ぴかろんの日常

ぴかろんの日常

リレー企画 204

千の想い 67  ぴかろん ※203からの続き~

別に…いいじゃん…こいつらは『恋人同士』なんだから…
僕が出て行った後こいつらが何してたって…別に…関係ないじゃん…

鍋の蓋をあけて「どうぞ」と言った
真っ先に手をつけたのはテジュンだ
テジュンは…
大人だと思う…
こんな場面の嫌な空気をすぐに嗅ぎ取って払いのける
僕ならどうだろう
恋人と、自分そっくりの従兄弟が、布団に包まってじゃれあっていたら…
それが本当に単なるじゃれあいだと解ったとしても…僕ならきっと拗ねて俯いてる…

「うまい」
「ほんと?じゃ、俺も…」

どうせ『あーん』とかするんだろうと思ってチラっと二人を見た
テジュンは自分の朝飯を黙々と食べている
イナはテジュンを暫く見つめ、一瞬俯いて汁物にスッカラクを突っ込もうとした
僕はイナより素早く動いて汁物を掬った

「あーん」
「…え…」
「あーん!」
「…あ…あーん…」

僕は…何をやっているのだろう…

テジュンはそんな僕の様子を黙って見ている
イナは戸惑っている
ご飯も掬ってイナの前に突き出した

「…え…ヨンナムさん…」
「あーん!」
「…あ…あーん…」

イナはテジュンを気にしながら僕の差し出したご飯を食べた
テジュンは何も言わない

僕は何をどうしたいのだろう…


再会   オリーさん

五月晴れの爽やかな日の午後、僕は城東区にある大学のキャンパスにいた
ソウル市内の有名私立校という事で、キャンパス内は明るく活気に溢れている
何人か有名な女優さんや俳優さんが卒業した
あるいは除籍になったということでも結構有名な大学だ
明るいキャンパスとそこを歩く学生の姿、そして爽やかな天気とで
僕の心もどこかしらはなやいでいく気がした

それでも目的を忘れてはいけない
教務に行って講義の予定を聞いてみようかと思った矢先
少し先の木立の下の芝生の上で
学生たちに囲まれたあの人を見つけた
僕をここに呼び寄せたのは、一本の電話
思いがけないあの人からの・・


「ハローハロー!こちら極東支部長のロジャース。そっちはソウル支局のミン・ギョンビンか?」
「・・・」
「ハローハロー!応答せよっ!ハロー!」
「・・・」
「応答せよ、応答せよっ!支部長のロジャースだっ。支局員のギョンビン応答せよっ」
「あの・・」
「何だ、いるじゃないか」
「僕、ソウル支局員じゃありませんけど」
「うっそーっ!」
「嘘じゃありません」
「まじ~?」
「真面目ですよ」
「っていうかぁ、そういうカタイことはどうでもいいしぃ~」
「よくありません」
「ああん、ポール困っちゃうってか、このタコっマジ何言ってんだかぁ」
「そっちこそ何言ってるんです。それどこの言葉です?」
「ギャル語だ」
「ギャル語?」
「この言葉を使えないと日本の若い子にはもてない、もとい理解できない」
「はあ?」

「はあじゃなくてだな、小生は今まさに日本文化の真っ只中にいるんだ。
日々精進、日々勉学、日々色事、非常に忙しい」
「はあ」
「習い事がてんこ盛りだ。お花にお茶、抹茶に緑茶にウーロン茶、
さらには日本舞踊。どれもこれもが未知との遭遇。大変なんだ」
「・・・」
「毎晩、赤坂六本木に出かけては、習い事の先生について修行を積んでいる」
「・・・」
「応答せよっ!」
「はあ」
「よしっ!それでだ、僕は今説明したようにクビが回らないほど忙しい」
「・・・」
「よって支局の君に僕の仕事を振ってやろう。どうだ、嬉しいだろう」
「・・・」
「応答せよっ!」
「はあ」

「気のない返事をするな」
「だってソウル支局なんて知りませんよ」
「支部長がそこが支局だと言えば、支局なんだ。わかるだろ、この組織の論理」
「マジでちょーウザイし」
「おおっ!さすがミン兄の弟。覚えが早い」
「あなたより若いですから」
「・・・」
「ハロー!応答せよっ」
「それはこっちの台詞だ、真似するな。でもって調子が出たところで任務だ」
「だから・・」

「実はあのプロフェッサーがそっちにいる」
「え?」
「ワインバーグ先生だよ。5月からそっちの大学に行ってる」
「先生が?」
「連絡ないのか」
「ありません」
「おっかしいなあ。お前には連絡すると思ったんだが」

「でも5月からなんて半端じゃないですか。3月が年度始まりなのに」
「そこはほれ、腐っても鯛の元オックスフォード教授だからね」
「まじ?」
「ギャル語はやめろ」
「ども」
「講師って肩書きらしいぞ」
「講師?先生が?」
「ああ・・キャリアに執着しなくなったらしい」
「そうですか」

「それで、ちょっと教授の様子を見てきてくれ」
「様子?」
「そうだ。元気でいるかどうかくらいでいい」
「もしかして・・何か悪い情報でも?」
「悪い情報?」
「その・・報復とか」
「それは今のところない」
「本当に?」
「これはまじ。大体ここじゃアラブ系目立つだろ」

「でも以前宗教書を翻訳した大学教授が大学構内でやられましたよね、
確か日本の地方大学ですよ。プロの仕事で、結局犯人は挙がらなかった」
「詳しいね」
「支部長なのに知らないんですか?」
「けほっ。まだ赴任したばっかりだから」
「赤坂六本木ばっかり調査してて大丈夫ですか」
「こほっ。まずはこの地に慣れないとね。君、そうあせって成果を求めたらだめだよぉ」
「組織では成果の出ない者は切られることがありますから、気をつけてください」
「そんなこと、マジありえないしぃ。だって僕MI6のブラピだもぉん」
「はいはい」
「返事は一回」
「・・・」
「応答せよっ!」
「はい」

