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ぼくらはかけがえのない存在として生まれ、 かけがえのない役割をさがしていく。それがヒトとして生まれ、人間になるということだ。
2008年03月15日
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面倒なことが、なによりも大事だ。面倒なことは、ごくごく小さなことです。しかし些事をおろそかにして、大事成すことはないだろう。面倒という概念の裏(前提)には、「あせり」があるのです。ことばにすると「これさえなければもっと早く終わるのに」です。早く終わらせて次にいきたいこと。それが面倒なことです。たとえば脱いだ服をハンガーにかけるとか脱いだクツをそろえるとか、トイレのフタをしめるとか使った書類をファイルに戻すとかつかった道具をもとの場所に戻すとかそういった「小さなこと」です。どうしても、ぼくなんかは特に面倒くさがりなので、そういう細かなことは人にまかせたがるんです。それは「あせっている」ということなんです。何があるわけでもないのに時間に追われている。あせっていると数分がまるで万里の長城のように長く感じるものです。駅で切符を買うときや銀行でお金をおろすとき、じいちゃんばあちゃんがモタモタしてるとなんかすごくイライラするでしょう。でもあれって実際には長くてもほんの数分なんですよね。さすがに10分もモタつくばあちゃんはいない。でも、「早くしてくれ」と思う。でも、「じゃあ、おまえはそんな数分刻みのスケジュールなのか」と聞かれると、もちろんそんなことはない。朝はダラダラしてるし、仕事中だって数分くらいボケッとしている時間はある。ムダにテレビやネットを見てしまったりもするでしょう。電車の時刻にだってまだ15分ある。なのに、なんだかイライラする。それは「焦っている」からなんです。しかも「むだに焦っている」。つまり焦る必要もないのに、焦っているということです。あせりの一人相撲です。それでは、今を生きているといえない。ほんのすこし将来に生きている。面倒なことをこなすことは、今を生きることです。面倒な作業にしっかり取り組む。面倒な作業になりきる。集中する。待つべきときは、待つ。そうすると、だんだんと「肚」ができてくるのですね。「肚(はら)」なんていうと現代人には分かりにくいかもしれないので、まあ、西洋医学的に「横隔膜の弾性の強化」とでも言っておきましょうか。肚ができてくると、あせりが少なくなります。焦ってしまうような場面でも、「いまは、今できることをするしかない」という心境になります。そうすると、次第に事がうまくまわりはじめるんです。おかげで最近は仕事の調子がすこぶるいいです。だから、面倒だなあと思うことがあったらそれを積極的にやるのです。「面倒なこと」を見つけたら「やった!」と喜ぶべきです。面白いことに面倒なこと、というのは基本的に妄想です。やってみたら大したことないのです。今日は部屋のそうじをしてみましたが、たったの10分で終わりました。だから面倒なことをする、というのは自分の思い込み、妄想を解くということにもつながるのですね。ということでぼくのブログは最後まで読むのが面倒かもしれませんが、きちんと全部読みましょう(笑)
2008年03月13日
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あたえることは、そのことじたいが、すでに、よろこびでなければならない。あたえた瞬間に、こころによろこびの息吹が生まれないばあい、いつまで待っても、その見返りを得ることはないだろう。あたえたぶんだけなにかがもらえるという考えは根本から間違っている。あたえるという行為は、その一瞬で完結する。あたえることと得ることに時間差はないのだ。大切な人をよろこばせたい。その一心で動くことはうつくしい。一所懸命に誰かを大切にすること。そのとき、ヘタに客観視してはいけない。相手の笑顔とじぶんのよろこびのみを見つめる。そのとき、「じぶん」は消えていて、それを他人から見ると、そのじぶんはうつくしいのである。
2008年03月04日
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目の前に起こること、目の前にあるものは、すべて奇跡なのです。奇跡はいつも起こりますか?いえ、起こりません。たまに起こるから、奇跡なのです。じゃあ、なんで日常が奇跡なのかといえば、奇跡だと思うから奇跡なのです。それは、「幸福」というモノや状態は存在せず、「幸福だ」と思う心がある、ということと同じ構造です。つまり、奇跡というものは存在しません。「奇跡だ」と思う心が存在するだけなのです。「この目の前の、当たり前の一瞬一瞬が奇跡だ」そう思うだけで、毎日が奇跡の連続になるのです。しかし、なかなかそのように悟れません。じゃあまず、考え方をすこしだけ、できるぶんだけ変えてみようということになります。たとえば「今日、目が覚めた。また一日が送れる。奇跡だ!」と思えないとします。なぜそう思えないのでしょうか?それは「期待」があるからです。「明日も朝が来るに決まっている」と思っているから、朝、目が覚めてもうれしくも何ともないのです。そこには感謝も何もないのです。「期待」がなかったら、いろんなことがうれしくなります。「期待」ばっかりが高まると、不満が多くなります。たとえば子供や上司や恋人に、「こうあってほしい」「こうしてほしい」という期待があったとします。近しい人に期待があるのはある程度仕方ないのですが、実はその意味は「わたしは、今のあなたを否定します」という意味なのです。そうすると、その存在がうれしい存在だということを忘れてしまうのです。「なんでこうしないの」「なんでこうしてくれないの」相手が期待に外れる行動をとると、こうした言葉で相手をどんどん責めてしまいます。そうではなくて、期待しない。それにとどまらず、相手から享受しているものに感謝する。相手が自分に「なにをくれているか」だけを考えるのです。そうすると、思った以上に相手はいろんなものをくれている。それに気づくと、自然と感謝したくなります。「え、これもこれもこれもくれるの?ありがとう。ほんとに有難いことだよ。滅多にないことだよ」という気持ちが芽生えてくるのです。この、「滅多にないこと」って言い換えたらなんでしょう。そうです、それが奇跡なんです。そしてその奇跡が連続して、日常が構成されているのです。そのひとつひとつに「気づいていく」、それがありがたい生き方です。もらったり、与えたり、奪うやり方ではありません。''give and give''<与え、そして与える>というのがありますが、ほんとうは違うのです。もらっているものに感謝してお返しするだけなんだから、「与える」ということはないのです。「与えよう」と思ったら、どうしても「お返し」が欲しくなります。そうではない。ぼくらはもともと「お返し」しているだけなのです。だからその返礼などはないに決まっているのです。お返しのお返しなんて、ふつうはないでしょう?いつももらっているものを色んなかたちで「返していく」。それが、ありがたい生き方です。有難い生き方だから、なかなか難しい。しかしそれは、奇跡の生き方であり、幸福な生き方だとぼくは思うのです。
2008年02月17日
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じぶんを好きになるとは、じぶんを好きになる行動をとる、ということらしい。
2008年02月16日
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メディアにはあまりにも無思考無批判な「勧善懲悪」がはやっている。勧善懲悪は、動物性であり幼児性である。みずからを正義とし、自分と異なるものを悪と見立て、自分を正当化し、「悪」を破壊する権利があるかのようにふるまう。実家に帰ったとき、テレビを見ていたら結婚サギの話をやっていた。もうそれこそ被害者の視点に立った番組作り。500万円をかすめとった、「サイテーサイアクな男」を「被害者女性」とやとわれた探偵の気分になって叩きのめしていく。そういう構成。そういった構造に気がつかず、ずぶずぶとだまされて見た人も多いだろう。「こんな最悪な男がいるなんて」「ひどすぎる!」「人の気持ちを踏みにじって」などなどいつのまにやら正義の仮面をかぶらされそして、おどらされる。ちょっと待った。あんた500万円ってすごい金額じゃん。なんで途中で気がつかないんだ。おそらく見えなかったのだ。つまり目がくらんでいたのだ。そのことを棚に上げ、どうして「犯人」ばかりを責めることができるだろう?「犯人」は法の上において、「犯人」なのだ。世の中では「被害者」を守ることが「正義」であったり、「よいこと」であったり、「美談」であったりする。しかし、ほんとうはこの世界には「被害者」も「加害者」もいない。「被害者」とは「被害にあったと思っている人」「加害者」とは「害をくわえたと思っている人」なのだ。自分がやさしいと思っている人、「自分はやさしいのだ」と思いたい人、ほんとうは心の冷たい人ほど、「かわいそう」という言葉を多用する。「ごはんがなくてかわいそう」「被害にあうなんてかわいそう」「親がなくてかわいそう」その意味は?「自分はそうじゃなくてよかった」それだけでしょう?けっきょく、「塀の外」の対応なんです。しかしその自分の冷たい心を悟られたくないためにやたら涙を流し、そして根治につながらない自分勝手な対症療法で自己満足する。「かわいそう」という幻想にだまされてはいけない。「かわいそう」という幻想に、だまされてはいけないのだ。
2008年02月15日
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「自慢」という言葉はあるが、自慢というのは本当は存在しないのだ。「オレさあ、IT企業の社長で、年収4000万だからぁ、フェラーリ2台とポルシェ3台持っててぇ・・・」っていうセリフを聞いたら、ぼくらはだいたい「またあいつの自慢がはじまった」と思うだろう。しかしその社長は、実は単に事実を述べているだけに過ぎない。もちろん「言い方」や態度の問題はあるかもしれないが、「言っていること」自体は、「たんなる事実」なのである。「バレンタインに10個チョコもらっちゃった」「また3人から告られちゃった」なんてのも自慢の部類に入るような気がするが、やっぱりそれも「たんなる事実」なのである。つまり「自慢」というものが存在するのではなく、「それ自慢だよね?」という心が存在するだけなのだ。要は、いつも言っている「捉え方の問題」というやつだ。自慢とそれを聞いたときの自分の反応から、いろんな自分が見えてくる。「そんなもの欲しくない」と言っていたつもりが、実は欲しかったと分かったりする。自慢は心を映す。あなたはどんな「自慢」が嫌いですか?どんな「自慢」があなたのコンプレックスを刺激しますか?誰かの「自慢」によって、どんどんコンプレックスを刺激しましょう。そうしたら、だんだんと自分が見えてきたりするのです。自慢とは、実は「たんなる事実」である。しかし面白いことにこの世には「事実を事実だといってはいけない」という暗黙の了解がある。事実を事実として言葉にするときには、理由が必要だ。そしてその「理由」をぼくらは読み取るのである。
2008年02月15日
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あなたは、「こだわり」を持っていますか?ぼくはやたらとこだわりが多い。こだわることに、こだわっていたりする。あまり人にこだわりを押し付けないようには努力しているが、やはり「付き合うと大変そう」と思う人もいるようだ。(でも実際はそんなことはないよ★)もはやぼくのこだわりはマニアックすぎて誰にも分からないだろう。たとえば身体に関して、お店の床を走るときの足裏の感覚だとか腰を曲げるときの腹部の使い方、肘を広げるときの肩甲骨のありかた、ドアを開けるときの胸のやわらかさ、クレーム対応時の肚遣いなどなど、色んなところに、ぼくにはこだわりがある。また人間関係や仕事においても、上司との接し方、愛する人をいかに大切にするか、友人とは?親と子の理想的な関係とは、などなど「こうありたい」というこだわりがある。そんなこだわりを持っている人はいないだろうし、たぶんぼくのことを気持ち悪いとか窮屈だとか思うでしょう。それでもよい。こだわりとはいつでも自分勝手でなければならない。勝手に決めて、勝手に守る。それがこだわりの「粋」なんです。人が決めたルールに従うのはつまらない。自分でルールを決めないのもつまらない。人生は、ある意味でスポーツだ。自分が「意味がある」と位置づけたものをどこまでも求めていく終わりなき旅だ。自分が勝手に決めたルール。それが信念というもの。ぼくは信念というものを美しく感じる。そして幸福も喜びも、信念なくしては立ち現れることはないと思うのだ。
2008年02月15日
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なにが善で、なにが悪なのか。そんなことを一度は考えたことがあるでしょう。ぼくがいま持っている結論では、「自分が良いと思うことを行なうのが善、自分がしてはいけないと思うことをするのが悪」というふうに思います。いわば相対主義です。答えは、中にある。答えは問題のなかに内包されている。だからいっさいの善悪をぼくが決めることができる。そうすると「じゃあ、ぼくは殺人を善だと思うから、それを行ないます。 いいのですか?」とかなんとか言う人がいると思いますが、ぼくの論理でいけば「よい」という答えにしかなりません。しかしそんなことをいうやつは、実際には殺人を悪いことだと思ってるんです。だから「いいのですか?」なんて聞くんです。心の底で悪いことだと思っていれば、もし殺人を犯してしまったら、その後の人生は台無しでしょう。ほんとうに心から信じきらないとダメなんです。ちょっと話がズレますが、前から言っているとおり、ぼくは「人生には努力と勉強が大事だ」と言ってるんです。しかし、この人生訓はぼくにしか当てはまりません。人生は運だ!とか人生は直感で決めるのだ!とか人生は楽しみつくすことが大事だとかいろいろ自分の哲学があると思います。その自分の哲学に沿って行動するのが善だと思うわけです。「努力が大事なのにぼくは努力してないな~」というのがいちばんいけない。また「ぼくは努力しているのに、あいつは努力なしでいっつも勝っている。ズルい」というのもいただけない。努力というのは性分ですから、合う人と合わない人がいるのです。だから努力なんてクソ食らえと言っている人はしなくていいと思います。ただ、ぼくは努力をするのが性にあっているので、いろいろやってしまうんです。がんばり屋さんなんですね。これは自慢でも、自己卑下でもないんです。たんに自分の性格の問題です。話がそれましたが、善というのは自分で決めていいと思うんです。「仕事では大成功を収めたが、いい父親ではなかった」とか「仕事はそれなりにしかいかなかったけど、家族との時間はたくさんとれて思い出もたくさんだ」とか「一生嫁をもらわなかったが、 芸術に命をついやした」とか「夢はあきらめたけど、あたたかい家庭に恵まれた」とかそれぞれの善があり、それぞれの幸福があると思うんです。だから、ぼくらは誰をもうらやんではいけない。そして誰かを憐れんでもいけないのです。ぼくらは誰かを憐れむことで、自分の幸せを確認しようとすることがある。あまり知恵のない先生だと、食べ物を残す子供に「アフリカの子供が・・・」という話をしだす。給食をぜんぶ食べようが残そうが、遠い国の子供たちにはなんの関係もないのだ。そんなところでウサンクサイ偽善の想像力を働かせてどうなる。ぼくらの幸福<恵まれた環境>は誰かと比べて<恵まれている>というわけではないのだ。「自分ひとりで生きる」ということは「自分を生きる」ということだ。他人は基準ではない。あくまで「参考」なのだ。だからこそ、善も悪もすべて自分の中にある。そのなかの善を行なうことが、大事だとぼくは思うのである。
2008年01月30日
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いろんな本を読んだり、自分で経験してみたりして、最近思っていることがあります。「人生は思い通り!!」これです。なんつー傲慢な!と思った人。バカな若者だと思った人。現実を知らないって怖いなって批判する人。ちょっと待ってください。だまされたと思って読んでください。ぼくらの身体や行動は、思っている以上に「自分が考えていること」に反応します。いわゆる「思い込み」というやつです。ぼくらはほとんど、「思い込み」で生活しているのです。「プラシーボ効果」という言葉をどこかで聞いたことはないでしょうか。プラシーボというのは「偽薬」という意味で、患者にうどん粉などの薬理作用がない物質を「これはよく効く薬だ」と言って飲ませると、治ってしまう患者がいるというものです。(ちなみにプラシーボというのは、ラテン語の「喜ばせる」に由来するようです。英語のpleaseですね。)患者じしんが信頼している医者からそう言われると、「これでよくなる」と「思い込む」ので本当によくなってしまうそうです。また「疑心暗鬼」という言葉もあります。この言葉は「疑心暗鬼になる」みたいに「疑う・心配する」のような意味で使われていますが、厳密には間違っています。もともとは「疑心、暗鬼を生ず」といって、「不安や心配をしている(疑心)と、ほんとうに悪いこと(暗鬼)がおこる(生ず)」という意味なのです。(「間、髪をいれず」と同じ構造ですね。)上に挙げた二つは、人生は「思い」のとおりになる、という例です。もっといえば「人生は思い込みのとおりになる」と言うこともできるでしょう。身体ということでいえば、ぼくらの重大関心事は「健康」であります。なかでも大切なのが睡眠と食事ですが、これもほとんど思い込みによって決まるのです。「睡眠時間は6時間とらないとダメ」と思い込んでいる人は5時間睡眠の日は、ヘロヘロになってしまいます。しかし4時間睡眠が当たり前の人もいるわけで、けっして睡眠時間の基準というのはないのです。また食事に関しても「野菜をとらないと不健康」と思いこんでいる人は野菜と摂取していないと不安になります。野菜が不足しているから、その不安のせいで不健康になるのです。「野菜などいらん」と思い込んでいる人にはとくに野菜はいらないのです。またタバコもそうですが、「これは身体に悪いからなあ」と思って吸っているとほんとうに毒になります。しかし「タバコはボケ防止にいいんじゃ」と言って吸っていると、ほんとうにタバコのせいでボケません。(←うちのじいちゃん)また子供にむかって「冷えると風邪を引くよ」と言うとほんとうに寒くなると風邪を引いてしまうのです。だから愛するあまりに心配しすぎても、逆に子供は弱くなってしまうのですね。ぼくらの生活は、「思い込み」によって成り立っているといっても過言ではありません。その思い込みは何によって作られるかというと経験から思い込みが作られるのです。ここが面白いところです。ある経験から、ぼくらは「●●は■■だ」という法則を導き出します。そうすると、あるケース(具体的事例)から勝手に作りだしたその法則を「証明」しようとしてしまうのです。たとえ自分が不幸になったとしても。(←ここ大切!!)「たとえば、私オトコ運ないから」というやつ。2,3人の悪いオトコにひっかかっただけで、「自分にはオトコ運がない」と思い込んでしまう。2,3人との恋愛で失敗した、とそれを「経験(ケース)」として捉えるべきところを自分はこうである、という法則として捉えてしまうのです。そうするとその法則を証明しようとしてまたワルイ男にひっかかるわけです。そうして言う。「ほらね、私はオトコ運ないんだ」そうしてまた、自説(勝手な法則)の証明を強化してしまうのです。では、どうしたらこの悪循環スパイラルから抜け出すことができるのでしょうか。 長くなってきたので、続く。
