ぴかろんの日常

ぴかろんの日常

リレー企画 200

千の想い 54  ぴかろん

飯を食った後、俺は工房に降りて行ってパンを捏ねた
今日のはかなりいいとチェミさんに言われた

「やっぱこれのおかげか?お?」

ニヤニヤ笑いながらまたいやらしい腰つきをするので、俺は思いっきり大きなため息をついてやった
そうじゃなくて

確かに心が少し軽くなった
それはテジュンのおかげだろうけど…

『くちびるぱん』を作っているときテジュンが工房を覗いた
イナがいつもお世話になってますなんて保護者のような事を言いながら、テジュンは中に入ってきた
チェミさんは満面の笑みを浮かべて、いやぁ貴方のお力は素晴らしいですなぁはっはっはっイナの作るパンに艶がでましたよぉはっはっはっ
とわざとらしく言った
テジュンはその口調に全く気付かず、じっと俺の手元を見ていた

「お前…それ…なに?」
「え…」

俺は小さめの『くちびるぱん』を作っていた

「…それ…犬のウン○か?!」
「…」
「ぶわーっはっはっはぁぁくはははっ」
「違うもん…お前の…」
「え?ぼ…僕のなにっ?!」
「…くちびるら…」
「…」
「ぐはっぐわっはっはっ…」
「チェミさん笑いすぎだ…」
「僕の…唇?」
「うん…」
「その…ウン○みたいなのが?」
「言うなよ!売れなくなっちゃうじゃないか!」
「…だって…」
「よく見ろよ!ここんとここうなっててほら!唇だろ?」
「…まぁ…そう言われれば…」
「なんだよっ!じゃあ違う人の唇にするからなっ!」
「…違う人の唇も結局『おんなじ形』なんだろ?ん?」

テジュンは俺の顔を覗き込んで意地悪く言った

「…ちがう…あ…味がちがう…」
「味?」
「…ことにする…」
「…。じゃ、なにか?!この味の時は僕の唇で、違う味の時はヨンナムの唇だってのか?!」
「…。だれもヨンナムさんの唇とは言ってないもん」
「じゃあ誰の唇だってんだよっ!」
「…そ…ソク…」
「この野郎!」

テジュンは大きな声で怒鳴りつけながら俺の唇を思いっきり摘んだ
それまで笑っていたチェミさんが、息を呑み、まん丸の目をしてテジュンを見つめた

「この嘘つきめっ!ほんとのこと言えっていっただろうが!」
「痛いよもう…」
「…そんなに痛くしてないぞ…」
「…」
「誰の唇だよ」
「しつこい」
「しつこいよ、ストーカーなんだから」
「言ったら怒るくせに」
「怒るけど言わなかったらもっと怒る」
「…ややこしい…」
「そうだよ、ややこしくてしつこくていやな奴なんだよ僕は!」
「…」
「誰の唇?」
「おれのすきなひとっ!」
「…」
「…ぶ…ぶはははぶはは」

テジュンは黙り込み、チェミさんは大笑いした
その後もテジュンは、俺とチェミさんの作業をじっと眺めていた
俺は変に緊張してしまい、くちびるぱんがうまく作れなかった
二次発酵を待っている間、チェミさんはにこにことテジュンに話しかけた

「できたてのほやほや、食べられるぜ、テジュンさん」
「やった!これこそは一番手だよな?イナ?」
「…ぱんは…いろんな人が食べてる…」
「え…」
「よん…なむさんも…食べた…」
「むううう…」
「しょうがないだろっ!お前いなかったんだもんっ!」
「ぐぞー自業自得かぁぁ」

テジュンはカウンターに大げさに突っ伏した
チェミさんは始終ニヤニヤ顔をしていた

「ふふ…でも焼きたてこどもぱんの完成品はテジュンさんが第一号だ。な?今日のは『完成品』って言ってもいいだろう。お前、今日、『よかったし』…」

チェミさんは意味ありげにそう言って、またクイっと腰を一振りした…

「…。まさか盗撮とか盗聴とかした?」
「何のことだ?」
「かまかけてる?」
「どういう意味だ?ん?」
「…」
「俺はただ、お前の様子を見て『よかったし』と言っただけだが…お?」

チェミさんの言葉を聞いて、ニヤけたテジュンが顔を上げた
チェミさんは顔を背けて笑いを堪えている
俺は少し恥かしくなって話題を変えた

「てじゅ、この後どうすんの?」
「…どうしてほしい?」

テジュンの顔はニヤけきっている

「どうしてって…てじゅの好きなようにすればいいじゃん」
「好きなようにって?」
「…だから…用事があるならそこに行けばいいし、家に帰るなら帰ればいいし…」
「それ以外の選択肢は?」
「だからてじゅが好きなようにしろって言ってるじゃんか!」
「お前はどうしてほしい?」

俺はテジュンを見つめた
しつこいなぁホントに…

「だからっ!てじゅの好きなようにさあっ」
「ぐははは…こらこらイナ、わかってやれよぉ恋する男の心をさぁくははは」
「チェミさんうるさい!」
「お…すまんすまん…」
「ねぇイナ…どうしてほしい?」
「らから…てじゅのよていは…」
「なんにもない」
「じゃ…すきにすれば…」
「誰の好きにすればいいの?」
「てじゅの…」
「お前どうしてほしいのさ」
「らからっ!俺はっ!てじゅが好きにすればいいって何度も言ってるじゃんか!」
「誰に?」
「でじゅにだよっ!」

キレかかってテジュンに怒鳴った時、テジュンは嬉しそうな顔をして俺を抱きすくめた
目の前にチェミさんがいるのに…

「やめろよてじゅ!チェミさんがびっくりして…」
「くふん…うれしいな…」
「な…なにが…」
「おまえがぁ…『てじゅてじゅ』って連発してくれるのがぁ…気持ちよくてさぁ、くふ」

テジュンは俺の首筋で喋っている
俺はくすぐったくて顔を顰める
その俺をチェミさんが観察して笑いを堪えている
もうっ!

「どっしよっかなぁ~くふっんふん…」
「ぁあっ…」

テジュンの唇が微妙な擦れ方をしたので思わず声が出てしまった
チェミさんが吹き出すのを堪えている…むうっ…

「お前とぉ…いっしょにぃ…いたいなっちゅっ」
「うはん…」

俺は首筋に『長い睫毛と唇攻撃』を仕掛けられ、ヘンな声を上げてしまう
チェミさんは両手で顔を覆い、指の隙間から俺たちを見ている
俺は…俺はその…チェミさんの様子を見て、ついに吹き出してしまった

「な…なんだよイナ」
「チェミさん…顔…隠しきれてねぇよぐわっはっはっ」
「…」

大笑いする俺を恨めしげに見つめるチェミさん
俺に抱きついたまま一緒に笑っているテジュン
ひとしきり笑い終わった後、テジュンがマジな顔で言った

「一緒にいてもいいか?」
「…」
「ん?」
「…い…いいけど…」
「よっしゃぁ!昼ご飯はこどもぱんだぁ!」
「イナ、デザートは?テジュンさんあれ、食ってないだろ」
「あ!大変!忘れるとこだった!」
「じゃ、昼飯のデザートにしろ」
「うん…」
「いつ焼けるの?」
「まだ発酵終わってないもん…」
「はやく食べたいなぁ♪」
「二階で待ってれば?」
「ええん…お前と一緒にいたいなぁ♪」
「じゃ、好きにすれば!」
「誰の?」
「…ぶぁか!」

チェミさんがニコニコとかわいい顔で笑っていた
俺の心は本当に軽くなったように思う
テジュンってこんなに…大きかったっけ…

暫くしてパンをオーブンに入れ、焼きあがるのを待った
テジュンはいくら言っても二階に行かず、俺の傍から離れなかった
次のパン製作に取り掛かったチェミさんを手伝うフリをして、俺はこっそりと愚痴った

「しつこいよな…」
「くはは。嬉しいくせに」
「…嬉しいのかな…」
「穏やかな顔してるぞ」
「…。こんなに付き纏われるの初めてかもしれない…」
「心配で仕方ないんじゃないか?」
「…なんだかなぁ…」

嬉しいといえば嬉しいのかもしれない
なのにチクチクと心が痛む
俺が少し黙ったのを見て、チェミさんが耳打ちした

「甘えるのが怖いのか?」
「…」
「まぁお前が本気で甘えたら大変なことになりそうだけどな」
「…それ…どういう意味よ…」
「ん?遠慮しててもコレだからなぁ…本気出すとあの人ドロンドロンになりそうだ…くはは」
「…本気で甘える…」
「…まだできそうにないか?ん?」
「…」

そうだな
できそうにない
俺はまだ、テジュンに全てを見せられない
テジュンは俺の苦しみを半分引き受けるなんて言ったけど
そしたらテジュンの苦しみは二倍にも三倍にもなってしまいそうだ
だから…

「うぉい。甘えるってのはな、別に思ってる事全部くっちゃべることじゃねぇぞ。ん?」
「…」
「ただ単に擦り寄ってくだけでもいいんだ。あの人はそれだけでも嬉しいんだ。な?」
「…うん…」

「なぁに二人だけで話してるのさっ!」

「ほら…不機嫌になってんぞ」
「…」

「いなぁ」
「なんだよ」
「僕とお喋りしようよぉ」
「…なにをだよっ!」

どっちが甘えてるんだか解んなかった


Sin and Sorrow 4  れいんさん

地図を頼りにそこに着いたのは午後を少しまわった頃だった
何かに突き動かされる様に僕はここに来た
それからどうするかなんて何も考えていなかった

今にも雨が降り落ちそうな幾重にも重なって見える灰色の雲
生温かい湿った空気のせいか掌が汗ばんでくる
僕はあの箱を胸に抱き、かつて彼が暮らしていたその家を見上げていた

何の為にここに来たのか
何をしようとしているのか・・
「何も見なかった事にするの」
エジュさんの言葉がよぎる

頭では理解しているのに、心がそれを受け入れない
このまま何もなかったように来た道を引き返すのは簡単な事なのに・・
クローゼットの隅にまたこの箱をそっと置けばすむ事なのに・・
僕はまだ迷い続けていた

あの門を開き、玄関の呼び鈴を鳴らす
彼女が出てきたら、彼からの贈り物だと告げてこの箱を渡す
そして深々とお辞儀をし、その場を立ち去る・・
頭の中でそんな場面を描いては長い長い溜息をついた

やはり、ここに来たのは間違いだった
彼の承諾もなしに勝手に・・
そう、エジュさんの言う通り
僕が踏み込む事じゃない
もう帰ろう・・そう思った

「・・何か御用でも?」
その声に飛び上がりそうになった
振り返ると彼女がいた
僕は息を呑んだ

あれはそう確か、あの時、あの病院で、だったろうか・・
ずっと以前にその人の横顔を見た事がある
でもこんなに間近で見るのは初めてだ
その人は怪訝そうな顔をして僕を見ていた
家の前に佇んだまま何度も溜息をついたりしてたのだから無理もない

その人はとても美しかった
どう説明したらいいのだろう
凛とした美しさと強い意志を湛えた瞳
母となった女性の香りも匂わせて
かつて彼が狂気に近い程の愛を捧げた女性・・ウンスさん
眩しくて、真っ直ぐに見る事ができなくて、僕は俯いた

「この家の者ですが・・何か御用でしょうか?」
「あ・・いえ・・その」
「・・あの・・失礼ですが、貴方は?」

名乗らなければいけないのに、言葉が出てこない
いつのまにか、箱を強く抱きしめていた
ピンと張り詰めた空気に、僕の頬はみるみる上気してゆく
ようやく重い口を開きかけた時、その人は静かに言った

「・・どうぞ、お入り下さい」
彼女はカチャリと門扉を開けた
「え・・」
「・・スハさん・・でしょう?」

広いリビングに通された
何か挨拶をしたのだろうが、何を言ったかまるで思い出せない
勧められるまま窓際のソファに腰掛けても
座り心地が悪いわけでもないのに、どこか所在無くて落ち着かない


お散歩の途中で眠ってしまったのか
気持ちよさげにバギーに揺られていたベビーは今ウンスさんの腕の中にいる
大切な宝物が壊れてしまわないように
彼女はそうっと抱いていた

なんて愛らしいんだろう
目元が・・彼に似ている

胸の奥がギュっと軋んだ
見たいのに、見るのが怖くて
笑っていたいのに、辛くてたまらなくて
悪いのは僕なのに、そんな勝手な事ばかり考えている
そしてまた僕は僕自身が嫌いになっていく

ちょっと寝かせてきますからくつろいでいて下さいね
彼女がそこを離れた時、激しい後悔に襲われた

なんて余計な事をしでかしたんだ
僕はただ何かの理由をつけただけで
本当はその人をこの目で確かめたかっただけじゃないのか?
彼の過去を知りたかっただけじゃないのか?
なぜここに来てしまったんだ
来るべきじゃなかった
できる事なら今すぐ逃げ出してしまいたい

目を閉じて深く息を吸った
それから気持ちを落ち着けてゆっくりとあたりを見渡した

そう、彼はここで暮らしていた
弟としてではなく、一人の男として
そしてウンスさんと愛し合った・・
それは紛れもない事実
彼が暮らしていた跡形など、もうどこにもないのに
彼の香が残っているような、そんな気がした


千の想い 55  ぴかろん

テジュンとチェミさんと俺は、三人で『こどもぱん』の話をした
アイディアをくれたのがヨンナムさんだと知ると、テジュンはムッとした顔になった

「あいつってばそういう発想は豊かなんだよなっ。くそっ!」

ようやく『こどもぱん』が焼きあがり、オーブンからトレイを引き出したチェミさんが満足そうにパンを眺める
俺はそれを籠に入れ、テジュンの前に差し出した

「うわ…」

テジュンは目を丸くして俺の作った『こどもぱん』を見つめた
テジュンの口元が少し緩み、それから引き締まった
じっとパンを見つめ、それを手にとろうかどうしようかと迷っているような仕種を見せる
唇を噛みしめ、ずっとパンを見ている

「なんだよ…取れよ。焼きたて、うまいぞ。焼きたてでないとうまくないって説もある」
「…あ…ぅん…」

テジュンはそっと手を伸ばし、『こどもぱん』の中の一個を取った
それを掌に乗せると、またじいっと見つめていた

「ヘンなの。食えよ早く」
「こらイナ!恋する男の心情を解ってやれ」
「は?」

チェミさんに言われて俺は少し黙った
黙ってテジュンの様子を見ていた
テジュンは掌に乗せたパンをゆっくりと口元に持って行ってそれを一口齧った

「ふ…。…ぅっく…」

ふいにテジュンが俯いた
泣いているようだった

「しょんなにうまいか?」
「ん…。最高だよ…」
「…てじゅ…」
「…しあわせな味がするよ…イナ…」

バンバンとチェミさんが俺の背中を叩く

「最高の褒め言葉じゃねぇか!くぉのっ!」
「…泣くほどうまいのか?」
「…お前が作っんだなぁ…。これ、全部お前が作ったんだなぁ…」
「…」

しみじみとテジュンが言った
その口調を聞いているとこっちまでなんだかジーンとしてきた
俺は一呼吸おいて言った

「じじいかよ、テジュンは!そんなに感動しなくていいよ!」
「…ぅん…」

テジュンは鼻を啜りながらパンを食べていた

「これ、しょっぱいのに甘いな…」
「それは…くすん…『なみだぱん』って言うんですよテジュンさんくすん…」

零れそうになった涙が引っ込んだ
だってチェミさんが鼻をすすりながら涙目で言ったから…

「チェミさん、なに泣いてんの?」
「うるさい!男の純情に心打たれたんだ!」
「…じじいになるとなみだもろくなるのか?」
「「違うっ!」」

とにかくそれを上に持っていけと、俺はテジュンに言った

「お前は?来ないの?」
「デザート持ってくから先に行ってて」
「…わかった…」

やっとテジュンが二階へ行った
チェミさんに「デザート」と言うとぺしんぺしんと後ろ頭を叩かれた

「なんだよぉ」
「くぉの幸せ者め!」
「…そう?」
「お前の焼いたパンをあんなに愛おしそうに見つめて…くうっ…お前、愛されてるなあ、わかってるのか?お?」
「…」

嬉しかったけど…申し訳なかった
俺はどうすればいいのだろう…
どんな風にテジュンに接すればいいのだろう…
チェミさんが冷蔵庫から出してきたゼリーを、俺は皿に乗せて二階へ運んだ

階段を上がってリビングに入ろうとした
ベランダ側の窓の近くにテスとテソンとテジュンがいた
光を浴びた三人のシルエットがきれいだった
やがて目が慣れて三人の表情が見えた
三人は穏やかに笑っていた

俺はリビングの入り口に突っ立ったまま、三人を見つめていた

どうしてこいつらは…
こんな風に笑っていられるんだろう…

テス…チェミさんは心の中で闇夜を…
テソン…闇夜はやっぱりチェミさんを想ってるのに
それを知っているのに…

テジュン
俺は
俺は

ヨンナムさんを断ち切れないでいるのに
それを知っているのにどうして

どうして俺を温かく包み込んでくれるの?
どうしてそんなことができるの?

「イナ、こっちに来いよ。食べようよ」
「…。あ…。俺、工房に…忘れ物…。これ冷やしといてよテソン…」

すぐ傍の棚の上にゼリーを乗せた皿を置き、俺は三人に背を向けた


「ん?イナさんどこ行ったの?」
「工房に忘れ物したって…」

左の方の部屋で小物を見ていたらしいラブがリビングに戻ってきた
イナの後姿を見て不思議そうな顔をしていた
それからラブは、僕の首に腕を回して耳元で囁いた

「ねぇ…キスしよっか…」

後ろにいたテス君とテソン君がくすっと笑っている

「ふふ…」
「しようよぉ…俺にあーんな事したんだから…チュッてしてくれてもいいんじゃなぁい?」

相変わらず妖艶な目つきで僕を誘うな…全く
僕は俯いてフフフと笑った

「はぁ…貴方もギョンジンみたいになっちゃうんだなぁ…」
「ん?」
「…イナさんに…メロメロかぁ…」
「…ん…。そうだなぁ…」
「つまんなぁい…」
「…。ラブ」
「なぁに?」
「僕達があの旅から帰ってきた時さ」
「うん」
「ギョンジンの気持ちが解らなかった」
「…ん…」
「今は…解る。あいつはすげぇ男だな…」
「あは…。俺、愛されてるみたいだからさ」
「そうだな」
「貴方もイナさんを愛してるでしょ?」
「…愛してるのかな…わかんない…大好きだけど」
「ふふ。愛しちゃってるんだよ。…ちょっとギョンジンと似てきたし…」
「…やだな…」
「あはは」
「お前もギョンジンのこと愛してるんだろ?」
「さぁ~わかんなぁい」
「あんな大事にされてるのにか?」
「…俺も大事にしてるよ、俺なりにさ」
「…そう…」
「あいつがわかってればいいんだ。だろ?」
「…そうだね。…僕もイナに…そんな風に…」

そこまで言って僕は込み上げてくる塊を呑み込んだ
僕はイナに、そんな風に想って貰えるだろうか…
そんな事、望んじゃいけないだろうか…

「大丈夫だよ。貴方がイナさんの傍で幸せそうに笑っててあげたら、イナさんきっと気付くよ。貴方が大切な人だって」
「…大切だとは言ってくれたけどさ…本心かどうかわかんない…」
「あれぇ…イナさんの前では随分自信ありげに見えたのになぁ」
「イナがいないと…だめみたい…」
「つっまんなぁぁいぃぃ!」

ラブは僕にくっついたままほっぺたを膨らませた

「でもいいや。俺は貴方の弱音が聞けるもん」
「…」
「イナさんに言えなかったら俺に言ってね。いつでも慰めてあげるよ、オプションつきで」
「…ありがたいな…」
「うふん…」
「さんきゅ…」
「…。ねぇテジュン」
「ん?」
「イナさんの気持ちが落ち着いてさ、貴方達がうまくいって、んで暫くしたらさぁ」
「うん」
「浮気しよぉね」
「ははは」
「しよぉね」
「ああ」
「絶対だよ!えっちするんだよ」
「わかった」
「ぜぇぇぇったいだよっ!」
「…はいはい…」
「よし!じゃイナさんの気持ち早くこっちに向けないとねっ」
「…ふふふ」

ラブは僕の頬にチュッとキスして僕から離れた

「イナさんにバラすなよ!」
「ああ」
「俺達の秘密なんだからね!いいね」
「僕もしつこいけど、お前も相当だなぁ」
「貴方だからだよ!」
「…ラブ…」
「大好きだよ」
「二番目に…だろ?」
「別腹なの!テジュンはデザートだから」
「くは…」

ラブはバイバイと手を振り、家に帰ると言って階段を降りていった


千の想い 56  ぴかろん

階段を降りていくと工房からイナさんの声が聞こえた
チェミさんを責めているようだった
俺はドアの隙間からチラッと中を見てみた
はぁっ…
泣いてるよ…
ったくなぁ…あの人もほんとに頑なだなぁ…
俺はさっきのテジュンの少し寂しそうな顔を思い出した
俺が「浮気しよぉ」って持ちかけたときテジュンは「わかった」って言ったけど
あまりにも簡単にそう返事したけど…
それってもしかして…イナさんがテジュンの方を向かないと思ってるからかな…
自信がないから…有り得ないと思ってるから…俺の誘いに軽く返事したのかな…
はぁぁ…ばか…
ばかなんだからこの二人は!
でもテジュン…
大丈夫だよ…
貴方の想いは伝わるよ…
だから…
絶対俺と浮気しよぉね…テジュン
俺は工房の扉をそっと閉めて外に出た


眩しい三人から逃げるように階段をドタドタと駆け下り工房に走りこんだ俺を、チェミさんは驚いた顔で振り返った

「なんだ…どうしたんだ」
「なんで!なんでだよ!」
「イナ…」

涙が止まらなかった
チェミさんの胸を叩きまくった

「どうした、ん?」
「なんでっ…なんでテスはあんな風に笑ってるんだよっ!なんでテソンはあんな穏やかなんだよっ!あんたら裏切ってるじゃねぇか!
あんたら心の中にもう一人…もう一人住まわせてるじゃねえかっ!なんでだよっ!なんであいつら…」
「イナ」
「てじゅも…てじゅもなんで…なんでさ…。行けない…近づけない…俺は…あんたらみたいな事、テジュンにできないよ!」
「…」

