ド   ガ  



よく日本人は、印象派が好きだ”と言われるように、マネ、ルノワール、ルソー、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン、ロートレックとお馴染みの名前がさらさら出てきますし、彼らのドラマティックな生涯や作品は多くの書物や映画などでも紹介されたりもしていますね。
教科書にもラインナップされているのに、ドガについてのストーリーはあまり記憶が無かったので調べてみました。
作風も古きよき時代のクラシックな技法が見受けられるところも、印象派の世代とは言え、一線を隔すものを感じます。

ドガ家は祖父がナポリに銀行を創設した富裕な家で、父も芸術に深い関心を持つ恵まれた環境でした。
エコール・デ・ボザールでアングルの弟子ラモットに学びます。修業時代に何度もイタリアに遊学し、ルネサンス時代の巨匠の模写、研究をしています。
アングルを尊敬し、1860-65年まで歴史画を描いてサロン展に出品します。8回の印象派展のうち7回に参加する経歴も印象派の画家とは異なり、伝統的な描き方を頑固に守り続けています。
1872年頃から絵のテーマにバレエを頻繁に採り上げ、「踊り子の画家」と称されるようになりました。
その強烈なエネルギーに満ちた革新的な色彩の世界。
ドガは同世代の画家達の中でも、デッサン力にひときわ優れており、一瞬の動きを捉えた、躍動感あふれる作品が沢山あります。

舞台の踊り子
舞台の踊り子[パステル・紙 60×44㎝                       1878頃]オルセー美術館                            [フランス]

「私にとって踊り子とは美しい衣装を描いたり、運動を表現する口実に過ぎない」とドガは言います。また、「芸術家は自分が見たいと望むように見るのだ」「デッサンは形態のことではなく形態を見る見方だ」とも。
この絵にはその一瞬の輝きと動きの表情が、大胆にとられた余白のある構図で、より一層効果的に表現されている事が、感じられますね。

彼はバレエやオペラが好きで、オペラ座によく通っていました。
1873年オペラ座が焼け、バレエ団がドガのアトリエの近くに引越して来てから、一層よく写生に行っています。
舞台でフットライトを浴びる踊り子の瞬間の動作や衣装の動きをその本質を把えて表現するために多くのデッサンや習作が生まれました。

オペラ座の稽古場
オペラ座の稽古場
ル・ペルティエ街のオペラ座の稽古場[油彩・キャンバス 32×46㎝ 1872] オルセー美術館[フランス]
鋭い感性による気品ある群像表現と空間構成
<写真>Erich Lessing/PPS通信社

印象派の画家の多くは、屋外光の中で変化する自然の一瞬を把えようとしたのに対し、
ドガは室内の動く対象を瞬間的に画面に凝縮して、その本質を描き出そうとします。
若い頃から父親のお陰で多くの著名人を知人に持っていたドガは、そのコネクションでオペラ座にも自由に出入りし、舞台や楽屋での稽古、レッスンにも立会って制作ができました。
そこでデッサンをし、色彩や動きのメモを取り、アトリエで多くの習作や下絵をもとに、全体の画面にまとめて行くのが彼のやり方でした。

浴盤
浴盤

パステル 60×83㎝ 1886] オルセー美術館[フランス]

大胆な俯かん構図に納められた美しいポーズ 
<写真>Erich Lessing/PPS通信社

パステルは粉末顔料と色調調整用の白粘土をゴム溶液で固めた棒状のもので、これで画用紙に描くパステル画は1720年頃からパリで普及し、カンタン・ラ・トウールらが愛好しましたが、19世紀後半にドガやルノアールが名作を残します。ドガはかなり早くからパステル画を描いており、80年の印象派展にも出品しています。
晩年視力が衰えてから特に愛用し、パステルを何層も重ねて塗る技法を完成し、描線と空白時に縞模様を思わせる色彩の総合効果を生み出しています。
ドガは1880年頃から踊り子を描かなくなり、86年の第8回印象派展にも「裸婦」シリーズを出品します。この頃から視力の衰えがはげしく、油絵はほとんど描かなくなります。
しかし、また95年頃にはパステルによる踊り子が多数描かれています。

アイロンをかける女たち
アイロンを掛ける女たち

油彩・キャンバス 76×82㎝ 1884頃] オルセー美術館[フランス]

何げない動作の一瞬をとらえる画家の鋭い視線
<写真>Erich Lessing/PPS通信社


© Rakuten Group, Inc.
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: