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おはようございます、尾関です。間違いなく、尾関です。なぜか寒い日が続きますね。それにしても芦田愛菜ちゃんは働きすぎです。さて、今日のテーマは「時間は戻らない」です。時間って、逆戻りしないんですね。ちょっとだけでいいから逆に戻してみようと思ってがんばってみましたが、ダメですね。やっぱり過ぎ去ったときは帰ってこないんです。休日にスーパーに買い物に行きますと、うちの子供(3か月)よりも、すこし大きい子に出くわしたりします。すっかり首も座っていて、ベビーカーから乗り出している子や、バタバタと暴れている子もいます。そういう子を見ながら、「うちの子もああなっていくんだなぁ」と親バカな眼差しで見ているわけですが、逆に言えば、まだ首もふにゃふにゃで、言葉もほとんど出ない時期というのは「今しかない」わけです。当たり前なんですが、この事実には驚きました。ぼくらアラサーは来年もだいたい同じ背格好をしています。いきなり身長が1.5倍になるやつというのは、たぶんいない。しかし、赤ちゃんは1年後にはすっかり違う姿になっているわけです。「このふにゃふにゃした時期は今しかないんだ」と思ったら、「いま」がすごく大事に思えてきました。正直、抱っこするのは大変です。ぼくは、ふだんは嫁さんが風呂に入っている時くらいしか抱っこしませんが、すぐに腕が疲れてきます。脚も疲れます。でも座ると泣いたりします。寝かせたらもっと泣いたりします。そうすると、精神的にも疲れてきます。しかし、しかしなんですね。やっぱり「今しかないんだ」と思うと、「いま」はものすんごく大事なわけです。そして、「いま」の子供がすごく愛おしくなります。「今は仕事が忙しいからあとで抱っこしよう」と思っても、気が付けば抱っこできない年齢になっているかもしれません。それはとても切ないことだなぁとぼくは思ったのです。「あとで」が通用しないこともあるんだな、と。この「時間は戻らない」という前提で考えていきますと、子供の「いま」はもちろん、自分の「いま」も大事だよなぁ、と思えてきます。20代も終わりに近づいてきました。「10代だったらあれをやるのになぁ」と言っている人は、たぶん30代になって、「20代にあれをやっておけばよかったなぁ」と言っています。逆に「30代になったらあれをやるぞ」と意気込んでいる人は、10代のころに、「20代になったらあれをやるぞ」と意気込んでいたはずです。そして「いま」を大事に、「いま」を生きている人は、むかしもいまも未来も、ずっと「いま」を大切に、「できること」を淡々とやっています。「やればよかったなぁ」と思う生き方と、「いつかやるぞ」という生き方と、「いま、やる」という生き方の3種類しかないと思います。どれを選ぶかはその人の自由ですけれども、ぼく自身は「いま、やる生き方」を選択したいと思っています。なぜかと言えば「時間は戻らない」からですね。スーパーに買い物に行って、そんなことを思いました。ちゃんちゃん♪
2011年11月25日
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おはようございます、尾関です。寒いです。やっと冬になりましたねぇ。コーンポタージュのつぶつぶが缶の底に残る季節になりました。さて、今日のテーマは「足りない人・余ってる人」です。何が?と言われれば、「気」の問題です。最近は「気」の問題について、よく考えているのです。「気」なんていうと、あやしいものと思われがちですが、「気がある」「気を引く」「気にかける」ということばをふつうに使っているように、そこらへんにあるものなのです。「気」なんていうと分かりにくいですから、「注意」というと、ちょっと分かりやすいかもしれません。注意は和語にしたら、「気を付ける」です。英語にしたら、アテンションです。それはどれも、「そこについて考える・意識する」という意味ですね。「それについて考える」とそこに「注意」が集中します。さて、ぼくらは「注目」されるのが好きです。とくに自分の「気」が不足しているときには、注目されたくなる。「おれを気にかけてくれよぅ」という行動が増える。そういう行動はたいてい不自然なのです。どこかがチグハグしていて、うさんくさい。ただ、赤ちゃんのそういう行動は自然です。泣くということは、「アテンション・プリーズ」と言っていることなのです。「おかあさん、ちょっとこっち向いてよ」と。そして「ご飯の世話も下の世話もぜんぶあなたがやってくださいよ」と。それが赤ちゃんのふつうです。そして成長するにつれて、「こっち向いてよ」だけではない表現が出てくる。「おれ(わたし)はこれがしたい」という要求です。しかし、この「わたしはこれがしたい」にならないで、「あなたが全部やってよ」のまま成長してしまう人もいます。こういう人は、自分で自分の気を満たしたり、自分で自分の機嫌を取る、ということを知らない。周りの人が自分に注目してくれると嬉しくて、周りの人が自分に無関心だとふてくされる。すべてが周りの人まかせ。そういうのを依存症といいます。気で言うと、気が不足している人なのです。気が不足している人の要求ははっきりしない。何がしたいのか分からない。というよりは「ともかく注目されたい」という要求しかないのです。これは「ともかく注目」されるべき赤ちゃん時代に原因があることが多いようです。乳児の時期から抜け切れないまま大人になる。最近ニュースでよくみる「おかしな動機のおかしな殺人犯」も「気の不足」という観点でみると、何もおかしい部分はない。「気が不足する」ということは、死活問題なのです。子供がうまれて奥さんの注意がすべて子供にいってしまう場合があります。依存症の夫だと、そのときに不満を感じる。十分に成長した人だと、「お前の気が子供にばかりいってしまって寂しいよ」と言える。しかし依存症の人は言えない。言えないから、「台所が汚れている」とか「料理がどうこう」とか関係のない不満をもらす。しかし、ほんとうの要求は台所や料理のことではなく、自分に注意が向けられていないことが苦痛なのです。その人のほんとうの要求は、「アテンション・プリーズ」なのです。しかし、その一言が言えなくて病気になったり痛みを出したりすることは多い。「気が不足」しているのは、すでに「病んで」いるのです。「気が不足」している部分に、なんとか気を満たそうとして、いわゆる「病気」になることが多いようです。「そこに注目せざるを得ない状況」になってくるのです。ずいぶん長くなってしまいましたが、すこしでも「気」のことを分かっていただけたでしょうか。別に「気」を感じられなくてもいいんです。ただ「気が不足する」というのはどういう状況か、ということをお伝えしたかったんです。「気が余ってる(滞っている)人」については書けなかったので、また今度、書くことにします。
2011年11月22日
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おはようございます、尾関です。今日は突然さむいですね。ギャグの話しではないですよ。気温の話です。さて、今日のテーマは「すれ違い。」です。一心同体の夫婦とはいえ、やはり日々すれ違いが起こります。なぜ、すれ違いが起こるかと言えば、「自分の視点」で相手を考えるからですね。人間、他人の頭の中はのぞけません。脳みそを開いてみても、「相手のきもち」はわからないのです。だから、「ぼくだったら…」という視点で考える。そうすると、すれ違う。先日もまたもや、すれ違いを起こしてしまいました。夜に嫁が子供におっぱいをあげながら、ふと「こっちは揺れないね」と言ったのです。ぼくは、「ああ、おまえは右の大胸筋が硬いからね」と答えました。というのは、その前日に嫁が背中が痛いと言ったので、すこし施術したのです。で、おそらく、痛みの原因は鎖骨の下の大胸筋だろうと読んでいました。大胸筋が硬いから、右乳の出もよくないのです。もちろん、揺らしてみても硬い感じがします。そういう頭があって、さきほどの答え方をしたのです。すると嫁は「え???」とハテナ顔。そして「いや、地震の話しね」とポツリ。・・・!なんと「こっちは揺れないね」は「右のおっぱいは揺れ幅が少ないね」という意味ではなく、「愛知は地震が少ないね」という意味だったのです。ぼくはそれを知ったとき、「ああ、夫婦はこうやってすれ違うのだ」と悟りました。ちょっと前に、お笑いのアンジャッシュがこんなようなネタで、一世を風靡しましたが、ギャグではなく、実際に起こりうることなのです。ぼくたちはいつでも自分勝手にモノゴトを解釈しているのだ、ということをもっと意識しないといけないなと肝に銘じました。さて、今日も一日たのしみたいと思います♪=========================春日井市高蔵寺の整体院「空」の公式HP予約受付中! 0568-51-2354詳細は↓こちら↓をクリック!自然治癒力を120%引き出すブログ フォロー/友達申請大歓迎です!!ポチっと押していただけると、めちゃ嬉しいです!!
2011年10月26日
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こんにちは、尾関です。いよいよFu~、じゃなくて風雨が強くなってまいりました。皆様、お気をつけください。さて、今日のテーマは「バカチンは楽チンだね」です。最近、とみに思うのです。「バカっていいな」と。バカっていうのは、あけっぴろげなんです。隠すことがない。開かれている。ぼくは、人間のおおもとはバカだと思ってるんです。バカというと、言葉がちょっとアレですが、カッコよく言っちゃうと「矛盾した存在」なんです。けっして理屈だけでは説明がつかない。「わかっちゃいるけどやめられない」部分がある。自分の奥底には「信じられないくらいバカな部分」というのがあったりする。それに自分じしんが気づかないでいたり、気づいても隠そうとしたり、もしくはあけっぴろげにしてみたりする。「あけっぴろげ」にするのは、けっこう怖いものです。それは「は?」とか「えー」とかドン引きされる可能性があるからですね。ぼくらは「嫌われたくない」から、ドン引きされる恐怖というのは、とても大きいのです。逆に言えば、「あけっぴろげ」になるということは、ドン引きされる恐怖に打ち勝つということです。「よい評価」を求める人は、なかなか「あけっぴろげ」にはなれない。それから「理想の人間像」がある人。「人は(親は・上司は)こうあるべきだ」という理想像がまずありき、の人はバカになりにくい。それに比べると、バカちんは、「まず、そこにいる人ありき」なのです。「ああ、キミはそうなのね。白身も食べようね」というような大らかさ、度量がある。その根っこには、「ぼくもキミも大したもんじゃないんだから、そう深刻に構えなさんな」という洒脱さがある。「人間なんて、おおもとは食ってヤッて寝るだけじゃん。寝るだけのネコも立派に生きてるのに、生きがいだやりがいだなんだって、考えすぎなんだよ」みたいなざっくり感というんでしょうか。そういう思想が根底にあるから、バカちんは「他人をゆるす力・認める力」がとても優れています。だからバカちんと一緒にいるとラクです。バカちんは、他人を否定しない。「どうせ自分も他人もおおもとはバカだもん。 否定する時間が損じゃん」というゆる~い空気をまとっている。いわゆる「成功者」の本を読んでいると疲れることがありますが、それはなんだか自分を否定される気がするからですね。「わたしはこんな努力をして、こんなに成功しました! だから努力は大事です!」って言われると、なんかヘコむ。ただ、そういう本っていうのは、「教え」なのか「自慢」なのか微妙なところ。話半分で読み流すのはがいいんじゃないかな、というのが最近のぼくの見解です。なんとなーく話がズレてきてしまいました。ぼくとしては、「あけっぴろげのバカになるのは怖いけど、 一度なってみるとラクちんだよね」ということが言いたいのです。かくいうぼくも、バカちんを目指しております。と、ここまで書いてきて、ぼくの中の「バカちん」のモデルが、高田純次かリリー・フランキーであることに気が付きました(笑)なんだかまとまりませんが、ここで終わりにします。
2011年09月20日
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こんにちは!尾関ことオゼキングです。先日、一人で焼き鳥屋にいって焼き鳥を食べました。砂肝が好きです!レバーと鳥皮でキモカワです!さて、今日のテーマは「マジメ、カッコワルイ」です。マジメにもいろんな種類があると思うんですが、ぼくが言いたいのは、自分の世界に入り込んでしまっているマジメです。ちょっとバカにされたら怒り出すような人がいますが、そういう人はマジメなのですね。自分で自分を笑えない。自分のしていることは、「よいこと」で「ただしいこと」だと思っていると、自分を笑う強さがなくなってしまいます。バカにもいろいろ種類がありますが、良いバカというのは、とても強いですね。自分のことをバカにしているというか、「自分なんて大切なものじゃないのさ」というクールなスタンスを保っている。真剣になっても、どこかに客観的な視点がある。だからバカができて、それは周りから見ると魅力的なのです。ぼくの整体の師匠や先輩は魅力的な人ばかりですが、どこか真剣になりきらない、抜けたところがありました。整体学校の授業中にすごく真剣な話をして、「その人のすべてを受け入れ、人の痛みを取るには・・・」なんて講義をして、受講生が感動しつつも「ふむ~」と聴いていると、「最終的にはバンテリンがいちばん効く!」なんていうどんでん返しを食らわしてしまうような人たちなのです。受講生もみんなそういうギャグの分かる人が多かった。たぶんそれは「芯」や「軸」がぶれないからできることなんですね。根本に「覚悟して真剣に生きる」という軸があるからこそ、「あそび」の部分を大切にできる。「あそび」の部分を許容できる器がある。マジメになりすぎると、どうしても視野がせまくなる。盲目的になってくる。渦中の加護ちゃんも、「もうどうにもならない」とマジメになってしまったのでしょう。松下幸之助さんに言わせれば、「どんな時でも道は100万通りある」のです。その100万通りを探すときに、どうしても「やわらか頭」が必要なのですね。言い換えれば「バカ脳」です。「そんなもんありえへんわ」とか他人からツッコまれちゃうくらいの発想ができないと、とうてい100万もの道を見つけることはできない。せいぜい2,3個で終わってしまう。それだけマジメっていうのは弱いんですね。何かに対して「ありえない」とばかり思ってしまう心がマジメです。やってみなけりゃ、分からんのですけどねー。ちなみに「がちがちマジメ脳」から「ゆるふわ愛され脳」に変わるための魔法の呪文があります。それは「ウンコぷー!」です。この言葉を言えるかどうかって、けっこう大きいと思うんですね。一人で車に乗っている時に、言ってみてください。お風呂でシャワーをマイクにして、「ウンコぷー」の歌を作曲して歌ってみてください。「そんなアホらしいことはできない」「大人げない」「恥ずかしい」「それを言う意味があるの?」という人は、すでに頭が固くなりつつあるかもしれませんよ。意味なんていりません。「意味のないことの楽しさ」を忘れて、いろんなことに理由づけしようとするとつまらなくなりますね。「生きる意味とはなんだろうか?」という問いは、「生きるのがつらいよー」というだけなんです。この、「生きる」の部分を「仕事」や「結婚」に変えても同じです。ぼくらは楽しいとき、意味なんて探したりはしないのです。「意味」を探し出したら要注意!魔法の呪文を唱えて、バカ脳にリセットしましょう!以上、考えすぎてしまうぼくから、考えすぎてしまうあなたへ。=========================春日井市高蔵寺の整体院「空」の公式HP予約受付中! 0568-51-2354詳細は↓こちら↓をクリック!自然治癒力を120%引き出すブログ フォロー/友達申請大歓迎です!!ポチっと押していただけると、めちゃ嬉しいです!!