チェミさんが俺の背中をそっと撫でた
俺が落ち着くまでそうしてくれた

「…何でかな…。あいつらは凄い奴等なんだよ」
「…」
「テスと出会ったときな、お狐様は新しい恋を見つけて突っ走っておられただろ?」
「…」
「テスは俺に甘えた。俺はテスが甘えてくれることが救いになった。それまで荒んでいたからなぁ…。俺はテスと出会って、それでこうやってパンを作れるようになったんだ。テスがいないと俺はダメなんだよ」
「…闇夜は?」
「あれはな…なんというか…お前なら解るだろぉが…。隙間にすうっと入ってくるっていう感じが…」
「…なんとなく…」
「あれも同じ気持ちだろう。あれに絶対に必要なのはテソンなんだ。テソンと闇夜はお互いを必要としている。俺もテスもそうだ。お互いを必要としている
お前とテジュンさんも…そうだと思うがなぁ」
「…」
「だからもっと甘えていいんだぞ」
「…できねぇよ…」
「はぁ…お前もわからずやだなぁ…」

だって眩しすぎるんだ、テジュンが…
こんな俺があんなに輝いているテジュンに近づくなんて…

「あの人を輝かせてるのはお前なんだぞ」
「…」
「まぁいい。とにかく…行け。あいつらはもう、ちっぽけな事に左右されない。もっと大事な物を見つけてるんだ。凄い奴等だ。安心して甘えていいんだ」
「…」
「できるようになる。傍にいれば解る時が来る。もっと心を柔らかくしておけ。お前はお前でいいんだ。あの人はお前の言葉を聞きたいんだ。だから、どんな事でも聞かせてやればいい」
「でも、でも」
「傷つけると思うのか?そうだな、傷つくだろうな。けど、お前がそこにいるだけで、あの人の傷は癒える。あの人はもっと大きくなれる。お前も一緒にいたいんだろ?ならそうすればいい。ややこしく考えなくていい」
「…」
「行け。待ってるぞ」
「…」
「今の気持ち、全部話してやれ」
「…そんな…」
「あの人は全て受け止めてくれる。お前を受け止める事で強くなる。俺には解る」
「…チェミさん…」

俺はチェミさんに背中を押され、もう一度二階へ行った
二階に上がると中庭のベンチに座っているテジュンがいた
さっきと同じように穏やかな微笑みを浮かべていた
俺を見つけると顔を輝かせて手招きした
俺は小さなため息をついて、テジュンの方へ行った
ベンチの真ん中にパンの籠が置いてある
俺は籠を挟んでテジュンの隣に座った

「…。食べた?」
「ん?まだ。お前と一緒に食べたかったから」
「…冷めたらまずくなる」
「そんな事ないよ。テス君もテソン君も今日の出来は上々だって褒めてたぞ」
「あいつらは食べたの?」
「ああ。パクついてた」
「中味はチェミさん作だからな…」
「ふふ。いつか中味も作れるようになるさ」
「…」
「いただきまぁす♪」

テジュンは『こどもぱん』に一個ずつ齧りつき、半分を俺に食べさせた
三個ほど食べたところでテソンが紅茶を持って来てくれた

「はい。どーぞ」
「ありがと」
「ここで食べると気持ちいいでしょ?」
「ん。ここに出たの初めてだ…」
「夜もいいよ。ベランダもいいけどね。ここからでも星がきれいだよ」
「そうなの?じゃ、また夜お邪魔したいな。ね、イナ」
「…あ…うん…」
「いつでもどうぞ。じゃ、ごゆっくり。また後でデザート持ってくるね」
「サンキューテソン」
「どういたしまして」

紅茶を啜るテジュンを見つめた
テジュンは前を向いたまま俺に言った

「で?なんで逃げ出したの?」
「え?」
「さっきどうしてリビングに来なかったの?」
「え…あ…」
「ん?」

テジュンの笑顔がチクチクした
チェミさんの言葉を思い出し、俺は…ぽそぽそと…俺の想いを口にしてみた

テジュンが輝いていて近づけないと思ったこと
どうしてそんなに俺に優しくしてくれるのかわかんないこと
俺が憎くないのかってこと…
そして
そんな風に優しくされているのに
俺の気持ちがまだあっちに行ってしまうこと…
一つずつゆっくりと…話した
テジュンが立ち上がって去って行くのではないかと思いながら
テジュンの笑顔が消えてしまうのではないかと怖れながら…

「はぁ…。ふふ…」
「…」
「お前は…僕がお前のところに戻ってきたとき、すぐに受け入れてくれなかったものな」
「…」
「だからわかんないか…」
「…え…」
「普通はそうなのかな…僕がおかしいのかな…」
「…テジュン?…」
「しょうがないだろ?だって好きなんだもん、お前が」
「てじゅ…」
「ここにお前がいるって事が僕には重要なんだ。どんなお前でもここに、僕の横にいてくれる事がさ」
「…」
「お前の存在は大きいんだ、僕には…。嫌なことも何もかも…お前がいるだけで消えちゃうんだ。頑張れるんだ僕…」
「…」
「そんな気持ちになったのはね、これが初めてだ、イナ」
「てじゅ…」
「今わかんなくてもいい。わかんなくてイヤになってもいい。ただ傍にいてくれたらそれでいいんだ…僕は…」
「…なんかさ…俺…お前に…申し訳なくて…」
「ん」
「こんな気持ちでいいのかな…俺」
「いいの」
「いいの?」
「いいの。そのままでいいの。くふふ」
「…いいのか…」
「何してもいい。僕はお前が好きなの。お前見てるとそれだけで元気になれるの…」
「…ん…」

テジュンの肩に頭を乗せた
残りのパンを半分ずつ食べた
テジュンは「くちびるぱんだけはやらない」と言ってニヤニヤしながら食べた
頃合いを見計らってテソンがあのゼリーを持ってきてくれた

「どうぞ。それとこれはイナさんのね」
「え…あ…」

俺のためのあのチョコが一個だけ皿に乗っかってた

「…テソン…俺まだ味…」
「いいの。今日はどんな味がするか、食べてみて」
「あ…う…ん…」

テソンはにんまり微笑んでリビングに戻って行った


千の想い 56  ぴかろん

「へぇぇきれいなゼリーだね」
「うん。チェミさんが作ったんだぜ」
「ほえええ。信じられない」
「…チェミさんは…テスと出会って…パンが焼けるようになったんだって…」
「ふうん。仲いいもんなぁ」
「…チェミさん…テス以外に…好きなヤツがいる…」
「…え?」
「…闇夜だ…」
「…」
「俺言わなかったっけ。祭りの時、あいつら、こっそり手ぇ握り合ってたって」
「…そうだっけ…」
「ん。そうなんだ…。んでな…。テソンもテスも、二人の気持ち…知ってる…」
「は…」
「なのにさ、なのになんであいつら、あんなに穏やかなんだろう…」
「あは…それで余計にリビングに入ってこれなかった?僕たち天使のような三人のイイ男が輝きすぎてて?」
「…。そう…だよ」
「ばかぁ。ここは笑うか殴るかどっちかだろうがぁ…フフ。はぁ…そっかぁ…。あの二人って僕の『先輩』なんだなぁ…」
「てじゅは…わかるの?あの二人の気持ち…」
「そだな…なんとなくな…」

俺は…チェミさんの気持ちが…わかっちゃうな…

「ああ僕チェミさんの気持ちも解るから」
「へ?」
「お前の気持ちも解るし」
「…」
「なんだ物分りがよくなっちゃったな…僕…」
「…てじゅ…」
「ん?なぁにっイナっ」

なに張り切ってんだよ…
そんなに俺が『てじゅ』っつーのが好きかよ…ばか…

「…。そのゼリーな、俺たち三人みたいだろって…チェミさんが…」
「…三人…イナと僕と…ヨンナムと?」
「ん…」
「ふぅん…なるほど…どれもが微妙に触れ合ってるな…この野郎!」

テジュンはいきなり三層のゼリーを、縦に掬った
全部の味が一度に匙に乗っかり、それを口に運んで味わっている

「んー…ほんと…甘酸っぱい…。美味しいな…。僕等三人が混ぜこぜになるとこんなに美味しいのかぁ」
「…」
「んじゃ一つずつ味わおう…」

今度は一層ずつ掬い、食べる
俺はその唇を見つめる
突然テジュンが俺を振り向き、最初と同じように三層のゼリーを縦に掬って俺の口元に持ってきた

「あーん」

口を開けようとした俺の頭に数日前の出来事が過ぎった

~~~~~~~~
「あーん」
「んっ美味しい!」
「…でへへへじゃ、こんどはここ、あーん」
「あーん」
「あ…でへへへ」

ソクがスヒョクにあーんと口を開けさせてゼリーを掬い、スヒョクの口に運んでいた
でれでれしたソクの顔に呆れて、もう一つの『テジュンと同じ顔』を見つめた俺
あの人の言葉

「ソクさん幸せそうだなぁいいなぁ…僕もしよっと。はい。イナ。あーん」
「…」
「あーん!」
「…。馬鹿馬鹿しい!」
「あっ!ちっと付き合えよ!やなやつ!」
~~~~~~~~

ふ…
ふふ…

あの時はまだ留まれるはずだった
あの時にはもう…テジュンは俺の気持ちを知ってしまっていた…

また涙が溢れ出し、唇がぶるぶると震えた
なのにテジュンは俺の口にそのゼリーを押し込んだ
俺は口の中で三層のゼリーを混ぜこぜにした
甘酸っぱい
美味しい…
俺たちが混ざり合うと
こんな味がするのか…

俺はゼリーを飲み込み、息を整えてテジュンに言った

「ヨンナムさんにも…あーんってされた」
「むぅぅ。それを思い出して涙したのか!」
「…。あの時は…食べなかった…」
「よし!」
「…お前に…こうしてほしかったのかな…」
「…ふ…」
「もう二度と…ヨンナムさん…『あーん』なんてしてくれないだろうな」

言ってしまってから失敗したと思った
つい本音が口から出てしまった
テジュンの顔が見れなかった

「…んなことないさ」

テジュンの声は優しかった…

「…何が起こるかなんてわかんないだろ?」
「…てじゅ…怒んないの?」
「別に。腹立たないなぁ…、はい、あーん」
「…てじゅ…」

テジュンに抱きついた
テジュンはあったかい
俺の中にはまだ
『どうして?』
と叫ぶ俺がいて
お前にべったり甘えられないのに

「はい。あーん」
「あ…ん…」

テジュンが掬ってくれたゼリーをもう一度食べた
甘い疼きを胸に感じた

「お前の一口おっきいからなぁ…あとは僕がたーべよっとぉ」
「…ふんだ…」
「お前にはチョコがあるだろ?」
「…味…わかんないきっと…」
「食べてみなきゃわかんないでしょ?」

テジュンはそう言ってチョコを手に取り包みを剥いた

「あーん」
「あーん」
「きひひ。かわいいな、お前」
「ばか…」

放り込まれたチョコを口の中で溶かした

やっぱりまだほろ苦いよ、テソン…

「どう?美味しい?」
「ん…ちっと苦…あ…」
「ん?」
「…甘い…」
「くはは。チョコは普通甘いもんだろ?」
「…前食ったときは…苦味ばっかし感じてたのにな…なんでだろ…」
「それはぁ…」
「ん」
「僕のおかげだっきゅううう」
「あ゛っ」

テジュンは俺をきつく抱きしめてふるふると揺さぶった

「かわいいかわいいかわいいっ!はぁぁんイナっ!すきすきすきっ」
「ぶぶテジュンぶぁかっ…はなせっ」
「くはは。…好きだよイナ」
「…」

俺はテジュンの『大好き攻撃』に戸惑いまくっていた


千の想い 57  ぴかろん

ゼリーもチョコも食べてしまった
俺達は頭を寄せ合って中庭でぼんやりしていた
テジュンはこれからどうするんだろう
ヨンナムさんちに帰ってヨンナムさんと何を話すんだろうか

