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世界の「なぜ」について考えているところでした。そして最終的には誰しもが「なぜ」の「理由」について答えることはできず、「神話」に頼らざるを得ないのでしたね。さて、今日は「こころ」ということを考えてみましょう。なぜ、こころは矛盾するのでしょうか。なぜ、不幸になる人が現れるのでしょうか。本を読んでいると、人が幸福になる原理、不幸になる原理というのは解明されているようです。和語のがわかりやすいですね。「しあわせになるしくみ」「ふしあわせになるしくみ」としましょう。よくこのブログでも書いてますが、どうやら「こころ」というのは「やりたいことをやる」としあわせになるようです。こころが思ったことを、勇気を持って、すなおに表現し、まっすぐにすすむこと。おそらく、それが言葉にできる幸せの方程式です。自分でもこれが体現できているときは、非常に心地よく、幸せな気分になります。しかし、これがうまく運ばなくなるときがあります。なんだかんだで意地を張ってしまったり、プライドや世間体、見栄や見かけにとらわれて、先に書いた「原則」を守れなくなってしまうのです。そうすると、途端に不幸せになります。それがなぜかというと、たぶん「こころがこころを守るはたらき」のせいだと思うんです。こころが自分を守ろうとして、それはたとえばプライドなどですが、そのおかげで「原則」から逸脱し、不幸になります。しかし、その「理由」というのはあくまでも「しくみ」なんです。「原理」のことしか答えてないんです。「なんでこころが自分じしんを守ろうとするのか」というところはまったく不明なのです。こころが自分じしんを守ろうとすると、そのことで不幸になるということをこころは知っているはずなんです。しかし、こころはこころを守ろうとする。これは不思議なことなんです。そしてこれは「病気」ということに似ているんです。
2007年06月21日
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心は、心そのものはいったい何を求めているのだろうか。僕たちに関するいろんな疑問は、その多くが「生きたいから」という答えにたどりついてしまう。なんで食べるの? 生きたいから。なんで寝るの? 生きたいから。じゃあ、なんで生きたいの?と考えてみると、それは「自分の子供を残したいから」という理由になるわけです。それを難しく言うと、「種の保存」といいます。でも、その次になると、つまり「なんで自分の子供を残したいのか」という疑問を投げかけると、もうほとんどみんなが「うん」というような仮説がないのです。いちおう「遺伝子が自分じしんを増やしたがっている」という「利己的な遺伝子」という説があるようですが、たといそれが真実であろうと、じゃあ「なぜ遺伝子は自分を増やしたがっているのか」となると、もうお手上げになってしまうのです。(なんか最新の仮説があったらすいません。ぼくは知りません。)なぜ、ということは意外に早く煮詰まってしまうものです。だから「なぜ、なんて考えているヒマがあったら行動しろ」という哲学を持っている人もいますし、またそれは非常に「実用的」です。というのも、社会で生きていくうえでは「なぜ」ということを考えなくてもできることがほとんどであり、いやむしろ、「なぜ」と考えない方がうまくいくことのほうが多いのです。そもそも「なぜ」を知ることはほとんど意味のないことです。「なぜ」を知っても何の役にも立たないのです。しかし、今夜からは「なぜ」のなぜについてせまっていきます。なぜかといえば、楽しいからです。先ほど「なぜを知ることに意味はない」と言いました。意味がないということは、「楽しい」ということです。その意味もおいおいわかっていただけるでしょう。なぜを解く鍵は「仕組み(原理)」と「神話」です。それをこれから、ゆっくりお話しましょう。というかぼくも考えながら書いています。それでは今夜からどうぞごゆるりとお付き合いくださいませ。
2007年06月19日
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自慢ということは、なんでしょうか。僕らは自慢されるのが嫌いです。それはなんででしょうか。たぶん、それは自分の価値観を浮き彫りにされるからです。自慢というのは価値不安のあらわれです。価値不安っていうのは、自分の抱いている価値観は正しいのか?という不安です。その不安さえなくなれば、その人は「すばらしい存在」になります。つまり、たくさんお金を持っている人がいて、その人が金持ちであることを自慢するとします。なんで自慢するかと言ったら、「お金って、価値あるものだよね? ねえ、そうだって言ってよ。」という心理なのです。なぜなら、その人はお金をいっぱい持っているので、お金が価値あるものであれば、その人は「スバラシイ人」になるし、もし、お金というものがくだらないものだとしたら、それをたくさん集めてしまったその人は「くだらない人」ということになってしまうからです。自慢ということは、つねに関係性の中に成り立ちます。どういうことかというと、自慢する人は自慢される人がいないと自慢できないということです。空を往く雲に高級外車を自慢する人もいないでしょう。生まれたばかりの赤子に高学歴を自慢する人もいないでしょう。地を這うカタツムリにモテモテ恋愛遍歴を自慢する人もいない。それは意味がないからです。なんで意味がないかっていったら、相手がその価値を認めてくれないからです。あなたのもっている価値観はただしいのよ、ということを表層的であれ深層的であれ、そういった表現がほしいのです。「あいつはいつも自慢ばっかりだ」というセリフは、相手の価値不安を払拭するお手伝いをしています。自慢する人は、うらやましがられるのも好きだし、嫉妬されるのも好きなのです。それは自分の価値観が認められたと感じるからです。自慢というのは社会のルールがあって、初めて存在しうるものです。いわゆる約束事の世界なのです。「あいつ自慢ばっかりして」と思うのは、相手が自慢ばかりしているのではない。自分がその価値観の世界に入っていることがハッキリとしめされているだけなのです。「そんなことには興味がないよ」という顔をしても、「自慢されている」と感じる以上、多少なりとも興味があるのです。それを認めることです。やはり自分を不快にしてくれる人ほどいろいろとモノを教えてくれるものです。おもしろい。もうすこし、「価値」ということについて考えてみたいと思います。「価値」ってなんだろ?日本語でいったら、「あたい」だよなあ。うむ~。
2007年06月03日
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基本的に、ぼくの話は「極論」です。そう思ってブログを読んでください。僕が心だとか人間だとか人生だとかいうとき、半分以上は、もうたぶん90%くらいは「極論」です。だから現実味がない。僕じしんでも体現できないこともよく書いています。だからといって、それが空理空論で砂上の楼閣、現実に一片の意味ももたらさないのでしょうか。僕はそうは思いません。真理を求めて、思考しているのだから、極論・抽象論になるのは当然です。もちろん、具体例も盛り込んではいるつもりですが、それでもやっぱり結論は「極論」になります。極論―つまり、真理や理想というものは、目標となるものです。近づくべき漸近線です。だからそれがないと、どこへ進んでいいかわからないではないですか。このまえ、けっこう深刻な話をしていたら、あらためて僕が演繹派だと実感しました。相手は完全な帰納派でした。あまりに正反対でついつい笑ってしまいました。価値観がまったく反対でも仲良くできるのだから不思議なものです。だから「価値観が合う」なんてことはどうでもいいことだと最近は思っています。まあそんな話は置いておいて、わたくしの理想論に、いま少しお付き合いくださいませ。
2007年06月01日
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受動態、というのがありますね。いわゆる「受け身形」というやつです。「言われる」「見られる」などの「れる・られる」の助動詞とか国語の文法の時間でやったと思います。で、その「受け身形」なんですが、本来的には存在しないのです。まあ存在しないというか、まだまだそれは分析できるということです。いったいそれはどういうことなんでしょうか。これは最近説いている、「心のリモコンを他人に渡さない」ということです。「自分の感情に責任を持つ」ということと同義です。とはいえ「見られる」こともあるだろう、それは「受け身」に他ならない、とおっしゃる方もあるかもしれません。しかし、次のように考えることはできないでしょうか。「見られる」→「他人が見ている(+わたしがそれをゆるしている)」「何かを言われる」→「誰かが言い、それをわたしが聞いた」というふうに。つまり、「受動態」によって同時に発生しているように表現されていることを分離してしまおうということです。それを使うと、「あなたの暴言で傷ついた」→「あなたが暴言を吐いた+わたしが傷ついた」というように、「自分の責任」の部分が「因数」として表現されてきます。そうなると、苦しみが減ってくるのですね。精神的な苦しみがなぜ生まれるかといえば、他人のせいにするからです。苦しみを消す唯一の方法は、それを自ら背負う、ということだけです。ですから「苦しめられている」という述語の部分を分解し、「自分の責任」の部分だけよいしょと背負えば、アラ不思議、苦しみが突如として雲散霧消していきます。他人が自分を傷つけることはない、と覚悟せねばなりません。また他人が自分を傷つけることはできない、と信じることです。すくなくとも精神的には。それを信じきると、今度は「加害者」にさせられることもなくなります。というのは、往々にして人は、他人を加害者にすることによって、自分が被害者になるのです。加害者にされると悪くもないのに罪悪感に悩まされます。被害者は、「被害」にあった自分を慰めるとともに、加害者が罪の意識に悩まされることを喜びます。まあ、加害と被害の話はまた詳しくしましょう。とにかく「受動態を因数分解してみなさい」ということなんです。そうやって、自分の心を見ていくのは大切なことだと思っています。
2007年06月01日
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運命の人などいないのだ。出逢うすべての人が、運命の人だ。
2007年05月29日
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ぼくの頭はムチムチです。無知無知です。この宇宙に知るべき知識は幾らあるのだろうか。そのうち僕らが知っていることは何パーセントくらいなんだろうか。どれだけ博識な人といえど、宇宙から見たらみんなが無知な野蛮人なのだ。どんぐりが背比べして、目くそが鼻くそを笑っている。知識の量を人と比べてはいけないつねに自分を比較するものさしは、宇宙なのだ。ちっぽけ。そんな言葉がよく似合う。小さいことにクヨクヨするな、というけれど、すべてが小さなこと。知識もお金も能力も友人の数も豊かだとかまずしいだとか、多いも少ないも、大差ない。偉人の人生も、乞食の人生も大差ない。メメント・宇宙宇宙を忘れるな。お前は小さい。お前の人生は、もっと小さい。単なる現実を演じすぎるな。命の軽さを知れ。命の、軽さを・・・!
