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DIARY
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PROFILE
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高校生の哲学。
Aphrodisiac
某公立大学の学生だ。
彼女は小柄の美人で、端整な顔立ちをしていたが、化粧はいつも少し濃かった。
髪は長髪の明るい金色をしていて、少し健康的な肌色をしている。
彼女は、今日最後の講義を受けている。途中、まだかまだかと何度も時計に目を向けていた。
彼女には最愛の男性がいる。
今日は彼とのデートの予定なのだ。
講義が終わると、彼女は早足で教室を出て、正門へと走る。
息を切らしながら正門の前まで辿り着くと、そこには既に最愛の人が待っているのが見えた。
男の名前は前田拓哉(まえだ たくや)。
彼は近くの大学の学生で、咲輝とは高校時代からの付き合いだ。
髪は少し長めで、咲輝と同じ金色をしている。
アクセサリーを幾つか身に付けていて、誰が見ても真面目な印象は受けないだろうと思われる外見だった。
「ま、待った?」
拓哉の前まで辿り着いた咲輝が、呼吸を整えながら話す。
「全然平気。待ってないって」
拓哉は右手を顔の前で仰ぐように振って否定した。
実際は、拓哉がここに来てから三十分が経っていた事を、咲輝は知らない。
「よし。じゃあ、今日は何処行こうか?」
拓哉はバイクに鍵を差し込んで、バイクに跨った。
大きな排気音が響く。拓哉は後ろに乗れ、と親指で肩越しに後部シートを指して合図した。
咲輝は拓哉が合図するよりも少し早くにシートに乗っていた。
「何処でも良いよっ、拓哉が選んで」
咲輝は両足を片側に揃えて座ると、拓哉の背中に掴まった。
「よぉし、しっかり捉まってろよ」
大きな排気音の後、バイクは勢い良く走り出した。
映画、ショッピング、食事と二人は街を遊び歩いた。
明日が休日という事もあって、二人はかなり夜遅くまで遊んでいた。
夜の十二時頃になると、二人は拓哉の家に行く事に決めた。
拓哉はお世辞にも大きいとは言えないアパートで一人暮らしをしている。
生活感溢れる部屋の中、二人はベッドに座り、テレビ番組を眺めている。
咲輝は少し赤い顔をしていて目が虚ろだった。恐らくアルコールが入っているのだろう。
彼女はまだ十九歳だが、酒には強いと自負していた。
「ねぇ、拓哉ぁ」
咲輝が少し呂律の回っていない言葉で話しかける。
「拓哉は……結婚って考えた事ある?」
咲輝は拓哉の腕に抱きついて、少し上目遣いに拓哉を見ている。
抱きついてると言うよりは、倒れないように寄りかかってると言った方が正確かも知れない。
「結婚? そんなの、まだ考えてねぇよ」
拓哉は少し馬鹿にしたように笑いながら言った。
拓哉の顔も少し赤らんでいたが、彼二十歳なので法律的な問題は無い。
「ふーん、そうなんだ」
咲輝は少し詰まらなそうな表情を見せて、拓哉から体を離す。
その後直ぐに、両手を胸の前で祈るように組み、呟く。
「あたしね、ウェディングドレス着るのが夢なの」
咲輝は少し息を吐いて、ぼぉっと天井を見つめる。
それは丁度、シスターが礼拝をする姿に良くにていた。
暫く天井を見つめた後、眼の焦点を拓哉に合わせ、じっと見つめたまま固まる。
「……だから、俺はまだ結婚なんて考えて無いっつの」
拓哉は、子供の我が儘を聞く様な口調で否定して、顔を咲輝の反対へ向けた。
「良いわよ、分かってるから」
咲輝は両の頬を膨らませると、ベッドに仰向けに倒れる。
「怒んなよ、結婚なんかしなくても幸せじゃん?」
拓哉もベッドに仰向けに倒れて、咲輝の頭を撫でる。
だが、咲輝はあっという間に眠りについていた。