「なぁイナ…」

テジュンが俺の思考を遮った

「お前のパンさ…」
「ん」
「美味しかったなぁ…」
「…さんきゅ…」
「感動したんだよ、マジで」
「…おおげさだな」
「ほんとだよ。僕さ、なんか…子供を持った父親の心境だったな…」
「え?」
「お前が作ったパンがさぁ…僕の子供みたいに思えた…」
「…」
「お前と生きて行くって決めた時に、僕の子供は持てないんだって覚悟してたのに…違う形で同じ気持ちになれた…そう思う…」
「てじゅ…」
「ありがと…イナ」

俺の気持ちをどう言えばいいのだろう
テジュン、礼を言うのは俺の方なのに
昨日からテジュンに泣かされっぱなしだ
俺なんかが作ったパンをそんな風に思ってくれたなんて
涙を必死で堪えていた

「でもなぁイナ…」
「…」
「僕、お前がいないとダメなんだ…。さっき一瞬お前がいなかっただけで気持ちがショボーンってなっちゃった…。ほんとに…ストーカーだな…」
「…う…ふ…」
「くっついててもいいか?」
「…ふ…」
「ああそれと、くちびるぱんの味は毎日確認しないとな」
「…」
「いつも『今日の味とおんなじか』って事をさ。ね?」
「う…ひっく…まい…まいにちなんか…できっこないくせにひっく」
「なんで?」
「しゅ…しゅっちょうある…」
「ああ、出張の時はぁ…『くちびるぱん』作るな」
「…ぅえ?」
「作っちゃだめ。僕がいないときは!」
「ひくっしょんなのっ!」
「ふん!僕がいない時に『ヨンナムのくちびるぱん』作ろうなんて絶対ヤだからな!」
「…ひくっ…てじゅ…さっきはヨンナムさんにあーんしてもらってもはらたたないって…」
「『くちびるぱん』はダメ!やだ!」

どういう基準だろう…

「…ひくっ…せっかくテジュンに感動してたのに…涙ひっこんだ…」
「ふん!ひっこませてやったんだい!」
「…ひくっ…」

なんでこんなに優しいんだろう
なんで俺なんかにこんな…

テジュンは俺の頭をもう一度引き寄せ、髪にくちづけした

「イナ…僕も揺れるんだ…。お前の前で偉そうに言ってもまだ自信がない…。戸惑わせるかもしんないけど…ごめんね」
「…ううん…ううん…俺…俺…」
「もう少しこうしていようか…ね?」
「ん…」
「…気持ちいいね…風…」
「…んテジュン」

俺はテジュンの肩に頭を乗せた
切ない気持ちがあふれ出す
俺達は無言で中庭を通る柔らかな風の中にいた
抑える事も消す事もせず、俺は溢れ出す様々な気持ちを漂わせた
とても楽だった…


夕方になって俺はBHCに行き、シャワーを浴びて適当な衣装に着替え、開店に備えた
テジュンは別れ際、寂しそうな顔をしていた
昨日から今日にかけての出来事を思い出しながら、店の外に出てタバコを吸った
テジュン…
もうヨンナムさんと会っただろうか…
ヨンナムさんと話しただろうか…
ふるふると頭を振ってタバコを消し、店に戻った


イナと別れてからヨンナムの家に戻った
何日ぶりだろう
玄関の前に立って僕の部屋の窓を見つめる
僕がいなかった間にイナとヨンナムに起こった出来事
ああ…
それは僕が引き起こした出来事だ、ヨンナムのせいじゃない…
僕はちゃんとヨンナムに向き合えるだろうか…
ちゃんと『イナが好きだ』と、『大切にしていく』と言えるだろうか…
…ヨンナムは一体どういう気持ちなんだろう
イナをどんな風に思っているのだろう
聞きたい事はいっぱいある
話したい事もいっぱいある
玄関の引き戸を開け、僕は中に入った

「ただいま…ヨンナム…いるか?」

中には誰もいなかった
無用心なやつ
鍵ぐらいかけろってぇの…

僕は居間に行き、ごろりと寝転がった
天井を見つめた
ふいに絡み合う二つの影が思い浮かんだ
イナと…肌を合わせたヨンナム…
届かないと知りながらヨンナムを思い続けるイナ…
終わりにしようとしていた
…あいつのために…
…イナ…

いつだったか、ミンチョルさんに呼び止められて、彼とスヒョンさんの話を聞いた
『心で寝る』ってこういうことか?イナ…
お前とヨンナムは『心で寝た』のか?
…違うよな…お前の場合は違う…
ヨンナムの心は遥か空の彼方に飛んでいたはずだから…
ただ肌を合わせただけで終わったのは…お前のからだの下にいたのがイナだと気付いたからだろう?…ヨンナム
僕と別れろと言ったんだって?僕のかわりにずっと傍にいてやると言ったんだって?
ああ…
イナがどれほど震えたかわかるか、ヨンナム
なのにお前…
『きっといい人が現れるから…』なんて…
ふ…成層圏まで一気に駆け上ったのにさ…あいつ、まっ逆さまに落ちてきた
ふ…ふふ…可哀想に…僕のせいであいつ…

なぜ気付かない
昔も今もなぜ自分に寄せられる好意に気付かないのか…
そこがお前のいいところであり欠点でもあるよな、ヨンナム
ヨンナム…
お前には…無理だろ?
イナの気持ちを受け止めるなんて…お前にはできっこないだろ?
だけどもしかしたら…もしかしたらお前…イナを…
イナなら…
ああ…

