たからくんが大人になるまで生きていたい日記

たからくんが大人になるまで生きていたい日記

タイトル「潮の香り」


「潮の香り」



 大学生だった頃、東京から香川県に帰省していた夏の夜、まだ建設中だった瀬戸大橋を見に行った。小さな人間の小さな力が意志を持って重なったその大きさに、目頭が熱くなった。
 その頃まで、私にとっての日本は地図で見る形とは違い、連絡船という時間のトンネルを六十分間経て、岡山から扇形に拡がっているようだった。そして帰るときはどこからであろうと、岡山県の宇野港から連絡船の行く手に、四国という島がむくむくとわき上がってくるのだ。
 新幹線の自由席には、様々な方言が混ざりあふれている。岡山駅から宇野港までのローカル線は、岡山弁一色になる。近づいたな、と思う。連絡船に乗ると、ドッドッドッドッドッドッという低いエンジン音が、椅子からも床からも体全体に伝わり、油くさい船の臭いと、海の匂いがする。浜辺で感じるにおいではなく、確かに潮の上にいるものの頬を撫でる海の匂いだ。この中で、一時間過ごすことで、香川の人へ私は戻れていたのだと思う。
 お箸を高い位置で持つ子は大人になって親から遠い場所で暮らす、と幼い頃に聞いたことがある。
 今、本州と四国は瀬戸大橋で陸続きになった。瀬戸大橋を渡る列車は安全のために窓が開かない。スピード感が伴う代わりに、匂いをなくして瀬戸の海を渡る。船だった頃の、ああ帰ってきた、という感傷を堪能する暇が少し足りない。瀬戸大橋を通過する度に、私の根が少しずつ切れて弱くなっていくような気がした。鬼無あたりの数十分間、切なくなってしまうことが暫く続いた。
 ここ数年、私は瀬戸の海をちゃんと見ていない。飛行機は、どこが海だか陸だか、無関係に点と点をワープする。匂いも景色もなく、銀色の筒に納まって、根が千切れていく感覚を曖昧にしてくれるのが有り難い。私はまだ、海にさよならは言ってしまいたくないから。


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