね」と思わず呟いてしまいます。
2014年03月22日
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子供の頃、隣に住んでいた少し年上の子がピンポン玉はとてもよく燃えるという話をしてくれて、実際に火を着けて見せてくれた事があります。マッチの火が着けられると、火は一気にピンポン玉を覆うように全体に回り、薄いピンポン玉は一気に燃えてしまいました。炎自体はそれほどでもなかった感じなのですが、一気に全体に火が回った速度には驚いてしまい、今も少し暗くなり始めた夕方の中の炎の色を思い出してしまいます。 ピンポン玉はセルロイドで作られていて、セルロイドの性質として非常に燃えやすい事や、薄く作られている事が一気に全体に火が回ってしまう理由と考える事ができます。 かつて日本で盛んに生産され、輸出されていたセルロイドは人類が手にした最初の熱可塑性樹脂とされ、1856年にイギリスのバークスによって発明されています。バークスは最初のセルロイドを「バークシン」と名付けて売り出しましたが、非常に高価であったために実用的ではなく、普及は失敗に終わっています。 その後、ビリヤードの球の原料として象牙に替わる物を発見した者に賞金1万ドルを与えるという公募が行われ、アメリカで印刷業を営んでいたハイアット兄弟によってセルロイドが提案され、賞金を得るに至っています。 ハイアット兄弟によるセルロイドの開発は、怪我の治療に使おうとしてこぼしてしまった傷薬の跡に残されたニトロセルロースに着目するという偶然による発見を元に試行錯誤を繰り返し、ニトロセルロースに樟脳を混ぜるという発明に至っており、バークスの発明の継承ではなく、独自の再発明である事が判ります。 ハイアット兄弟によってセルロイドという名称が命名され、製造特許を取得した後にセルロイド製造が開始されています。ハイアット兄弟による発明の7年後、神戸の見本市に紹介されたセルロイドは事業化が進められて、日本でも製造されるようになります。 原料の樟脳の産地が極東アジアに限られていた事もあり、日本は主要な生産国としてセルロイドを輸出するようになり、昭和初期には世界で生産されるセルロイドの約4割が日本で生産されていました。第二次世界大戦後、日本の輸出額の5割がセルロイド製品によって占められていた事から、セルロイドは戦後に日本の復興を支えた工業製品といっても過言ではありません。 そんなセルロイドの欠点としてプラスティック等に比べて劣化が激しい事や耐久性が低い事、そして燃えやすい事があり、特に燃えやすい性質はセルロイドのその後を左右するまでに至ってしまいます。 セルロイド工場では原料の自己反応による火災事故が何度となく起こり、初期の映画に使われていたセルロイド製のフィルムは映画を投影する光源として使われていたアーク灯や電球の熱によって発火するという事も見られていました。 そのため1955年にはアメリカで多発するセルロイド製品の火災事故を受けて「可燃物資規制法」が成立し、日本からアメリカへのセルロイド製品の輸出はできなくなってしまっています。アメリカでの動きを受けて世界的にセルロイドの不買運動が展開され、プラスティックやポリエチレンといった素材の登場もあり、セルロイドは姿を消す事となってしまいます。 日本でもセルロイドは「第5類危険物」に指定され可燃性の規制対象物として消防法によって、製造、貯蔵、取り扱い方法が厳しく定められています。そうした面だけを見てしまうと時代遅れの危険物という感じがしてしまうのですが、どこか懐かしさを感じさせてくれる質感や、微生物によって分解される環境への優しさを考えると、これからの時代に求められる素材のようにも思えてきます。
2014年03月20日
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オヒョウというと冷たい海に棲む魚というイメージで、あまりその姿までは思い浮かばないのではと思えるのですが、漢字で記載すると「大鮃」となる事から、巨大なヒラメという事が何となく判ってきます。 実際にはヒラメではなくカレイの仲間で、インターネットを使って画像検索をすると人の背丈よりも大きなカレイが釣り上げられている場面を多く見る事ができます。 人の背丈を超えるというだけでも充分に大きいように思えるのですが、オヒョウの大きさはそんなものではないらしく、4mにまで達したという記録も残されているといいます。 それだけ大きくなるオヒョウですが、成長が早いという訳でもなく、むしろ成長は遅い方だともいわれます。しかし、非常に長寿であり、150年近い寿命を持ちながら着実に成長していく事でそれだけの大きさに達する事ができています。 