聖歌は生歌

聖歌は生歌

年間第16主日


 138 すべての人の救いを願い
【解説】 
 この詩編86は、詩編作者自身、自らを「しもべ」(2,4節など)と呼ぶ、個人的嘆願の詩編です。普通、嘆願の詩編
は感謝で終わりますが、この詩編は、再び、嘆願の祈り(16-17節)が加えられています。また、普通、詩編では、
「主」(アドナイ)、「神」(エロヒーム)のどちらかが使われますが、この詩編では、両方が用いられていることも特徴の
一つです。
 答唱句はアルトとバスが第2小節までC(ド)、和音も主和音を保つことで、すべての人の救いを願う精神の持続を
表現しています。後半は一転して、和音も動き、特に「(待)ち望む」で、旋律は最高音のC(ド)に至り、テノールでは
As(ラ♭)が経過的に、アルトではD(レ)⇒E(ミ)という動きが用いられ、救いを待ち望むこころと決意が神に向かって
高められます。
 詩編唱は、六の和音から始まり、救いを待ち望む姿勢が継続されます。第3~第4小節にかけては、伴奏のテノー
ルでFis(ファ♯)を用いて和音が属和音に至り、和音進行でも祈りでも、答唱句へと続くようになっています。
【祈りの注意】
 答唱句はあまり早くならないように注意しましょう。答唱句のこの、ことばをゆっくりと噛み締めるように祈りたいもの
です。人間、誰でも一人や二人は好きになれない人がいることでしょう。その人たちのことをぜひ思い起こし、その人
たちの救いを願い、この答唱を祈りたいものです。「すべてのひとの」と「救いをねがい」の後の八分休符の前の「の」
「い」は、そっとつけるように歌い、やや dim. すると、ことばが生きて、祈りも深まります。後半の「わたしは」からは、
だんだん大きくしながら rit. しますが、決して、乱暴に怒鳴らないようにしましょう。「待ち」で、この cresc. は最高
点に達しますが、「望む」からは、徐々に、dim. すると祈りも深まるのではないでしょうか。解説にもあげた、テノール
で経過的に用いられるAs(ラ♭)すなわちA(ラ)⇒As(ラ♭)⇒G(ソ)、アルトのD(レ)⇒E(ミ)というそれぞれの動き
を「待ち望む」こころをあらわすのにふさわしくしたいものです。答唱句全体がP で歌われますから、この cresc. も
P の中で cresc. すると、自然と祈りが深まるでしょう。
 詩編はすべての第1小節と、1節の第3小節で「神よ」という呼びかけがありますが、ここで、区切りを入れると、音
楽ばかりか祈りも途切れてしまいます。どの小節のことばも一息で祈りたいものです。「神よ」や「神は」の後、半角あ
いているのは読みやすくするため、途中で字間があいているのは楽譜の制作上の限界であることは、すでに述べて
います。
 1節と3節の最後の「さぃ」は、「さ」をのばし「ぃ」をそっとつけるように、天に折られる神に呼びかけるようにします。
決して「さいー」と品が悪くならないようにしてください。2節の最後「あなたのほかに神はない」は、十戒の第一の戒
めを思い起こし、P の中でも確固とした決意を持って祈りましょう。
 最後に歌う答唱句は、この答唱詩編の締めくくりとして、テンポも少し落とし、PP で歌うと、より、この答唱句の祈り
のことばが深まるでしょう。第一朗読の「知恵の書」を思い起こし、神への信頼といつくしみを願って、この答唱詩編を
深めてゆきましょう。
 その、知恵の書では、人間が互いに愛することを示すために、「寛容をもって裁き、大いなる慈悲をもってわたしたち
を治めておられる」ことが述べられます。人間社会には、よい麦も毒麦もありますが、それが本当はどちらなのか、わ
たしたちはあまりにも早急に判断してしまい、よい麦を抜き、毒麦を残してしまうことがあるのでしょう。神は、それら
が本当にどちらになるのか、忍耐をもって見極められるのかもしれません。わたしたちも、神の国の完成のために、歴
史が一歩一歩成長して歩むように願いながら、じっくりとその完成を待ち望むとともに、そのために祈りと働きを日々
惜しまぬようにしたいものです。
【オルガン】
 答唱句の深い祈りをあらわすために、落ち着いたフルート系のストップを用いましょう。祈りの注意でも書いたよう
に、答唱句が早くならないように、オルガンの前奏は落ち着いたものでなければなりません。普段の答唱詩編と違っ
て、オルガンが会衆のテンポをふさわしい速さにセーブすることになると思います。オルガン奉仕者は、普段から、ゆ
っくりと(だらだらではなく)、落ち着いた伴奏になるように、また、八分休符のところを十分に生かすことができるよう
に、祈りを深めておきましょう。

《B年》
 123 主はわれらの牧者
【解説】
 詩編23は、牧者としての神に対する信頼と感謝を歌った詩編で、牧歌的な美しい表現に満ちています。その背景
には、死の陰の谷であるエジプトから導き出し、荒れ野で岩を割って水を与え、緑豊かな牧場に導かれた、また、エ
ジプトと言う敵の只中で最初の過越しを祝った、というイスラエルの救いの出来事があるようです。キリストは、この詩
編23とエゼキエル34章を、ご自身に対する預言とされ、「わたしは良い羊飼いである」(ヨハネ10:11)と仰ってい
ます。なお、5-6節は、天のエルサレムでの神の宴の預言とされ、感謝の祭儀=ミサの予型とも言われています。
 答唱句の前半「主はわれらの牧者」では、主に旋律が高音で歌われ、とりわけ「主」と「ぼくー者」では、最高音C
(ド)が用いられて強調されています。後半の「わたし」は旋律がD(レ)、「とぼしいこと」のバスがB(シ♭)といずれも
最低音が用いられており、対照となる信仰告白のことばがはっきりと表現されています。
 答唱句の旋律の音は、答唱詩編のページでも触れたように、ミサの式次第の旋律の音で構成されています。詩編
唱は17~18「いのちあるすべてのものに」(18は、次の年間主日で歌われます)と旋律、伴奏ともに全く同一で、わ
たくしたちを養ってくださる神という、詩編ならびに答唱句の主題にしたがって詩編唱でも統一がはかられています。
【祈りの注意】
 答唱句は、この詩編の主題である、信頼・感謝を十分に表すように、雄大に堂々と歌いたいものです。しかし、そこ
で忘れてならないのは「主は」、「われら」、「ぼく者、「わたし」などのアルシスをしっかりと生かすことです。これが生
かされないと信仰告白のことばが活き活きしてこなくなり、ひいては、全体の祈りがだらだらとしたものとなってしまう
のです。「ぼく者」の部分は、やや、テヌート気味で歌い、このことばを自らのこころにはもちろん、聞いている人のここ
ろにしっかりと刻み付けたいものです。また、「者」の付点四分音符はテヌートしたままのテンポで延ばしますが、「わ
たし」に入ったら、すぐに冒頭のテンポに戻します。そして、最後は、本当にわたしには何一つ不足していることがな
いことを表すように、rit. して終わります。特に、最後の答唱句はていねいに終わらせます。
 詩編唱は、第一朗読のエレミアが預言したように、イエスの時代の牧者(律法の教師)たちが、羊の群れ(イスラエ
ル)を散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかったことから、その有様を深く憐れんで、人々に教えられたキリ
ストを預言するものとして歌われており、この、テーマで第一朗読と福音朗読の橋渡しをしています。
 技術的な注意ですが、詩編唱2と4の4小節目、「まもる」と「いきる」は楽譜の八分音符だけにしか字がありません
から、どちらも、八分音符一つだけで歌い、「いきーる」「まもーる」のように音を延ばすことはしません。詩編唱の4
は、どの小節もことばが少ないので、他の詩編唱の節よりゆっくり目に歌います。これは、とりわけ、2小節目で顕著
です。
【オルガン】
 答唱句や詩編の牧歌的性格を表現するためにも、フルート系のストップ、8’+4’が有効ではないでしょうか。祈り
の注意で書いた、テヌートや rit. を前奏で、きちんと提示することを忘れないようにしましょう。歌いなれた答唱句と
思いがちですが、答唱句の信仰告白を、一段とふさわしいものにするためには、不断の祈りが欠かせないものです。

