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ぴかろんの日常
リレー企画 226
千の想い 139 ぴかろん
BHCへの配達は夜だった
僕はイナに会わないように気をつけながらボトルを運んだ
そっと厨房に入っていくといつものようにテソン君がニコリと笑って迎えてくれた
「「イナ…」」
僕達は同時にその名を呟き、そして黙り込んだ
テソン君が顎で店を指し、僕は厨房のガラス戸から店内を覗いた
イナはウシク君と一緒のテーブルにいて、弱々しく微笑みながら接客していた
「別れたんだってね」
テソン君が僕の背中に声をかけた
「どうして?ヨンナムさん知ってる?」
「うん…僕が頼んだ…」
「…イナシに?」
「…テジュンに…」
「…」
「でも…これっきりじゃないと思うから」
「え…」
「あんまりぐちゃぐちゃしてたから…一度離れて自分の気持ち確かめればいいと思って僕…」
「…確かめて…やっぱり好きなら戻るってぇの?」
「…うん…」
「…そんな…うまくいくのかな…。別れるってかなりの決意がいるはずだよ」
「…うん…」
「今日、イナシ、ここに来た時荒れてた」
「…だろうな…」
「きっとテジュンさんだって」
「うん…」
「…。ヨンナムさん、解るの?どれほど心が痛むかって…。解ってて言ってるの?」
「…想像はできる…」
「想像以上に辛いと思うけどな」
「…うん…やっぱり僕、余計な事したんだな…」
「…。でも…イナシはヨンナムさんの事、好きになっちゃったからな…」
「…」
「ヨンナムさんは?イナシを好き?」
「好きだよ」
「どんな風に?」
「…。即答できない…それを確かめたい…」
「…。確かめるために二人を別れさせたの?!」
「…。別れさせたって…。僕は頼んだだけだ。別れを切り出したのはテジュンだし、それを受け入れたのはイナだ…」
「そりゃ…そうだけど…。貴方、イナシの心の穴、埋められるの?」
「…」
「ヨンナムさん」
「…埋めたい…」
「…」
「イナには笑っていてほしい…」
「…そ…」
テソン君はそれきり何も言わなくなった
僕に怒っているのかと思い、テソン君の顔を盗み見た
深い色の瞳が、イナを見つめていた
イナ、お前の仲間がお前を心配している
僕は我儘な男だね…
テソン君に…いや、BHCのみんなにどう思われたって構わない
お前にだってどう思われたって構わない
僕は、僕の気持ちを…
お前にどう思われたって?
イナの気持ちはどうでもいいのか?
そうじゃない…
僕は…
イナ…
いつもより控え目な笑い顔のイナを見つめてから、僕は厨房から廊下に出た
「ヨンナムさん」
黙っていたテソン君が僕を呼びとめた
「僕もイナシには笑っていてほしいんだ。BHCのみんなもそうだと思う…。イナシの笑顔、ちゃんと取り戻してね」
「…うん…」
それを取り戻せるのは僕なんだろうか…
これ以上イナを悲しませない…
自分自身にそう誓って、僕はBHCを後にした
ウシクのおかげでなんとか仕事をこなした
情けない自分に腹が立つ
店を出てマンションに向かった
ゆっくりと歩いているとテジュンの顔がちらついた
高層マンションは遠くからでもその姿が見える
最上階が目に入り、自分の部屋を思い浮かべる
テジュンに渡せなかったクマがいる
二匹、仲良く並んでいる
テジュンの匂いが染み付いた俺の部屋
テジュンと何度も抱きあった俺のベッド
こないだ思いっきり甘えたのに
こないだテジュンから逃げないと決めたのに
苦しそうなテジュンを見ていられなくなって
俺は逃げたんだ…楽な方に…
あそこに戻りたくない
テジュンを追いかけてしまう
俺はその場に立ち止まった
どこへ行くあてもない
俺はどこへも行けやしない
漢江にかかる橋の上で、真っ黒い水を見ていた
朝までここで過ごしたっていい
テジュンはどうしてるんだろう
ヨンナムさんちに帰った?まさかね…
「こういう時にいてくんなきゃ…」
ヨンナムさん…俺の気持ち、受け止めてくれなきゃ…
「そしたらヨンナムさんが辛くなる…か…」
辛そうな顔はもう見たくない…
夜風に吹かれてため息をついた
上着のポケットが突然震えた
ヨンナムさんの名前が画面を踊る
長く迷って電話に出た
『イナ…どこにいる?家に帰ったの?』
「…漢江の橋の上…」
『うちに…来るか?』
「…テジュンが帰って来るかもしれないのに?」
『…家まで送ろうか?』
「帰りたくない」
『…僕、そこに行ってもいい?』
「…」
『待っててくれる?』
「…ヨンナムさん」
『ん?』
「もう…人を好きになりたくないよ俺…」
『…どうして?』
「また苦しい想いするの…いやだ…」
『僕はお前を苦しめてるだけ?』
「…」
「わかんないか?」
「!」
俺の真後ろにヨンナムさんがいた
「会いたくないって言われたけど、気になって」
「…後つけてた?」
「…うん…店からずっと…」
「嘘つき!」
「…」
「知ってて『どこにいる』なんて聞くんだ、嘘つき!」
「イナ…」
「昨日は、これ以上悪くはならないなんて言ったくせに!俺、今、最悪だ!嘘つき!」
「…」
「最悪…さびしい…」
「おいで…」
「いやだ!」
腕を引かれて俺はヨンナムさんに抱きしめられた
「いやだ…」
「送るよ。こんなとこで一人で泣かないで」
「いやだ!家に帰りたくない!」
「じゃあ…お前の行きたいとこに行こう」
「ほっといてよ!その顔、見たくないんだ!」
「…。どうして?」
「どうしてだって?!俺、テジュンと別れたんだよ、今日!なのに…テジュンと同じ顔で同じ声で…」
「…」
「俺の目の前に現れないでよ!テジュンが…テジュンが…」
「やっぱり重ねるんだね」
「…。か…さねたく…なくても…重なっちゃうよ…仕方ないだろ…」
「僕はどうすればいいの?同じ顔で同じ声だけどアイツとは別人だ…。お前そう言ってくれたじゃない」
「けど…」
「…。…いいよ。みんなそうだったんだ。結局テジュンと僕をごちゃ混ぜにしてしまうんだ…」
「…」
「一つ解ったね」
「…え…」
「お前もやっぱり僕達を重ねて見てしまうって事」
「…」
「…そんな事どうでもいい。とにかくどこかへ行こう。ちゃんと休まなきゃ、ね?」
『重ねて見てしまう』
ヨンナムさんは嫌がってたのに
俺はちゃんとヨンナムさんを見てるって言ったのに
「僕のせいでこうなったと思ってる?」
「…」
「僕は昼間、謝らないって言ったけど、ごめん…謝るから…頼むからこんなとこで夜を過ごすなんて事やめて…」
「…ヨンナムさん…」
『罪悪感なんか持たなくていいよ。決めたことと行動にきちんと責任持つならね』
スヒョン…
テジュンを苦しませてるのに、悪いと思わなくてもいいのかな…
俺自身も自分の選択に苦しんでるのかな…
決めたことに責任持ってないのかな…
このまま、この橋で朝まで過ごして
もし熱なんか出したら
仕事ができないね…
俺、ヨンナムさんが迎えに来てくれて嬉しいんじゃないの?