彼女はアルコールに極端に弱い体質の様だった。
翌日の午後一時頃。強い日差しが、咲輝を眠りから覚ます。
この時間は、彼女にとってはまだ午前中と同じ感覚だが。
咲輝はベッドの上から起き上がると、昨日の記憶を少しずつ取り戻す。
「そっか……あたし、あのまま寝ちゃったんだっけ……」
ぼさぼさになった髪を触りながら、辺りを見回す。
部屋に拓哉の姿は見えない。
「ねぇ、たくやぁー?」
名前を呼んでも返事は返ってこなかった。
ふと、机の上に書置きがあるのを見つける。
メールがあるのに、書置きというのも少し変わった人だ、と咲輝は思った。
書置きには、バイトに行って来るから帰っててくれ、と大体その様な事が書かれていた。
携帯電話で拓哉にメールを送ったが、返事は返ってこなかった。
咲輝は少しばかりの不満を持ったが、仕方なく家に帰る事に決めた。
咲輝の家は、拓哉の家から歩いて帰れる距離にある。
外は暖かい日差しで心地良い。咲輝は自宅に向かって歩き出した。
家に帰った咲輝は、夜までの時間を潰すと、近くの弁当屋へと夕飯を買いに出かける。料理をする気分では無かった。
何を食べようかと考えながら公園の横の道を歩いている途中、奥のベンチに二つの人影があった。
暗くて良くは見えないが、一組のカップルが座っているようだ。
咲輝は気にせず通り過ぎようとしたが、ベンチの方からの聞き慣れた声に、足が止まる。
彼女は嫌な予感を胸に、奥のベンチを、目を凝らしてもう一度覗き込んだ。
そこに座っていたのは、拓哉だった。
何を話しているかまでは聞き取れなかったが、唯の友達では無い事は見て取れた。
「信じらんない……」
小声で独り言を吐き捨てると、咲輝は公園の横を走って通り抜けた。
それから十数分後、弁当の入ったビニール袋を片手に、咲輝は再び公園の横の道を通っていた。
ベンチに拓哉達の姿は、もう無かった。
「あの女……私の拓哉を盗るなんて許せない……。拓哉は私だけの物なんだから……」
さっきまでカップルがいた方を見て、咲輝は少し涙目になって立ち止まった。
小さく溜め息を吐いて、再び歩き出した時、前に男の姿が見えた。
男は白衣を着ていて、壁に寄りかかって立っている。
「こんな所にどうしてお医者さんが……もしかして……変質者?」
そう思った咲輝は少し早足になって、直ぐに道を通り抜けようとした。
男の前を通る時、咲輝は男の顔をこっそり覗き見た。
男は若く、二十代中頃に見えた。
男はその格好に不釣合いな、ぼさぼさの黒髪をしていたが、顔は咲輝の基準では格好良い部類に入っていた。
「変質者じゃ無かったのかな……ちょっと怖かったけど」
男の前を通り過ぎ、咲輝が背中を見せた時、後ろから呼び止める声がした。
「そこの貴女、恋愛に悩んでいますね?」
咲輝は驚き、慌てて振り返る。
「え……? 私?」
咲輝は恐る恐る、男に尋ねる。
「……浮気ですか。それは悲しいですね」
男は質問に答えなかった。
それどころか更に言い当てて見せた。
「何でそんな事がアンタに分かんのよ……意味分かんない……」
咲輝は少し怒ったような声で言った。
だが、その表情は明らかに男の言葉に驚いている。
驚いていると言うよりは、まるで超能力者の様なこの男に、恐怖を感じているようだった。
「浮気癖を治す薬を差し上げましょうか」
男は咲輝の質問を無視し、一方的に話している。
男は優しそうな笑顔を作っていたが、それは同時に、咲輝の反応を楽しんでいる表情にも思えた。
「なんなの……? 薬……?」
咲輝はいよいよ、この男が怪しい男だと感じた。
だが、自分の心を見透かしたこの男を、この話を、無視する事は出来なかった。
「ええ。貴女の意中の人が、二度と浮気をしないようにするのです」
男は初めて咲輝の質問に答えると、自分の小さいポケットに手を入れた。
「それが、この薬です」