それだけの巨体を誇る上に北極海の厳しい環境を生き抜くためか筋肉が非常に発達しており、大型のオヒョウが釣れた際は船に引き上げる前に棍棒などで殴って気絶させるか、ライフルで止めを刺してからでないと危険とされ、長閑な釣りしか見た事がない身としてはどこか遠い世界の巨大魚という存在にしか思えません。 しかし、オヒョウは意外と身近なところで流通していて、回転寿司で人気とされる「えんがわ」はヒラメのえんがわではなく、オヒョウが代用されています。発達した筋肉の白身は淡白な味わいで、フライやムニエル、白身の刺身として出される事もあり、健康食品の魚由来のフィッシュコラーゲンの素材ともなる事から、気が付かないうちに食べている魚なのかもしれません。 そんなオヒョウですが、北極海の冷たい海の中でも体が凍り付いてしまわないように特殊な酵素を体内で作り出しているといいます。その酵素を作る遺伝子を植物に組み込む事で、寒さで枯れてしまっていた物が冬でも収穫できるようにしようという試みが進められています。 実現して一般化すると夏の野菜を冬に収穫するためにビニールハウスや暖房の必要がなくなりエコなように思えますが、えんがわの寿司や白身の刺身、フライなどで知らないうちにオヒョウという巨大魚を食べていたという驚きよりも、オヒョウの遺伝子を持つ野菜を食べてしまっていたというショックの方がはるかに大きいように思えます。できればオヒョウはオヒョウとして食べたいものだと思えてきます。
2014年03月19日
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壁際に金属製のネットを設置し、商品をそのネットに取り付けた金具に吊るすという展示方法をよく見掛けます。そうしてたくさんの商品が並べられる中、明らかに他の商品とは雰囲気が異なる物、それがネオジム磁石ではないかと思います。強力な磁力を誇るネオジム磁石は、パッケージの中からも磁力線を発し、商品同士が強固にくっつきあって他の商品に用に力なくぶら下がっている感じがしません。 ネオジム磁石は、現在存在する永久磁石の中では最強の磁力を持つとされ、その強力過ぎる磁力から手を挟んでしまうなどの思わぬ事故に繋がらないように、取り扱いには充分注意するようにといったこれまで普及していたフェライト磁石には見られなかった注意書きが添えられていて、それだけでも如何に強力な磁石であるかが判ります。 磁石というと表面がざらついた黒い姿が思い浮かびます。それは広く普及しているフェライト磁石の特徴でもあり、フェライト磁石が酸化鉄を主原料にしている事に由来します。それに対しネオジム磁石は表面が滑らかで鏡面のようになっています。良く磨かれたステンレスのような印象を受けるのですが、実はこの光沢はメッキによるもので、本来のネオジム磁石は非常に錆びやすい事から錆びに強いニッケルなどのメッキが表面に施されています。 ネオジム磁石の困った特徴として、熱に弱く温度変化によって磁力が大幅に下がってしまう事があります。そのため温度が安定した場所でしか想定した性能を発揮できないという欠点があったのですが、ジスプロジウムを添加する事で温度に対する安定性が高まる事が知られています。 その強力な磁力について以外ではあまり存在を認識する事が少ないネオジム磁石ですが、パソコンのハードディスクやCDプレーヤー、携帯電話などには欠かせない素材となっています。音楽の低音を表現する事にも適しているとされ、小さなイヤホンでも重低音を再現する事にも寄与しています。 携帯電話やイヤホンなど、身近な物の使われていて、気が付かないうちに身に着けている事となっていたりします。かつて磁石を身に着けていると病気にならないと考えられた時代がありました。現代の強力な磁石にもそんな働きがあれば、もっと健康的な生活が送れるのにと思ってしまいます。
2014年03月18日
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いつの頃からか、日本の各地で大震災が間近なようにいわれるようになり、与えられる情報を鵜呑みにしてしまうと大きな不安を感じる事となってしまいます。以前、そんな不安から震災が起こった際の食料になるようにと、数日分の缶詰を備蓄していた事があります。 缶詰は安定して長期に渡って日持ちが利く事から、一定期間、保管した後、新しい物と入れ替えておくようにすれば安心と考えていたのですが、予定していた一年が経過して最初の入替えが巡ってきた際、新しい物と入れ替えた缶詰を数日に渡って食べ続ける事となり、いろいろと考えさせられる事となりました。 缶詰は一般的なスーパーの缶詰売り場に並べられている物を、同じ物がなるべく重ならないように選んだのですが、バラエティーに富むようにするとメーカーやシリーズが異なる事となってしまい、缶の大きさや形状が違って思いの外、保管に場所を取ってしまったり、安定が悪くて重ねていた物がちょっとした衝撃で崩れてしまいます。 