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ぴかろんの日常
リレー企画 173
Presentation オリーさん
大きな黒い扉を開けた途端、喧騒の世界が開けた
スタッフが機材を運び声を出しながら歩き回っている
カメラテストは終わったのだろうか
隅の方からは紫煙がまとまって上がっている
そんな中、スチールチェアに座っているスヒョンが目に飛び込んでくる
スポットライトを浴びていなくても、すでに主役のオーラを身につけたスヒョンの回りには
それとわかる特別な光が射しているような錯覚を起こさせる
僕の合図ですっと立ち上がり、逆の方向から僕の歩調に合わせて近づいてくる
監督達のテーブルに着いたときには、きっちりと僕の隣に立っていた
「こちらがお話しましたミューズのイ・ミンチョルです」
「初めまして、お時間をとっていただき感謝します」
打ち合わせ通り、僕らは先制攻撃を決めた
滑り出しはまずまずだろうか
チョプロデューサーがシン監督とカン音楽監督を紹介してくれた
にこやかに握手をしながらも、彼らの視線が僕に突き刺さる
新鮮な緊張感と静かな闘争心が湧いてくるのを感じた
久しぶりの感覚だ
一通り挨拶を済ませるとスヒョンは一言残して離れていった
ここからは一人旅
プロデューサーが映画の概略を説明し、
すでに音楽監督も決まっている旨、やんわりと釘を刺された
僕は本を読んで感銘を受けたことを簡潔に伝えた
音楽監督は以前どこかの音楽祭で二言三言話をしたことがある
あの時は確かお父様とご一緒でしたねと言われた
ご無沙汰しております、ご存知でしょうがあれから色々とありましてと答えた
相手は複雑な表情で頷いた
この程度で引き下がってはいられない
ブリーフケースから準備してきたファイルを三人に渡した
「企画書です。非常にラフな案ですがウチに決めていただけたら
具体的なものを早急に準備させていただきます」
3人はぱらぱらとファイルをめくった
僕は順番に説明を始めた
「まず映画の最初と最後にバラードを流します。それをバックにスヒョンに語らせます。
スヒョンの声はセクシーで艶がある。映画を引き立てるにはもってこいです。
バラードにのせて心情を魅力的な声で訴えてもらう。CDやMVにして売り出すことも可能です」
「ほお、面白いね」
プロデューサーのチョさんが反応した
「バラードは誰が?」
音楽監督のカンさんが聞いた
「ウチのメンバーの友人で作曲家がいます。若くて感性が豊かです。
シナリオを読んでもらってイメージの曲を書いてもらいます」
「無名なの?」
チョさんが突っ込んでくる
「と言うより手垢がついてないと考えてください。有名どころに頼むと経費がかかりますし、
イメージに合わない曲を作られても断りづらい。彼なら話し合いもできます。
経費節減にもなるし、若い豊かな才能を掘り出すチャンスにもなります」
「物は言いようだね」
監督が一言漏らす
「経費は安くすめばそれに越したことはない。最低限の経費で最大限の効果を、これがセオリーです」
監督はそのまま答えない
「それでエンドロールの主題歌も新人なわけ?」
チョさんがさらに聞いてくる
「今度ウチで売り出す新人です」
「何だ、実は自分のとこの新人売りたいってこと?」
笑いながらチョさんは監督と音楽監督にあきれ顔を見せる
チョさんが突っ込み、監督は様子を見るというパターンなのだろう
「当然です。デビュー曲にこの映画の主題歌だと入れられたら宣伝効果は絶大です」
「おタクの宣伝に協力させられるわけ?」
チョさんの言葉に3人は揃って笑った
僕も笑った
「この新人はいずれにせよ近々デビューさせます。
この話を断って、そちらが後悔なさらないようにと思いまして」
「大した自信だね」
「この二人は歌手が専門ではないので売り方も工夫しようと思ってます。
ネットを中心に若者にターゲットをしぼって訴求します」
「映画は大人の物語だよ」
「だから効果が期待できます。ネットで彼らの歌を小出しにして映画の前宣にするんです。
今度デビューする二人組の新曲はある映画の主題歌らしい。どんな映画だろう。
若者の口コミというのは侮れません。そこへ映画本体からの情報が重なれば
下手な宣伝より効果的です。これは若者から大人へと幅広い層に見てもらいたい作品ですから」
「面白いねえ」
音楽監督が小さく頷いた
僕はそれを受けて頷いたカン監督の目線を捉えながら説明をすすめた
「後は本編ですが、あらゆるジャンルのスタンダードで構成します。
これは大人を意識しての作戦です。クラッシック・ジャズ・ロックなど幅広いジャンルから
誰が聞いても知っている懐かしいものを選びます。
慣れ親しんでいる音楽の方が映画そのものを引き立たせることができると思います。
足りないようでしたら、さっきの彼に曲を頼んでもいいですし」