嬉しいと感じる事がいけないと思ってるんじゃないの?
なんだろう…余計なものを取り払うと何が見えてくるんだろう
俺は今、一人でいたいのか?
一人でいればいるほど、テジュンの哀しげな顔を思い出す
そんな顔をさせたのはヨンナムさんだと思ってないか?
だからヨンナムさんに当り散らして
ほんとは嬉しいくせに嫌がって
そんな事してヨンナムさんにも『悪い事したと思え』って強要してないだろうか…
「イナ?」
「…ごめん…」
「…」
「ありがと…迎えに来てくれて…」
「イナ…」
「嬉しいんだ…けど…」
ヨンナムさんはまた俺を抱きしめた
「解ってる。僕とテジュンを重ねてしまうのも解る…。責めてごめん…」
「ヨンナムさん…」
ヨンナムさんなんだ
これがヨンナムさんなんだ
俺は唐突にそう感じた
同じ顔で同じ声で、他人からコピーだと思われて…
それが嫌で…でも…そう思われても仕方ないって…
「…ずっと諦めてきたの?」
「…」
「仕方ないって引き下がってきたの?」
「…だってどうしようもないじゃない…」
「ごめんね…ごめん…俺…俺ちゃんと解ってるよ、ヨンナムさんとテジュンが別の人間だって…」
解ってるのに当り散らしてた…
「…イナ…無理しないで」
「無理なんかしてない。ごめんね…」
「謝らないで…」
俺はヨンナムさんから体を離し、ヨンナムさんを見た
「車、どこ?」
「…」
「送ってくれるんだろ?」
車に乗り込んだイナに、マンションでいいかと聞いた
イナは首を横に振った
「じゃ、どこに?ホテルにでも泊まる気?それとも他に行くあてがある?」
「…ヨンナムさんち…」
「え…。だって…テジュンが…」
「帰ってきたらその時はその時だ。テジュンの顔見ればまた気持ちがはっきりする…」
「イナ」
「はっきりさせたいんだろ?俺達の気持ち」
「…」
「俺も…はっきりさせたい…俺の気持ち…。ずっと顔合わさずに済むなんて思えない。いつかは出くわすだろ?なら…いつだっていい…」
「…イナ…無理してない?」
「…してない。いや、してるかな…。でも、貴方と付き合うのなら、貴方の家を避けるなんてできないから…。堂々としていたいから…」
終わらせたんだから、テジュンとは…
イナは自分に言い聞かせるように呟いた
僕はエンジンをかけて僕の家にイナを連れて帰った
車を降りて玄関に入る前に僕はイナに言った
「イナ。終わりって事は、また何かが始まるって事だ。何がどう始まるか解らない。僕達なのか、テジュンとお前なのか、それとももっと別のものなのか…。今僕のところへ来たからって、僕と始めなくちゃって決めつけないで。心の隙間、早く埋めたいだろうけど、でも、焦らないでほしい」
「…」
イナは返事をしなかった
僕は引き戸を開けて中に入った
数秒後に、イナが入ってきた
「居間で眠るといい。僕は僕の部屋で眠るから…ね?」
「…一緒に寝ないの?」
「…」
「隣で寝かせてくれないの?」
「そうしたいのか?」
「…」
「とにかく、お前の布団は居間に敷くから」
「…うん…」
そうして僕達は、その日の夜を別々の部屋で過ごした
テジュンは…帰ってこなかった…
イナがヨンナムのトラックに乗り込み、ヨンナムがイナにキスをした
僕の記憶はそこから過去に逆流していた
時々、今現在の時間にふうっと戻ってきてはイナの寂しげな瞳を思い浮かべる
その横にヨンナムが滑り込んできて、イナの瞳が喜びに輝く
僕は過去に向かうために酒を飲む
川原でそんな時間を過ごした後、どこをどう歩いたのかまるで憶えていない
イナの顔がチラつく度に酒を煽った
屋台があったからそこに入った
酒を頼んだのにイナの顔が消えなかった
声まで
僕の名前を呼ぶ声まで聞こえた
イナがいるのかとあたりを見回した
…
同じ顔なのに…同じ声なのに…
違う…
違うんだ…
「なんで…傍にいないんだ…」
イナと同じ顔がふたあつ…僕を見つめている
僕はその顔を消したくて目を閉じた
はっきりと…イナの姿が現れて、そして僕に背を向けた…
ツメコミドン 足バンさん
社長室に入ると
毎度お馴染みギスがひどく機嫌悪そうにしてた
ソファには営業部長とマーケティング部長のおっさんがシュンと座ってる
僕は約束の書類をおいてさっさと出ていこうとしたけど
ニガムシ仮面はオイデオイデと手招きし
遂にこの国で販売始動したト○タのハイブリッド車についてぶつぶつ始めた
「なぁドンジュン…アメリカだけで昨年8万台以上売れて今年はその3倍見込みだぞ」
「だから?」
「やっぱそっちに乗った方が良くないか?」
「ギス…なぜにあなたはそう短絡的なの?脳までニガムシに蝕まれたの?」
「おまっ!仮にも社長に向かって!」
ギスがデスクを叩くとふたりの部長は目をつぶって首をすくめた
「だんだん不安になってきたんだよ!こんな景気が冷え込んでる時に…」
「どこもストばっかやってるんだもん自業自得でしょ」
「車の国内販売数も18%減だぞ!」
「僕らの相手は国内じゃない、世界需要なら年間6392万台3%増だよ」
「ああっだから!今からでもハイブリッド輸入に割り込めば政府の補助金も引き出…」
「ぶぁか!」
「ぶぶぶぶぁか?」
ギスの顔が赤くなると部長たちは青白くなるので、それはそれで面白い
「そうやって他人の力に頼ってきてダメだったの忘れたのっ?ぶぁか!」
「ぶぶぶ…」
「先行きわかんないのはみんな同じでしょ!恐いのだって同じでしょ!
