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あんまり速くないのに優勝したと周りに言いふらす・・・見栄はる・シューマッハ。Georgeの、情事。
2007年04月22日
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ぼくらは、誰かのことを「良い」とか「悪い」とか「好き」だとか「嫌い」だとか評価します。また同時に誰かから評価されているわけです。「あなたは良いね」「あなたは素晴らしいね」そう言われると、嬉しくなります。ぼくらの心は、意外にというか、案の定というかもろいものです。「他人の評価を気にするな」「自分で自分を評価しろ」などと言われたりしますが、どうしても他人からの評価というのは気になるものです。他人の目線を気にしないフリをするのはカンタンですが、他人の目線を気にしないのはよほどでないとできないと思います。「あなたはよい」と言われれば「そうかな?」と思うし、「お前はダメだ」と言われれば「そうかな?」と思ってしまう。一人ならまだしも、20人くらいに言われたら、「そうに違いない」と思ってしまっても不思議ではない。ただ、思うのはその「評価」が力を持つときというのは「自分がその人を認めているとき」だけなのです。たとえば、10代のころ部活の先輩から「うまい」と誉められましたが、その先輩がぼくより下手だったので、嬉しくなかったのです。また学生の頃、教授に誉められたことは今でも強く覚えています。その先生が偉大な人だと、ぼくが思っていたから、余計に嬉しかったのです。最近では友達が、会社の後輩に「かしこい!」と言われてキレたという話。「かしこい」というのはホメ言葉ですが、後輩に言われても嬉しくないということです。これは面白いことです。つまり、自分が相手を認めていなければ、どんなに誉めてもらっても嬉しくないということです。だからまずは自分が誰かを認めることだと思うのです。たぶんぼくはそういう基本的なところを何か勘違いしていると思うのです。最近は自分の我が強いんだか弱いんだかわからなくなってきました。今は修行の時代なのだと思います。「人知らずしていきどおらず、また君子ならずや。」何度もそんな言葉を反復しています。
2007年04月21日
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Gパンを買いました。わーい。今から「イルマーレ」を見ます。
2007年04月18日
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最近のことですが、一夜にして家の前が田んぼになっていました。おかげで毎晩酒が飲めない人の大合唱です。下戸の大合唱です。ゲコゲコと大合唱です。カエルがたくさんいます。オタマジャクシはもう十分です。さて、昨夜は「明日の記憶」を見ました。59です。号泣です。言い過ぎた。ほほをしたたるくらいです。とにかく面白い。いつになっても「オヤジの本気」はカッコよいのです。女の強さ。その涙。なんでこんなにDVD鑑賞しているのか分かりません。ただ夜になると、無性に見たくなるのです。単数用か複数用かという意味で、本とDVDは性質が違うんだなあ。
2007年04月17日
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地震でした。揺れました。震度5強?お店の中ぐちゃぐちゃです。2階は閉鎖しました。無念・・・。けっこう偉い人たちが休日なのにヘルプに来てくれました。直してもらった途端に余震がきてまたやり直しです。無念・・・。ともあれ怪我人がでなくて本当によかったです。それだけが救いです。余震が怖いです。家の中の本棚はなんとか無事でした。今日は寝る場所を変えます。さすがはカミナリよりもオヤジよりも怖い地震だぜ。一寸先は闇とはこのことか。何が起こるか、わからないね。
2007年04月15日
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今日は朝から銭湯に行ってきました。昨日、風呂に入らなかったので・・・。そのあとひさしぶりにチャリンコに乗って、買い物に行きました。2ケツでおケツが痛かった。昼はキムチ雑炊にしました。インスタントの。そのあとDVD(スターウォーズ)を見ようと思ったのですが、流しているうちになんかよくわからなくなり、まあいろいろあって、なしくずしになりました。それから、万代書店という古着やらなんやらが売っているところに遊びに行きました。Gパンを買おうと思いましたが、いいのに出会えませんでした。オサレなGパンほすぃ~。(←ウザ)戻ってきてから、キムチ鍋をやりました。キムチ鍋クソうめー!雑炊までたっぷり食べました。本日2杯目。キムチ鍋食べながら、「フラガール」見ました。なにあの映画。面白すぎ!!松雪恭子うつくしすぎ。姿勢が、たまらん。しずちゃん面白すぎ。名わき役。ちなみにキムチ鍋の名わき役は男前豆腐(黒)でした。蒼井優の魅力を初知り&納得です。今度は蒼井そらの魅力を調べてみようと思います。あくまで調べるだけです。そんな休日でした。そんな、休日でした。
2007年04月14日
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「氷の微笑」というDVDを見ました。たしかに氷の微笑でした。R18でしたが、どこがR18なのか不明でした。最後も釈然としないまま終わりました。でも夜中の12時ごろから鑑賞するってのはなんだか粋だなと思った。いま、手元にシュガー&スパイスがあります。砂糖と香辛料があるんじゃなく、そういうタイトルのDVDがあるということです。時間があったら見ます。スターウォーズも借りてきました。時間があったら見ます。それからフラガール。なんでこんなにレンタルしたのか、魔が差したとしか思えません。さっき、パスタ作りました。コーンと木の子のバターしょうゆパスタです。この前、炒めゴハン作りました。ネギと鳥肉をゆず胡椒でチョイチョイと。そんなつもりはなかったのに、なぜかナシゴレン的なものができました。現在の積ん読は5冊くらいです。でも実際は積んでなくて、ぜんぶカバンに入っています。出かけるときに持っていきます。本がこの世になかったらたぶんぼくは死んでます。あ、でもたぶん言い過ぎました。死にません。映画も音楽も本にはかないません。じゃあ本と合気道は?と言われるとそれは気分によります。なんだか自分の生活を書いてみました。人知らずしてうらみず、また君子ならずや。
2007年04月13日
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ほんのちいさなことでいいと思うんです。ちいさなことにこそ大切なことが宿るんです。たとえば、誰かのことを思って米をすこし固めに炊くとか風呂をすこし熱めにいれるとかお返しのできないくらいほんの ほんのちいさな おもいやりそんなことがどれだけ大事なことかちいさなことを見逃すようではおおきなものを見つけられるはずもない
2007年04月12日
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適当に生きることだけはできない。いろいろ嫌なこともあると思う、この先。へこんだり、くじけたりやけっぱちになったりもすると思う、この先。でもね、やっぱり適当に生きていくことだけはできないなと思った。たとえ間違っていようが、うまくいかないことがあろうが、そしてそこに苦しみがあったとしても適当に生きることよりは何倍もよいことだと思う。ぼくは真剣に生きているだろうか。その問いだけは忘れないようにしたい。
2007年04月12日
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「涙そうそう」を見ました。レンタルDVD。・・・。けっきょく何が言いたいのかわからないまま終わりました。なんでツマブキ(にーにー)は死んじゃうんでしょうか。命粗末だな~。まさみは可愛いが、標準語でしゃべったほうが良いと思う。そんなDVDを見た午後でした。そのあと合気道の稽古もしました。ちゃんちゃん。
2007年04月08日
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あんまり心機一転な感じがしないですが、4月になりました。平成19年度ですね。俺も社会人3年目です、と言わねばならない。なんだか気恥ずかしいです。今年は同期で誰が辞めるんだろうか。どうやら桜もちらほら咲き始めているようです。いやおうなく、時はめぐります。今日は、とてもあたたかい日だ。