「その作曲家はなんていうの?」
カンさんが聞く
「イ・グァンスと言います。才能はありますし苦労しているので信頼できます」
「君も苦労したから?」
また3人が微笑んだ
「おかげで逆境を楽しむという技が身につきました」
僕も負けずに微笑む
「大体君の構想はわかった」
ひと通り僕の説明が終わると監督が口を開いた
「まあスヒョン君の紹介でもあるので、検討させてもらいますよ」
「お願いします」
シン監督がチョさんに目配せをして、チョさんがそれを受けて僕に言った
「3人で話をしたいのでスヒョン君の隣に行って待っててもらえます?」
「わかりました。お時間を取っていただいてありがとうございました」
僕は立ち上がって3人に礼をした
終わった
後は待つのみ
少し硬い表情のままスヒョンの所に歩を進めた
途中スヒョンと話していた女性とすれ違い笑顔を向けられ、僕も笑顔で返した
ハンドカメラを持っているから映画関係のスタッフだろう
「お疲れ」
隣に腰をおろした僕にスヒョンが早速声をかけた
「少しここで待っていてくれということだ」
「感触は?」
「悪くはない、チョさんはかなり興味を持ってくれたようだが」
「監督は?」
「正直言ってわからない、最後まで値踏みされた気がする」
「音楽監督は?」
「意外と感触はいい。面識はあるし昔の仕事も知っていてくれてるようだ」
そうか、と言う代わりにスヒョンは手の甲で僕の頬をするっとなでた
スヒョンの手の柔らかい感触が頬を伝わり、胸に届いた
「記念の復帰第1回交渉ご苦労さん」
「世話になったな」
「とっかかりができるといいな」
「ああ、何とかしてここからスタートしたい」
「再起のためだけ?」
スヒョンが僕を覗き込んだ
「何が?」
「ここまで一生懸命やってるの」
「何が言いたい」
「スヒョンと一緒に仕事したいんだ、ってひとこと言うとイイ男がひとり喜ぶんだけ
ど」
「ばかっ!こんなところで何言ってるんだ」
「言わないとあとでひどいよ」
「え?」
「あっ、今何想像した?」
「ばかっ」
僕は小さく笑った
緊張をほぐそうとしてくれるスヒョンの気持ちがありがたかった
暫くして監督たちが立ち上がったのを見て僕たちも立ち上がった
近づいてきた彼らの目は決して和んだものではなかった
僕とスヒョンも目配せをして彼らの方へ進んだ
チョさんがまず口を開いた
「ミンチョルさん、申し訳ないが今即答はできません」
「こちらでもよく検討したいので少し時間をもらいますよ」
次に監督がやんわりと続けた
「勿論です」
「いや、あなたの企画は素晴らしいですよ、思っていた以上だ」
音楽監督のカンさんが横から口を開いたが、それを遮るように監督がつけ加えた
「もう2、3懸案事項がありますので」
「わかりました。よろしくお願いします」
「ではスヒョンさんも今日はこれで、また直ぐ連絡しますから」
用済みだという旨をチョさんが丁寧に表現した
僕とスヒョンは改めて彼らに礼を言い握手をしてスタジオを出た
彼らはドアを出るまで僕らからずっと視線を外さなかった
主役が厄介事を持ち込んできたという感じだろうか
今後スヒョンに迷惑がかかるかもしれない
僕の脳裏にちらっと不安がよぎった
「スヒョン・・」
「さあ、次は夜の部だ。一緒に店に突撃だ」
僕の心を読んだのか、スヒョンは軽く僕の肩に触れ歩き出した
結局僕は何も言わずスヒョンと歩き出した
そして僕の杞憂は別の形で現実のものとなった
僕たちはそのまま車で店に向かい、そのまま店に出た
いつものように店に出て、今日の件についてはお互い触れなかった
久しぶりの店で忙しく立ち回るうちに、あっという間に閉店の時間となった
店がはねた後、留守にした分の詫びも兼ねてスヒョンの仕事を手伝っていた
二人きりになっても、昼間の事はお互い触れなかった
黙って書類をめくり、伝票をチェックしてはもくもくと処理を進めた
突然目の前の電話が鳴り、僕は反射的にそれを取った
「ミンチョルさん?シンです」
監督の声で僕の胸はいきなり高鳴った
「あ、今日はありがとうございました」
「今日頂いた企画だけどね、大体あれでいけそうだ」
「ということは」
「君にやってもらいたい」
「本当ですか!ありがとうございます!」
僕は思わず机をココンとノックしてスヒョンにウィンクをした
「で、具体的な企画書をお願いしたい」
「勿論です。すぐ進めさせていただきます」
「あとね、それとは別に君に頼みたい事があるんだが」
「何でしょう」
「映画に出て欲しいんだ」
「人員不足ですか?いいですよ、僕でお役に立てれば」
「OKだね、よかった」
「バーのマスターくらいなら」
「もうちょっと重要な役だ」
「え?」
「ヒョンジュをやってもらいたい」
「ヒョンジュ?それって・・その・・」
ヒョンジュ?
どの役だったろう・・・まさかあの彼の役?
