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おはようございます、尾関です。なんか涼しいというか、肌寒いですね。梅雨の時期は冷えに注意が必要です。年収1億円思考こちらを読了しました。今年のはじめから、そこはかとなく売れている本で、気になっていたので読みました。これは、非常に面白かったですね。この本を読んで1億円が稼げるとは思いません。ただタイトルにある通り、この本は思考やマインドについて紙幅を割いています。どう考え、どう行動するか。「稼げる人」になるための基準が明確に示してあって、非常に良本だと思います。さて、今日のテーマは「声を聴くこと」です。ここでいう「声」というのは、実際の人間の声に限りません。モノやコトが発するメッセージと解釈してもらってよいです。音だったり光だったり匂いだったり、カタチはさまざまですが、ぼくらには日々メッセージが届けられています。面白いことに、それらのメッセージを開封するかどうか、というのは、本人に委ねられているのです。DMや迷惑メールと同じです。たとえば上司に叱られることが多いとなれば、それは「自分を変革するチャンスである」というメッセージであると解釈できます。お金がぜんぜん貯まらない、というのは、「きちんと家計を見直したほうがよい」というメッセージかもしれません。(もっと根本的な問題の場合もあります)病気がちだということであれば、「食生活や姿勢を変えるべし」とか、もしくは、「人の気持ちが分かる心を育てるべし」なんていうメッセージとして解釈することができるでしょう。ここで分かる通り、ぼくらに送られてくるメッセージというのは、どう読んでも自由なのです。もしくは、まったく読まなくてもよいのです。いわゆる無神経になって、周りのことを気にしない、そういうのも違法ではありません。これが非常に面白いところですね。ですから恣意的に、自分勝手な読み方をしてもよいのですが、あまりに自分勝手だと、今度はもっと手痛いメッセージが訪れることとなります。なので最もよいのは、「自分が成長する方向で解釈すること」だとぼくは考えています。メッセージを「自分が成長する方向で解釈し」、自分という「我」をなるべくなくして、メッセージのままに従うと、あんまり間違いはありません。たいがいにおいて、声を聴くことができない人というのは、しゃべりすぎています。自分を主張したい、自分の言いたいことを言いたい、そういう気持ちが強すぎると、どうも変な方向にいってしまって、修正が難しくなるようなんですね。メッセージを素直に解釈すればするほど、良い方向にむかっていくのですが、「俺は正しいんだ」というのが強いと、どうしても「声」を読み違えてしまいます。気が付いてみると、ほんとうにあらゆるところから「声」は聴こえてきています。ぼくらの脳は、「聴きたいようにしか聴こえない」ようにできているらしいのですが、そのフィルターを薄くして、なるべくいろんな声を聴きたいなぁと思っている次第であります。=========================春日井市高蔵寺の整体院「空」の公式HP予約受付中! 0568-51-2354詳細は↓こちら↓をクリック!自然治癒力を120%引き出すブログ フォロー/友達申請大歓迎です!!ポチっと押していただけると、めちゃ嬉しいです!!
2011年06月02日
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言葉というのは、非常に欠点の多いツールです。たしかに言葉の力は言霊<ことだま>といって、ものすごく強いものがあります。けれども言葉はどこまで言っても言葉なのです。言葉とは「言の葉<ことのは>」。葉は「端(は)」であり、「はしっこ」という意味です。つまり「言葉」とは「モノゴトのはしっこ・一部分」である、ということなのですね。だから、言葉で伝わるものというのは、ほんの氷山の一角なのです。「愛してる」と言われても、どこか実感が湧かないときがあります。逆に「バカ」と言われても愛を感じるときがあります。そういうことです。言葉ほど無力なツールは無いのです。言葉ばかりをあまり信じてはいけないほうがよいと思います。情報化社会と言われて久しいですが、インターネットに溢れかえる情報など、身体が持つ情報にくらべたら、その質は比較にならないほど低いとぼくは考えます。成功者になりたければ、成功者の本を読むことよりも成功者のそばにいることです。幸せになりたければ、幸せな人を友達にすることです。言葉による情報は時代によって変わるけれども、言葉によらない「情報」は時代が変わっても変わらない。言葉というのは、お金と一緒で非常に危険なツールなんです。言葉は、カラダと違って裏切ります。ぼくは、言葉にならない、目に見えない情報が、言葉よりも圧倒的に大事だと思っています。また、今日この瞬間で変えられるものよりも、これまで「積み上げてきたもの」のほうが価値があると考えます。このスピード感ある社会についていくことも大事ですが、それ以上に、日々、地道に努力するということをおろそかにはできないと思います。言葉に惑わされず、地に足のついた生活をしたいと思います。
2010年10月02日
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以下の八則を我が訓戒とし、それを守らん。一、人生の責任、すべて我にあり。一、幸不幸、すべての出来事に意味あり。一、すべての意味は、学びと感謝への気づきなり。一、問題も答えも、「いま、ここ」にあり。一、今やるべきことは、「今できること」をすることのみ。一、とらわれるな、物事に価値はなく、一切は空なり。一、自分に勝ち、神にまかせて負けよ。一、自分を愛して、他人を愛せよ。
2010年09月30日
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鈍感になることを恐れよ!。ぼくは人間にとって「感じる」ということがめちゃくちゃ大事だと思ってるんです。感じなくなったら終わりですよ。見る、聴く、嗅ぐ、触れる、味わう・・・。感じるということが、人間の愉しみです。けれどもいろんな感覚がマヒしてしまっている人が多いですね。内臓の感覚、呼吸の感覚、人間関係の感覚、健康の感覚・・・。「繊細な何か」を忘れている。これは良いか悪いか判断が難しいところですけれども・・・。現代においては、「鈍感な人」が強く、「敏感な人」というのは弱いというふうに見られています。たとえば空気に敏感な人は、都会では生きていけません。しかし、都会で生きていけない人を、「弱い人だ」とみなす人が多いでしょう。感覚の鋭い人にとっては、今は生きにくい時代だと思います。たしかに鈍感にはある種の強さがあります。じゃあ、鈍感になったらいいの?と思われるかもしれませんが、ぼくはそうは思いません。なぜなら、「感覚を育てる」ということは、非常な愉しみだと考えるからです。今までになかった感覚が自分の中に芽生えるというのは、人間としての進歩です。それは、脳のなかである回路が発達したということなんですね。「感覚を育てる」というのは、その回路を増やしていくことなんです。そのときに大切なのは「妙」ということになります。==============================続きはWEBで!
