映像四郎の百人斬り

映像四郎の百人斬り

「再び」





 「トーフ★NIGHT」に関わっていた、

 ここ、2、3週間、「地下鉄A子ちゃん」とは、

 音信不通になっていた。

 電話も、通じず、メールも、音沙汰なし。

 死んでたら、やだな。

 ずっと、悪い予感を、引きずっていた。

 だが、生きていたことが、本日、判明した。

 生きてて良かった、と想う。

 知らぬ間に、死なれるのが、一番、後味が、悪い。

 脊椎の腫瘍が、潰れるのを、待つしかないようだが、

 潰れたら、半身不随が、確定してしまうらしい。

 しかも、最近は、だいぶ、潰れかけているとのこと。

 専門外の形成外科からは、

 「ここまで、潰れていたら、私なら手術しますけどね」

 と言われたそうだ。

 心臓の手術よりも、難しいそうで、

 要は、神経を活かしつつ、脊椎の腐った部分を、取り除ける、

 器用かつ、リスクを負える医師が、日本には、いないということらしい。

 現在も、日本の他の医者や、海外の医者なども、探しているらしい。

 「地下鉄A子ちゃん」は、今、落ち着いている。

 今までとの違いは、泣き言をいう時期が、過ぎてしまったということだ。

 「地下鉄A子ちゃん」にとって、

 「半身不随=死」で、末期癌患者のような気持ちらしい。

 つまり、半身不随後の生活が、想像できないのだ。

 前まで、旦那さんとの別れるといってたが、

 結局、旦那さんが、

 「半身不随になっても、俺が、一生面倒を見る」ということで、

 落ち着いたらしい。

 「地下鉄A子ちゃん」は、小学生時代の近親相姦と、

 担任の先生からの、性交渉により、多重人格症になってしまった人だ。

 「家族(=旦那OR友達)」とは、SEXできない、

 しかし、「恋愛ジャンキー」な人なのだ。

 今まで、「地下鉄A子ちゃん」は、浮気や現代美術活動などで、

 好き勝手やってたし、旦那さんは、それを容認していたそうだ。

 そもそも、「地下鉄A子ちゃん」が、「恋愛漂流」の末、

 ぼろ雑巾、もしくは、捨て猫のように、

 東北の場末町に、放置されていたときに、拾いあげたのが、

 旦那さんだったそうだ。

 「キミが、楽しいなら、それでいいよ」

 と芸術活動、および、浮気活動を、容認していた旦那さん。

 現代には、このような「夫婦の形」も「あり」なのか、

 と、畏怖を覚えてきた。

 しかも、二人は、「一発」もやってない。

 というより、今さら「できない」そうだ。

 すでに「家族」なので、SEXは、

 「気持ち悪い」という領域に達している。

 しかし、ここ最近、ようやく「何してもいいよ」とはいうが、

 旦那さんに「嫉妬」らしきものが存在することに、

 「地下鉄A子ちゃん」は、遭遇していたらしく、

 ちゃんと、主婦をして、一緒に、ご飯を食べていたらしい。

 これを、聞いて、逆に、安心した。

 旦那さんも、人間だったのか、と。

 あまりにも、この「夫婦」は、達人すぎて、

 現代的倫理基準をも、優に、卓越した存在に感じていたからだ。

 なんかよう、わからんけど、「愛」のひとつの形なのかもしれん。

 「地下鉄A子ちゃん」は、

 私の一歳上で、「お姉さん」のような人であり、

 かつ、「いとこ」のようであり、

 また、「シャブを食らったガキ=子供」のような存在だ。

 世話することもあるけど、世話になったこともある人だ。

 今は、どこかで、「死」らしきものを意識しているのか、

 仏教や、神道の「木とか、花とか、虫とか、土とか、水とか、いろんなものに、

 いのちがある」みたいな、ある種、「アニミズム」的な本を、ブックオフで、

 買ってきて、読んでるといっていた。

 「地下鉄A子ちゃん」は、アッパーな「情念系」でなく、

 落ち着いているときは、いたって、「癒し系」な人だ。

 知り合ったのは、私が、AVに勤めていたころ、

 社内の女性陣が、一挙に「寿退社」を決めたときに、

 お別れ会として、新宿2丁目の「ゲイバー」にいったとき、

 不倫相手と一緒にきていた「地下鉄A子ちゃん」とお友達になったのだ。

 そのときは、酒の酔いもあってか、「大学生」にしか、見えなかったのだが、

 飲みを重ねるにつけ、そのDEEPな「物語世界」に、気づかされていった。

 ちょうど、大学時代の女友達が、医療ミスで、

 知らぬ間に、他界していたときで、

 「死=無」って、なんだろう、と、社会的には、

 無意味かつ不必要な、「問い」を

 抱えていたときだった。

 「死んだら、なくなっちゃうのに、生きてる人の頭の中にだけは、

  妙に、こびりついちゃうんだなぁ」と、困っていたのだ。

 その「女友達」に対しては、「友達」なのに、

 何故か「女」という概念が外せず、

 「人間」としての「その人」を見る機会が、永遠に失われてしまったことが、

 悔やまれて仕方なかったのだ。

 その「女友達」の性格が似ていて、

 極限にまで、「デフォルメ」した姿が、

 「地下鉄A子ちゃん」だったのだ。

 つまり、「地下鉄A子ちゃん」と、私の「関係性」は、

 その「女友達」に対しての「喪の仕事」的なものに、位置している。

 一体、「ヤツ」は、どんな「ヤツ」だったのか。

 そんな気持ちわるい好奇心が、全てに先立っていた。

 ちょうど、AVに入る以前から、映像に興味を持ち始め、

 うまい、へた、意味のあるなしにかかわらず、

 近いうちに、その「女友達」を、撮影したいと考えていたのだが、

 結局、撮影する前に、死んでた。

 やだなー。

 と思う。

 「死ぬことに、意味なんてない」って怖い。

 意味は、残された人が、勝手につくる物語にすぎない。

 その後、AVを辞め、金にもならないのに、

 拙い自主映像を、撮り始めた。

 目標は、100本で、質および尺を、一切、問わないのが、

 基本ルールなのだが、

 数をこなすうちに、映像の中身自体が、徐々に、

 明るくなってきてる気がする。

 最初のは、どこか、妙に暗かったのだ。

 「意味不明」かつ「だらだら」なのは、

 今も変わらないが。

 もっと、頭を、使って、「気持ち的なもの」を、

 再構成しなおした「物語的なもの」を、

 撮れるように、ならなきゃいけないなぁ、

 と思っている、今日この頃。

 ただ、現代医学の水準からいうと、120年後には、現在、この地球上に、

 棲息している人たちが、確実に、生存していない、と思うと、

 ただ、カメラを回すこと自体が、妙に、貴重なことに、思えて、

 止まらなくなってしまうのが、現在の問題点で、

 しかし、意味を考えて撮らなきゃ、つまらんもんは、

 つまらんという、外部の視点を通過した上で、

 もっと、頭を、使って、伝わるものを、撮らなきゃ、

 と反省する今日このごろ、なのです。


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