2007年04月01日
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舞い降りるしあわせも、ふりかかる災厄も大本は自分にある。僕らは他人の心を読む。彼は楽しんでいるのか、かなしいのか怒っているのか、嬉しいのか。つねにそういうことを無意識的にでも考えて動いている。相手の心を推し量るとき、その目安となるのは自分しかいない。いや、自分しかいない、というかついつい自分を基準にして考えてしまう。相手は何を考えているのか? ↓その見た目(表情など)を判断。笑顔である。 ↓自分なら、笑顔のときは嬉しいときだ。 ↓よって、相手も嬉しいのだろう。もうちょっとカンタンにすると、1:相手は笑顔である2:自分であれば、笑顔=嬉しい、である3:よって相手の感情は「嬉しい」である。というふうな論理によって推量が成り立っている。ここでひとつ見えてくることがある。それは、暗黙の了解として、「自分=相手」という前提になっていることだ。これが人間関係の誤解の根本だ。なぜ、「自分=相手」なのか。そこの根拠がまったくない。同じ人間だから?それは観察を怠っているだけだ。相手そのものを見なければならない。相手のタテの状況(歴史)とヨコの状況(社会など)を十全に把握し、相手を読まねばならないのだ。しかしついつい僕らは自分勝手に、「自分」を相手にあてはめてしまう。うさんくさい道徳が、「相手の立場にたって」なんてことをほざいていたりするが、そんなことはできるわけがない。やってるつもりでも、それは単なる悪意なき偽善だ。相手の立場に立つことなんかより、自分なのだ。自分は自分自身に立脚した視点でしかモノを見れないことに気づくことが大事だ。自分は自分であり、相手は相手なのだ。とらわれてはいかんね。こんな当たり前のことでさえ、サラリと忘れてしまうよ。悟りは遠いなあ。
2007年03月29日
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さっき、風呂から出たらパンツがありません。詳しく言えば、洗ったパンツがありません。洗濯サボりすぎました。しかたなく、ノーパンでコンビニへ。ウソです。脱ぎたてホヤホヤのを履いていきました。風呂上りに。ぎゃー。買ってきましたBVD。トランクス派です。今からそれに履きかえます。これでゆっくり眠れます。ふう。
2007年03月27日
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地震がありました。思うのですが、自信って、なんなんだろう。俺は、自信がないのかな?自信家に見られることもたまにあるけど、それは自信がない裏返しなのかもしれないな。自分を信じる。自らを信じる。おのずから信じる。信じるというのは、大丈夫という感じ。「待つことが出来る」という感じ。動き回ることは大事だけど、動き回ってないと不安、というのもおかしい。自由。自信。ほど遠いな。あー。
2007年03月26日
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たとえば毎日「愛してる」とささやき、おいしいごはんを作ってくれ、またどんな料理もおいしいと言って笑顔で食べてくれ、家事をさぼっても怒らないし、夜の生活も申し分なく、ウワキもしない、夜遊びもしない、そんな「永遠の結婚詐欺師」とほんとうに心から愛しているのに、気恥ずかしく、言葉にはできず、何も言ってくれず、家事もしてくれないまずい料理はひっくりかえす、会話もない、そしてそのまま死んでいくそんな「純粋な漢(おとこ)」だったら、どっちが愛のある人間といえるだろうか。くだらない話で・・・スマン。
2007年03月25日
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今日は髪を切ってくるついでにちょびっと名古屋を散策しました。思いのほか雨などが降っていて困りましたが、コンビニでカサを買って、九死に一生を得ました。某巨大書店を2つほど見ました。あまりに広すぎて探すのメンドクサイ!!やはりあるべきものがあればよいなと思った。それからアレ、あたらしく完成した、ミッドナイトムーンライトだっけ、いや違うな、ミッドランドスクなんとかっていうでっかい建物に行ってきました。感想を一言でいえば・・・つまらん!!建物は新しいかもしれないけど、発想が古い!695秒くらいで飽きちゃったよ。やっぱり街は一人で歩くにはあんまり面白くないね。孤独と孤独がせめぎあい、そして癒しあう。街という名の窮屈なヴァイオリンは今日も眠らず鳴り響く・・・なんだそれ。
2007年03月24日
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今日は牛丼を作りました。真ん中に卵を乗せたりして、ちょっとイカしたのができました。自分で牛丼が作れるなんてなんだかビックリです。食わず嫌いならぬ、「やらぬできない」ってけっこう多いのかも、と思った。さっき、送迎をかねて3時間ほどドライブしてきました。今は酒を飲んでいます。明日は僕の母校の卒業式だそうです。
2007年03月22日
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男どもに聞きます。自分のカノジョにミニスカートを履いてほしいですか?これって、意見の分かれるところのような気がするんだよね。ちなみに僕は、あんまり履いてほしくない派です。ミニスカというのは、それだけで価値があるものだと思う。もはや、そのひびきだけでもエキサイティングだもんね。そりゃ実際、目の当たりにしたら、凝視してしまうよね、うん。って、こういうケモノのようなやつが多いから、僕は心配になるわけです。だから自分のカノジョに関してはなるべくなら「安全な」、セーフティな格好をしてほしい。それでいて適度なセクシーさも要求するのだからワガママなものです。ごめんなさい。もちろん街ゆく女性は、風邪を引かない程度にどんどんミニスカを履けばいいと思います。疲れ目にはビタミンB1よりもミニスカが効きます。幸せは、ヒザ上20cmに宿ります。★~★~★~★~★~★~カレシが履いてほしいというからミニスカを履いている人もいました。どうも僕にはその男の感覚がわからない。こういう場合、どっちがいいオトコなんだろうか。やっぱり、その男のほうがデッカイかな。俺の考えは、独占欲が強いだけ?カノジョにミニスカを履いてほしがるのはどういう感情なんだろう?「いいオンナ」をつれて歩きたいってこと?単にエロいものがそばにあってほしいってこと?自分のカノジョは、可愛くあってほしいってこと?「履かせたい派」の人、教えて!!もちろん、「履いてほしくない派」の人も共感のコメントちょうだい。履かされる、履くのを禁止されている女性からの意見も聞きたいな。★~★~★~★~★~★~★~★~自分の持っているものがよいものであればあるほど、人に獲られる確立が高くなります。自分の持っているものを手放したくないと思えば思うほど、不安になります。自分だけのものにしたいと思えば思うほど、他人が敵に見えてきます。これを「所有の不幸」と言う。何かを持つということは、だいたい僕らを幸せにしたりしないのだ。だけど持ちたいと思ってしまう。不思議だな。ミニスカのディレンマは、そんなことを教えてくれる。
2007年03月20日
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武術というのは本質的に愛です。無敵の道です。敵がいるうちは、未熟なのです。誰かに勝ったとしても、それは相対的な強さです。みずからの精神をつよくして、相手に戦う気をなくさせてしまうのこそ真の武術であります。これを和合といいます。敵をなくしてしまうのです。いいですか、「武」という字は「矛」を「止」めると書きます。つまり、戦いをして止ましめるのが本来の武道です。それは愛ということです。□■□■□・・・はい、全部ウッソー!!僕を知ってる人は、気づいていたと思いますが、そんなつまらんこと書くわけがないでしょう。えへ。「武」という字の一般的な解釈、「ほこをとめる」というのを鵜呑みにしている人が多いようですが、あれはどうにもウソのようです。「止」は、現在の「ストップさせる」の意味ではなく、本来、単に「あし」を意味する言葉らしい。野口三千三先生によれば、たしか「止」は「左の足の裏」をあらわすとのこと。なんにせよ、「止」は「ストップ」ではなく、「足」ひいては「すすむこと」を意味するわけです。言葉の意味がまったく正反対になってしまうことは歴史上でよく起こることですね。で、「武」というのは「矛をもって前進するさま」をあらわしているわけです。積極的に戦争にむかっていく人の姿です。(姿です、といっても象形文字じゃないけど)まあ誤った解釈でも、人が納得すればいいと思うけどね。こういった言葉を舌を躍らせてしゃべってくる輩には注意してね、ってこと。とは言え、いまさら「矛を止める道」なんて言ってる人はいないよね。だって、かなり何年も前から、それは誤った解釈だって指摘されてるもんね。偽善もほどほどにしないと、悪になっちゃうよ。