「よろしい。で行ってくれるよな?」
「行きますよ。個人的にですけど」
「よっしゃ!個人的でも何でもいいからよろしく頼むよ。本部から状況をレポしろってうるさくてさあ」
「・・・」
「大体あいつら、東京の隣にモウソウルがあるくらいの認識しかないから困るのよ」
「はあ」
「ちょっと行ってちょっと見て来いって言われてもねぇ。
そっち行くとしたら、機内でKALのアテンダントとアポ取っちゃうだろうから2・3・日は留守しちゃうし、
そしたら六本木の夜のお稽古に穴あけることになっちゃうし。もうっ!つらいとこなんだよ」
「ちっともつらそうに聞こえませんが」
「こほんっ。とにかく頼む」
「わかりました」

「ところでゴージャスな彼氏元気?」
「元気です」
「相変わらずゴージャス?」
「超ゴージャスです」
「それは何より。こっちもバリバリゴージャスだからって言っといてくれたまえ」
「今忙しいからそんな軽口をたたいてるヒマありません」
「音楽プロデューサーだっけ?」
「そうなんですけど、映画にも出ることになっちゃって」
「映画?」
「はい」
「何で僕に連絡しないかなあ」
「忙しいんでしょ」
「映画ならいつでもOKなのにさあ」

「ちょっと役柄上ムリだと思います。それに顔が知れたらまずいでしょ」
「そんなのブラピって言っとけば問題ないって」
「よけいまずいでしょっ!」
「何言ってんの。あいつの出演した映画、半分は僕よ」
「うそっ!」
「うっそぴょーん」
「・・・」
「応答せよっ」
「つきあってられません」
「まあまあ。彼氏に映画の件はいつでもOKだって言っといてよ、いいね」
「ムリですって」
「それでは交信を終わる。君もしくは君の仲間が捕らえられ殺されても当局は一切・・」
「らじゃー!」
「おいっ、途中で切るなっ!」

そんなロジャースさんからの電話一本で僕は先生の近況を知った
こっちに来たのになぜ連絡をしてくれなかったんだろうか
早速大学に連絡して調べてみると、やはり5月から先生はこちらに来ていた
そして講師をしていた
英文学の・・
先生のCVをチェックし直してみた
納得した
博士号を持っている
でもなぜ先生ほどの人が講師の職を
モウソウル大学で教授ができる人なのに
僕はそれがちょっと気になった

芝生に腰をおろし、学生に囲まれている先生は元気そうだった
時折本を開いて何かを聞いてくる学生に身振り手振りで説明をしている
オックスフォードで物静かに学生に受け答えをしていた先生とは別人のよう
僕はその場からじっと先生の明るい笑顔を見つめていた
先生、もう大丈夫ですか
一歩踏み出せたんですか
僕はそんな事も聞いてみようかと思っていたが
そんな問い自体もう不要なのかもしれないと感じるほど先生は眩しかった
学生たちの笑顔に囲まれているせいなのだろうか
それともこの場所のこの陽気のせいなのだろうか
まだ僕にはわからなかった

しばらくすると学生が一斉に立ち上がり先生に挨拶をして去っていった
次の講義なのだろう
先生は芝生に腰をおろしたまま学生たちを送り出し
ようやくあたりを見回した
そして先生の方へ向かって歩き出した僕に気がついた
先生の笑顔が一瞬消えた
それからゆっくりともう一度新しい笑顔を作った

「お久しぶりです」
「やあ」

近づいて挨拶した僕に先生はちょっと照れた様子で手を上げた


千の想い 68  ぴかろん

ヨンナムがイナにご飯や汁物を食べさせている
またイナのバカが素直にあーんと受けている
腹の底の渦巻きが大きくなる
僕は朝飯を食べる事に専念した
ポーカーフェイスは…残念ながら得意だ…

「おいしい?イナ」
「あ…うん…おいしい…」
「そ。よかった。んじゃ卵焼き、あーん」
「…」

イナは僕の様子を窺いながら無言で口を開けた
僕も卵焼きを食べた

『ヨンナムさんと正面切ってぶつかるだけじゃ..穏やかな風の入る隙間がないと思う..』

…テソン君、穏やかな風、どっから吹いてくるの?
こいつは拗ねてるし僕は煮えくり返りそうな感情と闘ってる
こんな風でいいの?なんでこいつは僕を煽ろうとするの?
テソン君…ぶつからざるを得ないじゃん…こんなの…
ヨンナムはどういうつもりなんだ…

最初、美味しいと感じていた朝飯は、徐々に味がなくなってきた
ヨンナムが何度目かにイナの口元へとスッカラクを寄せた時、僕は我慢できなくなってそれを遮った

「やめてくれないか…」
「どうして?」
「こっちが聞きたい。どうしてだ、どうしてお前がイナに食べさせてるんだ」
「そうしたいから」
「…。じゃあイナはなんで食べさせて貰ってるんだ」
「…」

イナは困り顔で僕を見た
得意なはずのポーカーフェィスは崩れているに違いない

「テジュン」
「なんだ!」
「言いたいことがあるならはっきり言えよ」
「…」

ヨンナムの低い声が腹の中の渦を止める

イナの前で話をしたくなかった
二人で、二人だけでじっくり話をしたいと思った

「言わないってことは何もないってことだね」
「あるよ」
「じゃあ言えば?」
「イナには関係ない事だから」
「恋人を除け者にするの?」
「そうじゃない」
「…随分冷静だな。僕達あんな風にじゃれあってたのに。僕なら喚き散らすけどね」
「やめろ、大人気ないと思わないか」
「どうせ僕はガキだよ!」
「ヨンナム!」