2010年09月29日
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油断と安心は、何が違うのでしょうか。ぼくは、モノゴトというのは安心したときにうまくいくと考えているんです。「ホッとする」そのときに生まれ出るパワーはものすごい。ひらめき、自然治癒力、神業・・・。ホッと安心したときに、その人の潜在的な力が発揮される。ところでホッとするというと、油断と安心があると思います。油断はよくないイメージですね。大敵ですね。安心はいいイメージです。とはいえ具体的にはどう違うか、なんとなくよく分かりません。そこで、じぃーっと考えてみたのですが、昨日、それっぽい結論が出ました。結論から言ってしまうと、「油断は自力、安心は他力」であります。自力とはなんでしょうか。それは自分の力を信じる心や行動です。それに対して他力は、「偉大なる何か(サムシング・グレート)」や「カミサマ」にモノゴトをゆだねる心や行動です。油断というのは自分の力を過信してリラックスしてしまうことなのですね。「俺はすげぇから、大丈夫だよ」というのが油断であります。安心はもっと謙虚なのです。自分の力ではなく、カミサマの力を信じているのです。自分がちっぽけな存在であることを認め、「偉大なるもの」に力をお借りする。すべてが神のご加護のもとに行われていることを信じきる。そのとき「安心」が得られるのですね。油断も安心も「私は大丈夫だ」という考え方なのですが、その根拠が違うのです。油断は「俺はすげぇから大丈夫だ」という感じ。安心は「俺は神に守られているから大丈夫だ」という感じ。似ているけど、根本の考え方がまったく反対なのですね。どっちを選ぶもまぁ、本人の自由なのかもしれませんが、「油断した人」で歴史上、幸福だった人はいないように思います。ぼくは「安心」のほうをオススメしますね。あなたのリラックスは「油断」になっていませんか?
2010年09月25日
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ぼくにとって魅力的な人は、いつでも「ことば選び」が秀逸だ。なにより世界を肯定的にとらえている。ないものよりも、あるものに目を向けている人が、魅力的だ。ぼくはさっき、「当たり前だけど重大なこと」に気がついたのだけれど、世界は、ぼくが生まれる前からあったんだよね。つまりぼくは、世界を創った神ではなくて、あとからこの世界に参入したニューカマーだということです。いやー、あきれるほど当たり前ですね(笑)ただ、その事実を心から受け入れたなら、あんまり環境に対して不満とかないんじゃないかなーと思って。不平・不満や愚痴が多い人って、たぶん何かを勘違いしてらっしゃるんだね。たとえて言うなら、会社に入って3日の新入社員が「この会社は○○でイヤだ」とか言ってるようなもので、そんなやつ、社長からみたら最悪ですよね。「お前を蝋人形にしてやろうか」とか思っちゃいますよね。それと同じように「カミサマ」という人がいたとして、生まれてきた人が、「なに、この世界?つまらなくない?」とか言っていたら、ちょっとショックですよね。逆に、「あー、この世界っていいわぁ。ありがたいわぁ」とか言ってる人がいたら、エコヒイキしたくなりますよね。カミサマはけっこう人間味がありますから(笑)まぁそんな冗談はよいとして、世界から認められたいなら、まずは世界を認めることが先じゃないでしょうか。否定ばっかりしている人が、肯定されることはない。(何かを否定することで、頭がよいと思いたがる人もいる)自分は新参者であると認識して、この世界に居場所をいただいているのだ、という謙虚な姿勢に立ち返る。そのなかで、この世界の「ありがたさ」を感じていけると思います。やっぱり、そういう人の「ことば」は魅力的があり、また魅力あることばを使う人は、魅力的です。視点が違うんですね、視点が。そこにあるものではなくて、観方、考え方、捉え方が違うんです。それが「ことば」としてポッと出てくるんですね。ありがたさを感じる人は自立しています。自立している人のことばは、芯があって美しいなぁと思います。
2010年09月20日
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自分の頭で考えちゃいけない、なんて言ったら驚かれるだろうか?よく「自分の頭で考えろ」ということが言われるが、「他人の頭を使って考えたほうがいい」とぼくは思う。「他人の頭で考える」というのは、他人のモノサシを使って考えるということだ。いわゆる「頭のよくない人」の中には、自分のモノサシ以外ではものを考えることができない人が多い。そういう人はいつでも、質問がピント外れですね。それは、「考え方の枠組み」が自分本位だからです。「考え方の枠組み」というとちょっと難しいですが、たとえば、それは野球には野球のルールがあり、サッカーにはサッカーのルールがありますネ。そのルールが「枠組み」です。ルールがあるから、それにしたがって戦略を立てて、相手に勝とうとするわけです。Aチームが野球、Bチームがサッカーで勝負をしようとしてもムダです。試合にになりません。まったく野球を知らないサッカーの人に、野球を説明するとします。頭のよいサッカー人は、ちゃんと野球を理解できる。サッカーと野球は別のスポーツだということが分かる。けれども頭のよくないサッカー人は、一通りの説明を聞いたあと、「ということは・・・、その、キャッチャーというのは、ゴールキーパーのことですか?」「ずいぶんとボールが小さいですが、苦労はないですか?」「それで・・・いったいゴールはどこに?」と、こういう質問をしてしまうんですね。この2つの質問は、すべてサッカーを基準にものを言っています。これが自分の頭で考えてしまっている、ということなんですね。モノサシがいつでも「サッカー」になってしまうんです。こういう人には、何をどれだけ言ってもなかなか通じません。(そういう人のために、ぼくはよく「ウソ」をつきます)他人を理解するということは、他人の思考の枠組みを理解する、ということです。それは言い換えれば、他人の視点を、「あの人は、どういう立場からものを言っているのか」ということを、考えるということであります。そのためには「自分は理解できてない」という理解が必要になります。「分かってる」と思ってしまう人ほど、何も分かっていないし、分かろうともしないから何ともならない。すべての根本には「分かっていないから分かりたい」という欲求があるのです。それがあってはじめて、他人の頭で考えるということができます。人の話はよく聴くべし。ひとつひとつの文意などどうでもよい。相手の話の枠組みを大きくつかむのです。「成長できる人」は過去の先人や偉大な人の「考え方の枠組み」を素直に取り入れていますね。行動や結果のまえに、どんな考え方が大元にあるのかをつかんでいるのです。だからこそ、成長しビッグになるのです。自分にしがみついている人は、ずっと変わりません。小さな自分だけの自分勝手な枠組みだけで、他人と交わることなく終わってしまいます。さあ、自分の頭だけで考えるか、他人の頭も使って考えるか、どちらを選ぶも、あなた次第です。
2010年09月12日
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理由というのは、たまにいらないことがある。理由がないほうが、よいこともあるんだ。本能で考えると、理由なんてないことが多い。「好きなものは好き。嫌いなものは嫌い」そのシンプルさには理由がない。生きていれば、わけもなく楽しく思えることもあり、わけもなく涙流れることもあるだろう。その「わけもなさ」に、本当の「気持ちよさ」が隠れていると思うんだね。「なんで?なんで?」の連続がまどろっこしいこともある。理屈と膏薬は何にでもくっつくというが、ぼくらが口にする「理由」なんてのは、後付けされたものがほとんどだ。だから、言っていることがあまりにも理路整然としている人は、どっかかんかでウソを言っている可能性が高い。人は矛盾しているのが、ふつうなのだ。理由なき「もの」を、愛せよ。
2010年08月19日