だからってうまく回避することばっか考えてたら一歩も進めないでしょが!」
「そんなこたわかってる!」
「ならただ冷静に慌てず自分がすべきことをすればいいでしょ」
「頭じゃわかってるが」
「わかっててもわからないのはわかってるよ」
その矛盾は僕がリアルタイムで実感してるってば
「は?」
「いけない…仕事中だった」
「なに?」
「だから…頭の理解と気持ちの関係ってこと!」
「は?」
「所詮自分は弱いけどそれをも認めるってこと」
「ど、どうしたんだ?」
「うん…だからさ…できるだけやってみよう…ってことでしょ」
「え?…ああ」
「ってか…やらなきゃいけないことはハッキリしてるし」
「ああ…うん」
「ふぅ…」
「おいドンジュン…」
「僕だってアレだけどさ…でも他にないじゃない…どうしようも…」
「おい…わっわかったからそんな顔すんなっ」
「…」
「ハイブリッドの話はちょこっと言ってみただけだからっなっ!
おまえ疲れてるんだろ?ここのとこ詰めてたから…なっ?ちょっと休め…な?」
(じぃ…)
「なっなんだ?」
「ギスって案外優しいんじゃん」
「え?やっ…そんな…まっそりゃ…」
ニガムシ仮面は何となく調子の違う僕に調子が狂って
あれこれ言ってもおまえのプロジェクトに期待してるだの
俺の人徳とおまえの頭脳で世界は我が社のものだの
ワケわかんないこと言って僕を元気づけた…らしい
廊下に出た僕にふたりの部長は愉快そうに肩を叩いてきた
「いやぁドンジュン君は奥深いワザ使うねぇ」
「せっかくここまで来てまた社長の気が変わるかとヒヤヒヤしたよ」
ワザじゃないっつうの
ギスにお説教かましながらドキッとしてた
ああやってひとに偉そうなこと言えるほどの奴じゃないって
自分が一番よくわかってる
仕事の話ならあんなにクリアなのに
成すべきことと行動が100%の自信で一致してるのに
…あの話になるとからきしダメ
もう歯くいしばって必死で立ってないと倒れそうだったりする
そんで歯くいしばって店に出た僕は
イヌ先生が部屋にいることを確認して事務室に入る
スヒョンとふたりきりになりたくないからだけど
ここのとこそれがすっかり癖になってる
スヒョンは電話で花束かなんかの手配をしてる
派手じゃなく、品よく、色は少なめになんて細かいリクエストで
どうせお客の美人マダムかなんかに贈るんでしょと言うと「まぁね」だと
それが4日後のテジンさんの個展へのものだったって知ったのは
しばらく後だったわけだけどさ
どーして素直に「テジン宛だよハニー♪」って言えないかなこのジジイはっ!
ソヌさんとジホのおっさんがVTRを持って部屋に入ってきて
ホームページ用の映像をスヒョンたちに見せてる
ジホのおっさんはアーだのコーだのアーティストっぽいこと言ってるかと思えば
別編集して誰かの”顔写真入りの皿”かなんかくっつけて売って稼ごう
とかなんとか騒いでソヌさんにしっかり睨まれてるし
ステージで踊ってる自分たちを見れば祭を思い出す
♪ I wanna say these words to you…
いろんなことがありすぎてもう遥か昔のように感じる
あの時は何も考えずに突っ走ってたかな
考えてなかったわけじゃないか…考えることが単純だったのかな
「ぎゃあああっっもうっ!あんなジジイ好きになった自分がぶぁかだあああーっっっ!!」
とイッパツ洗面所で叫んだら
ちょうど入ってきたイナさんが入口でギクリと固まった
「あっ…うはは…ちっと発声練習でぇーっす」
「あ…そか…」
うるせえんだよ狭いとこで!なんてかまされるかと思ったのに
それ以上の反応がなくてちっとつまんなかったんだけど
その日のイナさんの”普通にしようとしてる”感じが気になって
スヒョクさんにムリクリ探り入れてやっとわかった
別れたって…その…別れたってことだろうか
ウシクさんのテーブルで一緒にお祈りしてるその横顔が
琥珀色のグラスの中の小さな蝋燭の光に揺れてる
イナさん…何よ…マジ?
祭の頃の猛烈ブイブイなイナさんとテジュンさんを思い出したら
いろんなことがグルグル頭の中駆け巡って鼻の奥がつんとしてきて
何だか辛くなって哀しくなってきて…
思わずテーブルのデザートをじゃんじゃん口に詰め込めば
お客様は「まーっ何かあったの?あったのね?原因はチーフ?きゃー!違う?とにかく大変!」と言いながら
…どんどん注文してツメコミドンを堪能してるっての
向こうのテーブルから大人な目でこちらを見てるエクセレントジジイは
どうせ「おまえまた振り切っちゃって」なんちって
余裕かましてるに決まってるしふんっ…バクッ
誰のせいで振り切れてると思ってんのさ…バクッ
誰のせいでもないけど…バクバクッ
イナさん…どしたってのさ…ぐしっ…バクバクバクッ
「「「きゃあああ~ドンジュン君すごぉい顔が倍~♪」」」
「「「やあ~ん、むせた~♪」」」
腹いっぱいで廊下のベンチでぼんやりしてると内ポケットの携帯が震えた
「よぉ…どうだ…その…調子は戻ったか?」
「ギス…どしたのよ」
「おまえがテンション低いとどうも気になってな」
「大丈夫だって…あんまり慣れないことしないでくれる?空からヤリが降るから」
「ばかっひとの親切をムゲにするなっ」
「くふ…サンキュ…」
「とにかく…ひとりで抱え込むなよ」
「ん…」
「おい…俺って優しいか?」
「一寸のニガムシにも五分の魂」
「…何のことだ」
「今度店においでよ」
「おぅ…幹部たち連れてくから安くしとけよ」
「ギス…」
「お?」
「…ありがと…」
「おぉ」
ギスの声がいつもよりずっと二枚目に聞こえた
「ドンジュンさんご指名です~」
「おっしゃ!」
千の想い 140 ぴかろん
俺がおぶっていくというダーリンを制し、僕はテジュンさんを背中に乗せた
こんなズタボロのじじいなんか、ダーリンに背負わせるわけにはいかない…
「僕のマンションに連れて行く!」
「だめだよ、イナさんがいる」
「じゃ、ヨンナムさんちに?」
「…そんな酷いこと…」
「だって、じゃあどうするんだよ!」
「俺んちに行こう」
「ええっ?」
「こっから近いし…」
「やだよ!なんでこんなクソジジイをラブのマンションに」
「他にあてがないだろ?!」
「どこだってあるじゃんか!」
「どこさ!」
「…僕の…まんしょんとか…」
「ばかかっ!」
物凄く怒鳴られ罵られて、僕は仕方なくジジイをダーリンのマンションに運んだ
部屋に入ってからどこに寝かせるかで僕達はまた揉めた
結局ダーリンの部屋のベッドに寝かせることになり、渋々ジジイを運んだ
「ラブはどこで寝る?僕の部屋?」
「…『僕の』?!テジュンを置いてアンタのマンションに行くって言うの?!」
「ちちちがうよぉ…ここのぉ僕の部屋…」
「…ここにアンタの部屋なんかありません!」
「ええん?なぁんでぇん、いつも僕とくへへほんする時のあの部屋で」
「あれはゲストルーム!」
「だあったらあのくそじじいをゲストルームに」
「あっちから玄関までノーチェックになるじゃん!またフラフラどっか行っちゃったらどーすんのさっ!ええ?!」
ダーリンは僕の唇をぎゅうううっと摘んでキィキィ叫んだ
ノーチェックって…ああ…玄関まで気付かれずに行けちゃうってこと?
