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日本で一番海水浴場に近い駅、でしたね。たしか。大谷海岸。はまなすステーションがあったあたりでしょうか、プレハブが置かれています。BRTの大谷海岸駅がありました。「駅舎」に入ってみると、バスが今どこを走っているか、くっきりと表示されています。ほどなく、赤いバスがやってきました。高校生たちが数人降りてきました。
2013.01.31
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気になるニュースだ。JR東の盛岡支社が、今日(30日)未明に新幹線の一関トンネル(水沢江刺-一ノ関間)で上り線に1.6kgのモルタル片を確認。緊急点検で異常がなく朝から平常通りの運行をしたが、原因は老朽化という。盛岡管内の14のトンネルの点検を急ぐとのことだ。大事故になってからでは遅いから、点検を急いで欲しいが、東北新幹線も「老朽化」と評される年数が経過しているのか、との実感。一関トンネルとは、地図で見ると一関駅を出た下り列車が最初に入るトンネル。束稲山の下を抜けており、平泉町域の区間の全部と奥州市前沢区の区間の一部にあたる。
2013.01.30
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一般に学校名に東西南北を冠する場合、地域名+「東」+「小(中)学校」の順になると思われる。これは、東西南北の方位名が、小中学校を区別特定するための役割を持っているからであり、つまり、古川「第一」小学校、古川「第二」小学校の場合の序数と同じように、複数設置する学校を相対的に区分する指標と言って良いだろう。他方で、方位を冠する学校名には、「東」+地域名+「学校」の順も結構ある。例えば、東仙台中学校だ。この場合は、実はまず「東仙台」という定着した地域の名称があって、そこに学校呼称を続けるというケースだろう。つまり、実態は「地域名」+「学校」という自然な命名であって、方位名や序数で相対的に区分する方式ではない。「東仙台」なる地名が絶対的に存在しているから命名しただけであって、東仙台中学校はあっても西仙台中学校があるとは限らない(実際に存在しない)。「東」が地域名の後に来るか前に来るかの違いは、通常はこのような考えが原則だろう。ところで、大崎市には、「西古川」小学校と「古川西」中学校がある。まず、小学校は、古川第一小学校から第五小学校まであるほかに、西古川小学校があるわけだ。東古川小学校はない。中学校については、古川中学校のほかに、古川西、古川北、古川東、古川南の各中学校がある。想像なのだが、小学校の命名の際には、地域の総称として名付けた。東仙台のように町名や字名には明確にないようだが、鉄道の西古川駅があるように根付いた地域名だったのだろう(その点では北仙台小学校と似ているかも)。ところが中学校の設置(統合かも知れぬ)の際には、先行した古川中、古川東中との相対的区分と命名法統一のために、古川「西」としたのではないか。西古川小学校と古川西中学校は学区が重なっている。このため、該当地域の子どもたちは、西古川小を卒業すると古川西中に入る。何で学校の呼称が順番違うのかと定番の話題になっているのではないだろうか。それとも幼少から意識に定着しすぎて気にもしないか。類似の状況に、奥州市の東水沢中学校と水沢南中学校がある。東水沢は地域名、水沢南は後発設置校として区別のための標識だろう。以上から、次のように一般化し整理しておきたい。 (1)(地域名)+(方位など)+(校種名) 具体例:古川西小学校 方位などによって相対的に学校を区分識別させる (2)(方位など)+(地域名)+(校種名) --> 実は(地域名+校種名)に過ぎない 具体例:西古川中学校 方位は地域名の一部(実は方位を含めて固有の地域名というべき)ただし、ややこしいことがある。方位等を相対区分の標識として用いるのは前者(1)の語順の場合と思われるのだが、後者(2)の語順に見えて、実は相対的区分の標識として方位等を用いる場合もないとは言えないのでないか。例えば、むつ市に第三田名部小学校がある。「第三田名部」が地域名でないのは明白だから、語順は(2)に見えても、用法は相対区分指標だ。序数でなくて東西南北の方位の場合でも、このパターン(語順は(2)だが実は相対的区分)も、無いとは言い切れないのでないか。■関連する過去の記事 むつ市立第三田名部小学校(2011年8月21日)原則が常に妥当する訳ではないことを証明するには、一つだけ例外を示せばよい。そう思って、(2)の語順で実は相対区分標識として方位を用いる校名を探しているが、まだ見つからない。
2013.01.27
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今朝の河北新報「方言の泉」で取り上げられていた。「起きる」の命令形がオキレになるのは、東北の日本海側と九州だそうだ。上一段と下一段活用の動詞の命令形を、多数派の五段活用にならって活用させるものだ。命令形を五段活用と合わせるという意味で規則をスッキリさせると考えれば、オキルよりオキレが新しいことになる、と解説している。つまり、現代共通語より進化しているとも言えるということだろうか。とすると方言と言うより、若者言葉のような現代型の言語の変形の一種と捉えるような解説にも思える。しかし、そういう見方も出来るというだけのことで、それが本質ではないのだろう。東北日本海側と九州というから、やはり地域や沿革に結びついた「方言」なのだろう。より詳細にどの地域で多用され、またどんな歴史的変遷を経ているのだろうか。論文でも探してみるか。■関連する過去の記事 食べれ!降りれ?(07年6月20日)
2013.01.26
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佐竹藩の医師藤井玄淵が文政年間藩主のため創製したのが、龍角散の始まりとされる。2代目藤井玄信は蘭学を学び、漢方薬のベースに西洋生薬をいれて改良。3代目藤井正亭治は藩主のぜんそくを治すため、長崎で蘭学を学び藩薬龍角散をぜんそくの処方に改良する。維新後は藩薬だった龍角散が典医の藤井家に下寵され、正亭治は江戸で一般薬として販売し大ヒットする。4代目藤井得三郎はドイツの製剤技術を学び1894年パウダー状の細かい製剤を完成。現在の処方となっている。龍角散の複数の生薬を均一粒度に調える技術はオンリーワンのものである。現在は藤井隆太氏が8代目社長。■『ロングセラー商品の舞台裏』成美堂出版、2010年
2013.01.25
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震災後何度も一関から気仙沼に向かっていました。千厩を通るたびに寄ってみたいと思いながら果たせなかった。やっと、訪れることができました。■関連する過去の記事 千厩の「あんかけかつ丼」(2010年4月5日)市街地のど真ん中。駐車場が裏手なのでやや判りにくいかも。昼時なので当然ながら中には10人以上のお客さん。復興関係なのか作業員風や業者風の人たちでした。かつ丼(当然にあんかけ)とそばのセットメニューをお願いしました。1000円。身も心も温まります。がんばろう東北。
2013.01.23
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岩沼の朝日山公園には久板栄二郎の文学碑がある。1898年(明治31)岩沼町生まれ、東京帝大在学中よりプロレタリア演劇運動に入り、昭和9年に新協劇団の設立に参加。「北東の風」「断層」などの戯曲。戦後は映画脚本家として優れた作品を手掛けた。黒澤明監督「わが青春に悔いなし」「悪い奴ほどよく眠る」、木下惠介監督「大曾根家の朝」など。晩年は「伊達騒動」などの小説も。1976年(昭和51)没。文学碑には小説「藤原三代記 森と黄金の川」の一節が刻まれている。■仙台歴史探見倶楽部『宮城 歴史探訪ウォーキング』メイツ出版、2010年
2013.01.20
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大船渡線に走っている。12月29日から2月24日までの土日に運行しているようだ。楽しい企画で気仙沼や大船渡線沿線をぜひ盛り上げていただきたい。一往復で、時刻は一ノ関発1135気仙沼着1315。上りは気仙沼発1502一ノ関着1636とのこと。全席指定。車内も細部にまでこだわっているようで、相当人気があるのではないかと思う。