2007年05月26日
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きっとほんとうの孤独は、何よりもゆたかなのだ。一般的にいって、孤独じゃないような気分がするのは、誰かとわかりあえたような勘違いをしているときだ。誰かが自分のことを認めてくれた、分かってくれた、と言ってはニヤける。しかし、理解されたからといって喜ぶのは、理解されないからといって苦しむのと同じなのである。「理解される=嬉しい 理解されない=かなしい」という考えに固執するかぎり、「(他人に)理解されるかされないか」にとらわれ、一喜一憂をくり返すことになる。ぼくが思うに、もっと自由にならねばならない。理解してくれようがが、理解してくれまいが、「どっちでもいい」というのが自由なのだ。解ってくれと叫ぶでもなく、解るはずもないとスネるでもない。ただ、「理解してくれても、してくれなくてもいい」そうすれば、相手の評価にとらわれることはない。理解者には冷静に「ありがとう」批判者にも冷静に「そうですか」。どっちでもいいのだから、冷静なのである。孤独と自由は背中合わせ。そんな解ったようなフレーズが巷間ささやかれているが、その意味は「自由になりたければ、さみしさに耐えねばならない」みたいな感じじゃないだろうか。一人はさみしいけれど、「自由」だからいいや。みたいな。ぼくは、そうじゃないと思うんです。本当の孤独はなによりもゆたかなんです。他人に自分のことは理解されない!とあきらめてしまうと、「さみしい孤独」になります。しかし「理解してくれても、してくれなくてもいい」という超然とした姿勢であれば、そこに「ゆたかな孤独」が生まれるのです。「分かり合いたい」なんていうこだわりを捨てれば、そこに自由が生まれる。それが「孤」が「個」になる瞬間だ。「孤独=さみしいもの」と思っている人にとって、孤独はさみしいものとなる。しかし「孤独は当たり前の性である」と思っている人にとって、孤独は愛するものでもなく、忌むべきものでもなく、たんに孤独は孤独なのである。人はひとりで生まれ、そして一人で死んでいく。その事実を、愛しいことを思うか、さみしいことと思うか、それとも、それが当たり前だと思うのか。その根本の考え方で、思考や行動も大きく変わってくるのである。
2007年05月03日
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自然なんて嘘だ。「あるがまま」なんてナメている。無理することが何より大事だ。不自然であることが肝要だ。嘘。嘘だ!嘘をつけ!ホラをふけ!正直なんて甘えだ。素直という名の弱さだ。「素の自分」?ふざけるな。そんなものが何かの役に立つというのか。ラクするだけで変化できるのか。成長があるのか。自分を認めるな。自分を否定しろ。変わり続けろ。それが、命だ。
2007年04月28日
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価値観というのは面白いと思います。言ってみれば価値観というのは「ものの見方」ですよね。もっとわかりやすく言えば、「何が大事で何が大事でないか」ということです。それで面白いのは、みんなそれが違うということです。それぞれが「〇〇が大事だ。××はどうでもよい」という、何が大事かということについてランク付けしています。ある人は〇〇が大事だといい、ある人は××が大事だと言います。このことを価値観が違う、と言います。とまあ、こういうふうに文章で冷静に書くと「そりゃ当たり前だよな」と思うわけです。ところがどっこい、いざ誰かと話してみると、「いや、違う。××よりも〇〇のほうが大事なんだ!」と××を大事にする人に言ってしまうわけです。これを「価値観を押し付ける」と言います。これは熱帯に住む人に毛皮のコートを着せたり、ツンドラ地帯にカキ氷を売り込みに行くようなものです。たしかに極寒の地域では毛皮のコートは不可欠でしょう。また日本の夏にはかき氷は欠かせないのです。しかし暑い地方ではコートは必要ないのです。湖に分厚い氷が張っているようなところでは、かき氷は用なしなのです。自分はそんなことくらい分かっている。そんなバカげたことはしない。、と思っていても実際にはたぶんやっているのです、価値観の押し付けを。たとえば、「お涙ちょうだいもの」だって、けっこう価値観を押し付けていたりします。「親子愛」だとか「家族愛」だとかね。僕は両親と妹弟と長いこと過ごしてきた人間だから、そういうものが大切だと思っています。でも、幼くして親を亡くされた方なんかは、「別に親なんていなくたって生きていけるよ」と思っているんじゃないでしょうか。そう本人が思っているのに、「親がいなくてかわいそう」だとか「親がいないから〇〇な性格なのだ」だとか、僕らは自分の価値観で判断しているのではないでしょうか。(そういう人に限って「自分は心優しい」と思っているものです)これも、もはや価値観を押し付けているのと同じなのです。「親というものは大事なものだ」という価値観を絶対視してしまっているのです。思い込みもはなはだしいのですが、マスコミに踊らされた「世間一般」がそういった「情」をあおるため、ますます自分を正当化してしまったりするのです。いいですか、価値観と言うのは自分で決め付けているもので、いくらでも、というのは言いすぎですが、少なからず変えることが出来ます。また自分の価値観を変えることができなくても、相手の価値観を「認める・ゆるす」ことはできます。あらそいというのは、相手の価値観をねじまげようとしたときに生じます。ぎゃくに「相手をみとめる」というのは「相手の価値観を認める」ということとほぼ同一なのです。価値観というのは価値「感」でもあります。価値があるのではない。価値がある感じがするだけなのだ。しかし、その「感じ」が「いきがい」「やりがい」になったりします。つまり価値観(感)というのは、その人がその人であるためのひとつの考え方、ということなのです。それは個々のものであり、普遍性をおびたりはしないのです。もちろん他の誰かと共通項を持つことはあります。(これがいわゆるトモダチというものになります)僕らは自分の価値観が認められると喜び、自分の価値観が認められないと怒りと憎しみをおぼえます。僕らは色んな経験を重ねながら、自分の価値観をつくっていきます。同時に、自分の経験でしか価値観を作ることはできない。人の経験で価値観を語る人の言葉は、重みがない。自分じしんが経験したことで、自分じしんの価値観をつくりあげる。しかしそれは、誰にも押し付けることは出来ない。「〇〇が大事だ」、はあくまで「僕にとって、〇〇は大事だ」でなければいけない。それは自分の価値観を知る、ということです。自分の価値観を知るから、相手の価値観を認めることができます。自らが「正しい」、つまり自分の価値観が、世界のどこでも通用すると思ったときに、あやまちが起こります。たしかに幼稚な価値観も、円熟した価値観もあると思います。しかし、本当に大切なのは価値観の優劣ではなく、誰しも自分の価値観にしたがって生きている、ということを知ることではないでしょうか。価値観のない人間などいない。たといそれが支離滅裂で、一貫性のない価値観だとしても、「間違っている」というわけじゃないんです。そういったことに気づくのが他者を理解する第一歩になるのではないかと思う。傲慢で不遜で自分勝手な僕が、最近気づいたことを語ってみました。おしまい
2007年04月08日
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ぼくが思うに、悪人というのは、地獄へ逝くんじゃないんです。そもそも「悪人」という考え方じたいが主観的というか自分本位で、よくて世間様に裏づけられた「常識」にもとづいている。悪人は地獄に落ちる、というのは自分は天国にいけるという思いです。悪人という人がいるわけじゃないんです。「あいつは悪人だ」と思っている自分がいるだけです。悪人という観念がなくならない以上、なにかを恨んだり憎んだりすることはなくならないでしょう。誰かを呪うことは不幸です。誰かを祝うことは幸いです。呪われることが不幸で祝われることが幸いなのではないのです。自分に対して誰が何を思おうが、関係はありません。とはいえ、これが理想論だということも知っています。そんなに簡単に人を恨んだり憎んだりする気持ちがなくなるわけではない。僕も、人をねたみ、人をうらみ、人を憎むこともあります。しかしそれが正しいことだとは思っていない。正しくはないけれど、仕方なく憎んでしまっている。それはそれでよいのだと思います。正しいと思ったら、そこから過ちがはじまります。悪人は地獄へ落ちる、という考えからは「自分が正しい」が導き出されてきます。それは気をつけないといけない。そういう意味で、僕は「悪人は地獄へいくわけではない」と言っているのです。