「アンタ帰るかゲストルームに寝なよ。俺、テジュンの横に寝て見張ってるからさ」
「は?はぁ?!だめっ!だめだめだめっ!へんなことされたらどぉすんのよっ!ええっ?!」
「大丈夫だよ、テジュンは泥酔してるしぃ」
「れったいだめぇっ!」
「じゃ、あんたどうすんの?」
「いっしょにねる!」
「は?」
「さんにんでねるっ!」
「…」
「いいでしょっ?!(@_@;)」
「…。好きにすればぁ…」
そう言ってダーリンは服をポイポイ脱ぎ捨て、シャワーに向かった
僕は慌てて後を追い、一緒に入ろうとしたのだが、アンタまで入ってきたらその隙にテジュンに逃げられるとか言われて追い出された…
シャワーから出てきたダーリンは、ぱん○だけ穿いてジジイの横に潜り込んだひいいい!
僕はズボンが皺になるとイヤなのでそれは脱いだけど、なんでジジイと肌を触れ合わなきゃいかんのか!と思い、シャツは着たまま急いで寝転んだ
本当はダーリンの隣に寝たかったのに、それじゃテジュンが逃げるとか言われてぐすん…ダーリンと僕とでジジイを挟む形になって寝た
もちろん眠れるはずもなかった
…と思っていたら、僕はいつの間にか眠っていたらしい…
ふっと気がつき薄目をあけてジジイを見た
そしてジジイの向こうで片肘をついて頭を支えながら、ジジイの顔に触れているダーリンを見てしまった
時々イナさんの名前を呟きながらうなされているテジュンを、俺はずっと見つめていた
バカがこっちを気にしているのは知っていた
どうせずっと起きているだろうからテジュンにキスもできないな…なんて考えてたんだけど
バカはいつの間にか寝息を立てていた
…
ほんとうにバカ…
俺もうとうとはしたけれど、テジュンから呟きが漏れる度にハッとした
バカが眠っている
テジュンも今は眠っている…
俺は肘を立てて頭をのせ、少し上からテジュンを見つめた
傷ついて
可哀想
そっと髪の毛に触れてみた
ううん…と小さく唸った
瞼に…睫毛に…触れてみた
…イ…ナ…
聞き取れないぐらい小さな声で言った
なんで…
そんなに好きなのに…
なんでなのさ…
指で唇にそっと触れる
無精髭の伸びた頬をそっと撫でる
薄く開いた唇からまた
イナ…
切なくなる
その唇からその名前を聞くと
その唇からそんな声で…
俺は少しからだを起こして唇に唇を寄せた
ジジイの顔のでかいパーツにそっと優しく触れまくるダーリンを
僕はハラハラしながら薄目で見ていた
勿論寝ているフリをしながら
したらダーリン、ごそごそ動き出してジジイの方に顔を近づけ始めたのっ!きいいいっやめてぇぇっ
…て叫びたいけど…僕はダーリンの気持ちがなんとなく解る
もしこれがイナだったら、僕も同じような事してると思う
なんていうのか…なんとかして助けてあげたいって思っちゃうんだ…
でもでもでも…ああ…キスは…キスはやめてよぉぉ…
あ…ああ…あ…
ダーリンの唇がそっと唇に触れた
それからダーリンは静かに、静かに、舌を滑り込ませた
…僕の唇を押し分けながら…
テジュンの頭を飛び越して、バカの唇にキスをした
バカは驚いて目を白黒させていた
少し唇を離すと、バカの目から涙がぽろりと零れた
胸がキュンとなる
もう一度唇を重ねて、今度は強く吸った
耳元で、イナ…イナ…と呟く切ない声を聞きながら…
千の想い 141 ぴかろん
居間で布団に包まる
前にもこんな事があったな…
あの時は自分の気持ちがバラバラだった
今は少なくともバラバラじゃない…
俺達は終わった
そして…新たに…始める?
ヨンナムさんと?
誰と?
考えるのはよそう…今日は疲れた…
目を閉じて眠る努力をした
色んな想いが浮んでは消えた
考えてたって仕方ない
新しく…始めるんだから…
ふっ切れたような気がした
でもふっ切れたのではなくて、ただ睡魔に襲われただけだった
こんな時でも眠れるのな…
案外強いのな…俺って…
ふふふ…
それから俺はゆっくりと眠りに落ちた
隣の部屋にイナがいる
眠れるだろうか…心配だ
イナは傷ついている
愛する人と別れたのだから…
そう仕向けたのはやはり僕だろう
傷ついたイナを優しく手当てして
なんて美味しい役目だろう…
僕は
ずるいのかな…
「それでもいい。ずるくても…いい…」
こうしたかったんだ…
僕は僕に言い聞かせて眠った
夜中、居間からイナの声が聞こえてきた
前と同じ、魘されている
僕は起き上がり、暫く待った
テジュンに抱きしめられていた
俺達二人とも微笑んでお互いを抱きしめあっていた
テジュンは俺の中に入り、切ない顔をする
俺もきっとそんな顔をしているんだろうな…
幸せな瞬間
心も体もテジュンで一杯になる…ああ…
突然テジュンが砂になる
あ…
これ…
夢だ…
前に見た夢だ…
そうだ…怖かったんだ…
テジュンが消えてしまうって…
でも今は夢だって解ってるから…
砂になったテジュンはすぐに元通りになってまた俺と一体になる
それはテジュンではなくて
テジュンではなくて
ヨンナムさん…
あ…
いや…
いやだ!いやだいやだやめて!
