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南ア プレトリアに滞在一ヶ月半。すっかり南アの気候、時間にも慣れた頃に帰国。仕事とは言え結構辛いものがある。前の日記にコメを頂いた方々にはこの日記を持ってレスとさせていただきます。何せ会社のラップトップからは自分のブログにアクセスできず(パスワードを忘れた)返事がすっかり遅くなってしまい申し訳ない。出書ける前に事前情報を色々と仕入れて行ったが、どれも当てにならない事が良く判った。特に「地球の歩き方」。 この本を片手に色々なところへ出かける方も多いと思うが、こと南アに関しては全く当てにしない方が良い。ヨハネス、プレトリアの街中を歩けるような事が書いてあるが、まるっきりの嘘である。滞在の殆どはプレトリアとサントンであったが、あの街の中を歩く勇気がある日本人が居たらお目に掛かりたい。余ほどの馬鹿か、安全に関する基準が全く違う人種だろうと思う。プレトリアに仕事場がある現地の白人連中が歩かないのにどうして目立つアジア人が街中を歩けるのだろうか?「地球の歩き方」はプレトリア駅周辺についても触れているが、あのガイドブックを編集した人はあの辺りに行った事があるのだろうか?正直言ってプレトリアの人間の8割から9割は黒人である。白人は滅多に見ない。黒人イコール「悪]とは言い切れないが、南アと一部のアフリカ諸国ではその図式が当てはまる。滞在中も邦人がヨハネスで誘拐されたとニュースが入った。幸い無事に解放されたから良かったようなものの、もしあのガイドブックを読んで来られた方だとしたら出版社は責任の一部を感ずるべきだと思う。我々が滞在したのはSandtonと言う町でヨハネスに近い。比較的安全とは言われていたが、くれぐれも一人歩きはしないようにと何度も注意された。それも昼間。小生の場合、どちらかと言うと感覚的にも体格的にも日本人離れしているので然程の危険は感じないが、普通の日本人は非常に目立つ。 それも不思議なくらいに。アジア人も少なく、着ている洋服も現地の連中とは違うので一目瞭然。ハッキリ言って日本人が着ている洋服は海外では非常に目立つ。他のアジアの服装とも違う。あんな服装をしているのは日本人だけ!このSandtonの街に隣接するAlexisandoriaと言う街がある。所謂黒人居住区、あるいは下階層階級の連中が住む街である。サントンとは橋を隔てているのだが、絶対に橋の向こうへは行くな。例え車でも行くな!と言われた。実際現地に駐在している商社員に話を聞いたが、日本人会が古着をアレキサンドリア内の小学校に寄付しようと申し出たところ、地元警察は危険だからと言ってパトカーではなく”装甲車”を出してくれたそうである!その駐在員古着と一緒に装甲車の中に座り生きた心地がしなかったそうである。因みにこれは本人から聞いた話。などと、書くと凄い所だと思われるだろう。実際凄い所だが、それでも治安をのぞけば非常に住みやすいところでもある。次からは写真もまじえて少し南アを紹介してみよう。
2008.11.22
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お久しぶりです。日本に帰国以来すっかり日本タイムにはまりつつあるWBです。仕事柄海外出張が多いが、今回は特別。行く先は南アフリカのプレトリアで期間は一ヵ月半。長ければ11月に入ってからの帰国になる可能性も。南アはNZと同じく南半球にあるので季節的にこれから春。もっとも気温は既に30度を超えているそうな。とかく治安について取りざたされている国なのでとりあえず気をつけて行って来ようと思う。では皆さんお元気でWB
2008.09.15
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帰国に際し、考えたのがどの程度の荷物を持って帰るか?出来れば、電気製品を除き家具類などは全て持って帰りたいがそれは望むべくもない。一度は、家具を持って帰ろうと海外引越し会社2-3から見積もりを取って見たが、運賃が馬鹿みたいに高い。結局家具類は全てガレージセールで二束三文で叩き売り、身の回りの品物だけど送り返す事にする。色々調べた結果、日○通運の引越し便が一番リーズナブルに思えたので75キロパックで荷物を送る事にした。勿論これだけでは足りないので、Post office(郵便局)からのエコノミー便も併用して荷物の発送を開始する。帰って即必要な物は郵便局から、時間が掛かっても良い物は船便扱いの引越し便でと考えながら振り分ける。この作業も結構大変で何回がやり直した。さて、日本に戻って何を最初にしなければならないのだろうか?と日本行きの飛行機の中で考える。銀行口座を作って、運転免許書を書き換えてと考えて行ってハタと気がついた。自分は日本では「住所不定無職」である事に気がつく(笑)。そう。先ず住民登録から始めなければならない。久しく忘れていたこの住民登録、日本では極極当たり前の事だがNZでは全くこの手の登録はしない。 というかその制度そのものがない。よって登録制度から発生する様々な名目の地方税も一切ないのである。日本に帰っても自分の存在あるいは身分を証明するものはパスポート一冊だけ。自分が海外に居れば当たり前の事だが、自分の母国に戻ってパスポート一冊しか身分証明書がないと言う状況は一寸不安だった。さいわい、印鑑の類は実家に預けてあったので1月末に横浜に戻ってすぐに南区役所に出向き「転入」手続きを済ませる。そう、海外に長い期間出る時は住民票の「転出」手続きをしていかなければならない。住民登録と同時に印鑑登録も済ませる。日本ではこのハンコがなければ何も始まらないのを思い出す。実は、最近まで向こうのクセが抜けず、日本に帰ってもハンコを持ち歩かないで何回かしまったと思うことがあった(笑)。まあ、これで先の「住所不定無職」のうち「住所不定」の冠だけは取れたが、今度は新たに「浦島太郎」という名前を貰う事になるような出来事にぶつかるのである。それは次回に。WB
2008.06.01
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帰国約18年ぶりの日本である。昨年11月末から12月初旬に掛けて一時帰国したが、それは今回の帰国に繋がるものであった。実際には1月末に日本に”入国”し、その後の”社会復帰”をマイペースで進めながらやっとこの頃落ち着いたので、久々にブログを更新することにした。この間読者の皆さんにご無沙汰したこと誠に申し訳ない。こう書くと事情の判らない人もあると思うので、かいつまんで説明しておこう。18年前に家族でNZのオークランドに移住し、子供を育て大学にも入れたが、離婚して一人と一匹でホークベイのHastingsに移り住んでいた。その後楽天のブログ「ニュージーランドWalker」を通じて、素敵な女性とめぐり合い第二野人生を歩み出すことを決意。決意は良いが、生活するにはy針先立つものが必要である。しかし、年齢の事もありより良い収入を得るための転職活動もはかばかしくなく、一時はあきらめかかるが視点を変えて日本での再就職を目指す。理由は簡単。 「どちらの国でより自分を高く評価してもらえるか?」 と考えただけ。答えは簡単に出た。日本である。さいわい、英語には不自由しなかったので”英語力”を有効に使える職場をさたすが、それでも職場が決まるまで2年近くを要した。もっとも最初の一年は、履歴書の書き方の未熟さや、企業側の採用システムの変更などに、無頓着だったのでかなりの時間を浪費したと言えるだろう。最終的に昨年11月までに2社に絞込み11月末に一時帰国しそれぞれの会社と面談し両方会社からも内定を貰う事が出来たが、一番やり甲斐がありそうな仕事を選ぶ事にした。会社からは、昨年内に帰国して欲しい旨要望があったが、幾ら独り身とは言え18年間住んだ国を離れるに当たっての清算は簡単ではない。そこで、本年1月末までに帰国と言うことで了解してもらい、準備に入ったがこれが結構大変だった。なぜ帰国する気になったのかは、先ほど書いたが他に理由を挙げれば幾らでもある。でも決して誤解してほしくないのは、NZが嫌になったから帰国するのではないのである。むしろその逆で、NZで新しく第二の人生を始めたかったくらいである。しかし、現実的には当時の給与では一人で生活するには十分でも、家族を養うには不十分であり、そこから「一番自分を高く売るには何処の市場が良いのか」と考えた訳である。勿論、年齢50歳の男が再就職を目指すとき、その前途は容易ではない事は幾らNZボケした自分にも理解できた、と言うか覚悟はしていた(苦笑)。最初は、企業側からの反応の無さにあせったり、首を傾げたりしたが何の事はない、自分のアプローチが間違っていただけだ。でもこれにに気がつくのに、結構遠回りしてしまった。その後実に色々な経験を経て現在自分は神奈川県高座寒川町の自宅でPCの前に座りこれを書いている。此処まで来る過程の経験は非常に貴重なもので、日本でずっと生活している方がには中々味わえないと思うので、これからボチボチ書いて行こうと思う。このページ(ブログ)を始めた頃とは一寸方向が変わったが、虹の立つ国は何時までも自分の心あることだけはたしかである。では。
2008.05.18
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前回日記で、上の息子の日本での就職について触れたが、その後経過を皆さんに報告しておこう。結論から言うと、インターンシップを一月早く切り上げ無事に正式採用になった。しかし、此処まで来るには彼も相当苦労したらしい。何をか? 日本語と言う”伏兵”である。入社前は外資系で社内は100%英語と聞いていたので、気楽に構えていたらしいが、インターンで配属された先が新たに立ち上げた「派遣部門」。元々この会社は、人材紹介会社で業界では結構有名らしい。この部門は看板通り英語100%で仕事をするらしい。なぜ息子がこの新たに立ち上げた「派遣部門」に配属されたのか定かではないが、想像するに理由は彼の「日本語」かもしれない。「日本語」と書くと矛盾しているように、思われるかもしれないが、彼の日常会話の日本語は結構”使える”のである。親が書くと欲目と思われるかもしれないが、最近の日本の若者と違い綺麗な日本語を話すし、言葉も丁寧である。普通に話す分には十分日本人として通用するのである。しかし彼は話せても書く事は苦手である。特に丁寧語、敬語、ビジネスで使う一般的な日本語の語彙がかなり不足している。それともう一つの理由は彼の”外見”ではないだろうか?彼の外見は丸っきり一寸体格のいい”日本人”である。そんな理由から、クライエントと日本語でコミュニケーションを取らなければいけない”派遣部門”に配属されたきらいがある。彼曰く、一番困ったのが同僚であり、先輩である日本人社員の理解の無さ。さっきも書いたように、外見が日本人であるし、極普通の日本語を話すので先輩達はツイツイ日本人同士のように彼に接してくるが、実は彼は帰国子女である事を忘れている。そして、彼はいわば半分西洋人である事を忘れているのである。物事の考え方一つにおいても かなり隔たりがある事を理解されていないようである。クライエントからも、「君の日本語は一寸変だね!?」と何回が指摘されたらしい。一時はミドルネームを付けて、日系二世と語ろうかと本気で考えたらしい(笑)。幸い直属の上司がアメリカ人で彼の事を良く理解してくれているようなので、まだ救われているらしいが、外資系の会社で”日本語”で苦労するとは親子共々全く予想していなかった(笑)。もっとも、彼には日本語の素養はあるので、覚えるのは時間の問題だから焦るなと何度もアドバイスをしている。しかし、それなりプレッシャーも感じ、また内心忸怩たるものがあるらしい。年末は先輩諸氏が休暇だったこともあり、超多忙を極め残業もありしっかり日本のサラリーマンしたようだが、その分仕事も速く覚えた事だろう。日本語に関してはブツクサ言いながらも毎日通っているのは、仕事が結構面白いらしい。息子よ何事も経験だ、頑張れ!Dad.
2008.01.02
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<<第39章「永住者の日本語教育」新年明けましておめでとうございます。2008年が皆さんにとって良い年になりますよう、心からお祈り申し上げます。さて、前回より大分間隔が開いてしまったが、最終章を此処に記します。本当はもっと書きたい事が沢山あるのだが、きりがないしこの辺りで一旦終わりにするのも良いかも知れない。では第39章「永住者の日本語教育」我々両親がある時点で子供達の日本語教育を諦めた理由を此処では少し書いてみたい。それは子供の学習能力である。ある人に言わせれば子供の学習能力は無限の可能性があるという。その言葉を信じたからこそ、我々は子供達をわざわざ日本語補習校に何年も通わせたのであるが、しかし結果は決して親が満足するほどのものは得られなかった。なぜか?簡単である。 一日8時間英語に浸かっている子供達は補習校でもそのまま子供達同士は英語で会話している。補習校の授業で日本語を習うがホンの2-3時間である。これでは日本語と英語が同じ速度で習得されない。翻って、何の為に我々はNZに移り住んだのかをもう一度思い起こしてみよう。人間らしい暮らし、日本とは違った環境で子供達を育てるためではなかったのか?そして、子供達の将来を考えた場合、このまま行けばNZで中学、高校、大学と進みそのまま就職するだろうと予想される。その時に一番必要になるのは日本語それとも英語?言い方を変えればどちらの言語がより子供達の将来に必要になるのか?NZに住んでいるのだから必然的に答えは「英語」である。英語が判らなければ、使いこなせなければNZでの将来は有得ない。我々はそう考えた。勿論これに異論がある方もおられると思うが、この考え方もある意味では真理の一つであると思っている。ある日子供達に聞いてみた。「補習校に行くのは楽しい?」- 「うん。楽しいよ。 だって皆に会えるし一緒に遊べるし。」「補習校の日本語の授業はどうだい?」- 「あんまり面白くない。 授業では読めても普段は使わないもの。 それに現地校の宿題もあるし・・・。」- 「時々先生の言っていることが良くわからない時がある。」二人の息子に別々に聞いたが二人とも答えは似たようナな様な物であった。なぜか?当時子供達は既に英語は達者で日常の学校生活には何の不自由も感じていないようであった。しかし、幾ら英語が喋れても所詮は移住してきた子供達で、まだまだ根っこはNZに浅くしか生えていない。ましてや、両親は日本人だから生粋のKiwiと同じようには絶対にならない。 というか私生活あらゆる面で情報が足りていないのである。子供達が補習校に通う時間は、普通のKiwiの子供達が食事し宿題をやりテレビを見て楽しむ時間である。そんな極普通の時間でも子供達は色々な情報を仕入れているのである。話は遡るが、補習校の理事就任にあたり日本人会の会報に是非文章をと言われるので「無国籍人」について書いた。「無国籍人」とはただ単に国籍を持たないという意味ではなく、自分のアイデンティティーを持たない人種と言う意味の文章を書いたように覚えている。もっと簡単に言うのならば、話す言葉、書く言葉、素養・文化においても日本人でもなくNZ人でもない人間。全てが中途半端な人間。 根っこのない人間。 そして自分たちの子供たちをそんな人間にしてはならないと書いた事を覚えている。その事を子供達との会話の最中に思い出した。補習校に行かせる事で、子供達の今後に人生に必要な時間を奪っているのではないだろうか?今の子供達にとって一番必要なのはNZをもっと知る事であって、日本語の勉強ではないのでは?楽しくも無い日本語教材を家庭でさせる事が本当に子供達の日本語教育に繋がるのか?無意識の内に子供達を「無国籍人」に育てようとしていたのでは?そう気づいたのである。自分も子供達がバイリンガルに育つは望むところであるが、なにも今すぐにバイリンガルになる必要はない。就職する頃にあるいはその後でも良い、とにかく日本の良いところとNZの良いところを併せ持った青年に育ってくれればと考えるようになった。今ここで子供達に日本語教育施さなくても両親ともに日本人であるのなら、日本語の素養は必ず二人には備わっているはずである。たとえ将来日本語が必要になっても、その時には必ず素養が生きて日本語を取得する役に立つはずである。「窮すれば通ず」の言葉通り、実際日本に何度か一時帰国するとちゃんと日本語が上手になるのである。これは何も我が息子達だけに限った事ではなく、他の家族も同様であると補習校の先生方も言っておられた。「生きた日本語を聴き話す事はどんな授業よりも効果があります。」 とまた仮に将来日本語を習得しなければならない状況になっても、年齢も上がれば理解力も格段に進歩するのでそれほど日本語の習得には苦労しないのではないか?そして何よりも今この時に子供達をノビノビと育てたい。そう考え直したので二人の息子は補習校を卒業することなく退学し、現地校に専念した。勿論、此れは我が家の決断であって全ての永住者にこの決断に賛成するとは思われない。現に当時息子達の同級生でもちゃんと補習校の中学部を卒業し立派にNZで大学に通っている子供もいる。親が補習校の理事まで勤めたのに、その子供が補習校を途中で辞めるとは、世の中皮肉なものである。最後に此れを読まれているかもしれない、永住希望の若いご両親方にご忠告を「子供達が日本語を覚えないと言って焦らない事。」「子供達には今覚えなければいけない事がもっと他にあるはず。 それを良く考える事。」「子供達の将来を良く考えて、なぜ自分達がNZに来たのかを再度自分に問いかけてみる事。」「余ほど能力に余裕がある(ある意味優秀な子供)子供でない限り、両方の言葉を一辺に覚えるのは無理。 もしそんなに日本語が大事だと思うのであれば日本に帰りなさい。」「大丈夫。 日本に一時帰国した時に子供達はおじいちゃん、おばあちゃんとちゃんと話が出来るようになります。 なぜなら子供達にとってあなた方の両親は一番優しくて、何でも言う事を聴いてくれる大好きな人達なのだから。」第40章 「自分にとってのニュージーランド」さて、最後になったがNZに住む事、あるいはNZに住んだ事が自分にとってなんだったのか? どんな意味があったのかを簡単に書いてみたい。まず、一番に最初上げなければいけない事は、「自分の夢が実現できた事」であろう。これは、自分の努力もさる事ながら、自分の周りの人達の協力もなければ決して実現できなかったものである。若い頃は、さも自分でやったように考えていたが、年齢を重ねると共にそれが間違っている事が良く判って来た。別に悟ったような事を書くつもりはないが、やはり最後は人と人との繋がりである。自分の人生に登場した人物は勿論、直接にコンタクトのなかった人達も自分の人生という「舞台」の役者さんたちである。自分の夢が実現できた という意味において自分は非常にラッキーなのであろうが、それなりの努力もした事も事実である。とくに異国で生活の糧を得るという事は、生易しい事ではない。さっきも書いたが夢の実現には努力が必要である。もしあなたが英語圏に住む事を希望するのなら、英語を勉強する事をお勧めする。正直自分は英語に自信があったし、実際に17年以上こちらに住んでみて自分の英語が進歩してきたのは肌で感じている。それにも拘らず、何時も感じるのは自分の語彙不足である。特に最近はそれを強く感じるので本を読む事にしている。これだけ映像情報が進んだ世の中に、本とは?と思われる方も多いかと思うが、やはり読む事は大切である。聞き流す事は出来ても、読めなければ意味が判らないからである。自分がKiwiに混じって会社で働く時は、彼らは日本人とは見てくれない。自分達の同僚すなわちKiwiと同じと見做す。 日本人だからと言って判りやすい英語で話してくれたり、噛んで含めるように物事は説明してくれない。そんな事をしていたら仕事にならないからである。これは極当たり前の事である。今は全くそれでも不自由は感じないし居心地も良い。しかし時に自分が上手く物事を表現できないもどかしさを感じる。それが読書に繋がるのである。ニュージーランドに20年近く住んでみて思うのは、日本の良さである。日本の文化・自然しかり、食べ物然りである。別にNZに良いところが無いと言っているわけではないから、誤解のないように。NZは自分が好きでずっと住んできた国である。しかし、祖国を離れてみて初めて自分が後にしてきた国の良いところがみえてきたのである。良いところが見えるという事は同時に悪いところも見えるという事でもある。此処では何処が良いとか悪いとか書かない。しかし、日本にずっと住んでいたのでは比較の対象がないのでそれらがわからなかった。ではNZのよさとはなんだろうか?自然の豊かさ、空の青さ、ノンビリとした人間性? 人によって答えは色々あると思うが、日本では得られないもの 得ようとしても不可能に近いものがNZにはある。私を含めてNZに長年住んでいる人たちに聞いても、なぜ自分がNZにずっと居るのか? それは「日本では絶対にNZと同じような生活が出来ないからとの返事が返ってくる。」日本から来た人にその話をすると、「例えば、どんな事?」とか直ぐに具体的な質問が返ってくるが、イチイチそれに答えていたら、明日の朝になってしまう。私が書きたいのは、NZに居て不便な事、便利な事、良い事悪い事全てひっくるめてそれが日本には無い事なのである。突き詰めるとNZに居る事がそのものなのだと思う。さてNZは此処最近世界の人が住んでみたい国のリストのトップ5にいつも名を連ねている。ではNZに住むにはどうしたらよいのか?正直あまり簡単ではない。 現在のNZのビザシステムでは、いきなりの永住権取得はかなり難しいと言わざるをえない。しかし、なにも永住権取得の道が塞がれているわけではない。それどころか、国が設定した条件をクリアーできる人には等しくチャンスが与えられているのである。ただそのハードルが高いだけで、ハードルそのものを超える手段はある。一番手っ取り早いのが手に職をつける事。職業はその国が募集しているリストから探すといい。そして英語の勉強である。英語は日本人にとって一番身近でいちばん難しい外国語である。それは戦後65年日本の教育が間違っていたからではあるが、今からでも遅くはない。海外に移住したいと思えば英語を勉強する事をお勧めする。それも生きた英語をさて、此処まで色々書いてきたが、皆さんはどう思われたであろうか?半生記なら なぜNZに行く前の事がもっと詳しく書いていないか?今の自分の人生はどうなのか?などのご指摘もあろうかと思うが、この「虹の立つ国」は普段他のブログあるいはサイトで書かれていないような事柄を紹介したいと思い立ち上げたものなので、敢えて自分の「全半生」を書く必要はないのではと思い、その部分は削除してある。時が来れば、何時かは自分の生き様を書いたものをブログとして読者の皆さんの目に触れるようにするかもしれない。実を言えばその原稿は既に書き始めている。自分の幼い時からのものだが、自分の人生を第三者の視点から捉え描いたものである。 「心友」のlb40には書き出しの部分を読んでもらい好評であったし、結構楽しんで書いている自分を発見して面白い。人生50年。結構波乱万丈の人生を生きて来たと自負しているので、ストーリー的には面白いものになるだろう。何しろ「事実は小説より奇成り」の諺があるのだから。
2008.01.02
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このところ、忙しさと仕事の疲れにかまけて日記の更新をサボっていたので、久しぶりにキーボードを叩いている。今週はずっと暖かかったのに週末になって冬の戻りを思わせる急な冷え込みで、寒がりのショコラはブルブル。本当は暖炉に火を入れれば良いのだろうが、休みの日はPCに向かっている時間が長いのでそれももったいない。外を見れば、例の黒猫が枯れ草の陽だまりで丸くなって気持ちよさそうに日向ぼっこをしている。忙しい週だったが、先日朝のラジオで最近NZで「貴方は仕事中にSwearしますか?」と言うアンケートを実施した人が居ると言っていた。結果はなんと約7割の人が仕事中に何らかの「罵り言葉」を発しているという。罵る事は余り薦められる事ではないが、ストレスの発散に役立っている事は確かだろう。さもありなん。 そのニュースを聞いてニヤリとしたのは小生だけではないと思う。小生の仕事の同僚に、アイルランド人と英国人が居るがこの二人はSwearの神様(笑)。特にアイルランド人の方は普通にしゃべっても一つのセンテンスの中に4つ以上のSwear wordが入っていることもザラではない(笑)。英国人の方も上流階級の出ではないので、かれも結構凄いけどアイルランド人には負ける(笑)。さしずめ彼の会話を公共放送で流すと、ピー、ピー、ピーの連続で何を言っているか判らなくなってしまうと思える(笑)。そういう自分も学校の休み期間中のネピア市内の交通渋滞とアホなドライバーと観光客の傍若無人な運転ぶりに思わず罵りの声を上げる事もザラではない。 今ショコラが足元に来て何かを訴えている。多分散歩に行きたいのだろう。10月始めにショコラが来た時は1月間彼と一緒に居られると思ったが、それもアッと言う間だった。 この動く”ぬいぐるみ”と一緒に居られる時間も残り僅か。下の息子が来月始めにGFと一緒にクライストチャーチ来るまで上がって来て、それからショコラをオークランドまで連れて帰る。Ok boy! 今日お前との思い出にはスミが好きだった川沿いの散歩コースにお前を連れて行ってやろう。さぁ、行くぞ!!ではまた。
2007.10.28
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The Graduation先週の末から今週の初めに掛けて久しぶりにオークランドへ行って来た。目的は息子の卒業式への出席と日本へ出かける前の準備の手伝い。 22日の朝にHastingsを出発して5時間半でオークランドに到着。相変わらず車の多さに都市に来た事を実感する。その日の晩は友人家族と市内の日本食レストランで夕食。お互いの近況報告から、普段の愚痴までお喋りと美味しい食事を楽しみながら気持ちのよい時間を過ごす。 翌23日は息子の日本行き準備のための買い物。Mt.WellingtonのSylvia park倉庫街をつぶして建設されたNZ一大きいショッピングセンターへ。気分はお登りさんそのもの確かに広大なエリアを有するショッピングセンターだが、デザインが今一。やたらと東西に長い。彼のワイシャツとネクタイを購入後、友人達とお茶を楽しむ。夕食は息子が薦めるDevon port(North shore)にあるイタ飯レストランへ。一寸遠かったけれど、味はオークランドのイタ飯レストランの中ではベストではないだろうか?久々に本格的なイタ飯を堪能。 24日は今回のお楽しみの一つ、近所に出来た飲茶レストランへ。中に入るともうそこは香港そのもの。飛び交う言葉は全てチャイニーズ。早速テーブルについて何品が取って味見。私好みの薄味。本場広東風にはかなり近いが若干味付けが田舎臭い部分もある。でもオークランドでこの味が楽しめるのであれば上出来と言ってよいだろう。 25日はいよいよ卒業式。オークランド大学の卒業式は生徒数が多いので毎年学科毎に行われる。息子の式は9月25日の朝から。午後からは同じ場所で違う学科の卒業式が行われるという。指定された時間にキャンパスに集合。整列して式の行われるCity Hallまで行進してゆく。心配された天気もどうやら持ってくれている。先導のパトカーに続き、バグパイプを先頭に学長、教授陣(カラフルなマント)が続き卒業生がその後ろ。今年の経済学部の卒業生は優に500人を超える。マーチは大学からPrinces St, Victoria St, Queen St.を通ってCity Hallへ。式は来賓祝辞も簡単にMaster Degree, Bachelor, Post Graduateと続く。一人一人壇上に上り学長と握手して二言三言言葉を交わし、頭上に角帽を掲げてもらう。此れで晴れて学士様の誕生である。 何より驚いたのが中国人名の多さである。卒業生のリストの1/3以上が中国人名の生徒となっている。またHonor(成績優秀な生徒)を取っている生徒の70%は中国人名であった。中国人名といっても本土、台湾、香港はたまた華僑と色々だろう。移民の国とはいえ改めて中国人パワーを実感した一時であった。ちなみに日本人は息子ともう一人中谷君と言う学生だけ。本当に日本人はこの国ではマイノリティーである。この中谷君、壇上で学長と挨拶して居る時の笑顔がとても印象的であった。満面に笑みを浮かべ、嬉しくて仕方が無いという様子が体中から溢れていた。見ていて非常に微笑ましかった。 式を終わって外に出てみるしっかりと雨が降っている。息子と二人濡れながら車を留めてあった駐車場まで歩く。息子が歩きながら「やっぱり卒業式に出てよかった。」と一言。当初、息子は卒業式には出ないと言っていた。なぜか母親が友人と長期の欧州旅行に出てしまい、卒業式に出られないと事となったからだ。それではと言うことで今回小生がオークランドまで出向いた訳である。 我々両親の離婚後、彼は今日までの日々を母親と暮らしてきたため、小生として殆ど親らしい事をしてやれなかった。なので、今回はワイシャツ、ネクタイの選び方、合わせ方から日本での暮らし、仕来たり慣習なども思いつく範囲で彼にはアドバイスしておいた。外見はまるっきり日本人だが、中身はほぼ外人と一緒。18年近くNZで暮らしその間日本で過ごした時間は半年に満たない彼である。とにかく「習うより慣れろ」である。 心配しても始まらない。小生の両親は彼が3ヶ月間一緒に暮らしてくれるというので、首を長くして彼の到着する10月2日を待っているようである。
2007.09.30
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スーパーの安売りで珍しい物が出ていたのでゲット。NZではあまり見かけないマスカット種から作った白。WineryのMoana ParkはHawkes Bayの地元で家族的にワインを作っている小さなワイナリー。ラベルには2005とあるので2005年のマスカットから作られて物と想像する。さてお味は?まず香り。今流行りのスクリューキャップを捻って明けると、マスカット特有の匂いが爽やかに鼻をつく。如何にもマスカットで御座い!!と言うような優しい匂い。グラスに移して一旦香りが落ちくの待って再度嗅ぐと、マスカットの裏側にシトラス系の香りと仄かにストーンフルーツが香る。喉越しはスッキリで一言で言えば「夏向きのワイン」シャルドネにも飽き、SVのむせ返るようなフルーティーさにも飽きた方にサッパリと軽く飲めるワインといったら良いだろうか。味はマスカットなので甘めだが、夏場に良く冷やしてチキンサラダなどと食べたらいいかも。欲を言えばこれでドライだったら言う事ないのに である。自分はNZの白はリースリングを除いては基本的に好きだが、この手の冒険的なワインもまた結構好きである。今夜はとりあえず自作のフライドチキンで一杯。では
2007.09.01
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息子の就職 5月に突然倒れたlb40の術後経過も順調で、もうかなり普通の生活に戻っているらしい。手術が頭部だったのでかなり心配したが、今のところ後遺症の恐れもなく殆ど健常人の生活に戻ったとの事。ご心配を頂いた皆さんには御礼方々ご報告しておきます。そのうち本人からもNZ Walker上で挨拶があると思いますが、今日のところは彼の心友として一言御礼申し上げます。ありがとうございました。さて、NZでもとくに暖かいHawkes Bayでは早くも春の足音が聞こえだした。梅、桃は勿論早くも桜の花もチラホラ。朝晩の冷え込みはまだ残っているが、日中は17-18℃まで気温も上がり半袖で十分な気候となっている。春といえば卒業シーズン。私の上の息子もなんとか卒業試験にパスしてめでたくオークランド大学卒業となった。卒論は問題なくこなしたが、卒業試験はかなり難しかったらしく試験後珍しく落ち込んでいたが、意に反して試験もパスして晴れて卒業。 まずはめでたし、めでたし!一応Wメジャー(修士二科目)で経済と人事学を修めた。人事学とはなんとも珍しい科目を勉強したもので、小生などは人間を扱う仕事に就いた事があるだけに不思議に思うが、息子本人は人間の不思議さ面白さに興味を持った様子。そして、卒業とくれば次に来るのが就職。本人はNZまたはオーストラリアでの就職を目指したが、芳しいところがなく目先を日本に向けた。本人が目指すところはオセアニア地域だけでなく、最終的にはアメリカあるいはヨーロッパでの就職をめざしているらしい。それにはとにかくキャリアーをつけない事にはどうにもならず、此処でオセアニアの仕事を探してウロウロして時期を逃すより、フレッシュな内にとにかく経験をと言うことで日本の外資系会社を狙った。Wメジャーを生かし狙ったのは外資系の人材派遣会社。日本での就職となると、当然日本語が必要かと心配して本人は最初二の足を踏んでいたが、彼には日本語のハンデを上回る英語力があるのでそれを「アドバンテージ」とみて外資系を狙えとアドバイス。幸い、私の友人の娘さんが働いている英国資本の会社が銀座にあり、友人を通じて色々と話を聴かせてもらった。彼女は息子の日本語補習校の先輩にもあたり、まんざら知らない中でもない。とりあえず駄目元で会社にCV(履歴書)を送り、電話面接かと待っていたら折り返しいきなりインターンシップで採用との返事を貰いビックリ。なぜいきなりインターンとなったのか理由は定かでないが、バイト時代からマネージャー経験が長く店長なども数多く経験しているのもその理由の一つかもしれない。本来なら、CV提出、電話面接、直接面接、そしてインターンシップとなる予定だったので割とノンビリ構えていたが、息子も慌てて切符の手配に走った。このW社、英国資本100%で本社は東京・銀座。支社が横浜、名古屋、大阪にあるという。社内は100%英語。 従業員の6割が外国人という正に日本の中の「外国」。本社でのインターン期間の約3ヶ月間交通費は出るが給料は出ない。仕方がないので、私の実家(横浜)に下宿させてもらうように両親に頼んだ。インターン期間が終わって晴れて採用となれば、自分で何処か下宿先を探す事になっている。本人もNZに移住後日本に帰国した通算日数が半年に満たない、言わば「外人」みたいなもの。日本になれる準備期間と思えばこの3ヶ月間は逆に有難いとも言える。10月9日東京本社に出社と言うことなので、彼も大忙しで身の回りの整理に追われている。彼が日本に行って一番楽しみにしている事の一つが携帯電話を買う事だそうだ(笑)。世界中で携帯電話技術で一番進んでいるのが日本である。種類も機能も豊富だし、今や必需品といっても差し支えない物になりつつあるので、大いに迷って購入したら良いだろう(笑)。一方クライストチャーチに居る弟の方はコースが5年コースなので後2年みっちり勉強しなければ卒業できない。しかし、来月にはドイツから大学を卒業した彼女がやって来るという楽しい出来事も待っている。とりあえずワーキングホリデーで来てこちらでの就職を目指すらしい。彼もしっかりと自分なりの道を歩んでいる。大学に行ってしまうと、あまり彼らの面倒を見るチャンスもなかったが、せめて卒業式だけはと思い、9月25日の上の息子のオークランド大の卒業式には出席するつもりでいる。我が息子の船出に幸多からん事をWB
2007.08.26
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<<第37章「海外における日本語教育II」第38章「海外における日本語教育III」とにかく「ニーズの違う生徒を一つのドンブリ(学校)に入れて勉強させる訳には行かない。」 これだけはっきりしていたので、まず補習校を二つに分けて駐在家庭の子弟が主に通う学部を「補習部」 永住、国際結婚組の子弟が通うのが「国際部」とした。さて、次にソフトである。補習部の方は今迄通りで問題ない。ところが国際部はまず先生探しから始めなければならない。今のようにネットがある訳ではなし、人づてのネットワークで先生を探す。それと同時並行して教材の確保である。こちらは教育財団にどうにか頼み込んで文部省検定の教科書を余分に送ってもらう事が出来た。ドタバタしてどうにか先生も見つかり国際部がスタートしたが、先生の方から「どうも子供達の習熟度がおもうように上がらない」と心配の声が上がって来た。特に国際結婚組の子弟は初年度と言うこともあり、年齢もバラバラ上は小学校高学年から下は一年生までが一緒に勉強しているのである。教室と先生がたくさんいれば年齢毎の学習も出来るだろうが、そんな事は夢のまた夢で絵に描いた餅である。授業のコマ割りも先生と一緒に何度も考えたがこれが結構難しい。ただ先生に言わせると異年齢学習というのは何も珍しいものではなく、日本においても過疎地の学校なのでは普通に行われているとの事。かえって子供達もそれを楽しんでいるようでもあった。次にハードの部分であるが、補習校はオークランドのGlen InessのPt.England小学校の敷地内に設立されている。最初は小さな校舎一つきりであったが、その後教室も増設され現在は3教室あるはずだ。それでもこの補習校1校ではとてもオークランド全域に散らばる永住者、あるいは国際結婚組家庭のニーズをカバーする事はとても不可能である。とくに国際結婚組は若年層が圧倒的で、その居住地は必然的に土地の値段が高いオークランド中心部から離れて行かざるを得ない。その結果、あちらこちらで日本人の母親達が中心になって簡単な日本語教室が開催されるケースも増えて来た。しかし、これらの自主活動も対象となる生徒は幼児クラスが主で、残念ながら小学校の低学年以上については殆どそれらのサークルが存在しないのではなかろうか?ここ何年も補習校には顔を出していないが、当時と比べると情報の収集という面では格段に進歩しているのではなかろうか?インターネットを通じて日本はおろか世界各国の学校とやりとも可能であろうし、教材においても然りであろう。一方一般家庭においても事情は同じであるので、家庭学習も質の高いものを日本から得る事が出来るのかもしれない。結局補習校国際部の理事として二年ほどお世話させてもらったが色々と大変だった。その後も生徒数の減少などから補習校そのものの存続も危ぶまれた時期もあった。これは一つには駐在企業が減少して企業からの補習校運営資金が少なくなった事が大きな原因である。一方国際部も永住者が減り、反対に国際結婚組が増えたが通学問題で生徒が減る現象が起きているという。いずれにせよ今後も経営母体がしっかりと日本語補習校を支えてくれる事を祈るばかりである。<<第37章「海外における日本語教育II」第39章「永住者の日本語教育」>>
2007.07.08
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入院していたlb40が先日無事に退院して来た。大きな手術をしたために、マダマダ本来の体力に戻るにはかなりの時間を要するようだが、WBにとって「心友」の帰宅は何よりの事である。そんなこんなでNew Zealand Walkerは現在更新が一時中断したままだが、こちらの「虹の立つ国」の方は随時更新して行きたい。では久しぶりの更新です。<<第35章「大学」第36章「海外における日本語教育 I 」さて、先の章でも少し触れたが、此処では海外生活における日本語教育について書いてみよう。海外における日本語教育機関と言うと、真っ先に思い浮かべるのは日本人学校、或いは日本語補習校であろう。両方は時々混同されているようだが、「日本人学校」 とくに教育財団がバックアップする正式な日本人学校は、基本的に全日制で生徒は現地校に通わず、日本人学校に通う事になる。これは、あくまでも日本に帰国する事を目的とした家族の子弟が通う学校で、早い話が日本の学校がそのまま海外に出来たと思えば理解しやすいであろう。運営は、教育財団(文部省)が主体で先生も交替で日本から派遣されてくる。勿論、授業内容文部省の指定すところの教育大綱にそって日本の学校と同じ内容で日本語で行われる。一方「日本語補習校」というのは、その名の通り日本語で日本語の補習授業を行う学校である。普通は現地校が終わってからの開始で通う子弟も日本人学校と同じように基本的には日本に帰国する子弟が通う。ただ、こちらはその運営にあたり「日本人学校」のような日本の文部省の全面的な支援は受けられず、経営母体は大抵が現地の日本人会あるいはそれに順ずる組織がそれを行っている。先生も頼めば教育財団から日本人の先生を派遣してくれるが、その先生達の給料は現地の組織が支払う事になる。実はNZにも日本人学校がある(今もあるかどうかはわからないが)。ただしオークランドではなく首都のWellingtonにある。これなども日本のお役所仕事の最たるもので、実際のニーズを無視してただ「日本人学校」を作ればよいと言った行政の結果である。確かにWellingtonはNZの首都であるが、経済の中心あるいは実際の国の中心はオークランドである。日本企業は何処に多く進出しているのか?Wellington勿論No.オークランドである。経済の無いところに企業は店を出さない。私が補習校の理事であった頃、このウェリントンの日本人学校の生徒は4人で先生が三人いたと思う。何たる無駄と思ったが既得権は如何ともしがたく、ただ指を咥えてみているしかなかった。教育財団にも実情を伝え、補習校にも先生を派遣してくれるように頼んだが、木で鼻を括ったような返事しか来ず、頭に来たものだ。海外に住む日本人子弟への日本語教育には多大なるニーズがあるのは当然の事と思う。特に今のように海外に住む日本人の数が増え、また国際結婚等の両親から生まれた子弟も当然そのニーズの一部になっていよう。ここでそのニーズを生む人々を区分してみよう。1) 日本からの駐在者の家庭。NZに限れば、以前に比べれば(1)の駐在者の数は確実に減っている。その理由は日本企業からNZを見た場合、さほど重要でないマーケットになった、あるいは国になったと言えるであろう。同時に駐在者も若年化が進み、子弟の年齢も大分若返った。また、その反面企業の国際化が進んだのでもしかするとある地域(別の国々)では日本からの駐在者は増えているかもしれない。2) 永住者の家庭依然海外永住あるいは移住を目指す人々にとってNZは大変魅力ある国であるようだ。これは何も日本からだけではなく、世界の他の国々からも見ても同様らしい。最近のニュースでもそれは顕著でNZは住んでみたい国のTop3に入っている。3) 国際結婚の家庭さて最後は国際結婚組。これは最近特にジワリジワリと増えているケースである。我々の年代では国際結婚組は極少数であったが、最近は若いカップルが目立つ。オークランドの各地域で日本人の母親達が主催する幼児サークルなど増えているが、参加者の殆どは国際結婚組の子供達であるという。これら大別した3のグループに共通する事あるいは要望は大きく括ると「子弟に日本語教育を施したい」と言うことになる。しかし、これがそれぞれのグループに降りてくると、それぞれ微妙にその内容が変化してくる。<<第35章」「大学」/a>第37章「海外における日本語教育 II」>><<第36章「海外における日本語教育 I」第37章 「海外における日本語教育 II」では次にそれぞれのグループのニーズの内容について触れてみよう。1) の駐在者では、何れ日本に戻るのであるから「日本の教育」をキャッチアップしておく事は必須であると言ってよい。当然「日本の教育」が第一義になる。この「日本の教育」とは文部省の指定する指導要領に沿った日本の学校で行われる文部省指定の教科書を使って行われる教育である。一方補習校に通ってくる駐在者の生徒達はどうであろう。彼らは普段は現地校に行き、現地校が終わってから補習校に通ってくる事は先にも書いた。ただ、此処で問題になるのが現地校と補習校の成績あるいは勉強のどちらかを優先するか?である。日本に帰る事が約束されているのだから、補習校の勉強を優先させるべきだと誰しもが思うが、ここに落とし穴がある。日本に戻った場合に日本の学校へ通知される、あるいは提出されるのは補習校の成績でなく現地校の成績なのである。よって、「日本の教育」に集中するあまり現地校での勉強をおろそかにすると、後でしっぺ返しが来る事になる。そして此れは全駐在家庭の親が潜在的に希望している事だが「せっかく英語圏にきているのだから、子供達が英語を喋れるように育てたい」と言う希望である。此れは親としてはもっとも希望だと思う。しかしこれが結構大変で短期駐在などでは到底無理だといわざるを得ない。もっとも、最近は駐在任期が終わっても帰国するのは父親だけで、母親と子供は駐在先に残って高校、あるいは大学まで出てから帰国するケースなどもあるようだ。これらのケースが増えたのは各学校で帰国子女枠の新設、拡大などが進み日本における厳しい受験戦争をある程度回避できるシステムが成立って来たからであろう。2) の永住者の家庭においてはどうだろうか?実はこのグループの家庭からのニーズが一番幅広いと言ってよい。自分達の希望で日本を後にしてきたのが永住者のグループである。このグループに大別される希望は、(A) 子供が英語を不自由なく使えるようにさせたい。(B) 同時に「日本語」も不自由なく覚えさせたい。 いわばバイリンガルに育てたい。日本語を忘れさせたくない・・・等である。という非常に贅沢な希望だと言って良い。しかし、よく見て欲しい。此処のグループの希望は「日本語教育」であって「日本の教育」ではないのである。書けばたった一字の違いだが、この違いは海と山ほどに違うのである。そして此処にも落とし穴がある。それは子供達の能力の問題である。このグループの子弟はためらい無いく現地校に通い、現地の子供達と一緒に一日の内8時間以上英語を使って過ごしている。その後補習校に来るのは駐在者の子弟と同じであるが、なぜかこのグループの子供達は補習校でも英語を使っている。補習この先生が「英語ではなく、日本語で話しましょう!」と指導しても余り進歩はない。そして先生方が必死になって文部省検定の教科書を使って日本語の授業をしても、一向に日本語が上達しない。上手く喋れないというのではなく、教科書の目指すところの意味を理解できない、あるいは汲み取れないのである。勿論喋る語彙も限られている。これは日本語を使う範囲が限られている事を示している。誤解の無いように書くが、決して先生方の教え方が悪い訳でもないし、生徒の頭が悪いわけではない。この状態はどの年齢層にもある事ではなく、特に低年齢層(小学校低学年)の子供達に顕著である。中・高学年より上は日本での教育の下地があるので、比較的容易に日本語教育をキープできるが、こちらで小学校をスタートしたような年齢の子供達に日本語を教える事は大変な努力と忍耐を要する。ただ永住者の子弟全員がそうである訳ではなく、中には優秀な子供もいて日本語・英語を「読んで書ける」まで上達させた本当のバイリンガルの子供もいるのである。断っておくが、残念ながらこれは我が息子達の事ではない。我が息子どもに限って言えば、上の息子は喋るのは問題ないが、やはり語彙が不足しているのは否めない。読むのは中学生程度までか。書くのは・・・・?下の息子に至っては、両親に話しかけるのも英語で我々がそれに日本語で応えるという有様である。以前その様子を見た友人が目を丸くして驚いていた。日本語と英語で立派に会話が成り立っているからだ。不思議と言えば実に不思議な光景だが、我々本人達にはいたって普通の事なのである。その友人曰く、「なぜお互いそこまで英語と日本語が解るのに、どちらかの言葉でしゃべらないの?」それが出来たら苦労はないのである。聞けても喋れない このジレンマが単一言語しか喋れない友人には理解できなかったようだ。実はこうなったのは、我々両親がある時点で日本語教育を諦めたというか、それに潜む盲点に気がついたからではあるのだが、その点については章を改めて書こう。翻って中・高学年以上でNZに来た場合、最初は現地校での授業についてゆくのに困難を覚える。特にこちらに来て間もない頃は、英語も判らずクラスでも殆ど「お客さん状態」と言っても過言ではない。ただこれも時間の問題でこちらの生活に慣れるに連れ英語も上達してくるので、この問題も徐々に解決される。それでも最低2-3年は掛かると見てよいのではなかろうか?さて(3)の国際結婚組のニーズはどうであろう。彼らのニーズの理想とするのはバイリンガルで永住組と同じであるが、現実問題として子供達が日本の両親(おじいちゃん、おばあちゃん)と話が出来るように「日本語をキープしたい」と言うのが一般的な所ではなかろうか?事実、補習校の国際部でもそのニーズにそって教育方針を作成したのを覚えている。しかし、このグループの子弟に「日本語」を教えるのが正直一番難しい。なぜなら学校は勿論両親の片親がKiwiなので当然家庭内の会話が全て英語で行われる。よって殆ど24時間英語の中にいる子供達に「日本語」をイチから教える事になる訳である。また、このグループの特色として国際結婚家庭の子供達は年齢層が低いことが挙げられる。 下は乳児からと言ってよい。私が理事を引き受けた当時のオークランド日本語補習校はこれら三つのグループのニーズが漠然と存在した混沌として学校だったのである。<<第36章「海外における日本語教育I」第38章「海外における日本語教育III」>>
2007.07.08
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<<第34章「教育 II」第35章「大学」さて大学であるが、これが日本の大学とちょっと赴きを異にする。とにかく「勉強させる、させられる」そうである。長男はオークランド大学で経済、 次男はクライストチャーチのリンコン大学で造成設計をそれぞれ専攻しているが、学年が上がるに連れて二人とも寝る間を惜しんで勉強している、いや させられている様である。先日も久しぶりに次男が遊びに来たが、大学が休みに入る前の一月は睡眠時間を殆ど普段の半分以下に切り詰めて課題を仕上げているとの事。別に成績が悪いから勉強させられる訳ではなく、皆同じようにハードワークしているそうだ。この点長男も同じで、学校に翌朝まで残ってシュミレーションをしたりするのは日常茶飯事との事。大学側も施設は24時間学生に開放しているので、こんな事は当たり前なのかも知れない。二人とも一応アルバイトはしているが、勉強が忙しくなるとそれも休んで学習しているらしい。大学とは 「大きく学ぶ 」と書くが、二人とも文字通り読んで字の如し の学生生活を送っている。習う内容もかなり実践的、或いは卒業後社会に出て直ぐに役立つような内容を学んでいるらしい。 このあたりも日本の大学とはかなり違う部分ではないだろうか。一方休みの時は思い切って頭を空っぽにして休む。次男などは夏休みもドイツの彼女に会いに、3度目の欧州旅行に2ヶ月間ほど行ってきたばかり。しかし今はまた日々勉強に追われる毎日を送っている。ドイツに居る彼女も大学生で同様に、今は卒論の仕上げに必死だとか。ドイツでは卒論を提出しても、最後にもう一回試験がありそれに合格しないと卒業証書はもらえないとの事。この厳しさには驚くばかりである。高校で大学受験の為に大変な思いをして受験して、大学では反対に羽根を伸ばす何処かの学生とは大分違うようだ。一方、私立高校で高い授業料を払って卒業しても大学に行かない生徒もいる。息子達の友人の半分は大学に行かずに、卒業後直ぐに何処かの会社に就職してしまった。この辺りも日本と違い、発想もそれを受け入れる社会も非常に自由である。彼らは就職しても会社に対してあまり忠誠心を持たない。それどころから、会社で働く=キャリアを作る、あるいはお金を貯める事と思っている。此処で若い世代の幾つかの標準パターンを紹介しておこう。1) 大学進学から就職→離職→海外旅行→帰国・再就職 これなどは、結構多いパターンで社会に出てお金を貯めて、見聞を広める為に海外に出てゆく。 短くて1年、長ければ3-5年位掛けて世界を回ってくるのである。気に入れば、そのまま他所の国に住み着き、飽きれば戻って来てNZで再就職。受け入れる社会側も、海外から戻った青年を積極的に受け入れる風習がある。2) 高校卒業→就職→離職・大学入学→卒業→再就職このパターンは、卒業後働いて大学入学への学資作り、或いはとりあえず一旦社会に出て社会の雰囲気を味わい自分に合いそうな職業についてみる。そのご自己分析して自分にあった分野を大学は入学し直して専門的に勉強し、卒業後により良い条件を獲得する。3) 高校卒業→即海外で就職→帰国後就職あるいは大学進学これは先の(2)の変形パターンだが、一旦働いてみて自分の目標を絞り込むのは同じ。これらのパターンが実行できる背景には、政府からの補助がある。NZでは21歳以上であれば、ある程度の学力を有すればだれでも大学に入学出来るという規定とStudy linkが主催する奨学金ローンとAllowanceがある。奨学金ローンは卒業後に返済するわけだが、アローワンスの方は一種の小遣いと同じで返済の義務は無い。これらの補助があるから学生はある程度安心して勉強に専念できるのである。私の息子達も申請してこれらの補助を得ている。以上の理由により大学に来ている年齢もさまざまで おじさん、おばさんがキャンパスを闊歩している姿も見かける。まさに学ぶ為に存在する学府である。若きKiwi達は飛行機に乗って世界に羽ばたいて行く。行き先はや張り英語圏が多いが、特に英国とお隣のオーストラリアが多い。特に英国は為替レートの関係上(ポンドは世界一高い通貨)、英国で3年働くとNZで5年働いたのと同じくらいの収入があるという。また英国でのKiwi達の評判は概して良く、「勤勉でよく働く」と言うのが通説になっているようだ。そのせいもあってか、以前はNZパスポートの所持者は3年間のワークパーミットが下りたが、今はたったの一年しか降りないらしい。遅まきながらおっとりと構えた宗主国の英国も元植民地に厳しい条件を突きつけてきた。一方お隣の豪州のボンダイビーチなどはKiwi村と呼ばれるくらいにNZからの移住者が多い場所である。此処も以前は英国と同じで為替レートの関係上働き甲斐のある場所であったが、最近の異常なKiwiドル高であまりメリットは無くなったと言える。しかし豪州は今好景気に沸いており、就職機会も多く若いKiwi達には魅力ある場所のようだ。所で我が息子達の将来の就職はどの様に考えているのか先日二人の息子にそれぞれ聞いてみた。上の息子は経済専攻だが、どうやら日本での就職を検討している節がある。ガールフレンドの一人が日本人とKiwiとのハーフで昨年日本での就職が決まったらしい。最近は海外帰国子女向けの就職斡旋サイトなども盛んで、その子がその一つに応募して日本でのフォーラムに参加しトントン拍子で就職が決まったのを聞いたようである。この子は息子とは補習校の同級生にあたるが、息子よりよりKiwiらしい女の子であるが、彼女から色々と情報を仕入れているようだ。息子としては、日本語の読み書きが不得意なのが心配のようだが、最近は外人でも就職できるくらいなのでその辺りは何とでもなるらしい。他にも日本人とのハーフの子がホンダで働いているし、住友商事の子会社に就職が決まった子もいる。何れも補習校の同級生達で幼い頃から一緒に遊んだ仲間である。一方下の息子は造成設計を専攻。今のNZは不動産ブームでこの分野の卒業生は引っ張りダコらしいが、こちらも本人はNZで就職する気はあまりなさそうだ。一つにはNZの場合給料が安い事があるらしい。一方海外でも大きなプロジェクトは世界中で行われており、こちらも慢性人手不足らしい。特に中東のドバイで行われてパームアイランドリゾート計画は壮大なもので、息子の通うリンコン大学の卒業生も多数参加しているとの事。今回のドイツからの帰りも何日がドバイで過ごして現地を見てきたようだ。ドイツ人の彼女とは何れは結婚するらしいが、その前に出稼ぎで一稼ぎするらしい。英国も働き口としては良いが、ビザが一年しか下りないので長居はできない。<<第34章「教育I」第36章「海外における日本語教育」>>
2007.06.16
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<<第33章「教育I」第34章 「教育II」時間は少し前後するが、St.Kentigern入学までの事を書いて置こう。確かに学校見学の感想は 素晴らしい!!の一言に尽きた。でも果たして今から登録して何時入学できるのか? と言うのが素朴で偽らざる疑問。しかし、此処で考えていても何事も始まらないから取り合えず長男を登録しておく事にする。勿論、本人も承知の上での事。もっとも普段はサッカーに忙しく勉強どころではなかったが。登録して待つ事一年。我々両親も忘れた頃にSt. Kentigernから連絡があり、長男が入学できる可能性がある という。あくまで “可能性” である。私立は何処でもそうだが、学校が生徒を選ぶ。前もって指定された日に長男の公立学校での成績を送り(書類審査)、後日親子3人で面接に行く。まず、3人で教頭先生との面接。簡単な質問から何が好きか、スポーツは何をやっているかなど、長男本人に直接質問される。特にスポーツはサッカーの事を結構詳しく聞かれていた。幸い前述のようにクラブでも活躍していたので、その点も正直に話して好感を持ってもらったようだった。その後は両親の面接。簡単な質問でなぜ本校を選んだのか?学校に期待する事などを聞かれた。また宗教についても質問された、礼拝の日が必ずあるので参加できるかどうか?など。このあたりの質問は前もって予測していたので、受け応えもスムースに。後でわかった事だが、実はこの時に我々両親もしっかり値踏みされていたのである。前もって友人からのアドバイスもあったので、我々両親もきちんとした格好で面接に望んだ。私立は生徒もさることながら、親を見て合否を決めると言うのは本当らしい。書類審査を終えていたのである程度面接には自信があったが、面接で落とされるケースもある。後年、我々の友人の子供が面接まで行ったが、あえなく落選。聞けば先生の質問にまともに受け応えができなかったようだ。これも後で判ったことだが、この年に中途入学したのはどうやら長男だけだったらしい。やっぱりこれもラッキーだったのだろうか?2週間ほどで合格通知をもらい、10月から長男は晴れてSt.Kenteigernに通い始める。彼はForm2からSt.Kentsに通い始める。この時は既に英語も全く問題なく、普通のKiwiの子供と同じように生活していた。不思議な事に彼はSt.Kentsでも数学はAdvanced Classに編入されて数学の学校対抗の代表などにも選ばれる。サッカーも学年のプレミアリーグでプレーを重ね、中学生の部ではリーグ優勝をする。友人の幅も広がり、傍で見ていても彼が学校生活をエンジョイしているのが判る。親としては、入れて良かったとホッとする思いであった。息子達の通ったSt.Kentiger collegeは セルティック系の学校である。校章もアイルランドの十字であるし、毎週金曜日にも礼拝の時間がある。勿論生徒は全員参加。月に一回は両親参加の礼拝もある。我々も何度か参加したが、キリスト教ではないので正直あまり楽しくはなかった。もっとも、NZはそれほど熱心なキリスト教国ではない。私の友人も殆どが日曜学校とか礼拝には参加していなかった。翌年は次男の入学だったが、長男が既に入学しているので、彼はほぼ自動的に入学。彼はForm1から始める。授業料も「兄弟割引」なるものがあって、いくらか軽減された。でもこの割引制度、何となく日本的で面白いなと思ったものだ。幸いにというか、あるいは彼らの性格から、二人ともいじめなどにも一度も会わず、無事に7thForm(最終学年=日本で言えば高校3年生)まで終え、今は大学に通っているが、今でもこのSt.Kentsの友人達とは定期的にあったり連絡を取り合ったりしているらしい。この7年間の中学高校生活。彼らに一言で言わせると、「非常に楽しかった学生生活」になるらしい。二人とも最後の半年は家の改築で、学校の寮に寄宿して通った。特に下の息子はこのときの寄宿生活の楽しさが忘れられず、その後ももう半年余計に寄宿して過ごす。それもあってか、今の親元を遠く離れクライストチャーチの大学に通っている。此処で学校について一般的な事に触れておこう。このほかにも私立の学校は幾つかあるが、たいていはクリスチャン系の学校である。中には家族がクリスチャンでないと入学できない学校もある。またドイツ系の学校もある。クリスチャン系といってもキリスト教を強制されるわけではなく、大抵の学校がせいぜいたまに礼拝に参列する程度であるので、宗教をあまり気にされる必要は無いと思う。では一方の公立はどうであろう?公立で有名なのはグラマースクールである。特にオークランドの男女各々のグラマースクールは学校の規模も大きく昔から有名である。校舎も如何にもイングランド系の学校というイメージがある重みのある石作りの校舎で素晴らしい。ただマンモス校であるので、私立のように極め細かい教育が出来ない。進学クラスとそうでないクラスがはっきりと別れ、アルファベットのABC順にクラスが分かれている。トップのABCクラスくらいが進学クラスらしい。だから、グラマーに通っている生徒に何クラスと聞くのはタブーのようだ。このグラマースクールもスポーツは強く、息子達が通ったSt.Kents,或いはKingsなどと良いライバル関係にある学校である。このほかの公立学校はそれぞれ各地域にあるので、評判が気になる方は直接その地域で学校の評判を聞かれるのが良いであろう。NZの学校(小学校も含め)は大抵学区制を敷いており、その学区内に居住しないと通学出来ない。良い学校と評判が立てば、その地域に住んで子弟をその学校に通わせたいとの親心は何処も同じである。よって良い学校がある地域はその地区全体の不動産価値が上昇すると言う現象が起こる。前述のグラマースクールなどもその例に漏れず、「グラマー・ゾーン」と呼ばれる地域は昔からその不動産価値が高く、常に人気である。一方私立は、基本的に学区制を敷いていないところが殆どなので、結構離れたところから通ってくる生徒も多い。<<第33章「教育I」第35章「大学」>>
2007.06.16
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<<第32章「子供達」第33章 「教育 I 」さて、子供達は当初は近所の公立の小学校に通っていたが、勉強内容を聞いてみるといかにもお粗末である。ここで誤解のないように書いておくが、私は決して教育パパではない。自分の子供の頃をよくわきまえているから、一度も自分の子供達に「勉強しろ」と言った事はない。ただ、宿題だけは忘れずにやらせたが。一方ワイフは幼稚園から大学まで私立であった。彼女も決して教育ママではなかったが、NZの小学校の教育程度には不満を持っていたのは確かである。事業もどうやら軌道に乗り、付き合いの幅も広がり段段とNZの学校教育の実態が判ってくる。小学校に通い始めて間も無く、子供達は日本語補習校にも通い始める。これは、日本語を忘れないようにとの親心からであったが、子供達には結構負担であった事が後で判る。補習校は週二回午後から夜まで。確かに小学生にとっては負担だが、日本で塾に通う同年代の子供の事を思えば楽なはずであったが、それは親の考えであって子供にとっては違っていた。一方現地校では、何とか英語が判るようになってくると、俄然算数が良くできるようになったらしい。特に長男は算数が好きでもあったし、補習校でも算数だけはそれなりに勉強していたらしく、現地校ではすっかり先生のお気に入りになってしまう。これはNZの現地校だけなのかもしれないが、算数が良くできる子 イコール 頭の良い子 みたいな感覚がある。笑ってしまうが、事実である。しかし、補習校では一向に国語(日本語)の進歩がない。日本から来られた先生も色々努力されてなんとか子供達の日本語の能力を引き上げようとしてくださるが、皆目駄目である。この理由は後になって判明するのだが、ここは先へと話を進めよう。当時の補習校には二つの学部が存在した。一つは駐在員子弟の為の補習部。 補習部は、「日本に帰国する事を前提とした」子弟が通う学部。そしてもう一つが永住者及び国際結婚した親の子弟が通う国際部である。国際部は、「日本語を忘れないようにするため」の学部。当初補習校は一つであったが、ニーズの違いからこのように学部を二つ設けて別々のカリキュラムで子供達に勉強を教えていた。実はこの補習校にまつわる話だけで本が一冊書けるくらいの出来事があるのだが、あえて此処ではそれには詳しく触れないで置こう。後年私はこの補習校国際部の理事と理事長を2期2年務めた事により、海外での日本語教育の実態を目の当たりにし、また政府の無理解、無政策なども肌で実感する。また同じ日本人同士の差別なども目の当たりにする。全く醜い話ではあるが、海外移住の見えざる部分、暗闇の部分である。海外生活における子供の日本語教育については改めて別の章で触れよう思っているので、此処では書かない。色々と問題を抱えた日本語補習校であったが、通っている子供達は同年代の子供達と一緒に過ごせる時間が持てて非常に楽しかったようである。二人とも「補習校に行くよ」と言っても「嫌だ」とは一度も言わなかった。少し脱線してしまったが、話を元に戻そう。そろそろNZに移住してから4年が経とうとしていた頃から、どうも私立の学校に入れた方がよさそうだという事が判ってくる。勉強の面もさる事ながら、同級生間のネットワーク、或いは卒業後のネットワークなども私立の方が断然有利な事が判ってくる。ワイフは元々ずっと私立で通してきたので、私立の良さも悪さも両面ともによく知っていたが、私は公立のみなので全くそういう面では素人である。私立校の方が設備が良いのも事実だし、大学への進学率が高いのも事実である。ただ学費の面では一人当たり年間1万ドル以上の出費となる。我が家の場合は年子であるから2倍の2万ドル!当時はそれくらいの余裕はあったが、果たしてそこまでする必要があるのかどうか?そう疑問に思った事も事実である。まあ、一回見学してみようと言う事になり、当時男子校(カレッジ)でKings Collegeと名声を二分するSt. Kentigern collegeを訪れてみる。わかりやすい例えをすると、Kings が慶応、St .Kentigernは早稲田になるだろうか。両校とも学費、教育内容、卒業後のネットワークなどそうそうたるものがある。何よりもこの学校に入れる為に、子供が生まれた時から登録しておく必要があるといわれているのである。本当かよ!?見学してみれば確か素晴らしい環境である。校舎も立派だし、設備も充実している。グランド広さなど日本の大学のグランドよりはるかに広いのである。土曜日はスポーツデーであるが、この学校のグランドでサッカーとラグビーの試合が同時に10試合以上出来る広さがあると言えばご理解いただけるだろうか?それも全面芝である。川沿いに広がるエリアでは、倉庫かと見間違うほどに大きなRowing Shedがあり、たくましい体つきをした生徒が肩にボートを乗せて運んでいる。照明つきのテニスコートは勿論、ホッケーコートまで設備されている。さすが私立、桁違いの設備である。ワイフの強い勧めもあり、駄目元でとにかく順番待ちの登録だけをしておく事にする。誕生と同時に登録するくらいなのだから「これはNo chanceだよ。」と話し合っていたのだが。<<第32章「子供達」第34章「教育II」>>