空いた器を乱暴に重ね、ヨンナムは台所に行った
ヨンナムが出て行くとイナは僕に抱きついた

「イナ、やめろ」
「テジュン…怒らないでよ…あれは、俺達は…」
「後でヨンナムに聞く」
「てじゅ…」

ガシャーン

台所から何かが割れる音がした

「…」
「皿…割れたみたいだね…大丈夫かな…」
「昔からああだよ、あいつは」
「え?」
「気に入らない事があると皿割って気を紛らわせてた」
「…え…」
「前は誰も知らないところでやってたんだ…一人でこっそり…」

それを思えば随分感情を見せるようになったと思う
イナの…おかげってわけか…

僕はイナの腕を僕の体から外し、行ってやれと言った

「てじゅ?」
「…ちょっと慰めてきてやって…。お前、得意じゃん」
「得意って」
「ギョンジンのバカもお前になら気持ちを話せた」
「…」
「ヨンナムも、そうだろ?」
「…」
「昨日、あいつ、素直だったろ?お前には…」
「…うん…」
「慰めてやって…かなり腹が立つけど…」
「…てじゅ…」
「それと…僕、あいつと今度こそちゃんと話がしたいんだ、イナ…」
「…」
「だから…その間…チェミさんとこでパン作っててくんないかな」
「…ここにいちゃいけない?」
「三人でいるとあいつ、肩肘張るだろ?あいつだけじゃない…僕も」
「でも昨日お前とヨンナムさん喧嘩したじゃんか」
「そうならないようにする」
「…」

とは言ってもどうしたらいいのかは解らない

「てじゅ…ヨンナムさんもお前ときちんと話がしたいんだって。でもできないって泣いてた」
「…うん…」
「意地はるなって言った」
「…うん…」
「お前も…意地はらないで…。お前が素直に話せばきっとヨンナムさんも素直になると思う」
「…」
「いやか?」
「ううん…そうだな。お前は正直に自分の気持ち、伝えるもんな…」

だからか?
素直な言葉の前ではみんな素直になれる…
そうなのか?

「…。てじゅ、一つだけ聞きたい。俺とヨンナムさんの事、何か変な風に思ってる?」
「…いや…」
「嫉妬…した?」
「…してないとは言い切れない…」
「…話終わったら…迎えにきてくれる?俺の話も…聞いてくれる?」
「…うん…」

ガチャンガチャン

イラついたような食器のぶつかる音が聞こえる
イナは台所の様子を窺い、僕に向き直った

「…行ってくる」
「うん」

立ち上がったイナの腕を思わず引いてしまった
イナは振り返ってにっこり笑い、僕の額にキスをし、それから台所へ向かった

暴れまわるヨンナムはきっとイナが包み込む
そのイナを、ヨンナムごと…
僕は抱えられるだろうか、テソン君…


台所を覗いてみた
床には割れたお皿があり、流しにはヨンナムさんが突っ立っていた
汚れた食器に水を当て、ガチャガチャと乱暴に洗っている
俺はしゃがんで割れた皿を拾う

こないだもこんなだったね、ヨンナムさん

「…皿が可哀想だ」
「…」
「こいつら、割れたら元に戻らないよ」
「…」

破片をあらかた拾い、残りは箒で集めて棄てた
流しへ行ってヨンナムさんを後ろから抱きしめた
俺の腕の中でヨンナムさんがピクリと動く

こないだはこれが出来なかったのにな…

「あのね…テジュンが二人だけで話したいんだって」
「…ぅん…」
「俺がいると肩肘張っちゃうって」
「…」
「ヨンナムさん、意地張らずに思ってる事全部言っちゃえよ」
「…」
「テジュンにも言っといた。素直な気持ちで話してみてって」
「…素直…。なれないもん僕…」
「俺には素直じゃん?」
「お前がいないとダメだもん…」

胸がキュッと締まった
抱きしめていた腕を解いて水道を止め、ヨンナムさんを振り向かせた

「また泣いてる。もっと目が腫れるぞ」
「…」
「配達あるんでしょ?」
「ごごからだもん」
「目、腫れたまんまで行くの?」
「いいじゃん!」
「ヨンナムさんがいいならいいけどさぁ…」

ヨンナムさんがコテンと俺の肩に頭を乗せた
数日前のあの時、俺は『いけない』と思いながらこの人を抱き寄せた
抱きしめる事を躊躇って柔らかく包んだ
好きだという気持ちを逃がすのに苦労したよな…

今は無理せずに抱きしめていられる
『恋』が消えたのかな…

「イナ…」
「ん?」
「僕、どうしちゃったんだろう…」
「ん?」
「ドキドキしてる」

ヨンナムさんがそう言った途端、俺の心臓がまた大きく音を立て始めた

「イナもドキドキしてるね」
「…ぁ…ぅん…」
「なんか…気持ちいい…」

目を閉じて俺に体を預けているヨンナムさんの顔を見た
長い睫毛
可愛い唇
柔らかい髪
心が近くにある
掴み取れそうなぐらい近くに

じんわりと涙が滲んだ
まだ『恋』がいる
俺の心に『恋』が残ってる
俺はヨンナムさんの髪に顔を埋めた

台所の戸口に人影が見えた
テジュンだと解っていたが、俺はヨンナムさんを抱きしめたままでいた
ゆっくりとテジュンを見る
唇を噛みしめてテジュンは何かと闘っている
俺は唾を呑み込んでヨンナムさんに声をかけた

「ほら、テジュンが来た。話しようって…」
「…」

ヨンナムさんの背中をそっと押してテジュンの方に向かわせた
テジュンは俺を見つめていた
俺は目を逸らさずに見つめ返した

テジュン、お前が好きだ
ずっと傍にいてほしい
それは本当だ
俺はヨンナムさんが好きだ
笑ってほしい
それも本当だ
お前が、俺の気持ちから逃げないって言ってくれたから
俺も、俺の気持ち、誤魔化さない
今の俺はこんなだテジュン


イナがヨンナムを抱きしめていた
この間はここからラブが中を見ていた
僕はあそこにいた
何がなんだか解らなくなってここから逃げだしたんだ
イナ、今度は逃げない
お前には僕が必要だろ?
僕にもお前が必要なんだ
同じようにヨンナムにもお前が必要らしい…
ヨンナムが本当にお前を『好き』なら…
イナ、お前、こいつを受け入れてやれる?
そして僕は、この二人を受け止めてやれる?