長い時間イナは魘されていた
短い叫び声が聞こえて、それきり静かになった
立ち上がって台所に行き、即席のナイトキャップを作った
赤ワインに砂糖、レモンの皮、シナモンと生姜を入れて温める
いい香り…
イナのために、僕のために…2つ作った
小さなカップに淹れて居間の戸を叩いた
うなり声を上げながら、俺は目を覚ました
暗い天井が見えた
俺は体を起こして息を整えた
どきどきどき
心臓が早鐘のように鳴っている
夢だ
夢なんだ
テジュンが消えたのも
ヨンナムさんに代わったのも
夢だ…
それは俺の願望?
俺はそれを望んでいたの?
俺は…
テジュンを…
消したかったの?
それでヨンナムさんとああやって…ああ…
自身の欲望をまざまざと見せ付けられた気がした
俺は自分に怯えていた
コンコン…
扉の向こうに
ヨンナムさんがいる
怖くて身を竦めた
「イナ…開けてもいい?」
静かな穏やかな声がした
そこを開けたら俺は…貴方は…テジュンは…
カタン
答えを待たずに開いた扉
黒い人影が立っている
怖い
怖い
俺の欲望がそこに立っている
「眠れないと思って…これ…。あったかいうちに飲んで…」
黒い影はその場にしゃがんでコトリと何かを置いた
「おやすみ…」
パタン
扉からこっちに入ってこなかった
暗くて顔が見えなかった
ヨンナムさんだったんだよね…
足音が隣の部屋に消えたのを確認して、俺はゆっくり息を吐いた
怯えてた
僕が襲うとでも思ったのか?
…ふ…
やだな、そんな事しないよ…やだな…
僕は布団の上に座って自分のためのナイトキャップを啜った
じわりと体に暖かさが広がる
やだな…そんな事…
そんな事しないのは…『罠』?
突然沸き起こった声に、僕はビクリとなる
飲みかけたカップが小刻みに震える
『罠』
あれもこれも僕の仕掛けた『罠』?
テジュンとイナの別れを演出したのは僕?
…そう…僕だ…
テジュンに言わせた
イナに受け止めさせた…
僕の言葉が引鉄になったんだ…
なんてことを…なんてずるい…別れさせて傷つけて…いたわって…
こんな時に優しくされたら誰だって…
そう…今までと同じ…誰だって僕に傾く…
こんなものまで作って僕は…
自分のずるさが全身に浴びせられた
体がガタガタと震えていた
何を置いていったのだろう
幾分落ち着いた俺は、扉の端に置かれた物に擦り寄った
プンといい香りがした
「シナモン」
小さなカップを手にとって、中の液体に口をつける
暖かさが咽喉から体に伝わる
あったかい…ヨンナムさん…
ゆっくりとそれを飲み干した
涙が零れた
ごめんね…ありがとう…俺を気遣ってくれて…
俺はカップを台所に片付け、その足でヨンナムさんの部屋の扉を叩いた
「ヨンナムさん…」
イナの声がした
僕は…僕は…
「ありがとう…よく眠れそうだ…」
「…あ…いや…」
声が震えている
「…。どうしたの?開けてもいい?」
いや…開けないで…
声が出なかった
そっと開いた扉の隙間から黒い影が僕を見つめている
表情は解らない
僕のずるさが解ったの?だから…来たの?誰?イナなの?それとも…僕?
「…どうしたのヨンナムさん…なんでヨンナムさんが泣いてるの?」
イナの声だけが部屋に入ってきた
僕が泣いている?
自分がずるくて、自分が怖くて泣いている?
言わなくちゃ…言わなくちゃ…言わなくちゃ…
部屋に行ったらきっと手招きされて抱きしめられると思っていた
なんで震えてるの?なんで泣いてるの?どうしちゃったの?
「ぼ…く…ずるい…ずるい男だ…」
子供だ
子供が自分のしでかした事に驚いて泣いている
そんな気がした
「おまえを…テジュンを…罠にかけた…今だって親切ぶってお前にっ…うっううっ…」
不安定なヨンナムさんがいた
一生懸命自分を伝えようとしている
いいところも悪いところも、全部、一生懸命吐き出そうとしている
俺に…
貴方も驚いたんだ、自分を見て…
俺もだよ
俺もびっくりして、怖かった…
貴方も怖いんだ、自分がどういう人間なのか少しずつ解っていくのが…怖いんだ…
可愛い…
ヨンナムさんが可愛いと思った
俺は膝をついて扉を押し広げた
泣いているヨンナムさんにそっと近づいた
前足を一歩
後ろ足を一歩
可愛い男を目指して静かに…
まるで猫のように
近づくにつれて俺の中からテジュンが散っていく…
散ったテジュンがヨンナムさんになっていく
隠れていた俺が滲み出てくる
捉えたい…手に入れたい…
しっくりいくなら本心だ
いかないのならやり直せばいい…
俺自身に立ち向かう方法が解らない
だからって立ち止まってても仕方がない
欲しい…
そう…望んでいたのか?…俺は…
ならば望み通り動いてみよう…
一歩…
また一歩…
ヨンナムさんの間近に行って、怯えたその顔を撫でた
ビクリと俺を振り返る
「罠に嵌めたんならなんとかしてよ…」
「…」
「俺が選んでここに来たんだ…罠じゃない…貴方のせいじゃない…自分でもそう言ってただろ?」
「でも…僕は…」
「…傷つけて悪かったなんて思わないで。傷つけた方も痛いでしょ?…貴方、平気なふりしてただけだ…。平気じゃなかったんだよ…ね?」
「…イ…ナ…」
可愛くて、吸い寄せられるように唇を近づけた
震えているヨンナムさん
可哀想…
顔を逸らしてヨンナムさんの首に巻きついた
どきどきどき…
ヨンナムさんの鼓動が俺の胸に伝わる
どきどきどき…
…好きだ…
俺はヨンナムさんが…好きなんだ…
「…やめ…て…テジュンが…」
「消した」
「…え…」
「消したんだ…俺…」
「…そんな…簡単に…」
「…貴方の存在が大きくなってる…」
「…ぼ…く…。僕が弾を込めた…テジュンがトリガーを引いた…お前が撃たれて…テジュンが返り血を浴びた
僕は…僕は無傷なんだ…無傷で撃たれたイナの手当てをしてる…テジュンはどこを彷徨ってる?撃つ方だって衝撃を感じるよね