《C年》
 101 しあわせな人(2)
【解説】
 詩編15は神殿の中での典礼を背景にした教訓的な詩編の一つ(他に、24,134)で、巡礼者が神殿に入るときに
儀式が土台になっていると思われます。1節は巡礼者の問い、2節目以降が、おそらく、祭司あるいはレビ人の答え
と思われます。神に受け入れられるためには、悪を行わない(掟を守る)だけではなく、隣人のことを大切にすることも
必要で、キリストが教えた新約における愛の掟の序曲ともいえる詩編です。
 答唱句は八分の六拍子で滑らかに歌われます。2小節目は4の和音から、後半、2の7の和音に変わりますが、こ
れによって祈りを次の小節へと続けさせる意識を高めます。続く「かみを」では旋律で最高音C(ド)と4の和音を用
い、次の「おそーれ」ではバスに最高音H(シ)が使われ、「神をおそれ」では、旋律が6度下降して(それによって母
音の重複も防がれています)、前半の主題を強調しています。7小節目後半の3つの八分音符の連続は、最終小節
に向かって上行音階進行しており、終止の rit. を効果的に導いています。
 この答唱句は、C-Dur(ハ長調)の主和音ではなく、五の和音で終わっています。これによって、祈りを詩編唱に
つなげる役割もありますが、この曲はいわゆる長調ではなく、教会旋法に近い形で書かれていることがわかります。
G(ソ)を終止音とする教会旋法は第8旋法ですが、その音階は、D(レ)からd(レ)なので、この曲には該当しませ
ん。他にも、36~40「神のいつくしみを」、130~135「主をたたえよう」などがこれにあたります。これらから考える
と、この旋法は、教会旋法を基礎に作曲者が独自の手法とした旋法であり、「高田の教会旋法」と名づけることが出
来るでしょう。
 詩編唱も、答唱句と同様の和音構成・進行ですが、3小節目だけ、冒頭の和音は答唱句で経過的に使われている
二の7の和音となっていて、3小節目の詩編唱を特に意識させるものとしています。
【祈りの注意】
 答唱句で特に注意したいことは、「だらだらと歌わないこと」です。だらだらと歌うとこの答唱句のことばがまったく生
かされなくなってしまいます。そのためにはいくつかの注意があります。

 1=八分の六拍子は、八分音符を一拍ではなく、付点四分音符を一拍として数えること。
 2=先へ先へと流れるように歌うこと。
 3=「しあわせなひと」の「わ」をやや早めに歌うこと。
 4=上の太字の三つのことばの八分音符で加速をつけるようにすること。

 の三点です。
 また、2については、1・3・5・7各小節の前のアウフタクトのアルシスを十分に生かすことも忘れてはならないでしょ
う。このようにすることで、祈りが自然に流れ出てゆき、答唱句のことば「主の道を歩む」「しあわせ」が、豊かに表現
できるのです。
 前半の終わり「おそれ」では、やや、わからない程度に rit.するとよいかもしれません。答唱句の終わりは、歩みが
確固としたものとして、ただし、主の前を静々と歩むように、十分に rit. して、滑らかに終えましょう。 
 第一朗読では、アブラハムの天幕に神の使いが訪れ、サラの出産が預言されます。アブラハムの天幕は、神の幕
屋ではありませんが、神の前に正しい人であり、神のことばを聞いて、カルデアの地・ウルから旅立ったアブラハム
は、まさに「とがなく歩み、正義を行う、主の道を歩むもの」でした。福音朗読でマルタは「多くのことに思い悩み、心を
乱して」いました。ですから、「心からまことを語る」イエスのことばに耳を傾ける余裕すらなかったのでしょう。わたした
ちも、ついつい、普段の生活に追われて、一番大切な神のことばに耳を傾けることをおろそかにしてしまいがちです。
いつも「神をおそれ、主の道を歩む」ことができるように、まず、神のことばに耳を傾けることを、もう一度、この詩編を
味わいながら、心に刻み付けたいものです。
 さて、最後に、いつも書いていることですが、詩編唱の字間のあいているところで、間を置いたり、延ばしたりするこ
とは絶対してはいけないことです。1小節が滑らかに歌われ、祈られるようにしてください。
【オルガン】
 前奏のときに気をつけなければならないことは、祈りの注意で書いた四つの注意点です。まず、前奏のときにこれ
がきちんと提示されないと、会衆の祈りは、活気のない、だらだらしたものになってしまいます。前奏の冒頭から、き
びきびと、弾き始めましょう。もう一つ大切なことは、オルガニスト自身が、ここで歌われている「しあわせな人」になっ
ていなければ、よい前奏、よい伴奏はできないのかもしれません。ストップは、フルート系のストップ、8’+4’で、明
るい音色のものを用いるとよいでしょう。最後の答唱句は、うるさくならなければ、弱いプリンチパル系のものを入れて
もよいかもしれません。



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