青空にとまどいの雲が沸き立ち、見る間に晴れ間を覆っていった
頭が冷たく痺れていくのを感じスヒョンの顔をうかがった
机の向こうでスヒョンが首をかしげるのが見えた
「とても・・その・・すぐに返事は・・」
「もちろんです。ただし断れませんよ。もう決定したから」
「決定って・・」
「音楽と併せて、ヒョンジュ役も期待してます。正式な出演依頼は後ほど。
いずれにせよ、近々連絡を入れますので」
「わ、わかりました。改めてお話を・・はい・・ありがとうございました」
僕はやっとのことでお礼の言葉を口にした
受話器を置くと、すぐにスヒョンを見つめた
スヒョンは今では僕の方を心配そうに覗き込んでいる
「どうしたの?」
「企画は通ったみたいだ」
「任せてもらえる?」
「大体、今日の感じでいけそうだ」
「で?何か問題?」
「あ、ああ」
「さっきヒョンジュとか言ってた?」
「ああ・・」
「何?」
「僕に・・やってみないかと・・」
「何?」
「音楽とその、つまり・・ヒョンジュ」
「わかってるよ、そうじゃなくて・・え?何だって?」
「僕にヒョンジュをやってほしいって・・」
「・・」
「スヒョン・・」
「・・・」
「あの、スヒョン?」
「・・・」
「ちょっと混乱してるんだが、ヒョンジュって、まさかあの彼の役じゃないよね?」
目の前のスヒョンの顔から血の気が引いたのが勘違いであってほしい
でもヒョンジュはやはり・・あの役だったような気がする・・
空の真実 足バンさん
イナ…イナ…
まだ早い朝
イナは懐かしいテジュンの声で目を覚ました
しかしぼんやりとした視界の中に見えてきたのはテジュンではなかった
ゆっくりと周りを見渡して
ようやくヨンナムの部屋なのだということを思い出す
「イナ起きて…すぐに帰って」
「え…」
「今テジュンから連絡があった…予定より早くここに戻る、もうここに向かってるって」
「いいよ、テジュンの部屋にいるから」
「いいから帰りなさいって、泊まったってわかったらまずいでしょ?」
「今来たことにすればいいじゃない、それにまずいことなんか…」
ない…そう言おうとしてイナは言葉に詰まった
「とにかく無駄に面倒おこさなくていいでしょ、いいね、靴は裏口に置いておいたから
裏側の道から帰りなさいよ」
ヨンナムは居間の片付けをすると言って行ってしまった
ヨンナムは何ごともなかったように振舞っている
夕べのことは夢だったのだろうか
彼女が俺たちにみせてくれた夢だったのだろうか
そう…ちょっとキスしただけだ…彼女が…彼女じゃなくたって…あんなの別に…キスしただけだ…
イナの心の底がゆるゆると揺らぐ
慌てて帰る気にはならなかった
酒がまだ残っているような気もする
のろのろと布団から這い出し窓の向こうの灰色の空を見上げた
オンドルの暖かさが身体をじんわりとつつみ込み心地いい
煙草を出そうとしてきらしていることを思い出し
やはり出ようかと考えはじめた時…遠くにエンジンの音がした
騒がしい音とともに足音が響き
沢山のファイルケースを抱えたテジュンが玄関に飛び込んできたのは
それからほんの数分後のことだった
「もう少し静かに帰ってこられないのか」
「ヨンナム~もう腹減って…悪いけど何か食うものある?」
「まったく…ちょっと待ってろ今作るから」
「サンキュ!」
テジュンはどたばたと部屋に上がって行き
ヨンナムは奥を気にしながらそのまま居間を抜け台所に入って行った
再び下りてきたテジュンは
出された朝食をうまいうまいと言ってきれいに食べた
ヨンナムはそのくったくない様子を見てあきれ顔になる
「あいかわらずだな…飯くらい食ってくればいいだろ」
「早く帰りたかったんだもん」
「イナのためか?」
ヨンナムは言うつもりのなかった言葉を思わず口にした
そして返ってきた「もちろん」という言葉になぜか苛つくのを感じた
「おまえ…もう少しイナの気持ち考えてやれよ」
「わかってるよ…だから今回も日帰りだって言ってない」
「そういうことじゃなくて…」
「何だよ…怖い顔して」
「いや…」
「イナはわかってくれてる」
「わかってても寂しいもんだろ」
「僕たちのことは僕たちで考える」
「…」
ヨンナムは窓の外の凍てついた樹々に目を移した
今朝はいつもより何倍も寒そうに見える
「テジュン…」
「何だよ」
「…」
「…」
「いや…いい…ごめん…いい」
「よくないだろう…言えよ」
「いやいい」
ヨンナムは手早く盆に茶碗や皿を乗せて台所に立った
テジュンはその後を追いかけ腕を掴む
盆の上の茶碗ががちゃりと音を立てて揺れた
「おまえがそういう顔する時って言いにくいことを言いたい時だ」
「いいって」
「よくないだろう!言えよ!昔から僕はおまえのそういう所に苛つくんだ」
ヨンナムはテジュンの言葉に心の中が渦巻くのを感じた
ゆっくりと掴まれた手をほどくと盆を置き真っすぐ相手を見据えた
「彼女の最期の話をしてくれ」
テジュンの顔がこわばる
まさかそんな言葉が降ってくるとは思いもよらなかった
何年も暗黙の封印をしてきた自分たち
いつかまた触れることもあるかもしれないとは思っていたが
今日、しかもこれほど出し抜けに出会うとは思っていなかった
「何だよ…いきなり…」
「話してくれないか」
「悪いけど…」
「聞いておきたいんだ」
「もう忘れた!何だ今さら!何だって言うんだこんな…こんな…」
テジュンは大股で歩き出し部屋を横切る
居間の引き戸が大きな音を立てた
ヨンナムはその閉められた扉を呆然と見ていた
呆然としたのはテジュンの態度にではない
あまりに自分らしくない自分に驚いてしまったのだ
何も今…口にしなくてもよかった
自分はいったい何を焦っているのだろうか
ぼんやりしながら
ずいぶん長いこと流しに重ねた食器に水を当てつづけていた
イナはもう裏から出て行っただろうか
身体が重くなってしまったような気分で居間に戻ろうとした
「何でおまえ…来なかったんだよ」
驚いて顔を上げると
先ほど出て行ったはずの扉に寄りかかるテジュンがいた
テジュンはヨンナムを睨みつけていたが