2008年01月30日
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ファッションという単語は、なんとなく言葉のイメージから「服装」とか「おしゃれ」みたいな意味だと思われがちだ。しかし「ファッション」の本当の意味は「流行」という意味なのです。なんとなくオシャレさんのことを「ファッショナブルだね」なんて言ってしまいますが、ファッショナブルというのは、オシャレかどうかは関係なく、たんに、「流行に乗っている」「流行っている」という意味なのです。だからぼくは思うんですが、ほんとうにオシャレになりたいんなら、ファッショナブルになってはいけないんじゃないでしょうか。服屋にいくと、次から次へと新製品が出て、ついつい目移りしてしまいます。しかし、その欲望のままに流行を追っても、一生オシャレにならんのではないかと思うわけです。だってそうでしょう?美は真理です。美しいものは時代に左右されないのです。こういう話をすると、「でも平安時代は『おたふく』が美人だったんでしょ?」という話をはじめる人が必ずいます。また、もちろん海外では、日本と美人の基準が違ったりします。しかし、やはり美には共通項があると思うんですね。たとえば「健康的」であるとか、「聡明そうだ」とか「子宝に恵まれそう」とか、そういった子孫を残す欲求に応える女性を「美しい」と思うように男はインプットされているわけです。その遺伝子は、時代や国柄に左右されない。これを「不易」というわけです。「易」は「かわる」「変化する」という意味ですから、「不易」というのは変わらないもの、という意味になります。その反対が「流行」です。ファッションのことです。ファッショナブルな服装というのは、次々と移り変わって、キリがない。だからファッショナブルであり続けることは逆に、死ぬまでオシャレさんになれないのです。オシャレというのは、普遍的なずっと変わらない(バランスや均整の)美しさを言うのです。もちろんファッションを楽しむのもよいと思うんです。これは遊びです。時代に乗ることは、楽しみのひとつであっていいと思うんです。やみくもにファッションを否定するのも、頭がかたくなっているだけなんです。ファッションも、おもしろいものです。でもそれは本質的にオシャレとは別物である、ということを知っておかないと、一生「流行のラットレース」から抜け出せず、美しいということも分からずに終わってしまう気がします。というわけで今日ファッションについて考えるところを書いてみました。
2008年01月15日
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あたたかいものは、保つ。つめたいものは、放つ。
2008年01月12日
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ぼくは幸せというのは比べることができないと思ってるんです。「俺はあいつより幸せだ」とか「彼よりは自分のほうが幸せだ」とか「わたしよりあの子のほうが幸せだ」とかまれにそんな使い方をするのを見る気がしますが、よく考えたら、それってちょっとおかしいんじゃないでしょうか。そもそも、幸せというのは「状況」のことではなく、自分で感じるものです。たとえば、ぼくは本を読むのが幸せでたまりませんが、本を読むのが苦痛な人もいるわけです。カキフライが好きな人もいれば、カキフライが嫌いな人もいるわけです。ぼくが思うに、しあわせというのは「自分の中の欲求がかなっている状態」だと思うんです。それでもっと言えば「自分の欲求が分かっている状態」でもしあわせと言っていいと思うわけです。というのも、好きなものを食べ、好きなことをし、好きなように歌い、好きなように踊り、好きなように遊び、好きなように働く、というのが幸せの基本概念だと思うんですね。つまり「好き」ということがとても大事になってくるのです。「好き」というのは自分の中のことですから、幸せというのは、ほんらい非常に「自己完結的」で、「ほかの誰か」はまったく関係がないと言っていいんです。好きなことができたら幸せ。バカみたいにシンプルな法則なんです。しかしぼくらはとらわれる。モノの価値をはかるときに「くらべる」という方法をあまりにいつも使っているので、「くらべない」という考え方が、腑に落ちないのです。ついついぼくらは「大きいのか小さいのか」「良いのか悪いのか」「正しいのか正しくないのか」などなど、いろいろと比較してしまうのです。しかし、「目の前のモノ、それ自体を見る」つまり「くらべない」ということをすると、途端に、いかに多くのことにとらわれていたのかに気づくのです。そして、「ああ、これはこれなんだ」ということに気がつくのです。ぼくはそれが幸せなんだと思うんですね。くらべたら、とても虚しいのです。「それ」は「それ」でよいのです。つまり「それ」は何よりどうで、何よりどうだということはどうでもよいのです。けっきょく「それ」は「それ」なんです。そう思うと、やっぱりぼくは幸せだなあと実感するのです。ぼくが幸せかどうかは、ぼく意外に決める権利はないのです。ぼくが幸せだといったら、ぼくは幸せなのです。でもこれが、他人に対する「つよがり」になっちゃこれまたいかんと思うんですね。つよがりで幸せぶっている人は弱い人だとぼくは思う。幸せ。幸福というのは研究してみるととても面白いと思います。
2008年01月04日
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努力というのは、本質的に「なまけ心」からするものである。人間誰しもズルしたいし、ラクしたいのだ。ラクがしたくて仕方がない。どーしてもラクしたい。だからこそ、ラクするために本気でがんばってしまうのだ。本末転倒のようにも思えるが、実はこれが本質なのである。つまり努力というのはすればするほど努力しなくてもよくなっていくのであり、努力し続けなければいけない状況が続いて改善されている様相を呈していない場合、努力の方向性が間違っているということである。努力することの目的はただひとつ。「ラクをすること」それに尽きる。努力は美徳でもなんでもないのです。努力家というのは、別に勤勉というわけではない。やればやるほど、ラクになっていくので、楽しくてついやってしまっているのである。「ラクしたい」その素直な欲求を認め、その欲求をかなえるためにまっとうに行動することに「努力」という名前がついているだけなのだ。
2008年01月04日
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選択基準軸を決める、ということです。なにかしらの軸があるから、選択することができる。たとえば「楽しいこと・嬉しいことは先にやる」という軸を持っている人はショートケーキのイチゴを先に食べるでしょう。「先憂後楽、楽しいことはとっておく」、という人はイチゴを最後に食べるでしょう。このように自分の中の基準軸で、ぼくらは日々の選択をしているわけです。逆に、直感で選択をしているうちに「自分にはこんな軸があるな」ということにも気づく。その軸をいかに遊ぶか、ということです。自分の軸がわかったら、わざとその反対をやってみる。ぼくは去年、自分のケチさに気がついたんですね。節約のつもりが、気づけばただのケチになっていた。「値段の安いものを選ぶ」という軸ができてしまっていたんです。それですこし考えを変えてみて、「自分の欲しいものを選択する」という基準に変えてみました。やっぱりはじめは努力がいるんですね。いや、今でも努力がいる。でも、多少高くても欲しいもの買ったときはとても気分がいいんです。それにモノを大切にするようになる。まわりから見れば大したことはないのかもしれませんが、ぼくにとっては、すごく大切なことを学んだ気がしました。まだ完全に変わったとは言えないですが、ちょっとでも自分が変われたな、と思えてすごく嬉しかったんです。ぼくらは毎日迷っています。でもそれは、自分の中の軸を知らないからだと思うんですね。自分が何をしたいのか。一度きりの人生で何を成したいのか。それが明確になって、それを選択の基準軸とすればきっと迷うことはだいぶ減ると思うんです。迷うには訳がある。ぼくらが迷うときは、かならず何かから逃げているんです。自分に正直になったとき、自分にまっすぐにぶつかっていったとき、迷いはまったく姿を消します。ぼくの選択基準軸は・・・、ヒミツです。