2007.06.16
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<<第32章「子供達」第33章 「教育 I 」さて、子供達は当初は近所の公立の小学校に通っていたが、勉強内容を聞いてみるといかにもお粗末である。ここで誤解のないように書いておくが、私は決して教育パパではない。自分の子供の頃をよくわきまえているから、一度も自分の子供達に「勉強しろ」と言った事はない。ただ、宿題だけは忘れずにやらせたが。一方ワイフは幼稚園から大学まで私立であった。彼女も決して教育ママではなかったが、NZの小学校の教育程度には不満を持っていたのは確かである。事業もどうやら軌道に乗り、付き合いの幅も広がり段段とNZの学校教育の実態が判ってくる。小学校に通い始めて間も無く、子供達は日本語補習校にも通い始める。これは、日本語を忘れないようにとの親心からであったが、子供達には結構負担であった事が後で判る。補習校は週二回午後から夜まで。確かに小学生にとっては負担だが、日本で塾に通う同年代の子供の事を思えば楽なはずであったが、それは親の考えであって子供にとっては違っていた。一方現地校では、何とか英語が判るようになってくると、俄然算数が良くできるようになったらしい。特に長男は算数が好きでもあったし、補習校でも算数だけはそれなりに勉強していたらしく、現地校ではすっかり先生のお気に入りになってしまう。これはNZの現地校だけなのかもしれないが、算数が良くできる子 イコール 頭の良い子 みたいな感覚がある。笑ってしまうが、事実である。しかし、補習校では一向に国語(日本語)の進歩がない。日本から来られた先生も色々努力されてなんとか子供達の日本語の能力を引き上げようとしてくださるが、皆目駄目である。この理由は後になって判明するのだが、ここは先へと話を進めよう。当時の補習校には二つの学部が存在した。一つは駐在員子弟の為の補習部。 補習部は、「日本に帰国する事を前提とした」子弟が通う学部。そしてもう一つが永住者及び国際結婚した親の子弟が通う国際部である。国際部は、「日本語を忘れないようにするため」の学部。当初補習校は一つであったが、ニーズの違いからこのように学部を二つ設けて別々のカリキュラムで子供達に勉強を教えていた。実はこの補習校にまつわる話だけで本が一冊書けるくらいの出来事があるのだが、あえて此処ではそれには詳しく触れないで置こう。後年私はこの補習校国際部の理事と理事長を2期2年務めた事により、海外での日本語教育の実態を目の当たりにし、また政府の無理解、無政策なども肌で実感する。また同じ日本人同士の差別なども目の当たりにする。全く醜い話ではあるが、海外移住の見えざる部分、暗闇の部分である。海外生活における子供の日本語教育については改めて別の章で触れよう思っているので、此処では書かない。色々と問題を抱えた日本語補習校であったが、通っている子供達は同年代の子供達と一緒に過ごせる時間が持てて非常に楽しかったようである。二人とも「補習校に行くよ」と言っても「嫌だ」とは一度も言わなかった。少し脱線してしまったが、話を元に戻そう。そろそろNZに移住してから4年が経とうとしていた頃から、どうも私立の学校に入れた方がよさそうだという事が判ってくる。勉強の面もさる事ながら、同級生間のネットワーク、或いは卒業後のネットワークなども私立の方が断然有利な事が判ってくる。ワイフは元々ずっと私立で通してきたので、私立の良さも悪さも両面ともによく知っていたが、私は公立のみなので全くそういう面では素人である。私立校の方が設備が良いのも事実だし、大学への進学率が高いのも事実である。ただ学費の面では一人当たり年間1万ドル以上の出費となる。我が家の場合は年子であるから2倍の2万ドル!当時はそれくらいの余裕はあったが、果たしてそこまでする必要があるのかどうか?そう疑問に思った事も事実である。まあ、一回見学してみようと言う事になり、当時男子校(カレッジ)でKings Collegeと名声を二分するSt. Kentigern collegeを訪れてみる。わかりやすい例えをすると、Kings が慶応、St .Kentigernは早稲田になるだろうか。両校とも学費、教育内容、卒業後のネットワークなどそうそうたるものがある。何よりもこの学校に入れる為に、子供が生まれた時から登録しておく必要があるといわれているのである。本当かよ!?見学してみれば確か素晴らしい環境である。校舎も立派だし、設備も充実している。グランド広さなど日本の大学のグランドよりはるかに広いのである。土曜日はスポーツデーであるが、この学校のグランドでサッカーとラグビーの試合が同時に10試合以上出来る広さがあると言えばご理解いただけるだろうか?それも全面芝である。川沿いに広がるエリアでは、倉庫かと見間違うほどに大きなRowing Shedがあり、たくましい体つきをした生徒が肩にボートを乗せて運んでいる。照明つきのテニスコートは勿論、ホッケーコートまで設備されている。さすが私立、桁違いの設備である。ワイフの強い勧めもあり、駄目元でとにかく順番待ちの登録だけをしておく事にする。誕生と同時に登録するくらいなのだから「これはNo chanceだよ。」と話し合っていたのだが。<<第32章「子供達」第34章「教育II」>>
2007.06.16
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日記をアップしたのだが、どうも日記の各ページからの次のページへのリンクが上手く働かない。本来この部分は友人のlb40が助けてくれていたのだが、現在倒れて入院中の為何とか自分でやって見てはいるのだが…。よって、次の章へ進む場合は、一度日記のページへ戻って次の章へ読み進んで下さい。ご不便をお掛けして申し訳ない。WB 第32章「子供達」ここで子供達の事に少し触れておこう。まずは子供達が小さい頃(5-6歳)に参加していたミジェットサッカー。とにかく見ていて面白い。一応11人ひとチームで大人のコーチも付いてくれる。ユニフォームダブダブだがクラブ供与で揃いのものがある。でいざ試合が始まると、ボールを中心に全部で20人の子供がぐるぐると回りながらグランド内を掛けまわる。まるでミツバチのダンスのようである。時々一人上手くボールを保持できた子があらぬ方向へボールを蹴ると、またそこでミツバチダンスが始まるのである。サイドラインで見守る親は、笑いながらも一生懸命に声援を送る。じつにのどかで楽しいひと時である。NZはとにかくスポーツが盛んな国である。老いも若きも冬でも土曜日になると早起きして近所のグランドでラグビー、サッカーに汗を流す。国技はラグビー。言わずと知れたAll Blacksがその頂点に立つ。現在ワールドランキング第一位の「黒い軍団」の強さは圧倒的で、何年か前にAll Blacksの一軍半と日本代表が試合をしたが、ワールドテストとしてはラグビー史上に残る125点差で日本代表が負けた事がある。その後一回も日本はAll Blacksとテストマッチを持っていない。ここ何年かのワールドテストマッチでも負け知らずなのである。ワールドテストマッチの中でも世界Top3の南アフリカ、オーストラリアとNZの試合は実力伯仲で非常に見応えがある。一方サッカーはマダマダ発展途上国で一応All White(なぜかひ弱な感じ)と言うニックネームが付いては居るが、ランキングは忘れたくらいに下である。早い物でNZに移住してから4年目になろうとしている頃である。子供達も英語には全く不自由しなくなり、毎日近所の子供と暗くなるまで外で遊びまわっている。念願の犬も飼い始め(これがスミである 詳細は此方をどうぞ)http://plaza.rakuten.co.jp/lb40jp/diary/200703120000/このスミも先日病気で他界した。実に良く我が家に遣えてくれた、やさしい犬であった。事業の方もどうやら目処が立ち、日々の生活に落ち着きと余裕が出来てきた。当初(ミジェットの頃)は二人の息子は年齢も近い(年子)だったので同じチームに入れられていたが、1年ほどでジュニア部門に移る。長男はこの後もずっとサッカーを続けるが、次男は早々と自分の才能に見切りを付けて辞めてしまう。他方長男も、実はサッカーを始めて2-3年は全く目立たないプレーヤーであった。いつもDFのポジションでプレーも自信なげであった。コーチからも「もっとしっかりプレーしろ。」と注意される事も度々であった。ところがある試合で彼は偶然右のMFとしてプレーする。前半はいつもと同じように全く目立たなかったが、後半に入って間も無くボールを貰うと突如右ライン際を走りだす。それも凄いスピードである。 アット言う間に味方も敵のDFも置き去りにして、相手ゴールに向かって突き進む。驚いたのは、敵もさる事ながら味方のプレーヤーとコーチ。サイドラインでは我々両親も含めて誰もが口をポカーンと開けて見ている。皆一瞬何が起こったのが理解できていない。が、次の瞬間チームメイトとコーチ、そしてチームメイトのペアレンツから 大歓声が上がり一斉に彼に向かって声援してくれている。Go ! Isamu Go !! Go !!!彼はひたすらゴールを目指して駆け上がって行く。ゴール前、最後の敵のGKをサイドステップでかわし、最後は自らのシュートでゴールーネットを揺らしてしまう。 GOAL !!!大歓声!!結局チームは1-0で勝ち、勿論彼はその試合のMVP.これが彼のサッカーへの目覚めであった。映画のような話だが事実である。あとでこの時の事を彼に聞いたが、その時フィールド上にゴールまでの道がはっきりと光って見えたという。そして自分はその上を走っただけだと言う。多分プロゴルファーがグリーン上にパットラインが見えるのと同じであろう。その後彼は長い間チームの中心選手MFとして活躍する。小学生の間はクラブでずっとプレミアムリーグ。小学生の高学年から始めたフットサル(室内)は、小学生の部では初のNZ代表としてオーストラリア遠征をする事になる。All Blacksにあやかり、上から下まで黒ずくめのユニフォーム。そして試合前のWar Cry(例のカマッテ、カマッテ!!と言う踊り)も豪州の各都市での試合前に披露し観客から大歓声を貰ったとの事。中学生になって益々足の速さとドリブルに磨きがかかり、彼はある試合で同じような信じられないプレーをする。その時は味方のFWとのすばらしい連携プレーで1点、自らセンターサークル付近から放ったロングシュートで1点、最後はヘディングで押し込んで1点とオークランドの強豪チームを相手に自らのハットトリックでチームをリーグ優勝へ導いた。彼はこの試合で、当時通っていた私立校の中学生ながら、高校生チームの選手として一緒にプレーする学校代表選手への切符を手に入れる事になる。中学校・高校ではクラブと学校代表の双方でプレミアムリーグ。 クラブではオークランド代表まで進むが、コーチが目指すサッカーと自分の目指すサッカーの違いに気づき、そのギャップを克服できずに突如両方とも辞めてしまう。しかし、サッカーへの情熱は捨てがたく、その後またクラブに戻り自ら望んで二軍でプレーを始める。彼に言わせると、二軍のサッカーは「楽しい」そうだ。一方早々とサッカーを止めてしまった次男は、その後しばらく間スポーツは何もにしなかったが小学校の高学年から水泳を始める。中学生になってからは学校の水球のチームに入る。この頃からメキメキと体が大きくなり、身長もだんだん私に近づいてくる。ちなみに私の身長は187cmである。日本人として大男の部類だが、ここNZではさほど目立たない。高校生になった彼は何を思ったか突如学校のバグパイプバンドに参加する。学校始まって以来、いやNZで始めての日本人パイパーの誕生かと誰もが色めきたったが、バグパイプの難しさに半年ほどで挫折。同時期にRowing(ボート)クラブに参加。 まったく「気」の多い御仁である。こちらは長く続き3年連続全国大会出場も含めて遠征試合にも何回も参加するが、漕ぐ時の悪い癖が抜けずに最後はトレーニング中に肩の筋肉を壊してしまい断念。せっかく学校代表のエイトまでいったのだが残念であった。しかし彼はRowingに参加して鍛えたおかげで身長185cm体重80キロ胸囲1メール20センチと言う日本人としてはすばらしい肉体を手に入れる。今はChristchurchの大学で学生生活を送っているが、未だにウェイトトレーニングだけは欠かさないという。一方細かった長男も今は身長180cmと弟より一寸小さいがそれでもガッチリとして如何にもスポーツマンの体型を維持している。しかも大学生になった今でも最初にサッカーを始めたクラブで夏冬ともにサッカーを楽しんでいる。時々は、クラブから頼まれてミジェットチームのコーチもしているようだ。昔小学生チームのコーチだった英国人コーチが今も彼らのシニアの部のコーチをしてくれている。この辺がいかにも町に根付いたクラブの特色でもある。二人の息子を育てて、NZに住んでよかったと思ったのはスポーツ環境が日本に比べ格段に整っている事。その割にスポーツが強くないが、それは科学的なトレーニング方法が確立されてないからであろう。現に国を挙げてのラグビーは底辺も広く明日のAll Blacks 予備軍があまたといる。それともう一点、肉が安いNZで助かった。食べ盛りの子供二人に日本であれだけの肉を食べさせていたら一体幾らかかったのか?考えるだけで恐ろしい。肉の輸出をしたので肉だけは何時もふんだんに自宅にストックしてあったが、彼らの食べる量も半端ではなかった。通常彼が食べていたのは一枚400-500gのステーキ。お陰でこちらもステーキを焼く腕は上がり、未だに息子達は「親父が焼くステーキが一番美味い。」と言ってくれる。お世辞半分としても、焼き具合は殆ど自由自在に出来るようになったのでまんざらでもない。一度下の息子の合宿に肉を寄付した事がある。ローストビーフにしてもらおうと思い、ランプ肉(一個4-5キロ)のブロックを1ダース寄付したが、二晩で食べてしまったそうだ。恐るべき食欲である。そうそう、こちらで運動クラブの合宿などがあると、両親がお手伝いで駆り出される。施設も大きなキッチンのある施設を使い、母親達が共同で作業する。これらの奉仕活動も公立の学校より私立の方が積極的だし、力を入れているようだ。第31章「新たなる改良」へ