缶詰の内容も魚、特にサバやサンマ、イワシといった青魚が中心となってしまい、牛肉の大和煮や赤貝の煮物なども含まれてはいましたが、一般家庭の調理とは違う高温高圧の調理方法はどれも食感を同じにしているように感じられ、甘辛い味付けも似たり寄ったりに思えてきます。 それでも将来の緊急時に備えるためと思いながら数日に渡って缶詰を食べ続けていたのですが、いつもと変わらない平和な日常の中にいるため缶詰を食べ続ける事に飽きたという事が感じられ、災害時には缶詰だけでも食べられる事がこの上なく幸せな事に思えてくるのか、瓦礫の中で雨風をしのぎ、寒さに耐えながら冷たい缶詰を食べながら何を考えるのだろうといった疑問が湧いてきました。 先日の阪神淡路大震災では、水が手に入らない状況下では備蓄してあった乾パンがパサパサし過ぎていて飲み込むのが困難であったり、避難する事に精一杯で入れ歯を持ち出していなかった事から食べる事ができない、冷え切った体では冷たい食べ物は喉を通らないといった意見が聞かれ、非常食は役に立たないという事がいわれていました。 そうした経験を踏まえて、最近では非常食ではなく災害食というあり方が考えられるようになってきました。災害食は、災害発生時に被災地で生活や救助活動をする人たちのために備蓄しておく食品という点では従来の非常食と同じなのですが、ライフラインの復旧状況に応じて利用可能な熱源や調理設備を想定し、幅広い状況の食事を行う人に対応して、災害の直後から通常の生活に戻れるまで、心身の健康を維持できるようにする食品という点が異なっています。 東日本大震災を機に災害後の限られた食材、熱源、調理施設といった状況下で、如何に手早く簡単に美味しい物を作り上げるかといった「災害レシピ」という考え方も広まり、インターネットを通じた情報交換も行われています。災害時、食べる事ができるだけでも幸せなのかもしれませんが、食べる事は生きる事。明日への活力を生む食事ができればと思ってしまいます。
2014年03月17日
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カツオのたたきというとカツオの身を節に分け、表面のみに火が通るように焙って適度な厚さに切り分け、薬味とタレを付けていただく刺身の一種が思い浮かんできます。ほとんど同じ言葉ではあるのですが、アジのたたきというとアジをまな板の上で細かく刻んで薬味や調味料を混ぜた物が連想され、アジの表面だけを焙るという発想はありません。 同じ魚のたたきなのにまるで形態が違う事を不思議に思いながら見回してみると、最近は刺身で食べられる事もある牛肉には表面を焙ったたたきが存在し、細かく刻んだタルタルステーキをたたきと呼ぶ事はありません。 野菜類を調理する際は、細かく刻む事に付いてはみじん切りや粗みじんといった表現をしますが、特に粘りを持つ野菜の粘りを引き出すためにはたたくという刻み方の表現が用いられ、粗みじんに近い状態にあるように思えます。 また、野菜に関しては実際に叩く調理法が存在し、たたきを施して組織を破壊し、味が染みやすく、食べやすい状態にした「たたきゴボウ」や「たたきキュウリ」などが調理に用いられ、叩くとは無縁の調理法としては肉や魚などに葛粉をまぶして茹で上げる「葛たたき」といった調理法も存在しています。 カツオのたたきに関しては、表面を焙った後に軽く全体を叩く事で旨味を増したり、薬味やタレをまぶしてから叩く事で味を染ませたりという事が行われるためにたたきと呼ばれるようになったという説もあり、叩く行為と無縁ではなかったようにも思えます。 カツオのたたきの起源については諸説があるのですが、土佐藩の藩主、山内一豊が食中毒防止の観点から名産であったカツオの生食を禁止したため、表面のみを焙る事で焼き魚として食べていたというユニークなものがあり、焙ってみたら旨味が増していて、水分が除かれた事によって味も濃厚になっている事に気付き、後にさらなる工夫として叩きが加わって今日に至っているように思えます。 それにしても和食の中に存在するたたきという調理技法は、日本語や和食の世界観を難しくしてくれ、外国からは理解できないものとなるのではと、どこか心配になってしまいます。
2014年03月15日
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以前、不思議に思った事なのですが、ヤマメやアユなどの渓流に棲む川魚を名物としている街はあるのですが、塩焼きや甘露煮といった加工品はあっても魚肉練り製品はほとんど見られません。せっかく新鮮な魚があるのにもったいないと思っていると、淡水魚は身が柔らかくて練り物にした際、固まりにくいためという簡単な理由に出会ってしまいました。 魚肉で練り物を作る際、すり身にして練りながら少量の塩を加えるのですが、塩が加わると急にすり身が硬くなったような感じがしてきます。塩が加わった事で魚肉の中の塩溶性タンパク質が溶け出してきてアクトミオシンを形成し、アクトミオシンの網目の構造によって練り製品特有の弾力のある食感が形成されます。この塩溶性タンパク質の少なさが淡水魚が練り製品の素材となりにくい理由となっていると考える事ができます。 多くの場合、練り製品の素材には淡白な白身魚が使われていて、スケトウダラが主要な原料となっています。コスト面からほとんどの練り製品メーカーでは海外で生産される輸入品の冷凍すり身が使用されているのですが、近年、世界的にスケトウダラの需要が高まった事や漁獲制限が設けられた事から、冷凍すり身の値段も高騰してきているといわれます。 そのため、コストを抑えるために工場がある東南アジアの現地産の淡水魚なども使用されるようになり、練り製品の原料は海水魚だけでもなくなってきています。表示の厳格化は進んでいく事と思いますので、いずれ練り製品の原材料欄に聞き慣れない魚の名前が並ぶ日が来るのかもしれません。
2014年03月14日
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子供の頃、デパートの地下の食品売り場に設置されていた竹輪を焼く機械が大好きで、竹輪が焼かれていく様子を飽きもせずに眺めていました。 アルミ製の筒状の棒に魚のすり身を巻き付ける作業は熟練の手付きで職人さんがやっていたのですが、すり身が巻き付けられたアルミの棒は竹輪の幅の細長いヒーターが設置された台の端に置かれ、ヒーターの両端にある大きな螺旋状の金具がゆっくりと回転すると、その開店に合わせて竹輪が端から端へと移動していきます。 金属同士の摩擦もある事から竹輪は移動しながら回転していて、その回転のお陰で全体がむらなく焼かれていきます。その日の気温や湿度などの気象条件に合わせて螺旋部分の回転速度は調整され、竹輪が火に当たる時間を調節しているのだろうと考えながら、焼き上がって端のバットに落ちた竹輪から職人さんがアルミの棒を引き抜いて竹輪が完成するまでの工程はいまだにお気に入りとなっています。 現代とは違いかつては竹を使っていて、竹の棒に巻き付けた事から竹輪と呼ばれるようになった、断面が空洞の竹に似ている事から竹輪となったといわれる竹輪ですが、竹輪の呼び名が定着するのは江戸時代の事で、それ以前は棒に巻き付けられた姿が蒲の穂に似ていた事から蒲鉾と呼ばれていました。 魚をすり身にして焼いて食べる。柔らかいすり身を焚き火に安定させて近付け、焼きやすいようにするために木や竹などの棒を利用するといった発想は自然なものである事から、竹輪の起源は弥生時代にまで遡るともいわれます。 古い歴史を持つ事から全国に広まって、各地に名物となる竹輪が存在し、当地熊本でも日奈久の竹輪は全国的に知られたものとなっています。最近では魚由来の高タンパク低脂肪なヘルシーな食べ物として海外でも評価が高まってきているともいわれ、伝統的な和の食材として世界的に人気が高まるのかと期待してしまいます。 竹輪に切り込みを入れてポテトサラダを詰め込み、衣を着けて天ぷらにした物が「竹輪サラダ」と呼ばれて熊本の新たな名物とされています。発祥となった持ち帰り弁当店ではマカロニサラダをフライにした「イタリアンコロッケ」や、メンチカツを甘辛いタレで煮込んだ「お好みフライ」などの奇抜なメニューが見られていただけに、新たな名物といわれると微妙なものを感じてしまいます。
2014年03月13日
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以前、浜辺を歩いていると砂浜が青々とした色になっていて、何事だろうと近付いてみると大量の海藻が打ち上げられており、それがアオサである事を聞かされました。アオサだけを使ったシンプルなアオサ汁が大好きなのですが、打ち上げられている量はそんな私でも食べてしまうには何年掛かるだろうと思えるほどで、食べて良い物なのかも判らず、普段は少量を購入するだけのアオサも海へ行けばたくさんあるものだと思いながらその場を後にしました。 アオサと青海苔は色合いが似ている事もあり、混同される事があります。汁物や鍋物、佃煮などにされるアオサとお好み焼き屋などでかけ放題にしてある青海苔というイメージから、アオサの方が高級食材のように思えてしまうのですが、実際はその逆で青海苔の方が高価な食材となっています。 青海苔は糸状の海藻であり、それを粉状にした物が一般的に出回っています。