テジュンは愛するお前を撃ったんだ…僕の言葉でトリガーを引いたんだ…」
一つずつ吐露するヨンナムさんを見つめた
震えていた
可愛い
可哀想
「弾を込めたのは…俺だよヨンナムさん…。ずっと弾を込めて銃を持ってたんだ…。貴方がトリガーを引いて、撃たれたのはテジュンだ…。撃った貴方を俺は責めてた。ずるいのは俺だ。知らなかったろ?俺が弾を込めたなんて…」
「…イ…ナ…」
「言ったろ?何度も別れようと思ってたって…。覚悟も準備も出来てたのに、いざこうなってみると寂しくて貴方を責めたんだ…貴方のせいじゃないよ…」
「イナのせいでもない…僕が言わなければ」
「でも言いたかったんだろ?俺もだ…俺も心のどこかで…テジュンと離れたいと思ってたんだ」
きっと…
だから…
あんな夢…
「こうしたかったんだ俺たち…。もしかしたらテジュンもこうしたかったのかもしれない…」
終わらせて…始めるんだ…何かを…
「…僕のせいじゃない?」
「…うん…」
「僕…ずるくないの?」
「…俺を思ってしてくれた事だろ?別れろって言ったのも、優しくしてくれたのも…だからずるくなんかないよ…」
「罠じゃないの?」
「罠…かもね…」
「…」
「恋の」
「…え…」
「無意識だから怖いな」
「…怖い?」
オドオドと繰り返すヨンナムさんが可愛くて、俺はその唇にチュッと口づけした
「あ゛」
「…ったくなぁ…参るよほんと。ここ二、三日妙に大人だったのに何よコレ…」
「え゛」
「俺が甘えたいときにどーしてこんな可愛くなるの?困っちゃうよ…」
「…イナ…」
額と額をくっつけあってクスッと笑った
「…もう…後ろめたいなんて思わないでおこう…」
「え…」
「気持ち、変えよう。ね?」
「…」
「貴方の言ったとおり、昨日よりよくなってるんだ、俺にとっても貴方にとっても…テジュンにとっても…」
「…でも…」
「痛い時は痛いって言おう。嬉しい時は嬉しいって。俺達、そんな風に始めてみようよ…」
「俺…達?」
「そう。俺と始めたかったんだろ?」
「…あ…うん…でも…」
「試してみなきゃ解んないもん。違ってたらやり直そう…それでいいだろ?」
「…イナ…」
「沈んでてもしょうがないじゃん…ね?」
「…けど…立ち直り早すぎない?」
「そんなの、きっかけ掴めばすぐに立ち直れるだろ?たまたま早くきっかけがみつかっただけだ」
「…きっかけ?」
「貴方も俺も、ちょっとだけ自分が見えた」
「…うん…」
「自分に押しつぶされたくない…」
「…え…」
「俺を動かせるのは俺だけだ…」
「…」
「だから…」
「あっおっ」
ドサッ
俺はヨンナムさんを布団に押し倒し、ヨンナムさんの胸に顔を埋めた
「一緒に眠らせてね」
「えええっ」
「一緒に眠るだけだよ…」
「…あ…あ…うん…」
「…あったかい…」
「…あつ…くるしく…ない?」
「あったかい…」
「…イナ…」
顔を上げてヨンナムさんを見つめた
よかった…瞳が穏やかになっている
「…キスしようかな…」
「え゛」
「まだ早いかな」
「…は…早いって…。そ…そんなの何度もしてるじゃん…」
「軽いのはね」
「か…るい?」
「本気出してもいい?耐えられるかなぁヨンナムさん…」
「は?」
「ぐちゃぐちゃ言ってないで試してみるか」
「た…試すってあ…ん…む」
我慢できなくなってキスをした
テジュンの寂しそうな顔が薄れて行く
好きだった
ほんとだよ…
でも別れた…
俺って…どうしようもない男だな…
ごめん…テジュン…
同じ顔で違う男の柔らかな唇に
溢れ出す俺を注ぎ込んだ
訪問者3 オリーさん
店の片づけをすませてロッカールームに行った
ネクタイをはずし、ジャケットを羽織ろうとした時
後ろから肩を掴まれた
兄さんだとすぐにわかった
「出かけるのか?」
「うん、先生と食事に行く・・」
言い終わらないうちに、
掴まれた肩ごと反転させられてローカーの扉に押し付けられた
ロッカーにぶつかった音が部屋に響いて、
近くにいたメンバーの視線がこちらに集まったのを感じた
兄さんはかまわず僕の襟元を締め上げた
「お前、何してるのかわかってるのか」
「わかってるよ、先生と食事をするんだ」
僕は言いながら兄さんの腕をはずし
反対に兄さんの胸倉をつかんでロッカーに押し付けた
さっきと同じ音がまた響いた
僕は兄さんの胸倉を押えたまま、
兄さんの頬に顔をつけて話した
「兄さんこそ、何だってあんな真似したんだ。失礼じゃないか」
「失礼なものか。あの教授のことは知ってる」
「先生の何を知ってるって?」
「お前があの先生とイギリスでどんなことになってたか、大体想像がつくと言ってるんだ」
「・・・・」
「撃たれた時のことを言ってるんじゃない」
「変なことは・・何もないよ」
「僕もミンチョルさんも知らないふりをしている。でもわかってるんだ」
僕は胸倉を締め付けていた手をわずかに緩めた
兄さんは続けて言った
「深入りするな」
「そんなんじゃない。先生には僕の気持ちは言ってある」
「お前の独りよがりじゃないのか」
「ほんとはあの仕事はギブアップした、キャンセルになる前に」
「じゃあ何だって、アジアの端までお前を追ってきたんだ」
「追ってきたわけじゃない。偶然だよ」
「わかるもんか」
「兄さん、ひとつ大事な事を忘れてる」
「何を?」
「もし先生に助けられなかったら、僕は今ここにいないかもしれない」
「・・・・」
僕は兄さんの肩に顔をつけて話し続けた
「ロジャースさんが先生の様子を見てくれって連絡よこした時、最初は兄さんに頼もうかと思った」
「またあいつがよけいな使い走りを頼んだってわけか」
「でもやめた。僕が自分で見たかった。先生が大丈夫かどうか」
「だからお前が責任を取る必要はない」
「でも僕は生きてる、先生のおかげで」
「だからって・・」