目をそらすと大きなため息をついて顔を向こうに向けたまま口を開く
「ぎりぎりまで待ってもおまえは来なかった、連絡もつかなかった、でも乗らないわけにはいかない
機内では何も食えなかった、空港から直接病院に向かった、僕の頭も足も鉛のようだった!」
「テ…」
ICUの前に彼女のお母さんがいらした
僕のことをわざわざ駆けつけた同僚だと思ったようだ
お母さんは深々と頭を下げて僕に中に入ってくれと言った
バスの事故だと聞いていたがひどい外傷はなかった
顔もとても綺麗だった
頭の包帯の白さだけが目に焼き付いている
「テジュン…ちょっと待って…待ってくれ…」
「何でだよ、聞きたいって言っただろ、聞けよ」
「テジュン…」
ベッドに近寄って名前を呼ぶと
目を閉じたまま…ほんの少し…本当に少しだけ唇が動いたように見えた
僕は白い右手をそっと握って言った
きたよ
そう言うのが精一杯だった
「テジュンごめん…悪かったよ…もういいからやめてくれ」
「やめない」
「テジュン」
「最後までっ」
「…」
「聞けよ…1度しか話さないから」
眠ったのかと思い手を外そうとした時
彼女の腕にわずかに力が入った
血の気のない唇が動き
そしてかすかに声が聞こえたんだよ
きてくれたの…ヨンナム
「え…?」
ヨンナムの頭の中が一瞬真っ白になった
白いペンキをぶちまけたように
顔を上げるとテジュンが真っすぐこちらを向いていた
「来てくれたのヨンナム…そう言ったんだよ…」
テジュンの目が遠く潤んだ
「そして僕は言ったんだ…」
ああ…来たよって…
ヨンナムの背中に電気が走った
心臓が大きな音を立てて身体中に熱い血を送り出しはじめた
やっとのことで数メートル先のテジュンに焦点を合わせると
テジュンの赤くなった目がヨンナムを見据えている
その手はきつく握られていた
「おまえとの…最後の入れ替わりごっこだ」
ふらついてヨンナムが台所との境目にある柱に寄りかかった時
いきなり部屋が明るくなったように感じた
雲に切れ目ができ
居間の中程まで朝の陽が射し込んだのだ
座卓に置かれたままの安物のグラスに光が当たり鈍く輝く
ふたりはそのきらきらする小さな美しいものをぼんやりと見た
「ヨンナム…僕はおまえが考えてるほど強いやつじゃない」
「…」
「わがままで自分勝手で頑固で冷酷で」
「やめろよ」
「彼女の最期の言葉を葬るような男なんだよ」
「そんな言い方するな」
テジュンは反射するひかりを見つめながら続けた
「おまえに話すべきかどうか…散々迷った」
「…」
「話したらおまえが余計苦しむだろうって…一見友達思いだろ…でも違う」
話したくなかったんだ…おまえに…ただそれだけだ
傷ついた自分を知られたくなかった
彼女の気持ちがおまえに向きかけていたこと…
その前から感じてはいた
全てを捨ててついていきたいと言われた時
僕は彼女に言ったんだよ
僕のために全てを捨ててほしいなんて思わない
本当に僕にそんな価値があるのかって
もう一度よく周りを見てみろって
「彼女が僕から離れたのは彼女が決めたことだ…傷ついたからじゃない」
「でも…泣いてた…」
「おまえだからだよ…」
「…」
「僕の前で…彼女は一度も泣かなかった」
ヨンナムは大きく深呼吸をして目を閉じた
「他に…聞きたいことある?」
ヨンナムが頭を小さく左右に動かすと
テジュンはしばらく黙っていたが引き戸を開け出て行った
扉は今度は音を立てなかった
ヨンナムは窓際までゆっくりと歩き
陽を浴びても尚冷たい硝子戸に額を押しつけた
硝子の向こうに目をやると
凍てついているとばかり思っていた細い枝の先に
気づかない程の小さな小さなふくらみが光っている
ヨンナムはずいぶん長い時間
その美しい静寂を見つめていた
帰り道 ぴかろん
テジュンが帰ってきた
バタバタと部屋に上がっていった
ヨンナムさんはテジュンのための朝食を作っている
出るなら今だ…
出た方が…面倒な事にならない方が…
そうやって嘘をついた方が…
嘘を…
なぜ嘘をつかなきゃなんない?
俺は昨日の晩、テジュンに会えると思ってここへ来たんだ…
だから…
キスした…
キスしただけだ…
なんでもない…
その事は言わなくていい
なぜここにいるのかだけを言えばいい…
嘘はついてない…
大丈夫
テジュンの顔を見れば俺は俺に戻れる
大丈夫
あれは…あれは俺の中に残っていた彼女の仕業だ…
彼女もテジュンに会いたかったんだ、きっと…
だからヨンナムさんを身替りにして
トントントンあ~腹減ってしかたねぇよぉヨンナムぅぅ
動けなくなった
テジュンが居間に下りてきて朝飯に食らいついているようだ
壁を隔てた同じ顔の男達の会話は、はっきりとは聞き取れない
だって早く帰りたかった…
…のためか?
もちろん…
所々くぐもった二人の声が耳に届く
テジュンの明るい様子に思わず顔が綻ぶ
ここで突然出て行ってやったら、あいつ面食らうだろうなフフ
ああでもきっとヨンナムさんがしどろもどろになっちゃう…
困らせちゃ悪いな…
もう少し…考えてやれ…
え?
…わかってくれてる
…寂しいもんだろ?
「僕たちのことは僕たちで考える」
テジュンの堂々とした言葉だけがはっきりと聞こえた
…俺たちのことは…俺たちで…考えて…きたんだよな…
そう?
ほんとにそう?
じゃ、なんで俺は泣くの?
なんでこんなにゆらゆらしてるんだ
君、まだ出て行かないの?
やっぱりテジュンの顔が見たいの?
…もういいだろ?!
君の気持ち、ヨンナムさんに伝えたろ?
これ以上何もできねぇよ、俺
もう…ゆらさないで!
決心して部屋の戸に手をかけたとき、足音とガチャンという音がした
「よくないだろう!言えよ!昔から僕はおまえのそういう所に苛つくんだ」
テジュンの怒鳴り声で俺の動きは再び停止した
「彼女の最期の話をしてくれ」
ヨンナムさんの落ち着き払った声に、俺の心がまた震えた
…怖いな…
側にいてくれないかな…
テジュンに…聞くから側にいてくれないかな…
すぐ側でなくてもいいから…近くにいてほしい…
お前にしかできない事なんだろ?お前ならできるんだろ?僕を助けてくれるんだろ?
甘えてもいいんだろ?
解った…近くにいる…
昨日の朝の会話が甦る
ああそう…俺の役目はまだ終わらないってことか…
俺はシャツの胸のあたりをぎゅっと握り締めて引き戸に耳を押し付けた
テジュンがまた怒鳴っている
居間の引き戸が乱暴に閉まる
一瞬の静寂のあと、するすると引き戸が開いてテジュンがまたヨンナムさんのところへ行ったのが解る
話すんだ…
彼女の最期の時を…
体中の血液が暴れまわっている
そのまま息絶えてしまうのではないかと思うぐらい俺の体を内側から叩き続ける
瞬きもできない
『どうして貴方…来てくれなかったの?』
聞いたことのない彼女の声が聞こえた
テジュンの語るその物語が妙にはっきりと俺に届く
「テジュンごめん…悪かったよ…もういいからやめてくれ」
「やめない」
「テジュン」
「最後までっ」
「…」
「聞けよ…1度しか話さないから」
心臓が…皮膚を破って飛び出しそうだ
息苦しくて堪らない
どうして俺がこんな話を聞かなきゃならないの?
君とテジュンとヨンナムさんの問題だろ?
俺は…俺は関係ない…
『来てくれたのヨンナム…そう言ったの…貴方だと思ってたから…』
体が震えだした
その答えを俺は多分、とうに知っていたんだ
おまえに話すべきかどうか…散々迷った
話したくなかったんだ…おまえに…
彼女の気持ちがおまえに向きかけていたこと…
その前から感じてはいた
彼女が僕から離れたのは彼女が決めたことだ…傷ついたからじゃない
僕の前で…彼女は一度も泣かなかった
「おまえだからだよ…」
テジュンの古い傷から血が流れ出している気がした
けれどテジュンは…
テジュンには俺がいるから安心だ…
その血を俺が全部吸い取るから
その傷を俺がすぐに舐めるから
そんな事をしなくても、テジュンはその時ちゃんと終わらせて、ちゃんと立ち上がって、ちゃんと歩き出した
ただヨンナムさんに伝えずにいたそのしこりが
今やっと傷口から取り出せたんだ…
だから安心だ
テジュンは大丈夫だ
俺がいるから安心だ…
暫くしてテジュンが引き戸を開けて階段を上っていく音がした
俺は握り締めていたシャツを離し、そっと部屋の戸を開けた
帰ろう
帰ったほうがいい…
聞かなかった事に…
いつもどおりの俺に…
戻ろう、俺に…
足音を立てないようにヨンナムさんの様子を見に行った
からっぽの器が壊れそうなぐらい
勢いよく彼女が注ぎ続けられているように思えた
チップはバラバラに崩れて、鎧はもう修復不能なくらい砕け散っている
役目…終わった?
後は…任せてもいい?
ヨンナムさんの背中にさよならを告げて、俺はそっと裏口から外に出た
表通りに出て、排気ガスの混じった空気を吸った時、突然熱い塊がこみ上げてきた
よかったの?
よかったんだ…
なぜいかなかったの?
もうこれでおわらせて
あなたをすきになっていたんだ
それをとどけたかったんだ
「彼女が…ね…」
何の涙だと説明すればいいのだろう…
泣いているのは間違いなく俺だ
帰ろう…戻ろう俺に…
部屋に着けば元通り…
「昼飯、食いに行くんだ…テジュ…」
『テジュンと一緒に』と言おうとして言えなかった
帰るまで…戻るまで…そこに着くまでに
この涙は乾くはずだ…
『忘レナイデ欲シイ…デモ囚ワレナイデ…留マラナイデ…』
ヨンナムさん…
理由 足バンさん
「ヒョンジュって、まさかあの彼の役じゃないよね?」
「スヒョン…」
「そう…言ったの?…監督が?…ヒョンジュって?」
「ああ…」
戸惑っているミンチョルにそのまま待つように言い
僕は廊下に出てシン監督に電話をいれた
落ち着いて話しはじめたつもりではいたが
少し声がうわずっていたかもしれない
僕はミンチョルが受けた電話は何かの間違いではないかと聞いた
監督はこともなげに「間違いじゃないよ」と答えた
一度大きく深呼吸をした
そしてその理由を聞きたいと申し出ると
どうしてもというなら今から事務所まで来いという
来れば簡単に説明してやるという
僕はすぐに行くと伝えて携帯を切った
「どうしたの?まだ終んないの?」
「ドンジュン…今日は先に帰ってくれる?監督と急ぎの打合せだ」
「んじゃ今日は寮に帰るわ…テストの話聞きたかったんだけどさ」
「ああ」
「決まったんでしょ?相手」
「うん…あ?…いや…まだよくわからない…じゃ急ぐから」
じろーりとドンジュンに睨まれつつ
事務所のドアを開けミンチョルに監督に会ってくると告げた
「スヒョン…僕はどうしたらいい?」
「大丈夫、ちゃんと説明を聞いてくるから、おまえは今はミューズの件だけ考えてて」
「ああ…」
「終ったら帰ってくれ…連絡するから」
「わかった」
まだじろーりとやっているドンジュンに
コートを羽織りながら軽くキスをして店を出た
監督の事務所に向かう車の中で僕の頭の中には?が渦巻いていた
実際僕もまるでわかっていなかった
ヒョンジュ役にミンチョル?
もう決まったはずじゃなかったか?