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「気」があえば、二人はラクでいられる。けれども「気」の質は生きているうちにどんどん変わる。成長、衰退、変化・・・。知らぬ間に「気」はどんどん変わる。だからめちゃくちゃ気が合った人ともいつの日にか合わなくなることもあるし、ぜんぜん気が合わなかった人とも、あるときから気が合うようになる。その変化は必然であります。「むかしの姿」に執着してはいけない。変化にあらがってはいけない。自分の成長が遅ければ捨てられることもあるし、自分の成長が早ければ捨てないといけないこともある。それは仕方のないことだ。どんどん自分から良い「気」を出して、良い「気」を持っている人を引き寄せる。そして「気」を交流させる。「気」なんていうと分かりづらいかもしれないけれど、ふだん使っている「気がある」とか「気の無い返事」とかもうまさにそれが「気」ということなんです。難しく考えることはない。良い「気」を出すにはまず、良い「言葉」を発することです。そして「良い息」をする。「良い考え」を持つ。そうすれば「良い感情」が生まれる。変化し、変化し、変化する。生きるということは、変化するということです。変化するということは、生きるということです。
2010年08月17日
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どうも多くの人が宗教を怖がっているように感じます。何かあると、どこかあざ笑うかのように「宗教じゃないんだから」とか「そうはいっても宗教ではありません」とか「そんなん宗教じゃん!」とかそういう言われ方をしています。「なんか変な宗教みたい」という言い方もありますね。なぜ、そんなにも宗教をバカにした言い方をするのかというとそれは怖いからです。人は理解できないものが怖いのですね。基本的に、人間は自分から「遠い」ものは理解しづらい。多くの老人はJ-POPを聞いても、みんな同じに聞こえる。若者から見ると、演歌がみんな同じに聞こえる。それは自分から「遠い」からです。マジメな女学生はギャルが怖いし、ギャルはマジメな女学生をバカにしていることが多い。それはお互い理解できないからです。理解できなくて怖いので、その感情をなんとかしようとすると「バカにする」ということしかできないです。そこで、なぜ世の人が宗教を怖がったり、バカにしたりするかというと、それは宗教を「理解できない」からということになります。理解できない理由は、宗教を遠くに感じているからです。問題の根本はそこにあると思うのです。たぶん周りの人に聞いたら、「自分は宗教をやっていない」「無宗教だ」「自分は宗教とは無関係だ」というふうに答える人が大半だと思います。また「宗教ってアブナイよね」と根拠なく思っている人も多いので、「自分はヘンなものを信じ込んだりしていない」「自分は洗脳などされていない」「自分は客観的判断ができる」ということも主張したいのです。しかし、それは大きな勘違いなのです。人はかならず「ヘンなものを信じ込んで」いるし、誰かに何かを洗脳されているのです。たとえばぼくらは赤信号を見たらストップしますね。しかし「赤信号=ストップ」というのは思い込みです。そのルールを学習していない子供や、動物には分かりません。それを親や学校から学び、「赤信号=ストップ」ということを教育されたのです。また毎月決まった日、お給料が振り込まれると思っていますが、それも思い込みです。明日会社がつぶれないという保証など、どこにもないのです。というか明日自分が生きているということさえ、どこにも保証はないのです。そうなると「そんなこと言ったら、ぜんぶ洗脳になっちゃうのでは?」と思う人もいるでしょう。大正解。全部、洗脳なんです。全部、思い込みなんです。教育は洗脳です。思い込みを植え付けるのです。常識は洗脳です。「当たり前」を植え付けるのです。ですから洗脳されずに生きるということは、どだい無理な話なんです。「洗脳されているか/されていないか」という観点はもう捨てて、「自分はどのような洗脳をされているか」「自分の思い込みとは何か」と「常識」を疑ってみることが大切なのです。そうしてみると「思い込み・洗脳・あたりまえ・常識」が生活の90%以上を占めることが分かるでしょう。それが「気づき」であります。そうなると悪い洗脳はなるべく捨てたいですよね。そのあとに良い洗脳を頭に植え付ければ、なんか幸せになれそうですよね。たぶん頭のカタイ人は、ここで「洗脳で幸せなんて怖くない?」とはじめに戻ってしまうかもしれませんね。けれども言葉尻エリカにだまされてはいけません。「洗脳=怖い」と洗脳されているだけなんです。それに気がついていないことのほうが、よっぽど怖い。そう、「自分は洗脳などされていない」「ヘンな思い込みはない」と「自分は大丈夫」思考の人がいちばん危ないのですね。誰もが洗脳されています。誰もが思い込みで生活しています。ちなみに最近はすたれてますが、以前「カリスマ」という言葉が流行りましたね。あれは宗教の「教祖」という意味です。けれども「カリスマ、カリスマ」と騒ぐ人たちは「宗教とか怖くね?」とか「そんなんアブナイよ~」と言っているわけです。また普通に「ミスチルのファンです」とか「夏帆のファンです」とか言ってますが、ファンとは「信者」という意味です。日本語にしただけで、もう宗教じゃん!もう日常的すぎて気づかない、空気のような存在が宗教なのです。だから特に恐れることはないのです。
2010年08月15日
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「ただ」ということより、難しいことはないんです。たとえば坐禅(特に曹洞宗)ですと、只管打座(しかんたざ)といって、只管(ひたすら)座るということを言います。「なんで坐るの?」「坐ると何かいいことあるの?」ということを問わない。もちろん答えもない。ただ、坐る。それが坐禅なのだそうです。頭デッカチになると、いろいろ考えすぎてしまいますよね。「生きる意味とは?」「なぜ生きるのか?」などなど、答えの出ない問いに悶々としてしまいます。「ただ生きる」ということは、非常に難しい。また観るとか聴くというのも「ただ」行うのは難しい。ただ、観る。ただ、聴く。判断しない。批判しない。論評しない。そこにあるものを、それをまるごと受け入れて認める。つまるところ、それは「ただ感じる」ということなのです。「あー、これはこうだなぁ」「それはそうだなぁ」と淡々と、悠々と、その存在をゆるす。何かをしようという意志を持たない。何かをしようとする気持ちは、邪念です。たとえそれが「やさしい気持ち」であっても、ぼくはそれは邪念だと思うのです。「~してあげたい」というのは、たいていエゴです。自我です。自分勝手です。たとえば整体していて、固い筋肉を見つけると、ついつい「ゆるめてあげたい」と思ってしまうのですね。しかし、そうやってする施術は悪い気が入ってしまうとぼくは考える。そうではなくただひたすら感じる。「筋肉のここが固いなぁ」と感じる。そのことで、自然と筋肉が緩んでくる。「ただ感じる」ということをすると、それをされた相手は「ゆるされた」と感じる。しかしぼくらはたいてい、「~してあげよう」という押し付けをやってしまい、その相手を傷つける結果となっている。それほどに「ただ」ということは難しいのです。ただ、おいしく酒を飲むとかただ、おいしくご飯を食べるというのだって難しい。どこかに見栄や気取りが出てくる。そういうものを一切なくして、「ただ」何かを行うことができたら、きっとそれは「悟り」だと思うのです。
2010年08月02日
