海洋冒険小説の家

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(8)信長の法華宗弾圧の意図



 六月十三日、一晩中降っていた雨が明け方、やっとあがった。昨日の昼頃よりぽつぽつ降り出して、本降りになったのだった。久しぶりの雨であった。夕立は時々あったものの、こんな雨は京に来て以来始めてであった。
 午の上刻(午前11時)前から四条富小路にあるという頂妙寺に、日光を出迎えに行っていた仁助たちが、申の下刻(午後4時)ごろ、帰ってきた。秀五郎は助左衛門に、日光殿は命が無事だったのが信じられないと言っていたことや、兄弟が手をとりあって泣いたこと、仁助が、当分の間、寺に滞在しようか、と言うと、日光殿はまだ用心深く動かないと、危ない気がするので、当面はそっとしてほしい旨言い出された事など報告した。
 村井長門守の目が未だ光っているようだ。これでは、用心して動かねばならないだろう。仁助は皆に説得されて堺に帰ることになった。

 助左衛門には信長の狙いは何であったか、少しずつ分かってきた。あの二枚の詫び証文と「次第」を、京の町中に公表することで、法華宗の面目を失墜させた。何十人もの僧の首を切った以上にこれは効果があったのではないか。この打撃から立ち直るにはかなりの年月が法華宗の各本山各派には必要となるだろう、少しでも力がありそうな者に対しては、叩いておく。特に自分の足元の京の支配の強化については、いささかの誤まりなきようにする。そして執拗なまでに屈服させる。目的のためには手段を選ばず、直裁でやらせる。

 信長は天文元年(1532年)から、天文五年に至る、法華衆徒の京、摂津での合戦の事に気がついていたのだ。
              (続く)



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