2011年09月15日
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おはようございます!尾関です。今日も暑くなるのかな?暑いのは嫌だけど、秋になると夏が恋しくなりますね。不思議なものです。さて、今日のテーマは「さみしさをどうやって癒そうか」です。ぼくは「さみしさ」というテーマが好きで、よく考えています。人は誰でもさみしい。さみしさを癒そうとして、人は恋愛をしたり、お金を稼いだりする。誰かが「分かってくれる」とすこし癒される。だけどそれで完全に癒されるわけじゃない。時がたてば、またさみしくなる。みんなが、ずっと消えないさみしさを抱えている。そのさみしさに気づけないで、「さみしさを癒したい」という自分の気持ちを知らぬまま、堕ちていく人もいる。お金稼ぎに精を出す人もいる。ワーカホリックになる人もいる。アルコールや買い物に依存する人もいるでしょう。それはさみしいからです。みんな、「さみしさをどうやって癒そうか」と深層では考えているのです。「わかってもらえる」とさみしさはすこし減ります。だから、人は自分の話が大好き。自分のことをたくさん話して「わかってもらいたい」と思う。だから、他人の話を聴いてあげられる人は、人気がある。モテている。けれども、話を聴くのが得意な人は、実は孤独です。「わかりあう」というのは難しい。たいていは「わかってあげる」と「わかってもらう」の関係になる。「聞く力」の高い人が「わかってあげる」の立場になる。親は子供を「わかってあげる」けれども、子供に「わかってほしい」とはあまり思わない。それが逆転してしまうということは、子供が成長し、親が老いてきたということです。逆転することが多いのは、上司と部下です。たいていは部下が上司を「わかってあげる」のです。とにかく「わかりあう」という関係はほとんどない。100に1つという感じでしょうか。たいていは「わかってあげる」と「わかってもらう」の関係なのです。だからこそ、さみしさはなかなか癒えない。いや、きっとさみしさは癒すべきものではないのでしょう。「人はさみしい存在なのだ」と受け入れることこそが大切なのかもしれません。単なる「さみしい」という問題が複雑にからみあうと、殺人事件にまで発展します。そうならないようにするためには、「さみしかったんだ」という自分の気持ちを見つけることが大事だと思うんです。あとは自分なりの「癒し方」を持つこと。たまに甘えるということは大事です。無理してでも甘える必要があると思う。人は孤独には勝てない。その事実を背負いながら、今日もぼくらは生きているのです。
2011年09月14日
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おはようございます、尾関@早起きです。数日前、3日くらい風邪状態だったのですが、うまく経過したらしくカラダが締まってきました。おかげで睡眠時間が短くて済みます。風邪って便利だなぁ。さて、今日のテーマは「人生の踏み台」です。昨日、仕事が終わってから実家に行きました。ヤボ用で、古いアルバムを探る必要があったのです。それで写真をワサワサと探しているうちに、懐かしい写真をいくつか見つけました。ぼくが思ったことは、「恥多き人生を送ってきたなぁ」ということです。昔の写真を観るのは、あんまり楽しいものじゃないですね。「なんでこんなにツッパっていたのかな」とか「もっと自分の心を見つめたらよかったのに」とか昔の自分に対して思います。楽しい思い出よりも恥ずかしい写真が多いのはぼくだけでしょうか。10年後、アラフォーのぼくが今のぼくを見たら、また恥ずかしく思うのかなぁ。ただ、ひとつ収穫もありました。それは「自分のルーツ」を再確認できたことです。すっかり忘れていたのに、写真を見て、思い出した出来事もありました。それで、「そうか、過去29年間の集大成が『いま』なんだな」ということを強く感じたのです。そして、まずいちばん大事なことは、母がおなかを痛めて産んでくれたからこそ、いまのぼくがいるのだ、ということも思い出しました。それがなかったら、何にもはじまらない。それからやっぱり嫁さんですね。ぼくが突然、本屋から整体師になると言ったとき、不安もあった中で笑ってついてきてくれた。それがなければ今のぼくはいません。そして整体の師匠と先輩方。師匠と先輩に教えてもらった技術とマインドがなかったら、ぼくはこうして整体で食っていくことはできなかったでしょう。そうやって「恩」を思い出していくと、ほんとうにキリがありません。親はもちろんじいちゃん・ばあちゃん、幼稚園の先生から、大学の教授、それから友人にも支えられてきました。そう思うと「生きている」なんて傲慢なことは思えず、「数えきれないほどの恩という土台の上に生かされているのだ」というふうに感じてきます。「自分」を支えているのは、今いる友人や仲間、家族だけでない。ぼくは、今まで出会った人すべてに、今この瞬間も支えられているのです。どうしてこれを感謝しないでいられましょうか。古いアルバムをめくるうちに、そんなことを思いました。懐古主義じゃぁ、じじくさいけれども、自分の土台を知るということは大切だなぁと感じた初秋なのでした。
2011年09月08日
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こんにちは、尾関@台風一過です。今日の春日井はすごい晴れです。まさに晴れオブ晴れと呼ぶにふさわしい陽気であります。運動会でもしたくなりますね♪さて、今日のテーマは「0.1歩踏み出す勇気」です。「はじめの一歩」ってすごく怖いですよね。何かを終えるのも勇気がいることですが、何かをはじめるということもまた、すごく勇気のいることです。何かをはじめる勇気というのは、行動力と言い換えることができるかもしれません。頭の中の思考グルグルで終わらせず、実際に実行に移す力。それが行動力です。こないだ、ハッとするできごとがありました。友人と話していたら、「きみは行動力があるからね」と言われて、すごくびっくりして、「俺は、頭で考えすぎちゃう人間だよ」と言ったら、「いやいや、アンタ開業してるやないの」と言われました。言われてみれば、開業する人はそんなに多くありません。ぼくの場合は、ご縁に恵まれ運よく開業できたのですが、人から見れば「行動力がある」と映ったのかな、と思いました。ただ、ぼくとしては「0.1歩は踏み出すゾ」という思いは強くありました。「ゼロに何を掛け算してもゼロ」という話はよく聞きますが、「デカいことをすぐにはできなくても、 今できることをやって準備をしておこう」という意識は強いです。ぼくの場合の「0.1歩」はたいていネットで調べることです。それから本屋に行くことです。Google先生の知識体系はハンパないです。ここ10年くらい、たくさんのことを教えていただきました。Google先生は、何を聞いてもけっして怒ったりしないで、淡々と教えてくれます。だから「0.1歩」が踏み出しやすいです。それから本屋でのリサーチ。アマゾンが台頭してきても、やはり、リアル書店には実物を見られる強みがあります。そういう「誰にでもできる当たり前の行動」をする人としない人がいます。斎藤一人さんによれば、そういった「微差」がのちのちの大差になってくるのだそうです。ぼくは実感として、「はじめの0.1歩は、後の10歩以上の価値がある」と感じています。ほんの小さなことなんです。ネットで調べる。本屋にいく。「ごはん行かない?」って気になる人にメールをしてみる。ツイッターやフェイスブックをはじめてみる。家で一日5分だけ体操をしてみる。一歩踏み出すのは怖いけど、0.1歩なら誰でもできる。あとは、「やるかやらないか」だと思います。やって良いことが起きる保証はありませんが、「やらなかった後悔」よりはいいよね、と思います。ぼくは、そういう考え方を持っております。参考になる方がいたら、幸いです♪最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
2011年09月07日
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おはようございます!!今日の春日井は、すごい秋晴れ!!さんまでも食べたい気分です。さて、今日のテーマは「言うことを聞かない問題」です。みなさん、一度は「言うことを聞かない問題」で困ったことがあるのではないでしょうか。部下が言うことを聞かない。子供が言うことを聞かない。嫁(夫)が言うことを聞かない。相手が言うことを聞いてくれないと、お腹がスタンドアップしてしまいます。あ、いや、腹が立ちますね。そして、こう思うことがあるかもしれません。「あいつは頑固だから・・・」と。その考えが前提にあると、次に浮かんでくるのはこんなことです。「あいつの固い頭をどう柔らかくしてやろうか・・・」「なぜ、あいつはあんなに頑固なんだろう・・・」「あいつは頑固だから・・・」からはじまると、そもそもが「あいつ」の問題だと思っているので、「あいつは、あいつは」という考え方になります。そうすると、どんどん腹がスタンドアップしてきます。これは悪循環ですね。そこで、ちょっくら視点を変えてみます。なぜ、相手が言うことを聞いてくれないのか。それはつまるところ、「自分が信頼されていないから」に他ならないのです。これは何か言われるほうの立場になってみると分かります。嫌なやつ、アホなやつ、信用できないやつから何を言われようと、何にも響いてきません。アドバイスされればされるほど、「こいつの言うことなんか聞くもんか」という、かたくなな気持ちになってきます。逆に信頼している人からのアドバイスはすっと入ってきます。いや、これはウソです。信頼している人からのアドバイスであっても、人はすぐには受け入れません。そもそも人は、誰かに何かを言われるのが大嫌いなのです。ですから、「言うことを素直に聞いてほしい」という願いを持つほうがそもそも、間違っていると思ったほうがいい。「なんで言うことを聞いてくれないんだ!」と腹が立ってきたとき、「ああ、自分は信頼されていないんだな」と気づくと、すこし怒りがおさまってきます。相手の問題であれば、なんともできませんが、自分の問題だったら、なんとかできます。その「なんとかできる」という安心感が、怒りをおさめてくれるのですね。ちなみに、「なんで言うことを聞かないんだ!」と思うとき、すっかり感謝の気持ちも忘れていますね。同時にふたつのことは考えられないからです。こころにずっと感謝があれば、「相手を思い通りにしたい」なんて思わないはずですが、なかなか心をうまく操縦できないもんですね。「あなたのことが心配だから」相手を思い通りにしたいとき、そんな言い訳をすることもありますが、ほんとうに相手のことを思うなら、「あなたなら大丈夫だから(何もアドバイスはしないよ)」とドッシリ構えるのがよいのでしょう。「心配」しているのは自分なので、けっきょくは自分自身の問題なのです。今朝、メールで嫁とケンカになって、そんなことを思いました。本人に謝るのはシャクなので、ここで謝っておきます。ごめんね。
2011年09月06日
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こんにちは、尾関@暴風です。さて、今日のテーマは「自分に気づくこと」です。このテーマ、すごく深くて、世の中にはいろんな「勉強」がありますが、つまるところ「自分を知る」のが目的なのでは?と思うくらい深いことであります。整体をやっていますと、毎日多くの人をお話をしますが、ほとんどの方は思った以上に、自分のことに気づいていないものです。ご自分の姿勢、どこに重心があるか、どんな呼吸をしているか、などなど「健康」にとってこれほど重要なことはないのに、それについて知ろうとしている方はほとんどいません。自分を知らずして、いろんな健康法に飛びついてもムダです。「体操を毎日がんばっているのに痛い」という方もいますが、自分のカラダのクセを知らないでやみくもに体操をしても効くわけがありません。むしろ逆効果になっても、なんの不思議もありません。そして、ココロのクセの問題があります。ぼくらは「クセ」で思考をしています。いつでも悪い面ばかり目を向けてしかめ面している人もいれば、良い面をとらえてニコニコしている人もいます。そのクセに気づくということは、自分を愛する第一歩であります。クセというのは習慣ですから、生まれたあとにできたものなんですね。そして思考習慣は、ほとんど親のそれを譲り受けます。ですから、自分に気づくというときには、かならず親を見ていく必要があるのです。それからおじいちゃんおばあちゃんまで見ていくと、それなりに家系の法則が見えてきます。そうやっていくと、なおさら「自分」というものが見えてきます。いつしかその中で、「言いたかったけど言えなかった自分」というのに出会っていくのです。「とっても怖かった」「さみしかった」「恥ずかしい思いをした」そんな思いは、ときに何年も封じ込められます。その思いに気づいてあげる。小さくなって、おびえて隠れている自分を見つけてあげる。そしてその自分に共感してあげる。「今までわかってあげられなくてごめんね」と言ってあげる。それが自分に気づくということだと思うのです。一度、自分が見えてくると、その家系に対する恩返しの仕方、つまり、家系における自分の使命みたいなものも見えてくるのですね。おっと、なんだか違う方向に話が言ってしまいましたが、自分に気づくと色々いいことがありますよ、というお話です。「痛みがあれば、みんなにかまってもらえる」と心の奥底で思っている人の痛みは、絶対に取れません。その人が痛みを取りたいのか、周りにかまってもらいたいのか、「本当に願っていること」が実現します。ただ、たいていの人は、「孤独」よりも「痛み」を選択します。それだけ孤独はつらいということですね。そして、自分の「さみしさ」に気づくことも、それと同じくらい、つらいということです。ただ、そのさみしさに向き合ったとき、「痛みでさみしさをごまかす」必要がなくなるかもしれません。今日はチョット不思議な話をしてしまったので、信じられない方がほとんどだと思います。もちろん無理に信じる必要はありません。分かる人だけ分かってもらえれば十分です。今日の参考文献はコチラ↓腰痛は〈怒り〉である普及版
2011年09月04日
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こんにちは。尾関です。コーヒー牛乳を飲んでいます。さて、今日のテーマは「嫌われたくない!」です。このブログでは、なるべく自分のココロの奥の奥までのぞいちゃうような文章を心がけています。そんな中で、よく出てくるのが、「嫌われたくない!」です。「嫌われたくない症候群」というのがあります。「嫌われたくない」がゆえに相手に合わせてしまう。それがつらい。けれども、嫌われるのはもっとつらいから、ガマンして相手に合わせる。それが嫌われたくない症候群です。ただ、皮肉なことに、嫌われたくない症候群の方は、特別は好かれていないことが多いようです。嫌われてはいないものの、都合よく扱われるだけで、なんだかあんまり嬉しくない状況になっているんですね。ぼくはそれがもったいないなぁと思っていました。つまり、自分は嫌われたくない症候群ではないと思っていたのです。でも、よくよく自分のこころを振り返ってみると、「嫌われたかな?」とか「うざいと思われたかな?」とかいうことを、すごく気にしているということが分かってきました。ぼくの場合は、嫌な奴に合わせるのはまっぴらごめんなんですが、好きな人に嫌われるのが、すごく怖いみたいなんですね。そこでちょびっと考えてみたところ、「嫌われたかな?」って思うのは、相手に対してなにかしら義理を欠いたり、不誠実なことをしているという気持ちがあるときなんですね。そして自分にばっかり目がいっているとき、「嫌われたかな?」という不安が大きくなるようなのです。他の方はわかりませんが、ぼくはそうです。たとえば先日、前の会社の同期にメールをしたら返事がありませんでした。それでぼくは「嫌われたのかなぁ」と思った。とても仲が良かったので、なんとなくショックな気分でした。その背景には、ぼくが突然、前の会社を辞めたということがあります。もちろん自分としては計画があっての退職だったのですが、同期にすればけっこう青天の霹靂だったと思うのです。転職された方は分かるかもしれませんが、どんなにすばらしく演出された転職だとしても、ココロのどこかでは、「みんながんばっているのに、自分だけ裏切って申し訳ない」というような気持ちがあります。もちろんぼくの同期はいい奴が多かったので、「裏切った」だなんて思っているとは思いません。けれども心のどこかに「申し訳なかった」という気持がある。それは事実です。そうすると、たった1回メールの返事がないだけで、「ああ、俺が裏切ったから嫌われちゃったんだ」というふうに理屈をつけてしまうのですね。<続く>=========================春日井市高蔵寺の整体院「空」の公式HP予約受付中! 0568-51-2354詳細は↓こちら↓をクリック!自然治癒力を120%引き出すブログ フォロー/友達申請大歓迎です!!ポチっと押していただけると、めちゃ嬉しいです!!
2011年08月30日
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こんばんは、尾関です。暑い夜ですね。さて、今日のテーマは「ごちゃごちゃ言うより実績で勝負」です。ぼくは色々と頭で考えすぎてしまうタイプですが、最近とみに「理屈ってどうでもいいなぁ」と感じます。理屈と膏薬は何にでもくっつく、と言いますが、まさに理屈は後出しなら何とでも言えるわけです。その点、「実績」というのは強いです。有無を言わせない強さがあります。ロンよりツモ、ではなくて論より証拠というやつですね。けっきょく社会人として生きるということは、この実績を積みあげていく以外にないのでは?ということを感じます。頭でっかちは、本当に弱いです。最近、ブログを書く頻度が落ちているのも、なんとなく、ごちゃごちゃ言うのが嫌になってきたからかもしれません。ブログも確かに良いかもしれない。「いい言葉」に人は感動するかもしれない。けれども言葉はむなしい。言葉ではなくて、ぼくの生き方に説得力がないといけない。毎日、毎日、自分の未熟さを実感する。能書きを垂れても仕方がない。もっと、実のある生き方がしたい。
2011年08月18日
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おばんです。尾関です。先日、バスでお年寄りに席をゆずったのですが、そのおばあさんが降りるときに、「ありがとうね」と言ってくれたのです。そのときクセでつい「お大事に」と言ってしまいました。ぎゃふん。さて、今日のテーマは「嫌な人が神様」です。恋人はサンタクロース、ということわざがありますが、嫌な人というのは実は神様なのです。整体院「空」を開業して間もないころ、ちょっと不思議な方がいらっしゃいました。60代か70代くらいの男性です。1回目の施術が終わると、その人は、「なんか全然わからん」とちょっと不満そうにしていました。ぼくの施術は、非常に分かりにくいのです(笑)初めて受けた方は、「なにこれ?」と思うことがほとんど。それだけ精妙なんです。なので1回目はみなさん半信半疑です(笑)だからぼくはそれで構わないのですが、その人は納得いかない感じでお帰りになりました。そしたら翌日、その人がまた来ました。そして「なんか今日、調子いいんだよ」と。翌朝に効果を実感するタイプだったのですね。というわけで、2回目を施術しました。そしたらまた不満げに「わからんな」とポツリ。で、そのままお帰りになりました。そしたら翌々日くらいに電話がかかってきて、「あのさー、オタク高いんだよね。 安くならないの?俺だけ特別に安くしてよ」とのこと。なんの義理があってあなただけ(笑)値引きなんぞ、するわけがありません。「それは無理ですよ~」とお断りしたら、それ以降、電話がかかってくることもないし、来院されることもありません。「不思議な人だったなぁ」と思ったのですが、後からよくよく考えてみると、「実はあの人が神様だったのでは?」と思いました。当時は、ほんとに開業間もないころ。値引きしてでも、どなたかに来院していただかないと、食べていけないような時期だったのです。でも、特定の人に対する値引きなんてやったら、もう終わりです。自分の軸が崩れてしまう。だから絶対に崩してはいけない壁なのです。で、たぶん神様はそれをチェックしに来たのです。「尾関よ。軸をぶらさずに対応できるか?」と。そこで、来院してほしいがために、「まぁ、いっか」と値引きをしてしまえば、神様は「そんなことでは、いかーん!」とお怒りになったことでしょう。幸いぼくは、そのようなことをしなかったので、神様がいつでも見守ってくださっているようです。おかげで毎日ツイてます。ぼくらは日々、色んな人に会いますが、ときに「試される」ことがあります。そこで感情にまかせて対応するのではなく、「この人の出会いから、何を学べるだろうか?」という視点で見ていく。そういうことが大事だと思います。いつまでも成長しない人は、いつも「あの人のここが嫌だ。あれが嫌だ」と言っています。「あの人」はどうでもいいんです。「自分」が「成長するかどうか」だけを考えれば、愚痴など言っているヒマはないのです。覚えておいてください。「恋人はサンタクロース、嫌な人は神様」と。=========================春日井市高蔵寺の整体院「空」の公式HP予約受付中! 0568-51-2354詳細は↓こちら↓をクリック!自然治癒力を120%引き出すブログ フォロー/友達申請大歓迎です!!ポチっと押していただけると、めちゃ嬉しいです!!