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丁寧にふれる、ということをもっとやってもいいと思う。ぼくは整体師ですから触れ方が丁寧なのは当たり前です。受け手を絶対に雑には扱いません。それにしても、ヒト・モノに対して、あまりにも雑な人が多いように思う。「丁寧にふれる」というのは整体や合気道の極意であるとぼくは思っていますが、非常に難しいことなのです。丁寧にふれるというのは、相手のカタチを壊さぬように、そっと必要最小限の力で相手と接触することです。この「必要最小限の力で」というところがキモで、ぼくらは、どうにも無駄な力を入れて生活しています。小さな消しゴム一つ持つのにほんの何グラムしか力は要らない。けれども、それをギュッと握り締めて、なおかつ肩にググッと力を入れるということがあります。いや、ただ「立つ」ということに関しても、たいていの人は、無駄な力をたくさん使っている。もっともっと、人は力を抜くことができる。しかし「力が入っている」ということに気づいていない。ぼくが「力が入っている」と指摘しても「いいえ、力を抜いています」と答えてしまうほど、気づいていない。やはりここでも「気づき」の力が大切になる。「力が入っている」ということに気づいてはじめて「力を抜かねば」という意識が出てくる。力を抜けば抜くほど、力を出すことができるし、力を抜けば抜くほど、相手を感じることができる。力が抜けているかどうか、自分を丁寧に観察する。そうしたら、どこに力が入っていて、どこが抜けているか分かるようになってくる。それが細かく、細かく感じられるようになってくる。どこまでもどこまでも丁寧にやっていく。丁寧になればなるほど、感じられることが多くなる。たとえば、たまには丁寧に呼吸をしてみよう。息を吐く。どこの筋肉を使っているのか?息はスムーズに出ているか?息は太いか細いか?まばらになっていないか?息の出方は一定か?そして吸いに転じる。その瞬間。どこまでが「吐き」でどこからが「吐き」か?吸気。カラダのどこがいちばんはじめに膨らむか?鼻の奥の感じはどうか?肩に力は入っていないか?たとえばそれが丁寧な呼吸です。多くの人は、それを「面倒くさい」と感じるでしょう。それは焦っているからです。次から次へと「何かやらねば」と進む。今よりも先を考えている。だから丁寧な呼吸の「気持ちよさ」に気づけない。自分の呼吸が浅くなっていることに気づけない。丁寧に観察したら、楽しいのです。なぜなら多くの気づきがあるから。そこには静かな興奮があるのです。自分の動きひとつとっても、丁寧に観察することはできます。お茶ひとつ飲むのにも、どこの筋肉をどう使っているか、そういうことを考えてみてもよいのです。丁寧になる、というのは小さくなる、ということです。だから細かく、細かく見えてくる。細かく見えてきたら、そのひとつひとつにきちんと対応することができる。丁寧さというのは、その細やかさですね。相手に対して、ひとつひとつ対応していくのは「愛情濃やか」と言いますね。それも「丁寧にふれる」ことのひとつだと思います。どこまでも丁寧に、どこまでも細やかに。そんなことを現代社会でやっているヒマはないかもしれませんが、そういう世界があることを知っておいても悪くはないと思います。
2010年07月29日
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人は思い込みで生きています。なんとなく「思い込み」と言うと、悪いイメージがあるような気がします。「思い込みを捨てろ」とか「そんなの思い込みじゃない?」とかどうもダーティーなイメージです(笑)しかし、人というのは思い込みで生きているのです。たとえば、明日が来ると思い込んでいる。25日になれば、給料が入ると思い込んでいる。ケーキを食べれば甘いと思い込んでいる。目の前にあるアスファルトは固いと思い込んでいる。Eメールはいつまでも無料だと思い込んでいる。すべて思い込みですよ。実際は「やってみなけりゃわからない」のです。けれども、いちいちそれを調べていたらキリがないのです。だから、人はある程度、思い込みにしたがって生きるしかなくて、それほどに思い込みというのは便利な「道具」なのです。というわけで、まずは、自分の思い込みに気づくことが第一です。「イヤな上司がいる」と思っている人は「あの人のことをイヤな上司だと、ぼくは思い込んでいる」と言い換えるのです。そう言うと、「いや、思い込みではなくて、ほんとうにイヤな上司なのです」と言う奴がほぼ100%いるでしょう。そこ!そこなんですよ。「ほんとうにイヤな上司」なんて完全に、その人の主観でしょう。それが思い込みってんですよ。「いやいや、同僚のAくんもそう言ってます」ってAくんは神様じゃないんだから、Aくんともども思い込んでいるだけです。それに気がついてほしいのです。「人生で楽しいことがない」とかありえない。「楽しいことがないと思い込んでいる」と言い換えてごらんなさい。楽しいことがないのは、自分のせいだと思えてくるでしょう?「仕事が面白くない」も「仕事が面白くないと思い込んでいる」に換言してごらんなさい。なんとか仕事を面白くする工夫をしたくなるでしょう?「使えない部下がいる」も「使えない部下がいると思い込んでいる」に言い換えます。すると、上司である自分の責任が浮かび上がってくるでしょう?「恋愛で失敗ばかりする」も「恋愛で失敗ばかりすると思い込んでいる」と言ってごらんなさい。そうすれば失敗ばかりでなかったことに気づくでしょう。事実よりも、思い込みが大切なのです。思い込みで、世界は動いているのです。目の前にある世界は、ほとんどが思い込みだからです。そうすると選択肢は二つにしぼられます。ひとつは、「思い込みをなくす」。もうひとつは「プラスの思い込みを刷り込む」。前者はゼロ思考、後者はプラス思考と呼びます。どうも一般には、プラス思考がススメられているようですが、プラス思考というのは結構疲れるし、マイナス思考の人に「プラス思考をしろ!」というのは単に押し付けているだけなのですね。言われたほうは疲れます。ですからぼくは、まずゼロ思考をオススメしています。ゼロ思考は、「思い込みに気づく」思考術です。思い込みを本当になくすことができれば、それは「花は紅」の禅の境地になれます。しかし、そんなところまでいきなりは無理ですね。ですからまずは、「思い込みに気づく」ことからです。ぼくは最近、自分の「ある思い込み」に気づきました。それは「タバコはカラダに悪い」です。タバコがカラダに悪いということは、まだ証明されていません。タバコの吸いすぎは、健康を害することもあるでしょうが、「タバコがカラダに悪い」とは決まっていないのです。なんでも過剰な摂取はカラダに悪いことが多いのです。タバコだけが悪いわけじゃない。その思い込みに気がついて、ぼくはひとつ優しくなれました。喫煙者の人に禁煙を押し付けるのをやめることにしました。という具合に、「これも思い込みでは?」「あれも思い込みでは?」と考えていくと、世界がほとんど思い込みでできていることに気がつくでしょう。そしてその思い込みを、自分の道具・武器として使えるようになったとき、あなたの人生は大いに開けてくるのです。「俺にはできない」なんて思い込みですよ。「私には無理」なんて単なる勘違いなんですよ。「事実」だと思ったことも、証明できるようなことはほとんどありません。ほんと、世界は思い込みだらけなんです。ぜひ、だまされたと思って、自分の思い込みを探してみてください。
2010年07月21日
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誰にでも、「イヤな思い出」があります。嫌なもんだから、たいていは思い出したくもないでしょう。しかし、ぼくが思うに、そういった「イヤな思い出」ほど、人生の武器になります。あなたには「イヤな思い出」があった。しかし、あなたはそれを乗り越えて、今を生きている。つまり、「イヤな思い出」を乗り越える術をゲットして、成長したのです。すばらしいことですね。「イヤな思い出」ばかりあるあなたこそ、人生で多くの武器を持っています。それは誰かから与えられたものではなく、あなたが自分自身の力で手にいれた、何よりも価値ある武器なのです。あなたは「あのイヤな出来事さえなければ」とココロのどこかで思っているかもしれません。けれども本当は、「あのイヤなできごと」があったからこそ、今のあなたがあるのです。今こそ、その事実に気づき、イヤな思い出を活かすときです。あなたがその「イヤなできごと」を乗り越えた方法を、苦しんでいる誰かに教えてあげてください。その方法を教えてもらって救われた人は、「ほんとうに、ありがとう」と心からあなたに感謝するでしょう。そのときあなたは、「イヤな思い出」から救われるのです。そしてまた「イヤな思い出」によって、救われるのです。「イヤな思い出」にフタをせずに、イヤなものはイヤだと認めたときに、それがあなたの武器になります。誰にでも「イヤなできごと」があり、それを避けようとするところに、学びや知恵が生まれます。「イヤな思い出」が多いあなたは知恵の宝庫です。学びの達人です。どうかその気づきを、困っている誰かに教えてあげてください。あなたの知っている「当たり前のこと」を知らないばかりにずっと苦しんでいる人もいるのです。今こそ、あなたの「イヤな思い出」を活かしてください。それがあなたの使命なのだと、思います。
2010年07月19日