2007年03月20日
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どうも僕はちょっと時代おくれなところがあるのです。その意味では、オクレ兄さんなんです。たとえば、どうしてもカーナビを買う気になれません。超方向オンチなくせに、カーナビを買おうとは思わない。もちろん金銭的なこともありますが、それ以上に、なんかメカに抵抗があるのです。そのおかげで、よく見てもわからん地図を開き720度もぐるぐる回転させ、助手席を困らせながらドライブするわけです。辞書もそうです。電子辞書。あれが便利なことはぞんぶんに知っているのですが、どうしても買う気にはならない。もちろん金銭的なこともありますが、それ以上に、なんかメカに抵抗があるのです。iPODとかも興味ないですね~。あんな小さなフェッドホンでPOPSを聞かなくても、僕には風という名の音楽が聞こえる。なんてウソです。ほんとはメカに抵抗があるのです。つまり、便利なものに抵抗がある。便利なものが僕は怖いんですね。クレジットカードとか。便利なものを使うと、かならず何かを失う。といっても、それは悪いことではない。得られるものはもっと多いのだから。だから僕はただの旧態依然、旧套墨守で守株の愚を犯しているのかもしれない。けれどやっぱり怖いのです。使わなくても誰にも叱られないので、けっきょく使おうと思わないのです。ウサギかカメかって言ったら、ムダにカメ派です。カメハメハです。しかし、ウサギかメカかだったら、ウサギをえらびます。せめて自分の足で走ろうよ、とね。・・・う~む、なんだか上手くオチてないような。まいっか。
2007年03月17日
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さっき、スーパーに行ってきました。それはうどんを買うために行ったのです。うどんというのは安いのだと分かってからよくうどんを買います。いっしょにきざみネギも買いました。ふと、大根が目に入りました。もちろん、実際に目の中に大根が入り込んだわけではありません。そんなことになったら、大混乱です。さて、ダイコン足と言いますね。あれは、なんでしょうね、太い足のことを言うのでしょうか。それとも肉付きの問題でしょうか。まあそれはよいとして、ダイコン足というのは、ホメ言葉じゃないですね。ということは逆に、大根も一緒に侮辱されているということです。ダイコン足、というのはダイコンのように醜い足という意味です。つまり、ダイコンは醜いという前提が浮かんできますね。で、よくよく見てみると、やはり大根というのはよいものではない。どちらかといえば醜い。それはなんでかっていうと、スーパーに売られている大根は葉っぱが取られているからです。葉っぱの部分がないから、バランスが悪いわけです。他の野菜も見てみますと、やっぱりカットされているから、醜いものが多いですね。□■□■□「信号が見えない」だとか、そういった人間の都合によって枝を伐採された街路樹は美しくない、ということに高校生の頃、気づきました。切り取られた部分が、どうにも醜い。それと同じことがスーパーのなかで起こっているわけです。シソの葉一枚なんかは、キレイだと思いますけどね。オイシイところだけパックしてあるエリンギなんか、醜い。それは「全体性」というのを失っているからだと思います。全体性っていうのは、なんていうのかまあ「まるごとぜんぶ」っていうことですね。もちろんスーパーで売られている野菜が美しくなくても問題はないわけです。ただ、そういうことに気づく人がいるかどうかっていうことです。自然というものに触れていないと、自然ということは分からないと思います。それは美しいものに出逢うということです。美しいものがあってはじめて醜いものがわかります。それは感性を磨いていかねばならないのです。何度も言ってますが、「オンリーワン」なんてクソッタレのペテンです。詐欺です。大ウソです。詐術です。詭弁です。言い訳です。なんだって優劣があるのです。そりゃ「劣」のほうから見たら、「オンリーワンの思想」はありがたいかもしれないが、そんなに世の中あまくないわけです。みんなラクしようとして「オンリーワン」とか言ってるんです。「オンリーわんっ」です。負け犬の遠吠えです(笑)最近、あいだみつをさんの「にんげんだもの」をパクッた「いぬだもの」という本が出ていましたが、まさにパクリもの、相田みつをさんの書に遠く及ばぬ作品でした。自分でもかけると思って書いたんでしょうね。それで書いてみて、「書けた」と思ってしまった。それがイタイ。それに、あーゆーのを目のない人が誉めたりするんです。もう、そう言えばいいと思って。決まってるんです、コトバは。「味があるね」と。味とか意味わかってないのに使う。書道で楷書体じゃないものを見たら、こう言うってもう刷り込まれてるんです。そこに脳みその入るすき間はない。脊髄反射だけで生きている。何重の不幸だよ。誰か気づこうよ。牛乳が入ってたら「マイルドだね」とりあえず、っていうのと同じです。感覚、感性が発達していないし、表現する力もない、ということを恥もなく披露してしまっているのです。生活のすべてが「あいさつ化」してるんです。みんな疲れてもいないのに「おつかれさま」って言う。思ってもいないことばかり、とりあえず言っている。自分の意見を言えていないことにも気づかずに。鈍感力なんて言ってる場合じゃないのよ。鈍いということは死ぬということです。鋭敏で、繊細であるものがあえて鈍感であるかのようであるから、粋なんです。ほんとうに鈍感な人なんて、一緒にいる意味ないよ。話それまくった。ダイコンの話はどこにいった。とにかく、葉のないダイコンは醜いということです。
2007年03月16日
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ミスチルのNEWアルバム「HOME」を聞いています。家にいるときはずーっと流しています。というのは聞けば聞くほど味がでるからです。僕はそれを知っているわけです。いつものように、はじめて流したときは、「あれ?」と思いました。「あんまりよろしくない」ミスチルの音楽っていつも僕はそうなんです。はじめて聞いたときに、感動がない。むしろ、がっかりするくらい。それが不思議なことに、まったく飽きないのですね。ミスチルのアルバムで聞き飽きたのって、ないですよ。聞けば聞くほどよい。これはとても不思議です。僕は音楽に詳しくないので、なんでなのかまったく分からないのです。とにかく聞けば聞くほど味が出る。それは、噛めばかむほど味が出る米のようなものです。というわけで、最新のアルバムは俺的に「KOME」。おあとがよろしいようで。
2007年03月14日
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ミスチルのアルバムが発売になりました。買ってきました。聞いています。今日はリクエストにおこたえして雑炊を作りました。鳥肉となめたけの雑炊です。ねぎと紫蘇がいい味だしてくれました。
2007年03月13日