2007.06.04
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第30章「NZで初めての家の購入」時間がちょっと前後するが、マレーシアから戻った頃にやっと日本のマンションが売れた。先にも書いたが、日本を離れる時点でワイフの友人の不動産屋に鍵を渡して販売を依頼していたのである。当初は半年あれば処分できるであろうと期待していたのだが、一年経っても売れる様子がない。我々が依頼した女性は残念ながら不動産屋として経歴が浅く、結局彼女経由では我々の自宅は売れず、最終的に大手の不動産会社に依頼する事にした。彼女もそれなりに動いていてくれていたようだが、結果としてあらわれないのである。我々も日本の自宅を売ってNZで家を購入するつもりでいたので、家が売れてくれない事には身動きできない。大手の不動産屋に切り換えて2ヵ月後自宅は売れた。販売価格はバブル時よりずっと下であったが、それでも購入時より4割以上高い値段で売れた。自分自身、あまり「たら・れば」の話はしない方だが、この時ほど早くから大手に任せておけばと後悔した事はない。後悔先に立たずとは良く言ったものである。日本へ一時帰国して住宅の処分手続きを全て終えて、オークランドに戻り早速家捜しを始める。毎日暇を見つけては新聞、不動産屋のショーウィンドーなどを眺めて歩く。週末になると折込み広告のOpen Homeのチラシを見ては、よさそうな物件を見て歩く。でも中々良いものがない。じつはこの時は庭の広い家を探していたのである。当時は今のような不動産ブームに突入する前で、St.Heliers, あるいはKohimaramaのエリアで600~800平方メートルの敷地、一戸建てが25万ドル前後で購入出来た。ある日、なにも知らずにフラリと見に行った家で丁度オークションが開催されていた。その家が結構気に入っていきなり飛び入りでオークションに参加してしまい、その場にいた不動産屋を大いに慌てさせてしまった事もあった。今にして思えば、知らぬ事とは言いながら恥ずかしい限りである。こちらでの家のオークションはある程度 出来レースである。というのは事前にオークショナーと買い手を連れた不動産屋が十分に打ち合わせをした上で、オークションを始めるのである。Reserve Priceもある程度わかっている。勿論値段は天井なしで何処まで上がるか判らないが、買い手の予算はわかっているのである程度予測は付く。何より競りに参加する人がわかっているのである。よって、映画のように飛び入りの買い手は滅多に現れないはずであったが、我々はそれをやってしまったのである。無論、こちらは現金を持っているのでオークションに参加できる資格はあるのだが。ちなみにローンを組んで家を購入する人は原則的にはオークションに参加できない。勿論、銀行より事前に承諾を得ていれば別だが、基本的には現金のみである。灯台元暗し。散々あちこち歩き回って色々な物件を見て疲れた頃、家の前のストリートを下がった場所に立つ家が売りに出ていたのを偶然発見する。敷地も900平米以上あり庭はフロントヤードとバックヤードで広さも申し分ない。建物はおそらく築50年近いと思われる、総二階のWeather Board張りの家である。寝室は主寝室を含めて3部屋、ダイニング、リビングとファミリールームのほかに一階部分にオフィスとして使えるStudyが付いている。ただ、キッチンが如何にも古く直ぐにも手を入れないと駄目であった。特にワイフは日本で長年中華料理の先生をしていたこともあり、いま住んでいる家のキッチンが同じように古かったので、どうしても新しいものが欲しいという。私が一番気に入ったのは、ダイニングに張ってあった絨毯をはがした時に、下がフローリングになっていた事である。それもカウリの幅広の板であった。カウリとはNZ原生樹種の一種であるが、Lord of Forest(森の主)とも呼ばれるほどに非常に大きく育つ樹種である。西オークランドには数少ないKauri Forestが残っていて森林内を散策できる。200年前NZに英国人が入植した当時はこの天を突くように大きく太くなったKauriが森に林立していたという。しかし、その後の乱伐によりその数が著しく減った為NZ政府は慌ててKauriの伐採を全面的に禁止する。この保護政策もしないよりマシではあるが、この樹種が天を突くほどに太く大きく高くなるには何百年という年月を要するのである。ゆえに現在Kauriを使った家、家具は非常に貴重なのである。キッチンには手を入れなければならないが、その代わり自分達の好きなキッチンが出来るという利点もあるし、今住んでいるエリアからも目と鼻の先である。庭も広いと言う事で購買決定。早速オッファーを入れて購入した。確か25万ドルくらいだったと思う。今では考えられない値段である。後年此処を売ったが、売れた値段は50万ドルに一寸欠けるくらいだったと思う。儲かったように見えるが、周りも皆値上がっているので一緒である。こうして念願の広い芝生の付いた自分の家を持つ事が出来た。また一つ夢の実現である。 第31章「新たなる改良」自宅の事へ話が飛んでしまったが、商売の方へ話しを戻そう。とにかく、間柱で日本市場への参入だけは果たしたが、これも完全ではない。定着するまでに時間も掛かるであろうし、果たして定着するかどうかも不明である。一応月に40ft一本のペースで受注はしているが、これだけでは食べてゆくには不足である。そこで買い手とも相談の上、現在の集成材をもう一歩進めた製品を作ってみる事にした。框の生産である。そう、あの日本のどの家にも必ずある「上がり框」 「玄関 框」の 「かまち」 である。実は当時すでに他社によってNZ産 框は日本に輸出されていたが、製品の精度も低く不良率の発生も高かった。日本は其処(不良率の発生)をなんとか低くできないか?と言う。難問である。とにかく框を輸出している業者をロトルアに訪ねるが、彼もこちらを警戒して何処の工場を使って生産しているかは教えてくれない。勿論スペックなどはもってのほかである。それでは自分で調べるまで。各地の工場に片っ端から電話して調べると直ぐに生産工場が判明し物を見に行く。案外いい加減な製品である。当時はソリッド(無垢)板だけを重ねて張って柱状に仕上げたものが主であった。では、こちらはと言う事でF/J(フィンガー・ジョイント)をした物を張り合わせて 框に仕上げる事にした。これが後年まで長々と続く製品の誕生である。累計生産は私が直接輸出していた頃だけで40ftコンテナでのべ200本近く。その後の生産量をあわせると恐らく300本近くが輸出されたのではないだろうか?統計は取っていないが、一個人としてNZから輸出した製品の量としては恐らく日本一であろう。そしてこの買い手が前述の大阪のA社である。<<第29章「自営」 第32章「子供達」>>
2007.06.03
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第29章「自営」真夏のマレーシアから秋も終わりのオークランドに。子供達も大分学校になれて、友達が家に遊びに来るようになっていた。一方ワイフの状態は、私の帰国後から二人で勤めて散歩に出るようにして、体調を元に戻すように努力した。そのかいあってか、帰国後約三月でほぼ体調も元に戻った。私の帰国前から子供達は近所のサッカークラブに所属してサッカーを始めていた。当時住んでいたSt. HeliersにはEastern Suburbsという伝統あるクラブがあって、セニアクラスでは全国優勝を争う常連だという。私の留守中、子供達が週末に何もする事がないので、なにかスポーツは出来ないかと探していたところ、丁度クラブのミジェット(幼年)クラスの募集が目に付き申し込んだという。子供達とスポーツについては別の章で触れるとして、話を先に進めよう。オークランドに戻った私は自宅の一室を事務所として自営を始める。まず何を始めるか?が問題であった。1) 当時自分に有するコンタクトを書き出してみると、圧倒的にNZ国内の木材関連業者が多い。2) 一方日本にも商社などコンタクトも多い。そこで考えたのが木材製品の輸出であった。幸い先にも書いたがNZ来た当時のコンタクトはまだ有効であり、早速電話して情報を集めてみる。この時点では日本からのNZへの輸入は除外していた。NZの市場が非常に小さかったからである。当時のNZの総人口は300万人といわれていた。次に日本である。NZから「何か」を日本に輸出できないか?何がいいのか? 丸太? 製品?何れも既に十分に日本市場に浸透している。市場が存在する反面競争も厳しい。どうするか? ????であるまずは帰国の挨拶も兼ねて、昔NZ国内のコンタクトを尋ね歩いてみる事にする。とくに、タウランガのMatakana島の製材工場の工場長だったPeterは私のNZの「お父さん」と言っても良い存在で彼にアドバイスを求めてみる。ある日彼の紹介でマウントにある集成材の工場を訪ねた。工場を案内してもらい製品を見せてもらう。その工場はフィンガージョイント(縦継ぎの集成材)を作っていたが、そこのドッキングラインを見た時に、なんてもったいない材料の使い方をしているのか?と感じた。それは当然で、節を含んだ製材から節の部分だけをカットし、それをクリアー(節なし)の縦継ぎ集成材としてフィンガー加工してゆくのである。当時のNZの輸出材の95%はラジアタ松であった。ラジアタ松はNZが長年掛けて品種改良したNZの気候に適した、そして成長の非常に早い樹種であった。特にNZ北島タウポ、ロトルア地区は年間降雨量も多くNZ一の木材産地と言ってもよいエリアである。このラジアタ松は水がないと育たない。 それも大量の水を必要とするいわば水太りの樹種である。この為日本での市場性は非常に低く、当時は梱包用材として市場しかなかったのである。これは最初に日本にラジアタ松の持ち込んだ商社の売り方のミスであるが、今となっては覆しようもない事実であった。そして、このファインがージョイント製品は無節の製品を作るために、節の部分を除きその部分は捨てていたのである。捨てられた切れ端は近所の養老院でファイーウッド(薪)として暖炉で燃やされ、よく燃える薪として養老院から感謝されているという。その日はそれが非常に心に引っかかった。帰りの車の中でもBin(ゴミ箱)に捨てられた製材の切れ端の山がずっと心に浮かんでいた。もったいない。何かに使えないだろうか?オークランドに戻りマレーシアに居た頃仲の良かった木材専門商社の駐在員に電話してみる。実はこの商社とは実に不思議な縁がある。大阪の心斎橋に本社を構えるA社であるが、私がまだ日本の船会社で働いていた頃の荷主でもあった。当時は同じマレーシアでもSabah州からの丸太の輸出が盛んで、A社もサンダカンに駐在員を置き日本向けに丸太を輸出していた。当時このA社の社長は創業者から数えると3代目に当たったが、家業を継ぐ前に大手総合商社のM社の鉄鋼部門で勉強されてから3代目として家業を継がれた。ほぼ毎週大阪から東京に出てこられ、丸太の買い手さんを回られて最後に新橋の我々の事務所に立ち寄られ、羽田から帰阪されるのが常であった。そして1985年の8月22日。彼は我々の事務所での商談を終え「お邪魔しました。」と元気の良い声で挨拶され、羽田に向い、運命の日航123便に搭乗されたのである。航空事故史上最大の事故に数えられる 日航御巣鷹山墜落事故である。体格の良い、カラリとした性格のスポーツマンであられたが、我々が彼の最後の面会者になろうとは、事故を知った後でも信じられなかった。今でも元気のよい彼の「ありがとうございました。」と言う声が耳に残っている。そう言った因縁めいた物があるのか、後年このA社とは長年に渡って取り引きが頂き、四代目社長(亡くなられた社長の弟)ともなぜか不思議とウマがあった。さて話しを元に戻して、近況報告から商売の話に移り日本に向けに何かやってみたいと話してゆくうちに、壁の内側、柱と柱の間に壁を支えるための「間柱」を作れないか?と言う事になった。既存の間柱はソリッド(むく)で反ったり、曲がったりの不良率の発生が高く結構使えないものも多いという。そこで思いついたのが集成材工場で捨てられている節の部分を使った「縦継ぎ」のF/J(フィンガージョイント)ボードである。翌週、貰ったサイズを元に再び工場へ出向き、こちらのアイデアを伝えてサンプル製品の製作を依頼する。無論サンプルも簡単に作れるわけではない、材料として使用する 捨てていたOff cuts(切れ端)のグレーディングも一応しなければならない。しかし、工場としてみれば今まで捨てていたものが売れると言う事にかなり驚いたようであった。こうして何回もの打ち合わせと試作を経て、工場と一緒に手探りで始めたサンプルが20ftコンテナ一本分出来上がったのは2ヶ月近く経ってからである。ここでも以前に自分がNZでやっていた事が非常に役に立った。図面だけを渡して製作を依頼するのではなく、自らが工場に入って工員達と働くのである。 やって見せるのである。最初は半信半疑であった連中もやって見せる事によりついてくる。グレーディングにも立会い、細かい指示をだしてやる。大体において西洋社会で工場労働などの単純労働に従事する人間に、ファジーな基準を教えるのは非常に骨がおれる。なぜなら、彼らは何時も黒か白かの単純な判断で作業をしているからである。しかし、それも此方が根気良く指導してやる事によって、ある程度は改善される。早速最初のコンテナを輸出する。しかし満を持して送ったコンテナも結果的には評価は今ひとつ。最初はよかったが、時間の経過(乾燥することにより)とともにやはり曲がり、反りが出るのである。壁の内側に入れるだけに曲がり、反りは禁物である。それでも当時日本市場にはF/Jの間柱は存在せず、私の作った製品が初見参であった。値段が安いのとNZからという珍しさで初回は40ftコンテナで4本ほど発注を頂いたと思う。しかし不良率は一向によくならない。当時は2箇所の工場に発注していたのだが、工場によって製品の出来に大きな差が出てきていることも判明。何とかしなければ。<<第29章「シブにて」 第30章「NZで初めての家の購入」>>