ヨンナムが俯いて僕の方に歩いてくる
イナからヨンナムに視線を移し、剥き出しの男を見る

ああ…お前…泥だらけで泣き出したヨンナムじゃないか…

…泣くなよ。泣かなくていいよ。楽しいだろ?泥んこって気持ちいいだろ?
…テジュンちゃんはよくても僕はよくないもん!お母さんに怒られる
…僕が謝ってあげるよ。泥んこまみれになっちゃったんだからしょうがないじゃん。せっかくだからもっと泥んこになろう
…やだ…
…ほら、えいっ
…やだっああっ

ずるっべちょん…

…テ、テジュンちゃん、口の中に泥が入ってるっ
…ぐげ…
…早く口漱いでっ
…あむあむ…げげ…味しない
…テジュンちゃんってばっ!


お前は慎重で臆病だったよな
でも僕だって臆病者だったんだぞ
僕以上にお前がビクビクしてたから
僕はちょっとカッコつけていつもお前の先を行くようにしてたんだ
お前、僕より生まれ月早いくせに『テジュンちゃんすごいすごい』っていつも後をくっついてた
いつまでくっついてるんだよ、ヨンナム…

僕は俯いたヨンナムの肩を抱いた
ヨンナムがビクッと肩を竦めた
ヨンナムを引きずるようにしてあいつの部屋に入った
ドアを閉める前にイナを振り返った
口が真一文字になってる

ふ…手術するわけじゃないんだから…心配すんなよ

ニコッと笑ってやると、イナは結んでいた唇を解いて半開きにした
イナの瞳から涙が一粒零れた

小さく「ばか」と言ってやった


千の想い 69   ぴかろん

テジュンが僕を納戸に閉じ込めた
僕の家に遊びに来て、二階にいた時だ
僕達は何かで親父の大事にしてた花を踏みつけてしまい、親父に追い回されていた

「僕がヨンナムを押しちゃったからだ。僕が謝るからヨンナム、ここに隠れてろよ」
「え…でも僕も謝る」
「いいよ。僕が悪いんだもん。あっ来たっ隠れて」

僕は納戸の中に入れられて扉を閉められた
真っ暗で怖かったけど、近くにテジュンがいるから大丈夫だと思っていた

「ヨンナム!テジュン!どこだっ!」
「おじちゃん、今いきますっ」

親父とテジュンの声がして、テジュンが階段を駆け下りていった
僕は一人になってしまった
扉を開けようとしたのだが内側から開かなかった
今なら簡単に開くのに、あの時は怖くて焦っていて…まだ子供だったから力もなかったんだな…
納戸の中でわんわん泣き続けた
僕の声は階下には届かなかったらしい
やがて叱られ終わったテジュンが戻ってきて、「ヨンナム、大丈夫か?」と言いながら扉を開けてくれた
僕は泣きすぎて呼吸の仕方がおかしくなっていた

「てじゅっひっばかっひっくええんひっく」
「ヨンナム…ごめっひっくひっくごめんひっくひっく…」
「えっえっ」
「おじちゃんにおこらりた。『いいかっこしいはやめろ』っちわれたひっく」
「えうっえうっ」
「ヨンナムごめんひっくひっく」

テジュンも泣いていた
『いいかっこしい』っていうのがどういう意味なのか、僕もテジュンも解んなかった
二人で遊んでいたのだから、花を踏んだのは二人の責任だ。謝るのなら二人で謝りにきなさいと親父に言われたらしい
二人で泣きながら親父に謝った

テジュンは僕を納戸に置き去りにした事をまた怒られていた
そして親父に納戸に放り込まれ、扉を閉められた
テジュンがぎゃあぎゃあ喚いていた
親父はすぐに扉を開け、一人で暗闇にいるのは怖いだろう?と言った
テジュンは涙でドロドロの顔をブンブン縦に振ってごめんごめんと僕に何度も謝った

僕の部屋の扉を後ろ手に閉めたテジュンは、あの時と違って、僕と一緒に納戸に入ってきたように思う
僕らは大人になったから、内側からでも扉を開けられるのだろう…
それとも、外にいるイナに助けを求める?

「イナは?」
「多分…もうすぐ出て行くと思う」
「…そう…」

助けては貰えないんだ、やっぱり…

「昨日は僕達、お互いの主張ばかりしてた」
「今日もそうなるんじゃないの?!」
「そうならないようにしたい」
「言いたいこと、言っちゃえってイナに言われた」
「うん。言いたいこと言うよ、僕も…。だけど言いっぱなしじゃなくて、ちゃんとお互いの言ってる事を聞きたい。理解し合いたい」
「…」

テジュンは大人だ
一日で気分を抑え込める
僕は…

「どうして皿を割ったの?」
「え?」
「どうして皿に当たったの?」

そう…抑え込む代わりに皿に当たった

「どうして言葉にしてこなかったの?そんな風にいつも黙ってるからお前がどこにいるかわかんないんだ僕は」
「…黙ってたわけじゃないよ…」
「黙ってた。我慢してたじゃないか昔から!だから僕は、お前ってほんとに辛抱強くて優しくていい奴だと思ってた」
「…」
「ずっと僕を嫌ってたんだろ?」
「え…」
「お前そっくりの僕が、お前のやりたい事先にやっちゃうから鬱陶しかったんだろ?」
「…僕の…やりたい事?」