鮮やかな緑色と高い香りが特徴となっている事に対し、アオサは同じような色合いではありますが、香りが青海苔ほど高くなく、姿も平たい葉のような状態である事から、乾燥させて加工したフレーク状で出回っています。 また、アオサによく似た物にヒトエグサがあります。地域や商品によってはアオサノリと表記される事があるので、アオサと同じ物と思われがちですが、アオサとは別な海藻となっています。 ヒトエグサはその名の通り細胞構造が一重になっていて、二層構造を持つアオサよりも柔らかい食感を持っています。その柔らかい食感を活かして佃煮などに使われるのですが、香り的にはアオサの方が優れているとされます。 味や食感はヒトエグサの方がアオサよりも勝っているとされますが、海苔関連は香りの高さが重要視される事から、青海苔、アオサ、ヒトエグサという序列が自然とでき上がってしまいます。 牛深から解禁日が来たという事で青海苔を贈っていただいた事があるのですが、それまで何気なく接していた青海苔に解禁日と驚いたと同時に、解禁日があるという事で急に高級食材のような感じがしてきた事が思い出されます。
2014年03月12日
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今でも好きな和菓子の一つとなっているのですが、子供の頃、和菓子屋の店先で鉄板の上で焼かれていた金つばが大好きでした。四角く成型された餡は通常の餡よりも水分量が少なく、6面すべてに薄くかけられた小麦粉の生地は引きがあって食べ応えがあり、もともと粒餡が好きな私にとって理想的なお菓子のように思えていました。 金つばはその名の通り刀装具の一つである「鍔」が語源となっている事は容易に想像が着くのですが、時代劇の中では武骨な武芸者か忍者が用いる刀にしか金つばのような形状の鍔は見られず、どことなく違和感を感じてしまいます。 金つばについて江戸時代の国学者、喜多村信節(きたむらのぶよ)は興味深い記載を残しています。信節は江戸時代の後期に活躍した国学者で、考証を専門としながら多くの著述を残しています。民間の風俗や伝承の記録、考証に努めた事で知られ、江戸時代の風俗研究には欠かせない人物ともいわれます。 その信節によると「今時のどら焼きは、また金つばともいう」「どら焼きのどらとは銅鑼に似ているから名付けられたもので、銅鑼と同じように大きな物をどら焼きと呼び、形が小さな物は金つばと呼ぶ」と記されていて、どら焼きと金つばの間には大きさ以外の違いがない事が伺えます。 今日ではどら焼きと金つばは完全に別のお菓子となっていて、間違える人はほとんどいないといえるのですが、信節の頃は同じ物であった事になり、餡を小麦粉の生地で包んで焼いた物であった事が判ります。形状もどら焼きと同じく丸いものであった事から、刀の鍔に見立てられても違和感のない物であったという事ができます。 どら焼きの生地に卵が使われて、ふんわりと焼いて餡を挟むようになるのは明治時代になってからの事とされます。金つばが今日のように寒天で固めた餡に、小麦粉の生地を薄く塗って焼き上げるようになったのも明治時代の事となっています。 大本は江戸時代の中期に京都で考案された上新粉で作った生地で餡を包み、平たく焼いた「銀つば」であったとされます。それが江戸の街に伝えられ、上新粉が小麦粉に変わって景気が良い銀から金に呼び名が変えられたといいます。 今日でも当時の名残りを残す円形の金つばも作られていて、鍔のような紋様を入れる物も存在しています。現在のスタイルである四角い形状の物は神戸元町の本高砂屋創業者、杉田大吉によって考案されたといわれます。富山市では三角形の金つばが作られているそうですが、三角形は鍔の形状ではないと思えるので、何故そうなったのか大いに気になっています。
2014年03月10日
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敵に塩を贈るというと、戦国武将上杉謙信と武田信玄とのライバル同士でありながら友情の存在を示す美談として語られたり、他国であっても塩不足で苦しむ領民の姿を見過ごさない謙信公の人徳を伝えるエピソードとして語り継がれています。 日本では岩塩の採掘は困難であり、海を持たない信玄公の甲斐の国は「塩留め」が行われると、生活必需品の塩が極端に不足した状態になってしまいます。そんな時に贈られる塩はどれだけ有難いものであったのかと思えるのですが、戦国武将の中には塩だけでなく砂糖を贈った武将もいます。 土佐の国の戦国武将、長宗我部元親は永禄3年(1560年)に父である国親から家督を相続すると天正3年(1575年)には土佐の国を統一し、四国全域に領土を拡張していきます。その長宗我部元親が近畿地方をほぼ手中に収めていた織田信長に対し、砂糖を贈った事が「信長公記」に記されています。 