男はポケットから紙製の小さな白い袋を取り出して、咲輝に渡した。
それは病院等で出される、薬を入れる紙袋に良く似ていた。
「何よ、これ」
咲輝は渡された袋を訝しげに四方から調べている。
袋を開けると、薄い半透明の袋に粉末が一つ入っていた。
「まさか、麻薬じゃないでしょうね……?」
咲輝はそう尋ねたが、普通の薬の訳が無い、と尋ねてから気付いた。
咲輝は体の後ろに重心を掛けて、いつでも逃げられる準備をした。
「いえいえ。そんな物じゃありませんよ」
男はゆっくりと首を横に振った。
「その薬は、飲んだ者に永遠の愛を誓わせる媚薬です」
男は腕を胸の前で組み、誇らしげに言った。
「媚薬……? 惚れ薬って事……?」
男の荒唐無稽な台詞に、咲輝は少し馬鹿にしたように笑った。
同時に、少し呆れていた。
「何言ってるの? そんなもの……」
そこまで言った咲輝の言葉を男が遮る。
「信じるかどうかは貴女次第です。詳しい事は袋の中の紙に書いてありますので」
そう言うと男は目の前からふっと消えてしまった。
「消えた……」
咲輝は暫く空いた口が塞がらなかった。驚きが大きすぎて、男と会う前の事などすっかり忘れてしまっていた。
少しの間その場で立ち尽くしていたが、直ぐに気を取り戻すと、薬の袋を調べたり、辺りを見回したりと、挙動不審な動きをしていた。
「もしも、本当にそんな薬があるなら……」
咲輝はすっかり男の言う事を信じていた。信じられない出来事を目の当たりにして、彼女の常識が変わってしまったのだろう。
咲輝は急いで家に帰ると、袋の中に入っている紙を食い入るように読んだ。
紙には、
「この薬品は意中の異性に服用させる薬品です。誤って本人が服用しないようご注意下さい。
服用の際は、一日一回、食事や飲み物に混ぜて御使用下さい。本薬品は無味無臭の為、気兼ねなく御使用頂けます。
一度の服用で薬を飲ませた異性は永遠の愛を捧げます。
但し、事後の処理等においての責任は一切負いません。ご自身の判断で用法用量を守って正しくご使用下さい。
――冥界クリニック」
とあった。
「凄い……こんな薬があるなんて、夢みたい」
咲輝は紙に書いてある文章に一片の疑いも持たなかった。
最早、彼女はそれだけの判断力すら失せてしまっていた。
彼女はその薬を大事に鞄にしまって、ベッドに倒れた。
彼女の頭の中には、どうやって拓哉に薬を飲ませるか、薬を飲ませたらどうなるか、それだけしか頭に無かった。
頭の中を色んな事が駆け巡って、眠りにつくのがいつもより二時間も遅かった。
次の日の朝、咲輝は大学に行く準備をしていた。
今日は二限目からの講義だったが、いつもより時間の余裕が無かった。
きっと、昨日良く眠れなかったせいだろう。
咲輝は一時間程で全ての準備を整えると、鞄の中に紙袋が入っている事を確認して、家を出た。
学校まで向かう電車の中で、咲輝は鞄の中から携帯電話を取り出し、拓哉にメールを送った。
学校に着くまで待っても返事は返ってこなかったので、咲輝は携帯電話の電源を切って鞄にしまった。
一日の講義が終わり、携帯電話の電源を入れると、拓哉から返信が来ていた。
咲輝の、昨日ずっと何をしていたのかという質問に、拓哉はずっとバイトをしていたと返していた。
正直に言う筈が無い事は明白だ。咲輝は拓哉をデートに誘うメールを送った。
それから一分程待つと、直ぐに返事が返って来た。
拓哉は今日もバイトが入っているので、夜に咲輝の家に来ると書いてあった。
咲輝には、拓哉は本当にバイトが入っているのかさえ疑わしかったが、彼の言うとおりに従う事にした。
夜の八時頃、咲輝は二人分の夕飯の支度をしていた。
拓哉はきっと九時頃には家に来るだろうと見越しての事だった。
咲輝の得意料理のオムライスを作っている途中、突然インターホンが来客を知らせた。
「おおっ、良い匂いじゃん。オムライス作ってんの?」