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背反する、もしくは対極にあるような事柄があります。男女、陰陽、南北、前後、上下、左右・・・etc以上のようなことは、だいたいにおいて「対立する概念」と捉えられているのではないでしょうか。たといそれが一歩進んだとしても、陰と陽が和合して、新たなエネルギーを生む、くらいの思考で止まっているのではないでしょうか。僕が思うに、上に書いたようないわゆる背反するような事柄というのは「対立の構造」で見てはいけないのです。「対立様概念(正反対に思えること)」を捉えるとき、僕が面白いなあと思っているのは、「内包のモデル」です。「内包のモデル」とはなんでしょうか。これは僕の造語です。簡単に言えば、二重丸の構造です。内側と外側、というふうに見るのです。たとえば、それを男女という事柄にあてはめると、男が内側、女が外側になります。エネルギーの観点でいえば、男(男性性)のエネルギーは陽で、外に向かい、女(女性性)のエネルギーは陰で、内に向かうということです。子供が内側で、親が外側です。右と左に関しても、左右対称ということは忘れた方がたぶんいいのです。左右対称は人為的非自然現象だと思うのです。アシンメトリーこそが自然ではないかと。それでいえば、たぶん左が内側になると思います。基盤のほう。右が外側です。触手のほう。前後上下に関してはまだ思索が及んでいないので、書きません。一般に対立すると思われていることが実は内包のモデルで捉えてみると、まったく矛盾にならないということがよくあると思います。バカと天才は紙一重などと言いますが、ほんとうにそうなのか、考えてみると面白かったりする。バカの対極に天才があるのか。もしくは、バカは天才を内包するのか。それとも天才がバカを含むのか。とにかく「あちらを立てればこちらが立たず」などというのは自由性の足りない脳みそが言うことなのだと思う。捉え方次第で、あちらもこちらも、ついでにそちらも立ってしまうのだと思う。とはいえ、それが難しい。捉え方、というのは物事の根本だからね。「工夫する」とかそういった浅いレベルではない。「捉え方」が違えば、話すらできない。捉え方はいわば次元だ。僕は、この次元というのを発展させていきたいと思う。
2007年03月12日
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はい、次の作品できました。はんごろし豚キムチ!!レシピ1:豚肉をいためます2:はんごろしキムチを投入します3:完成します4:食べます5:辛いです6:アイスクリームを食べますあとひとつ何か作ったらなくなります。そうなるとちょっとさびしい気分です。
2007年03月10日
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BABジャパンさんの月刊「秘伝」に投稿したら、またプレゼントが当りました。「プロの整体術・伝授!2 下半身編」というやつです。まえは火の呼吸の本が当りました。「秘伝」編集部さん、ありがとうございます。(ひそかに)御社商品の拡販につとめますので、また景品ください。おねがいします。
2007年03月09日
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今日は休日だったので琵琶湖に行ってきました。11時ごろに起きて何しようかとブラブラしていたのですが、なんとなく行ってみることにしました。昼の2時すぎに出発して、たしか5時くらいに琵琶湖に到着しました。で、そのあと宿とかどうしようかと思った。また3時間かけて帰るのは面倒だなあと。それで、ブラブラ車を走らせてみたものの、なかなか見つかりません。じゃあ、メシにしようと思いましたが、(せっかくなので近江牛を食べることにしました)それもなかなか見つかりません。ノープランで来ると、こういうことになるのですね。いつものことですが。で、もうやみくもに走りまわったら、一軒の焼肉屋にでくわしました。なんでもいいので半ばヤケクソで入りました。肉が焼ける前にクソが焼けてしまいました。でも肉はおいしかったよー。ひさしぶりにユッケとかも食べました。キムチもおいしかった。最近思ったのだけど、キムチの本質は甘みだと思う。で、たらふく食べたあと、さてどうしようということになりました。俺的あいまいプランの中には「お泊り」案もあったのですが、なんかもう泊まることじたいが面倒になって、もう帰ってしまおうと思った。ほとんど琵琶湖も堪能してないんですが、ガイドブックなんか見ると、それほど遊べそうなところではなさそうです。まあ長距離ドライブだと思えばいいかと思い、帰ることにしました。夜11時くらいには帰りたいものだと思っていたら、意外や意外、10時前には到着できました。今日だけで200kmくらい走りました。よくがんばった、俺。今日は早く寝ます、たぶん。あー明日も休みだ嬉しいな。あさっては仕事だ嬉しいな。
2007年03月09日
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くだんの「はんごろしキムチ」です。まずは、はんごろしチャーハンを作りました。レシピ1:チャーハンを作ります2:はんごろしキムチを混ぜます3:完成ですこれは辛いですね。非常に。次は、はんごろし卵ご飯です。レシピ1:卵かけごはんを用意します。2:はんごろしキムチを混ぜます。3:完成ですこれは、あの、辛いですね、非常に。その次に、はんごろし伊勢うどんももくろんでいたのですが、あまりに辛くて断念。ただのうどんにしました。カプサイシンで、かなり胃が活性化します。活性化しずぎて、下りました。・・・orzこれでスッキリ♪はんごろしシリーズ。みなさまもお試しあれ。
2007年03月09日
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はんごろしキムチという漬物を食べました。ホントに殺されかけました。まだまだ僕は甘かった・・・
2007年03月05日
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昨日の日記も書きましたが、実家に帰ってきています。誰かが頭の中で、「帰りなさい」と言っているような気がしたのです。それで素直に帰ってきた。くしくも卒業シーズンですね。最後に卒業したのは大学で、2年前です。実家には、2年前からそのままのものがたくさんある。もちろん、変わっている部分もあるのだけれど、ほとんどは、そのまま。時間が止まっていたみたいだ。思えば、僕の意識は大学生のころから、あんまり変わっていない気がする。環境だけは、大いに変わったけど。自分の机の上をさぐっていたら、変な色紙が出てきました。大学に入学するときに、「友達をつくろうの会」みたいな合宿があって、それに参加したときのものでした。「大学生活たのしもー」「これからもよろしく」「バイトいっぱいしちゃおう!」いろいろな文字列が並んでいます。今となっては、つながりのある人は皆無です。友情って素敵だなって思いました。もうすぐ、あらたしき桜が咲きます。よろこびもかなしみも巻き込んで、いやがおうにも咲きます。出会いの前に別れがあるというのが、もどかしく、そしていじらしい。人生はポーカーだ。古いカードを捨ててからじゃないと、新しいカードを拾えない。胸に刻まれる思い出あらば、散っていくそれもまた、思い出なのだ。後悔も懺悔も巻き込んで、あらたしき桜が咲きます。
2007年03月02日
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今日は縁(えにし)な休日でした。朝はダラダラ米などを食べました。ひさしぶりに「ゆかり」をかけて食べたらクソうまかった。最近は、キムチなどで単に刺激的な米を食べていましたが、やはり日本人!!繊細な味にうっとり。しその香りと塩のうまみが絶妙。ゆかり、たまらんです。そのあとは、梅を見に行きました。近場なんですが、けっこうな名所らしい。じいさんばあさんに囲まれて、梅の花を堪能(かんのう)してきました。それから天気も良かったので、海へ。海は広いな、大きいな。それを広大と言います。なんにもない空が、ある。そういうことなんだな、と思った。ひさしぶりに波の音というものを聞きました。見上げれば、雲ひとつない虚空。まるで僕の気持ちを表しているようでした。それから、夕方は名駅に行きました。というか、実家に戻る途中に本屋に寄ったわけです。そしたら、知り合いのカップルに会いました。そのカップルには、いつも会うのです。僕が名古屋に行くたびに会うのです。僕のことを待ち伏せしてるんだと思います、たぶん。理由は不明ですが。今日も会うような気がしていたら案の定でした。そのあと、電車で最寄り駅まで来ました。それからバスに乗ったら、オカンがいました。いわゆる実母です。いるような気がしていたら、案の定でした。それから家に帰って、話をしていると、今と25年前の奇縁を知ってしまいました。つまびらかには書きませんが、とにかくすごい縁だと思った。世間は狭いな、というだけの話じゃありません。2007年3月1日はいろんなことが重なった日になりました。今日は名前もない記念日です。
