映像四郎の百人斬り

映像四郎の百人斬り

「ヒカル」編





 「ジェンダー」=「文化的性差」 


 「最初から、女になりたかったんじゃないのよ。

  あたし、性同一障害じゃないし、

  男のときは、男で、良かったし、

  男のときから、男も好きだったけど、女も好きだったし、

  どこにも、逃げない女、エロの対象としての女を、

  自分の中に、取り込んだって感じかな」



 最初に予想していた「女に生まれたかった」を

 見事に、覆してくれた。

 写真家「白魚トーフ」のイベント「トーフ★NIGHT」で、

 ストリップをやってくれたニューハーフの

 ヌード・アーティスト「ヒカルさん」が

 準備期間に、語ってくれたコトバ(およそ)。

 イベントでは、口上として、

 「性同一障害」と自らを定義していたが、

 本人に聞かなきゃ、わからないことってあるんだと感じた。

 最初に、「性同一障害」という、わかりやすいコトバでしか、

 捉えていなかった「ステレオタイプ」な考え方が、

 ぺりぺりと剥がされた感じ。


 も一個、別に、

 鷲田清一という大学の先生が、

 <女の子は「女装」によって女になる>

 ということを言ってた。

 「白魚トーフちゃん」とイベント準備をしていたときに、

 面白かったのが、

 すっぴん時に「ぽち」っと存在してるだけの「生き物」感と、

 外に出て行くときに「メイク」したあとの「女」感のギャップだ。

 一瞬、たいして、違わないようなのだが、

 まとう「オーラ」が、確実に、変わるのには、驚いた。

 てゆーことは、やはり、文化の範疇として、「女」観というものが、

 形成されていて、それに、適合したから、

 そう見えたってことなんだろうか。

 私も、「女装」すると、「女」になった気がするし。

 歌舞伎の女形だって、「女装」して「女」になってるし。

 この場合、<男の子も「女装」によって女になる>ってことかも。

 「ヒカルさん」は、肉体の内側からも、女装することによって、

 「女」を自分の中に、取り込んだのかもしれない。



 何を書こうとしたのか、だんだん、わからなくなってきたが、

 「混沌=カオス=バラバラ=分裂」と

 「秩序=コスモス=ガッチリ=偏執」の間で、

 自分なりに、「ゆるくて、気持ちいい地点」というのを、

 随時、作ってみたかったりしつつ、

 結局、ひとは、何らかの「文化=プログラム」から、

 外れては、生きていけないが、

 「混沌=カオス」の導入によって、

 「文化=プログラム=コスモス」を更新する「視点=支点」を、

 見出せる可能性を、常に、持っているって感じなのかも。

 「混沌=カオス=祭り」的なるもの、または、そんな「状況」

 こういったものを、100本映像で、撮ってく中で、

 拾っていこうと考えている、今日この頃。

 人間のOS=プログラム=文化に対する

 「シャーマニズム」=「精神的フォーマットの越境と着地」

 ということに、

 自分は、興味を持ってるのかもしれない(あぶねー)。



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