僕は何をやりたかったんだろう
取り立ててやりたい事なんかなかった
確かにテジュンは僕そっくりで、僕の周りでウロチョロしていて、なんだかんだと興味を持った事を片っ端からやっていた
僕はテジュンのやってる事に興味を持ったけれど、テジュンの前ではあまりやらなかった
テジュンがギターを弾きだした時、一緒にやろうと誘われたけど僕は断った
テジュンが忘れて行ったギターを取りに来るまでこっそり練習した
僕はそんな奴だったな…

父の植えた草花や木々を眺めて過ごすのが好きだった
年寄りくさいと言われたっけ…
庭に小鳥や虫がたくさん来た
そういうものを飽きずにじっと眺めていた
小鳥を狙って猫も来たな
蟻の大群が大移動してるのも見た
庭にしゃがみ込んでそういうものを眺めている僕を、テジュンはクスクス笑いながら観察してたよな、からかいながらさ

「ヨンナムって生物学者にでもなるの?好きだなぁ生き物」
「え?だって面白いよ」
「えぇ?そぉ?」

暫く一緒に虫や花を見つめて、それから僕を見つめて、やっぱり笑った

「変だよヨンナムは。もっと楽しい事しようよ」
「楽しい事?」
「僕と遊ぼう!」

そうしてテジュンは僕を外へ引っ張り出した
楽しかった
テジュンに連れまわされて僕の世界は広がった
テジュンは僕の先を行っていた
もしテジュンがいなければ、僕はあのまま、庭先で毎日花や木や虫たちを眺めながら、人ともうまく関われずにいたのだろうか…

「僕はおせっかいだったか?僕はお前の世界を壊したのか?」
「…違う…。いや…そうかな…」
「…嫌だったんだろ?」
「…どうしてそう思うの?」
「…お前が…僕の気に入ってた皿、割った時からそう思ってた…」
「…」

嫌いだったわけじゃない
一緒にいると楽しかったし、色んな事を教えられた
小さい頃はテジュンが遊びに来てくれるのが楽しみだったもの…
入れ替わりごっこも楽しかった

「何か言えよ。言ってくれないと解らない…」
「…何を…言えばいいの?」
「…僕に対して思ってる事、思ってた事、言いたかった事、言えなかった事」
「…それを言ってどうなるの?」
「どうなると思う?」
「…。お前も…僕に言ってくれる?」
「…」
「僕をどう思ってるのか。僕ってどういう人間なのか。僕の何がいけないのか」
「ヨンナム。いけないってなんだよ」
「僕とお前とどこがどう違うんだよ、そっくりなのに」
「お前と僕は別の人間じゃないか!違って当たり前だ!」
「お前は僕について来いって言った。お前はいつも僕の先にいた。確かにお前は僕を引っ張り出して沢山の物と触れ合わせてくれたけど…」
「嫌だったならどうしてその時に嫌だったと…」


僕はそこまで言って言葉を止めた
これじゃ昨日と同じだ
言葉尻を捉えてる
揚げ足を取って反応してるだけだ…

深く息を吸ってゆっくり吐き出し、気持ちを落ち着けた

「…こうやってお前を遮るのが僕の悪い癖だな…ごめん」
「…」
「お前の話を聞く」
「…。何を…話せばいい?」
「何を話したい?」
「…」

ヨンナムは戸惑って瞳を揺らした
そうだ…二人でいるとあまりにものんびりしたヨンナムに苛ついて、つい僕が主導権を握ってしまうのだった
今、こうして二人で話をするのだって、ヨンナムにすればやりたくない事なのかもしれない
でもそうやって避けていたら、僕達はいつまでもこのまんまだ、ヨンナム
今度で最後にする
もうお前のやる事に口を出さない

僕は待った
ヨンナムが話す気になるまで黙っていた


千の想い 70  ぴかろん

そうだな…初めて皿を割ったのは…確か中学の時だったかな…
入れ替わりごっこしてさ、お前の中学に行った時、隣の女の子がとても可愛くて
その時僕は『ヨンナム』じゃなくて『テジュン』だったから彼女に話しかけたんだ
お前なら話しかけるだろうと思ったし、『今は僕じゃないから』って考えてさ

『そのペンケース綺麗な色だね』
『あら。前から持ってたわよ、これ』
『そうだった?』
『気付かなかったの?』
『今気付いたんだ』
『…ふぅん…』

お互いに顔を見合わせてにっこり笑った
それから休み時間ごとに彼女は僕に話しかけてくれたな
放課後、彼女は帰り際に僕に言った

『テジュン君ってこんなに話しやすい人だったんだ。また明日ね』

ふふ。明日になったら本物のテジュンになるよ
君、何か気付くかな
それにしてもテジュンったら、こんな可愛い子が隣に座ってるのに今まで声もかけなかったのか?珍しいな…
そんな事を思ってた
彼女の事はお前には内緒にしておいた
お前が戸惑って僕に電話してくると思ってた

一週間後、お前は僕に『彼女が出来たから紹介する』って連絡してきた
嫌な予感がした
思った通り、あの子だった

でも、僕を見たら、僕と話したら、あの子気付くかもしれない
そしたらちゃんと理由を話して、君を好きになっちゃったって言おう…

僕はきっとおめでたい空想少年だったんだ
現実に適うものなんてない
あの子はまるで僕に気付かなかったし、お前の事が大好きだと言ってたよな
お前がトイレに行った隙に僕は彼女に聞いてみた