2007年04月06日
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感じたあとに考えろ!まずはまるごとを感じることだ。そして、考える。
2007年04月04日
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考えに考えて考え込んで考えまくって、考え抜いて考えすぎて、それで最終的に「ああ、考えることなどなかったのだ」という気づきにたどり着けたらなあと思います。
2007年03月31日
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自由とはなにかと言うことを考えていたら、どうしても「悪」というところに行き着く。僕はこのごろ「自然悪」というのを考えているんです。自由な人というのは、自然に悪だと思う。とらわれず気ままにふるまうから、不自由な人から見ると、それは悪に違いないのである。しかし当の本人は悪の意識などまったくない。もちろん、自由気ままに生きるという意識もない。「自由気ままに生きる」なんて言っている人は自由でもなんでもない。ただのご都合主義だ。不自由な自分をごまかして、見せびらかしているだけだ。自由な人は自然に悪である。だが、不自由な人が悪を目指せば、それはただの悪なのだ。自然悪に対して、偽悪であり、またそれが本当の悪であるとも思う。自由は悪だが、悪=自由ではない。自由な人の悪、つまり自然悪は自由な人の外にある。つまり不自由な人が感じる(つくりだす)悪なのだ。それにたいして不自由な人の悪は、その人の中にある。不自由な人はみずからの悪を知っているのだ。また自由な人はその悪を悪と感じない。自由・・・。
2007年03月29日
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陰陽五行の本を買ってみました。陰陽五行は東洋医学で知って、それで気になっていたんだね。読んでいると、フムフムナルホドと思えるところが数多ある。体系化が見事ねー、という感じ。し・か・し。逆にいえば体系化が見事すぎ?つまり現実に即していない部分がある。あまりに陰陽五行でとらえようとしすぎて、無理やりでごり押しな感があったりする。まあそのへんは昔っから分かっていたようで、東洋医学のほうでも、そこまで陰陽五行にどっぷりでもないらしい。やはり医学は現実に即した学問だから、「実際にどうなるか・どうするか」ということには強いのだろう。ここにも「思想」の無力性を感じるね。やはりどんなに古くからあって、僕らの生活にふかく根付いている思想であっても、完璧ではないんだね。当たり前だけど、どうしても僕らは「古くから伝わる」というフレーズに弱かったりする。どんなに古くてどんなに良いものでも、それは人が作ったものなのだ。世の中は陰陽五行で成り立っているのではない。陰陽五行という色メガネで世の中を見ることも出来るよ、というあくまで方法論としての可能性なのだ。最近は一部で「東洋!和!ナンバ!」なんて騒がれていたりするが、東洋思想がすばらしいのではない。ただ、西洋思想一辺倒な僕らにとって、東洋思想は「新しい」価値を提供するというだけ。真理でもなんでもない。極東の僕らが、「東洋は新しい」なんて言ってるのもおかしな話だが。とにかく「偏る」、ということが問題なだけです。西洋だって素晴らしい。(とはいえコジン的に日本が好きです)まあ偏っていることにさえ気づかない人が多いから、「西洋の思想は反自然だ!悪だ!」くらいに標榜しても丁度いいのかもしれないね。でも、そういうことをするから時代が蛇行運転してしまう。大衆が右往左往してしまう。価値の無価値性とでもいおうか。明日、もし何か大きなことが起こったときに、自分の「教科書」を「墨塗り」にできますか?ってことなんです。他人や世間に作られた「価値」に踊らされてないだろうか。なんか話が逸れぎみだな。だから陰陽五行もひとつの「文化」にすぎないということ。「文化」っていうのは「世界の区切り方」ということだね。陰陽五行の成り立ちが面白くてね。どんどんいろいろな論をとりいれて膨張していったようだ。五行論に陰陽論があわさって、そこに時間の概念が・・・方位学が・・・みたいな。またその膨らみも人間的っていうか、ある学問が陰陽五行論で自説を権威付けたり・・・。ぜんぜん現代と変わってねえ!!やっぱり壮大な思想をバックボーンにするとその人・技術・集団はカリスマ性を持ったりするわけね。まあカリスマ性といっても、その信者の大半は「伝説」に群がるオタク君たちだったりするんだけど。バックボーン(背骨)としての思想に寄りかかる、つまり妄信するから思考がないのだね。思想に憧れるからただのオタクになる。技術に憧れたら、ちゃんと研究するでしょう。思想に憧れるってことは言説にとらわれるってことですよ。技術に憧れるってのは、その対象をきちんと観ているということです。神格化するか尊敬するかっていう違いです。またまた大きく話が逸れました。何が書きたいのかよくわからなくなったので、今日はやめておきます。俺、こんな日記書いてっけど、ふつうにこんなことしゃべってくるやつがいたら、ウザイだろうな~(笑)
2007年03月28日
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「ゆたか」という言葉が好きです。これ、なんとなく言葉のひびきって思ってたんですが、ふと「じゃあ、ゆたかってなんだよ」と思いました。で、考えて出た暫定結論が「ゆたかさとは、構造の多様性である」ということでした。なんだか小むずかしいですね。ゆっくりお話をすすめましょう。□■□■□「ゆたか」というとパッとイメージで「多い」「大きい」「ひろい」「たくさん」「いっぱい」「あまり」などの言葉が浮かびませんか。僕ももともとはそう思っていました。でもよく考えてみると、ゆたかというのはたぶんもっと内部のことを指しているんじゃないかと思ったのです。「からだのゆたかさ」が大事なのだということを僕は思っています。このときの「ゆたか」というのは「大きさ」ではないですよね。恰幅のよい人、つまりデブですが、そういう人が「ゆたか」で、ガリガリのヤセは身体がまずしい、ということではないのです。見た目のデブだとかガリだとかは関係ない。そうではなくて、「身体の捉え方」ひいては「身体のつくり(構造)」の問題なのです。詳しい人の誤解を恐れずにいえば、「人間の持っている関節のうち、どれだけ多くを使えているか」ということが問題になるのです。脳は、その能力の数%しか使われていないなんてことはよく言われていますが、身体についても、ここでは「関節」に話をしぼるとしても、僕らはたぶん、その全能力の数%しか発揮できていないのです。たとえば、さっき人と話をしましたが、足の小指を動かしてみろ、というと動かせないのです。そこに関節があるのに、動かせないのです。これは僕らが身体を使いこなせていない証拠の一例です。使いこなせていない、というのはアレです、「身体のオートマチック性」に甘えているからです。「オートマチック性」というのは文化であり、先入観のことを言います。文化というのは、本質的に非思考性によって成り立ちます。ここまでくるとちょっと話が分かりにくくなりますね。なので、ちょっと省略して話してしまいますが、「できている、と思った時点でそれ以上のゆたかさは見つけられない」ということになります。たとえば、いわゆる「健常者」なら誰でも「歩く」ことができる。しかし、ここでいう「歩く」は僕が「運転できる」というのと同じレベルです。