2011年07月19日
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おはようございます、尾関です。昨日は暑かったですね。ぼくが雪ダルマだったら、完全に死んでましたね。さて、今日のテーマは「自信がない」です。「自信」というのは、なかなか難しいものですね。ぼくは思うのですが、「自信満々」に見える人というのは、自信がない人です。だいたい、「自信満々」に見える人というのは、なにかしら自分の「付属物」について、自信を持っているものなのです。お金をいっぱい持っているとか、名誉ある地位についているとか、良い大学を出た、有名企業に勤めている、ブランドバッグを持っている、仕事でスゴイ成果を出した・・・etc.「自分そのもの」ではなくて、「自分にくっついているもの」に対して自信を持っていることを「自信満々」と言います。「自信満々」は強そうに見えるけれども、モロい。モロヘイヤです。それは「自分じしん」ではなくて、「自分の付属物」に対して自信を持っているからです。その付属物がなくなれば、すぐに自信がなくなってしまう。そんなふうに、すぐになくなってしまう自信は、きっとホンモノではないんだろうと、ぼくは思うのです。ぼくは、ホンモノの自信というものを持っていない気がします。だから、「俺はこんなんでいいのかなぁ」ということをすぐに思ってしまう。誰かからの評価が欲しいと思う。誉められたいと思ってしまう。それは自信がないからですね。もっと、もっとさ、丸はだかの自分に「イエス」って言ってあげたいものです。何にも持っていない、何の成果もない自分に、「そのままで、素晴らしいんだよ」と言ってあげられる心。最近は、「やさしい人こそ最強だなぁ」と思います。ちょっとずつでも、一歩ずつでも、自信をつけて、やさしい人になりたいな。=========================春日井市高蔵寺の整体院「空」の公式HP予約受付中! 0568-51-2354詳細は↓こちら↓をクリック!自然治癒力を120%引き出すブログ フォロー/友達申請大歓迎です!!ポチっと押していただけると、めちゃ嬉しいです!!
2011年06月23日
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おはようございます、尾関です。今日は割とカラッとした朝です。でもKARAのメンバーの名前が一人もわかりません…。さて、今日のテーマは「チャレンジ&チャレンジ」です。ぼくはけっこう、「やってみる」というのが好きでして、とりあえずやっちゃうタイプなんです。というかやってみないと気が済まないのです。なんでかというと、「やってみないとわからない」からです。「やらなくてもわかる」っていう人がいたらスゴイですが、あいにく、ぼくにはそんな能力がないので、「やってみないとわからない」のです。ただ、「やってみる」にあたって、「ぶれない軸」が必要だなぁということは、強く感じます。何かを「やってみる」には、お金も時間もかかります。なにか、代償が必要なわけです。新しい事業を起こしたら、家族との時間が減るかもしれない。趣味をはじめたら、仕事の時間が減るかもしれない。むろん、「やってみ」て、それが生活全般によい影響を与えるのなら、そのまま続ければよいと思いますが、それも「やってみないとわからない」のです。ですから「何でもやってみる」という大胆さとともに、「やってみたらどうなるかな?」と、慎重な想像をしていかにゃならんと思うわけです。ただ、どこまで具体的に想像したとしても、それはあくまで想像でしかありません。現実には「想定外」のことがたくさん起こります。そのときにいろんな判断を迫られる。そしてそのときにこそ、「ぶれない軸」が必要になってくるのです。いったい自分はなぜこの仕事を選択したのか?自分はどんなふうに生きていきたいのか?どのように社会や世間とかかわり、役に立ちたいのか?自分にとって、本当に幸せな姿とは何か?選択するにあたって、「ぶれない軸」としての自分の価値観を、何度も振り返り、何度も確認しないことには、なかなか決断できません。逆に、しっかりとした軸さえあれば、選択に迷うこともずいぶん減ると思うんです。「ぜったいに、ぜったいに、軸をぶらすな」お酒の席でとつぜんマジメな顔になり、ぼくの顔を正面から見据えて師匠が言ってくれた言葉です。「今はわからんと思うが、忘れるな」と仰っていましたが、なんとなーく分かってきたような気はします。29歳男子、ぶれない軸をもって「おとなチャレンジ」していきます。=========================春日井市高蔵寺の整体院「空」の公式HP予約受付中! 0568-51-2354詳細は↓こちら↓をクリック!自然治癒力を120%引き出すブログ フォロー/友達申請大歓迎です!!ポチっと押していただけると、めちゃ嬉しいです!!
2011年05月23日
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こんにちは、尾関です。雨です。レインです。レインといえば、韓国人歌手の「ピ」ですが、どうも解せません。名前が一文字なんて…!しかもよりによって「ピ」なんて…!文化の違いとは、恐ろしいものです。さて今日は「信じるとか信じられるとか」のお話です。こないだ新聞に6000万円の振り込み詐欺の事件が載っていましたが、こりゃまたずいぶんと騙されたものだなぁと思いました。そう、信じるということには、いつでも危険がつきまといます。それはたいてい、損したり、傷ついたりという危険です。それでもぼくらはなぜ信じるかというと、なにかを信じないことには生きていけないからです。たとえば整体というのも面白いもので、どんなに技術があっても、信じてもらえない限りはその人をよくできません。1回の施術だけで、長年の痛みが全くなくなってしまうという人はなかなかいませんから、とくに慢性痛の方はやはりある程度は通院が必要になります。けれども、はじめのうちは変化が少ないこともあります。それは仕方がないことなんです。けれどもそこでぼくが不安な顔をしたり、「うーん、大丈夫かな」と思っていると、来院された方は、「これはよくならなそうだ」と思い、通うのをやめてしまいます。そうすると、どんなに素晴らしい技術を持っていても、絶対によくできません。まずは来院してもらうということが大前提なのです。そのために何が必要か?それこそが「信じてもらう」ということなのです。とはいえ、ひとくちに「信じてもらう」と言っても、そう簡単にできるものではありません。というのも、「信じてもらう」のは、もはや雰囲気の問題で、「なんとなく信じられそうだ」とか「どうもウサンクサイ」とかは第6感のようなもので感じる類のものだからです。そうなると「信じてもらえる技術」よりも、「信じてもらえる人柄」のほうが大事だ、ということになってきます。独立してから、開業前も開業後もいろんな人に会いました。その中には「信用できそうな人」もいれば、「ウサンクサイ人」もいました。「ウサンクサイ人」がやった仕事は、どんなに技術的にすぐれていても、どこかウサンクサイ感じがします。逆に「信用できる人」がやった仕事は、ちょっと拙い面があっても、「頼んでよかった」と思います。それって「信じてよかった」っていうホッとした気持ちだと思うんです。その「信じてよかった」をたくさんいただいて積み重ねていくことが、よく生きることなのかもしれません。「信じる」ことは怖いこと。だからこそ、自分を信じてくれる人を裏切らない。そのための技術であり、テクニックだと思うんです。自分を磨いて、「信じられる人になる」そんな遠い目標を、最近立てました。信じられる人は、自分を信じられる人。信じられる人は、自分の技術を信じられる人。信じられる人は、来院者さんの回復を信じられる人。その信念で、今日も施術であります。=========================春日井市高蔵寺の整体院「空」の公式HP予約受付中! 0568-51-2354詳細は↓こちら↓をクリック!自然治癒力を120%引き出すブログ フォロー/友達申請大歓迎です!!ポチっと押していただけると、めちゃ嬉しいです!!
2011年05月22日
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こんにちは、尾関です。今日はずいぶん暑いですね。おかげさまで、施術のほうが忙しくなってきました。それにしても、症状が改善して喜ばれるというのは嬉しいものですね。さて、今日のテーマは「行動力」です。最近特に、行動力というのは、ほんとうに大事だなぁと実感します。独立してから、ぜんぶ自分でやることになり、今までとはすっかり勝手が違っています。嫁が、電話受付やらお会計やらしっかりやってくれるので、ずいぶん助かっていますが、それでも感ずるのは、「あー、誰もやってくれないんだ」という感覚です。どんな仕事をしても、誰にも注意されないのですが、ほおっておくと問題が大きくなってしまう。ぜんぶ自分で見張って、先のことも考えて、行動していかにゃならない。そういうことを、ひしひしと実感しています。そんななかで、やっぱり行動が大事なんだと痛感しておるわけです。どんな崇高な「思い」も、行動がないことには、なにも変わりません。斉藤一人さんのお話で、「心の中で、『そばが食べたい』と願っても、 『うどんください』って言ったらうどんが出てくる」というのがありますが、「思い」よりも「行動」が大事だというのは、まさにそういうことなのです。整体学校に通っているときに、先生から、「結果を変えるには行動を変える」という話がありましたが、当たり前のようで、なかなかできない法則です。勉強もしないで「英語を話したい」と言ってみたり、運動もしないで「やせたい」とか言ってみたり、努力もしないで「給料をあげてほしい」と言ってみたり、自分は何もしないで結果を求める人は多い。要はラクしたいのです。逆に、行動して結果が変わらない人も少ない。もし結果が出ていないなら、方向を修正する、という行動をすればいい。「成功するまで続けたら、 どう頑張っても失敗できない」とエジソンなんか、そんな感じで言っちゃいそうですが、けっきょく「トライアル&エラー」で、「やってみる」っちゅうのが大切だと思うわけです。「言うは易し」そして「行うは難し」です。ただ、逆に考えれば、行動さえすれば、成功は容易いとも言えます。それだけ「行動する人」というのは少ないものです。どうせ一度きりの人生なんだから、やりたいことやっちゃっていいと思うんです。「死ぬ日」を思えば、「今」やるしかないんですよね。せっかく生まれてきたんだし、行動しちゃってもいいんじゃないかなと思います。=========================春日井市高蔵寺の整体院「空」の公式HP予約受付中! 0568-51-2354詳細は↓こちら↓をクリック!自然治癒力を120%引き出すブログ フォロー/友達申請大歓迎です!!ポチっと押していただけると、めちゃ嬉しいです!!
2011年05月19日
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おはようございます、尾関です。今日は早起きです。気持ちよかです。さて、今日のテーマは「大きさ。」こりゃ、何の話でしょうか?ぼくは最近思ったのです。「勤めている企業の大きさよりも、 人間の器の大きさのほうが大事だな」と。ぼくらには、ついつい「くくる」クセがありまして、「どうせ中小企業は…」とか「どうせ○○出身は…」とか「けっきょく女ってのは…」などなど、知りもしないのに、勝手にまとめてしまうことがあります。というか、知らない人のほうが知ったかぶりをするというのが、ぼくの実感ですが、「まとめて考えてしまう」と知ったかぶりになってしまいます。たとえば「整体」というのは、ほんとうにいろんな種類がありまして、「整体とは…」と一言で言い表すことはできません。しかし知らない素人さんほど、「整体ってのは、まぁ、指圧みたいなもんだね」とか「整体…、ああ、ボキボキやるやつね」という感じで、ちゃっかりまとめてしまうのです。「整体」という言葉の定義に限らず、そういう荒技は、見分が狭いからこそできる特技ですね。知れば知るほど、「○○とは・・・」と一言では言えなくなるものです。ところでぼくらは、他人を判断するとき、どんな企業に勤めているか、ということを一つの判断基準にしています。大きな会社に勤めていることが分かれば、「まぁ、ご立派ね」とか言ってみたり、なんとなく見る目が変わってみたり、何かしらぼくらの脳に変化が起こります。けれども、最近、「勤め先の規模なんて、どうでもいいナァ」ということを実感してきました。ぼくが大事にしているのは、「仕事に対する誇り」ですね。自分の仕事が誰を笑顔にしているか知っている。商品やサービスの先にある喜びを知っている。そういう人は企業の大きさによらず、魅力的です。逆に大企業に勤めていることにあぐらをかいているような人は、本当につまらないと思います。まぁ、本人は「安定」しているからいいのかもしれませんが…。やはり「器」です。「器を打つわ」なんてダジャレを言っている場合ではありませんよ。器の大きさって、それこそ一言では言えませんが、なんとなく感じるものです。「こちら大企業ですので・・・」というような逃げ感、ずるさ、その器の小ささ。はたまた、自身のプライドをかけて一流の仕事をしてくれる職人さん。その差は、もう天地ほどに開いていると感じます。斉藤一人さんが、「大企業なんかじゃなくていい。 大個人になるんだ」と言っていますが、なんとなーくその意味が分かってきたような気がします。なーんて、器をでっかくしたいと思うのでした。=========================春日井市高蔵寺の整体院「空」の公式HP予約受付中! 0568-51-2354詳細は↓こちら↓をクリック!自然治癒力を120%引き出すブログ フォロー/友達申請大歓迎です!!ポチっと押していただけると、めちゃ嬉しいです!!
2011年05月18日
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おはようございます!春日井市の整体院「空」、院長の尾関です。昨日、ついに看板が設置されました! http://t.co/1xgyanh開業以来、ほぼ1か月くらい看板なしで営業していましたが、やっと整体院らしくなってきました。これで来院される方も迷うことがなくなるでしょう。さて、今日のテーマは「勉強代。」経営者となり、指示してくれる人がいなくなってから、およそ1か月。いろんな判断や選択を迫られ、どうにかこうにかやってきました。ただ、振り返ってみると、「かなり間違えたなぁ」という感があります。早く決断しないといけない。その焦りにかられて決めてみたものの、ぜんぜん想定外になってしまった、ということがたくさんありました。そのロス額を計算してみると、結構な金額になっていることに気が付き、驚きです。「あのとき、あっちにしていれば…!」一瞬、後悔がよぎります。けれども、「ああすればよかったなぁ」なんて考えるのはいちばんの時間の無駄です。けっきょく「ロス」という言葉がいけないのであって、「勉強代」と言えばよいのです。勉強するにはお金がかかります。学校へ行くのも、本を読むのも有料です。しかしだからこそ身に付く。「元を取ろう」という意識こそが、学びの意欲をアップするのです。損をした部分に目を向けても仕方ないですからね。失敗した部分に目を向けるのも、成功した部分に目を向けるのも自分しだいです。「判断を間違えたおかげで、いろいろと学びを得た」そう捉えることで前に進むしかない。その意味で「勉強代」という言葉は、とても使い勝手がよいのです。=========================春日井市高蔵寺の整体院「空」の公式HP予約受付中! 0568-51-2354詳細は↓こちら↓をクリック!自然治癒力を120%引き出すブログ フォロー/友達申請大歓迎です!!ポチっと押していただけると、めちゃ嬉しいです!!
2011年05月17日
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おはようございます!春日井の整体「空」院長の尾関です。ここ数日はいい天気ですね!ちなみに「ハレルヤ」は「晴れるや♪」という意味ではなく、ヘブライ語で「主をほめたたえよ」という意味らしいですよ。さて今日のテーマは「優先席について」です。こないだ久しぶりに電車に乗りました。そうしたらやっぱり、優先席に若い人が座っていたりするのですね。何の臆面もなく。嫁が妊婦なのですが、誰も気づかないまま、ガッツリ座っています。そんなこんなで考えたのですが、そもそも、なぜ「優先席」なんてあるんでしょうか?ぼくは、「全席が優先席であり、 だからこそ『優先席』なんて表示は不要なのではないか」と思うんです。電車で見ていると、ふつうの席に座っている人のほうが席を譲っていますよね。優先席に陣取るような人たちは、もともと神経が鈍いのか、高齢の方が近くにいても気づかないか、もしくは気付かないフリをしています。たとえば、「優先席を設置しました」と表現すると、なんだか「やさしい会社」に思えるかもしれません。けれどもそれは、「当社では全席優先席です」としたほうが、ほんとうは「やさしい」のだと思います。「ゆずりあいが当たり前」と思える社会。どうしたら実現するでしょうか?そのために整体師として何ができるか、そんなことも考えてみたいと思います。=========================春日井市高蔵寺の整体院「空」の公式HP予約受付中! 0568-51-2354詳細は↓こちら↓をクリック!自然治癒力を120%引き出すブログ フォロー/友達申請大歓迎です!!ポチっと押していただけると、めちゃ嬉しいです!!
2011年05月15日
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おはようございます、尾関です。今日の春日井は晴れらしいです。どうやらぼくの願いが通じたようで嬉しいです。ありがとうございます。さて、今日のテーマは「ふつうはすごい」です。先日の日記にも書いたのですが、こないだ名古屋の整体の先輩方と飲み会がありました。いろいろ勉強させていただいたのですが、ぼくが感じたのは、「みなさん、『ふつう』だなぁ」ということなのです。本当に、全員が全員、全国でもトップクラスの超人気整体院の院長先生なのですが、「俺(わたし)はすごいぞ」という感じがまったくないのです。みなさん謙虚でいらっしゃって、新参者のぼくにも丁寧に接してくださるし、何にも自慢する雰囲気でなく、非常識な実績のお話を、ふつうにしてくださいました。よくよく考えてみると、ぼくが感じた「ふつうだなぁ」というのは、「自然体だなぁ」ということなんですね。変な部分が少ない。奇をてらわずに、そのままの自分でいる。いばったり、卑下したりしないその感じが「ふつうだなぁ」につながっていると思うのです。そこでぼくは、「人間の成長というのは、何かプラスのものを 付け足していくのではなく、 マイナスのものをそぎ落としていくことなのかもしれないな」と思いました。その「マイナスのこと」というのが、「こころのお化粧」であったり、見栄やプライド、「見せたい心」などの、「自分をいつわる心」だと思うのです。そういうものがなくなっていくと、自然にありのままの自分を認め、受け入れることができるようになってきて、「ふつう」の自然体になれるのかもしれません。そんなことで、「ふつうはすごい。すごいはふつう」だなぁ、なんて考えいます。=========================春日井市高蔵寺の整体院「空」の公式HP予約受付中! 0568-51-2354詳細は↓こちら↓をクリック!自然治癒力を120%引き出すブログ フォロー/友達申請大歓迎です!!ポチっと押していただけると、めちゃ嬉しいです!!