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どうしたことだろう、ぼくの人生が何もかも変わってきている・・・!最近は、出会う人出会う人がぼくのココロと人生を啓き、ぼくの人格を磨き、運と縁をすべて運んできてくれる・・・!抑えきれない衝動、興奮・・・!なんてツイてるんだろう。心からありがたいことの連続!!『分かり合える仲間』がどんどん増えてきた!ホントに不思議だ・・・。こんなことって、あるもんだのぅ。この変化がどこまで大きくなるのか、怖いくらいに愉しみだ。
2010年07月03日
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最近、つまづいてますか?アラサーになってくると、だんだんと「社会」いうやつがわかってきます。「処世術」なんかも身につけ、うまいこと身をかわしたり、傷つかずにすり抜けたりする「知恵」がついてきます。しかしそのことで、エネルギーが減っているということはないですか?なんでもかんでも器用に、巧みにやりこなせる。それはそれで人生の上達だけれども、同時に、エネルギーがなくなってきていることの証左なのかもしれない。ぶつかり、くだける、その面白さを忘れてはいませんか?どれだけ勉強しまくっても、実践のはじめの1回目は失敗するものです。理論と実践は違う。理論どおりにいく実践など、ひとつもないのです。だからこそ、実践は楽しい。失敗しヘコみ、その中から、嬉しさや喜び、自信をつかんでいくのです。何事も、やってみなきゃその本質はわからんですよ。本で読んで分かった気になっている場合ではないんです。実践してみて初めて、理論がカラダにしみこんでくる。アタマだけの知識など、実践じゃ何の役にも立たんのです。はじめてのことを実践しようとしたら、失敗しますよ。周りのみんなに笑われるかもしれない。けれども、笑われながらも一歩一歩あゆんでいくからこそ、人は変わっていけるのです。その意味で、「つまづく」ということは大事です。失敗したということは、挑戦したということです。失敗した自分を誇りに思ってください。失敗したあなたこそが、すばらしい。ぼくは本気でそう思うのです。
2010年05月30日
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ぼくも28歳になったので、これを契機に、というか最近考えていることなのですが、もっともっと「人の役に立ちたい」と思います。これまでのぼくは、「考える」ということが好きで、もっと言えば、考えた後に「ひらめく」ということが快感でした。「こういうことだったんだ!」その気づきはぼくに希望を与え、新しい真理は、ぼくの「哲学」となりました。しかし、自分哲学の最大の欠点は「役に立たない」ということです。たしかにモノを考えることは面白い。しかしそれはあくまでも、自分で楽しむ範囲、言ってみれば趣味なのです。それがどんなに正しく、大それた真理であっても、他人にとっては「どうでもいいコト」なのです。どんなに難しく、どんなに正しいことでも「で?」と聞かれたら終わりなのです。自分の哲学を自分の言葉で語るのは傲慢です。それは他人にとって、何の意味もない。それでは、ただのオッサンのウンチクなのです。ぼくの哲学が、ぼくの言葉がだれかを、誰かの心を動かさないと意味はない。ぼくの言葉が、誰かの役に立つこと。だれかが、少しでも元気になること。絶望のふちに、ちいさな希望を見出すこと。もしそうなれたなら、はじめてそこにぼくの「価値」が生まれるのです。そのためには「相手」を知り、相手を見抜いて、相手に合わせた言葉を遣うこと。「自分」というものを捨ててしまう。これからは哲学や「正しい考え方」を捨てて、整体的観点から見た、「実践・実用で世の中の役に立つこと」「今日から活かせる智慧」を追求しブログに記録していきたいと思います。
2010年05月23日
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「自分には弱いところがある」って認めてしまえばいいだけなんだ。何の意地を維持しているの?何を恐れているの?「弱いところがある」って当たり前のこと。けっして悪いことじゃないんだよ。短所は改善するものではなく、活用するもの。かならずや、短所は活かすことができます。短所を直そうとしなくていい。それは見方しだいで、一瞬にして長所に変わるのです。自分の弱さを認めれば、周りに助けを乞うことができます。「助けてください」その素直さが、人の「輪」を作り、無限のエネルギーを生み出していきます。「かなしみは半分に、よろこびは2倍に」「人間」が持つ、本質的な力はここにあったのです。それに気づけたことを本当にありがたく思う。ただ不思議なことに、「人」を大切に思えば思うほど、さみしさが募り、別れを想像するだけでも、つらくなる。それは、殻に閉じこもっているときには気がつかなかった苦しみだ。苦しみから逃げるために殻に閉じこもる。そして安全な殻の中から、「外界」の状況に野次を飛ばす。自分が怪我をしない状況を確保し、周りを批判する。それはカッコよくないことだ。殻に閉じこもれば苦しみはない。だから苦しまずスマートに生きられる。でもそのスマートさって、たぶんニセモノで、「苦しまない」んじゃなくて、その人には「苦しむ能力すらない」のです。「苦しみから逃げている」だけなんです。人は弱い生き物です。でも手をつなげばつなぐほど、とてつもなく強くもなれます。まずはこぶしを解いて、手を握るのです。
2010年05月03日
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本気じゃないなら、あきらめろ。本気なら、あきらめるな。人生はこの二つしかない。
2010年04月19日
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今日は断じてエイプリルフールではありません!!ウソウソ!ウソってなんだろね?ウソをつけないのは、いいことわるいこと?ウソをつかないのは、いいことわるいこと?何が「真実」なのかも分からないのだから、ウソもクソもないよね。ぼくが思うに、「真実」よりも「関係」のほうが大事。「正しいこと」ってさ、あんまり面白くないね。「正しいこと」ばかり言う人って、たいがいズルいよ。だって「正しいこと」を言うと、正々堂々と人を傷つけることができるんだもん。とはいえ、ウソばっかり言うのも苦しい。自分が誰だか、分からなくなっちゃう。まあウソをつくのなら、みんなが楽しくなるウソがいいよね!「ホントのこと」を言うときは、TPOを見極めてからね。今日はどんなウソをつこうかな。どんなウソをつかれるかな。好きな人がいる人!!今日は告白しないほうが賢明ですよ。
2010年04月01日
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人を好きになるのも、人を嫌いになるのも、すべては「さみしさ」から始まる。人を愛するのも人を憎むのも、「さみしくない世界」への、道程だ。さみしさに気づこう。そのさみしさを認めよう。さみしい自分をゆるしてあげよう。すべては、そこからはじまる。
2010年03月18日
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「感じる」ことが大事です。何はともあれ「感じる」とよいのです。「俺が、俺が」というときは、感じる準備ができていません。感じるというのは、言い換えれば五感を研ぎ澄ますということです。つまり、観るも聴くも感じるということなのです。こころが静かになっていないと、感じることはできません。「俺が、俺が」の濁った音がこころを占拠していると、何も感じることが出来ません。ちゃんと、感じていますか?世界を、そして愛する人を。感じるこころを持つ、ということは無心になるということです。無心というのは、「何も考えない」ことではありません。何も考えないなんて、人間にはできない。しかし、その対象を感じることに集中することにより、「じぶん」の考えが一時的になくなることはあるのです。それが無心です。「きのう」や「あした」ばかり見ないで、「いま、ここ」を感じてみてください。
2010年03月11日