2007.06.03
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第28章「シブにて」我々がシブでやろうとしていた仕事は、集荷エージェントであった。当時シブあるいはサラワク州全体が、合板工場建設ブームといっても良いくらいであった。サラワク州の主な木材および製品の積出港は、北からMiri(ミリ)、Bintulu(ビンツル)、そしてTg.Mani(タンジョン・マニ)等であった。そしてそれぞれの港の背後に続々と合板工場、或いは製材工場、繊維合板工場などが建設されつつあった。これらの工場から出てくる製品は、主にアジア、中東、インド、或いは遠くヨーロッパまで輸出されていた。しかし此処も発展途上国の急成長産業地域のご多分にもれず、荷物の集荷、輸出と言う事に関しては一種の無法地帯であった。ルールもなにもあったものではない。如何にして相手(競合船社)を出し抜くか、それしかなかった。当時は、万年海運不況で特に遠洋業界は惨憺たるものであった。そこへこのマレーシアからの輸出ラッシュである。業界の底辺でひしめく船会社が殺到したのは無理もない状況であった。義父に引き回されて、各シッパー(木材輸出業者)を回り集荷エージェントを始めたことを報告するだけで一月を要した。義父は各シッパーの一世連中(親父)と、私は二世連中と大体同年代であったので、比較的溶け込みやすかった。まだ二世連中は海外留学していた人も多く、皆英語が達者であったので非常に助かった。中国人と一緒に暮らして気が付いた事がある。中国人と言う人種はとにかく食べる事が好きな人種である。街で出会うとお茶、午後になれば友達同士で夕食の約束。そうそう、このシブの名物の食べ物を幾つか紹介しておこう。まずカマ・ミー。ミートはマレー語で"麺"のこと。いわば焼きソバであるが、シブのカマ・ミーは一度茹でた麺を炒める。野菜も肉もあまり多く入っていないが、ソースがなんとも言えず美味しいのである。しばらく、シブを離れていた人間は戻ってくると開口一番、「カマ・ミーを食べに行こう!」という。もう一つは前述のテンガラン河で採れるイカン・テンガラン(テンガラン魚)のから揚げ。この魚大きいものは1メートル近くにもなる。外見はソウ魚のようなゴツイ魚であるがこれを丸上げにした豪快な料理。これが実に上手い。このテンガラン河は年中ミルクコーヒーのような色をした河であるが、川幅も広く流れも結構急である。なによりもこの沿岸の泥が溶け出したミルク珈琲の様な水が多くのミネラル分を含みテンガラン・フィッシュのような魚を育てるのである。ついでに同じサラワク州のMiriに行くと、此処ではラクサが食べられる。ラクサとはスパイシーなラーメンの事で非常に辛い。食べると頭から汗が噴出すほどであるが、辛い物好きには堪えられない味である。ウソのような本当の話を一つ。最初頃シブでは、昼食によく蝦そばを食べていた。簡単なラーメンの中に手長蝦のような細身の蝦が竹割りになって入っている。スープも蝦の出汁が良く出て非常に美味しい。何よりも値段が安かった。ところが、ある日仕事を終えて帰宅すると、家の前のドブ川で子供達がワーワーいいながら何かを採っている。何をしているのかと見に行くと、バケツの中でザリガニのようなものがガサゴソしている。 どこかで見たような蝦である。そう! 色こそ違えいつも食べている蝦ではないか!!何時も食べているのは煮えているので赤いが、取れたては、薄茶色の汚い蝦である。思わずう~ん と唸ってしまった。自分としてはこの蝦が、好きな蝦そばの中に入っていると思いたくはない、しかし目の前の現実をみると・・・。そこでタドタドしいマレー語で子供達に聞いてみた。「この蝦はどうするの?」「食べるか、売るんだよ!」「今日は沢山取れたから売りに行くんだ!」と嬉しそう。絶句!!その後二度と蝦そばを食べる事がなかったのは言うまでもない。 ビザの関係で3ヶ月毎にマレーシアを離れなければいけなかったが、この3ヶ月毎と言う期間ほど良い長さであったと思う。3ヶ月毎に忙しい時はシンガポールで、時間があればオークランドまで帰ってリフレッシュした。仕事も徐々にではあるが軌道に乗り始めた9ヶ月が過ぎた頃、電話の向こうでワイフが如何にしても肩こりが治らないという。時間が経つにつれて、その肩こりがますますひどくなり、車の運転もままならない程になってきたのは一年を過ぎた頃であった。どうやら肩凝りではないようす。立っていれば左程ではないが、車のように腰が沈み込む座り方だと、どうにも首と頭が重くて前を向いていられないと言う。とにかく医者に行って精密検査をしてもらうようにすすめて電話を切ったが、非常に心配であった。一方仕事のほうは順調に伸びていて、従業員も6人を使うまでになっていた。この時はNZに帰国できるのが4ヶ月おきくらいになっていて、シンガポールへ出ても2日でマレーシアに戻るような忙しさであった。シブに来て一年半近くになろうかと言う頃に、一時小康を得ていたワイフの症状が急に悪化する。医者の見立てによれると、背中の筋肉を使わないために急激弱まり、体の中で一番重いパーツ頭を支えられなくなっている と言う。理由は毎日車で移動するだけで、歩かなくなった事が大きな原因だと言う。人間の背中には首から腰まで繋がる大きな二本の筋肉が縦に走っているが、どうやらこの二本の筋肉が弱くなってしまったらしいのである。人間歩く事によって自然に体の各部の筋肉が適度に鍛えられ、刺激されていたようだ。確かに日本にいる時と比べれば、全くと言って良いほど歩かなくなっている。車の運転が出来ないので、買い物なども友達に頼んでいるというし、学校の送り迎えも同級生の母親が代行してくれいるらしい。ワイフも自分の体が不自由な事から精神的にも落ちこみ私にNZへ戻って来て欲しいという。事業はこれから面白くなる時期でもあったが、自分の根幹をなす家族がやはり一番大切だと思いなおし、一大決心して事業を畳む事にする。勿論義父に了解いただいての事ではあるが。NZに帰国するに当たって、各シッパーの二世達がそれぞれにサヨナラパーティーを開いてくれた。いまでもその内の何人かとはメールのやり取りをする仲である。事業をたたむのに約3ヶ月を要し、家族の待つオークランドに帰国したのは93年の5月であった。<<第27章「マレーシア」 第29章「自営」>>
2007.06.03
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義父と私が事務所を開いたのは、マレーシアのボルネオ島のSibuである。地図を見ていただければ判るがボルネオ島は一面のジャングルである。東側2/3はインドネシア領であり、西側1/3がマレーシア領サラワク州。サラワク州の中には独立小王国ながら、世界で5本の指に入る金持ちといわれるブルネイもある。 >>続きを読む
2007.05.15
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第24章「シンガポール - オークランド」クリスマスイブの午後に日本を発った我々は、常夏のシンガポールに到着する。シンガポールは過去に何回が訪れてある程度土地勘もある。......続きを読む
2007.04.20
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さて、待ちに待ったパスポートが送り返されて来たのは、それから10日ほど後だったと思う。査証欄のページにはPermanent Residence とReturning Residence Visaが貼り付けられている。ニュジーランド入国時にこの許可証に基づき毎回Residence Permitが発給される事になる。......続きを読む
2007.04.04
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第12章 「英語と家族」さて検討する問題は家族問題だけに限らず、初期の小生の単身赴任の期間の事も含め、経済的な面からも検討しておかなければならない。....続きを読む
2007.03.30
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第9章「オークランド」仕事の関係でタウランガには、友人というか伝手(コンタクト先)があったが、オークランドは"雇ってくれるかもしれない会社"があるだけ。知人・友人も無く、全く未知の街であった。....続きを読む
2007.03.27
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出発は87年の正月の七草が過ぎてからだったと思う。寒い成田を飛び立ち、暖かい香港に到着。早速香港島のホテルにチェックイン。.......続きを読む。
2007.03.24
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今を去ること20年以上前、当時私は新橋に事務所を構える小さな海運会社に勤めるごく普通のサラリーマンであった。当時の仕事は大まかに言うと、海外の船主から船を預かり、それらの運行・傭船・代理店事業等誠に多岐にわたっての仕事。・・・・・>>続きを読む
2007.03.22
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いよいよ「半生記」の掲載をFree page上で始めた。埃をかぶった頭の中の引き出しから さまざまな思い出を引っ張り出しては、裏表ひっくり返して材料に使えるかどうか、吟味しながら書いている。最初にお断りしておくが、此処に書かれている事、あるいはこれから書かれる事は総て事実である。創作は一切ない。ただし若干時間軸がブレる事があるかもしれないが、何せ古い事なのでご勘弁願いたい。これを書き出して思わぬ自分を発見した。一人は 楽しんで書いている自分。そしてもう一人は書くことが好きな自分である。このブログは海外移住を目指す人、海外で生活してみたい人の一助になればと立ち上げたものである。よってこのような話題に興味がある方は遠慮なく質問等お寄せ頂きたい。ただし、冷やかし、中傷の類はご遠慮願いたい。拙い文章ではあるが、お楽しみ頂ければ幸いである。では。WBテクノラティプロフィール
2007.03.14
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ニュージーランドと言えば、羊、何処までも続く緑の牧草地、そして青い空。 ステレオタイプ的な連想から行けばこういったものが頭の中に浮かぶのではないだろうか?しかし、こちらに長年いると他にも珍しい事に遭遇する。その一つが天気雨。この言葉が正しいかどうかよく判らないが、晴れているのに雨が降っている。それも大粒の雨が降る。また、自分がたっている場所はザァーザァーと雨が降っているが、50メートル先はカンカン照りなどと言うこともしょっちゅうある。私の祖母は「狐の嫁入り」呼んでいたのを覚えている。 そしておそらくこの気象に関連していると思われる現象が、虹、レインボーである。NZは非常に虹が多い国でもある。別に雨上がりではなくとも、車で郊外を走っていて山間を抜けた途端にこちらの山から向こうの山へ、大きな素晴らしい虹の橋が掛かっている事もままある。 自分の経験から言えば、虹は山間部によく掛かるようである。色の薄いもの、はっきりと7色が見分けられるもの、さまざまだが何時見ても美しいものである。 私が住むHawkes Bayは今夏の終わり。空気も乾燥しているので残念ながら虹は殆ど出ない。しかし、これから冬に向かい徐々に空気中の湿度も高くなれば、きれいな虹がたくさん見られる事であろう。特にHawkes BayからPalmerston Northへ向かう途中右手に見える山々Ruahine Forest Park には冬場はたくさんの虹が掛かる。雪を頂いた山を背景に聳え立つ虹の橋。美しいものである。 WB
2007.03.13
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皆さんはじめまして。以前から考えていた自分のブログを立ち上げて見た。日本からNew Zealandに移り住んで単身赴任の時期を含めれば彼是20年近い歳月が経った。その年月に蓄積されたNZ生活での経験と知識を少しずつ紹介して行うと考える。また、今までに語らなかった自分の海外移住への動機、移住までの経緯なども含めて掲載して行きたい。どうぞ宜しくWB
2007.03.05
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