2011年05月13日
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おはようございます、尾関です。台風が近づいてきているようですね。というわけで、昨日、以前買っていた武道雑誌「秘伝」をすべてブックオフにて処分してきました。何十冊もあったので若干迷いましたが、自分を変えていくにはズバッと行動したほうがよいと思ったので、思い切って全処分しました。そして夜は名古屋の整体の先輩方との懇親会。東京から師匠もいらしていて、いろいろとお話を聞かせていただきました。それにしてもみなさんが、すごい先生ばかり。常識外れの人気整体院の院長先生の集まりです。「朱に交われば赤くなる」と言いますが、そんな会合に参加させてもらって幸せです。ありがとうございました。さて今日のテーマは「すべては否定からはじまる」です。否定されるのって嫌ですよね。「ダメだ」と言われると、ヘコむものです。けれども最近とみに思うのは、「ダメだ」と言われた経験こそが、後々になって最も活かされてくるようなんです。たしかに「褒められる」という経験も大事で、その嬉しさを求めて向上する、ということもありますが、やはり「ダメだ」と言われながらも、「コンチクショウ」の気持ちでがんばったときに、知識も経験値もアップするようなんです。独立して、「こんなんじゃダメだ」と言ってくれる人がいなくなったので、今後は自分で自分を否定し、「まだまだ、もっともっと」の精神でやっていかないと、成長が止まってしまいそうです。ヘコむってことは、心が疲れることですが、最近は「心を疲れさせる」って大事だなと実感しています。気を遣う集まりなどに行くのは気が重く、帰りの電車でどっと疲れが出てきたりしますが、そうやって気を遣い、心を疲れさすということは、「心の筋トレ」の一種だと思うんですね。ぼくは学生のころなど、嫌な人のいる集まり(とくに飲み会)に行くのが嫌でしょうがなかったのですが、最近は疲れて帰ってきても、「今日も鍛えてもらったゾ」というふうに嬉しくなります。「否定される」ということは嫌なものです。でも大局的にみたら、否定されたときにこそ飛躍のチャンスがあるのです。それが最近のぼくの気づきです。=========================春日井市高蔵寺の整体院「空」の公式HP予約受付中! 0568-51-2354詳細は↓こちら↓をクリック!自然治癒力を120%引き出すブログ フォロー/友達申請大歓迎です!!ポチっと押していただけると、めちゃ嬉しいです!!
2011年05月11日
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こんにちは、尾関です。GWも終わりに近づいてきた午後、みなさまいかがお過ごしでしょうか?さて、今回のテーマは「モチベーションと決断力」。こちらに引っ越ししてきてから、いろいろと仕事をしました。しかし、なかなか計画通りとはいかないもので、毎日ドタバタとやっております。面白いと思ったのは計画の遅れです。千葉で雇われ院長をやっているころ、ぼくにはほとんど権限がなく、まずは先輩に話を持っていき、その後、師匠の許可を得てはじめていろんな仕事が回っていました。先輩も師匠も忙しい方なので、なかなか連絡が取れなかったりして、どうしても計画が遅れがちになっていました。当時は、「一人でやっていたらもっと早いのになぁ」と思ったものです。けれども一人でやるようになっても、不思議と計画が遅れていくんですね。それほどスピード感も変わらない。これはなんだろうと考えてみたら、どうやらぼくの決断力不足のようなんです。「うーむ、どうしようかな」と考えているうちに次の仕事に取り掛かってしまい、決断するのを後回しにしてしまう。そのうちにズルズルと遅れていってしまい、気付いた時には「あれれ?」という時期になっていたりします。「いま起こっている問題から逃げても、 後ろから問題がついてくる。 状況を変えてもその人の根本を解決しないかぎり、 同じ問題がその人に起こる」というのはぼくの持論ですが、まさしくそれが自分のなかで起こっています。その決断力不足というのはどこから来ているかというと、どうもモチベーションの問題もあるようなんですね。ついつい自分でやっていると「まぁいいか」というのが出てきます。これは本当に怖いですね。自由すぎて怖いというのは、大学生のころには感じなかったものです。いま思うと学生のころの自由というのは、ニセモノだったのだなぁと思う。いずれにせよ、「決断」ということの重要さを肌でひしひしと感じています。小さな小さな個人事業主でさえこれなんだから、大企業の社長さんは本当に大変なんだろうなぁ。自分の決断が社員の将来、社員の家族にまで影響を及ぼすんだもんなぁ。ぼくはもっともっと使命を自覚せにゃあかんね。自分自身のために働いているようでは、モチベーションも下がってまうがね。ぼくが生まれてきた意味、そして整体院を開院させていただけた意味をもっと考えながら、世の中のお役に立てればと思います。=========================春日井市高蔵寺の整体院「空」の公式HP予約受付中! 0568-51-2354自然治癒力を120%引き出すブログ フォロー/友達申請大歓迎です!!ポチっと押していただけると、めちゃ嬉しいです!!
2011年05月07日
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こんにちは、尾関@GWも営業中です。日差しがずいぶん夏っぽくなりましたね。今日はみどりの日らしいです。いつのまに4月29日じゃなくなったんでしょう。さて、今日のテーマは「こころの奥に潜んでいるもの」です。4月25日に開業してから、不思議なことに色々なものの見え方が変わってきています。6年前に学生から「社会人」になったときに、「あー、俺も社会人だ」と思いました。でも月給制だったので、「稼いでいる」という感じはありませんでした。「お金をもらっている」という感じだったのです。それから整体師になって、今度は歩合制で師匠から給料をもらうようになりました。完全歩合だったので、「稼ぐ」という感じがあって楽しくなりました。でも対外関係の仕事や経費などは師匠や先輩がやってくれていたので、ぼくはほぼ、施術をしているだけでした。それがいざ自分で開業してみると、自分の一挙手一投足が人生にそのまま跳ね返ってくるので、なんだかスゴイ感じです。なんの装備も持たずに海に出たような感じがします。今まで、ずいぶん守られていたんだなぁと思いました。そんな中、社会に出てみると「仲間」というのは本当に少ないものだと実感します。もちろん整体の師匠や先輩、家族や友人は頼もしい仲間です。けれども、あくまでも主役は自分です。自分で決めて、自分の道を歩いていかなきゃいけない。まぁ、ぼくは我が強いので自分の性分には合っているなぁとは思います。誰かに決められるシンドさよりも、自分で決めるシンドさを選びたい。何が言いたいか分からなくなってきましたが、独立して社会に漕ぎ出してみたら、「信用」というのがどれだけ大事か実感したということです。それは見知らぬ人間を信用できないからです。「いい人」ではやっていかれない。けれども誰かを信じるしかない。けっきょく誰が何を考えているかなんてわからないけど、自分で「この人を信じる」と決めて仕事を依頼する。その選択は、誰にも叱られない。そして誰にも褒められない。だから正解だったのかどうか、いつになってもわからない。「これでいいの?」ついクセで誰かに聞きたくなる。しかし答えてくれる人はいない。どうもその感覚が不思議なんです。けれども楽しい。いや、困った。どうにも言いたいことをまとめられなくなった。それくらい若造経営者の頭は混乱しておる、ということです。強引に、「心の奥に潜んでいるものを全部見ようとしちゃダメだ。 いくつかのヒントから、決断するしかない」とかなんとかまとめてみます。・・・グダグダでなんかスイマセン。=========================春日井市高蔵寺の整体院「空」の公式HP予約受付中! 0568-51-2354自然治癒力を120%引き出すブログ フォロー/友達申請大歓迎です!!ポチっと押していただけると、めちゃ嬉しいです!!
2011年05月04日
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おはようございます。ついに開業まで残すところ2日となりました。とりあえずお店の体裁は整ったので、あとは片付けと、いろいろ微調整するくらいです。さて、今日は「絶対恩感をきたえる」というお話です。開業の準備をしていて、つくづく「本当に、ありがたいなぁ」と思いました。ぶっちゃけた話、今回の開業、自分だけでは資金がタリーズコーヒー、じゃなくて資金が足りずに、母から借りました。まず、そのことは、ほんとうにありがたいと思っています。そして、おととい入籍した嫁ですね。大好きな地元を離れ、ぼくの夢を応援してくれる嫁にはほんとうに感謝しています。昨日は机やベッドをほとんど一人で組み立ててくれました。それから整体の学校があったこと、師匠や先輩が整体を教えてくれたこと、友人が応援してくれること、良い店舗が借りられたこと、地元が住みやすい街であることなどなど、考えれば考えるほど、「ありがたいなぁ」「ツイてるなぁ」「嬉しいなぁ」と思うことがたくさんあります。たぶん、今と同じ状況で、いろんな「嫌な面」を見つけることもできると思うんですね。「あれが足りない」「これがあればよかった」「なんで、あれがないんだ」などなど、「そこにないもの」や「足りないこと」に目を向けると腹が立ったり不安になったりします。それはあんまり楽しくないなぁとぼくは思うわけです。それよりも、「今、ここにあるもの・こと」に目を向けて、「これでいいんだなぁ」と感じたほうが、自分としてもラクだと思うんですね。この、「今・ここにあるものをありがたいと思える感覚」のことを、「絶対恩感」と勝手に名づけました。絶対恩感は生まれつきのものではなく、鍛えていくことができる感覚です。感覚というのは、そこに意識を持っていって、よく使えば使うほど研ぎ澄まされますよね。板金の職人さんは、金属のコンマ何ミリの凹凸が分かると言いますが、ぼくらも、ほんの小さな幸せを感じることができるようになれば、怖いものなどありません。だから幸せというのは訓練なんです。修行なんです。練習すれば幸せになれるんです。何を練習するかと言ったら、恩を感じる練習をするんです。絶対恩感の修行です。=========================春日井市高蔵寺の整体院「空」の公式HP事前予約受付中! 0568-51-2354自然治癒力を120%引き出すブログ フォロー/友達申請大歓迎です!!ポチっと押していただけると、めちゃ嬉しいです!!
2011年04月23日
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おはようございます!春日井市高蔵寺の整体院「空」院長、尾関です。今日は内装工事2日目です。昨日、壁紙を張り替えてもらったので、今日は床です。職人さんが見事に床を張ってくださったら僕は言うのです。「床上手ですね!」と。さて、そんなことはさておきまして、ここ2日くらい立て続けにお笑いのDVDを観ています。「アメトーク」と「すべらない話」を観ました。お笑いの人で、やっぱりすごいなぁと思うのは、「自分を笑う力」です。他人のことを笑うのはカンタンですが、なかなか自分のことを笑うのは難しい。どうしてもカッコつけたくなってしまうのです。「笑う」には、どうしても「バカにする」、という意味合いが含まれてきます。だから、マジメなことであればあるほど、それをバカにするとそのギャップがおかしい。大マジメにやったのに失敗してしまった話ほど、面白いものはありません。ところで、とある心理の専門家から聞いたのですが、吉本には「うつ」の人がいないそうです。それは、いつも笑っているから、心の健康にもいい、ということもあるのでしょうが、それ以上に、「自分を笑う力」が大きいのだと思います。いろいろと悩んでいるときは、どうしても視野が狭くなります。まるで、悩みが自分自身であるかのような錯覚をしてしまいます。けれども、よくよく考えれば「自分=悩み」ではなくて、自分のなかに悩んでいる部分があるだけなんです。DVDのなかに、ブラックマヨネーズの小杉が出ていて、ずっとハゲネタでいじられていたのですが、たとえば、ハゲのことで本気で悩む人と自分のハゲを笑いのネタにできる人では、圧倒的に後者のほうが視野も広く、精神的にもタフ、心理的にも健康であると言えます。ぼくも連れ合いに、「この紙、あなたの髪の毛のように薄いね」とか「あなたの髪の毛のように、薄い味」とか言われていますが、正直に言いますと、ぼくは薄いのではなく、おでこが広いだけです。そこのところ、ご理解ください。そんなぼくらも今日、入籍いたします。28年と11ヶ月続いた独身時代もあと数時間です。とまぁ、話がそれまくってしまいましたが、「たかが自分」と笑い飛ばす力を持ちたいね、という話でした。ではでは、そろそろ内装の職人さんがいらっしゃるので、失礼をばいたします。=========================春日井市高蔵寺の整体院「空」の公式HP事前予約受付中! 0568-51-2354自然治癒力を120%引き出すブログ フォロー/友達申請大歓迎です!!ポチっと押していただけると、めちゃ嬉しいです!!
2011年04月21日
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おはようございます!尾関@引越し当日です。今日の夕方出発し、夜中に愛知入りします。さて、最近グダグダな日記ばかり書いていたので、ちょっと考えたことでも書いてみましょう。ぼくは「楽しい」ということが好きなのですが、「楽しい」っていうのは、本質的にどういうことなんだろう、と考えていくと、それはつまり、「味わう」ってことじゃないのかなぁと思うんです。ぼくは「なんか楽しいことないかなぁ」とつぶやいている人の気持ちが全くわからないのですが、そういう人は、「味わう」楽しみというのをあまり知らないのではないだろうかと思ってしまう。「味わう」ってなんやねんと思われるかもしれませんが、それは「無意味でいい」ということなんです。何かの本でみて、すごく納得したのですが、ぼくらは「生きがい」とかいうものに、物凄く縛られていると書いてあったんですね。それは「何かしら有意義に生きなければいけない」という強迫観念でもあると思うんです。「有意義」というのは素晴らしいことですが、ついつい「今、ここ」を忘れてしまう場合があります。たとえば「勉強はつまらないけど、官僚になるためがんばろう」とか「筋トレはつらいけど、ムキムキになるためがんばろう」とかそういう、「将来のため」みたいなものは「有意義」と言われるんですが、「いま、ここ」では楽しくないことが結構あるわけです。それは、目線が未来に偏っているからですね。いま、ここにいる、ということを感じていない。だから、いま、ここにいる、という楽しさを味わえない。そういう構図なんだと思うんですね。「いま、ここで、ぼくが、息をしている、ということ。」これは実は、けっこう楽しいことなんです。ただ、多くの人はそういうふうには思わない。「意味ないじゃーん」と思ってしまう。そう言われたら「そう、意味がないんですが、なにか?」と言い返したい。「意味ないじゃん!」という人は、「意味がある=すばらしい 意味がない=よくない」と思ってることが多い。けれども、「意味なんてなくてもいいじゃないか」というのが「楽しむ・味わう」ということなんです。最近、楽しんでますか?いま、ご自分の思考はどこにあるでしょう?明日の不安ばかり、考えていませんか?昨日の後悔ばかり、していませんか?呼吸していることを味わっていますか?仕事があるというよろこび、感じてますか?あたたかいごはんと、あたたかい布団を味わっていますか?友達や家族の愛情をかみしめていますか?「いま、ここ」を感じるということ。「意味」なんてない、瞬間瞬間を味わうということ。そうやってたまにリセットしていくと、煮詰まったものがラクになってくると思います。ではでは、引越し準備をはじめまーす♪=========================春日井市高蔵寺の整体院「空」の公式HP自然治癒力を120%引き出すブログ フォロー/友達申請大歓迎です!!ポチっと押していただけると、めちゃ嬉しいです!!
2011年04月08日
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こんちには!間違えた。こんにちは、ワンカップ尾関です。今日のテーマは「言わなくてもいいじゃないか」、です。ぼくらは不思議と、言わなくてもいいことまで言ってしまうことがあります。今日はそういった現象を考えてみたいと思います。何人かの集まりで遊んでいて、「ボーリングに行こう」という話が出ると、きまって「俺、ヘタだよ」というふうに言い始める人が出てきます。このセリフを言っても言わなくてもボーリングの点数は変わりませんから、別に言わなくてもいいことです。ではなんでこのセリフを言ってしまうかと言えば、ゲームがはじまってから、「お前、へたくそだな」と言われるのがイヤなので、そういった前ふりで批判を回避しようとしているわけです。こういうのは自己卑下と言いまして、「料理下手だよ」とか「歌うまくないし」とか言うのもその仲間です。ヒゲ部員に認定ですね。こういった心理は誰にでもあるかもわかりませんが、できれば極端な自己卑下はやめたほうがよいように、ぼくは思います。ヒゲがぼーぼーに生えてくるのは仕方ありませんが、自己卑下は自分でやめることができます。さて、ちょっとここで考えてみたいのですが、実際にボーリングがへたくそならば、それは事実ですから、「へたくそ」と言われて別にヘコむようなことはないはずなんです。「へたくそだなぁ」と思われたり、そう言われたりしても、「そうなんです。ヘタなんです。よく知ってますね。あはは。」で済む話なんじゃぁないでしょうか。プロボーラーがそんなんだったら生活ができませんから困っちゃいますが、素人であるぼくらは、別にボーリングがへたくそでも一向に困らないわけです。そういうふうにラクに考えていくと、「俺、ヘタだから」という自己卑下も、「ほら、だからダメだって言ったじゃん」という言い訳も言わなくて済むようになります。言わなくてもいいのについ言ってしまうこと、というのには、だいたい、「自分勝手なスケベ心」が潜んでいるのです。「ボーリングがうまくもないのに、うまいと思われたい」とか「たいして実力もないのに、スゴイと思われたい」とか「単なるスケベ野郎のくせにモテたい」とかもう口に出したら恥ずかしいほどのことを、けっこう人間というのは考えているものですね。そういったことは、さすがに口に出せないので、何かしら言わなくてもいいことを口走ってしまうわけです。それはけっきょく、自分を認める、ということができていないのですね。「ボーリング、ヘタだね」と言われて、怒ったり悲しんだりする人は、「ボーリングがヘタである」という事実を、事実として認めることができていないのです。「ヘタなのに、なんとか上手いと思ってもらいたい」というスケベ心が「怒り」や「悲しみ」という感情を生んでいるのです。その大元には、「ボーリングはうまいほうが良い。ヘタはダメ」という価値観があります。けれども先に書いたように、素人であるぼくらは、ボーリングがうまかろうがヘタであろうが、何にも関係がありません。そんなことよりも、ボーリングをする時間をいかにみんなで楽しむことができるか、ということが大事になってくるのです。けれども自分勝手な人は、そういうことは分からない。「自分が上手いと思われたい」という一心で、必死に言い訳を繰り返したりすることがよくあるのです。もし自分がいちばんヘタだったら、2番目にヘタな人は「俺よりヘタな人がいた」と安心するのです。そのことは喜ばしいことです。そこで「俺はヘタのいちばんだ」とか言ってみると、周りの雰囲気もよくなってくるはずです。人間は下等生物ではありませんから、あまり「勝とう、勝とう」としないほうが愉しくなります。それよりも自分を負かせる、そして周りに任せてたゆたうような気持ちでいると、心がずっと安心していられます。なんだか話があらぬ方向へ逸れている気がしますが、とにもかくにも「言わなくてもいいのについ言ってしまうこと」というのは非常に興味深い事例だと言う事です。「この人は(もしくは私は)、 なぜこんな言わなくてもいいようなことを言ってしまうのだろう?」と考えていくと、人の心理というのが見えてきます。ぜひやってみてください。====================ビジネスマン必見!「潜在能力を120%引き出す『整体の知恵』あなたの中に埋もれた才能を引き出すコツとは?ツイッターもやっています。フェイスブックはこちらからどうぞ♪整体院・整体施術のごあんないはコチラをごらんください。お忙しいところ恐縮ですが、下のバナー↓をポチっと押してくれたら、すごく嬉しいです。ホントに嬉しいです。
2011年03月04日
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こんばんは、尾関です。今日は確定申告のあとに、ポスティングに行ってきました。2時間くらい歩くと、かなり温まります。いい運動です。ところでポスティングをしていると、かならず「チラシ投函不要!」と書いてあるお宅に出くわします。もちろんそういうとこにはチラシは入れないのですが、今日見つけたスゴイのは、「チラシ不要!入れた場合は1万円いただきます。 あとチラシを取りに来てもらいます。」と手書きの紙がポストに貼ってあるのです(笑)そこで、どんな人がこれを貼ったのかと考えてみますと、あきらかにエネルギーが余っている人である、ということが感じられます。というのは、そもそもチラシなんてゴミ箱に捨てればよいものです。ぼくも家に帰ると必ず何枚かチラシが入っていますが、そのまま持ち帰りゴミ箱に捨てています。その行為すら面倒くさく、「ああ、またチラシなんて入れて!うっとうしい!」とイライラ・カリカリしやすいタイプが「チラシ不要!」という張り紙をするのではないかと思うのですが、「一万円いただきます」というのは「絶対にやめてくれ」を通り越して、むしろ「チラシ入れてくれ」というフリなんじゃないか、と思うほどに過剰な行動です。(しかも法的効力はあるのだろうか・・・?)ただ、この「過剰な行動」というのは、性欲や劣等感が転換されたものであることが多く、結構な見ものなのです。そういえば、ぼくが本屋で働いていたころですが、本の袋に結婚相談の「ツヴァイ」の広告を入れていたのです。提携していたのか知らないのですが、備品の袋を注文すると、はじめから袋の中に入っているのです。そしたら、ぼくの店舗ではなかったのですが、「あんなもの入れて!」と女の人からクレームが入ったそうです。どんな女性がクレームをしたか、もうお分かりですネ。その広告も別に、ヒョイとゴミ箱に捨てればいいだけの話です。けれどもツヴァイの広告に、過剰に反応してしまった。それは劣等感というのがそうさせたのです。また先日、新居のことを連れ合いと話していましたら、「トイレとお風呂が一緒(ユニットバス)は絶対にイヤ!」と言っていたのです。しかも「ぜったいに」が「ぜっっっっったいに」という言い方だったのです。これも「ユニットバスはイヤだな」とふつうに言えばよいのです。ぼくもユニットバスは好きではないですから、それにするつもりは毛頭なかったのです。なのに「ぜっっっっったいに」と言った。そこには何かしらの過剰なエネルギーがあるのです。(まだ探っていませんが・・・)なんでも、「ぜっっっっったいに」というこだわりがあるときは、そこにエネルギーのつっかえがあるのです。そういうふうに見ていくと面白い。ど派手な化粧をしている人を観る。なぜど派手な化粧をしなければならないのだろうかと観る。高級ブランドで固めている人を観る。なぜ高級ブランドで着飾る必要があるのかを観る。「その人は自信がないのだ」と観ることは誰でもできます。そんな分析は何の役にも立たないのです。そこからもっと深く観ていく。「その人は、なぜ自信がないのだろうか?」「その人の劣等感をどの方向で活かせば、 その人は幸せになれるだろうか?」というようなことを考えていく。そこにはエネルギーがあるわけですから、方向性さえハッキリすれば、きっと生産的な活動になるはずなんです。そうやってやりたいことを自発的にやって、スッキリさわやかに生きる人が一人ずつでも増えていけば日本は変わる!!整体というのは、その手段なのです。ちょっと話が大きくなってしまいましたが、「なんか変なの」と思う事柄には、いろいろと面白いものが隠れていることが多いのです。「変な人!」とか「変なの!」で終わらせないで、「過剰なエネルギーの表現がゆがんでいる」と考えていくと見方も変わるよ、というお話でした。====================ビジネスマン必見!「潜在能力を120%引き出す『整体の知恵』あなたの中に埋もれた才能を引き出すコツとは?ツイッターもやっています。フェイスブックはこちらからどうぞ♪整体院・整体施術のごあんないはコチラをごらんください。お忙しいところ恐縮ですが、下のバナー↓をポチっと押してくれたら、すごく嬉しいです。ホントに嬉しいです。
2011年02月27日
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こんにちは、尾関です。今日は確定申告のために幕張メッセまでいってきました。さて、今日のテーマは「あなたのために生きたい」・・・うさんくさいですか?(笑)そうです。「人のため」というのは、「人の為」は「偽り」とも言いまして、どうしても偽善というところに結びつきやすいのです。「あなたのために」というのは、とっても押し付けがましい感じがしますね。さりとて、やっぱり「自分のため」だけというのもさみしいものです。喜びも悲しみも一人分じゃぁ、どこか物足りないと感じるのが人の性です。じゃぁ、どういうのがいちばん幸せかなぁと考えてみますと、「自分のために、あなたを喜ばせる」ということを自分から行うということです。この「自分から」というのは、すごくポイントなんです。誰かにやらされた感があったら、嬉しくありません。あくまで「自分から」でないと楽しくないのです。足の悪いおばあさんに代わって、パンを買ってきてあげる。それは喜ばれるかもしれない。けれども悪い人に「おい、パン買ってこい」と言われて「イヤだなぁ」と思いながらも行くのは喜ばれるとはちょっと違うのです。「イヤだなぁ」と思いながらも買いに行ってしまうのは、ちょっと厳しく言いますと心の弱さです。優しい言い方で言いますと、「やさしすぎる」のです。これは「喜ばれたい」という主体的な気持ちでなくて、「嫌われたくない」という受身的な気持ちだとそうなります。「断らない」んじゃなくて、「断れない」んです。それは喜ばれるというのは全然違います。「自分から行動したのだ」という自覚があると、その人の心には責任が生まれます。良いことが起きようと悪いことが起きようと、「まぁ、自分で選択したのだから」「自分で決めたことだから」と達観していられます。そういう気持ちで、自分から勝手に「喜ばれる。」を実行しますと、たとえ相手が喜んでくれなくても、腹の立つことは少なくなってきます。けれども、「わたしは相手の要求に合わせたんだ」と感じてしまうと、途端に疲れてきてしまいます。「あなたがそれを要求したからやってあげたのに、 なんでもっと喜ばないの」というふうな押し付けがましい感じになってしまいます。たしかに責めたくなる気持ちも分からないではないんですが、そもそも「なんで自分は相手に合わせてしまったのか?」という心の奥を見つめてみないことには、なんにも解決しません。「合わせたくもないのに合わせてしまう」という心には、かならず「自分勝手な気持ち」「自我」「スケベ心」が含まれているものです。「嫌われたくない」「もっとよく思ってもらいたい」というような「お化粧する心」がそこにはあるのです。ほんとうの自分以上の自分を見せようと演じてしまうことはぼくは、よくあります。「カッコイイと言われたい」「スゴイと思われたい」と思うあまり、カッコつけてしまい、「器の大きな男」を演じてしまうわけです。「ほんとうの自信」がないから、自分以上の自分を見せようとしてしまうわけですが、その気持ちを隠したまんま演じ続けてしまうと、「実はぼくは我慢しているんだ」とか明らかに「ちっちゃい男」発言につながってしまうのです。ただ、「演じていない人などいない」というのが現実で、誰しもがすこしは演じているものです。だから大切なことは「演じているか/いないか」ではなくて、「演じていることに気づいているか/いないか」なんですね。たまに面白いのは、「素の自分を見せていますよ」という演技をしている人がいることです。なんだか話がそれてしまいましたね。ちょっとまとめますと、「相手に合わせたくもないのに合わせてしまう」という心の中には、「嫌われたくない」「いい人と思われたい」という自分勝手な気持ちがかならず入っているのでありまして、「合わせてしまって疲れる」「我慢ばかりで疲れる」という人は、被害者みたいな顔をして「我慢しているぼくを褒めて」と言いますけれども、その根っこはやっぱり自分にあるということなんです。これまた厳しく言えば、「しなくてもいい我慢を、あなたはなんでしているんですか?」ということになるんです。あくまで「人のためにする行動」というのは、自分勝手に自主的に主体的にはじめるものなんです。で、イヤになったらやめればいいんです。「あなたがこうしてほしいって言ったからこうしてあげます」というのは押し付けなんです。あー、なんだか今日はうまくまとまりませんが、「我慢しなければならないあなたの心の奥に、 いったいどんな自分勝手な感情を隠しているんですか?」ということを自分に聞いてみたいと思って書いてみました。====================ビジネスマン必見!「潜在能力を120%引き出す『整体の知恵』あなたの中に埋もれた才能を引き出すコツとは?ツイッターもやっています。フェイスブックはこちらからどうぞ♪整体院・整体施術のごあんないはコチラをごらんください。お忙しいところ恐縮ですが、下のバナー↓をポチっと押してくれたら、すごく嬉しいです。ホントに嬉しいです。
2011年02月27日
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おはようございます!大雨です!アメちゃんです!さて、今日のテーマは「スケベ心」です。この言葉は、前回書いた清水克衛さんの商売はノウハウよりも「人情力」に載っていて、ハッとした言葉なんです。ここでいう「スケベ心」というのは、エッチな気持ちのことだけを言うのではありません。「成功したい」とか「モテたい」とか「幸せになりたい」とかいう、「自分が、自分が」の気持ちをスケベ心というのです。ぼくは、ちょっとカッコウをつけて「自我」とか言っていましたが、「スケベ心」のほうが分かりやすいですよね。その反対が「喜ばれる心」ですね。自分をなくして、どうすれば目の前の人が喜んでくれるか、そのことだけを考えていく。自分のことなんて考えるヒマなんてない、という感じですね。「喜ばれる。」ことの大切さに気がついてから、ふと世間を見回してみると、実に多くの人が「スケベ心」によって行動していることがわかります。こないだ変な街の情報サイトから「掲載しませんか?」という営業の電話があったのですが、ずーーっと自分のことばかり話していて、「この人は、営業成績も悪いのだろうなぁ」と思いました。「スケベ心」は誰でも持っているものですが、それが前面に出ている人は、ほとんどみんなうまくいっていません。仕事が人間関係がうまくいかないとき、「スケベ心が全開フルスロットルになっていないかな?」と反省してみるのもいいかもしれませんね♪====================ビジネスマン必見!「潜在能力を120%引き出す『整体の知恵』あなたの中に埋もれた才能を引き出すコツとは?ツイッターもやっています。フェイスブックはこちらからどうぞ♪整体院・整体施術のごあんないはコチラをごらんください。お忙しいところ恐縮ですが、下のバナー↓をポチっと押してくれたら、すごく嬉しいです。ホントに嬉しいです。
2011年02月18日
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こんにちは、尾関です。今日はブログ書きまくりデーです。さて、「うっとうしい」についてちょっと考えてみたいと思います。みなさんは、「うっとうしい」と思うことはありますか?ぼくは、めちゃくちゃあります。根が面倒くさがり屋だからなのか、「うっとうしいわぁ」と思うことが日々あります。「このうっとうしいのが、なくなればいいのに」と思うこともしばしば。うちには「みゅう」というニャンコがいますが、こいつがまたうっとうしいんです。夜にゃーにゃー鳴いてたりするし、あとから食べようと思っていたスルメを勝手に喰ってるし、カベをガリガリ引っかくし、たまらなくうっとうしいんですね。けれども、あぐらをかいているぼくの脚の上で丸まって寝ているときなんて、なんとも言えず可愛いです。せつない表情で足にすがりついてくるのもいじらしくて好きです。けれども、うっとうしいと思うときもある。そうなると、いったいぼくはみゅうのことを好きなのか嫌いなのか分からなくなってしまいます。「ホントの気持ち」ってなんだろうと思ったりします。またパートナーとケンカするときも、バトル白熱中には「もうこんなやつ知らん!」とか思って、うっとうしくて仕方がないのですが、30分くらいすると、「たしかに俺にも悪い部分があったな」とか思って、うっとうしいのがなくなり、仲直りしたりします。そんなことを繰り返していると、仲がいいんだか悪いんだか分からなくなってきます。「うっとうしい」はとても嫌な気分です。けれども「うっとうしい」が全部なくなってしまうと、たぶんさみしいのです。「うっとうしい」を感じている渦中には、「もうすべて放り投げたい」とか思います。けれども本当になくなってしまったら、すごくさみしいのです。「うっとうしい」はだいたい、「関係性」のなかに生まれます。ぼくがいて、あの人がいる。あなたがいて、その人がいる。ぼくがいて、あなたがいる。その関係性というのは「距離が変わらない」というのが快適だったりするわけです。男女の友情関係は、一方が距離をつめようとするからおかしくなるのです。(だから男女の友情というのは、たいてい片方が 距離を詰めたい気持ちを理性でおさえながら続いていくのです)「うっとうしい」はその距離感を保つための面倒くささなのです。だから「うっとうしい」をなくすことは、関係性をなくしてしまうことになります。たぶんぼくらが「うっとうしい」をすべて排斥してしまったら、とてもドライで、何の幸福もない世界になるでしょう。ですから「うっとうしい」をなくそうとしないほうがいいのかもしれません。ぼくらは本当に嫌いな人に関しては、「うっとうしい」ということを感じません。「うっとうしい」は幸福の種。その相手との距離がピタッと定まれば、またきっと満ち足りた気分になれます。「うっとうしい」と思う以上、ぼくらはその対象との関係性がよくなる可能性があるのです。「うっとうしい」はきっと人間にとって大切な感情なのです。====================ビジネスマン必見!「潜在能力を120%引き出す『整体の知恵』あなたの中に埋もれた才能を引き出すコツとは?ツイッターもやっています。フェイスブックはこちらからどうぞ♪整体院・整体施術のごあんないはコチラをごらんください。お忙しいところ恐縮ですが、下のバナー↓をポチっと押してくれたら、すごく嬉しいです。ホントに嬉しいです。