「先生は僕に会えば思い出す。あの酷い事件を。
僕の顔なんか見たくないかもしれない。でも会ってくれた。
懐かしがってくれた。店にも来てくれた。だから・・」
「もう一度言う。あれは事故だ。お前のせいじゃない」
「わかってる。でも愛していた人を撃ったんだ」
「相手はテロリストだ」
「先生にとっては違う。先生は一生十字架を背負うことになった。
僕に会うことで、もし先生がその十字架を少しでも軽くしようとしてるなら、
その手助けくらいはしないといけない」
「下手な同情はやめろ」
「同情できるほど僕は偉くないよ」
「ほんとに大丈夫か?」
「うん」
「イナが別れたそうだ」
「え・・」
「昨日のことだ」
「それで昨日はウシクさんがつきっきりで・・でもどうして?」
「さあな」
「ただの喧嘩じゃないの?」
「それほど生易しいものじゃないようだ」
昨日トイレでイナさんと短い会話をしたのを思い出した
「今日あいつは休みか?」
「はい」
「別のお仕事か?」
「そうみたいです」
「ふうん・・忙しそうだな。お前も大変だな」
「僕は別に・・」
「そっか。ま、お前らは何だかんだ言っても一緒に暮らしてるからな」
「イナさん?」
「かえって忙しい方がよけいなこと考えなくていいかもな」
「え?」
「いや、いいんだ」
それだけだった
いつもよりイナさんに覇気がないと感じた
でもまさか、そんな事になってたなんて・・
「だからややこしいことはするな」
「ややこしいいって?」
「食事だよ」
「食事するだけだよ」
「一緒に食事するってのは、セックスするのと一緒だ」
「兄さん、極端だよ」
「極端なもんか」
「じゃあ僕はドンジュンさんとも兄さんともそういう関係?」
「けほっ、そういう意味じゃない」
「じゃ、どういう意味?」
「・・・とにかくだ、形勢が不利になったら即撤退だ、わかってるな」
「おおげさだな」
僕は兄さんの肩の上で笑った
兄さんの腕が僕の背中に回された
「ミンチョルさんには隠し事はするな」
「しないよ」
「もめるなよ」
「もめないよ。先生は悪い人じゃない。話していても楽しいし」
「それをそっくりそのままミンチョルさんに言えるか」
「言ってみようか。妬くかな」
「そういう紛らわしいことをするなって言ってるんだ」
「兄さんこそ、僕をハグなんかしてていいの?」
「お・・」
兄さんの腕がわずかに緩んだ
「イナさんのこと、知らせた方がいいかな」
「ミンチョルさんか?」
「今日もたぶん帰ってこないから、電話いれてみようか」
「まだどうなるかわからんし・・わざわざ知らせなくてもいいだろう」
そう言って兄さんはもう一度僕を強く抱きしめた
こんな風に抱かれるのは随分久しぶりだ
「じゃあ、行くよ」
兄さんの胸を拳で軽くたたいて歩きだした
みんなに挨拶してドアを開けてから、一度振り返った
僕の姿をずっと見ていたらしいみんなと目が合った
みんなは同時にニンマリと意味ありげな笑顔を作った
「じゃあお先です」
僕はそう言ってドアを閉めかけた
テプンさんのでかい声が聞こえた
「あいつの留守にデートしたってことは黙っててやるからなっ」
僕はもう一度ドアの影から顔を出してテプンさんをちょっと睨みつけた
みんながまた一斉に笑った
僕はテプンさんに向かって斜めに敬礼した
そして笑い声を後に、今度こそドアを閉めた
出口の扉を開けたとたん、思いのほか冷たい空気が頬をさすった
外に出て待っているはずの先生の姿を探した
入口の脇でカチリという音と同時にわずかな光源を感じて振り返った
細い煙草に火をつけた先生の顔が闇に浮かび上がった
陰影のある、まるで彫刻のような顔
僕は思わず息を飲んだ
煙草の香りと同じ大人びた雰囲気を身にまとい
顔にきざまれたわずかな皺もさえも年輪という形で味方につけている
僕はその時初めて気がついた
この人はとても美しい・・と
千の想い 142 ぴかろん
翌朝、僕達は、まだ寝ているくそジジイをダーリンのベッドに残して起きた
ダーリンは僕にシャワーを勧めたが、僕がシャワシャワしてる間にダーリンがジジイにしゃわしゃわしないとも限らない
だから入らないと言うとダーリンはしかめっ面をした
「くせー」
「大丈夫!」
「くせーって」
「くさいのはあのクソジジイのでしょ?!」
「テジュンはいい匂いだもん…」
「なんでよ!あの人ドロドロのデロデロじゃないのっ!」
「すこし哀しくて切ないって香りがするだけだもん」
「僕だって切ない香りするでしょ?!」
「くせー」
「くさくないもん!店でシャワー浴びるもーんだっ!」
「…その手があったか…」
「でも…ダーリン」
「ん?」
「僕達が店に行ってる間、ジジイどうすんの?」
「…」
「逃げるかも…」
「俺、今日休む」
「な!何言ってるのよっ(@_@;)」
「だぁって」
「だってじゃない!ダメ!」
言い争っているとガタンとダーリンの部屋のドアが開いた
亡霊のようなクソジジイがぼんやり突っ立っていた
「テジュン!」
「…あ…」
「どした?お腹すいた?なんか飲む?」
「…みず…」
ダーリンは新妻のようにクソジジイの世話を焼いた
面白くないので僕はずっとソファに座っていた
レトルトのおかゆを温めて食べさせたり、シャワーに一緒に入る?などと不穏当な発言をしたりして、僕は非常にやきもきした
クソジジイはぼやっとはしていたが、シャワーも一人で入りに行ったし、ダーリンの入れた柚子茶もちゃんと飲んだし…結構普通に動いていた
「僕達店に出るんだけど、テジュンさんどうする?」
「…」
「ここにいてね、テジュン。俺が帰って来るまで留守番しててね、ね?」
「…」
ジジイは無言で頷いた
ダーリンは安心した顔つきでジジイのための夕飯を準備し始めた
なによ!この甲斐甲斐しさは!僕にはしてくれた事ないじゃないっ!きいっ!