2008年01月03日
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宗教と科学をつなぐものは身体である。身体こそが、命なのだ。ぼくは、精神論とかスピリチュアルな話はとても好きで、神さまの存在も本気で信じています。うさんくさい人文書も大好きで、「愛を!祈りを!ゆるしを!」なんて本を見つけると嬉々として購入してしまいます。けれどけっこう世の人は、そういった類の本を毛嫌いしているようですね。「愛じゃ食っていけない」だとか「非科学的」だとか「非現実的」とかとってつけたような言い訳で、自分の理解できない考えを一生懸命否定しているようです。いわゆる「唯物論者」は「カミサマ」というのがどうしても気に食わないようなのです。なぜ唯物論者にカミサマの思想が入り込まないかといったら、世にあるカミサマ論が、あまりにも抽象的な表現を好むからだと思うんです。「愛することで癒されるのです」「あなたの敵を愛しなさい」「与えた愛はみずからにめぐってくるのです」などなどの文言は、唯物論者の心に届かないのです。ぼくもこういった文を好んで書きますが、こういうのは波長が同じ人でないと通じないのです。じゃあどうするかといったら、ここで身体が出てくるわけですね。精神のことを精神で語ってはいけないのです。ある精神があれば、それにともなう身体があるはずです。「愛する身体」があれば、「恨む身体」があり、「よろこぶ身体」や「かなしむ身体」があるわけです。よく「具体性がなく精神論に陥っている」という批判の仕方をしますね。だったら、「具体的な精神論」の話をすればいいわけです。たとえば「愛することは愛されることだ」といったら、「愛するとはなんですか」という疑問に答えられるようにならねばならない。「愛することはゆるすことです」というのでは説得力がないのです。分かる人だけ分かる、というのもアリですが、もっと科学的に説明できるようになればよいのです。身体(の実感)というものを大事にして生活すると、宗教と科学の境目がなくなってきます。そうすると、宗教が非常に科学的だと感じるし、また科学はかなり宗教色を帯びているということに気づいてくる。身体というものを重要視することです。身体(実感)からモノを観るのです。ぼくは今後、この身体を通して科学的宗教を研究したいと思う。それが哲学としての合気道である。それは同時に具体的な精神論でありたい。
2008年01月03日
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だれかとぶつかるのがこわくてぶつからないのはいちばん情けないだれかと分かり合おうとしてぶつかってぶつかってからわかりあえるのも悪くないだけどぼくはケンカはきらいだケンカなんかしなくたって相手や自分を責めないように「そこにあること」をすなおにまっすぐに見つめていけばふたつはひとつになると信じている
2007年12月19日
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恨まないということです。恨むと呪われるのです。茨城に向けて三重を出発した日、ぼくはあやうく運命を呪いそうになりました。大切な人が泣いているのに、それを守ってやることができない。それどころか、自分じしんで泣かせているのです。たとえ故意ではないにせよ、あまりにも心が苦しくて「なぜ、こんな遠いところに転勤に?!」と答えの出ない疑問と格闘しそうになったのです。でも、それは問い方じたいが間違っていると思った。ぼくは思考の枠組みを変える必要があった。「自分が遠くにいくというだけで泣いてくれる人がいるなんて、なんて嬉しいことなんだろう。なんてありがたいことなんだろう」「新店開店を2店舗連続でやらせてもらえるなんてすごいチャンスをもらったものだ」「住んだことのない関東の地にいけるなんてまたとない経験ができる」「ディズニーランドとディズニーシーが近くなった」そうやってプラス面を自分に言い聞かせた。「ありがとう。ありがとう。これでいいのだ」そう思い続けるうちに、不思議と気分も晴れてくるものです。これはすごく面白いですね。恨むというのは、何もいい事がないのです。感謝するということは何も悪いことがないのです。ものごとに「よい」や「わるい」はない、ということを実感することです。じぶんがものごとをどう捉えているかが何よりも大切なのです。世界よりも先に、とらえ方があるのです。そうしたら、恨むことよりも感謝するほうが生産的だということが分かってきます。感謝するには覚悟が必要なんです。「どんなことであれ感謝する」と決めてしまうのです。例外は作ってはいけません。覚悟がないと、「頭」がしゃしゃりでてきて、「感謝することは大事だが、この件に関しては相手が間違っている」などと「判断」してしまうのです。感謝すべきことと感謝しなくてもいいことを分ける。これはよろしくないのです。覚悟を決めたら、何が起ころうと感謝しかしないのです。で、ぼくはまだまだミジュクモノなんですが、その「感謝の生き方」ってのを本で読んで実践してみているわけです。それでもさっそく面白いことが起こりだすのです。前のお店の最後の勤務の日、パートさんがプレゼントをくれたんですが、それが図書カードだったんです。そのときぼくは、どうしても本が買いたかったんです。でも、ほかにいろいろと出費があってお金がなかった。それで、なんとか臨時収入はないものかと思案していたのですが、そんなときに図書カードをいただいたんです。それで関東の地図が買えて、なんとか茨城にたどり着いた。それから茨城は笠間というところに住んでいるんですが、クルマで30分くらいのところに「合気神社」というのがあるんです。これは世界で唯一の合気道の神社なんです。これも非常に運命を感じるわけですね。それから筑波大学も1時間くらいでいけそうです。筑波には武術の超絶的な某達人がいて、その人には3年以上まえに一度だけお会いしているのですが、もしかしたらまた技をかけてもらえるかもしれません。それからそれから、連れがいっていたのですが、なんとディズニーランドもしくはシーのチケットをお母さんからもらったらしいんです。たしかに「せっかく関東に来たから行こうね」とは話していたんですが、まさかチケットをいただけるなんて。ここまでくると、どう考えても偶然には思えません。神様が見てるんだな、ということを実感します。神様の世界は、実は不公平なんです。格差社会なんです。 というのは、満たされている人はなおさら満たされ、不満を言う人は、もっと不満がたまるようになっているのです。ぼくは満たされているので、今後より一層よくなっていくような気がしています。「偉大なる何か」はおそれおおいです。でも、とてもやさしいのです。神はいつも見守っておいでです。それはとてもありがたいことなのです。ぼくらは何をする必要もありません。神のご意向のとおりに世界がまわるとき、ぼくらはこれ以上にない幸福になるのです。だから神を恨んではいけないのです。この考え方は宗教にも思えるかもしれませんが、ぼくのなかでは科学なんです。まあまた「奇跡」が起こると思いますので、おってご報告いたします。
2007年11月19日
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ものごとを終わりから考えるのである。はじまったものは終わる、という大原則があります。ついつい僕らは「いま」に目がいきがちです。いや、「いま」ではない。ほんのすこしの未来に。わずかばかりの過去に。視点がせまくなってしまうのです。近視眼的、というやつですね。そうすると「意味」がわからなくなるし、それで、精一杯の一生懸命になれなくなる。「終わり」を考えてみてください。生ならば死を。出会いならば別れを。就職ならば退職を。そのとき「わが人生に一片の悔いなし!」と言い切れるだろうか。ぼくはけっきょくそれに尽きると思うんです。一生懸命だったら結果は関係ないんです。後悔するかしないかの最大の違いは、やるだけやったのか、やらなかったのかだけです。メメント・モリ!!「もっと愛せばよかったと悔やむことはあっても、 愛しすぎたと後悔することはない」これは以前思いついた言葉ですが、間違っていないと思います。大切にしてください。小さな、ひとつひとつの、あたりまえの出来事を。そのとき、「あたりまえ」が当たり前でなかったことに気づくのです。ありがとうございます。
2007年11月11日
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どうせうまくいくんです。だったら心配しても損なんだ。「きっと、うまくいく!!」なんてリキむことはないんです。だって、どうせうまくいくんだから。うまくいくに決まってるんです。なぜって言われてもわかりませんが、うまくいくとしか思えないんです。このまえ、世界は愛で成り立ってるんだなあとなんとなく思いました。運のよい人間に生まれてきて幸せです。ありがとうございます。
2007年11月05日
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すべてがうまくいくんだなんでかってすべてがうまくいくようにできているからしあわせがいっぱいだしあわせはなくならない手にしたしあわせは すぐにきえていくだけどここにあるしあわせはずっとしあわせのままでなくなったりはしない何にも持たない人はなくしたりしない何にもないことがほんとうのゆたかさなんで何にもないのかといったらすべてはここにあるからですないものは ないんですあるものしか ないんですあるものだけが あるんですそれでいいのに何をもとめているのかなあこれでいいんです神様ありがとう
2007年11月03日
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イメージというのはもう日本語みたいになっています。みんながイメージイメージと言っています。でもどうも定義がはっきりしないのですね。ぼくは訳すのなら「具体像」が良いと思います。想像してごらん。具体像というのは、細かくわかるのです。たとえば、「成功する」というのでも、ぱっと言われると「なんかいい家といいクルマ」とかを想像するわけです。それが自分や他人からの質問で、くわしく、つまびらかになっていく。「いい家って何坪くらい?」「ペットはいるの?」「マンション?デザイナー住宅?」「キッチンの広さは?」という感じに問いかけていくことで、あいまいな夢がイメージ<具体像>になってくる。想像してごらん。イメージは、音訳すれば「意明示」だと思います。「意」、想っていることを「明示」、はっきり示す。こんな当て字みたことないでしょう?いま思いついたんです!!まさにイメージ維新です。言葉とイメージは一体です。言葉というのは発される段階ではなくて、言葉になる瞬間がいちばん大事なのです。言葉が生まれる瞬間に瞠目せよ!!なぜその言の葉が生まれたのかが、なによりも大事なのだ。想像してごらん。誰かの話を聞くとき、本を読むとき、ぼくらは言葉をイメージにするのです。イメージにならない言葉は意味がない。言葉をイメージ化するのは訓練でできます。たとえば僕はラジオ放送で野球を聞いても、いったい何を言っているのかさっぱりなのです。でも分かる人は、中継の音声だけでその場の臨場感さえも感じることができる。ぼくの場合はイメージ化が遅いのですね。脳、それも左脳を介してしまう。「ウチュウカン」と聞いて、「宇宙観?右中間か。右はライトだから、一塁のほうなのかな」なんて考えてしまう。そのうちに次の言葉が入ってきて聞き取れない。でも、本を読むのは割りと早いほうです。いわゆる速読術はできないんですが、遅い方ではないと思います。それはよく本を読むからですね。野球のことを知らないので、それはイメージ化できなくても興味のある分野の文字をイメージするのは早い。それは訓練によってできたのです。意明示能力は高めることができる。ぼくはそう思ってるんです。子供はそういう能力が低いんです。実は。「子供=語彙はなくともイメージはすぐれている」なんてまことしやかに言われていますが、ほんとうにそうでしょうか。小学校の頃、先生から保護者あてのプリントが配られますが、子供ってあれが読めないんです。大人になって読んでみると、実にカンタンなことしか書いてない。懇談会があるのでいついつに来てくれとか、給食費が上がりましたとか書いてあっても、めんどうな単語が並んでいるので、子供は読めないんですね。それは僕が六法全書や物理学の本が読めないのと同じです。ひとつひとつ読んでいけば、そんなに難しいことはないはずなんです。でも、読めない。それはその分野に対する知識や興味や語彙がないので、ひとつひとつイメージ化するのが頭に非常な負担をかけるからです。「学生のころ読めなかった哲学の本が、ふつうの社会生活で、ふつうの苦労をしたら読めるようになった」と内田樹さんが何かの本で書いてました。さもありなん、という感じです。話相手のことばをイメージ化する経験が重なれば、自然と難しい本も読めるようになるという仮説が成り立ちます。真偽のほどはおいておいても、面白いと思いますね。想像してごらん。イメージするのです。意を明示するのです。うけうりで、「日本語はあいまいだ」なんていう人は誰ですか。日本語はあいまいで、英語は論理的、というのはウソです。ことばはすべてあいまいなんです。「言葉があいまいだ」という前提のもとに話をすることで、はじめてわかってくることがある。「けさ、パンを食べたよ!」と言われて分かった気になる人は、ことばをわかっていないのです。相手が食べたのは、ジャムトーストだと思い込んでいるのです。でも実は相手はロールパンを食べていたりする。それか相手に興味がないのですね。「おまえが今朝パンを食べた?知るか!」と思っていると、「何パン食べたの?」とは聞かないんです。それを思うと対話というのは世間ではなかなか見られない現象です。たいていはどちらかが話しているだけ。もしくは、お互いが一方通行。いつもの自分を想像してごらん。あなたは、目の前の人とちゃんと対話ができていますか?
2007年11月02日
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仏教で戒めるべき状態のひとつに「法我」というがあるそうです。そのまえに「人我」というのもあって、それは、自分の考えにとらわれることを言うそうです。それで「法我」というのは、たとえ正しい教えであっても、それにとらわれることなのだそうです。仏教は正しいか正しくないか以前に、とらわれるかとらわれないかが問題なわけです。これはドキッとしました。まさしく僕は法我だったのではないかと。最近、といってもまあ1ヶ月以上まえだと思いますが、ある人に言われてすごくショックだったセリフがあって、それは「たしかにあなたは本をたくさん読んで 色んなことを知っているかもしれないけど、 知らない人を見下すのをやめて」といった趣旨のことだったんです。あまりに的確な指摘で、腹が立つやら悲しいやらまさにグウの音もでなかったです。自分より他人のほうが見えていることは多いのかもねと思った瞬間でした。ほんとうに他人の指摘というのは的確なものです。かなり傷つきます。でも事実は事実なわけです。たとえ僕が心の中で人を見下していようといまいと、また見下している態度をとっていようといまいと、相手がそう感じたらそれが相手にとっての真実なわけです。まあたしかに色んなことを分かった気になってますからね。だって「正しい教え」はそこら中に転がっているんです。だから本をすこし読めば誰でも「知る」ことができます。でも、それを口に出してはいけないということですね。「言う」のではなく、「実行する」。それから「正しい教え」を押し付けないこと。「これが正しいのだ」はイコール「おまえは間違っているのだ」です。正しい教えにとらわれると、すべての人間を否定してしまいます。完璧な人間などいないからです。「とらわれない」自由自在の境地に、いってみたいなあ。
2007年11月01日
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ぼくらはことばにごまかされるのである。「男と女」といったら、もう当たり前のように対立する概念を思い浮かべてしまう。男←→女というようなイメージ。しかしそれは、あくまでことばのうえでの空想なのだ。真実では、ない。捉え方は、自由だ。便利な捉え方は真実よりも尊い。ぼくが考えているのは「二重円」である。ことばでいえば、「男は女に含まれる」。つまり女という大きな円があって、その中に男が入っているという構造。母体という言葉があるように、女がいて、そのうちの一部が男に変化した、と考える。そうするとことばのイメージは一変してしまう。ほかにも、「ある」と「ない」をいかに捉えるか、ということもあります。ふつう、「ある」と「ない」は反対語のように思われている。でもそれは本当なのか。「ない」は数字で言えば0、「ある」は数字で言えば1である。しかし0と1がほんとうに対立するのか?「数える」のだったら、0の次が1で、その次が2と続くわけで、そうなると0も存在の一形態と捉えることはできないだろうか?0を存在の一形態と捉えると、たとえばことばのうえでも、「あきらめるとは、あきらめないことである」というのが矛盾ではなくなるのだ。というか、もともと矛盾というものは空想や妄想など、頭の中でしか存在しないシロモノだ。「現実」には矛盾というものはない。「あきらめることは、あきらめないことだ」という文言が矛盾していると思う人の頭の中には、「する」と「しない」は対立する概念だという思い込みがある。しかし「現実」を見てみれば、「しない」ということは「行動」の一つの選択肢であり、実際は「しない」ということを「している」のである。つまりこの世界には0(ゼロ)というものはないのだ。わかりにくく言えば、この世には、存在しないものは存在しないのだ。すべてが、ある。あるものだけが、ある。ことばにまどわされるから、矛盾にとまどうのです。ただの世界には、矛盾などないのです。「あちらを立てればこちらが立たぬ」というのもなにかにとらわれているのです。ほんとうはどっちも立つのです。でも「これは変えられない」という何かにがっしりとしがみついているので、「どちらか一方」という考えになる。which―どちらか―という考えは、かならずことばから起こる。なぜなら、ことばのない世界はひとつだからだ。名前のない世界は、それひとつなのである。それひとつしかないので、存在という概念もない。存在するとか、しないとかいうことすらないのです。ぼくらはつねに名前で生きているのです。便利だから名前をつけた。だのにしばしばぼくらは、言葉によって苦しむのである。言葉は道具にすぎないのだから、苦しくなったら捨てればいいのだ。嗚呼、話の内容が表題とまったくズレてしまった。まあよかろう。とにかく「ことば」にとらわれるな、ということなんです。しかしことばがなければ生きていかれない。ことばのない世界を知るにも、ことばが必要になるのだ。ことばも皮肉な運命を背負って生まれてきたものよ。
2007年10月27日
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答えよりプロセスより、いちばん大事なもの。それは「問い方」である。まっとうな質問はこの世にすくない。ことばの限界スレスレの疑問は、もうすでに答えなのである。ことばの余力を残してはいけない。ことばには限界があるが、その限界まで駆使すれば、かなりの有用性を持つのである。疑問を質問に変化させねばならない。それは有限なることばによって可能なのである。
2007年10月25日
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ものを論理で考えていくと、ある時、どうしても行き詰まります。思考の袋小路に入ってしまうわけです。しかし視点・視座を変えるためにはこの「思考の袋小路」にいったん入ることが大事で、その閉塞感を打破するために、視点のコペルニクス的転回がおこるというわけです。カッコよく言いましたが、「ガラッと変える」ということです。よく言われることです。「視点を変えてみよう」というのは。でも実際やろうとして、カンタンにできるものではないのです。先生「視点を変えて考えてみよう」弟子「はい、変えました!」というわけにはいかないのです。視点はつまり思考の枠組みです。簡単に言うと大前提っていう感じでしょうか。たとえば仕事上の改善をするにしても「翌日も翌々日も会社があり、僕は生きており、 上司がいて、毎月28日に給料がもらえて・・・」といったようなことが大前提となっているのです。どこかに支点を作らないと力が出せないように、思考もまた、どこかに前提をつくらないと論理が進んでいかないのです。視点を変えて考える、というのはその大前提「思考の枠組み」を疑う、ということです。それも適度に疑うというのが大事です。全部を疑うと、話にならないのですね。「明日、地球はないかもしれない」「ぼくの人生は夢かもしれない」「おまえの背中にはファスナーがついてるかもしれない」「ぼく意外は、宇宙人かもしれない」適度さをなくすと、こういったぶっ飛んだ話になってしまうのです。会話も論理も成り立ちません。だけど、こういった前提のほとんどないぶっ飛んだ空想を忘れないことも大事なのです。さて、話を変えて星座のお話をいたしましょう。星座っていうのは面白いですよね。どうにも好きなように星と星をつないで勝手に物語をつくって納得してしまう。なんつー自分勝手な。だけど、ぼくらのふだんの世界も星座のような物語にすぎないのです。真実や客観的事実などありはしない。たといあったとしても、それは表現された時点で、主観になるのです。そして文化という色がついてしまう。じいちゃんが昔言っていました。「今の人は『しごき』だと言って、それを悪いことと捉えているが、その人が鍛えてくれていると考えるかいじめと考えるかで変わってくるのだ」と。だから、捉え方なんです。事実がある、と思ったら負けなんです。事実はないんです。見方を変えるというのは、大前提を疑うことです。大前提が変わると思考の枠組みが変わるので、イメージが変わります。そうなんです。捉える、ということはかならずイメージなんです。カンタンにいうと、ラジオ放送で野球の状況を思い浮かべるということです。ことばからイメージを引き出しているのです。ことばはイメージなのです。枠組みを変えないで、どんなに努力しても苦しいだけです。それは身体(行動)を変えないで、感情を操作しようとするような不毛な行為です。だから星座を変えるしかないんです。生活の星座を変えてしまう。嫌なことは耐えるよりも変えてしまったほうがラクなのです。
2007年10月25日
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うしなうことをおそれてまもるのはやめよきずつくのがこわくてまもるのはやめよまもるななぜならぼくらはまもられているからふわふわと存在してみようゆらゆらととろけてみようまもらなくていいものをかたくなにまもろうとしてゆえに うしなう手にいれるとかうしなうとかをおもったときぼくらは まもりはじめるおそれなくてもよいものにおびえいきを なくすまもるなぼくらは まもられているのだから
2007年10月23日
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たしかテレビでさんまが言ってたと思うんです。「すべての恋は間違いや」って。それはわかります。どうも「恋」というと不思議と色は桃色なんです。ピンクです。「灰色の片想い」では重いです。恋っていうのは、ゴキブリホイホイみたいなものだと思うんですね。ぼくらはバカだから、桃色の恋にぴょいと飛びつくんです。甘い匂いにやられるわけです。でもその先には愛という名の苦しみが待っています。誰かを許すことは、すごく苦しいのです。いや、ゆるしたあとはラクなんですが、ゆるすまえがすごく苦しいのです。というのは自分が破壊されるからです。実際にゆるしてみれば、自分が破壊されることはないと分かるのですが、「まるで」自分が破壊されるような恐怖があるのです。誰かを愛するということは、その誰かの「物語」を知っていくことです。その人の、「ことば」をみていくことです。そして最終的に「わからない」というところで、「もうゆるすしかない」という気持ちになって、そこに愛が生まれるとぼくは思ってるんです。「わかりあう」なんて浅薄なもんじゃないんです。分かりにくくいえば「わからない合う」というのがいいと思いますね。けっきょく他人なんて分からないんです。でも、「あ、他人だもんね」というあきらめがないと誰かをみとめることなどできないのです。みとめるまえの「まるで自己が破壊されるような感覚」を何度もはげしく喰らう。これが愛です。逃げちゃいけないんだなと思うわけです。向かい合った先に、かならず喜びが生まれます。だから愛という名の苦しみは、嬉しいのです。
2007年10月21日
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なにかをすることは、なにかに役立つことではない。行為の外にその意味を求めることは行為を犠牲にすることだ。たとえば読書は読書という意味なのであって、「~のために読書」というのはいやしい考え方なのである。目的意識を持つことは大事だが、目的意識を持たないことが本質的にはいちばん大事なのだ。だから健康のためにスポーツをする、という考えにはぼくは反対である。なぜ健康などのためにスポーツをせねばならないのか。好きなことをやるのがゆたかな行為なのである。
2007年10月08日
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今朝は、からっとしたよい朝でした。運動会や文化祭の季節ですね。いろんな学校でカップルが生まれているのでしょう。洗濯しました。フトンのシーツを洗ったので、今日はふんわり眠れそうです。洗濯物を干していると、空一面、透明な水色の空でした。そして雲が浮いている。家の前は道路を挟んで田んぼなんです。向うには、単線の線路が見えます。太陽は高かった。もう11時くらいになっていたのです。ぼくは思いました。空が青くて、田んぼも青くて、それでいいんだなあと。それから、たぶん今から仕事だから「自然」も美しいのだと思った。きっと田舎の人は、「自然」なんて好きじゃないのだ。
2007年09月18日
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目的的ということは、すこぶる傲慢なことなのだ。原因とその結果を決めるのはあくまでも「神」であり、宇宙の終わりと始まりなのである。なにが善で何が悪であるか、ぼくらには決める権利がない。そしてどういう行動をとれば、どういった結果がでるか、ということを決める権利もない。幸福になるために何かをするのは、非常にあやうい行為である。つまり目的的な生き方である。目的的な努力は、自分勝手な考え方である。たとえば「これこれこういう努力をしたから、これこれこういう幸福が待っている」というのは、あまりにも自分本位な論理思考だ。自分で努力にたいする報いとしての幸福を設定し、そしてその努力を怠らない。そんなに勝手でよいのなら、誰もが努力している。本来的に努力というのは無功徳であるから、功徳があるのだ。努力をしたって、何もいい事などないのです。努力をすることが、良いことなのです。努力というのは、何かが起こるが何が起こるかはわからないのです。そこが面白いところなのです。それに耐えられるかどうか。自分勝手に設定する幸福は、ぜったいにやってきません。神様は自分勝手な人がいちばん嫌いなのです。ぼくらは「ただ」何かをするのです。「ただ」ということは、なによりも難しい。頭の良い人などは「ムダだ」と云ってしまう。しかしその人のおろかなところは「何がムダなのか」を「知ったつもり」になっているところです。何がムダで、何がムダでないかは、最後の最後にならないとわかりません。それになにが最後の最後なのかも分かりません。だから「ムダだ」ということをやみくもに口にしてはいけないのです。たぶん、ムダほど面白いことはないのだ。そして効率よりつまらないものもないのだ。なんで直線で走ろうとするのだ。電車に乗っているのに、なんで「新幹線のほうが速い」というのだ。あわてないで、歩けばいいのだ。そのうち着くし、着かなくたっていっこうにかまわないのだ。あせらないで、大地をたわむれるのもゆたかなことだとぼくは思う。
2007年09月17日
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ゆたかである、ということは大きいこと・多いこと・速いことではない。ゆたかさとは、「商品回転率」のことを言うのだ。入れ替わり立ち代り、めくるめく内部が交換される。穢れを排出し、新しい息吹が吹き込む!!いのちとは、入れ替わることだ。入れ替わり続けることで、変わらないものを保ち続ける、という逆説的な存在。それがいのち。大小・遅速・多寡にだまされるな。変わり続けることで、ぼくが保ちたいものとはなんだろう。ぼくのいのちは、なんだろう。
2007年09月03日
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攻めず守らず。それが最強。
2007年08月09日
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どんな目標や目的も「結果的に達成される」ことこそ重要なことなのではないだろうか。ほんとうに欲しいものはたぶん、手放すことで真に手に入れることができるのだ。
2007年07月22日
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意味はかならず全体のなかにあるんです。その全体は大きければ大きいほどよい。
2007年07月19日
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世界はひとつなのだ、なんにしても。だからこそ、順番という魔法が使えるのだ!!区切れば区切るほど、世界に近づいていく。もうこれ以上ないというくらい分解して、分解する意味はなかったのだということを知る。
2007年07月16日
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悟りは、合気道の技と同様、再現性が必要だ。ああ、できた!と思う瞬間がある。ああ、そうだったのか!と悟る瞬間がある。やはり感謝の心が大切だ!自分のことばかりに気がいってたな。邪念にとらわれていた。視界がせまくなっていた。そんなことに気がついて、胸の中がぱーっと晴れわたることがたまにあります。(その気づきは日記に書いています)しかし、すぐに戻る。腹が立つ。憎む。自分ばかりよくなろうとする。王様気取りになる。呼吸が浅くなる。ぶつかる。「気づいた」はずの自分はどこへやら、気がつけば元通りの「俗な自分」がいて、またうまくいかなくなっている。そして思う。「これじゃ前と何も変わってねえ」こんなことを繰り返している気がする。それは再現性がないからだ。悟りには再現性がないといけない。再現性をもつことによってはじめて、それを習慣化することができ、そのうちそれは習慣でもなくなり、当たり前になっていく。あることが「当たり前」になってはじめて次の段階にすすむことができる。再現性を持つには、ポイントを知らねばならない。日本語で言えば「急所」である。その急所がわからねば、「悟り」の状態に自らの意志でもどることができない。つまり偶然を待つしかない。それでは成長がないのだ。悟りに再現性を持つ、ということは心をリセットする技術を持つ、ということだ。それは難しいことではない。酒を飲むこと。カラオケで歌うこと。タバコを吸うこと。好きな音楽を聴くこと。多くの人は、自分なりの「ストレス」解消法を持っている。しかしたいがいは、自分の外部にたよるアウトソーシング的なストレス解消法なのだ。だからストレスを解消しようとすればするほどそれに依存していく。ぼくがやろうとしているのはすがすがしい気分のとき、「自分がどうなっているか」を仔細に観察しそのポイントを探ることだ。「すがすがしさ」を心に見ず、身体の状態にみる。これは「こころはからだ」という感覚だからできることだ。すがすがしい気分のとき、身体はどうなっているのか呼吸はどうなっているのか意識はどこに置いてあるのか、それらを観察し、見極め、その身体をとりもどす技術を極めたいと思う。目下のところ、それは肚の操作である。肚の操作で自分の気分をコントロールする。肚の操作はつまり呼吸の操作だ。息を操作することで「生き」をイキイキさせる。これを今、研究しているのであります。
2007年07月08日
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ああ、そうか。言葉で捉えようとするから、勝ち負けが生じるのだ。勝ち負けというのは幻想なのだ。
2007年07月07日
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感情は身体である、つまり感情というのは身体の緊張の構造である、ということが実感されたとき、ぼくの胸に去来するおもいがありました。それは、「よろこびやうれしさという感情も身体の緊張であり、 自然体に反しているのではないか?」ということでした。それからしばらくして、陰陽五行の本を読んでいると、「怒・喜・思・憂・悲・恐・驚」のことを七情といって、それが過ぎると病になる、ということが書かれていたのです。それを読んでぼくは嬉しくなりました。やはり喜びも、かたよりが過ぎれば病のもとであるということなのでした。オイゲン・へリゲルの「弓と禅」に(やっと読みました)、師匠から「射を失敗したときにヘコんじゃダメだということは知っているようだが、うまくいったときに喜んじゃいけないということを覚えないといけないな(要約)」と言われたことが書いてありました。これは非常に興味深い一文でした。ぼくらは「達成欲求」とかいうものを持っています。なにかを成し遂げると「やった」と喜ぶということです。だから、目標を持ちなさい。また達成できるちいさな目標を持ちなさい。それが成功する法則です。みたいなことを書いた自己啓発本は星の数ほどあります。(そしてそれを唯一の真実と思っている人もとても多い)しかしそれは結局、浅薄で動物的な感情だということです。人それぞれ考え方はありましょうが、ぼくはそこらに転がっているビジネス本よりは禅の考え方に惹かれます。ということを書くとおそらく「喜んじゃいけないなんて、やっぱり悟りなんてつまらないものだ。 感情の起伏があってこそ人間だ」みたいなことを言う人が出てくるんじゃないかと思うのです。まあなにかを頭ごなしに否定する人は、それを理解していない人ですから、勝手に拒否って一喜一憂する生き方をすればいいと思います。ですがいちおう、「感情」というものは不安や恐れなどマイナスのものがほとんどで、プラスの感情はほとんどないのだよ、ということはお伝えしておきます。ぼくは動物のように生きることが人間らしいとはつゆほども思っていません。
2007年07月04日
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まちがいは、まちがいという存在なのだ。
2007年06月28日
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愛と同時に距離が生まれた。いや、距離と同時に愛が生まれたのだ。畢竟、それは同じなのかもしれない。
2007年06月25日
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いちばん役に立つ学問というのは宗教です。ぼくらの根底にはかならず「神話」が根付いています。「神話」なしに世界を飲み込むことはできない。なにかの理由をさぐり、そのしくみを知ることは世界を「かみくだく」ことです。しかし、最終的には飲み込まねばならないのです。世界をどこまでもかみくだこうというのが科学であります。それは悪いことではない。飲み込みやすくなることだから。だが、かみ続けることには際限がない。また、「かむこと」と「のみこむ」ことは本質的に違う。飲み込むために、かむのです。それを忘れてはならない。かまないで、それか一口だけかんでゴクンと飲み込んでしまうのが宗教です。どっちが早いかといったら、言わずもがなです。あとは好みの違いになるんじゃないでしょうか。いつ「飲み込むか」ということです。そういえば、ぼくは小さい頃から何かを飲み込むのが苦手でした。錠剤とか、焼肉のホルモンとかイカ焼きとか。そのことと、ぼくが「なぜ」と問い続ける性格であることは、きっと何らかの関係があるのでしょう。世界を飲み込むというのは、「なぜ」の世界を捨てることです。そして「どう」の世界に移行していくのです。すこし具体的に言えば、「なぜ生きる」という問いを無駄として破棄し、「どう生きる」ということをのみ問うということです。「どう生きる」の「どう」は力強いあゆみのことばです。なぜなら「どう」と言った瞬間、生きることが前提となるからです。「なぜ」はいつも過去です。そして「どう」は未来にあります。誰の心にも神がいます。だから誰もが宗教家なのです。そして宗教こそが、何にもまして生きていくことに役に立つ学問なのです。そしてぼくのなかの神が云っています。「おまえはまだ、なすべきことをなしていない」と。
2007年06月24日
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理由なきものをこそ愛せよ。
2007年06月23日
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耐えよ!!どこまでも深く、どこまでも強く、どこまでも激しく抑制しなければ、ほんとうに解放されることはないだろう。
2007年06月23日
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うつくしいものをさがすな目の前にあるものが うつくしいのだきずを いやそうとするなきずは いえるものだただしいことをしようとするなどうせ まちがっているのだからいまから 世界にいってきます
2007年06月23日
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古代ギリシャでは、少年愛の習慣があったそうです。いわゆる同性愛です。またそれが、ふつうの恋愛よりも高貴なものとされていたとのこと。なんだか、現代の感覚でいくと、不思議な感じがしますね。しかし、織田信長もその気があったそうですし、まあ昔から、「少年愛」というのはけっこう「ふつう」のことだったのですね。っていうか現代にだって、ふつうにありますからね。ぼくの周りにはなかなかいませんが・・・。感情は、個人個人が持っているのではなく、「構造によってきまる」という考え方があります。つまり、感情がまずあって、それで構造ができるのではなく、構造にしたがって、それを保つべく感情があるというのです。また、思考も構造に左右されます。ぼくは日本語の文化に生きているので、「日本語(という構造)による世界の分け方」しかほぼ知らないのです。だから必然的に「日本思考」になってしまう。と、いうのが構造主義なんですが、ホントにそうか?って思ってきました。ほんとうに言語がないと思考ができないのだろうか?言葉を知らない赤ちゃんは思考していないのだろうか?言語でしか思考することができない、というのは思い込みにすぎないのではないだろうか?っていうかね、西洋の哲学者たち、自殺しすぎです。これは、言葉で考えることの弊害だと思うんです。言葉で考えるからいきづまる。言葉というあいまいなものに頼りすぎるので、限界がくるのではないでしょうか?やはりここは東洋哲学の出番なんじゃぁないでしょうか。もちろん禅病なんかもありますけどね、「そういったことがある」とはっきり判明しているのは、すくいになったりすると思うんです。仏教系で大成すれば、自殺したりしないでしょう。結局、しあわせになって、しあわせにできればいいんです。自分だけがしあわせなのを「オメデタイ」と言います。ぼくはそうはなりたくない。オメデタイ人は醜いと思う。やはり、人をしあわせにするちからを持たないといけない。というか持ちたい。だから、考えるんです。
2007年06月23日
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意外にも、「モーニング娘とは何か」という問いは、非常に深い何かをふくんでいると思う。ヒント:モーニング娘は誰ですか? あなたは誰ですか?
2007年06月22日
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〇〇「だから」××。「だから」はふつーに使われている接続詞ですが、こいつは意外にネックなんじゃないかと思う。ふざけていた。だからケガをした。がんばって働いた。だからお金がたまった。睡眠不足が続いていた。だから体調不良になった。だから、だから、だから・・・。ぼくらはカンタンに「だから」という言葉を使う。そして「だから」というとコロリと納得してしまったりする。しかし、ぼくらの「だから」はあまりにも身勝手な、自分中心の論理だったりはしないか。ふざけていてもケガをしない人もいるのです。がんばって働いても、お金がたまらないこともある。睡眠不足が続いても、体調不良にならないこともある。自分の「だから」を正しいと思い込むと、たいていはケンカになります。とはいえ、たぶん「正しい『だから』」というのは存在しないのです。要は、「納得できるかどうか」で。納得というのは、「納豆食う」ことだと思います。なにかネバネバした、得たいの知れない「事実」というやつを強引にかみくだいて、そして強烈に飲み込んでしまう。そして腑(内臓)に落としてしまうのです。食べきってしまえば、なんで納豆食ってんだ?という疑問もなくなります。きっと最後に、「おいしかった」と言えれば、それでぼくらは満足できるんじゃないだろうか。長くなりましたが、「こころを探るシリーズ」これにて一時的に完結です。ついてこれた方はいらっしゃるでしょうか。コメントお待ちしております。
2007年06月22日
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たぶんぼくらは、神話がなければ死ぬ。なぜなら生きることは「本質的に」くるしみだからです。だから、「なぜ苦しいのか」ということを誰かが教えてくれなければ、僕らはたぶん死ぬでしょう。「うつ」というのは「うつつ」と関係があるんじゃないでしょうか。「うつつ」は漢字で「現」です。現在の現実。生きることは苦しいという現実。それが見えてしまうのが、うつという状態なのかもしれません。まあ、通俗的語源解釈の域を出ませんが。生きるということが「本質的に」くるしいから、生きるということにはよろこびがあります。それは、冬というものが本質的にさむいので、コタツというものが嬉しいという構造に似ています。だから人生をたのしむ、というのは冬を楽しむというのに似ていると思います。冬はさむい。だから、かなしい、つらい、くるしいのでしょうか。だから、こごえ、ちぢみ、凍てついていくのでしょうか。それもあるでしょう。しかし、その逆もあるのです。家に入ればコタツにみかん、みんなで囲むナベ。外に出ればスキー、スケート、スノーボード。「冬」だから、楽しい。楽しいということは意味がいらないということです。意味というのは、「理由」と同じことです。ぼくたちは死に向かって生きている。ぼくたちは、かならず死ぬ。なぜ、死ぬのだろうか。わかりません。「死こそが生をもっとも輝かせる」なんてわかったような解答を出すこともできましょうが、今はそんなことを言いたい気分ではない。ぼくが疑いたいのは、生と死が対極にあるのか、ということです。生と死はどういう関係にあるのだろうか。生と相反する死?死は生をふくむ?生は死をふくむ?生は死である?死は生である?死生観、といいますね。「死」が先に来ている。順番と逆だ。よくわからないが、たぶん生と死は、女と男と似ているんだろう。
2007年06月22日
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「病気」ということが発生するときには、いろいろな理由があります。西洋の医学では、病気の理由を「しくみ」で説明します。〇〇菌が入って、××が化膿したため、とか〇〇が炎症を起こし、△△が異常をきたしたため、とかです。それも、もうすこしは「解明」されているようです。なぜ、〇〇菌が入ると化膿するのかというのは、たとえば〇〇菌の持つ、××ぺプチターゼがサイクロ△△オキシジェンにATPを放出し・・・、みたいな「理由」です。でもこれも「しくみ」を説明したにすぎない。本質的な「理由」ではない。「病気」ということには、やはりこころも関係してくる。おおいなる矛盾をかかえた、こころというやつが。人は病気をイヤなものだと思っていて、みな健康になりたいと思っている(と人は思っている)。しかしぼくらは、ときに病気になりたがる。それは表面的には出てこないけれど、たしかにぼくらは病気になりたがることがある。「治りたい」と叫びながら、みずからその症状を重くしていく。野口晴哉先生の本に、「アンタのは大した風邪ではない」ということはあるタイプの患者には決して言ってはいけない、ということが書かれている。というのも、患者が心配してほしがっているときに「大したことはない」というと、「いいや、これは重大な病気だ」ということを身体が主張するために、風邪が治りにくくなるというのだ。これはことさらに面白い事例だとは思いませんか。先ほどに申した「こころの矛盾」の一例です。「いいや、これは重大な病気だ」というのはプライドとか意地の問題でしょう。すなおに「ああ、大したことないんですか。良かった」と言える人なら、たぶんすーっと病気は治るのです。それをなぜか、なにか大切でないものを守ろうとして、大切ななにかを失っていく。だが、このような構造にハマってしまいうる、構造になっているのはなぜなんだろうか。もっとシアワセな構造はつくれないのか。こころの偏りや病気は、「試練」だという考え方もあるようです。スピリチュアルな方向では。みずからの魂を鍛えるために「今」という試練があるのだと。これはまさに神話です。神話を使うのがわりかし早い例です。ぼくも「神話」に手を出すのは早いほうです。まったく唯物論者ではない。しかし唯物論者といえど、かならず「神話」を使っている。そうでなければ、たぶん、死んでいる。「死」ついに「死」が出てきました。これから「死」について考えてみましょう。
2007年06月21日
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