ピアノのへや

ピアノのへや

詞華(既読から引用)



詞華集:詩、文章などで巧みに修飾したことば。詞藻、文藻。



  音楽について書くのは難しい。音楽を作曲して演奏したり、またはただそれを経験するだけでも難しいが、それについて書くことで、私たちは簡単に道を誤ってしまう。だれにも自分なりの好き嫌いがあり、オーケストラやバンドがある晩にはよかったとかよくなかったとかいう感想を持つが、良いとか悪いとかいう果てしない議論は私たちが音楽に当てはめようとする言語がどれほど貧弱で未発達なものであるかということを示している。自分の術語にむりやり現実を当てはめようとし、自分の美的感覚に自信を持ちすぎると、音楽の本質そのものはぬれた石鹸のように指の間から滑り落ちてしまう。

(中略)

 書くときには言葉や、記譜法と呼ばれる分かりにくく未発達な表現手段しか使うことができない。だから音楽についての多くの本が、急にわき道にそれて、作曲家や演奏家の精神、伝記、和声進行、歴史的環境など「意識の現象としての音楽」とはかかわりのない、あらゆる主題の興味深い分析で終わってしまうのも不思議ではない。
           (ピーター・バスティアン、澤西康史訳)



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 …(前略)わが愛する作家トゥルニエのエッセイを思い出す。それは「さわる」と題された短文トゥルニエは何かつけて「さわっちゃだめ」といわれる現代の子どもの哀れさから話を切り出して、触覚による認識が困難となり、「目でさわる」社会が到来しつつある現状を悲しんでいる。そして「雑誌、映画、テレビは、目にたらふく食べさせて、それ以外の身体を無化してしまっている。現代人は口輪をはめられ、手をもがれたままに、幻影の宮殿を歩きまわっているのだ」と述べる。まさにそうなのであって、いまやパソコンの画面が目の飽食を引き受けている。目ではなく、手で直接さわって確かめること、これこそ、現在もっとも欠如している営みなのかもしれない。
 この偉大な作家は別のエッセイで「言葉にさわる、隠喩に軽くふれる、句読点をさわって確かめる、動詞を手探りする、付加形容詞を親指と人差し指でつまむ、文章全体を愛撫する―こうしたことが、わたしには実によく分るのだ!」とも述べる。……
            (181頁「書物史のために)」宮下志郎)

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