ジジイと僕はテーブルでダラダラしていた
なんでイナと別れたのか聞きたかったのだけど、もし僕がこの人の立場なら、やっぱりほっといて欲しいかもしれないのでやめた
かわりにじいいっとジジイを観察した
長い睫毛が憂いに満ちている
大きな垂れ目が切なげに光っている
半開きのポチャッとした唇は少し濡れていていやらしい
鼻が…デカい…
…ふん…
そんなの…ふん…
髪はボサボサで気の毒なぐらいだ…
ふん…同情を引くようなルックスだ…こういうのが似合うって絶対ずるいよな…ふん…
「別れたんだ…イナと…」
突然半開きの唇が喋った
僕は姿勢を正してジジイの言葉に耳を傾けた
「別れるつもりはなかったのに…別れちゃった…。まさか…受け入れるなんて…イナ…」
…
という事は、このジジイから?
切り離したのは、こいつ?
だからイナはあんな風に混乱していたの?
けど…この人もこんなに混乱している…
別れるつもりがないのに…別れたって…どういう事だろう…
ダーリンがジジイの後ろに突っ立って涙を溜めている
ジジイはふぅっと立ち上がり、部屋を見回す
「あれ…イナは?」
「…え…」
「ふふ…よかったね、仲直りできて…。イナのハッタリがきいた?」
「…テジュンさん…」
何を言っているのだろう…
「あいつ、ギョンジンからの電話切ったあと、『どうしよう、どうしよう』ってオロオロしてたんだぜ。僕、お前は勝負師だろって言ってやったら顔つきが変わった。かっこよかった。惚れ直しちゃった」
「…テジュン…」
「お前の部屋のドア蹴破った時も、僕、ポーッとなっちゃったよハハハ」
「…」
「二人に言った言葉、あれぜぇんぶハッタリだよ。ふふふ。僕、イイコイイコってしてあげたんだ。僕に甘えて可愛かったな…ふふ」
「…テジュンさん…」
「あれ…あれ?なんでだろ…。おかしいな、どうして僕、先のこと知ってるんだろう…」
「テジュン!」
ダーリンがテジュンさんを抱きしめた
「…だめだよラブ、イナがヤキモチ妬いちゃう…」
「テジュン…テジュン…」
「…」
微笑んでダーリンを押し戻そうとしていたテジュンさんの顔が突然虚ろになった
「…イナ…。行っちゃったんだ…。そだ…。そだった…」
ダーリンはポロポロ泣きながらテジュンさんを強く抱きしめていた
「…貴方から別れを切り出したんだろ?」
僕は強く言った
「え?あ…うん…。そう。別れたくなかったのに…そう…」
「なんで?」
「…なんで?…ヨンナムに…言われたから…」
「…ヨンナムさん?」
「…離れた方がいいんじゃないかって…それで…別れようって僕…」
「なんでだよ。ヨンナムさんに言われたからってなんで」
「やめてよ、ギョンジン!」
ダーリンが僕に怒鳴りつけた
「そっとしといてあげてよ!可哀想だ!」
「…可哀想…」
ダーリンの言葉を繰り返すテジュンさん
「…可哀想…可哀想…。僕が?イナが?…可哀想…」
テジュンさんは頭を抱え込みひっくひっくと泣き出した
「バカ!ギョンジンのバカ!テジュンが傷ついてるの、見て解んないの?!今抉らなくてもいいじゃんか!」
「ラブ…」
「…イナ…」
「テジュン、テジュン大丈夫?」
「…。おさけ…酒くれよおにいちゃん…」
「…テジュン?」
「ここどこだよ…」
「テジュン、俺の部屋だよテジュン」
「おにいちゃんの部屋?」
「俺だよ!ラブだよ!解んないの?」
「ラブ、やめろ!ほっとけよ!」
「だって」
「錯乱してるんだろ、この人得意じゃないか」
「ギョンジン!」
「得意じゃないか!自分を憐れんで人のせいにして訳が解んなくなるの!」
「ひどい!」
「お前この間とばっちり受けたじゃないか!」
「そんなの!それでテジュンが元に戻るならなんでもない事だよ!」
「何言ってるんだよ!」
「アンタこそ何ほざいてるんだよ!俺のやる事に口出しするなよ!」
「ラブ…」
「ラブ?…あ…ラブだ…」
「テジュン?わかる?俺だよ。ここは俺の部屋だよ」
「解ってるよ、やだな…ふ…」
「じゃあイナと別れたって事も解ってるよな?」
「ギョンジン!」
「…イナと…ああ。別れたんだ…そうだ…別れたんだ…。イナはヨンナムのところに行っちゃったんだ…」
「行ってないよバカ!」
「ギョンジン!」
「アンタに別れを切り出されて、あいつが受け入れた?」
「…すぐに頷いたもの…すっきりしたんだろうな、こんな僕と一緒にいたくなかったんだきっと…」
「だったらなんでアイツはあんなに荒れてたんだ、あんなにぐちゃぐちゃだったんだよ!」
「…」
「アンタ自分だけが傷ついてると思うなよな」
「ギョンジン!」
「イナは…イナは頑張ってた。ちゃんと頑張って仕事してたよ!アンタはどうなのさ!」
「僕…僕は…情けない男だよ…そうだよ…クズみたいな男…」
「そんな事思ってないくせに!別れろって言ったヨンナムさんのせいで、別れる事に同意したイナのせいなんだろ?アンタは嵌められたと思ってるんだろ?!そんなの…アンタが言い出さなきゃイナは頷かなかった」
「ギョンジンやめてよ!…アンタにはない?心と裏腹な言葉、口走っちゃう事、アンタにはないの?!」
「…」
「テジュンを責めないでよ」
「…人のせいにするな…」
「ギョンジン!」
「人のせいだけにするな!全部が絡み合ってこうなったんだ。ぼんやりするのは今日だけにしてくれ!」
「…」
「少なくとも人前では今日だけにしてくれ!」
「ギョンジン!…テジュン…ごめんね、いいんだよ、俺が聞いてあげるから…」
「ラブ!甘やかすな!」
「っせーな!アンタにはわかんねぇよ!」
「なにがっ!」
「テジュンが居なかったら俺、今、ここには居ない」
それは…祭が終わったあの日の事?
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