『キスとかした?』
『やだっ!変な事言わないでよ!ヨンナムさんってエッチね!』

僕に貼られたレッテルは『むっつりスケベ』だ
仕方ない。僕の恋人は自分で探すんだ!『テジュン』としてじゃなく、『ヨンナム』として…

のんびりやの僕がようやく気持ちを切り替えた時、あの子から電話があった
どうやって僕の家の電話番号を知ったのかと聞くと、お前から教わったと言っていた
僕はドキドキした
やっと気付いてくれたのかと思って
かなりおめでたいよね、僕って…

電話の内容は、お前が最近冷たくなったっていう…相談だった
あれ以降僕はお前の恋のとばっちりや後始末を引き受ける事になっちゃった

何度か相談に乗っているうちに、二人で会うことになった
彼女はお前とデートはするものの、お前が優しくなくなったと言っていた
自分のやりたい事を優先させて私の事は後回しだと愚痴っていた
大人になっても同じ事してるよな、お前って
そして僕も同じ事してる…

お前の性格は解っているつもりだったから、彼女に色々アドバイスしたよ
辛抱強く待っててやってって
何回か会った時、彼女は言ったんだ

『ヨンナムさんって、初めて話した時のテジュンみたい…。あの時のテジュンは、優しくて温かくて安心できたの…。今は…何だか線を引かれてるみたいで…』

あれは僕だったんだ
何度も言いそうになった
どうしようかと目を閉じて考え込んでいたら
彼女は僕の頬にキスしたんだ
僕は驚いて彼女を見た

『どうしよう…貴方が好きになっちゃった…』

…もしかして…気付いてくれたの?

想いが噴き出した
僕は彼女の肩を掴んでキスした

彼女は驚いて僕を突き飛ばし、泣いて駆け出した
それから電話が来なくなった

「知ってた?この事」
「…いや…」
「あの後あの子と別れたろ?僕が原因だ…」
「…」
「お前等が付き合いだしたのも別れたのも、僕が原因だ…」
「…」
「それでお前が気に入ってた皿を割った」
「…」
「すっきりした。次にお前が来た時、あの皿が割れたと知ってしょんぼりしてたろ?僕はいい気味だと思ってお前を眺めていたんだテジュン」
「…ぅん…」
「うん?酷い奴だと思わない?」
「思う。けどお前の気持ちも解る」
「へえ。物分りいいんだ、お前って!」
「…他には?」
「他?…似たような事ばかりだ!大学に入った頃にできたお前の彼女だって、元はといえば僕が…」
「…ぅん…」
「…。あの子と寝たの、知ってるか?」
「…え?…」
「…。知らなかった?!お前の代わりに寝てやったんだ!お前があの子をほったらかしにしてたから!寂しがってたから!僕が慰めてやったんだ!僕がっ!」


ヨンナムの目から涙が零れた
僕はなぜだかヨンナムの気持ちが解るような気がした

「僕達って、間に入った人をいつも戸惑わせていたんだね…。あの子は僕をお前と勘違いして声をかけてきた。可愛い子だったからそのまんまモーションかけて付き合い始めたんだっけな…」
「でもお前はまた忙しくなった…なんでいつもそうなの?!」
「…だってあの子は…お前が好きだったから…」
「…」
「僕じゃなくてお前の事が好きだったんだから」
「そう…あの子もそう言ってた。けど僕と寝た時、お前の名前を呼んだ!」
「…」
「僕達って本当にそっくりだ。抱き方までそっくりなんだ!僕はあんまり経験なかったのに、光栄だったよ、イケイケのお前と間違えるぐらい巧くあの子を抱けたんだって!」
「…ヨンナム…」
「『好きだ』って言ってくれた事、今度こそ信じたかった。最後の最後に『テジュン』の名前が出た。僕はお前のコピーだ。ダミーだ!
お前やお前の恋人達に利用されてるだけの人間だ!」
「ヨンナム!」
「…そう思ったって仕方ないだろ?…」
「…僕はあの子とは寝てない…」
「…え…」
「デート中もお前の話が中心だった」
「…」
「あの子はずっとお前が好きだったんだ」
「…」
「それがよく解ったから、僕はあの子から離れた。お前のところに相談に行ったのを見て『よかった』と思った…」
「じゃ…どうしてあの子はお前の名前を呼んだんだよ…」
「…僕こそお前のダミーだったんだよ、あの子にとっては…」
「…え…」
「解んないか?僕とデートして、僕のキスを受けて、僕の名前を呼びながら、あの子の心の中にいたのはお前だったんだ」
「…」
「…僕達…一緒に居すぎたんだ…。周りを戸惑わせてばかりだったな…」


そうだよヨンナム。僕と付き合った女の子達、お前に紹介した女の子達はみんな僕達の間で揺れていた

中学の時のあの子はね、クラスで一番人気のあった女の子だったんだ
その彼女がお前と入れ替わりごっこした翌日に、僕に親しげに話しかけてきたんだ
それから少しずつ仲良くなって、僕達は付き合う事にした
お前が何か魔法でもかけたんだと思ってた

それまでにもお前には僕の好きになった女の子を教えてやってたろ?ガキだったから片思いだったけどさ
だから同じようにお前に一番に紹介したかったんだ、初めて付き合う事になった女の子だったから…

お前の顔が引きつっているように見えた
緊張しているのかと思ってた
段々解ってきた
あの子が好きになったのは、入れ替わりごっこの時の『僕』…つまり『お前』だって事…
あの子の前で、僕は僕を抑えてお前のように振舞った
そうすればあの子は微笑んでくれた
『僕』が顔を覗かせると、彼女は困ったような顔をした
それでもきっと慣れてくれば『僕自身』を好きになってくれると思ってた

『僕』は、知ってるだろ?欲張りな男だから…恋も仕事も遊びもやりたい
そんな僕を見せるとあの子はますます戸惑った
そしてお前に相談に行った
お前にキスされたとあの子は泣きながら僕に言った
僕は何も言わなかった
どうして黙っているのかと詰られた