2011年01月23日
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こんちには、尾関です。こんにちは、大寒です。さて、今日のテーマは「将来の不安を30%減らす考え方」マイナス思考のあなたが、心配をちょこっと減らす考え方について考えていきましょう♪ぼくらはよく「あーゆーふうにはなりたくないよね」という言い方をします。これはだいたい、年下の人が年上の人に言う言葉です。28歳のぼくが、小学生を見て、「あーゆーふうにはなりたくないよね」と言っていたらおかしいですね。「あーゆーふうにはなりたくないよね」と似たような意味を持つフレーズで、「あーなったらおしまいだね」という言い方もあります。たしかに、「あんなふうにはなりたくないなぁ」と思うオトナに出会うことはあります。けれども、その心をよくよく覗いてみてください。自分の中に、どんな価値観や考え方があるでしょうか?たとえばボロボロの服を着ている人を見て、「あーなったらおしまいだよね」と思った場合には、「キレイな服の人は立派で、ボロボロの服の人は汚い」という価値観が自分のなかにあることがわかります。しかし、人間の価値というのは、着ている洋服で決まるものでしょうか?また「おしまい」と言っていますが、何がおしまいなのでしょうか?人間死なない限り「おしまい」ではありません。松下幸之助さんは「いつでも100万通り方法はある」と言ったそうですが、「考える」ということをやめないかぎり、選択肢は無限にあるものです。ほんとうに「あーなったらおしまい」なのでしょうか?そうではないということを、たぶんみなさん知っています。けれどもそのことをすっかり忘れて、「あーなったらおしまいだよね」ということを思ってしまうのです。それから性格の面でも、お金にあざとい人やずるい人、自己中心的な人を見ると、「あーゆーふうにはなりたくない」と言ってみたりします。けれども、お金が欲しくない人はいるでしょうか?ズルイ心がない人はいるでしょうか?自分は自己中でなく、他人のことを第一に考えて行動していると胸を張れるでしょうか?そうやって考えていくと、なかなか「あーゆーふうにはなりたくない」とか「あーなったらおしまいだ」なんていう言葉で、誰かを見下したり、さげすんだりすることはできなくなると思うのです。「あんなふうになりたいな」なら分かるけれども、「あーゆーふうになりたくない」というのは余計なのです。「あーゆーふうになりたくない」は軽蔑です。そして人を軽蔑する人は、バカにされることを最も恐れている人です。バカにされることを恐れるがゆえに、誰かをさげすみ、おとしめることで、相対的に自分の価値をあげようと、必死の努力をしているのです。しかし、誰かの価値をさげようと画策してみても、けっして自分の価値があがることはありません。むしろ「人の価値を下げようとする人の価値は下がる」というのが世の常で、「あの人は悪口ばっかり言っている」という悪評が立つのが関の山です。逆に「あーゆーふうになりたくない」を自分の心から減らしていくと、「あーでもいいんだ」「こーでもいいんだ」という「肯定の心」が広がってきて、非常に安寧な気持ちになってきます。心が安定してきます。「あーなったら嫌だ」というのは不安なんです。それを「あれもOK」「これもOK」というふうにとらえるようにしていくと、安心が心に広がっていくのは当然の結果ですよね。このように「あーゆーふうにはなりたくないよね」を減らしていくのは他人のためではなくて自分のためなのです。他人をゆるしていくのは、相手のためではなくて、自分のためなんです。だからこそ、「あーゆーふうにはなりたくないよね」をちょっとずつでも減らしていけば、きっと心に幸せが広がっていくということなんです。====================ビジネスマン必見!「潜在能力を120%引き出す『整体の知恵』あなたの中に埋もれた才能を引き出すコツとは?ツイッターもやっています。フェイスブックはこちらからどうぞ♪整体院・整体施術のごあんないはコチラをごらんください。お忙しいところ恐縮ですが、下のバナー↓をポチっと押してくれたら、すごく嬉しいです。ホントに嬉しいです。
2011年01月20日
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つくづく思うことは、「自分の心の傷から目をそらして、外側ばかりをどれだけ一生懸命かためてもダメだ」ということです。心の傷に目を向けないで、「努力」や「勉強」に依存している人もいる。「努力」や「勉強」によって、お金や名誉を得ることができれば、もっと満たされるのではないか。不安がなくなり、自信がつくのではないか。そんなことを思うのだけれど、なかなかそうはいかない。どこまでいっても、何かが足りないような気がする。それはきっと、何から「逃げている」からなんですね。その「何か」というのは、一般的にコンプレックスと呼ばれているもので、そのことを指摘されるとプッチンと切れてしまいそうになる事柄です。ぼくは、自分がそういう何かを持っていることに気がつき、一生懸命に自分の心を探ってみたけれど、でもまだ、解明されたという感じがしない。ぼくは何かから逃げている。そんな気がしているのです。先般、100人以上が集まった、大規模な高校の同窓会がありました。ぼくは、俗に言う「大学デビュー」というやつでして、高校のころは地味でした。大学に入って垢抜けたいなぁと思い、洋服をたくさん買うようになりました。はじめて髪を染めてみたり、アクセサリーを買ってみたりもしました。あとは自分の性格も変えたくて、行動や言動を高校のころとは変えようと努力していました。まぁ、言ってもそんなに派手にはなりませんでしたが、なんとか「マジメ」という評価から抜け出したいと思っていたのです。今思えば、ぼくは「フマジメ」を演じていました。そのせいか、高校の同級生に駅などで会うと、「変わったね」と言われることが多くなりました。実際に人間関係もラクになったり、なんとなく自分が自分であるような感じを取り戻したりで、「ああ、自分を変えることができたんだなぁ」と思っていました。ところがどっこい、不思議なものですね、高校の同級生に会うと、自分が戻ってしまうのです。せっかく「変わった」のだから、「変わった自分でみんなに会いたい」と思うのですがダメなのです。なぜか昔の自分に戻っているのです。それはちょっと嫌な感じでした。そうしたら、「いったいぼくは何が変わって、 何が変わっていなかったのだろう」と思いました。「もしかしたら変わったのは環境だけで、自分自身は変わっていなかったのかもしれない」そんな思いにかられました。でも、やっぱりそうなのです。たとえば人間関係がこじれたとき、「ここではないどこか」へ行ってしまえば、問題は見えなくなります。まるで「解決した」かのように思えるでしょう。けれども問題は残っているのですね。けして消えていない。またどこかで同じような形で出てくる。もしくは環境が戻れば出てくる。だから、「ここ」で起きた問題は「ここ」でしか解決できないのです。逃げちゃダメなんだと、あらためて思い知らされました。「次の場所にいったらうまくやろう」というのは通用しないのです。それは、「いつでも問題は自分が抱えている」からです。どんな問題も、「あの人のせい」ではなくて「自分のせい」なんです。心の傷というのは目に見えません。だけどその傷は癒されたいと願っている。だからそれが一旦、目に見える形になる必要があるのです。その「目に見える形」というのが、人間関係や仕事や恋愛や健康上の問題ということなのですね。だからこそ、問題が起こるというのはチャンスなのです。目に見えないから癒せなかった心の傷が、目に見える問題、つまり解決できる問題として浮かび上がってきたのです。だから、なにか問題が起こるというのはとってもありがたいことなんですね。ガスコンロについた汚れも浮かせて落としますが、心の問題も一度、浮かび上がらせてから癒せばよいのです。そして問題が起こるたびに、「お、今度はどんな傷を癒すことができるだろう?」そう自問していくと、いろんなトラブルを乗り越えるのが愉しくなると思います。とまぁ、そんな心がけで2011年を走り抜けたいと思います。今年もどうぞよろしくお願いいたします。==========================こちらもご覧ください。「ビジネスに使える整体の知恵」ツイッターはこちらからどうぞ。整体施術・整体院の案内はこちら。
2011年01月02日
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「あなたは親切な人ですか?」と聞かれて「はい」と答える人はなかなかいないでしょう。多くの人は「いいえ、私は親切ではありません」と答えるはずです。そういった認識があるからか、「親切にしよう」とか「親切にしたいな」「親切にしなきゃな」と考えている人もまた多いと思います。といっても、親切っていったい何なんでしょうか?ぼくらは、誰かに親切にしようとして、何かをあげようと思うことがあります。プレゼントをしたり、料理を作ってあげたり、レストランに連れて行ったり、肩を揉んであげたりすると思います。けれどもそれが相手の要望に適っていないと、相手から思ったような反応が得られないことがあります。自分としては、相手はもっと喜んでくれると思ったけれども、どうもそれほど相手は嬉しそうでない。そういう場合が結構あります。たしかに予想以上に喜んでもらえる場合もありますが、「親切にしよう」と気合を入れたときほど、拍子抜けの反応をいただくのは不思議なものです。そうなると悲しみを通り越して、怒りになってしまうことがあります。「なんで、喜ばないんだよっ」という本末転倒な怒り。「せっかく一生懸命考えたのに」という押し付け。こうなってしまうと、親切にしないほうがよかったということになります。というか、「親切にしよう」という気持ちの根っこに「親切にして好かれたい」とか「親切にしてよく思われたい」という期待の下心があったということを白状しまったということなのです。そういうのは親切ではなくて、親切にしている「つもり」なのです。ツモリチサトなのです。整体をやっていて日々実感していますが、相手の心に添う、相手の欲求に合わせる、相手の要望に適う言動をする、というのがいかに難しいか。理論としては、自我をなくせばいいわけです。「自分が」をなくして「相手は」にしていく。そんなこたぁ、わかっているわけです。けれどもなかなか自我はなくならない。「ぼくがあなたにこうしてあげたい」というのは、優しさっぽいけれども、本当は押し付けです。「あなたの願いにかなう通りにいたしましょう」というのが相手に寄り添うということです。しかもその「願い」というのはほとんどの場合、声なき声であり、言葉以前の気持ちなのです。相手の言葉に寄り添うのは、言われるがままにすればよいのでけっこうカンタンです。けれども言葉以前の本心となると、それをつかむのは難しい。相手のモノゴトの捉え方(感受性)とモノゴトの表現の仕方を見ていかないと、本心というのは見えてこないのです。これがわかるには、もう修行しかないですね。「親切にしているつもり」から、「ほんとうの親切」を見出すまで、いったいどのくらいの時間がかかるのでしょうか。でも、がんばってみます。
2010年12月21日
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自分の中には、いろんな自分が住んでいるんだなぁと思う。やたらと意欲に満ちて、仕事をバリバリやる気の自分。やっぱりのんびりしたいとも思う自分。おそろしいほど計算高く、冷徹な自分。損得を忘れて行動してしまう自分。周りのみんなが偉く見えてしまう自分。怖いものがないように思う自分。何もかもが怖く感じる自分。「特別」でありたい自分。孤独を嫌がる自分。カッコよく見せたい自分。けれども本当の自分を知ってもらいたい自分。あまりにも色んな自分が住んでいて、時々わからなくなってしまう。「いったい僕は誰なんだろう?」そう思うときもある。けれども、「まぁ、いろんな自分がいていいんだな」と思っている自分もいる。そしてきっと、ぼく以外のみんなも、「いろんな自分」を抱えているのかもしれない。だから、「あの人は○○な人だ」と決め付けてしまうと、たぶんあんまりオイシクないんだろう。自分もそう。「自分は強い」とか「自分は弱い」とかそんな単純に決められないんだよね。「そういう部分もあるよね」って言うのが精一杯で。なまけちゃう自分とか、ズルイ自分とか、折れそうになる自分とか、そんな「捨てたくなっちゃう自分」もさ、どうしたってそれも自分なんだろう。目を背けたくなるんだけど、やっぱり自分だから、逃げられはしないんだよね。ぼくらは阿修羅みたいに色んな顔があって、それが順番に出てくる。その度に、その顔に合わせて、笑顔で「こんにちは」って言えたら、それでいいのかもしれないな。自分にもあの人にも、いろんな顔に「こんにちは」。ちょっと今日からやってみよっと♪
2010年12月05日
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【前回までのあらすじ】大事な選択を間違えないためには「本能で選ぶ」ことが大切だった!そして本能で選ぶコツは、「シンプルに考えて、頭を空っぽにする」こと。では、「シンプルに考える秘策」とは?=======キリトリ線==========「シンプルに考えるってなんだろう」って考えたとき、その答えは「馬鹿になる」ことなんです。人は、頭が良すぎるから迷う。頭を使いすぎるから、余計なことを考える。馬鹿になれば、迷いません。馬鹿になれば、シンプルにしか考えることができない。馬鹿になって考えるには、馬鹿になること・馬鹿であることを怖れないことです。馬鹿になるとは、自分の愚かさに静かに気がつくことです。自慢も嘆きもしないで淡々と、自分が馬鹿であることを受け入れる。馬鹿になると、「ほしいもの」「やりたいこと」がありありとビビッドに見えてきます。「ほしいものがほしい」「やりたいことがやりたい」単純明快、シンプルな馬鹿です。でも、現実にはそうならない。それは見栄とか体裁とか、「見せたい心」があるからなんです。「本当はあの仕事がしたい。けど給料が安い」「本当は彼が好き。けど給料が安い」「本当はあれがほしい。けどみんなから笑われる」シンプルに考えるというのは「本当は○○。」で終わらせてしまうことなんです。「けど」のあとの部分を切り捨ててしまうことなんです。ぼくらは勇気がないから、言い訳が大好きです。「勇気がない」と言う勇気すらない人もいる。一生懸命、言い訳ばかり繰り返している。やりたいことがあったら、「けど」を捨ててしまえばいいんです。「やりたいから、やる」「ほしいものは、手に入れる」「好きな人に、好きと伝える」それがシンプルということです。「けど」と言い訳ばかり繰り返す人を「バカ」と言います。欲しいもの・やりたいことを単純明快に追い求める人を馬鹿と言います。やりたくないことやって後悔しているのはどっちの「ばか」でしょう?シンプルに楽しく、ラクでスッキリ生きているのはどっちの「ばか」でしょう?あなたは、どっちの「ばか」になりたいですか?そりゃあ「馬鹿」になりたいですよね。「本当は○○」だけの本能で愉しく生きれたら、どんなにか気持ちいいことでしょう?けれどもなかなか現代ではそうはいかない。見栄や体裁はもちろん、感情や理性をゼロにするなんてことは、人間にはできっこないのです。「じゃあ、どうすればいいの?」と思うかもしれません。けれども面白いことに、ここに「馬鹿に生きる」ことの凄さがあるのです。「馬鹿である」ということは、感情や理性に振り回されることも含んでいるのです。だから「馬鹿」なのです。「それでいい」のです。馬鹿なんだから、ちょっとくらい感情や理性に振り回されることもあります。馬鹿なんだから、感情や理性をゼロにはできません。でも、それでいいんです。だって・・・ ・・・馬鹿だもの。大切なのは、「感情や理性に振り回されている」という気づきなのですね。はい、また出てきました、ぼくの大好きな「気づき」。感情や理性にとらわれてもいい。むしろ、それが人間なのです。けれども、ぼくらは感情や理性にとらわれる存在なのだ、という事実を忘れてはいけないよ、ということなのです。それはまさに「自分と他人をゆるす」という発想です。それが「俺は頭がいい。すくなくとも馬鹿ではない」と思ってしまうと、どうしても人を責める発想がなくなりません。「あの人のこれを直したい」「あの人たちが変わればいい」自分は完璧ではないにせよ、まあ「正しい側にいるのだ、という思想が根底にある限り、他人を変えようという考え方は変わりません。そうではなくて、自分を馬鹿だと認めてしまう。馬鹿な自分をゆるしてしまう。馬鹿に生きるということを受け入れる。「ぼくは馬鹿だ。感情や理性にとらわれる人間だ。 だからあなたをゆるそう。あなたも同じ人間だから」それが心の平安なのです。間違ったっていい。つまづいたっていい。だってぼくは馬鹿だから。あなたがつまづいたときには、手を差し伸べよう。ぼくは馬鹿だけど、できることならなんでもするよ。そういうスタンスが、自分と他人の心の平和をつむいでゆきます。そうすると、不思議と間違うことが少なくなるのですね。それは心がリラックスしているからです。見栄や体裁の「鎧」を脱いで、本能がむき出しになってくる。「やりたいこと」「ほしいもの」が明確になってくる。だから、間違えにくい。よい選択ができる。「馬鹿に生きる」というのはそういった構造になっているのです。どうです、すごいでしょう?「馬鹿に生きる」ということは、自動的に幸せになるシステムなのです。シンプルでいいんです。「好きな人と一緒にいたい。ひとつになりたい」「あれがほしい。これがほしい」「あれがやりたい」そんな欲望をなくさないで、隠さないで、本能に素直になっていいんです。どんなに立派と言われる人間も最終的には「ばか」なんです。人間は「ばか」からは逃れられない。そのことへの気づき。「自分は馬鹿なのだ。それでいいのだ」そこに集約していくのが、シンプルなんだと思うのです。超長くなってしまいました。最後まで読んでくれたあなた、ありがとうございました。今回の参考文献親鸞「イヤな自分」を克服する本般若心経入門 2010年 12月号 [雑誌]
2010年12月02日
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「愛されて幸せになりたい!」女性なら、一度は思ったことがあるのではないでしょうか。「でも、どうやったら愛されて幸せになれるんじゃい!」と叫んでしまったこともあるかもしれません。しかし、その答えはカンタンで、魅力的な女性になればよいのです。魅力的な女性になれば、何をしなくても男が群がってきます。そして愛され、「追われる女」になれます。では、どうやって魅力的な女性になるのか?そのカンタンな方法は「言葉を変える」ということなんです。顔はそうカンタンに変えられないし、スタイルをよくするにも一朝一夕ではかないません。そうなると、今日からできるのは言葉を変え、会話を変えることです。とはいえ、どういうふうに会話を変えれば、魅力的になれるのでしょうか。ここでは3つのステップを踏んでみましょう。1:愚痴を言わない女子会で愚痴を言い合うのは良いと思います。先にも書いたとおり、女性は共感のコミュニケーションが得意ですから、愚痴を言ったり言われたりで、見事にストレス解消できます。しかし男子にとっては愚痴は苦痛のタネであります。「気がある人」の愚痴を聴くのはやぶさかではありませんが、特に興味のない人から愚痴を聞かされると、興味がなおさらなくなるどころか、むしろ嫌いになります。やたらと可愛らしい人以外は、「同情してもらって気を引く」ことはできないと心得ましょう。2:問題解決思考を身につける。つらい時くるしい時、女性はその「気持ち」をなんとかするのが得意です。けれどもえてして、その「状況」をなんとかするのは苦手のように見受けられます。ハッキリ言って、ある状況を解決するのは男のほうが得意です。そのことを認めたうえで、自分でも問題解決思考をしていくように心がけます。いつも「つらい・・・」と言っていた人は、「このつらさを、どうすれば解決できるだろう?」というふうに言い換えます。「さみしい・・・」と思う人は、「このさみしさは、どのような思考から生まれたのだろう? どうやって、このさみしさを癒そうか」というふうに考えてみます。そういう考え方を「理屈っぽくてイヤだな・・・」と思うかもしれません。しかし、これが男の問題解決思考なのです。自分の殻を壊して、新しい思考法にチャレンジすることで、新しい視点が手に入るかもしれません。それに、問題解決思考が身につけば、オトコの気持ちが手に取るように分かるようになります。「つらいのよ」「つらいよねー」で終わらせない。「じゃぁ、それをどう解決する?」「どうやれば、この状況を打開できる?」そういった質問を繰り返すうちに、問題解決思考が身についてきます。3:オトコに頼ってみる男というのはわがままなもので、ある程度、自立している女性が好きですが、あまりに自立していて頼られることがないと、それはそれで興味を失ってしまうのです。男は女性に甘えられ、頼られることで自分自身の存在価値を確認します。ここで、さきほど身につけた問題解決思考を活かします。本当は「気持ちをわかってもらいたい」かもしれませんが、そういったエゴはすこし置いておいて、あえて問題解決的に、男に相談してみます。「これって、どうすればいいと思う?」「これをなんとかしたいんだけど、何がいいと思う?」そうやって意見を請います。そうしたら多くの男は喜んでアドバイスをしてくれるはずです。男というのは、女に何かを教えるのが大好きなのですね。要は、その「教えたい欲求」を十分に刺激してあげるわけです。そしてそのアドバイスを一切否定しないで、聞きに徹します。それで最後に「ありがと。すごく役に立ったよ。さすがだね」というセリフを上目遣いで言います。これで男は落ちます(笑)ちょっとまとめてみましょう。<アラサー専用「愛され会話テク」>1:愚痴を言わない。「気持ち」の問題から「状況」の問題に視点をシフトします。フォーカスするポイントを移動します。2:問題解決思考を身につける。具体的には「質問の仕方」を変えることです。「どうすればできる?」「どうすればよくなる?」基本的にはこの2つが何にでも使えます。3:オトコに頼ってみる。男の「教えたい欲求」をビンビン刺激します。最後は上目遣いで、ドキュンと落とします(笑)どうですか?カンタンですね?ぜひ今日から使ってみてください。きっと効果覿面です♪
2010年11月13日
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【前回までのあらすじ】相手の感情に具体的に共感する技術、ひとつめのコツは、1:相手の話を無視(スルー)するであった・・・。はたして、「2:相手の感情をまとめる」とは?=========================相手に具体的に共感するためには、相手の感情を読まねばなりません。そのためには、話を聞き流しながら、相手の「話の落としどころ」を探っていきます。「~でね、~でね、~でね」に合わせて、「うん、うんうん、なるほど、ほぉほぉ、それで?」と相づちを打っていきます。そうすると、次第に話が興に乗ってきて、感情があらわになってきます。もうそうなればこっちのものです。そもそも、人間の感情の種類はそんなに多くありません。嬉しい、悲しい、恥ずかしい、悔しい、楽しい、怒っている、もどかしい、さみしい、怖い・・・。まぁ、だいたいそれくらいに分ければ、十分に「共感」できます。あらわになってきた感情を読みます。もしくは相手が「~で不安なの」とか「~で、嬉しいんだ」とか自分で言ってくれます。そうしたら、それをオウム返しにするんですね。オウム返しの技術は、NLPではバックトラッキングと呼ばれ、多用されます。ここで、面白いのは話の内容をオウム返しにするのではなく、「感情をオウム返しにする」ところなんですね。ここは大切なポイントですからもう一度言います。「感情をオウム返しにする」んです。それこそが「感情を具体的に共感する技術」なんですね。ガーっと話をしてくる。その大元となっている感情をグッとつかみ出す。それで相手はスッキリする。「わかってくれた」と思って安心する。コミュニケーションが上手くいかない人は、それがまったく逆になっている。話のコンテンツという表面しか見られない。コンテンツを聞いて最後に、「で?」と聞いてしまう。そうではなくて、コンテンツを聞き流して、そのコンテンツを話したい!という動機となっている感情を掴みだすのです。この方法は、ちょっと読むと面倒くさそうですが、ほんとうは面倒くさがりのあなたにこそピッタリの方法なんです。なぜなら、「話を聞かなくていい」からです。最後の最後に浮かび上がってくる「感情」というツボだけを押さえればいいわけですから、精神的にも非常にラクなコミュニケーションなんですね。ただ、とくに男の場合、こういったコミュニケーションはしない人が多いですから、いざやってみるとなると、ある程度、自分を変える勇気が必要になってきます。けれども、一度やってみればきっとヤミツキになるはずです。なぜなら、自分も相手もキモチイイからです。共感のコミュニケーションをやっても、誰も傷つきません。それどころか、みんなが愉しく、嬉しい気分になれると思います。ぜひ、実践してみてください♪
2010年11月13日
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オンナを落とすキーワードは「共感」だ!!=======================実は最近、自分としてはすごい発見をいたしまして、それは「共感する」ということなのです。以前から、「オトコは問題解決思考、オンナは共感思考だ」と知ってはいたのですが、それを実践に活かせていなかったのですね。「共感する」ということが具体的に実感できなくて、知識が知識のままになってしまっていたのですね。「共感するって何やねん?! 『わかってあげる』って何やねん?! どうすればオンナゴコロを掴めるんじゃー」ともどかしく思っていたのです。それが、ここ最近になって、ある「ひらめき」を得てから、ずいぶんと人の気持ちが分かるようになって、コミュニケーションが楽になりました。その秘訣とは、「相手の感情にフォーカスする」ということです。そう、フォーカスです。あのサイゼリヤの激安メニューの「フォッカチオ」ではありません。フォーカス=焦点を合わせる、ですね。ただ、「相手の感情にフォーカスする」なんてことはコミュニケーション本を読めばどこにでも書いてあるわけです。ですからこのブログでは、「相手の感情にフォーカスして共感する、具体的な技術」についてお話したいと思います。これを知って、練習のうえに実践すれば、今日からあなたもモテモテになること請け合いです(?)では、一体どのようにして「相手の感情に具体的に共感する」のでしょうか?そのためには、たった二つのことを実践すれば良いのです。その二つとは・・・1:相手の話を無視する2:相手の感情をまとめるなのです。以下に説明をしていきます。【1:相手の話を無視する。】これは、相手の話の内容・コンテンツをスルーしてしまうということです。もちろん、完全に無視してしまうと相手は話す気がなくなりますから、あいづちを打ったりして、話を続けてもらいます。ただ、内容の詳細に関してはほとんど右から左に流すというところが肝要です。女性の話は、統計的に見て、「1割が論理的、9割は直感的」です。(尾関白書2010より)カンタンに言えば「内容はどうでもいい」のです。いちばん大切にしているのは「感情」なのです。ですから論理など、なおさらどうでもいいのですね。しかし、男は論理思考が得意ですから、女性の会話の論理が破綻した部分が気になって仕方がない、のですね。でも、男の真価が問われるのはココなんです。論理的でないトークをどこまで受け入れることができるか。許容できるか。それが「男の器」であります。いちいち間違いを指摘したり、解決思考でアドバイスしたりするのは「ちっちゃい男」なのです。男はだまって聞き流し!しかし、それだけではなかなか女性は納得しないのです。そこで、第2のポイント【相手の感情をまとめる】ということが大切になってきます。<続く>
2010年11月13日
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【前回までのあらすじ】「才能を開花させるための5つのステップ」【ステップ1】あきらめる【ステップ2】あきらめない【ステップ3】心を傷つける【ステップ4】肚を決めるついに明かされる最終段階、【ステップ5】とは?!=========================【ステップ5】 自分の見積もりを高くする自分の見積もりを高くする、というのはどういうことでしょうか。ぼくは「自分がバカであると気づき、そして自分がバカではないと気づく」ということだと思っています。どっちやねん!と、まぁそうなりますよね。まず「自分がバカであると気づく」というのは、自分は見えていない。世界が多角的・立体的に見えていない。自分に気づいていない。将来は見えない。そういうことに気づくということであります。要は、「世界は分からないことだらけである」という事実に気づくということです。「この世界のことなど、ほとんど何もわからないのだ。自分はバカでちっぽけな存在なのだ」ということに気がつくことが大切だとぼくは思います。そしてその気づきはまた「自分はバカではない」という気づきにつながります。なぜなら、「自分ではわからない」からです。つまり「自分がバカかどうか、誰にも分からない」ということなんです。「わからない」のだから、自分で決め付けてしまえばよいのです。その決め付けというのは恣意的に、つまり勝手に行ってよいのです。どのように決め付けようと自由なのです。それだったら、せっかくですから「自分に嬉しい決め付け」をしたいですよね。「ぼくはバカだ・・・」よりも「ぼくは天才だ」のほうが嬉しいです。「俺はダメだ」よりも「俺はすばらしい」のほうが嬉しいです。決め付けをするときには、まったく自分勝手にやるというよりは社会の幸福の総量が増えるように決め付けるとみんなが嬉しい気持ちになります。地球にやさしい決めつけをしたほうがいいんじゃないですか、ということです。言葉は悪いですが、バカな人は自分がバカだと決め付けています。もう、死ぬほどもったいないですよね。誰かにそう洗脳されただけなのに、一生それを忠実に守ってしまうのです。それほどまでに、「自分を変える」というのは難しいことであり、痛みを伴うことであり、勇気のいることなのです。自分を変えるくらいな貧乏のままでいい!自分を変えるくらいならモテないままでいい!自分を変えるくらいなら、太ったままでいい!自分を変えるくらいなら、病気のままでいい!自分を変えるくらいなら、バカのままでいい!そうは口に出さずとも、潜在意識でそう考えている人は多いのです。ぼくの師匠が「守りに入った人間は弱い」と言っていましたが、けだし名言であります。自分を低く見積もってはいかんのです。みずから可能性を捨ててしまっているのです。だから努力をしない。いつでも「どうせ」という言葉で開けられる扉の前にたたずんでいる。もちろんそういう自分に満足しているのならそれでよいのです。けれども自分を変えようとしない人に限って、愚痴が多いということがあります。それは社会全体の害ですね。「自分」を決めているのは自分です。「自分」を規定しているのは自分です。「自分」の枠にとらわれているのは自分です。「自分」の壁を越えられるのは自分だけです。「自分」のセルフイメージを作るのは自分です。「自分」の洗脳を解くのは自分です。自分を高く見積もってあげてください。自分に期待してあげてください。自分の可能性をせばめないでください。どんなせまい隙間からも、希望の光が漏れてきます。その隙間をこじあけるのは、あなたなんです。きっと、できます。ともに、やりぬきましょう!!さて、ついつい「5つのステップ」なんて言ってしまったために大変長いシリーズになってしまいました。今後はせめて3つのステップくらいにしておきます。お楽しみいただけましたでしょうか?それではまた明日から、よろしくお願いします。整体治療家 尾関直人
2010年11月09日
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【前回までのあらすじ】才能を開花させる5つのステップステップ1:あきらめるできることをできないことを見極める!ステップ2:あきらめない一度決めたらあきらめない!ステップ3:心を傷つける「ココロの膿」を出し切って、自分の本心に気づく!そして【ステップ4】は・・・============================【ステップ4】 肚(はら)を決める肚を決めるというのは、覚悟を決めるということです。覚悟を決めるというのは、決断するということです。「やる!」と決心することです。肚を決めると、自分に芯が出てきます。「ぶれない軸」を持つことができるようになります。その軸でもって、「できるかできないか」から「やるかやらないか」に変えていきます。「できる/できない」と「やる/やらない」というのは、本当に大きな違いがあるんです。どう違うかわかりますか?「できる/できない」というのは環境に依存した言い方ですね。それに対して、「やる/やらない」というのは、自分で決められることです。ぼくが大切だと思っているのは「自分で決められることを自分で決める」ということです。そして、「自分で決められないことにヤキモキしない」ということです。これは非常にシンプルで強力な法則だと考えています。たとえば、「今日の晩御飯に何を食べるか」ということは自分で決めることができます。けれども「あの人が今晩なにを食べるか」ということを決めることはできません。また「あの人にプレゼントをあげる」ということは自分で決めることができますが、「あの人がプレゼントをくれるかどうか」ということを決めることはできません。すべてにおいてそうです。操作できるのは、自分の行動だけであって、相手の気持ちや行動を決めることはできないのです。その法則に反して苦しんでいる人はけっこう多いように思います。相手を変えようとして苦しむ。その逆に、自分で決められるのに自分で決めようとせずに苦しむ。どちらもあると思います。「今日の晩御飯は、何を食べればいいの?」そう聞くと滑稽ですが、毎日の生活の中で、それと同じような質問をしてしまうことはよくあります。そして自分でカレーを用意しておいて、「ほんとうはシチューが食べたかった」と言っている人もいます。「なんであの人はシチューなの?いいなぁ。」と。けれどもあなたはカレーを準備したんです。ニンジンを切って、玉ねぎを炒め、ジャガイモを煮込んで、そこまでは同じだった。けれどもあなたはカレーのルーを用意した。そしてあの人はシチューのルーを準備した。だからあなたはカレーを食べて、あの人はシチューを食べているんです。シチューが食べたければ、シチューの準備をすればいいのです。漫然となんとなーくカレーのルーを鍋に入れてしまって、「なんでカレーが完成したんだろう?」と悩んでいる人をけっこう見かけます。だ、け、ど。「テメーが作ったカレーは自分で食いやがれ! そして自分のケツは自分で拭きやがれ」という話になってしまうんですね。やっぱり「覚悟」なんですよね。「肚を決める」ということです。「自分の人生は自分で決めてきた。 これからも決めていく」という決心です。その覚悟で軸ができる。その「軸」こそが才能を開花させるカギとなるのです。さあ、それでは最後の【ステップ5】にいきましょう。<続く>
2010年11月09日
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【前回までのあらすじ】「才能を開花させる5つのステップ」その1は「あきらめる」自分の才能を見極めることが大事なのでした・その2は「あきらめない」一度決めたら、その道を邁進する!そしてステップ3は・・・=========================【ステップ3】心を傷つけるいつも「自分で自分を傷つけるな」と言っているぼくが、こんなことを言うと驚かれるかもしれません。しかし、才能を開花させるには、どうしても「自分の心を傷つける」という作業が必要なのです。なんでそんなことをするかというと、「ココロの膿(うみ)」を出すためですね。ふつうに生活していると、どうしても心に「膿」がたまってきます。それは「やりたいことを100%やりきっている」という人がいないからですね。みんな社会の波に飲まれながら、我慢したり、抑制したりして生きています。そんな中で、「心の奥の奥の大切な何か」をどうしても忘れがちなんです。ぼくは「ほんとうにやりたいこと」「ほんとうにほしいもの」と言っていますが、それを掘り出し、探り出すために「ココロの膿を出す」ことが大切なのです。ココロの膿を出すのは、とても痛いですね。まさに吹き出物をプチュっとやって、中の膿を出す感じです。心に傷をつけてはじめて、中の膿がドバっと出てきます。とはいえ、「ココロの膿」は目には見えません。じゃあ一体どんな形であらわれてくるかというと、それが「コンプレックス」なのです。ここでは劣等感という意味で使います。吉川晃司と布袋寅泰だけでなく、誰もがコンプレックスを持っています。コンプレックスを刺激されると、感情が沸き起こります。それは「落ち込み」だったり、「怒り」だったり「嫉妬」だったりします。たいていは「嫌な感情」が吹き出ます。それは心が傷つけられてピュッと出てきた、「ココロの膿」なのです。ほとんどの人は、それを「汚い」と言って嫌がりますね。「なぜあなたは私を傷つけるの?」という疑問系で相手を責めたりもします。「あいつは思いやりがない」とか「他人の気持ちを考えてない」とかまぁ色々な理由をつけて自分を守り、相手を責めます。でも、ほんとうは目の前の相手があなたの「ココロの膿」を出してくれただけなのです。マクロに見ると、あなたが自分自身でココロの膿を出す能力がない、心を痛めながらも自分の本心に気づく勇気がない、と相手が判断して、あなたの心をグサッと一突きにしてくれたのです。だから傷つけられてヘコまされて、嫌な気分にさせられる、というのは非常に貴重な経験なのです。あとは、その経験をどう活かすか、ということなんですね。自分で自分の心を傷つけようと思っても、それは難しいですよ。人はどうしても「自分の心」を守りたいのです。「自分の心の奥底」を見るということほど、痛みを伴う作業はありません。だけど、「ほんとうの幸せ」をつかむためには、「やるしかない」んですね。なぜなら、「自分の心の奥底」の気持ちをかなえてあげることが、「自分を大切にし、ほんとうの幸せを見つける」ことだからです。たしかに「傷つく」ということは嫌です。ぼくも嫌いです。けれども本気で幸せを見つけるには「やるしかない」んですね。もちろん「心の奥の気持ち」をしまいこんで、おさえこんで、我慢して生きるのもそれも人生です。選択はいつでも自由なんです。あとはそこに「責任を持つ」ということですね。というわけで【ステップ4】は「肚を決める」です。
2010年11月08日
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【前回までのあらすじ】才能を開花させるステップ1は「あきらめる」であった。しかしステップ2は「あきらめない」。その真意やいかに?!==========================【才能を開花させるステップ2】 「あきらめない」「あきらめる」の語源は「明らかに究める」、つまり、「ハッキリさせる」ということらしいのです。ですから「才能をあきらめる」というのは、「自分の才能を見極める/ハッキリさせる」ということに他ならないんです。「人間は9つが短所で1つ長所がある」とはボクの持論です。その「ひとつの長所」を見極めて、それを伸ばしていけばいいんだという考えなのです。では、どうやって「長所をあきらめる(ハッキリさせる)」のでしょうか。実はこれ、自分で決めていいんです。むしろ、自分で決めなきゃいけないんです。「俺はこれが長所なんだ。こういう才能があるんだ。だからそれを活かして社会に貢献するんだ」というように覚悟を決めるわけです。「やるぞ」と自分に意思表明するんです。で、遅くなりましたがここで、「あきらめない」が出てくるんです。いったん決めたら、もはやあきらめてはなりません。もうあとは、「やる」しか道はないのです。「あきらめないこと」の効用は思ったよりも多くて、はじめは高すぎて突破できないと思われていた壁も、毎日毎日ちょっとずつ上っていくことでいつのまにか超えることができたりします。とにかく「いったん肚を決めたらあきらめない」。がむしゃらにやり続けることで、道が開けてきます。それでは【ステップ3】にまいりましょう。【ステップ3】は「心を傷つける」です。<続く>
2010年11月07日
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【前回までのあらすじ】誰にでも個性はある。だからこそ、努力して個性を磨くことが大事なのだった。では個性をピカピカにして才能を開花させる5つのステップとは?========================ぼくは「個性を磨く」ということは「自分を知る」「自分になる」「自分を生きる」ということだと思うんですね。そしてそれはそのまま、「社会の役に立つ」ことであり、「生きる意味を知る」ことだと思うのです。ちなみに、「生きる意味」なんて本当はどうだってよくて、そんなことを考えない毎日のほうが実は楽しいんですが、「楽しくない日々」が訪れたときに、「何かしらの答え」を持っておくと、とても強いんですね。まぁ、ぼくは考えることが趣味ですから、誰がなんと言おうと考えてしまうので、「考えすぎちゃう人」とともに生きたいなということで、このブログを書いているわけです。ちょっと話が横道にそれてしまいました。それでは、「才能を開花させる5つのステップ」いきましょう!【ステップ1】 「あきらめる」第一のステップは、「あきらめる」です。人間には得意なことと不得意なことがあります。基本的には10のうち9は不得意で、1が得意であると、ぼくは考えています。ですから、「9つの不得意なこと」を捨てる勇気が必要なのです。不得意な分野で成功する人はいません。自分の得意な分野でさえ、成功するかどうも分からないのです。いわんや不得意な分野では、自ら負けに行くようなものです。勝負を制するには、自分の土俵に引き込むのが鉄則であります。また相撲の土俵は決まっていますが、人生においては「自分の土俵」を作ることができます。いわゆる「ブルーオーシャン戦略」ですね。20代まではその戦略を用いて、30代になったら徐々に、「ブルーオッサン戦略」に移行し、並行して「レッドブル戦略」も起用します。これは・・・、笑うとこですよ。とにかく、「これはできんわ~」ということを早々にあきらめてしまったほうがいいのです。ぼくが今からサッカー選手を目指すのは無理です。「無理だ」という言葉は嫌いですが、夢見がちなのはもっと嫌いです。オトナは地に足をつけて歩かないといけません。バラ色の夢や未来を描きながらも、現実を見て、一歩一歩、「今できること」をやっていくんです。それがコドモと違うところ。着実なステップを踏んでも無理そうなことにチャレンジしてはいけないとぼくは思う。家族がいればなおさらね。人生っていうのは「キッチンのお母さん」ですよ。冷蔵庫にある食材で、おいしい料理を作っちゃうんですよ。「今ある素材」を最高に活かして、おいしく食べちゃうんですよ。野菜がないのに、野菜炒めを作ろうとしてはいません。そんな無茶なことをしようとしたら、野菜ではなくて、心をいためてしまいます。だから「あきらめる」ことが大事なんです。「あきらめる」ことで、逆に道が開けてくるんです。それでは【ステップ2】に参りましょう。【ステップ2】は「あきらめない」です。<続く>
2010年11月05日
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みんな、素晴らしいんです。ただ、「素晴らしく見える人」と、「素晴らしく見えにくい人」という違いはあります。その違いと言えば、「自分という素材」がどれだけ活かされているか、という違いだと思います。たしかにトマトはメロンになれません。メロンはピーマンになれません。ピーマンはパーマンになれません。それぞれ個性がある。そんなことは相田みつをさんに言われるまでもなく、当たり前の話なわけです。そーじゃなくて、その個性とかいうのを「磨く」ことが大事だよね、というふうにぼくは思うわけです。みんな個性があって、「みんな違って、みんないい (・∀・)イイ!!」んですけれども、それで「ふぅ、安心した」っちゅうのはどこか違うと思うんですね。「みんな、それぞれ個性がある」という事実があります。それに対して、「だから努力しなくていい (・∀・)イイ!!」と考える人と「だから努力したほうがいい (・∀・)イイ!!」という人に別れるわけです。ぼくは、「自分を輝かす」という考え方が好きなんです。それって、自分にいろんな「価値あるもの」を付け足す発想じゃないんですね。自分を輝かすっていうのは、こう、自分の内面にある、何か訳の分からないエネルギーのようなものを放出することだと思うんです。じゃあ、そのために何をするの?って考えた時に、「磨く」「垢を落とす」「鍛える」ということが大切になってきます。どんな個性でもいい。それを、錬磨していく。鍛錬していく。精錬していく。ピカピカに磨いていくのです。「自分の持っているもの」に確信とか自信を持てたらいいのになと思う。でも、分からないんだよね。「自分の中にある魅力」なんて磨いてみなきゃ分からない。泥を落としていかないと、「自分とは何なのか」なんて分からない。磨いて磨いても、もしかしたら中身は何にもないかもしれない。けれども、もしかしたら実はダイアモンドかもしれない。それは、磨いてみないと分からないのです。バットは振らなきゃ当たりませんが、個性は磨かなきゃ見えてこないのです。でも「個性を磨く」と言っても、抽象的すぎて何をしていいか分かりませんよね。でも大丈夫。「個性を磨く」ためには「あるステップ」を踏めばいいんです。その順番に行動していけば、かならず個性がピカピカになります。個性がピカピカに開花すると・・・□やりたいことがやれます□自分の人生に誇りが持てます□よい人脈が増えていきます。□自分の能力を社会に役立てることができます。□生きるのがラクになります。では、個性をピカピカに磨くステップとは?<続く>
2010年11月04日
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「書は人なり」と言われます。文字はその人を表す、ということですね。けれどもそれ以上に、その人の「言葉遣い」から観えてくるものがあるのです。ある人がある言葉を選ぶには、「どういう自分を見せたいか」という意図がかならず入ってきます。やたらとカタカナ語を使う人は、できるビジネスマンなのではなく、「できるビジネスマンと思ってもらいたい人」です。「そのプランのプライオリティは?」「ペイするって情報をシェアしておいて」みたいな(笑)実は若干、ボクもその気があります。ちょっとね、見栄を張っちゃったりしてね、うん。あとは「ワルだと思わせたい人」というのがいますね。もしくは「昔も俺はワルかった」というタイプもあります。「誰々とタイマン張ってさ」「うちのヘッドが・・・」みたいな。「お上品と思ってもらいたい人」もいます。「あっけらかんでサッパリした性格と思ってもらいたい人」もいるし、「優しくて温厚で寛大と思われたい人」もいる。とにかくみんな「見せたい自分」を抱えているんですね。それを言葉遣いから見抜く。その人の価値観と本質をつかまえる。「ワルかったと思われたい人」は「ワル=カッコイイ」という価値観を持っていることが分かる。そしてその「カッコイイ」に憧れていることが分かる。つまりその人は「ワル」ではないことが分かる。その分「ワルいんですね」というお世辞に弱い。それを見抜いて相手を動かす。「見せたい自分」「そう見られたい自分」は心の隙です。それは誰しもが持っています。けれども心の隙が大きくなりすぎると、付けこまれます。だからこそ、自分の「心の隙」がどこにあるかを気づいていたほうがいい。それは自分の心の偏り、心の病に気がつく、ということでもあるのですね。それはとりもなおさず、自分を知る、自分の価値観を知る、自分を愛するということであります。ちょっと話がそれましたが、「見せたい自分」が大きすぎる人はかならず言葉に特徴があります。どこかウサンクサイ。浮わついている。軸がない。深みがない。嫌らしい。以前はその感じが嫌いでしょうがなかったのですが、最近はそういった観察をなるべく活かすようにしています。言葉の内容を観ない。聴かない。あえて言葉の表面だけを見る。その人が、「どのように取り繕うのか」を観る。そういうふうに見ていくと「嫌な人」が少なくなるんじゃないかナァと思っております。
2010年11月01日
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周りが見えていない人は、そもそも自分が見えていないのです。一時期、「KY」という言葉が流行りましたね。たしか「K(彼は周囲のことをあまり、) Y(よく見たり感じたりしないで行動してしまう)」というような意味でしたね。いつもいつでも「自分視点・自分本位」な人からは、人が離れていきます。「自己チュー」というやつですね。「自己チュー」というのは自分が好きで好きで、いつでも自分にキスをしているような状態を言うのですが、人の心を掴むためには、他人にキスをしなければなりません。でもどうやったら、「自己チュー」から脱して、自分に気づき、周りを適切に観察し、よい振る舞いができるのでしょうか。そのために「メタ認知」という方法があるのです。「メタ認知」というのは、心理学に詳しい人以外は、ちょっと聞きなれない言葉かもしれません。「メタ」というのは「超」という意味で、「メタ認知」はカンタンに言えば、自分の考え方や行動を客観的に見る、ということです。まるで自分が映画になったような感じで、自分を見るというのが「メタ認知」だと思ってもらえればよいでしょう。ところで、「メタ認知」とともに、覚えておくと非常に効果的な考え方があります。それが「抽象化」です。「抽象化」なんて何やら難しそうな言葉が出てきましたが、恐るるに足りません。「抽象化」というのは、次のようなことです。イヌはワンワンと鳴きます。ネコはニャンニャンと鳴きます。だからイヌとネコは違う動物ですね。けれどもイヌもネコも動物です。言い換えると、イヌもネコも「動物」という言葉で一くくりにすることができますね。この「イヌもネコも『動物』っちゅう意味では一緒やないですか!」というのを抽象化というのです。つまり、「ひとつ上のレベルの言葉でくくってしまう」ことを「抽象化」と言います。難しそうですが、実はカンタンですよね?では、冷蔵庫とパソコンと電子レンジを抽象化してみましょう。・・・そうです。けっきょく「家電製品」ですね。そういうことです。「抽象化」というのは「言葉でまとめる」ことなんです。ではでは、さっそく「メタ認知」にうつっていきましょう。たとえば、ある人に向かって「これがこうで嫌でさぁ、ムカつくんだよね~」と言ったとします。まずは、その言葉じたいを「メタ認知」します。そういう言葉を自分が言ったのだ、と思い出すということです。人は往々にして、自分が口にした言葉を覚えていません。「そのとき腹が立った」とか「嬉しかった」とか、感情は覚えていても、そのときのセリフは忘れていることが多いのです。まずはそれを思い出すということですね。「どう思ったか」ではなくて、「どういう内容を話したか」という事実を思い出します。そしてここからが大切です。<続く>
2010年10月30日
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【前回までのあらすじ】イメージ力の差は「脳」の「ある部分」を活性化することがカギだった!「ある部分」を劇的に活性化する方法とは?=========================まず、その「ある部分」とはいったいどこなのでしょうか。それは「右脳」であり、「大脳辺縁系」であります。諸説あるので、名称にはあまりこだわらないでください。とにかく大切なのは、「脳の本能的な部分」を活性化する、ということです。脳の、勘とか直感をつかさどる部分を活性化するのです。そのためには理性や論理をつかさどる部分を「休ませる」ということが重要です。そうすると「じゃあ、どうやって理性の部分を休ませるの?」ということになりますね。ここなんです!ぼくが強調したいのは、ここなんです!「理性を休ませ、本能を活性化する方法」それこそが、ぼくが伝えたいことの核心です。「理性を休ませ、本能を活性化する方法」がむかしから日本の伝統文化として、代々伝わってきています。しかしそれは、便利な現代社会のなかで、失われつつあるのです。なぜ、時代はどんどん便利になるのに、幸せな人が増えていかないのはなぜか。なぜ、医療が日進月歩するなかで、病人が増えているのか。その謎をとくカギは、忘れ去られた日本文化にある!とぼくは考えているのです。整体、合気道、催眠、心理療法、芸術、健康、幸福、「気」・・・。ぼくの興味のある分野は、すべて「理性を休ませ、本能を活性化する」ということで統一的に説明がつきます。そして言ってしまえば、そのポイントは「姿勢・呼吸・意識」です。いろんな流派や考え方はありますが、突き詰めれば、「みんなおんなじ」なのです。そういった本質に目を向けないと、いちいち時代に流されてしまいますね。「理性を休ませ、本能を活性化させる」ということは世界中で、何千年も前から言われていることなので、おそらく「間違いないこと」だと思われます。ぼくは、日本文化という道具を通してその追究をし、それを広めていきたい思っているのです。ちょっと話がそれたので、最後に、「イメージ力をアップするポイント」、そのさわりだけお話しましょう。1:リラックスが大事である。 「がんばらない」で「できる!」と信じる。 精神的・肉体的に肩の力を抜く。2:呼吸が大事である。 ぜったいに呼吸を止めない。のどを閉めないで開放する。3:目の使い方を研究する 最終的には「目」の使い方になってきます。 3Dの本を見るときの目の使い方を参照に。正直にいえば、こういった文化は言葉では伝わりません。「面授面受」と言って、対面で伝えられるのが基本です。ですから今後は、セミナーやワークショップなどでみなさんにお伝えしていく予定です。長くなりました。最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
2010年10月28日
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【前回までのあらすじ】努力できる人とできない人の違いは、「今、未来を創っているのだ」という自覚だった!=======================なぜ、そのような差が出てきてしまうのでしょうか。その差は「イメージ力」の差です。たとえばほとんどの人は1時間先や明日のことはイメージできる。けれども3年後、10年後、20年後のイメージとなると、鮮明にイメージできる人、イメージしたことがある人まったくイメージできない人、イメージすらしたことない人に分かれてきます。もちろん、先の先までイメージできる人は「すごい努力」をすることができ、明日のことすらイメージがあいまいな人は、ついつい「先延ばしのクセ」がついてしまう。それは「無意識」のなかに、「交換」という考え方があるからなんですね。大きな夢を見る人は、それに見合った行動をする。小さな夢を見る人は、それに見合った行動をする。どちらがいいということではないと思います。けれども、今の行動に見合った未来がやってくる、ということは疑いようのない事実です。でもぼくは「大きな夢をイメージする能力がある」ほうが得だなぁと思うのです。それは、夢が大きければ大きいほど、「イヤだなぁ」と思うことが減ってくるからです。「まぁ、万年ヒラ社員でいいか」と思っている人は、厳しい課題を与えられたときに、「なんで俺がやらなきゃいけないんだ・・・」と思うはずです。なぜなら「今のままでいい」と思っているから、「嫌なこと」が「嫌なこと」のままなのですね。けれども「将来は社長になってやる!」という人であれば、厳しい課題に対しても、「よし!これをクリアすればまた経験が積める。 社長になったときに、役に立ちそうだ」と「嫌なこと」を「ありがたい経験」に変えることができます。逆に、そのようにプラスに捉えることができる人が、社長になっていくとも言えますね。「プラスに捉える」ということが当たり前になってくると、努力を努力と思わなくなります。「自分のやりたいこと」のために驀進しているという感じはあっても、「つらい努力をしている」という悲壮感はなくなってきます。それこそが、まさに「無理しないで努力を続ける方法」なんですね。ここで少し話を戻しますが、なぜ、「イメージ力」に差がついてしまうのでしょうか。その秘密は「脳」にあります。「脳」の「ある部分」が活性化すると、「イメージ力」が何倍にもアップするのです。そして実は「ある部分を劇的に活性化する」方法があるのです。その方法とは・・・!<続く>
2010年10月28日
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