僕は運転ができる。F1ドライバーも運転ができる。ここで、おなじ「運転」という言葉が使われていますが、その内容はぜんぜん違いますよね。それと同じで「歩く」ということもいろんなレベルがあるということです。「競歩の人は歩くのが速い」ということじゃないですよ。すぐにそういうことを思う人は、ものごとを数値化して大小で見てしまうクセがあるので気をつけてください。話が長くなってきたので歩き方の詳細については割愛しますが、「歩く」ということは無限の捉え方があるのです。僕は今でも新しい歩き方を発見します。2年くらいやってますが、どんどん新しい歩き方は発見されます。歩き方ひとつでさえ、いろいろなやりかたがあるのだから、それを、身体のうごきひとつひとつ考察したら、それこそ宇宙より広い世界がからだの中に広がるのです。最終的には「よく立ち、よく歩く」だけに集約される気もしますが、まだよくわかりません。□■□■□論文ではなくあくまで随感なので、論理が破綻してるところとかも許してください。フィーリングで読んでください。ゆたかさとは、構造の多様性である。つまり、組み替えることは無限であるということです。組み換えによって、あたらしいものが生まれるのです。あたらしいものはどこかにあるのではない。組み替えることによって、見出されるものなのだ。それを自分の身体をつかって試し、その身体のゆたかさ、身体のあたらしさを味わうこと。僕はそういうことが好きなのです。
2007年03月22日
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思考というのはなんと無限な世界なんだろう。考えるということはどこまでも広がる。宇宙、宇宙の果てまで!!しかし、それはあんまりいいことじゃないんですね。よく「肉体には限界があるが、精神には限りがない」といって、「精神のほうが上」みたいな言われ方をしますが、とんでもないと思う。広がり続ける、というのはどう考えても危ないことです。まあ風船にたとえれば分かるでしょうけど、どんどん膨らんだら、いつか破裂するのです。まあこれは自戒なんです。僕は思考が得意なほうですから、アブナイ側面を持っているなと自分で思います。「考え」だけが先走ってしまうのですね。僕の文章は偉そうでしょう?何かを悟ったようで。それは思考というものが本来的にもっている傲岸性なんです。尊大さといってもいいかな。むずかしい言葉を使いましたが、「偉そう」ということです。ここがポイントです。「偉そう」であって「偉い」ではないんです。「考える人」は「偉そうな人」です。「できる人」が「偉い人」です。夏目漱石だったかが、「偉き人は、難きことをする人なり」と言っていました(たぶん)。つまり、「むずかしいこと(人ができないようなこと)をするのが偉い人だ」と。ごもっともですね。むずかしいことを考えるのは、カンタンなんです。自分で「むずかしい」と思えばいいのですから。むずかしいことを実行するのがむずかしいのです。なんだか変な言い回しですね。混乱を承知でいえば、むずかしいことは実行するのがむずかしいのだ、と気づくことさえもけっこう難しいのです。はい、わけがわからなくなったのでやめましょう。今日書きたかったのは、現実を否定しちゃいけないよ、ということです。尊大な思考の夜を越えて、仕事の朝になれば、僕はほんとうにちっぽけな存在です。会社という機械の中のなくなっても大して害のないパーツです。「みんな尊い、みんな大切」なんてウソです。会社という観点で見れば、代わりなんていくらでもいるのです。僕らは兵士なんですから。それは社長でも同じでしょう。現実という世界では、僕はあまりにも無力です。売上を30万円あげることさえできない。客数を1000人増やすことも出来ない。そしてそれがウソじゃない、ということです。かならず、現実が基盤なのです。思考を土台にしてはいけない。思考というものが威張ってはいけない。仕事で、「なんにもできない僕」がいます。力ない存在です。それを認めないと、思考の海が大時化(おおしけ=荒れること)になります。逆に、現実さえ認めてしまえば、思考というのはよいストレス解消になると思いますね。もちろん仕事中も考えていたらダメですよ。仕事中は、目先のことを考える。パッと思考が切り替わるから、気持ちがよいのです。その意味で、僕は仕事をしていないとダメになると思いますね。部屋にこもっていると、たぶんそのまま「神」になります。現実のどろくささと、思考の純粋性とそのどちらをも楽しんでしまわないと、ただの泥まみれか、純粋培養の軟弱な神かのどっちかになってしまう。ただの泥まみれには品がない。純粋培養のよわい神には、力がない。やっぱり、バランスなんだ。それがオトナなんだ。
2007年03月17日
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けっきょくは人間でもなんでも生きていることは素晴らしいとか命あることの尊さとかそういった生命・人間賛歌もぼくたちが作りだした価値観にすぎずもちろんそれを信じることもそれを拒むことも自由だけれど人間が素晴らしいとか地球が美しいとかそういった一面的な価値観は最終的にあらそいを生み戦を生み戦争に発展するだろうイコールでむすばれることばとことばは同等なのではなく同一であるべきだ人間は人間だ素晴らしいは素晴らしいだウンコはウンコだセックスはセックスだそれは他のなにものでもなくてそれはそれでしかないそれでいい
2007年03月14日
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愛は証明することはできない。
2007年03月05日
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「ちゃんと教える」というのはなんだか変な気がします。みんな、学校教育や「びじねす」の毒に犯されて、感覚が麻痺してしまっているんじゃないだろうか。いいですか、大切なことは言葉にはならないのです。だから大事なことは教科書には書いてないのです。そんな当たり前のことを忘れてやしませんか?「ちゃんと教えてもらえること」なんてくだらないことばかりです。どこまでもくわしく、わかりやすく、かみくだいて・・・。そうやって、教わる人は、アタマの消化能力がないのです。消化能力を鍛えない人は、アタマが悪いままです。ツバメの子供のようにピヨピヨピヨピヨ、かみくだいた知識を、口をあけて待っている。「ちゃんと教えられること」なんてつまらないものばかりです。そんなものを後生大切にしているのは、バカらしいと思いませんか。ああ、僕はつくづく抽象思考の人間ですね。ときおり、こんなふうにユートピアルな考え方に支配されます。それはアタマの休養にもなるんですけど・・・。技術なき思想は、無力です。思想なき技術は、暴力です。このくだらない世界で、いかにくだらなく生きるか。それが問題だ。
2007年02月26日
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質問というのは大切なことですが、していい場合としていけない場合があると思う。合気道なんかはしてはいけない場合が多いのではないか。というのは意味がないからだ。まあ技がヘタで口が達者な人を質問攻めにするのは良いと思いますが・・・。本質は、言葉で伝えられることなどほとんどない。本質は、言葉で教えてもらえるほど甘くない。現代は、勉強や仕事でもあまりに「伝える」「教える」ということが軽視されている。みんな、言葉で伝わると思っている。言葉で伝えられることがすべてだと思っている。言えば分かると思っている。言われればできると思っている。甘い、甘すぎる!!一回言って覚えられるくらいのことなんかはほんとうにくだらないことなのだ。「これはこうするのだよ」と言って、教えた気になっているのも、教わった気になっているのも滑稽だ。なぜ表面的なことしか見えないのか。本当に大切なことは自得するしかない。こんなカンタンな大原則を知らない人が多いのではないか。教科書から学ぶという発想じたいが甘いのだ。教科書は、本来、参考書なのだ。とにかく何かの本質が「伝わる」ということは奇跡に近いものだと思う。それくらいの意識を持って、本気で望まない限り、本質を教わることなど到底できないだろう。