2007年03月01日
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最近は本末転倒(アベコベ)な制度や体系が跋扈しています。まずは、学校ということ。小学校1年生のまだ動物に近いような状態のときから、「テスト」なんてものがありますね。それも、わかっていないところを教えてあげるために実施されるのではなく、人の価値を一面的な数字ではかるために、行なわれるテストです。点数が悪い子は、「なんで勉強しないの」などと怒られます。点数がよかった子は、まるでその子の存在自体が素晴らしいかのように扱われます。ちゃんとした価値ということを誰も教えてくれない。視点があまりにも偏っている。たいてい、勉強というのはつまらないものです。書き下せば「強いて勉める」、まあ嫌なことを頑張るということです。つまり、今の学校制度では、好きなことを好きなようにやる人よりも、キライなことを我慢してやる人のほうが評価されているのです。これはおかしなことだと思いませんか。人間の本来の価値である、自由だとか、素直だとか、勇気だとかいうことがまったく置き去りにされているどころか、その正反対のものに価値が置かれているのです。前も言いましたが、キライなことを我慢してやるのは、見返りを求める生き方です。嫌なことを頑張ってやったら、カミサマが何か良いものをくれる、という考えです。こういう考えは、他人を束縛する人の考え方です。「私はこれこれこうしたのだから、あなたはこれこれこうするべきだ」という自分勝手でごうまんな考え方です。それが他人相手ならまだしも、相手はカミサマだからね。罪も重い。そういった価値観に基づいているから、今度は「サボりをふせぐこと」に重点を置いた制度ばかりができてくる。やりたくないことをやる、という価値のもとに体系立てられているから当然のことなのですが。「〇〇のテストで××点以下だったら、単位あげない」といった感じで、罰することを主体にとらえている。もうこうなると、学問の本質からまったく離れている。大学生になっても同じだ。「レポート何枚以上書かないと単位あげない」「何回以上出席しないと単位あげない」学びたくもない学生に、教えたくもない教授が、教える。みんながやりたくないことを頑張っている。だから「さぼりを防ぐ制度」ばかりが発達する。やりたいことをサポートする制度ではなく、〇〇をやらないように締め付ける制度が出来上がる。そういった体系や制度のなかでマジメに生きていくと、最後に地獄が待っている。ま、その地獄も結局は、自分自身が作り出すものなのだけれど。
2007年02月28日
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今日は休日でした。それで昼過ぎまでネコのようにゴロゴロしていた。2時半くらいになってやっと動き出して、まああてもなくでかけることにした。「関」というところに向かいました。30分もかからないくらいかな、着いた。住宅街のなかのせまい路地を抜けると、そこに「古い町並み」が残っていた。最近の「古い町並み」というのは、もうカッコつきになってしまっているのだね。つまり、観光地化。僕は観光地というのは好きじゃないが、風光明媚なところをあまり知らないので泣く泣く行ったりしている。観光地というのは、ハレの場所だ。多くの人が住み、そして働く場所がケだ。ケはつまり日常ということ。僕が思うに、もっとも大事なことは日常だ。「まつり」は大したことじゃないのだ。仕事だって、勉強だって、合気道だって、恋愛だって、なにげない日常こそが、なによりも大切なのだ。小学生の作文で、「いちばん思い出に残っているのは修学旅行です」なんてのはウソだ。つくられた「イベント」はほんとうの思い出にはならない。「イベント」は、なにげない日常をつづるための手段<ポイント>に過ぎない。何かをとらえるときに、ポイントでとらえようとすると、かならず過ちが起こる。歴史認識のズレなどは、その典型例だろう。しかし、かなしいことに、僕らは、ポイントをしぼることでしか、そのもの全体をとらえることができないという特性を持っている。教科書をいきなり全部おぼえることはできないが、「要点整理」された参考書があれば、勉強もはかどる。日常茶飯事。日々、朝を迎え、メシを食い、笑い、泣き、はたらき、愛し、そして眠る。そんな他愛もない毎日にこそ、大切なものがひそんでいると思うのです。毎日を大事に出来ない人に、祭りを楽しむことはできない。これは自戒だ。僕は、今を本気で生きているだろうか。素直に自分にぶつかっているだろうか。何が勇気で、何が逃げなのか。どうやって、判断すればよいのだろう。なんだか話がそれました。とにかく「古い町並み」という名前のところに遊びに行ってきました、という日記です。
2007年02月24日
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おにぎりを作ってみたら、なんだか血まみれな感じになりました。ほんとうはキムチまみれです。無理だろうと思って握ってみたら、案の定ムリでした。 ・・・orz!!(テンション高) 帰り来て 扉を開ければ 豚汁の かおりただよい 外すネクタイ将来のことを考える毎日です。
2007年02月23日
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自分というものを、つねにどこかバカにしていないといけない。真剣もほどほどにしないとキレちゃうよ。マジメったらしい顔ってば、すごく「自分ラブ」な顔だよね。俺はキライだな。「自分のやっていることが社会に役立つ」とか、そんな表面的で、自己満足な使命感はキライだな。そういうやつに限って、他人の人生は無意味って思ってるんだ。周りが見えてないんじゃ、どんなに真剣にやったって、みんな苦笑してるよ。「がんばってるね」って。誉め言葉じゃないんだよ。みんな、さげすんで笑ってるんだよ。嗤われてるのを、肌で感じながらやらないとダメなんだ。みんなの蔑笑が、声援に聞こえるくらいでないと。「自分のやってることなんて、バカらしくて、どうしようもなくて、くだらないことだけど、だけど、好きでしょうがないからやってる」俺は、それくらいの間抜け感がスキだな。頼むから、そんな真剣な目で俺を見ないでよ。怖いよ。マジメにやっちゃあ、あかんのよ。
2007年02月19日
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ほうら、できました。昔っから、こういうの得意なんだ。おまかせあれ♪http://plaza.rakuten.co.jp/ozekey/diary/200702130000/↑参照してね。
2007年02月18日
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幸せというのは、事実やカタチではなく、心の持ちようなのだ、とよく言われます。探しに行くものではなく、ここにあるのを見つけるものなのだと。見方しだいで、いつでも幸せなのだと。うむう、しかしそれは本当だろうか。というかそんな話を聞いて、「はい、僕は幸せです」といえるか、ということなんです。ふつうは言えませんよ。たしかに僕も心の持ちようが大切だと思います。ものの見方、ということ。角度しだいで、いくらでも楽しく幸せになる。しかし、しかしですよ。心にはクセがあるのです。思考のルートってんですかね。ある事象に対して、バイアスがかかるというのか。たとえば、「なにかあるとすぐ人のせいにする」というのはその人の思考のクセなのです。イメージだけで話せば、「人のせいにする」という思考のルートが太くなっていて、いつも思考がそこを通ってしまう感じです。そういう思考のクセを持つ人が、いきなり「それは仕方がなかったんだ」と思えるようにはならない。やはりいつもどおり「あいつのせいだ」と思ってしまう。誰かに「人のせいにするから不幸なのですよ」と言われても、その人が治そうと思わねば治らないのです。思考のクセを変えるには、ある程度の訓練が必要です。そこには苦しみが生じます。それは自分をいったん破壊せねばならないからです。固く荒れ果てた大地を小さな鍬で耕していくような根気のいる作業です。そうやって未開の脳に、幸せ思考のルートを気づいていくのです。幸せ思考のルートがどんどん増え、それがネットワークになれば、もうしめたものです。ただ、その始めの苦しみ、つまり「自分を壊すこころみ」のときに挫折する人を見かける。「ぼく(わたし)には無理だよ」と言って。そりゃ、無理といってしまえば無理です。しかし、耐えればかならず新しい神経回路ができあがる。脳というのは常に、一瞬で変化するのです。それを知っているかどうか。そこまで耐えられるかどうか。耐えれば、心の持ちようを変えることが出来ます。新しくできた幸せ思考のルートは今後もずっと使えるのです。しかしそのように幸せ思考ルートを開発してこなかった人は、結局どんな経験をも不幸に感じることしかできない。ぼくはそういう人を救う手立てをいまのところ持っていない。心の持ちようを変えることで幸せになる。しかし心の持ちようを変えるときに、けっこう苦しみが必要なのだ。だからなにか苦しいできごとがあったときに、ついでに思考のルートを開発してしまえば一石二鳥なのだ。心の持ちようは変わってしまえばカンタンなことなのだ。
2007年02月16日
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忍者の里として有名な三重県は伊賀・上野へ行ってきました。昼前には出発して、クネクネのけったいな山道を往くこと1時間半強。目的の伊賀・上野城に到着です。公園は思ったよりも広くなく、20分も散策すればひとまわりでそうなくらいの広さでした。はじめは、忍者博物館というのに入りました。忍者の格好のおじさんが笑顔で迎えてくれます。さっそくチケットを買うと、受付のおねいさんもクノイチ衣装でした。博物館というから客が見学する方式かと思っていたら、きちんと(忍者の)おじさんが説明してくれた。すごいよ、忍者屋敷。小さいころ本で読んでたの、ぜんぶあったからね。感嘆の声をあげまくってしまった。どんでん返ししました~。積年の夢がかなって、感動です。物隠し、刀隠し、かくれ階段などなど、忍者装置が満載。もう、住みたかった。それに石油ストーブのにおいがとてもよかった。思い出すことがあった。忍者屋敷を満喫したあとは、手裏剣体験。投げます、刺さります。クサクサ刺さります。ぜんぜん方向が定まりません。寝起きの小便くらい、方向が定まりません。ましてやあれで敵の急所に刺すとか無理です。途中の看板で見かけましたが、忍者は状況に応じて、さまざまな歩き方を使い分けるとのこと。抜き足、差し足、忍び足、みたいな感じで。名前を忘れてしまいましたが、秘伝中の秘伝で、足の下に手を敷いて歩くのがあるそうです。その説明が、「これならゼッタイ音はしませんが、修行が必要です。帰りの遅いおとうさんは練習しいてくださいね」ためしにやってみましたが、かなり滑稽でした。あんなお父さん、嫌です。次は天守閣に登りました。3階建てでしたが、ほとんど誰もいませんでした。兜とか鎧とか飾ってありました。「歴史はロマンだな~」と思っていると、「カブト 新作!」とのPOP。どうやら今も職人さんが作っているもよう。しかし「新作!」って言われてもねえ・・・。天守閣って、雰囲気がエロイなと思いました。この前いった図書館でも空気がエロイなと思いましたが、これは建物ではなく僕がエロイんでしょうか。ムラムラ。それから、帰ります。まだ早かったけれど、それからどこかに行く時間もなかったので、せんなく帰途につきました。そして今、日記を書いています。今日はラーメンを作る予定ですが、なんだかすごい膨満感です。破裂しそうです。またうまくつくれたら写真でも載せます。そんな半日でした。追記日記@数時間後あれからなんとかラーメンを作りました。札幌ミソ。コーン。ネギ。ノリ。そのあとちょっとだけドライブ。それから生まれて初めてマスカラというのをつけてみました。左目だけ。アイシャドーとアイラインも。つけてみましたというか半強制的につけられたというか。オモチャです、はい。男に生まれてよかったと思いました。いろいろと。
2007年02月16日
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はい、さっそくカカオをゲットしてきました。今年は教頭な、じゃなくて好調な滑り出しです。お店のパートさんからもらいました。「一日早いですが」ということでいきなり渡されて、「こ、これは、不倫のお誘いか?!」と思って中を開けたらどうやら義理チョコのようでした。ぬ。みなさんでわざわざ買ってくださったのですね。「裏では嫌われているんじゃないか」なんて不安もあったのですが、そんな思いも払拭され、とても嬉しかったです。ありがとうございます。嬉しいというのは、「僕が誰かの頭の中に一瞬でも浮かんだのだ」ということを実感することです。それほど僕はいつも自分ことしか考えていないのですね。「自分が誰々のことを考えている」という実感は常にあるのです。しかし「誰かが僕のことを考えてくれている」なんて思いもしないのです。それで孤独を演じたりしてみる。不思議なものです。相手の頭のなかをリアルに思い描くと、その人が親密であればあるほど、「自分」というものが浮かび上がってくるのです。「あの人は自分のことなんか少しも思っちゃいない」なんていうのは謙遜のビトクとかじゃないのです。それは単に想像力の欠如か、傷つくのを恐れているだけです。自分というものを消して消して、もう相手になってみる。相手の脳に乗り移ってみる。そうしたら、かならず少しは自分のことを考えてくれているのです。こういうのは嬉しさを創造する試みだと思う。「あなたが僕を思い出してくれた」こんな感情が嬉しさの根源なんじゃないのかな。さて、知恵の輪が解けません。↓この5つのパーツがくっついたりとれたりするらしいのですが、いったんとれて、それからハマりません。でも近いうちに完成させるので、できたらまた写真を載せますね。
2007年02月13日
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いま、社会に足りないものは何だろうか。それはやさしさだ。こう印象的な書き出しにすると、まずここで勘違いして言葉に反応する人がいます。これはマインドキャッチ的に書いただけなんです。ぼくがこれから「やさしさ」の説明をしていこうとしているのに、自分勝手に「やさしさ」を解釈して、「いや、やさしさじゃないよ。愛が足りないんだ」とかなんとかわけのわからないことを言い出すのです。そのくせ特別に愛を定義しているわけでもない。それくらい頭のワルイ人は、もうぼくの説明などは聞いていない。「やさしさ」という辞書的な解釈から頭が離れないらしい。言葉にとらわれてはいけない。ある人が放った言葉が、その「文脈上で」どのような意味を持つのか。反論をするなら、そのことを十分に吟味した上でなければならない。だが、そんなカンタンなことでさえも分からない人は多い。さて、いま足りていないのは「やさしさ」だと言いました。じゃあ、「やさしさ」ってなんだろう。僕が思うに、「やさしさ」ってのは「焦らないこと」だ。最近、すこしだけやさしさということが分かってきて、これまでの自分を反省しています。とても粗かった自分を。たとえば、バスタイムなんかでもそうです。ツメを立て、頭皮を掻くように洗う。せっけんをつけたタオルでごしごし洗う。こういうのは刺激的なんです。鈍感な人には、まぎれもなく気持ちいい。鈍感な人は、「刺激」が大好きなのです。このことを覚えておくと、町中の鈍感な人が見えてきます。あなたの隣で大音量でヘッドフォン(笛っどほん)を鳴らしてるやつは、心も体もどうしようもなく鈍感なんです。たしかに鈍感なことが必要なときもあるのです。繊細すぎて、前に進めないくらいなら、鈍感を演じてでも、前に進まねばならないときもある。しかし、鈍感というのはよくない。感じるのが鈍い。センサーがよわい。つまりセンスもない。感性が低い。分別が無い。分ける力が無い。理解する能力が無い。知性もない。感じる力も無い。これが鈍感です。感じる、ということは、観るということです。観じる。観るというのは、今を知ることです。今を知るというのは、う~ん、漢語で言えば、現状を把握することです。今をシッカリ捉えることで焦りがなくなります。今日思ったんですが、病気の半分くらいって「不安」なんだと思います。最近、本とかいろいろ読んでいううちに知識もちょっとついてきて、身体の不調に焦らなくなりました。たとえば腹を下してもなんとも思わない。「ああ、体の浄化作用か。食べるのやめよう」と思う。食欲がない(浄化)とか、カラダがだるい(食べすぎ)とか、唇の荒れ(水分不足)や吹き出物(宿便・胃腸の疲れ)など、だいたい理由がわかるのです。