たからくんが大人になるまで生きていたい日記

たからくんが大人になるまで生きていたい日記

タイトル「繭」



「繭」



 芝居「にせさく贋作・桜の森の満開の下」に、こんな台詞があった。
「目蓋はあるけど、耳蓋はないから」
 私の荷物はいつも重い。サイフや筆記用具、手帳、常備薬と水、それにウォークマン。
 常にウォークマンが入っているとはいえ、私は音楽がそれほど好きな方ではないと自覚している。好きだから寸暇を惜しんで楽しむために持ち歩いているのではなく、避難場所として必要なのだ。目蓋はあるけど、耳蓋はないから。
 両手を水平に広げ、ぐるりと回って描き出される面積が、人ひとりについて必要な、ストレスを感じない他者との距離だという。
 だが、電車に乗っても、ファーストフード店のカウンターに座っても、その面積を確保できる場合は少ない。そんなときに、現実逃避が必要となる。その手助けをするのが、ウォークマンだ。聞きたくない内容の話が隣で交わされていてムカツいても、ウォークマンのボリュームを大きくすればその時間をやり過ごせる。
 大部屋に入院しているようなときも、聞きたくない喧嘩を家庭内で聞かざるを得ない場合も、同じ理由で必需品だ。
 私は、好きなテレビ番組が無いのでテレビをあまりつけないが、人によってはテレビも同じ働きをするらしい。
 帰宅するとすぐ夫はテレビのスイッチをいれる。自主的に選択して、観たい番組だけを観るというより、とりあえず、ぼおっとするために必要なのだ。思考する隙を与えないほどの情報を浴びることで、ぼおっとなれるらしい。
 ドイツ強制収容所の体験記録「夜と霧」に、空想をすることで絶望に抗い生き延びたことが書かれていた。
 現実が過酷になればなるほど、生き続ける手段に空想を必要とする。
 虐待を受けて育った子供の多くが乖離という手段を身に付ける。現実に起こっていることを認識せず、意識を閉ざすことによって、その場を凌ぐのだ。乖離は、空想を積み重ねることで結果的に訓練され、意識を飛ばすことがどんどん上手になり、無自覚に症状が癖になっていく。一瞬、一時をそうやって切りぬけて生き延びるのだ。
「ダンサー イン ザ ダーク」という洋画が話題になっているので、ビデオを借りて観た。過酷と乖離、乖離と現実への不適切な対応、その悪循環によって、正当防衛のはずの主人公が絞首刑に処せられる話だった。私は、予告編の「魂の歌は誰にも止められない」という脳天気なキャッチフレーズに呆れ果てた。首を吊られる瞬間まで乖離だけが彼女の味方だったということが何を意味しているのか、理解できなかったのだろうか。そんなときでも歌っていたがるほど主人公は歌好きだったと解釈したのか。本気で?
 ときに、現実を正確に認識しない技術が私たちを守っている。
 夢想家の子供や嘘吐きと呼ばれる子供を簡単に非難する大人も、常に現実をちゃんと把握して毎日を過ごしているとは、とても思えない。
 子供たちを責めるな、大人たちよ。親を含めて、大人は子供を完璧に守ることなんかできないのだから。
 大きな音をウォークマンから洩らしながら、御し切れない自我と現実に何とか挑んでいる思春期の若者を、音楽が包み込んで守っている。そんなときの音楽は、即戦力を帯びたシェルター、蛹の繭のようだ。
 でも、ずっと繭に逃げ込んでいちゃ駄目だよ。そのまま腐って死んでしまうから。いいことを教えてあげる。繭を脱いで大人になってからも、チョットだけなら繭を持っていてもいいんだよ。全部手放すことはないんだ。
 ほら、自分の実生活には全く無関係なプロ野球であんなに興奮できたりね、不景気でも立派なネオンを掲げて景気よく利益を上げているパチンコ屋で、勝ち続けられる道理がないのに没頭してみたりね、アルコールで紛らわせたりね。大人も何かしら現実逃避していて、実はちゃんと人生と向き合っていない人がごろごろいるんだよ。そんな大人でも、なんとか生きている。生きることだけは投げ出さずに、みっともなくても生き続けている。
「潔い死は選ばずに蛇は這う」。一九二九年生まれの小柄な男性が自分を指してそう言ったんだ。敗戦も、戦後の生き残り罪悪感も、癌闘病も経て、その果てに彼はそう言ったんだよ。彼もきっと時々は現実逃避したり空想したりしていると思う、今でも。それでも、私は彼のことを尊敬できる大人だと思えるんだよ。
 私は今日も電車に乗ってウォークマンを使った。不快に感じる出来事から気持ちを散らしたかったからだ。だが、不快の原因には立ち向かわないでやり過ごした。
 ウォークマンは暫く手放さないつもりだ。







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