咲輝が応対する前に、拓哉は嬉しそうな表情で家に上がって来た。
この料理は彼の大好物だ。
「あれ、今日早くない? まだ料理出来てないの……」
咲輝は両手を顔の前で合わせて可愛げに謝った。
「もう少しで出来るから、テレビでも見て待ってて」
そう言うと咲輝は忙しそうに調理台に戻った。
拓哉がリビングでバラエティ番組を見ているのを横目に、咲輝は料理を続けている。
調理中の咲輝は常に笑みがこぼれていた。それは、今から婚約する花嫁のような、穢れのない笑顔だった。
オムライスが完成すると、小さ目の冷蔵庫からお茶を取り出し、それをグラスへと移す。
その後、拓哉がまだテレビを見ているのを確認すると、自分の鞄からこっそりと粉末の薬を取り出し、それをお茶と混ぜる。
紙に書いてあった通り、薬が入ってる事は外からは全く分からなかった。
「完成~」
咲輝は満面の笑みで、拓哉に夕飯を差し出す。
「おぉ、うまそうじゃん。いただきまーす」
拓哉は満足そうに食事を口に運ぶ。
咲輝はその様子を満足そうに眺めている。
食事の後、拓哉はコップに入った水を一気に飲み干す。これは彼の癖だった。勿論、咲輝も知っている。
いつ効果が表れるのかと、咲輝は拓哉をじっと観察している。
表面上の変化は全く無いので、その効果は直ぐには分からなかった。
だが、咲輝に対する今日の拓哉の反応は、明らかにいつもと違う事が分かる。
「ねぇ拓哉、アタシの事好きぃ?」
咲輝は拓哉に上目遣いで尋ねる。
「当たり前だろ、世界で誰よりも好きだよ」
拓哉は咲輝の肩に手を回した。
「お前の事を一生愛し続けるよ」
咲輝は寒気で身震いした。
いつもなら、ここまで歯が浮くような台詞は言わない。
これは、薬の効果だ。咲輝は直ぐに確信した。
それからの一年間、咲輝は幸せに満ちていた。
拓哉は他の女性には全く興味を示さないし、自分には最高に尽くしてくれる。
理想の男だと、咲輝は思った。
だが、月日が経てばそんな感情も少しずつ薄れていく。
拓哉は何でもしてくれた。何一つ文句も言わずに、咲輝の言う事を忠実に聞いてくれる。
咲輝もそれに甘え、次第に拓哉を利用し始めた。
今の拓哉は自分の彼氏というよりも、召し使いや奴隷に近かった。
日が経つに連れ、拓哉に対する咲輝の恋愛感情は希薄になっていった。
そんな折に、咲輝は友人達との親睦会で、ある一人の男性と知り合う。
男の名前は真田明(さなだ あきら)。
彼は一流の企業に勤める若手ビジネスマンだ。
彼の雰囲気からは真面目さが伺えるものの、何処か親しみやすい空気を纏っていた。
眼鏡を掛けているせいか少し地味にも見えるが、顔はアイドル並に整っている。
咲輝は彼に幾らかの好意を持ったが、自分ではとても届かない存在だと悟っていた。
しかし幸か不幸か、彼は咲輝に一目惚れしてしまったのだ。
二人は僅か一日の間に一気に距離を縮めた。
お互い、相手が自分に好意を持っている事を直感的に感じていたからかも知れない。
二人は、その日の終わりに互いの連絡先を交換し、別れた。
それから幾度か二人は交流を重ねる。恋愛関係に至るまでに、そう時間は掛からなかった。
咲輝は拓哉に別れを告げ、真田と付き合う事に決めた。
拓哉は納得していない様子だったが、咲輝が一方的に別れを告げる形で関係は終わった。
真田は一流の風格に誠実さ、優しさを兼ね備えた完璧な男だった。
それは、拓哉には全く無かった魅力だった。
そんな男が自分に好意を持っている事に咲輝は酔いしれていた。
――だが、そんな関係を拓哉が放っている訳は無かった。
別れ話をされても尚、拓哉は咲輝にメールを送り続ける。
咲輝が携帯電話の機種と番号を変えても、拓哉は咲輝の家に手紙を送って来た。
拓哉の手紙とメールには、咲輝を思う気持ちが延々と書かれていた。
不気味に思った咲輝は、直ぐに近くの町に引越しをした。
だが、そこにも拓哉からの手紙は、何通も、何通も届き続ける。
大学からの帰り道にも拓哉の影が見える。
家の外にも、何処かへ出かけた時にも、拓哉は常に何処からか覗いている。
少なくとも、咲輝はそう感じていた。
咲輝が大学から家に向かう暗い夜道を歩いている途中、前に見える物陰に男の姿があった。
拓哉が待ち伏せしているのかと思い、咲輝はいつでも逃げられる心構えで歩いた。
しかし、その男は拓哉では無かった。
ボサボサの黒い髪に、白衣姿。
それは紛れも無く、咲輝に薬を渡した男だった。
男の顔を確認すると、咲輝は男に向かって一目散に走り出した。
息を切らしながら近寄って来た咲輝を、男はじろじろと楽しげに眺めている。
「どうしました?」
男は自分の顎に手を当てながら少しにやけた。
「お願い、元に戻す薬を頂戴。貰った薬を、飲ませた人が、元に戻らないの……」
咲輝は短く息を吐きながら必死に頼み込む。
「ほう……元に戻したい、と。永遠の愛が欲しかったのでは?」
男は咲輝の反応を楽しむように意地悪く尋ねる。
「あんなの、永遠の愛なんかじゃない。直ぐ元に戻してよ!」
「ご満足頂けませんでしたか……残念です。しかし、只で戻す訳にもいかないのですよ」
男は顎に当てていた手を下ろして、腕を組んだ。
男の表情は残念そうだったが、それは道化の演技のように感じた。
「何よ……お金でも取ろうって言うの? 良いわよ、それでも。元に戻してくれるなら……」
咲輝は少し不満そうに男を睨んで、小さく溜め息を吐いた。
「いえいえ。お金など取りませんよ。私が欲しいのは、貴女の寿命です」
男の薄い唇の両端が最大限に吊りあがった。
その顔は、悪魔の微笑と呼ぶに相応しい。
「じゅ……寿命? 私の?」
咲輝は男に恐怖して、一歩後ずさりした。胸の鼓動が早まる。
男の台詞が冗談では無い事は、今までの経験から理解出来たからだろう。
「はい、貴女の寿命を頂きたいのです」
男は後ずさりする咲輝を追うように一歩踏み出し、自分の顔を咲輝に近づけて微笑む。
「なぁに、ほんの二十年程頂ければ結構です。直ちに治して差し上げましょう」
男は咲輝の瞳を覗き込み、不気味な笑みを見せる。
それはまるで、何かの催眠術を掛けているかの様な光景だった。
そうでなければ、女を口説く男の姿だろうか……。
「二十年? 冗談言わないでよ、誰がそんなのの為に二十年も……!」
女は、男の口説きをあっさり断った。催眠術にも掛からなかったらしい。
「あなたが何者だか知らないけど、あたしは寿命何てあげないんだから……」
咲輝は男をキッと睨むと、逃げるように走って行った。
男は走り去る咲輝の後姿を見送りながら、一歩も動かずに立ち尽くしていた。
「残念……」
ぽそっと呟くと、男は咲輝と反対の方向へと歩を進めた。
それから一週間が過ぎた。
クリスマスの夜、咲輝と真田は丘の上にある公園へと車で向かっていた。
その場所は真田のお気に入りで、夜景がとても綺麗らしい。
咲輝の住む場所からは、車で二十分程度の距離だ。
彼女は車の中で俯き、黙り込んで考えていた。
相変わらず、咲輝に対する拓哉の気持ちは変わっていない。
尤も、変わる筈など無いのだろうが。
咲輝は拓哉を警察に突き出そうかとも考えたが、自分の責任という事もあってか、中々行動に移せないでいた。
本当は、警察に通報したぐらいでは拓哉が変わらないと分かっているからかも知れない。
そんな事を、ずっと助手席で考えていた。
「咲輝……咲輝?」
ハッと気付くと、咲輝は慌てて顔を上げる。
車は公園らしい場所の前で停車していた。
「大丈夫? まだ前の彼氏の事で悩んでるのかい?」
真田は心配そうに咲輝の顔を覗き込んでいた。
拓哉の事は、真田にも相談していた。彼の返答はやはり、警察に通報するというものだった。
「大丈夫、平気よ」
咲輝は大げさに手を振って明るく否定した。
「そんな事より、早く夜景が見たいな」
咲輝は少し微笑みながらシートベルトを外し、ドアの外へと足を踏み出した。
「ああ、案内するよ。行こうか」
真田も咲輝に続いて車を出ると、そう言って歩き出した。
公園には人気が余り無かったが、思っていた以上に広かった。
低地との高低差では山にも近い程の高い丘に造られた公園には、木が生い茂っていた。
階段を上がり、広く平らな場所に出たが、真田はその更に上へと歩いていく。
丁度、公園の一番高い所へと向かっていた。
周りには背の低い木が沢山生えている。地面は草と土で出来ていて、歩道からは外れていた。
「やっと着いた。ほら、ここだよ」
真田は眼下に広がる夜景に向かって手を差し出した。
そこはかなりの高さがある崖になっていて、眼下の町が大きく見渡せる。
目の前は町の明かりと星空で幻想的に輝いていた。
直ぐ下には道路が通っていて、公園と地上とは小さなフェンスで遮られているだけだった。
「凄いだろう? 僕だけの秘密の場所なんだよ」
真田は咲輝の肩に手を回すと、誇らしげに胸を張った。
「凄い、綺麗……。吸い込まれそう」
咲輝は両手を口に被せ、自分の息を当てて暖めていた。
「ありがとう、こんな素敵なトコを教えてくれて」
咲輝は口に当てていた手を少し下ろして、真田を見上げる。
「綺麗だろう? 一度君を連れてこようと思ってたんだ」
真田は紳士的な微笑みを見せる。左手はまだ咲輝の左肩に掛かっていた。
「咲輝!」
突然、後ろから男の声が響いた。
その声は、咲輝が良く聞き慣れた声だった。
だが、その声は咲輝が今まで聞いた事の無い、強張った声をしている。
「拓哉……」
咲輝はその場で固まり、上半身だけで声の方を振り返った。
「この男が……例の、前の彼氏かい?」
真田は自分の眼鏡を中指で軽く持ち上げ、突然現れた男を睨みつける。
「ええ、そうよ……こんな所まで来るなんて、信じられない」
咲輝は真田の背中を掴んだ。体の三分の二は真田の陰に隠れている。
「咲輝……俺は咲輝をこんなに愛しているんだ……なのに、どうしてそんな奴と一緒にいるんだよ」
拓哉は両腕をだらりと下げていて、まるで足以外に力が入っていない様だった。
だが、彼の両手に固い握り拳が出来ているのが見えた。
「お前、何のつもりだか知らないが、いい加減に咲輝に付き纏うのはやめろよ」
真田が、咲輝よりも一歩前に出て、拓哉に厳しい口調で放つ。
「彼女は困っているんだ、お前は迷惑な事をしてるんだよ」
真田と拓哉が対峙している時、咲輝は真田の背中から様子を伺っていた。
彼女は不謹慎にも、真田の以外に男らしい一面に感動していた。
「迷惑だと……? 俺は咲輝に永遠の愛を誓ったんだ!」
拓哉の体勢は全く変わっていなかったが、表情で真田を威嚇している。
「だから、その愛情が迷惑だと言っているんだ。いい加減にしないと警察に通報するぞ、このストーカーめ」
真田は、まるでドラマに出て来る弁護士のように、綺麗な直立の姿勢で拓哉を指差した。
その姿は、普段の優しい真田とは違っていた。それがまた、咲輝には魅力的だった。
「ふん、ストーカー? 本当の愛情は、相手からの見返りなんか求めないんだ」
拓哉は威嚇していた表情を和らげて、肩を一度上下させて嘲笑った。
「相手にどう思われようが、自分の気持ちを貫き通す。これが本当の愛情だ。相手から好かれようとする愛情は、自分の利益の為の愛情でしかないだろ?」
拓哉は両手の平を、肩の辺りで上に向けて上下させた。
海外のコメディドラマの様な動きは、真田を馬鹿にした意味だろう。
「勝手な恋愛論だな。お前の存在は迷惑でしかない。この行為も犯罪なんだ。分かっているのか?」
真田は少し呆れた表情をして、不機嫌そうだった。
「犯罪ね……罪なんてものは人間が作り出した勝手なルールだ。善悪は自分の中だけに存在する。法律は正義じゃないんだよ」
拓哉は少し気取った表情を見せた。
「お前は本当に勝手な人間だな。お前が正しいと思おうが思うまいが、お前は法律に裁かれる。それがルールだ」
真田は感情を抑えて、冷静に話しているが、その声と表情から、内面では激しい怒りで溢れている事が想像できる。
「そうよ」
突然、咲輝が真田の体から二分の一程、自分の体を表して話し出す。
「貴方はもう、昔の拓哉じゃないわ……。昔はそんな人なんかじゃなかった……」
咲輝の台詞に、拓哉は少し悲しそうな表情になった。
「咲輝……お前が変わってしまったんだ」
拓哉は足を一歩前に踏み出したが、同時に咲輝が真田の後ろに隠れたのを見て、そこから先には進まなかった。
「その男か……? その男がお前を変えたんだな? その男さえいなければ、元に戻るんだな……?」
拓哉はまた一歩、二人に近づく。
まるで放心状態かのように、全身の力が抜けた状態で立っているが、その目はぎらついている。
「嫌、やめて……。そんなの拓哉じゃないよ……」
咲輝は真田の腕の横から顔を出した状態で、声を震わせながら言った。
「俺は拓哉だよ、咲輝。お前が咲輝じゃないんだ。直ぐに元に戻してやるからな」
拓哉は優しく微笑んだつもりだろうが、咲輝には殺人鬼の表情にしか見えなかった。
二人と拓哉の距離は、もう三メートルも無かった。
「お、お前正気か……? 本当に俺を殺すつもりか……?」
真田は後ずさりしたが、直ぐ後ろに隠れている咲輝に当たって止まってしまった。
「俺は正気だよ。俺はお前とは違う。咲輝の為ならなんだって出来るんだ」
拓哉は更に一歩進んだ。二人との距離は二メートル程になっていた。
「本当に……何でも出来るの?」
咲輝が真田の後ろから完全に姿を現した。
「ああ、なんでも出来る。絶対にだ」
拓哉はもう一度優しく微笑んで見せた。
「じゃあ、もう二度とあたしの前に現れないで。あたしの前から消えてよ!」
咲輝は強く拓哉を睨んで、鋭い声で言い放った。
「……」
拓哉はその場で暫く立ち尽くしていた。何かを考えているようだ。
「そうだな……俺はお前の為なら何でも出来る……でも、いつかまた会うかも知れない……いや、きっと会いたくなる」
拓哉は二人から視点を外し、眼下に広がる夜景を見ながら独り言のように呟いている。
「うん、そうだな。会いに来てしまったらそれは本当の愛情じゃないよな。でも、俺は我慢が苦手だからな」
拓哉は急に早歩きで二人のいる方向へ向かって来た。
真田と咲輝が慌てて離れると、拓哉は二人に目もくれず一面の夜景へと向かって歩いていった。
「うん、やっぱりそうだ、俺は死ぬしかない。それが本当の愛情だ」
そう言い残すと、拓哉は小さなフェンスを軽い身のこなしで乗り越える。
二人は口を開けて、呆然と一連の動作を見ていた。
真田が足を踏み出した瞬間、拓哉は街の明かりに吸い込まれていった。
辺りは音が無く、二人は時間が止まったような錯覚を覚えた。
直ぐに、大きな物が落ちる音が下から聞こえた。
「本当に……死ぬなんて……」
咲輝は両腕で自分を抱くような格好をして、震えていた。体が一気に冷える。
それを見た真田が、咲輝の肩に左腕を回して抱きしめる。
「悪い夢だったんだ……忘れよう」
そう言うと、二人は車へ向かって歩いていった。
咲輝は警察か救急を呼ぶべきじゃないかと考えたが、言葉に出せないまま、車に乗った。
それから三十分後、下の道路から通行人の悲鳴が響いていた。
警察の調査の後、事件は自殺か事故死として処理されたらしい。
初めは罪悪感があった咲輝だが、次第に、ああしなければ解決しなかったんだ、と思うようになった。
二人の少し気まずい空気も、一週間もすれば殆ど無くなっていた。
それから二年後。
二人はすっかり事件の事を忘れ、めでたく婚約していた。
咲輝は一年間の間OLとして働いていたが、婚約と同時に退職し、専業主婦となった。
