たからくんが大人になるまで生きていたい日記

たからくんが大人になるまで生きていたい日記

タイトル「次の私」


「次の私」



 皇室のことを詳しくは知らない。だが、秋篠宮殿下が紀子さんを見初め、ご成婚の話が世間の話題だったとき、その中に今でも私が覚えている話がある。紀子さんのお母さんが言った言葉。
 どのような教育方針で育てられましたかと質問された紀子さんのお母さんは、「特別なことは何も。ただ一つだけ、歩くときはゆっくり歩きなさいと躾ました」と答えた。
 生き方の教訓として「ゆっくり歩く」という表現を比喩で使うことには、さして驚かない。しかし、このときの話では、実際の動作として物理的に「ゆっくり歩く」というのだ。
 私が子供の頃、叔父がよく子供たちに言った教育的言葉は「早飯、早糞、早走り」だった。優秀な人間の条件だと言った。さっさと飯をかっ喰らい、よく動き、仕事が手早い。
 選挙活動の渦に巻き込まれ、私達子供を含めた家族中がとても忙しかったことがある。三時間程度の睡眠時間が続いた時期、母が言った言葉は、「寝る時も一生懸命眠りなさい」だった。
 登校時間はいつもギリギリ。遅刻しないように息を切らして走った。信号が黄色になると慌てて走り込む。みんなそういうものだと思っていた。就職して、先輩についてお客様のところへ伺う。先輩の歩く速さについていけず、歩くというより小走りになった。
 そんな生活が当たり前だと思っていた私に、ゆっくり歩きなさいと子供を躾る親がいるというのは驚きだ。確かに周囲はよく見えるだろうし、何よりも転ばないだろう。
 私は、「効率的だ」というのが何よりの誉め言葉だと思っていたふしがある。急いで急いで暮らしていた。そのはずなのに、気づいたら三十六歳にしてまだ子供も産んでいなかった。走っているつもりが数知れず転んでいて、実はザルで水を汲んでいるような暮らし方が癖になっているのかなと、最近思う。
 インドで生活してみたくなる人や、ベトナムへバックパック旅行した体験記をちょこちょこと読む。そういった本に手が伸びるのと近い心の場所で、実際の動作としてゆっくり歩く生活って一体どういう感じなのか、体験してみたいと、今頃そんなことをよく考えるのだ。
 チャレンジしてみると、慣れた動作をしないというのは案外に難しい。何となく高額な買い物をするときの訳もない不安に似て判断が鈍る。
 そんなこの頃、繰り返し体験する場面がある。駅へ向かう道、私はアップテンポの曲をウォークマンで聴きながら大股で歩く。踵からアスファルトを掴んでぐいぐいと歩く。何人か、走ってきて駅へ向かって私を追い越していく。電車が来る時間が近いらしい、と追い越されながら私は察している。ウォークマン越しに駅のアナウンスが聞こえてきた。やはりもうすぐ電車がホームに着くらしい。今走ると乗れるかも知れない。いやいや、走らない、一本遅れたところで支障はない。私は歩くペースを崩さずに改札を通る。電車を降りた人たちと階段ですれ違う。まだ電車はホームに止まっているらしい。どうしよう、どうしよう、まだ止まっているらしい。そして、最後の階段をとうとう数十段駆け上がったところで、扉が閉まって発車した電車を見送ることになる。ぜいぜいと息が上がり、喉がひっついて、口の中が嫌な感じ。重い荷物から水を取り出して飲む。また走ってしまった。走るなら最初から走ればまだ間に合ったかも知れないものを。無駄走りだ。ああ、またやってしまった。
 走ること以外にも、習慣を変えようと思って失敗し、「ああ、またやっちゃった」を繰り返していることがある。
どうしよう、どうしよう。結果はどうあれ、そう迷う一回一回が、走らない生活習慣へ向けて踏み出している一歩一歩なのだ。そしていつの間にか私は次の私になっていくのだろう。「電車が参ります。次も参ります」





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