2013.01.08
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昨日スタートの「八重の桜」は21.4%(関東地区)だったそうだ。昨年の「平清盛」初回が17.3なので上回っている。地元福島では30.4%とのこと。復興にかける福島を舞台にした期待の作品。そして会津の心を描いた作品に違いないから、われら東北人でおおいに鑑賞したい。とは言え、昨夜は子どもの冬休み宿題が優先してしまい、再放送で親子で必ず観たい。さて、大河ドラマの視聴率といえば、どうしても昭和62年の「独眼竜政宗」が思い浮かぶ。やはり、NHK大河の平均視聴率(初回から最終回)では「独眼竜政宗」が39.7%で最高のようだ。ちなみに「樅の木は残った」は21.0である。「政宗」は最終回が47.8とすごい。あの頃、宮城県内では視聴率6割とも7割とも言われていたような気がする。
2013.01.07
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道路建設など土木県令として名高い三島通庸。大久保利通に請われ酒田県令、やがて明治9年鶴岡、置賜両県の合併で初代山形県令となる。土木事業のみならず、万日河原に山形県庁を新築すると、その隣に千歳園を設けて和洋果樹の試験栽培を行った。また、園内に水力機織所を設けて機械工業による山形木綿の発展の契機を作り、さらに蚕糸業振興のため覚成寺に製糸工場を建築した。他方で、山形城内二の丸を牧場とし、城内で養鶏城を設け、さらには旧城の堀に鮭卵を放って育てた幼魚を県内に放流するなどした。山形の風習として瓦ぶきの家が少ないと見ると、新しい丈夫な焼き方を指導して、三島式瓦を官庁や学校に使わせ、一般民家もぼつぼつ使用するなど、おせっかいなほどに随分と積極的な意気込みの県令であった。教育面では鶴岡時代に朝暘学校を新築し、酒田に琢成学校、米沢には興譲館を再興した。山形県令になると県庁前に師範学校を新築、明治15年には山形中学を設立した。衛生面では現在の山形市立病院済生館である。この病院は明治7年の創設。明治6年に天童の富豪佐藤伊兵衛の愛児が病死したので、医学の未熟を嘆いて山形の長谷川吉郎治と相談して天童に私立病院を設立したが経費がかかるので、県参事関口隆吉や山形の医師中原葦州男、原田元民(王ヘンに民)、上山の梅津清中らと協議して山形に移転。七日町の元本陣を借り受け山形県公立病院と改称し、県から毎月百円の補助を受けた。山形の細谷良民(王ヘンに民)、高橋文信、天童の武田玄々、米沢の藁科松伯、中条言休、西野佐久、堀田亮之輔などの医師が一週間交替で診療した。そこも手狭になったので大手門側に本建築をしたが、三島県令が赴任すると、土木趣味が出てきて院長長谷川良六を上京させ、東京の大学医学病院、横浜英国海軍病院を視察させて大規模な新築設計をさせた。明治12年1月に13万円を投じて大病院を建設。高さ20メートルの三層楼で明治初年の建築様式の粋を極めた。太政大臣三条実美の命名と揮毫による「済生館」の額を掲げる。三島はただ形を整えるだけではなく、オーストラリア人ドクトル・フォン・ローレンツを医学寮教師兼済生館教頭として招へい。この時、済生館は公立から県立となり、明治21年県会の決議で県営を廃止民営となり、明治37年に現在のように市立となった。■岡田益吉『東北開発夜話』金港堂出版、1977年 から■山形市立病院済生館さんのサイト 病院の概要
2013.01.06
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今朝車を運転中のこと。大きな交差点で信号待ちしていると、眼前を車たちが左から右へ、あるいは右から左へ動いていく。正月の土曜日とあって数もまばらだ。その中に一台のトラックが左から右へ、つまり車体の右側をこちらに見せて流れていった。そこにある社名とおもわれるカタカナが、なんと、裏文字(鏡文字)なのだ。以前も書いたが、車体右側の社名は右横書きの表記が今でも少なくない。しかし、長文だったり、ローマ字だったりすると、意味が分からず当惑してしまう例も多い。裏文字は、すぐれたアイデアではないか!と一瞬思ったのだ。