イナの笑顔を無理矢理思い出した
それからあのパンを思い出した
イナが焼いたパンは僕だけのためのものではない
それでも僕は
イナが生み出したあの可愛らしい柔らかなものを
心の底から愛おしく思えた
体中が震えた
この男の作品に触れることができる
その幸せを初めて感じた
僕は…イナを好きでいてよかったとそう思った
そうだ
僕の心にはイナがいる
僕の根っこは…未だイナの心に埋まっている
引き抜くべきなのか、イナという土台を崩さぬように、根っこの部分だけは残しておくべきなのか
それとも…
これから先、風雨に耐えながら、それでも少しずつ育っていくのか
ヨンナム
お前、どうする?
お前、どう出る?
イナをどうする?
なあ…三人で混ぜこぜになって生きて行くか?
そんなこと…できるのかな…

様々な想いが僕の心を過ぎる
長い時間、僕はぼんやりしていた
辺りはとうに暗くなっていて、窓の外の街の光がやけに明るく感じた

カタガタンと音がしてヨンナムが帰宅したと解った


どりーむ  オリーさん

朝早く彼の携帯が鳴った
手を伸ばして携帯を取ると彼は体を起こし、熱心に相手の話を聞き始めた
「もう見れるんですか?」
「もちろん」
「わかりました。連絡がついたら彼も連れて行きます」
「そう、例の彼です」
「じゃあ昼に現地で」

僕はそんな受け答えを彼の背中をぼんやりと眺めながら聞いた
「誰?」
「ユンさんて映画のカメラを担当してる人だ」
「撮影のこと?」
「いや、CMの方だ。ラッシュが上がったので試写に来ないかって」
「CM?」
「セーターの件だ」
「ああ、スヒョンさんのジンブルーっていうキャッチのやつね」
「音楽担当がまだ決まってないんだ。食い込めるかもしれない」
「ふうん」

彼は僕のブランケットをはいだ
「ふうんじゃなくてトレーニングだろ」
「今朝はいい」
「どうした?」
「昨日よく眠れなかった。もう少し寝るから」
「そうか・・」
「一人でやって」
「一人で?」
「そうだよ。僕が見てないからってズルしたらだめだよ」
「一人じゃやる気に・・」
「ならないなんて、甘ったれたこと言うつもりじゃないよね」
「けほっ、もちろん」
「じゃあ頑張って」
僕はそう言ってまたブランケットをかぶった

ほんとに寝不足だった
へんな夢を見てしまったから
寝る前に台本を読んでいる彼の姿を見ていたからだろうか
彼が白い波のはざまに沈んでいく夢を見た
どんなに叫んでも彼は戻らず見る間に波の影に消えた
やめてよ・・
僕は助けに行く気力もなく、波打ち際で呆然と呟いた

もう一度、やめてよと呟いた
そこで目が覚めた
彼は何事もなく隣で眠っている
けれど、しばらく動悸がおさまらなかった
キッチンへ行って冷えた水を立て続けに飲んで少し落ち着いた
それからまた寝室へ戻り、ずっと彼の寝顔を見ていた

薄く閉じたまぶたのわずかなふくらみが時折震える
疲れてる?
それとも夢を見てる?
まぶたの震えに呼応して睫毛もかすかに揺れる
少し張り出た頬骨にそっと指先をあててなぞってみる
わずかに開いた唇にも触れてみる
この唇で呼んでみてよ、ミンって

眠っている時も飽きない人だね
仕事が動き出してから、少し疲れてるよね
僕のトレーニングのせい?
ごめん
でもいい感じになってきてるよ

それと、時折瞳に暗い影が落ちるのは何か別の理由?
いつかイナさんに突かれた時、言ったよね
どこか欠けているかもしれないって
そのせい?
あの時の顔を思い出すと辛くなる
何でそんな風に考えるの?
そんなことないよ、ってもっとちゃんと伝えたいのに
最近忙しいから・・

仕事モードの時にはちょっと近寄れない雰囲気があって
時々置いていかれそうな気がする
そんな時は思い出すことにしてる
一緒に同じ方向を見ていこうって言ってくれたこと
それはかわってないよね

どんなにあの言葉が僕の支えになったかわかってる?
だから僕もじっと見てる
ヒョンジュになっても、じっと見ててあげる
わかってるよね
僕はいつも待ってるって
どんなことがあっても僕はそばにいるって
だからヒョンジュになって
そして燃え尽きて
僕のところへ帰ってくるよね

色々考えていたら最後は何だかしゃくにさわって
思いっきりハグしてやった、けど起きない・・
襲ってやろうかと思ったけど
あまりに無邪気な顔で寝ているのでその気も失せた
そんなこんなで、ますます寝られなかったのだ

「出かけるから」
そういう彼の声で目が覚めた
「もうそんな時間?」
「そうだよ。いいかげんに起きたらどうだ」
「わかった」
僕は渋々体を起こした
誰のせいで寝不足だと思ってるんだ、まったく・・

「今日はずっと外に出てる。出先から店に行くから」
「はいはい」
「先生から連絡があったら、レッスンに行くんだぞ」
「わかってるよ」
「先生の蹴りはよけるな」
「な、何で知ってるの・・」
「ロバート先生はたいそうご立腹だ」
「か・・体が動いちゃうんだから仕方ないだろ」
「先生のご機嫌を損ねる。次はよけるな、いいな」
「・・・」

彼は真面目な顔でそう言い残してドアの方へ歩いていった
そしてドアのところでにこやかな笑顔で振り向いた
「起きれないのはもしかして、蹴りをドンジュンの2倍食らったからかな?」
僕は手元にあった枕を思いっきり投げた
枕は、彼が閉めたドアの手前で力つきて落ちた
くそっ!

ばれてた
くそっ!くそっ!くそっ!
ベッドに突っ伏し枕やらシーツやらに八つ当たりした
まったくもうっ!
人に心配ばっかりかけてるくせにっ!
もう心配なんかしてやらないからっ!
ふて寝をしてやるっ
そう思って乱暴にブランケットにくるまった時だった
今度は僕の携帯が鳴った

もしかして・・
蹴りの先生?
恐る恐る電話に出た

でもそれは思いがけない人からの電話だった









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