今日の3人は選りすぐった俳優たちだと聞いていた
しかし同時に監督がつぶやいた言葉をも思い出した
「もう少し時間が欲しいな」
あれは納得していなかったということだったのだろうか
シン監督の事務所への訪問は2度目だった
大した広さはないがジャズの流れる小綺麗なオフィスだ
小さな会議室に通された僕は驚いて立ち止まった
監督だけでなくチョプローデューサーやカメラマンのユン女史、スポンサー広報
そしてちゃっかりとジホ君までがそこに顔を揃えていた
閉店後急遽呼ばれたらしい彼は一番奥で手を振っている
シン監督が笑った
「うふふ、来た来た…そんなに驚かしちゃった?」
「どういうことですか?」
「さ、座って…おいスヒョンさんに珈琲持ってきて~ で、まぁ落ち着いてこれ見てよ」
監督は会議テーブルの向こうのモニターを
手に持ったペンで指した
ずいぶん慌てて飛び込んできたことに今更気づき
咳払いしてコートを脱ぎ近くの椅子に腰掛けた
ビデオが再生される
映っているのは今日のカメラテストの様子
僕が昼間に見たものと同じあのテープだ
わけもわからずそれを見ていた僕は
次の瞬間危うく声を出すところだった
そこにはミンチョルが映っている
プレゼンをしているところだろう
3人の交渉相手を前に真剣に話しかけるミンチョルの姿
ロングで、アップで、2台以上のカメラで撮られたものだ
呆気にとられていると
次は僕の横顔のアップが映し出された
少し首を傾けゆったりと微笑んで遠くを見ている
その視線の先には確かミンチョルがいたはずだ
僕は思わずテーブルの向こうにいるカメラマンのユン女史を見た
彼女は肩をすくめて悪戯っぽく笑った
モニターに目を戻すと今度は僕とミンチョルが映っている
少し待つように言われてスタジオ端のソファに腰掛けていた時の映像だ
今度は3台のカメラで狙われている
全身の力が抜けた
まさかこんなものを撮られていたとは…
モニターの中に流れている僕とミンチョルの時間は
とても自然で落ち着いたものだった
どう客観的に見ても
先ほどの若い3人との映像とは比べようもないくらいしっくりいっている
そりゃそうだろう…昨日今日の付き合いじゃない
僕の手があいつの頬に触れたところが映し出された時は
思わず額をこすりため息をついた
僕は自分でも恥ずかしくなるくらい優しい目であいつを見つめてるし
ミンチョルも信頼しきった視線を僕に向けている
特に僕にからかわれて緊張を解いた瞬間の笑顔は
どきんとするくらいの色香を漂わせていた
音声のない分だけよけいに雰囲気がかもし出されている
全てに合点がいった
監督たちがどこか緊張してミンチョルを凝視していたのも
ユン女史がなぜかちょこちょこ忙しそうにしていたわけも
「どう?」
「私たちね、彼がスタジオに入って来た時みんな同じこと考えたみたいなんだ」
「君たちが出ていった後の監督の顔見せたかったよ」
「無言でガッツポーズだもの」
「でね…祭のテープも急遽見直した」
「ジホ君が撮ってたあなたたちのダンスのビデオなんかもね」
「すごくよかったなぁ、公式テープじゃわからなかった」
チョさんがテーブルの上のテープをコツコツやり
ジホ君がウィンクした
「あの…監督…」
「もちろん音楽の方はこの件とは関係なく進めてもらうよ」
「私たちもそれとこれとは混同していない、彼の手腕には大いに期待してる」
「でも…彼に演技なんて無理です」
「ふふっあれほどのハッタリをカマせる腕でしょ、絶対にできる」
「でも素人ですよ」
「私たちに既成概念は通じないの」
「でも…」
「同僚としてやってきた君たちがやりにくいのはわかるが、そんなことに頓着するほど甘くないんだ」
「我々はこれで食ってるんだよ、直感を信じなくちゃ始まらない」
「でも…」
監督の微笑みが消え急に真剣な表情になった
「スヒョンさん、ちょっと目を閉じてみてよ」
「え…」
「今から少しチェ・スヒョンを離れて作品の中に入ってみてよ」
「…」
「一見完璧な男ジン…彼が初めて心から惹かれた相手ヒョンジュ
哀しい人生に言葉まで失い…自分を精神的に無にして微笑みつづけた美しいヒョンジュ
ジンは全てを捨てて彼を愛したいと思った…
先ほどの4人がそこに並んでいるとして…ヒョンジュはどこに立ってる?」
目を閉じるまでもなかった
猛烈な勢いでヒョンジュとミンチョルのシルエットが重なってしまった
大きな何かがどんっと身体を通り抜けたような
鳥肌が立つような…ショックに近い感覚だった
「オォーケーィ!決定!」
僕の表情を読んだ監督が両手をパンと大きく鳴らした
「言ったよね、私たち妥協しないって」
「あなたも引き受けて下さる以上はプロだ…私情は抜きでお願いします」
「すぐにでも彼に正式交渉しましょう」
みんなの満足そうな微笑みの中
僕は尚混乱したままだった
君に会いたくて ぴかろん
僕はイナに早く会いたくて
それで仕事を必死で終えて
大急ぎで帰って来て早く飯を食って
RRHにすっとんで行って
どうせイナはまだベッドの中だから
トンプソンさんに土産を渡して
エレベーターに飛び乗って
リビングに誰かいたら人差し指を立ててしぃぃぃ…
そっとイナの部屋まで行って
そっとその扉を開けて
もぞもぞ動くその可愛いヤツの寝顔をたっぷり拝んで
それから
擽り起こすのもいい
布団の中に潜り込んでやるのもいい
それともいきなり唇にキス?
冗談めかして早く起きろーって怒鳴るのもいい…
やっぱり
顔を見たら泣けちゃうかもしれない…
待っててくれて有難うって
大好きだよって伝えたい
そう思いながら帰ってきたのに
ヨンナムは突然僕を、仕舞い込んでいた過去に連れ去った
埃をかぶったその記憶を
いつかはこの男に手渡さなければと
ずっとそう思っていた
ヨンナムはあの時からずぅっと
時を止めたように息を潜めて
清く正しく明るく健やかに
生きていた
まだ僕の中に埋もれさせてもいいと思っていた
なのにあいつ…
一体どうしたと言うのだろう
あの時の事を聞きたがった
それで僕は話してやった
なぜ今なのか、もうそんな事はどうでもいい
僕にとってはいつだってよかったんだ…
やっと伝えられた
ほっとした
ヨンナムは立ち上がれるだろうか
あいつが…聞きたいと言ったのだから…
きっと…大丈夫だろう…
それでもあいつの顔が衝撃に歪むのを見て
僕はやはり動揺してしまった
ぼんやりしているヨンナムを残して部屋に引き上げてきた
飯を食ったらすぐにイナのところに行こうと思ってたのに
ヤツに与えた衝撃が跳ね返って
僕をも打ちのめし
力が抜けていた
目を閉じて
ようやく
僕と彼女とヨンナムの
優しくて悲しい物語が幕を閉じたのだと
長い間かかって終わらせる事ができたのだと
そう解釈して立ち上がった
お昼近くになっていた
イナに…会いたい
ごめんねイナ
いつも待たせてばかりだ…
今日はたっぷり大サービスしちゃうぞぉ…
気持ちを明るい方に向けて僕は階段を降りた
ヨンナムはまだ同じ場所で窓の外を見つめている
「今夜は帰らない…」
そう声をかけておいた
ヨンナムはゆっくりと僕の方に顔を向けた
突然の激流に戸惑っているようなその顔
それでも今までとは明らかに違う光が
ヨンナムの瞳に見て取れた
僕はヤツに少しだけ微笑んで外に出た
車に乗ってRRHに向かう
トンプソンさんにお土産のブランデーケーキを渡す
丁寧なお礼を言われたので
これでどんな不審な時間帯にやってきても、通してくださいねとウインクしておいた
40階に着いて扉が開く
リビングには誰もいない
そっとイナの部屋に近づこうとした時、ミンチョルさんがキッチンから顔を出した
「テジュンさん、お帰りなさい」
「しぃぃぃ…」
「は…」
僕が人差し指を唇に当ててしぃぃっとすると、それにつられてミンチョルさんも人差し指を唇に当てた
「ミンチョルさん…あの…イナなんですけど…」
僕はミンチョルさんにイナを借りると断った
ミンチョルさんは柔らかく微笑んで、楽しませてやってください…相当辛かったようですよと言った
そんなに?
そんなに待ち遠しかったのかぁ…
なんだかミンチョルさんがいつもより弱々しく見えたのは気のせいだろうか…
イナの部屋をそっと開ける
イナは窓辺にいて空を見上げていた
足音を忍ばせ、イナに近づく
背中から抱きつこうとした瞬間
イナがクルリとこちらを向いた
「わあっ!」
「…」
「ああびっくりしたっ。何よ…お前驚かないの?」
「ガラスに映ってた…」
「…あ…そ…」
「昼ご飯行く?」
「…」
イナが強がっている
僕の目を見ようとしない…
僕は離れようとするイナの腕を掴んで胸の中に引き寄せた
「ただいま…」
「…。おかえり…」
「ごめんね、遅くなって…」
「しょうがねぇじゃん…」
「寂しかったろ?」
「…。ん…」
「愛してる…」
「…テジュン…」
真一文字の唇を僕の唇でそっと解きほぐして中に入る
うーん…相当不機嫌?
「応えてよ…」
「あ…え?何?」
「キスに応えてよぉ…」
「…あ…ああ…」
「どしたの?」
「…いや…。腹が減りすぎて頭がまわんねぇ…」
「きいっかわいいっ」
それでぼんやりしてるの?
ううんもう…
会うたびに好きになっていく
離れるのは寂しいけど
再会した時のこの新鮮さは何物にも換えがたいなんて言ったら
またヨンナムに文句言われるだろうか…
『イナのことを考えてやれ…』
ふん!考えてるよ!
毎日毎日会いたくて堪らなかった
お前なんかに解るはずがない
僕達のこれまでがどんなだったのか…
もうイナに苦しい思いはさせない…
イナだけを愛してる
ゆっくりと僕のキスに反応しだしたイナを
きつく抱きしめてこのまま一つになりたかった
「てじゅ…めし…」
「んー色気なぁいぃ…」
「腹へりすぎて元気でない…」
「あぁん何食べにいくぅ?」
「なんでもいいから早く行こう…」
「よぉっしゃ!テジュンにお任せっ!」
腕の中にいるイナが愛おしくて、僕ははしゃいでいた
テジュンが帰ってきた
俺のところに帰ってきた
テジュンは嬉しそうにはしゃぎまわっている
俺は
どうしたんだろう
心が弾まない
ぼんやりと窓辺に突っ立っていた背中が
目に焼きついていて
あの人はこんな風に明るく笑えるだろうか
もう大丈夫だろうか
彼女の想いを
今頃になって受け止めて
それであの人は
どうなってしまうんだろうか…
俺の伝えた彼女からの言葉を
あの人は染み込ませてくれるのだろうか…
今頃
今更…
なぜ今まで言わなかった…
『傷ついた自分を知られたくなかった』
そうだ…そうだよな…
解るよテジュン
俺、お前の気持ちも…解るよテジュン…
はしゃいでいるお前は随分と優しい
お前の全てが俺に向いている
なのに俺の心は沈んだままだ
ごめんな…
聞いちゃった…
だからだな…
俺の唇に落とされるキスも
それに応えている自分も
なんだか別世界の出来事のように思える
今からテジュンと過ごすから
だから俺は元通りになる…
聞いてしまったあの話が
俺の心を押さえつけてる
ただそれだけだ…
「てじゅ…めし…」
車に乗り込んでご飯を食べに行く
何がいい?と聞いても何でも構わないと気のない返事をする
何かあった?
「別に…」
何でそんな不機嫌?