真田明は順調に業績を伸ばし、昇進の話も上がっている。
真田咲輝の胎内には、結婚前に宿った子供もいて、咲輝は幸せに満ちていた。
咲輝が妊娠四ヶ月になった頃、真田明の帰りが段々と遅くなっていた。
仕事が忙しい時期なのだろうと考えたが、明の態度も心なしか冷たい。
不審に思った咲輝は、明が眠りについた後、こっそりと明の鞄の中から、携帯電話を取り出す。
暗証番号のセキュリティが掛かっていたが、明の誕生日を入力すると簡単に開いた。
メールの受信欄は、「恭子」からのメールで埋まっている。
内容は殆どが筆舌に値しない文章だった。
人生二度目の裏切りに、咲輝の心は激情に支配された。
だが、これを明に言ってしまうと、家庭が壊れてしまうかも知れない。
折角ここまで築き上げたものが壊れてしまう。
咲輝はそう思い、明の携帯電話を元通り鞄に戻した。
次の日の朝、明はいつものように出勤し、咲輝もいつものように見送る。
咲輝は掃除と洗濯を終えると、近くのスーパーマーケットへと買い物へ出かけた。
そこで一通りの買い物を済ませると、家へと向かって歩き出す。
辺りはもう日が暮れ始めていて、薄暗かった。烏の鳴き声が聴こえる。
公園の横の道を通る時、前に男の姿が見えた。
咲輝は男に見覚えがあった。
ボサボサの黒い髪に、白衣姿。
切れるような目つきに、にやけている薄い唇。
「貴方は……」
咲輝は男の前で足を止めた。
「おや、これは久しぶりですね」
男はじろじろと、咲輝を撫でるように見ながら話す。
「フフ、幸せそうですな」
男は自分の顎を撫でながら、少し皮肉っぽく言った。
「あの……」
咲輝はそこまで言って、少し躊躇った。だが、言葉を続ける事にした。
「前にくれた薬、まだあるの……?」
咲輝は昔に貰った薬を、明にも使おうと考えていた。
「おや、あの薬は満足頂けなかったのでは?」
男は眉を少し上に上げて、不思議そうにしている。
この反応も、咲輝には道化の演技に見えた。
「仕方無いじゃない……このままじゃ家庭がばらばらなの。それに、明なら……」
咲輝は男に歩み寄って、両手に持っていた買い物袋を地面に置いた。
「ふむ……」
男は暫くの間、自分の顎を撫でて何かを考えているようだった。
咲輝はその様子を固唾を呑んで、じっと見つめている。
「……良いでしょう。もう一回分出しましょうか」
男は観念した表情で、仕方なさそうに言った。
「本当に!? まだあるのね? 良かったぁ」
咲輝は両手を胸に当てて、安堵の息を吐いた。
「しかし、この薬は大変貴重でしてね。二回目は寿命十年分となっておりますが」
一度、男が唇を舐めているのが見えた。
「構わない、十年ぐらい……」
咲輝は胸を張って、男の正面に立った。
「……で、どうやって取るって言うの?」
胸を張った後で、咲輝は不思議そうに首を傾げた。
「そのままでいれば結構です」
そう言って男は咲輝の頭に手を乗せた。
三秒程の間、男は動かなかった。
短い時間だったが、これが咲輝の十年間だった。
「確かに、頂戴しました」
男は満足そうな表情で咲輝の頭から手を離した。
「それでは、今回の分のお薬です。使い方は以前と変わりませんので」
男は、自分のポケットから紙の袋を取り出すと、それを咲輝の手に握らせた。
「では、お大事に」
そう言って男は咲輝に背を向けた。
「あ、あの……」
咲輝が男を引き止めた。
「もしも、私がまた寿命を払えば、元に戻せるの?」
咲輝は昔の事件を思い出した。
忘れかけていた聖夜の事件を。
男は、顔だけで咲輝の方を振り返ると、口元を歪ませてこう答えた。
「どうせ私が戻しても、貴女はまた薬を取りに来るのでしょう?」
咲輝が何か言おうとした瞬間、男は陽炎の如く闇へと消えてしまった。
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