2007年02月16日
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最近は議論が嫌いです。議論というものにやる気を感じないのです。というのは人の思考のレベルというものがあるからです。思考のレベルが違ったら、議論にならないのです。人と人が話すときに、「学びあう」ということはあっても、「潰しあう」ということはないのです、本来。二人やそこらの小さい世界で議論に勝っても何の意味もないでしょう?ディベートとかいうのも、一時期流行っていたりしましたが、どこか人間味が感じられなくて気持ち悪い。あんなもので勝って嬉しいのか。一瞬だけ嬉しくても、それは大きく見ればむなしい。まくしたてるように相手を追い込むことが、ほんとうに人間らしいと言えるのか。それは僕からみたら、自然に反している。自然に反している人は不幸になる。これは縁起とかバチとかそういう話ではなくてね。リアルに。なんかこう、がんばって、「自分が自分が・・・」という人は、周りに迷惑だし、自分じしんも不幸感たっぷりなのだ。そしていつも、「お前も不幸になれ」というオーラを出している。残念ですが、僕はそんな汚いオーラには染まりません。幸福はいつも自由だし、輝いている。汚れたものどうしが集まって、さらに汚れていくだけです。自由ってことは議論しないのです。相手もよい。自分もよい。それは「ゆるす」ということにも通じてきます。ゆるすから、ゆるされるのです。議論をふっかけるのは、誰かを叩き潰そうとする試みです。あまり誉められたものではない。とかなんとか偉そうなことを長々と書きましたが、要は議論するのが面倒なだけかもしれません。とにかく最近は議論が嫌いなのです。
2007年02月12日
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この世界が嘘につつまれているとしたら、けっきょく嘘など 何もないのだ約束など信じるな言葉などあてにするな自分じしんを信じろ嘘などひとつもないのだここにあることすべてが真実
2007年01月25日
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壊れるということは戻ることができない。この世の中のどんなものでさえも、いったん壊れたら、もとには戻らないのだ。一見、直ったように見えるものもある。しかしそれは結局、意識のなかのできごとなのである。認識の問題であって、事実ではない。ぼくらは世界を捉えている。分析している。理解している。たとえば言葉によって。ぼくらにとって、世界はそれである。まるごとの事実ではなく、認識が世界だ。だからいったん壊れたものがまるで直ったように見えるのだ。しかし、どんなものも一度こわれたら元に戻りはしない。それは、時間が流れるからだ。電車のなかでジャンプしたとき、同じ場所に着地したと思っても、実際には数メートル進んでいる。そんな感じ。その意味では、壊れるということも創るということも不可逆なのであって、どんな一歩も、過去と今を壊し、未来を創る行為なのだ。「同じに戻る」なんてのは、甘い考えだ。ぼくらは絶対に引き返すことが出来ない。それだけは肝に銘じておくべきだと思う。一歩一歩が、大事だ。
2007年01月19日
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近ければ欲し、遠かれば欲さず。
2007年01月16日
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甘える、ということは期待するということだと思うんです。期待されるということ。これは言ってみれば、誰かから何かを要求されることです。人から何かを要求されるというと、ちょっとマイナスのイメージがありますね。「自分はこうありたいのにこうなければならない」「あげたくもないのに金銭を要求される」といった感じの強制感をイメージしてしまい、「要求される」というのは、いい感じがしないのです。しかし、実際には「人から何かを要求される」ということは、かなりの割合で、嬉しい場合が多いのです。それはつまり、何かモノ(コト)を要求されたことによって、自分じしんが必要とされていると思えるからです。前にも書いたように、僕らは自分じしんを見ることができない。言ってしまえば、自分じしんが存在するかどうかを確認するすべをもっていない、ということです。だから、「僕はここにいるんだろうか」という不安がいつでも陰をひそめているわけです。僕らは紙に塗られた透明なノリのようなものです。他人からの要求は、そこに振りまかれる砂のようなものです。他人(の要求)があってはじめて、僕らの姿があらわれる。そういった本質があると思います。だから、僕らは甘えたらいいのです。誰かにお願いするということが、けっして「迷惑をかける」ということではなく、いやたとい迷惑をかけたとしても、それはそれで、透明なノリに砂を振りかけたことになるのです。甘えられた人間は嬉しい。期待された人間は張り切る。自分という存在が見えたことが、何より嬉しいのです。体力やお金を使うことなど、どうでもいいのです。自分がここにいるのだ、ということを実感したいのです。甘えると、何かがもらえます。100の要求をしたら、最低でも3くらいはもらえます。だからたくさん期待すればいいのです。どんどん要求すればよいのです。ただ、100要求して3もらえたとき、「97くれなかった」と嘆いたり悲しんだり人は不幸です。3もらえれば十分なのです。今度は10000を望めば、300もらえるのです。要求する。甘える。期待する。そしてもらえたものに感謝する。それだけでいいのではないでしょうか。欲しくないよなんてうそぶいていると、カミサマは、くれるものもくれないと思います。だから、「甘えよ、さらば与えられん」
2007年01月12日
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失敗は成功の母。こんなことわざがあります。何かでミスってへこんでいるときに、励まされるような言葉です。たしかに失敗の経験を活かして、次の成功につなげることもできると思う。何をか行動する人のほうが失敗し、そして経験を重ねて成功を積んでいく。しかし、失敗の重ね方にも良いと悪いがあると思う。悪い失敗の重ね方とは何か。それは失敗のクセ付けである。多くの物事は、クセで決まることが多い。人生のパターンといってもいいだろう。よくない失敗のクセ付けとは、この人生のパターンを悪い方向に持っていってしまうのだ。何かしらの失敗をする。それは誰でもある。みんな失敗する。要は、その捉え方だ。「ああ、またやってしまった。やっぱり俺はダメだ」「ほら、うまくいくわけなかったんだ」という人は、失敗を無駄遣いしている。もともと潜在意識が「自分はダメだ」からはじまっている。だからその潜在意識に基づいて行動しその「自分はダメだ」という仮説を証明しようとするのである。これは不思議なことだ。なんで自分から悪い方向に持っていってしまうのか。まあいろいろ要因はあるのだろうけど、要は、環境がそのような意識を植え付けてしまったのだろう。だから、「自分はダメだ」という思いはまず、たんなる意識である、と気づくべきだ。それは、事実ではない。積極的に失敗しなければならない。つまり自分から何かやってみる、ということ。それは、この世界に自分じしんという仮説を提出することだ。「こうしたらどうなる?」「これをこうしたら?」「この場合は?」自分はまた、世界の実験台でもある。みずからを俎上(まな板)に載せ、みずからで調理するのだ。そういったときの失敗は、なんら自分を陥れない。「ああ、こうやったらこうなるんだな」という「結果」が得られるのである。その結果は大きくわけて、成功か失敗かのどちらかだ。そのとき、どちらから学ぶかが重要となる。俺が思っているのは、「成功から学ぶ」ということ。これは俺が合気道をする中で思っていたことだったが、あるビジネスセミナーでも言っていた。誤解をおそれずに言えば、失敗をいくら重ねてもムダなのだ。自分がダメだということを目くじら立てて証明して、それを他人に否定してもらおうというのは甘えなのだ。失敗を繰り返せばいいなんて甘いものではないのだ。失敗から、何を見出すのか。そしていかに次につなげるのか、が肝要なのではないか。矛盾したように聞こえるかもしれないが、結局のところ、成功からしか学ぶことはできないのだ。学ぶということは真似するということでしょう。漢語で言えば、再現するということなのです。失敗を再現するわけにいかない。つまり、失敗から学ぶことはできない。失敗からは、「気づく」ことしかできない。失敗でわかるのは、「やってはいけない」ことだけである。「どうすればいいか」ということは脳みそしぼって考えるしかないのだ。その「どうすればいいか」を考え、そしてやってみる。何事もそこから始まるのである。ただ、待ちの姿勢で消極的失敗を繰り返してもなんの意味もない。「仮説」を持って生きる。という姿勢が大事だと思う。