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ちょっとヘンなことを言いますが、けして気が狂ったわけではありません。====================宇宙があって、その外に宇宙がある。その中にも宇宙がある。そのすべてがバランスを取っている。そのバランスが崩れることは必然であり、またバランスを取り戻すことも必然である。どうあがいても、悪いことは起こらないのです。だから、ゆだねるしかありません。まかせるしかありません。自分の意思と神の意思とが重なり合わさったとき、「思合わせ(しあわせ)」になるのです。
2010年03月07日
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成長するということと老いるということは同じ方向なのだ。畢竟、生まれることは、死に始めることだ。
2010年03月05日
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【あん】安 安らか。安心。リラックス。【いん】因 原因があり、結果がある。【うん】運 天の配剤。捉え方次第。【えん】縁 人のつながりを信じる。【おん】恩 感謝。ありがたく思う気持ち。人生はあいうえお。料理はさしすせそ。PS:こーゆー言葉遊びだったら、「男はアルファベット」というのがぼくの傑作です。「ABCDEFG・H・I・・・【愛】の前に【エッチ】がある。」なんちゃって。
2010年03月02日
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「変わったよね」考えてみると、ぼくは数年ごとに、そう言われています。はじめて言われたのは大学1年のときだったと思います。どこかしらで高校の同級生に会って話をしていたら、そう言われました。ぼくは高校を出て、大学に入るまでの春休み、どうしても自分を変えたいと思っていました。だから「変わったね」と言ってもらえて嬉しかった。今にして思えば、その変わりようは無謀で、はたからみて不自然だったと思います。自分でもなんか浮き足だっている感じがしていた。だけどそうまでして、自分を変えたかった。そうしてその翌年に、はじめて金髪にしてみたのです。それは「マジメじゃない人」になってみたかったからです。その次で覚えているのは2007年です。2007年の秋ごろか、もしくは2008年の初頭だと思います。すったもんだがあった末に言われた。「変わったよね」と。それはいい意味でした。たしかに自分が変わったという気がしていた。価値観がコペルニクス的に転換され、清貧の思想から、「金持ちになりたい」と思うようになったのもこの頃です。それから2008年の秋でした。仕事で人遣いで苦労し、自分を変えていった結果、「尾関は変わった」と評価してくれた。「鬼」と陰でウワサされたぼくが、転勤のとき、あたたかく送りだしてもらえた。それはすごく嬉しかった。3回目の転勤で、はじめて惜しまれたのです。人の温かみを知りました。そして職を変え、治療家になって5ヶ月。いま、2010年の2月です。「半年前とはえらく変わったね」と言ってもらえて、なおかつ数字がついてきている。これはすごく嬉しいことです。こうして思い返してみると、やはり人生にはターニングポイントがあるのだなと思います。そしてまた、上るべき成長の階段が用意されているように感じる。転換期ごとに、「ひとつの事柄」ずつ学んでいるように思う。そして全てが無駄なく、驚くほど精緻に進んでいるように見えてくる。これはおそらく、神のはからいなのです。それに気づけたのは、読書のおかげだと痛感します。このまま流れに掉さして生きることで、きっとぼくの使命が見えてくるでしょう。その「命」が何なのか、どう変わっていくのか、考えるとワクワクします。この面白い人生に幸あれ。与えられた運命に感謝です。
2010年02月02日
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ぼくらは、ブラインドなのです。目が、見えていないのです。生まれたばかりのころは、いろんなものが見えていたはずです。しかし、大人になるにつれて自分の都合のいいものしか見えなくなる。独断・偏見・色眼鏡・先入観・ステレオタイプ・・・。生きるうえで大切なことばかりですが、それらに捉われると、見えなくなってくるのです。心の盲点が増えてくる。(心の盲点のことを心理学では「スコトーマ」と呼ぶそうです)「気づき」とは、心の盲点に光を当てることです。心の盲点に光を当てるとは、思い込みを捨てることです。思い込みを捨てるために大切なのは自分の思い込みを認めることです。「事実」というのはありません。すべてが思い込みなのです。だったら「良い思い込み」を自分に植え付ければいいのです。良い種を植え付けると、良い花が咲いて、良い実がなります。そうすると、楽しくなってくるのです。
2010年01月30日
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「やりたいこと」にはリスクがつきものです。ぼくは今、歩合制の給料で仕事をさせてもらってます。だから今日もし倒れでもしたら、明日から暮らしに困ります。保険には入っているけど、そんなに高いものでもないので、保証もそれなりです。そうなると非常にリスクが高いように思う人もいるでしょう。でもぼくは、「あやういなー」とはあんまり思っていないのです。それは、どこかしらで神様を信じているからですね。神様といっても何かの宗教に入っているわけではないですが、「宇宙のすべてを知っている何か」があるとは信じています。英語でいうと、サムシング・グレートというやつです。ぼくらはみんな、神の子です。そしていつでも神様に守られているのです。だから大丈夫なのです。なにが大丈夫なのかと訊かれても困りますが、とにかく大丈夫なのです。どんな大きな保険会社のそれよりも神様の保証は偉大なのです。ただ、その保証を信じることができない人には効果がありません。それは「信じる者しか救わないセコさ」ではないのです。すでに保証はぼくらの手の中にあるのです。それを見つけることができるかどうか。それだけなのです。神様の保証を見つけることは、「気づき」です。心が硬直してしまっている人には、残念ながら見えません。心がやわらかくなったときに、気づくことがあります。
2010年01月30日
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「継続は力なり」とはよく言ったもので、「継続」ほど強いものはない。その情熱の焔はけっして大きくなくてもよいのだ。淡々としていてもよいのだ。しかし、その灯火をけっして絶やしてはならない。続けていけば、何かが変わる。だが、変わることを期待しないでやる。ただ、淡々と続ける。変わることは結果であり、目的ではない。「無功徳」で「ただ、やる」ということ。そこに味わい深い面白みがある。興奮と悦楽のみしか知らない人には分からない、しかしけっして、飽くことのない滋味なる興趣である。
2010年01月19日
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「静か」であればあるほど、感ずることができる。
2010年01月15日
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「人」の「為」は「偽」り、という論理があります。これはある意味、真実と思います。「あなたのためを思って・・・」というのはすごくズルイ意味で使われることがあるのです。たとえば子供を有名大学に入れたい。自分の気づいていない心の奥底では「子供が有名大学に入れば私も鼻が高いわ」と思っている。けれども表面上では「あなたの幸せを考えて、勉強しなさいって言っているのよ」となる。これはとてもズルイのです。こういう「人のため」はウソなのです。それよりは「自分のため」のほうがよっぽど良い。自分が欲しいものを手に入れる。自分がやりたいことをやる。それはそれで、素直なのです。じぶん自身に正直なのです。しかしやはり、「自分のため」には限界があるのです。ある時どうしても恐怖や不安が出る。「できるのだろうか」「この壁を越えられるだろうか」という思いが頭をよぎる。しかしそのとき、すこし意識を変えると、ワンランク上の「人のため」が出てくるのです。つまり「もし、自分のやることが本当に誰かのためになるのなら、神が成功させてくれるはずだ」という思いが生まれてくるのです。それは「まかせる」という心持ちです。「まかせる」心になりきって腹が決まったとき、それを覚悟と言います。その覚悟が決まり、ほんとうに心から誰かを幸せにしたいと思ったとき、恐怖や不安はなくなってしまうのです。逆に言えば、恐怖や不安があるときは、どこかで「自分かわいい」が残っているのです。ただ、人間ですから「自分かわいい」はどうしてもすこし残ります。それはそれでよいのです。その気持ちを素直に認めるのです。「自分のことを考えているから怖いのだ」と認識することが大事です。そしてその自分を認めてやる。すると徐々に「じぶん」から離れることができるのです。その意味で「他人のために生きる」というのは本当に素晴らしいことです。そしてその生き方を実践できたとき、その人はほんとうに輝いてくるのです。「自分を磨く」というのはそういうことだと、僕は思います。
