パスターハリー(Pastor Harry) の書斎

パスターハリー(Pastor Harry) の書斎

詩編120編



【はじめに】  今日は宗教改革記念の日です。この日、すなわち1517年10月31日、修道士マルティン・ルッターは、ヴィッテンベルクの城壁に95か条の提題を書き記して、宗教改革の火蓋を切ったのでした。先週学んだガラテヤ書2:16やロマ3:21-26の信仰義認と共に、信仰を整えてゆきたい。
【テキストの解説】  詩篇の中で「都もうでの歌」と言われる一連の詩篇があります。今日与えられている120篇から134篇までの詩篇です。「都もうで」というのは「上りの歌」と記されておりだいたい3通りの解釈があります。
(1)年一回のエルサレム上京を歌った巡礼歌。
(2)異国バビロンの捕囚の民がエルサレムへ上る歌。
(3)エルサレムの神殿の婦人の庭から男性の庭への階段(15階段ある)で歌われた聖歌集。神様によって祝福された人生歌集とでも呼ぶべき愛唱詩編です。
【メッセージのポイント】
1 悩みにあって主に呼ばわれ。(1、2節)
 この詩人は「わたしが悩みのうちに主に呼ばわると、主はわたしに答えられる」と歌いはじめます。この詩は巡礼の歌とすれば実に彼の「志望の歌」あるいは「脱出の歌」とでもいうべきものです。彼はいま、不信仰者の集まりのなかで生活しています。しかし、彼には悩みがやってきました。どのような悩みか詳細にはわからないのですが、彼はその悩みのうちから、主に助けを呼び求めています。
「天路歴程」の主人公は現実の神無しの生活に不安と恐れを感じて、神の救いを呼び求める所から、祝福の人生の出発をします。この詩人も同じです。
2 あざむきの舌よ、わざわいなるかな(3、5節)
 彼は5節で「わたしはメセクの宿り、ケダルの天幕に住んでいる」と告白して現状の告白をしています。セメクはコーカサス地方南部にいた蛮族と言われ、ケダルはアラビア砂漠放浪の民です。詩人は異教徒との生活のなかで神の平安を遠くはなれ、いさかいと偽りの人生に嫌気がさして言いました。「わざわいなるかな。偽りの舌よ!」。詩人は罪の中での生活を呪い、その中で特に「言葉」を代表させています。彼はあの放蕩息子が父の家を思うように今、神の救いと清い平安のある所を目指して、旅をはじめるのです。 
 人間の精神は、大脳皮質を支配する言語中枢に支配されるとよく言われます。生活の乱れは言葉の乱れになって現われます。ヤコブ書にあるように、言葉は身体全体、人生全体を方向づける、舟の舵のような働きがあるのです。言葉に気をつけて、信仰の言葉人を励ます言葉を語りましょう。
3 主にある平安を望んで!(6、7節)。
 「わたしは久しく平安を憎む者のなかに住んでいた。わたしは平安を願う」と彼は自分の心を歌います。主にある平安(シャローム)。それは霊的充実の表現です。永遠の命の水が湧き上がり、命の川の水が滔々と流れてゆくさまを表します。神の恵みが豊かにあふれ、モーターが静かに、しかし大きなエネルギーを秘めて動き出すように、力に満ちてあらゆる創造的な歩みをなすさまを、「平安(シャローム)」といいます。それは聖霊のみたしの世界です。ハレルヤ!
【結論】  さあ、われらも今、2004年の最後のスパートに向かって挑戦して行きましょう。それは不信仰の世界を脱出し、神の平安の中を雄々しく歩む信仰の姿勢です。詩人とともにわれらも今告白したい。「われは主にある平安を願う!」と。栄光と勝利への出発がここから始まる。ハレルヤ!

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