進行方向の先頭から書くという伝統的な右横書きの作法を守りつつ、左横書きという戦後からの我々の文字感覚も生かすとしれば、これしかないだろう。でもよく考えると、カタカナの裏文字にすると別の文字に見えたりもするし、そもそも裏文字で書いていると言うことが瞬時にわからないと意味がないから、逆に読解難易度が上がってしまって、一般には無理だろう。見慣れたロゴのように構成している文字列なら、瞬時にわかる可能性も高いだろうが。おそらく、この運送会社(たぶん)はシャレでやっているのだろう。それはそれで楽しいが。(車体左側は見ていないが当然通常の表記だろうけど、もし鏡文字なら相当上級のシャレだ。パネルの中の荷物に見せているんデス、とでも。)■関連する過去の記事 車の右側面のテキストは左右どちら向きに書くか(2010年11月7日) 車体右側の「社名」をどう書くか(07年5月24日)ところで、車体と裏文字(鏡像文字)と言えば、救急車両を思い出す。あれは車体前面だ。かなり昔のことだが、乗用車のターボエンジン搭載が流行した頃は、なぜかボンネットのあたりにturboの裏文字があるのがシンボルだったように思う。また、人間の脳の左右の半球の働きのメカニズムや認識構造との関係で、人が裏文字を書くことが知られているという話がある。以前TVでやっていたのでは、遺伝的に鏡像運動をする一族がいるということだった。幼児が裏文字を書くということも良く聞く。我が子のうちひとりが左利きだが、たしかに、平仮名を裏文字で書いていたように思う。やはり何か関係があるのだろうか。
2013.01.05
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今年の東北の大きな選挙と言えば、まずは今月27日投開票の山形県知事選だ。今朝(3日)の河北新報では、自民から対立候補は可能性がなくなり、無投票再選が濃厚と報じている。現職の吉村氏本人は「県民党」を標榜しているが、民主、共産、社民は前回に引き続いて吉村氏支援の姿勢を決めており、他方で、前回は敗退した現職を支援した自民は、県議の大半が支援しているなどの事情から主戦論はなく、12月に自主投票を決定した、という経緯だ。吉村氏には県内35市町村の首長がすべて支援するほか、農政連や連合も支援方針を決めている。それにしても、都道府県知事選で無投票というのはあまり聞いたことがない。我が国の社会文化に即したリーダー像やその選出過程のあり方、また、直接選挙の実施を典型とする民主主義がどう運営されているかの実態をよくよく考究するとき、名望家政治的な一つの理想像を想定すれば、たしかに無投票による選考もありうることとも思われる。特に、候補者やマスコミによって歪められたイッシューや雰囲気で投票行動をとることも少なくないことから、また、表層的な政治対立や選挙のコストなどを弊害と割り切れば、そう考えることもできるかも知れない。しかし、かりに結果が明らかだとしても、直接選挙を通じて争点や政治的方針の明確化を迫ることは非常に重要だと思う。候補者擁立過程や選挙戦、また投票率などによって、課題や期待などが浮かび上がり、県政の方向を論議する最高の機会となるはずのものである。吉村氏は昨年6月に再選を目指し出馬を表明。かなり早い段階という気もするが、それまでにも自民との距離は縮まっており、昨年末の総選挙では吉村氏が親民主の姿勢をとらなかったことで全方位の政治的立場を確立したようだ。前回選挙では自民が支援する現職を、チェンジを旗印に民主党の鹿野道彦氏や近藤洋介氏らが支えた吉村氏が猛追した。自民党県議もほとんどが現職支援ではあったが、有力首長が吉村氏を支持し、また各地の現職批判票をうまく取り込んで終盤に逆転した。そもそも山形知事選は、前々回も斎藤氏が現職の高橋知事を破っているから、現職落選が2度も続いたことになる。しかし、吉村氏は任期中の県政運営で自民を含むオール与党ともいうべき構図を打ち立てきたのであるから、まさに卓越した政治感覚の持ち主なのだろう。ところで、河北の記事では、知事選の無投票は59年の我孫子知事再選以来、全国では03年鳥取知事、11年高知知事に次ぐ事例、と説明していた。
2013.01.03
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