2010年01月12日
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世の中にはいろんな理論がある。そしてその、どれもが正しい。であるからして、「どれが正しいか」という討論をしないこと。どれが正しくてもよい。討論など勝っても負けてもそんなに気分のいいものではない。ただ、自分自身にあった理論を見つけることが大事。そこから論理がはじまる。「こうだからこうなのか」と納得できれば、それが現実になる。腹の底から納得すること。すると不思議なことに効果が生まれる。
2010年01月11日
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けっきょくは何にせよ「生活」というところに戻ってくるのではないか。ぼくらはえてして「ハレ」の舞台ばかりに目がいきがちです。しかし「ハレ」の場で活かされるためには、日常である「ケ」の土台がしっかりしている必要がある。「日々是道場」とは合気道か禅の言葉だったと思いますが、つまりは未来や過去に目を向けるのではなく、「いま」を生きるということ。そこに集約されてくるのではないでしょうか。「いま」に生きる。「いま」を生きる。何者にもとらわれなければ、そこが終着点なのかもしれない。
2009年12月16日
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恋は、好きな部分を大切にすること。愛は、嫌いな部分を大切にすること。↓「???」と思った人はクリックお願いします
2009年11月30日
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「負け組」にはなりたくないものです。ちょっと前に映画「カイジ」を見ましたが、その中で「勝て!勝つんだ。負けるものは要らない!」というようなセリフがありましたが、やはり勝つことが大事です。「勝ち負けは気にしない」なんて、負け組のセリフです。勝って勝って勝ちまくるのです。「自分に勝つ」ということ。これが何よりも難しい。「自分に勝つ」ということを目的にする。「他人に勝つ」ということを結果とする。ぼくはそのように考えるのがよいのではないかと思っています。「自分に勝ち組」いい響きじゃないですか。↓勝ち組の人、もしくは負け組の人はクリック!
2009年11月27日
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「あれはよい」とか「これはわるい」とかどんな基準で決めたらいいんだろう。いいとかわるいとかって、どこにモノサシを置いたらいいのか分からないね。あるHPに「松下幸之助は偉大な経営者だが、彼が作り出したものが地球環境を破壊している。本田しかり、トヨタしかり。」という主旨のことが書いてあって、「それも一理あるな」と思ってしまった。人を殺すことは悪いこと?でも歴史上の英雄は、みんな人殺しだ。織田信長だって、宮本武蔵だって、関羽も張飛も。だけどどうもヒトラーは悪人らしい。どういう考え方にもとづくと、そうなるのかな?誰かの価値観にとらわれちゃあいけないね、きっと。人生を愉しむってことは、自分の価値観を信ずるってことなのかもしれないね。そうか、誰もが催眠にかかってるんだ。常識という名の催眠に。
2009年10月28日
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いま、このぼくのめのまえで、たしかにおきているできごとにまっしょうめんからむかいあうのだたまににげながらたまにかわしたりいなしたりしながら「こまったことなど起こらない」ぼくはそういう理想論みたいなことをつらつらといつも言っていますそれを実行すればいいだけ。実践すればいいだけのことすべてに感謝することありがたやありがたやありがたやおおきな視点でものを見てみようなにをするために生れてきた?ぼくの使命ってなんだろう。だいじなものってなに?たいせつなものはなに?だいじょうぶ、みんな仲間だから。たいせつなものののじゅんばんを間違えちゃいけないよたいせつなものの、じゅんばんを間違えちゃいけないんだよ変わることを変わっていくことをこわがることはないんだよじぶんがたいせつだって「おもいこんで」いるものドサッと捨てたら、ラクになるよ。つまらないプライドまわりの目を気にするこころ過去のわだかまりつまらないものをだいじにだいじに抱え込んで、大切なものがゆびのすきまからこぼれおちていくたいせつなもののじゅんばんを間違えちゃあ、いけないんだよ
2009年08月25日
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およそ、力をいれてがんばることよりも、あきらめて力を抜き、リラックスすることのほうが、むずかしい。己に勝って、神に負けることを、「まかせる」と言います。
2009年08月21日
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いらないものをそぎ落としてそぎ落として、そぎ落としつくすと、ほんとうに大事なものが見えてくる。
2009年07月26日
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「知っている」ということは大きな武器だ。しかし「できる」ということは、その100倍強力なのである。「知っている」から「できる」までが遠い。修練あるのみ。↓ネコが寝転んだ↓
2009年07月20日
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たしかに努力は大切だ。しかし努力しまくることで、努力していない人を見下してしまうのなら、それはつまり、人を見下す修行をしているようなものだ。
2009年06月20日
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昨晩の夢のお告げで「しょせんは、借り物のいのち」というものがありました。それで、「そっかあ、いのちっていうのは、神様からおよそ80年を借りてるだけなんだー」というふうに思いました。であるからこそ、あるがままに、なすがままに。流れる雲のごとく、身をまかせ、ゆだねる。夢のお告げ、おそるべし。
2009年06月19日
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じぶんの気付いていない場所にこそ問題がひそんでいる。じぶんで「問題だ」と思っているところは実はあんまり問題ではない。だからなかなか人は変われない。だから「気付く」ことが大事なのだ。そのためには、じぶんに対して、素直にこころを開いていることが大切だ。
2009年05月25日
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もう、誰のせいにもすまい。自分で選んだ、道だから。
2009年04月26日
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愛するということは、生きることそのものなのかもしれない。何かをしてあげようというのは、たぶん愛ではなくて、それは作為なのです。作為がわるいわけではないですが、自然ではないのです。愛するということは、何もしないこと。うらまない、拒まない、責めない。何もしないで隣にいること。愛とはそれ以上でも、それ以下でもないのかもしれない。愛するということは難しい。難しいけれども、ほんとうはカンタンなことなのかもしれないのです。
2009年04月11日