「…。別に…。腹が減ってるだけだ…朝飯食ってないから…」
尖らせた唇をチョンとつついて、僕はイナに言った
「じゃ、カムジャタンでも食べに行こうか」
「
カムジャタン
? 」
「嫌い?」
「…伯父貴が…あんま好きじゃないからって…俺、多分食ったことないと思う…」
「上手いぞぉ行こう行こう」
ヨンナムとよく行った仁川の店まで車を飛ばした
個室などないけれど、屏風で隔てられた空間で僕達は二人だけで鍋を囲んだ
「豚の骨…。伯父貴さ…豚の骨は食わないって言ってさ…。俺も食べた事なかったんだ…」
「メインはじゃがいもだぞぉ。ま、この骨についた肉をこそぎ落として食うのもうまいけどな。それに後からご飯入れて食うの
スタミナ抜群~。この後に備えてバッチシ!けひひひ」
ついまたそういう事を言ってしまった
イナが渋い顔をした
ぐつぐつと煮えた豚の骨とじゃがいもを食べる
イナは美味しいと言ってパクパク食べた
ヨンナムと…それから彼女と三人でよく来た店だ
今朝の話を引きずってしまったろうか…
イナとここに来たかったんだ…
鍋の中身を食べつくした後、ご飯を入れてもらいおじやのようなチャーハンのような状態にして、海苔を揉み散らして食べる
「うまい!」
「だろ?」
「こんなうまいもん、なんで伯父貴は嫌いなんだ!」
「なぁ」
スッカラクを口に運ぶイナを見つめる
とても…とても愛おしい
僕は切なくなってイナの頬に手を伸ばした
スッカラクを口に突っ込んだまま僕を見たイナの瞳に戸惑いの表情が現れた
「あに?こんなとこで発情すんなよ…」
そう一言言ってまた俯いてご飯を口に運び続けている
僕はテーブルに手をついて体をイナの方に伸ばした
唇を奪うために…
イナは顔を上げると僕をまじまじと見つめた
そしてスッカラクにひと掬い、ご飯を乗せて僕の口に突っ込んだ
僕はそれを笑いながら胃に落とし、もう少し彼の唇に近づいた
「よせよ…ついたてがあるからって丸見えだぞ…」
「いいじゃん」
「よくねぇよ…」
「いいんだよ」
待てなくなってイナの髪を掴んでくちづけした
一瞬ビクリとして、それからイナは僕の肩を強く押した
「やめろよ…見境なさすぎる…」
「だぁってぇ…」
「こんなとこで仕掛けるな!」
「なんだよぉ祭の時はあーんなに…」
「あの時は浮かれてたんだ!」
「…。怒ったの?」
「…。怒ってねぇよ…。めしが食いたいだけだ…」
「…ちぇ…つまんないの…」
「…」
「ね…。イナの伯父さんってどんな人だったの?イナの小さい頃ってどんなだった?」
僕は愛しい男の全てが知りたくなって何の気なしに聞いてみた
イナはモゴモゴしていた口を止め、僕を見た
「…なんで?」
なんでそんな事、今日聞くの?
昨日…ヨンナムさんに…話したばかりなのに…
「面白くもなんともねぇよ…。それにお前、知ってるんだろ?」
「大方の事は知ってるけど、イナの言葉で聞きたい…」
「何を」
「…色々なこと。苦しかった事や悲しかった事、寂しかった事も嬉しかった事も全部…」
「…」
「僕も話すからさ…」
「…」
「じゃ、僕から話そうか?」
「…え…」
「この店、よくヨンナムと来たんだ…」
「…」
「ヨンナムと…もう一人…僕達の憧れの女性と…」
「聞きたくない」
「…なんだよ…。知りたかったんじゃないの?」
「今、聞きたくない」
知ってるから!
全部知ってるからもう聞かなくていい…
「話したいんだ。僕を知ってほしい」
「そんな事より俺は…」
「ん?」
「…どうして…俺を選んだのか…それが知りたい…」
それを知りたかったのは事実だ
でも彼女の話を避けたかったから…
俺は話を逸らした
「どうしてって…好きだから…」
「それだけ?それだけでお前、大好きだった仕事をやめて俺のとこに来てくれたっていうの?」
「?なんで?」
「…ヨンナムさんが気になってたとか…ジャンスさんとこで働こうと思ってたとか…」
「…何言ってるの?」
「そのついでに…俺んとこに来たんじゃないの?」
何言ってるんだろう、ほんとに…
「…もしかして、僕が、ヨンナムや先輩との新しい仕事のついでにお前についてきたって事?」
俺は…何も答えられなかった
「そんな事考えてたの?!何言ってるんだよ!」
「だってお前、俺と一緒に住んでもくれない。BHCに入るのかと思ってたらそうじゃない…」
「…一緒に…住みたい?」
「…。いや…。今はいい…。でも最初はものすごく寂しかった…」
「住もうと思えばいつでも住めるだろ?でもその前にやっとかなきゃいけない事があったから…」
「…」
「ほぼ片付いた。一緒に住む気があるならそうしよう。お前の部屋に住んでもいいな」
「俺の部屋、イヌ先生とウシクに譲った」
「…え…ほんとに?」
「…今は俺、お前と一緒に住もうとは思わない…」
「…」
「お前の仕事、こんなだもん…。一人で待つの、寂しいから…。RRHに居候してるほうがいいもん…」
「…そっか…。そだよな…」
テジュンはふうっとため息をついてじっと俺を見つめた
優しくて暖かくてまっすぐな視線
その視線と同じものを
俺は昨日
昨日見た
俺を通り越して
俺の中の彼女を見つめていた視線
テジュンのそれも…
俺を通り越しているような気がした
「大事にするよ…」
優しく微笑んでテジュンが言った
心の篭ったその言葉に、俺の目から涙が流れた
誰に言ってるの?
俺?
それとも…今朝話してた彼女?
「大事にする…大事にするよイナ…」
もう一度俺の頬にてのひらをあててそう言ったテジュン
俺は何も答えることができずにいた
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