長宗我部元親が贈ったとされる砂糖は3000斤(約1800kg)にも及ぶ量であったとされ、今日の感覚でも膨大な量ですが、当時は砂糖は国内生産する事ができず、輸入に頼るしかない貴重品であった事を考えると、長宗我部元親の贈り物が如何にすごい物であったのかを伺う事ができます。 それだけ膨大な量の貴重な砂糖であっても織田信長の歓心を買うものとはならなかったとされ、元親の意に反して信長は阿波や讃岐の領主であった三好氏を保護する事を決めてしまい、四国統一を目指す元親と信長はそれまでの円満な関係が一変し、敵対する事となってしまいます。 信長は元親に阿波や讃岐から手を引くように要請しますが拒否され、天正10年(1582年)信長は元親討伐のために四国遠征軍を大阪に集結させます。その直後、信長が本能寺の変に倒れ、四国遠征は頓挫して元親は事なきを得ています。 高価な砂糖を大量に贈ったのに敵方に付かれて踏んだり蹴ったりという感じの元親ですが、長宗我部家と縁が深く、元親との間で交渉を行っていたのが明智光秀であり、砂糖が贈られた際にも主君に進物を披露する取次役を光秀が行っています。 長宗我部氏討伐に当たっては主君の信長と意見が対立し、面目を失って家中での影響力が低下した事が光秀が本能寺の変に打って出た理由の一つと考えられています。取次役には主君程ではないにしても別途進物が用意されるのが習わしとなっていた事から、光秀も砂糖を贈られていた可能性があります。 戦国の乱世に贈られた砂糖は、塩ほどの美談としては語り継がれてはいませんが、贈った元親の窮地を救ったのかもしれないと思えてきて、その後、念願の四国統一を果たす元親に無駄ではなかった事を伝えてあげたいと思ってしまいます。
2014年03月07日
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子供に空の絵を描かせると、日本人の子供だけが太陽を赤い色で塗ると聞かされた事があり、日本人の完成の違いを感じてしまいます。そんな日本人に赤くもないのに太陽に見立てられ、信仰された魚がいます。それが鯖で、青く光輝く姿が太陽を象徴するとして信仰され、今でも京都の葵祭りの際に鯖寿司を食べるのは、その信仰の名残りとされています。 太陽を崇拝する信仰は世界中の各地で見られていますが、鯖を太陽に見立てたのは日本人特有の感性のように思えて興味深く思えてきます。江戸時代には相模の国では鯖の名を冠した神社を巡る「七鯖参り」が行われていて、今日でも徳島県では願掛けの後に鯖を三年間食べずに祈願成就を願う「鯖絶ち祈願」が行われています。 信仰はともかく、古くから漁獲高が多く、栄養価も高い鯖は日本において重要な魚であり、若狭の海で獲れた鯖を京の都へと運ぶための路、鯖街道は今日でも広く知られた存在となっています。 現在の福井県小浜市から京都市左京区を結んだ若狭街道が鯖街道と呼ばれ、交通機関が発達する前の時代に徒歩で若狭湾で獲れた鯖を運んでいました。少しでも鮮度を保つために塩をまぶした鯖は、若狭から夜通し歩いて京都まで運ぶとちょうど良い塩加減となるとされ、夜通し歩いて届けられる鯖を京都では一般庶民までもが待ち望んだとされます。 今日、鯖の産地は若狭からノルウェーへと代わり、街道は陸路ではなく空路へと変わっています。塩をまぶす事は冷凍へと変わってしまってはいますが、今日も鯖を運ぶ空の鯖街道が健在な事には、日本人と鯖との特別な繋がりを感じてしまいます。
2014年03月06日
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父親が極度の魚嫌いという事もあり、魚料理は他の家庭よりも食卓に上る機会が少なかったように思います。栄養のバランスを考えてか、たまに魚料理が出される事はあっても父親だけ別なメニューで、料理も煙のせいで家の中が魚臭くなってしまわないように煮物が多くなっていました。 当時はそれほど魚を食べるという事を意識していなかった事もあり、それほど食べたいとも食べなければとも思っていなかったのですが、仕出し弁当に入ってくる鯖の切り身には如何にも焼き魚という感じがして嬉しかった事が思い出されます。しかし、その頃は弁当の片隅に寒天と淡雪を合わせた物が入れられている事が多く、隣接する鯖と密着する事で魚臭い寒天と緑色が移った鯖には閉口するものがありました。 詳しく聞いた事はないのですが、父親の魚嫌いは子供の頃、鯖に当たった事が原因らしく、それも鯖という食材を食卓から遠ざけていた理由と思えてきます。鯖は鮮度が落ちやすく、食当たりを起こしやすい魚といわれます。一般的にはヒスチジンというアミノ酸の一種が多く含まれていて、それがアレルギーを誘発するヒスタミンに変化する事が鯖の食当たりの原因とされます。 白身の魚と比べると鯖には多くのヒスチジンが含まれています。しかし、マグロやブリ、キハダマグロなどには鯖の1.5倍ものヒスチジンが含まれていて、ヒスタミンによる食当たりが鯖だけに限った事ではないと思えます。 鯖以上のヒスチジンを含んでいながらマグロやブリ、キハダマグロなどが「生き腐れ」といった鮮度だ落ちやすく、食中毒を起こしやすいといういいかたをされない事については、鯖が表層の浅い海を泳ぐ魚であるために身が柔らかく、細胞間の水分の移動が多くて死後の成分の変化が多い事や、ヒスチジンをヒスタミンに変える細菌が多いためといわれます。 ヒスタミンに変化する事でアレルギー症状を引き起こしたり、生臭さの原因となる事から厄介者のようにいわれる事の多いヒスチジンですが、人は子供の頃は体内で合成する事ができず、子供に籠っては必須アミノ酸となっています。 ヒスチジンは子供の体内で成長を促進する働きを持つとされる事から、私がちゃんとした大人になれていないのは子供の頃に極端に鯖を食べていないからかとも思えてくるのですが、キハダマグロやブリは少ないなりにも食べていた気はするので、父親のせいとばかりはいえないかと改めて思ってしまいます。
2014年03月05日
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シリアルといわれると製造番号などを記した「シリアルナンバー」が思い浮かんだりもするのですが、やはり朝食などで食べられる「シリアル食品」が一番に思い付く物という気がします。最近では代表的なシリアル食品であるコーンフレーク以外に、グラノーラやバータイプの物など選択の幅も大きくなり、食品としての一つのカテゴリーを確立しているようにも思えます。 シリアル食品はシリアルナンバーのように同じ物が連続して出てくる事から、そう呼ばれるようになったと聞かされた事もあるのですが、正確な語源は古代ローマの農業の神「セレス(Ceres)」が由来となっています。農業の神の名から農産物である穀類などを英語で「シリアル(Cereal}」と呼ぶようになり、穀類を加工して作られる食品をシリアル食品と呼ぶ事になっています。 最近、人気が高まってきているグラノーラは「つぶつぶ」という意味の「グラニュール」に穀物を意味する「グレイン」を合わせて作られた造語となっています。 グラノーラは燕麦や麦、玄米、トウモロコシなどを蜂蜜や黒砂糖などの糖類、植物油などと混ぜてオーブンで焼き上げた物で、ドライフルーツやナッツ類などを混ぜる事で味に変化を持たせたり、栄養のバランスを整えたりしています。 グラノーラに非常によく似たシリアル食品に、スイスなどの地域を中心に食べられている「ミューズリー」があります。燕麦を中心とした数種類の穀類とドライフルーツ、ナッツ類で作られる事から、ほとんどグラノーラと同じ物と思えるのですが、最大の違いはグラノーラが焼き上げて仕上げられる事に対し、ミューズリーは焼かずに未調理の状態で仕上げられています。 ミューズリーはスイスの言葉でシチューを意味する「ミューズ」に由来していて、シチューのような状態になるまでふやかして食べる物とされています。医師のベンナーが自らが経営するサナトリウムの患者のために考案したとされ、牧童が伝統的に食べていた携帯食が元になっています。 ベンナーがミューズリーを考案したのが1900年頃とされる事や、元になった牧童の伝統的携帯食の存在。グラノーラの考案も19世紀の後半という事や、シリアル食品の語源の古代ローマの農業の神と、目新しい物のように思えるシリアル食品には意外な歴史があるように思えて、興味深いものを感じてしまいます。
2014年03月04日
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先日、子供の気管支喘息の治療に広く使われているステロイド剤について、気になるニュースが報道されていました。ステロイド剤の使用によって、子供の身長の伸びが抑えられるという副作用の懸念があるとして、より慎重に使うように注意喚起が行われています。 小児喘息は15歳以下の子供の20人に1人の割合で、0~1歳までの乳幼児に発症例が多いとされます。アレルギー反応によって気管支に炎症が起こるのが原因とされ、激しい発作が治まった後も炎症が続く事から、治療は長期間に渡り、根気が要るものとなっています。 治療の際に良く使われているのが吸入型のステロイド剤で、吸入した薬剤を直接炎症を起こしている部分に触れさせる事で炎症を抑える働きがあります。そうした吸入型のステロイド剤の使用によって身長の伸びが抑制され、その影響は成人後にも続いたとする報告が3年ほど前から米国で相次いでおり、今回の注意喚起はそうした報告を受けての事となります。 ステロイド剤と骨との関係というと、以前、我家にいた猫の事が思い出されます。ある朝、猫が急に転んで置き上がってもまた転んでしまい、自分でも何が起きているのか理解できないらしく、パニックになっていた事がありました。 体の向きを変えようとすると急に下半身の力が抜けたように腰砕けになってしまい、その場に倒れこんでしまうのですが、継続的に力が入らない訳ではないので麻痺ではないと思え、脳に障害でも起きているのではと心配しながら獣医の下へ連れて行きました。 レントゲンを撮ってみると腰の部分の背骨の一部が異常なほど隆起していて、それが神経に触れて一時的な麻痺を引き起こしていた事が判りました。 高齢でもあったので手術によって骨を削るのは負担が大きいだろうという事で、副作用としてカルシウムが骨から流れ出す作用があるのでそれを利用しようといわれてステロイド剤が処方されました。 思えば若い頃に尿路結石を発症してしまい、それ以降、処方食としてリンを制限した食事が中心となっていました。リンを極端に制限した事でカルシウムの排出がうまくいかず、長年の間に骨を隆起させた事が解ります。 その際、隆起した骨を縮小させるほど骨のカルシウムに影響を与えるというステロイド剤が怖ろしくなったのですが、骨への影響を思うと身長の伸びを抑制する事は理解できます。 吸入型のステロイド剤は薬剤が患部にのみ触れる事から、影響は少ないと考えられていましたが、今回の発表を受けて身長の伸びに最も影響を受けやすい乳幼児の場合、最初に使う薬をステロイド剤以外にするなどの指摘がされています。 喘息に関しては、アレルギーの炎症を長期に渡って抑える新薬の報告もされています。吸入型ステロイド剤は治療の根幹を担ってきた薬剤だけに、新たな治療法の確立を願ってしまいます。
2014年03月03日
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日本の古い諺に「風が吹けば桶屋が儲かる」というものがあり、一見すると明らかに無関係な事でも巡り巡って最終的には思わぬ結果に結び付くという事を教えてくれています。 諺の初出は江戸時代の明和5年(1768年)に書かれた浮世草子「世間学者気質」であったとされ、当初は桶屋ではなく箱屋とされていました。その後、風が吹いて儲かるのは桶屋となり、最終的に桶屋が儲かるまでの経路も風が吹いて土埃が立つ事から始まり、いくつかのバリエーションが見られていて、思わぬ結果に結び付くまでの流れは一つではない事を示してくれているようにも思えます。 最近では映画化された事もあり、カオス理論の一つであるバタフライ効果が知られるようになり、始まりの時点での僅かな差異が最終的には大きな結果の違いとなって生じる事がいわれるようになり、いつの時代にも風が吹くだけで何かが変わってくるものだと思ってしまいます。 食の世界にも似たような事が多く、一つの事象が思わぬ部分への影響となって顕在化する事に驚かされる事があります。 以前、地球に埋蔵されている石油の量の限界に関するピークオイル論が盛んにいわれていた際、当然のごとく原油価格は高騰したのですが、原油の使用量を減らすためにバイオ燃料を添加して使うという事から、バイオ燃料を製造する際に必要となるエタノールの原料となるトウモロコシや小麦の値段も高騰してしまいました。 トウモロコシ価格の高騰は冷凍コーンやコーンスターチといった直接トウモロコシを使用していた製品の値段だけでなく、家畜の配合飼料の値段も上げてしまう事から、一見関係なさそうな卵の値段にも反映されてしまいます。 小麦に関しても同じ事が見られ、パンや麺類、スナック菓子だけでなくさまざまな食品に波及し、意外なところでは貼り付けて成型するための糊の原料となっていた事から、段ボールの価格上昇にまで繋がっていました。 段ボールの価格が上昇してしまうと物流に影響が出て、輸送される製品の価格に反映される可能性があり、商品を購入する消費者だけでなく販売して利益を上げている企業、企業の収益が分配される所得など生活面の幅広い部分に関わってくる事が判ります。 つい先日もまた鳥インフルエンザのニュースが聞かれていましたが、中国で大規模な鳥インフルエンザが起こると、大量に鶏が処分され、飼育数の減少によって飼料が不要となる事から、アメリカの大豆価格に影響が出るという事がいわれています。 グローバル化がいわれて久しい現代、僅かな事が思いもよらない結果へと発展する度合いは、桶屋が儲かっていた時代とは比べものにもならないほど大規模なものへと変貌してしまっている、そんな事をふと思ってしまいます。
2014年03月01日
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