『だって君、ヨンナムが好きなんだろ?よかったじゃない』

そう言うのが精一杯だった
僕は、ヨンナム、お前が思うほど大人じゃないんだ
女の子の扱いに慣れてもいない
それとね、ヨンナム
僕はモテるわけでもない
『釣った魚に餌はやらない』っていうか…『餌をやり忘れてしまう』男だからさ…
お前の言うとおり『残酷な男』なんだよ
だから皆お前の優しさに癒されて、お前を好きになっていくんだ
皆お前を本当に好きになったんだ

なのにお前は…


待ってよテジュン…お前が他の事に夢中になるから皆僕のところへ来たんだろ?同じ顔でお前の従兄弟でお前の近くにいる僕なら、お前を説得できると思って僕のところにきたんだろ?
僕がどんなにうんざりしてたか…
皆僕に『お前』を求めてたんだぞ、テジュン


違う、ヨンナム
皆『お前自身』を求めてたんだ


嘘だ
僕はお前の身代わりだったんだ、いつも!


違う、ヨンナム
身代わりなのは『僕』の方だったんだ


…でも…テジュン…『彼女』は…『彼女』の事は本当に…愛してたんだろう?


愛してた…一生を共にしたかった
仕事場で知り合った人だったし、僕等はもう大人になってたから『大丈夫だ』と思ってた
…お前に…紹介なんかしなけりゃよかったのかな…そしたら僕と彼女は…


「テジュン…」
「大切な人だったから、仕事が忙しいなんて言って蔑ろにしないように頑張った…」
「…」
「結婚する気だったからお前にも会わせなきゃと思った」
「…」
「僕にとっては『魔の一瞬』だったんだ、ヨンナム」
「…テジュン…」
「彼女も結局お前を選んだ」
「…違うよテジュン!それはお前が…お前が仕事に夢中になったからだ!だから他の人と同じように僕のところへ来たんだ!お前が彼女を遠ざけなかったら彼女はお前と結婚して…」
「結婚してからお前と出会って不倫の恋に苦しむよりいいと思った」
「何言ってるんだ…」
「お前のまなざしが柔らかくて心地いいと言ってた。お前の話し方は僕の話し方より穏やかで安心できるとも言った。僕は悔しくて、あいつを褒めるなって言った。彼女は笑って、『じゃああの物腰と話し方を真似すれば?』と言った。彼女は何の気なしに言ったのだろうけど、僕は悟った。いずれお前の許へ行くだろうって…」
「…テジュン…」
「いつもそうだった。みんなお前を好きになる。だって僕より優しくて僕より可愛らしくて…」
「テジュン」
「みんな僕よりお前を愛してた。どうしてお前は気付かないんだってずっと思ってた」
「…だから…鈍感って?」
「そう…」
「…僕達…お互いにお互いのコピーだと思ってたの?」
「…そうみたいだな…」
「…」
「…」

僕はテジュン、僕に向けられた『好きだ』という言葉を…いつも『お前への愛の言葉だ』と考えていた
僕を素通りして、僕の後ろに見えるお前に捧げられた言葉なんだってそう思ってた
あれはみんな本当に…僕への気持ちだったの?


千の想い 71   ぴかろん

僕達は黙り込んだ
あまりにも似すぎていた僕達は、これまでずっとお互いに戸惑っていたのだろう…
間に挟まれた人々をもみくちゃにして放り出してしまった…

「どうして彼女を受け止めなかった…」
「…」
「僕のコピーを演じたくなかったからか?」
「そうじゃない、テジュン。彼女はお前といると輝いていたし、お前も今までとは違って幸せそうだった。僕は初めてお前達が幸せになることを心から祈った。…あの時彼女を受け止めたら…二人の幸せが無くなってしまうと思ったんだ…本当だ、テジュン」
「…」
「信じない?」
「…いや…信じるよ…でも…受け止めてあげてほしかった…」
「…ぅん…」
「…後悔してる?」
「…してる」
「…僕も後悔してる…。僕は卑怯だったもん。傷つきたくなくて黙って彼女から去ったんだ。『察してくれよ』って甘えてた。あの時ね、きっと彼女自身も自分の気持ちに気付いてなかったんだと思うよ…」
「…うん…」
「ちゃんと言うべきだった…君はヨンナムを見ているだろう?って…」
「テジュン…」
「もうあんな後悔はしたくないんだ、ヨンナム」
「後悔したくない?」

ヨンナムは俯けていた顔を僕の方に上げた

「…だったら何故イナに同じような事…」

低い声でヨンナムが呟いた
語尾ははっきりと聞き取れなかった
僕は、ヨンナムを強く見つめて言った

「同じじゃない…同じじゃないんだ、ヨンナム」

すれ違っていた視線が初めて絡み合ったような気がした
ヨンナムの瞳がゆらゆらと揺れだした

「…。…テジュン?」
「なんだ?」

多分、ヨンナムは

「…。まさか…イナ…」
「…」
「…」

ようやく気付いたのだろう

僕は返事をせずにヨンナムを見ていた
ヨンナムの長い指が僅かにテーブルの表面を滑る
瞳が激しく揺れ、涙が溢れていた
僕の体の中でギシギシと音がする

「…お前…それであんなメール…それで僕に?」
「…」
「どうし…どうしよう…」
「…」
「僕は…イナにあんな…どうしよう…」
「…」
「僕…もう…イナに会えない…」
「…。なんで?…会えるよ」

僕の声は掠れていた

「…イナは…イナはお前を好きだよね?」
「…そう言ってくれたよ…」
「じゃ…じゃ、違うんだ」
「…」
「違うんだよね?テジュン。イナはお前を好きなんだよね?テジュン」
「…」
「…まさか…イナ…違うよね…違う…」

また逃げるのか?

