弟は、生後8ヶ月で心臓の手術に臨んだ。
左右の両心室の間に穴があいていたので、ゴムパッキンのようなもので穴を塞ぐ手術だと説明を受けた。なんでも、人工心肺をつないでおいて心臓を一度からだから取り出し、ゴムパッキンを縫い付けてまた心臓を戻すらしい。
地元の某大学病院に弟と付き添いの母が1ヶ月近く入院することになり、偶然小学校の学区内に養護園(いわゆる孤児院みたいな施設)があったので、私はそこに預けられた。(普通は父親が世話するとかおばあちゃんに来てもらうとかするんだろうけど・・・。施設での生活や感じていたことについては、そのうち別に項をたてて書きたいと思います)
弟は手術のちょっと前に入院するまで、家ではごく普通の赤ちゃんとほとんど同じように過ごしていた。首がすわってお座りができるようになり、離乳食も食べた。月齢なりの言葉が出て、予防接種を通常通り受けていた。
時々、蜂の巣状のチアノーゼが出た時にマッサージをしてあげる必要があるくらいが、妹が赤ちゃんの時との違いだった。
そんな弟が大学病院に入院し、手術の日を迎えた。
私は普段どおり学校に行き、授業を受けながら1分おきに時計を見る一日を過ごした。
夜、施設に母から電話が入った。
「手術は無事終わったよ。何日か集中治療室に入るみたいだから、出てきたらお見舞いに呼ぶからね。」
ほっとした瞬間、涙が出たのを覚えている。そのまま施設の事務室でしばらく弟のために泣かせて貰った。
異変が起きたのはその夜、私が何も知らずに眠っている間だった。私が知らせを聞いたのはその翌日の学校でのこと。病院の公衆電話から連絡してきた母も混乱していたし、私も話を聞いて動転してしまったので前後のことはよく覚えていない。
前夜(手術の終わった夜)、深夜に救急車で運び込まれてきた心筋梗塞か何かの成人男性を満員の集中治療室に入れる必要があり、経過の順調だった弟が一般の病室に移されたのだった。
明け方、弟の容態は急変し、弟を追い出した甲斐なく死亡した心筋梗塞の男性の後のベッドに、再度入れられたという。集中治療室に戻されたとき、弟は夜に一度麻酔からさめていたのだが、意識不明の状態だった。
弟はそのまま意識が戻らず、生死の境をさまよった。
現在であれば、「脳死」と言われるような状態だったと思う。何度も脳波や脈が平坦になり、電気ショックと人工呼吸器で無理矢理<生きている>状態を保っているような感じ。
毎夜養護園で就寝するとき、私は「今日の夜も弟が天に召されてしまったという知らせで起こされることなく過ぎますように」と祈る日々だった。
そんな状態が1週間ほど続いたある土日のこと。
子供だからということで集中治療室に入れない私は、見舞いに行っても辛うじてドア脇の窓から遠く、たくさんの機械がつながった弟の姿を見ることができるだけだった。その土日も、触れることも手足をさすってやることも声をかけることさえできないのがわかっていながら、少しでも弟の近くにいたくて、養護園から外出許可を貰って病院に見舞いに出かけた。
いつものように集中治療室の窓から、母と一緒に祈るような思いで弟を見ていると、看護婦がつと寄ってきて母に囁いた。
「○○ちゃん、もうだめかもしれないから、大好きなお姉ちゃんにせめて会わせてあげてもいいと思う。消毒して連れて入っていいよ」
・・・・弟を近くで見ることができるのは嬉しかったが、看護婦の「もうだめかも」という言葉にショックを受けた。
私は入念に消毒を済ませて集中治療室に入り、弟のベッドの近くに寄った。
生後8ヶ月の小さな体に、大量の機械が繋がれている様子がただただ痛々しかった。<この機械が弟を辛うじて生かしている、それでもなお「もうだめ」かもしれないんだ・・・>泣き叫びたいような、誰かにすがりつきたいような思いだったが、折角中に入れてくれた看護婦の厚意を無駄にしてはいけないのでぐっと我慢。
「○ちゃん・・・帰っておいで」母と一緒に声をかけた。
弟に繋がれた機械の発する規則正しい音が続く。
「あー」
ふと見ると、弟はパッチリ目をあけていた。
弟は奇跡的に私たちのところへ還ってきた。
しかし、すわっていたはずの首は再び生後すぐのクタクタ状態、当然お座りも
ハイハイもままならない。少しずつ出ていた言葉(まだ「ママ」程度だったけど)も失っていた。
「頭のスイッチが一旦切れて、もう一度スイッチ入れたらデータが飛んじゃった」状態と説明するのが一番あっているだろうか。
とにかく、弟の脳細胞の一部が死んでしまい、残りの部分だけで生きている状態になってしまったようだが、とりあえず生存するのに支障はないらしい。しばらくして、弟と母が病院から家に帰って来て、私と妹も家に戻った。
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