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持って生まれた業というのがあります。それは<血>と呼んでもいいと思うのですが、そういうどうしようもないような流れのようなものはあります。なりたくないと思っていた親に似てくる。嫌だなあと思っていた部分がじぶんに出てくる。そして「子供にはじぶんのようにはなってほしくない」と思っても、あらがえない流れがある。人間関係はジグソーパズルのようなもので、凸な人には、凹な人がくっつきます。また凹から凸が育つことも多い。凸とか凹というのは、人間の構造です。じぶんという方程式です。じぶんという方程式が出す答えはある程度決まっていて、それで、何度でも同じ過ちを繰り返してしまったりします。たとえば恋愛でいうと、「好きになりすぎて、重いと言われてフラれる」とか「毎回ケンカ別れ」とか「付き合う人がみんな浮気性な人」とか「いつも長く続かない」とかそういう失敗って、わりと何度もやってしまいがちです。なぜ、同じあやまちを犯してしまうのか?なぜ、抜け出したいと思っても、抜け出せないのか?なぜなら、それが業<カルマ>だからです。言い換えれば、じぶんがそういう構造になっているからです。じゃあ、どうすればいいのか?業<カルマ>に翻弄されるしかないのか?ぼくは違うと思う。業<カルマ>と向かい合うということのはじまりは、「気づき」です。なぜ、今このような状況になっているのか?じぶんはどんな運命を背負っているのか?どのような生い立ちで、じぶんが育ってきたから、今があるのか?そういったことを直視しないといけないのです。これは苦しい。苦しいし、怖いし、痛い。でもそれをやらないことには、業<カルマ>は見えてこないのです。そしてもしカルマが見つかれば、今度はそれから逃げないということです。人生にはさまざまな問題が起こりますが、すべては、「じぶん」が関わって起こります。僕たちは、他人の背中に荷物ばかりのせて、なかなかじぶんで重いものを背負うことをしません。どうしても人のせいにする。誰かにせいにして、そして責め続ける。人を責めたら、じぶんが苦しいのです。つまりじぶんも責められる。それが苦しい原因なのです。面白いことに、問題から逃げるとどこまで逃げても同じ問題にぶつかるのです。なぜなら問題はいつも、「じぶん」に起因するからです。「じぶん」が原因だから、同じ問題が起こるのです。この構造こそが、カルマです。これはね、とても怖ろしいことなのです。「嫌だ、嫌だ」と思っていたものになっていくような、あるときふと思い返すと、じぶんの嫌いな人間になっているような、そういう怖ろしさなのです。だから、起こった問題から逃げてはいけないのです。他人のせいにして、問題から逃げ回っても、また<次の場所>で同じことが起こるだけです。<次の場所>は理想郷ではありません。<次の場所>には<次の場所>の問題が生じるのです。けっきょく、業から抜け出すことはできない。業に背を向けることは出来ない。まっとうに、向かい合っていくしかないのです。カルマとは、しごく怖ろしいものです。しかし、向かい合ってみれば、ひとつひとつ解決していくことができます。業に向かい合って、ひとつひとつほどいていく。ほどけ<仏>への過程こそが、道だと言えるのです。そしてそれはそのまま、幸せへの道なのです。
2009年04月09日
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神の・・・神の妙なる法則よ。因果の約束よ。縁起の世界よ。変えられる運命と変えられぬ宿命のはざまでゆれうごく にんげんのはかなさよ嗚呼血で血をよごし血で血をあらう魑魅魍魎とじゃれあえば、享楽と恐怖がまっているうけいれろ背負っていけ荷物は背負うのがいちばん軽い肚をきめろ腰を入れろ逃げないと誓えそして歩きだせふるえてもいいすくんでもいいいま 歩きだせ
2009年04月03日
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いま愛することができなければ、将来<いつか>愛することもできない。
2009年03月23日
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去年の秋頃だったと思いますが、職場体験ということで、うちのお店に小学生が4人やってきました。事前に、先生から依頼の手紙と、小学生から「おねがいします」という手書きの手紙がきた。そこには「・・・めいわくをかけないようにがんばります」と書いていたのだけれど、これはまさしく子供、小学生の発想だなあと思った。オトナならわかると思いますが、仕事場に小学生が来るなんて、言い方は悪いですが、邪魔でしょうがない(笑)いたほうがいいか、いないほうがいいかと言えば、いないほうが勿論ありがたいのです。4人が交互に「次は何をすればいいですか?」って来るんです。そんなうまい具合に誰でもできる雑用なんて転がっているもんじゃあないのです(笑)そこで店長であるワタクシは「テメエら、迷惑をかけないなんて甘いこと言ってるんじゃねえぞ!来るだけで迷惑なんだよ」・・・とはモチロン言いませんでした。子供なりに、迷惑をかけないように頑張ろうなんて健気なもんじゃあありませんか。実際に思った以上に働いてくれました。草むしりもよくやってくれたし。しかしオトナになるにつれて、「迷惑をかけない」なんて不可能なことにチャレンジすることはなくなってくる。「迷惑をかけない」から「迷惑をかけてしまうけれども、お願いするしかない」になってくるのです。すくなくとも僕は、その過程を踏んだ。だから「お忙しいところすいません」に心がこもってくる。携帯だったら「いま、大丈夫?」とつい言ってしまう。それは「じぶんの迷惑さ」を自覚しているからです。しかしここもバランスが難しいところで、その相手に対して迷惑だとは思っていないのに、「俺、迷惑だよね。邪魔だよね」と言われると、なんだか複雑な気分になります。まあ当の本人も「迷惑じゃないよ」という一言をもらって安心したいがために言うのでしょうが、過剰に「迷惑かどうか」ばかり気にするのも考えものです。とはいえ気になる相手とキャッチメール(※何度もメールを続けること)をしていて、楽しんでくれているのか、眠いのに(もしくは忙しいのに)我慢して付き合っているのではないか、じぶんがメールを送ったら迷惑<ウザい>なのではないか、という不安に襲われたことがあるのは、ぼくだけではないはずです。気になれば気になるほど、その傾向は強くなります。で、面白いことに、まったく同じ不安を相手が抱えていることもある。というわけで、生きていく以上、どうしても誰かに迷惑をかけます。でも、それは仕方のないことなのです。必要悪というやつです。すこしくらい迷惑をかけたくらいで嫌われたんなら、それだけの縁だったということです。迷惑をかけないようにして全員から好かれようとすると疲労コンパニオンになります。いい関係というのは、ちょっと迷惑をかけあうというものだと思います。大切な人からかけられる迷惑というのは、どこか嬉しいものです。「おいおい」とか「も~」とか言いながら、どこか「必要とされているじぶん」を見出してしまったりするのです。だからオトナは「迷惑をかけない」という観点をあまり使わないほうがよいのです。ちょっとなら迷惑をかけてもいい。そう思うと、だいぶラクになったりするのです。
2009年03月09日
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よく言われることですが、光があれば影があります。何かが光って見えるとき、かならずその影を探しなさい。自信に満ち溢れた態度の人が抱えている、コンプレックスに目を向けなさい。やたら愛想の良い人が持っている、奥のほうの主張を聞き出しなさい。明るい人が負っている癒えない傷を見なさい。内気な人が携えているユーモアを愉しみなさい。表面ばかりに気を取られると、足元をすくわれるでしょう。その人が見せたがっている面の裏側が、内側が、「ほんとうのほんとうに言いたいこと」なのです。そしてそれは、とりもなおさず、「その人じしん」なのです。何かが光って見えても、けしてひれ伏してはならない。何かが曇って見えても、バカにしてはいけない。淡々と、その光と影を、見つめるのです。
2009年03月09日
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