だからそれに対処するだけで、焦りはあんまりない。これが「観る」ということです。焦ったら、観えないのです。「ああ、やばい体調不良だ」と思ったら、それ以上分析しないのです。「なんか調子が悪い」で終わってしまう。それはカラダにやさしくないのです。もっとやさしくするなら、どこがどうしてどうなったということを考えるのです。バスタイムの話にもどすと、ごしごしと鈍感な皮膚に刺激を与えるだけではやさしくないのです。ゆっくりとカラダと会話しながら、いろいろな不調などを聞いてあげる。骨のすき間の疲れなどをいやしてあげる。そのときもあせったらダメなのです。カラダを癒してやろうとか思うのは焦りなのです。やさしさは常に結果なのです。やさしくしようとするのは愚かだ。焦らず、感じること。いまのありのままをゆるしていくこと。それが結果的にやさしさになる。恋人関係だってそうでしょう?やさしくしようとしたら、ただ甘やかすだけになるよ。そうではなく、相手のありのままをただ認める。「お前はそれでよいのだよ」と。それが結果的にやさしさになっていくのではないのかな。ぼくはもっと仕事にやさしくなりたいね。ほんとうは仕事が先にある。目の前に仕事があるのを片付ける。しかし、いまはどうしても「計画」が正義になっている。だからなにかあると、焦ってしまう。まず仕事ありき、なのだ。計画は崩されるものだ。計画にとらわれるから、やさしくない。焦ってしまう。計画など、いくらでも変更できるだろう?仕事量に応じないで、計画を進めることを鈍感という。仕事は刻一刻と変化する。それに対応せねばならない。「こたえる」というのも大事な観点かもしれないなあ。やべ、マジでとりとめない文章。トリートメントのないシャンプー。ごわごわ。では、焦らずに風呂に入ってきます。
2007年02月12日
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今日は朝だけ激しかった。3時ごろに寝たのはいいが、7時くらいに電話で起きて、それからすこしクルマを走らせ、家に帰って読書していたら寝ていた。目が覚めたので読書の続きをしたら、また寝ていた。気がついたら12時。メルマガを書きためました。1ヶ月ぶんくらいはたまっているので、仕事が忙しくなっても安心です。部屋をすこしだけ片付けた。なぜかすぐに汚れる。図書館にいって、呼吸筋についてすこし調べました。呼息筋についてもうすこし勉強が必要です。くしくも、読み終えた2冊の本が「気」について書いていました。具体的な気の世界。気って本当にあるの?あるに決まっている。僕はその存在が知りたい。そのために何をすればいいか。夜は焼きそばを作りました。ミソやきそばを開発してみました。微妙でした。まずくはないけど。料理というのは奥が深いものです。明日は朝から仕事です。明日は残業をする予定です。
2007年02月10日
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バレンタインデー。甘美なひびきです。もう一度言ってみましょうか。バレンタインデェェェー!よく考えたらあまり甘美じゃないです。よくて甘酸っぱいくらい。大半の男子諸君には、剣道の防具のようにすっぱい思い出しかないんじゃないでしょうか。□■□■□はい、というわけで、毎年恒例のバレンタインデーがもうすぐやってきます。と書いてみたものの、これを言うのはけっこう恥ずかしいのです。というのはもらえなかったら困るからです。基本的には、もらえなかったときのために、あくまでバレンタインなど意識してないよ、というポーズが必要になります。例年通りの結果になったときに、「え?バレンタイン?忘れてた」といえる予防線を張っておかねばならないのです。女の子のみなさん、男子も大変なのですよ。男子はこの季節になると、チョコについてあまり話題を出さなくなります。「チョコっとだけね」と言えばいいものを「すこしだけね」と言い換えたりします。けなげですね。どれだけ知らないふりをしても、当日は朝からソワソワして仕方がないものです。そして、そのソワソワは、たいてい杞憂に終わるのです。そうなると「べ、別に期待とかしてねーし。っていうか甘いもの苦手だし」とか言うのです。それから家に帰って、おかんや妹にチョコをもらうと、より一層みじめな気分になるものです。嬉しいんだけど、やっぱり悲しいのです。それでも寝る前まで、「渡したいものがあるんだけど」なんて電話がかかってくるのを待っていたりするのです。それでやっと電話が鳴った!と思ってケータイをとると出会い系のメールだったりします。バレンタインでいい思いをするのは、ほんの数パーセント。その他大勢は、期待するだけさせられて結局がっくりするということを性懲りもなく繰り返しているのです。罪な一日です。なんとかしてください、バレンタイン監督。□■□■□というわけで女子のみなさん!今年こそは勇気を振り絞って好きな男子にチョコをあげましょう!!告白とかできない気弱な男子もいるのです。告白とかできないうえに、好きだといわせる技術もなくて悶々としているのです。ぜひチョコを渡してやってください。女子諸君よ。「今の関係を崩したくない」とか甘いことを言っているヒマはないのです。好きになったら、友情とかどうとか言ってる場合じゃない。たしかに男女に友情はある。しかしいったん好きになったら後には引けないのだ。弓矢と同じで、いちど放たれたら、失速して落ちるか、的に当るかどちらかしかない。「傷つくのが怖い」とか生ぬるいことを言っているヒマもないのです。安心してください。どうせいつか傷つきます。それならいっそ、自分から「最後の審判」を迎えにいくべきです。積極的に運命をつかみにいくから、失敗してもいい訳がましくならないのです。いさぎよい生き方ができる。「恥ずかしくて言えるわけがない」なんて馬鹿げたことを言ってはいけない。なんのために口がついていると思っているのだ。勇気ひとつで、いくらでも言えるのです。付き合えるとかフラれるとかは些細なことです。大切なのは、自分の胸のうちの気持ちを素直に伝えられるかどうか。もう、それだけです。気持ちを伝えることが目的で、付き合う/フラれるは結果なのです。付き合うために好きになったわけじゃないでしょう?これは当たり前のことですが、いざ告白となると、結果ばかりが頭をよぎり行動できなくなる。そんなことではつかめる幸せもつかめない。ただ、どうしようもなく好きになってしまった。理由なんかない。そんなに素敵なことはそうそうないよ。僕はそう思う。誰かのことを思い焦がれるというのは、とても素晴らしいことと思います。しかし同時に他人の恋愛話ほど、どうでもいいものもない。どうでもいいから、他人の恋愛話は楽しいのです。それはどんなに親身になって聞いてくれる親友でも同じなのです。やさしさで、共感している演技をしているだけなのです。あなたもそうでしょう?これはオンナの得意技なんです。誰かから見れば、自分の「好きな気持ち」とかいうのは大したものではないと悟ることです。他人の恋愛はカフェでいただくスイーツと同じです。せいぜい午後のコーヒーのお供にすぎないのです。恋愛はいつも、自分のものだけ重い。だからもう失敗とか成功とか忘れて、チョコをあげてしまえばよいのです。というか、あげるしかないです。相手も「好き」と言ってくれるかどうかは神様が決めることです。しかし、相手に「好き」と言うかどうかは、あなたじしんが決めることです。ぼくは何度か「告白」というものをしたことがありますが、「告白しなければよかった」なんて思ったことはただの一度もありません。もちろん何度か失敗もありましたが、それはそれでよかったと心から思えます。(戦績はヒミツです)好きな気持ちを伝えないなんて、もったいなさすぎる。女子諸君よ。かわい子ぶってる場合じゃない。腹をくくって、チョコを渡すのだ!!今年のバレンタインは、一生に一度しかないのだよ!いま、大好きな人がチョコを渡せる距離にいることは奇跡です。その奇跡を信じてみないか!健闘を祈る!!追伸:男子諸君へ気になる子には「お前からチョコほしーな」とかなんとか冗談めかして言っておくこと。そうすると女子は「アンタが欲しいって言うから作ってあげたよ」(けっしてあたしがあげたいわけじゃないからね)と言い訳がしやすくなるのです。オトコは言い訳せずに、オンナにさせる。これ鉄則です。では、今年の結果やいかに?それにしても、いったいこの文章は誰に向けて書いているんだろう。・・・まあ学生の女の子対象、ということにしておこうかな。 あ、これは豚肉となすのミソ炒めです↓
2007年02月09日
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個性はけっして出したらいけないのです。個性というのを「いい言葉」と勘違いしてはいけない。個性というのは「こだわり」と同じく悪い意味の言葉なのです。「個人の癖」とでも訳すのがよろしい。個性だけは殺した方がいいのです。個性は殺せば殺すほど味が出るのです。どれだけ標準になれるか。どこまで普通になれるか。そういったことにチャレンジしてみるのです。みずから個性を出そうとした瞬間、それは醜くなる。あくまで個性を殺す。しかしどうしてもにじみ出てしまうものがある。みんなに合わせようとする。同じになってみようとする。それでもどうしてもはみ出てしまう部分がある。それがほんとうの個性です。それを恥じながら、なおかつ堂々と大事にしていけばよい。人と違うということ。その恥。そしてその誇り。人と同じであること。その安心。そしてその恥。個性的という言葉に惑わされてはいけない。個性的という言葉は、かならず小さな枠のなかで使われる。個性的ということは幻想です。なぜなら個性的でない人はいないからです。個性という言葉を捨てたところにほんとうの個性がある。まずはこだわりから解き放たれるべきだ。
2007年02月07日
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今朝は7時くらいに目が覚めました。それで10時に起床しました。それからダラダラ洗濯やら片づけやらしてから、昼飯を作ります。今日はいためた鳥肉のネギ乗せゆず胡椒添えマヨネーズ和えです。うん、濃いね。ごはんいっぱい食べました。午後はカラオケにGO!2時間半くらい熱唱しました。最近の歌をぜんぜん知らないことを思い知らされました。カラオケが終わったあとというのはとかく歌いたいものです。クルマの中でもカラオケが続きました。シャウトしようということで、歌はB’zの「ギリギリCHOP」に決定。大声で叫びます。♪だいたいどんな雑誌をめくったってダメ~ため息~、出ちゃうわ~ふふふんふんふふんふふんふんふふふんふ~・・・・・・歌詞わからん!!ということでシャウトは断念しました。そのあとはショッピングセンターへ。風呂の電球が切れたので、それを買ったりしました。ゲームセンターで遊びました。UFOキャッチャーに3000円くらい投資してしまいました・・・orzそれでゲットしたのがタイヤ犬っちゅうのは、うん、してやられたという感じです。ゲーセンおそるべし。人の欲望を知り尽くしているね。夕飯は、節分ということで寿司を食べました。えんがわというのを食べてみました。天ぷらまんじゅうというのも食べました。おはぎが揚げてあるんだけど、食べてる最中に衣が取れてしまい、ふつうのおはぎになってました。お皿の枚数を数える機会に度肝を抜かれました。そのシステムを調べるべくレジのおばさんに聞いたら、皿の裏にタグがついているということを教えてくれました。そんな情報のせいもありつつ、かなりの満腹です。というわけで、腹ごなしがてら今から豆をまこうかと思います。今年は何メートル飛ばせるでしょうか。限界に挑戦です。そんな休日でした。
2007年02月03日
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USENのランキングより。(07’2/2)第2位 「奇跡を望むなら」 JUJU ・えっ? MISIAじゃないの?第5位 「心のリズム飛び散るバタフライ」 doa ・あれ?福山じゃないの? っていうか「心のリズム飛び散るバタフライ」って何さ?!第9位 「ハナムケ」 w-inds. ・実際は「ズルムケ」だよね?第18位 「てんとう虫」 一青 窈 ・小林はつまり、武史ってことか。推薦曲 「アヒルのワルツ」 マユミーヌ ・アヒル隊長推薦?!アヒルんるんるんるん♪ USENって、ナゾだ・・・。
2007年02月02日
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やっとのことで読み終わりました。ひさしぶりにヒマになったので、ゆるり午後に読みました。3,4箇所、涙でジーパンを濡らしました。最後のほうは、っていうか途中からリリーさんの表現が濃くて、ちょっと食傷ぎみでした。それでこんなに時間がかかってしまった。小説なのこれ?自伝?なんにせよ、こういった類の本は読むのが疲れます。書店員のくせに。やっぱ俺にゃ、人文書がよいね。ビジネス書も好きだけど。まあいいや、せっかく読み終えたのだから、POPを書いてみたいと思います。さ、まだたくさん本がたまっているので、さっさと読んでしまいたいと思います。ではPOPスタンドと「ぴゅーと吹くジャガー」の12巻を買ってきます。
2007年02月02日
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最近のデザートのなかで大ヒットしたのは、ヨーグルトにゆず茶を混ぜるヤツです。ゆず茶知ってますか?お茶じゃないよ。ゆずのジャムみたいなものでね。知らん人は検索してね!(説明責任放棄)これはオススメです。ぜひやってください。写真は、そのデザートを食べるために準備したネギ塩豚丼です。今日も気合の入った昼食です。
2007年02月02日
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いきなり一口チョコを口の中につめこまれました。そのあと、強引にバニラアイスクリームをつめこまれました。だまされたと思って、と言われても納得がいきませんでしたが、ええい、ままよとチョコレートをかみくだきます。すると、あら不思議、口の中でチョコチップアイスが完成したではありませんか!!けっこう感動しました。知覚過敏もなんのそのです。
2007年02月01日
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昼飯です。昨日の。なぜか気合を入れすぎました。パスタ。明太子パスタです。インスタントの明太子パスタです。それから、おかず。なんとか昨日の具材を使い切ろうと、ガンバリマシタ。某料理店の品からヒントを得て、スクランブルエッグに明太子を混ぜてみました。<右下> 大葉もちぎって乗せました。はい、いただきます。・・・濃!!味付けを失敗したようです。いり卵を失敗するなんて、むしろ自分がスクランブルだと思いました。それに、焦げました。火力は常に全開というテーゼをそろそろあらためたほうがいいのかもしれません。ふわふわたまごの夢よ、さようなら。左下は山芋です。山芋とオクラです。ヌルヌル野郎セットです。山芋はヌルヌルするので、大きさを均一に切るのが難しかった。それでオクラを切ってみたけれど、やっぱり切り幅が均一にならなかった。けっきょくヌルヌルのせいではないということなんですよ。均一に切るのは、ムズイのね・・・。しかしまあ均一と申しましても、その概念は18世紀イギリスの産業革命にはじまり、マニュファクチュアによる大量生産のむ~にゃむにゃ・・・。午後のティータイムも愉しみました。それから出勤です。優雅です。というわけで、今日は刻みネギが余っているのです。これをどうしようか勘案中であります。なんとかネギが腐るまえにいい案を出したいです。あ、鳥肉丼でも作ろうかな。最近はデザートはかりんとうが定番です。そんな食生活です。ちなみに食卓はいつもパソコンが鎮座しているので、床で食べています。
2007年02月01日
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なにかをはじめたときぼくらは よごれるなにかをとおりぬけるたびぼくらは よごれていくまっしろのままではいられないぼくらが せおっているものぼくらが せおっていくもの過去や 嘘や そしてよろこびとかなしみはじめてではないという つよみ何度めかという ためらいと恥 そして後悔それでもぼくらはなにかをはじめるはじめてのそれを 経験するよごれるままに よごれていく みだれていくそのなかに純粋をたもちつづけるものはあるかこの けがれたこころとからだのなかにひとすじの光のようになにものにも おかされないまっすぐな まっすぐな まっすぐな・・・このけがれたからだとこころにそれはなお うつくしく 咲くその小さな ちいさなかがやきをぼくは 信じたいと思う
2007年01月28日
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