2007年01月08日
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「今が楽しけりゃそれでいい」まあそんな人は僕のブログを読まないでしょうが、いちおうそんな人に向かって書いてみます。「今が楽しけりゃそれでいい」というのは、一見して「今を生きる」ということに似ているように見える。しかしそれは本質的にぜんぜん違うのだということをちょっと書いてみたいと思う。実は、「今が楽しけりゃそれでいい」というのは、その言葉とウラハラに、すこぶる将来のことを考えているのです。むしろ将来のことしか考えてない。ぜんぜん今を生きていないわけです。それはどういうことか。つまり、「今が楽しけりゃそれでいい」というのは裏返せば「将来はオジサンオバサンになってつまらなくなるから、若いうちに遊んでおこう」という夢も希望もない話なのです。だから「今が楽しけりゃそれでいい」という考え方は、とてもむなしい。未来のことばかり考えているけど、ほんとうに未来がない。自分たちもそのむなしさを心の奥底で感じているのでしょう。しかし、そのむなしさから逃げている。老いと死の恐怖と不安から、目をそむけているだけなのです。「オトナがつまらない」と思っているのは、本当にコドモなのです。オトナは楽しい。何よりもオトナは楽しいのです。オトナは大変だけど、絶対にコドモより楽しいのです。だからもし、このブログを読んでいる人で、「今が楽しけりゃそれでいい」なんてバカげたことを思っている人がいたら、それは単なる逃げなのだと思ってほしい。基本的に逃げることからは何も生まれない。傷つくことから学ぶことは多いが、自分から逃げることは、絶対に犯してはならない過ちだ。逃げた人間が行き着く先は、奈落しかない。オトナは楽しいのです。その楽しさをもっと増すために努力があるのです。遊んでる場合じゃないんです。また、苦しんでる場合でもないんです。楽しんでる場合なんです。「明日はないかもしれない」そう思ったら、楽しむしかないのです。
2006年11月24日
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何が続くことがあるだろうか。僕らの生は有限なのだ。時間は限られているのだ。今を生きているか?終わりから目を背けてはいないか?「明日」という言葉に、甘えてはいないか?何もかもが変わっていく。だからこそ、今、ここにあることの大切さ!昨日と今日の延長線上に未来があるなんて傲慢だ。僕らが、何を知っているのだろう?ちっぽけな経験則で、自分を縛ってはいないか?明日なんてないんだ。一寸先は、光だ。
2006年11月16日
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基本があったり、それで応用があったり、ましてや答えがあるようなものは好きではない。そもそも答えは探すものであって、どこかにあるものではない。答えはつねに俺の中にある。
2006年11月14日
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有は無に如かず。
2006年11月12日
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98点の人間がいたら、あとはアラ探しするしかないのだ。もちろん、ぼくは98点の人間などではないが、まあ、アラ探しをされる立場にある。もう腹が立って腹が立って。だ、け、ど。やっぱり「自分の点数」あげるにはアラ探しされることも大切なわけですよ。アラ探しやイヤミを無視する技術も大切だろう。だけど、その上のレベルとして、それらを「受け入れる」、そして「感謝する」というレベルがあるのではないか。難しいとは思うけど、ちょっと考え方を変えてみたいと思う。
2006年11月09日
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最近は仕事というもの自体について考えています。僕が求める「自然」という道。仕事を通じて、いかに自然に近づいていけるか。そもそも、仕事というものによって、自然に近づくことが可能なのかどうかが知りたいわけです。仕事に大切なもの。計画性。戦略。管理。指導・命令・教育。報告・連絡・相談。「情」というのはどうもあまり重視されないようです。もともと僕はこう見えて、情には弱いほうです。しかし、仕事では情を大切にしながらも、情に流されないことが必要になってくる。嫌だけど、叱る。言いにくいけど、言う。また頑張っても誰も評価してくれません。結果が大切なのです。いっぱい働いているように見せることでなく、やるべきことをやる。機能を分担し、適材適所で、効率的に、ムリ・ムラ・ムダをなくして、生産性をあげる。命令・指揮系統が明確で、責任の所在もはっきりしていることも大切かな。まあ社会人になって1年ちょっとしか経ってないのに仕事を語るのは早いかもしれないが、僕は上のように実感している。ちなみに余談だが、新入社員の頃は「仕事ができるとは、思いやりだ」と思っていた。2年目のはじめは「仕事ができるとは、計画性だ」と思っていた。今は「仕事ができるとは、人を動かせることだ」と思っている。今後はどう変わるだろうか。で、仕事なんですよ。ぐわーと後ろを振り返ってみて、僕ははっと気づいたんです。仕事ってのは、戦争の論理なのだと。かつて、もう縄文とか弥生時代のことだけど、ムラがあり、そしてクニができた。そうすると、ムラとムラ、クニとクニの争いが起きます。その「いくさ」に必要だったのが、「計画・管理・命令系統」などなのではないか、と思ったんです。「いくさの論理」は「勝利への哲学」であります。それは「光と影の道」であり、「自他の分化」でもあり、「二元論」と言ってしまってもいいでしょう。正があり邪がある。善があり悪がある。ナンバーワンを大切にする世界です。とーっても不自然な世界なんです。でも、どうも気づいたようです。 続く
2006年11月06日
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賢人が世の中を嘆かなかった時代があるだろうか。
2006年11月01日
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もしもこの世に女がいなかったら男というものも存在しないだろう
2006年10月13日
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やっぱりトップは権力があるな、思います。当たり前だけど。権力と責任。これは一緒についてくるね。でも責任と一緒についてくるものがある。それが孤独。偉くなればなるほど、人の心は離れていく。その代わり、人の言葉が近づいてくる。甘い言葉が近づいてくる。でも、それくらいでちょうどバランスがとれているのかもしれない。誰だって、偉い人の相手なんかしたくないんだよね。気を遣うから。でもヤダヤダ言うのは簡単でさ、トップの孤独考えてみれば、すこしは、そのヤダヤダも軽減するかもね。でもどんなに甘い言葉や態度も、本質的には虚しいような気がするな。偉くなるって、大変だな。
2006年10月11日
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たぶんチャンスってのは、皆に平等に降り注ぐ陽光のようなものじゃなくて、光を探し求めて歩く求道者にだけ差し込む 一条の木漏れ日のようなものなのではないだろうか。たぶんチャンスというのは事実そのものではなく、「捉え方」を言うのだ。猫に小判の価値は分からない。豚に真珠の価値は分からない。小判と真珠の価値を知るのは人間である。価値、とは真実ではなく、捉え方である。そこにオイシイことが転がっていても、ブタには分からない。たぶんチャンスを掴むのは、運がいい人ではない。努力をしている人だ。「自分は運が悪い」などと言うものではない。「運が悪い」のではない。「行いが悪い」のだ。「運が良かった」は努力した人の謙遜である。
2006年10月09日
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「半信半疑」という言葉は、どうもマイナスイメージをともなって使われる気がする。「はじめは僕も半信半疑でした」「彼は半信半疑だったが、やってみた」など、「疑いまくりですよ」といった負の印象で使われている。しかし今日思ったのだけど、「半信半疑」こそ人間の持つ知性の、理想的な具現ではないだろうか。半信半疑。文字通り半分信じて、半分疑う。どうですか、このバランス感覚。僕はけっこう感化されやすいほうで、すぐに「燃える」。ハウツー本を読めばすぐにやってみたくなるし、健康本を読めばすぐに実践してみるし、会社の研修にでると、会社の思惑通りに乗せられて、やる気をだしてしまう。言葉というのは理論であります。僕は理論をわりかし信じるほうです。だからすぐに燃えるのです。でも半分疑っている。「ほんとにそんなにうまくいくのか?」と思っている。だから何でもやってみないと気がすまないのです。やってみてできたら、その理論が正しいことがはじめて証明される。はじめからまったく信じないのは勿体ないのです。まったく信じないのは、たいてい損をします。どんなにうさんくさいことでも、ー多くはその長所ばかりを神秘的に書き立てているーまずは信じてみることです。うさんくさいものにも、いいところは結構あります。たとえば合気道なんかはウサンクサイ武道の代名詞のようなものですが、やってみればその奥深さに驚かされます。ちょっと見ただけで「どうせやらせだろ」と決め付ける人は残念ながら知性が足りません。理解できないものを拒否することで、傷つくことを恐れているのです。「分かったふり」でその場をごまかす臆病な人です。またちょっと見ただけで「達人だ!」と叫ぶ人も問題です。こういう人も知性が足りません。素直といえば聞こえはいいですが、要するにモノを考える習慣がないのでしょう。どう見たって受けが自分で吹っ飛んでいるのに、その取りを達人のように扱ったりして、傍から見れば、アブナイ開祖とイカレタ信者にしか見えません。合気道をマトモに鑑賞するには「半信半疑の眼」が絶対的に必要なのです。信じるということを疑うということは対極にあるようで実はけっこう似ています。良さそうなものに「欠点があるのでは?」と思うことは悪そうなものに「いいところもあるのでは?」と思うのに似ています。半信半疑というのは、つまり自分だけを信じるという態度です。言葉や理論で見聞きしたことを「検証しよう」という態度。人の言葉はあてにしない姿勢です。無視はしないけど、妄信もしない。自分の目で見、肌で感じ、それを検証し、「そうだ」と思ったことをはじめて口に出す。これが半信半疑なのだと思います。
2006年09月19日
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「愛憎」という言葉があるでしょう。文字通り、愛と憎しみということだ。そして次のようにも言われている。「愛と憎しみは結局同じなのだ」と。でも、僕はそうじゃないと思う。愛の対義語ってなんだろうと考えたとき、それは「かなしみ」なんだと思った。たとえば愛を失ったとき、健常・健全な人であれば、そこに残るものは「かなしみ」なのである。ぼくは「かなしみ」というのは「何かが足りない」という感情だと思っている。「そこにあるべきものがない」とき人は悲しいと感じるのだ。じゃあ憎しみはどこから生まれるのか。先にも言ったように、世の中では「憎しみは愛から生まれる」とか、「憎しみは憎しみから生まれる」、なんて言われている。しかし、そうではない。憎しみは、「期待」から生まれるのである。そう、憎しみは「期待」の対義語である。誰かに何かを「期待」して、それが叶わなかったとき、人はそれを「裏切り」と呼び、その相手を憎むのだ。下のような図を考えることができるだろう。 愛←―---------→かなしみ 期待←―---------→憎しみじゃあ、愛と期待、かなしみと憎しみの違いは何なのか。それは己にたよるか、他人にたよるかの違いである。つまり自律的か他律的か、ということもできるだろう。もちろん「愛とかなしみ」が自律、「期待とかなしみ」が他律である。ただ、それが好きで、愛する。それがかなわなかったとき、かなしい。それが健全な魂である。しかし他に対する期待が大きくなるとどうなるか。何かしてほしい。何かやってくれるはずだ。私はこれをやったから、相手もこれをやるべきだ。自らを棚にあげ、相手や他人にばかり要求する。そしてその自分勝手な論理がやぶられたとき、「裏切りだ」と叫んでは、相手を憎むのである。その不条理な憎しみに苦しんでいる人もいる。期待に応えようという一心で、自分自身を犠牲にしたりもする。だが、そのような我慢はまた期待を呼ぶのである。自分が犠牲になっているだから、あなたは〇〇ぐらいするべきだ、という期待である。だが相手は自分勝手な人間だから、その期待はとうぜん叶えられない。そこで憎しみが生まれるのである。他に対する期待は、基本的に憎しみしか生まない。それゆえ、他人に期待し、そして他人を憎んでばかりの人がいるのである。それは自分の欲望をかくす卑怯な行為でもある。他律的な軸の中に自分を置くことは、自分の欲望を表さないだけ傷付くことはないが、自分の欲求は永遠に満たされないため、ずっと誰かを憎しみ続けるのだ。たしかに誰かの期待をやぶることに、多少の痛みを感ずるのが普通であろう。しかし、その痛みを恐れてばかりでは、けっして本当の幸福は訪れないのだ。他人の期待をやぶることは、ある意味で、人間の持って生まれた罪である。人は他人の期待をやぶり続けて生きるのだ。しかし、それは悪とは違う。男子を欲した家系に女子が生まれた。その赤子は悪であろうか。そうではない。というよりは善悪を持ち込む問題ではない。それは「仕方のないこと」であり、かっこよくいえば「定め」である。天寿をまっとうし、誰かを悲しませる。かなしみの涙がそこにある。それは悪だろうか。「生き続けて欲しい」という期待をやぶることは悪なのだろうか。そうではない。それは天命である。「仕方のないこと」ではないか。「仕方のないこと」であっても、それをかなしむのは当然で健全な魂である。愛を失ったとき、かなしいのが当たり前なのだ。しかし、相手を憎むのは「ゆがみ」である。かなしみを真っ正面から受け止められないとき、そのベクトルは「期待と憎しみ」にずれていくのだ。かなしみを正面から見据えたとき、それは人の糧となり、また彼は成長する。かなしみと向き合うことができる人は、人を愛することができる人だ。かなしみから逃げる人は、人を憎むことと人に期待することしかできない人だ。人を憎むとき、人はなんらかの責任を多少なりとも放棄しててる。自分で追うべき責任から逃れるとき、そこに憎しみが生まれるのである。愛・期待・かなしみ・憎しみ・・・。この人の憂いをいかに知るか。鈍感では、やさしくなれない。
2006年08月30日
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自由・・・。僕らは思っているよりもっともっと自由な気がする。自分を縛るもの。法律・規則・会社家族・友人・恋人過去にした約束未来への展望・・・嘘だ!!自分を縛るのはただひとつ。自分しかいない。なぜ僕は自分を縛るのか。なぜ・・・なぜだ・・・!!恐怖。自分を守りたい心。自分を守るつもりが、自分を縛っている。もっと、自由へ・・・!!
2006年08月29日
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皮肉なことに、無理から真理が生まれる。
2006年08月03日
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賢者と愚者の圧倒的な違いは「違い」からすくいとれるかどうか、であります。愚者は外見の、カタチの、小さな、「違い」にこだわる。それはときに自らの優位性と正義のみを主張します。もちろん賢者も違いを主張します。しかし目的が違う。賢者が違いを指摘するとき、それは逆に「何が同じか」を主張しているのです。違いを強調することで、「共通点」を浮かび上がらせているのです。多くの論争は、論争として成り立っていません。はじめから、論客の立ち位置に差があることが多いのです。ある人は真理という山の5合目にいる。ある人は、真理という山のすそにいる。それでは、論議が成り立つはずもありません。「どれだけ大きくものをくくれるか」というのが人間の器をはかるひとつの基準になるように思います。たとえばここに、本屋と薬屋があるとしましょう。小人にとっては、これは大きな違いであります。まともな人が「結局は、人にモノを売るという意味で同じだろう」といっても、「何を言っている。本とクスリはぜんぜん違うじゃないか。 アンタは本とクスリが同じだっていうのか」とわけのわからない反論をしてきます。もう論点がズレてしまっているんですね。しかし真理を知る人にとっては本もクスリも同じなわけです。。そしてこういう。「ああ、そうだ。本とクスリは同じだ。人の心身を安らかにするという意味でね」小人は反論します。「本とクスリが同じだと?本は読むもの。クスリは飲むものだろう」こうやって読むと小人のくだらなさがわかりますね。こういう人を相手にするのは時間のムダです。しかし実際はこういった議論ともつかない議論が多いように思います。「違い」をすくいとるんじゃないんです。「違い」からすくいとるんです。賢者と賢者はケンカしない。なぜなら「違い」のかたまりである他人を見ても、共通点を見出せるからです。「ここが違うけれど、ここは同じだ」そう思えるから、まともに議論ができるんです。違いが見つけられないのは愚かだ。しかし、違いにこだわるのは、もっと愚かだ。
2006年07月24日
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甘える、というのは色んなカタチをとる。「ねぇ、これ買ってよぉ」とか猫なで声でいうのは、「目に見える甘え」である。これは実体とカタチにずれがないため、問題ない。素直である。「目に見えない甘え」というのがやっかいだ。「目に見えない甘え」は色んなカタチをとる。正義の主張であったり、怒りであったり、依頼であったりするのだが、実体は甘えなのだ。甘えとは相手に期待すること。その期待を裏切った相手を批難すること。僕も、誰かに甘えているかもしれない。いや、甘えているはずだ。ちょっと考えてみよう。
2006年06月28日
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我慢には限界がある。工夫には限界がない。
2006年06月21日
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入力と出力ということです。インプットとアウトプット。食事と排泄。知識と知恵。学びと遊び。これらは対極に位置するものではありません。いや、対極に位置するんだけれどもあい補い合うものであり、けっして対立するものではない。まあちょこちょこと説明していきましょう。知識というのは、いかにモノを頭に詰め込むか、ということです。知恵というのは頭を空っぽにすることです。知識の放出ということですね。だから「知」を「恵む」というわけです。(↑勝手な解釈なんでご注意を)それは普通な言い方をすれば「知識を役立てる」ということでもあります。だから知識を頭に詰め込むことも大事、それを利用するのは(知恵)はもっと大事、ということになりましょうか。頭を空っぽにするというのは、今風の言葉で言えばアウトソーシングです。具体的には大きく二つの方法に分かれます。ひとつは、メモの活用。ひとつは、他人の(頭の)活用。です。それは「書くこと」と「聞くこと」であります。そういうことだと思うんです。
2006年06月21日
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何かをしてあげたり、何かをしてもらったりとかそういうことではなくて、何もしないということが究極的な愛なんじゃないか、と思う。何もしないこと。その難しさ。もちろん、無視したり憎んだりしては「何もしない」ことにはならない。何もしないとは、ごく普通に普段どおりであるということ。あるがままの境地。遠い、なんて遠いんだ。
2006年06月19日
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人は自由なのだと気づくこと。するとだんだんと自由になっていく。自由になるために必要なものはただひとつ。勇気である。勇気とは何か。勇気とは、小さな一歩を踏み出すことだ。どんなにがんばったって、人間が一歩で100メートル進むことはできない。一歩しか進めないからといって嘆くことはない。10メートルさえも遠いと悲しむことはない。できることをやる、ということ。これが、難しい。カンタンに聞こえるけど。僕らができることは意外に多いのに、できないと思い込んでいる。たしかに、瞬間移動したり、空を自在に飛んだり、カメハメ波を出したり、ということはできない。だが、好きな人に告白したり、自分には似合わないような派手な服を着てみたり、嫌いな奴に「バカヤロー」と言うとか、仕事をやめて旅に出るとか、そういうことは、「やろうと思えばできる」ことだ。そういうのをやってみるということ。小さなことでもいいから。つまり「実際にできないこと」と「できないと思い込んでいること」をはっきり分けるのです。そうすると、「できないと思い込んでいること」がほとんどだということに気づく。これは驚きです。かくいう僕も、まだまだたぶん「自分の奥底から湧き上がるもの」を隠していると思う。たとえば「現実」とかいう言い訳をして。その言い訳をやめて、自由になったとき、ほんとうの夢がはじまると思うのです。僕の夢はなんだろう。自由へ。そしてその先へ。
2006年06月17日
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「ほだし」という単語を古典の授業で知りました。訳は・・・1:手かせ、足かせ2:係累(妻子などの親族)とのことでした。要するに、自分の自由を物理的・精神的に縛るものということのようです。昔の人は「家族」と「足枷」を同じ言葉でくくっていたんですね。ちなみに「情にほだされる」という言い方がありますが、その「ほだす」が名詞になって「ほだし」になったようです。人のつながりは、どうも距離感が難しい。好きなら近づく。嫌いなら離れる。そういった原則はある。だが、それだけではない。好きなのに話かけられない。嫌いなのに愛想笑いをしてしまう。好きなのに冷たくしてしまう。嫌いなのに、気になる。そういうことがある。逆にいえば、好きだからといってずっと一緒にいればいいわけでもないし、嫌いだからといって、心から否定していいものでもない。ハリネズミのジレンマというお話がありますね。寒いところにハリネズミを2匹おいておくと、おたがい寒いので近寄ろうとする。でも近寄りすぎると互いのハリが刺さってしまって痛い。それでお互いに適正な距離を探し続けると言うんです。(想像すると結構かわいいですが)だが人間には目に見えるハリがない。みんな鋭いトゲを持っているのに、見えはしない。だから距離が測りづらいんですね。だけど、距離を考えなければならない。距離を無視したら、共倒れになる可能性もある。傷つけあってしまうかもしれない。だからずっと続けるのです。「適正な距離を探し続ける」わけです。これが煩わしさです。ときに面倒になることもある。だけどそれも愛のうちなんだナァとふと思ったのです。
2006年06月15日
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言葉がなくては伝わらない。言葉がすぎれば嘘になる。そのバランス。
2006年06月10日
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「技」<わざ>という字と「枝」<えだ>という字は似ています。武術の大名人、佐川幸義先生のことを書いた名著「透明な力」(講談社)という本がありますが、そのなかに先生の語録がたっぷり載っています。すごく納得することばかりで、やはり名人は違うなあと感心するのですが、しかしよくよく読んでみると、「無茶苦茶な」ことばかり言っています。「だいたい、技ができない人に限って、 精神、精神というようになる」「精神だけではなにもできない」「精神力だけ強くて気張ってみても駄目だ」とおっしゃったかと思えば、ひるがえって、「精神力がいちばん大事だ」「結局、心ですよ」「結局は精神力だ」となる。言葉だけ取り上げると「???」となってしまう。しかし上のお言葉は本当は実に理路整然としていて、どこも撞着していない。それは次を読めば分かります。「それ(精神)を活かすための技術を練習しているようなものだ」「精神は技術を通していきてくる」これが答えなんです。まず中枢として精神がある。精神があるから技術が発達する。そしてその技術が精神を活かす。、ということです。木の幹が精神です。枝が、技術です。精神だけでもいけない。技術だけでもいけない。これは心と言葉の関係にも似ています。心だけでは何も伝わらない。言葉だけでは、伝えるものがない。これは当たり前のようでいて、なかなか世に浸透していない理だと思います。だからテクニック(技術)系のいわゆる「ハウツー本」が生まれる。「頭をよく見せる技術」だの「モテる技術」だの「仕事ができるようになる技術」などなど。こんなもんはココロのない人が読んでも何の意味もない。技術は精神にサンドイッチされねばならない。逆に、精神は技術を含んでいなければならない。まず精神がある。だから技術が身についてくる。その技術によって精神を活かす。精神→技術→精神、という順になるわけです。これは仕事でも恋愛でも、合気道でもおんなじだと思う。技術はこころの枝、なんです。
2006年06月03日
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