「…なにが?」
「イ…ナは…ぼくを?」

濡れた瞳が揺れながら僕に縋っている
僕に聞くなよ…酷い男だな…

「なんとか言えよ!」
「僕はイナじゃないもの、答えられない…」

渦が深く僕を抉る
なのに僕の上っ面は凪いでいる

「…どうしたら…いいの…どうしたらいいのテジュン」
「お前はどうしたいの?お前が思うようにすればいい。お前はイナをどう思ってるの?」

僕は拳を握り締める
胸の音がどくんどくんとうるさい
僕の目にはヨンナムの顔しか映っていない
怖い
ヨンナムの次の言葉が怖い

「…イナといると『僕』で居られる…」
「…ぅ…ん…」

喉に息が詰まった

「…イナには…」

ヨンナムの息も詰まっているみたいだ
言葉の代わりに涙が噴き出している

「…イナには…なに?」

自分の声が聞こえない

「…何もかも…見せられる…」
「…っん…」

胸に焼けた石の塊があるようだ

「…イナの…傍にいちゃ…ダメかな…」
「…」

唾を何度も呑み込んだ
唇が震えてうまく言葉が喋れない
頭の芯が冷え切っていて言うべき言葉を選べない
僕が喋れないでいると、ヨンナムは小さな声で謝った

「…ごめん…」
「…」
「甘えたいんだ、イナに…」
「…」

皿を…皿という皿を…
あの食器棚の食器を全部…
アスファルトに叩きつけたい
割れた陶器に倒れ込むんだ
体中を破片に押し付けて
痛みも感じないほどに

「お前が…ダメだと言っても…イナの傍にいたい」
「…」

突き刺さった陶器の破片で僕の心臓からは血が流れている
それで今は声が出ないんだヨンナム…

「少しだけ…少しの間だけ…イナと居させてほしい…テジュン…」
「…ぁ…」

振り絞るようにして僕は声を出した
もう一度唾を呑み込み、無理矢理息を吸った
体中に痛みが走る

「…ィナに…直接…聞い…て…。僕は…イナじゃ…ないから…答えられない…」
「テジュン?テジュン!」
「…話は…終わりだ…」
「テジュン。いいのか?僕がイナに甘えてもいいのか?」
「…」
「お前、イナが好きなんだろ?離さないって言ったろ?」
「…離さない…僕には…イナが…ひつようだから…」

言えた
僕の気持ちを…

「だったら僕を止めろよ!殴ってでも止めればいいだろ?!」
「…お前にもイナが必要なんだろ?」
「…」

言えた…
お前に言いたかったことを…

ヨンナムの正直な気持ちが聞けたのだ
覚悟していた事だ

「イナがいいと言ったら…甘えさせてもらえばいい」
「お前はどうするんだよ!」
「逃げない」
「え?」
「…たとえイナがどんな答えを出そうとも…僕は…逃げない…」
「テジュン…」
「イナは…僕を必要だと言ってくれた。僕を好きだと言ってくれた。僕も同じ気持ちだ。僕に関係あるのはそれだけだ…」
「テジュン…」
「…ヨンナム…」
「…うん…」
「僕は今日、イナを抱く」
「…」
「お前が甘えたいっていうイナと寝る」
「…」
「イナは…僕に甘えたがってるから…」
「…」
「その事だけは承知しとけ…」
「…。…ああ…」

僕は立ち上がった
足元がふらついた
ヨンナムの部屋の扉を開けて玄関に向かった
激しく鳴り続ける心臓を今すぐ凍らせたい
腹の中の渦が深く、激しくうねり続ける

玄関の脇のスペースに紙袋が置いてあった
テス君がくれたモビールの事を忘れていた

靴を履いて震える体を抱きしめ、息を整えた
そしてヨンナムに叫んだ

「この紙袋、絶対に触るんじゃないぞ!」

部屋から顔を出したヨンナムにもう一度叫んだ

「解ったか!」

ヨンナムは噛みしめていた唇を解いて頷いた
さっきのイナと同じように泣き顔になった
落ちた涙は一粒どころではなかったけれど…

僕は泣き虫の甘えたガキに背を向けて外へ出た
引き戸を閉めた途端、力が抜けた

爽やかじゃないじゃん、テソン君
こんな痛いじゃん、テス君
これからあいつらがどうなるか
僕は微笑んでなんて見てられない
怖い…怖いよ…
包み込むなんてできないよ…

この場所から早く立ち去りたかった
震え続ける足を動かし、どうにか表通りに出た

「…あ…ぁぁ…」

渦巻いていた感情が腹の底から駆け上ってくる
竜巻のように僕の体を捩じ切りながら
開いた口から飛び出していく

「…あああ…ああっ…」

表通りに突っ立って、僕は数分間だけ狂ったように泣いた

慟哭と一緒に感情のうねりが解き放たれた
泣き終えて涙に濡れた目で周りを見ると、驚いた顔の人々が僕を見ている
妙に気持ちがよかった
口元が自然と緩んだ
人々は決まり悪そうに立ち去って行く

痛いけど、辛いけど…気持ちいいじゃない…

僕は通りに突っ立って空を見上げた
今は光に紛れて見えない星がいる空を
…光に包まれている星たち…

できないと思っていた
ヨンナムとちゃんと話すなんてできないと…

「できたじゃん…」

痛かったけど…

イナとヨンナムはどうなるんだろう…
どうなったとしても僕は…僕にはイナが必要なんだ…

できないって言ってやらずにいたらできるはずないんだよな
やってみればできるかもしれないんだから…

怖い
痛い
辛い
けど
こうしたかった
できたんだ…

お前達の事はお前達で答えを出せばいい
僕はもう逃げない
そうしたいからそうするだけだ

そして僕はイナを抱く

…イナ…
覚悟してろよ…
思いきり愛してやる…

一つ大きく深呼吸した
僕は空から地上へと顔を向けてイナの待つcasaに向かった







© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: