ぴかろんの日常

ぴかろんの日常

リレー企画 238

セピアの残像 5   れいんさん

頬杖をつき車窓から流れる景色をぼんやり眺めていた
吐く息が硝子窓を白く曇らせる
僕は人差し指でそこにあの人の名を書いては消した

あの人は今頃どうしているだろう
もう目を覚ましただろうか
あの手紙は読んだだろうか…
僕は窓際の背もたれに揺れながら想いを馳せた


目が覚めたのは夜が明ける前だった
眠っていてもどこか覚醒していた様で
あの人をずっと近くに感じていた

あの人は、床に座ったまま、ベッドの上に両肘を乗せ
その上に顔を伏せるようにして眠り込んでた
肘の隙間から少しだけあの人の寝顔が見えた

そろそろと手を伸ばし、あの人髪に触れてみた
柔らかでしなやかな細い髪
この髪に触れられるのは、これが最後なのかもしれない
あの人の寝顔をこんな風に見ていられるのも…

このまま時間が止まってしまったらどんなにいいか…
僕は愛しい人の横顔にそっとキスを落とした
あの人の睫が微かに震えたような気がした


僕はそろそろと冷たい床に素足をつけ、ベッドを抜け出した
そしてあの人を起こさないよう支度を始めた
あの人が眠っている間に去るつもりだった
顔を見てしまったら
さよならなんて言えなくなるから

もうあまり時間はない
急がなければと分かっているのに
指先が震え、涙のせいで視界もぼやけて
ボタンがうまく留められなかった

部屋を出る前に
もう一度だけ愛しいあの人を振り返った
あなたを…永遠に忘れない…

小さな古びたバスは僕を乗せ
舗装されていない道をガタゴトと走り続けた
小刻みに揺れ動くその振動に身体を預けていると
懐かしいその風景が目の前に広がった
あの人と出会う前に僕がいた場所
僕がとても好きだった場所

あの頃と景色は何も変わらないのに
なぜだろう
胸が締め付けられる


分かれ道のところで途中下車した僕は
土煙をあげ走り出すバスの後を見送った
轍の跡が残っている土の感触も昔のままだ

華やかな都会より、一足早くここには冬がやってくる
道の両側の木の枝からは
はらはらと秋を名残るように葉が舞い落ち、冬の支度を始めていた

ここの冬は厳しいけれど
美しくて雄大な手付かずの自然がある
ここ一面が純白の雪に覆われた時、その眩しさは息を呑むほどで
それは足跡をつけてしまうのも躊躇われるほどの壮観な雪景色

神様からの贈り物のようなその雪をあの人にも見せたかった…
でも…
ここであの人と寄り添って
その景色を見ることなど
叶うはずもない夢物語

一瞬、冷たい風が吹き、僕の横面を撫でていった
おまえはなぜここに戻ってきた
今更なぜ…
風にそう問われているような気がして、ぎゅっと瞼を閉じた

僕はなぜここに戻ってきたのだろう
それは
ホンヨンの為に…
子供達の為に…
…違う…
本当は誰の為でもなく、僕の為だ

あの人から逃げ出し、僕はここに舞い戻ってきた
あの人の傍にいるのが辛すぎてそれに耐えられなくて
あのまま一緒に暮らしたら僕の心は壊れてしまい
あの人の事も苦しめてしまう
あの人の将来もダメにしてしまう

ウンスさんと生きていく方があの人の為ではないのか
家族と暮らしていく事があの人にとって最善の方法ではないのか
そう思ったから僕は去った
それが考えた末の結論だった

でも僕は意気地がないから
面と向かってさよならを告げることも
ウンスさんのもとに送り出し、それを見届ける自信もない

今僕が逃げ出してしまった事で
あの人は酷く苦しんでいるかもしれない
もしかしたら自分を責めているかもしれない
でももうあの人を支えていくのは僕ではない

今は辛くてもやがて時があの人を癒してくれ
あの人は、あの人に向けられている愛に気づき
見守られていた温かさに気づき
そして…僕の事など忘れてしまう

ああ、そんな奴もいたなって
そんな事もあったなって
そんな風に…
想い出に変わる…

それでいい
それで…

凍えきった指先に白い息を吐きかけ
天を仰ぎ見ると
自然に涙が零れてきた
今だけ…
あともう少しだけ泣かせて…
僕はそう呟いた
空はどこまでも青く澄んでいて、それがなぜだか心に沁みた

今夜も電話の傍で丸くなって眠りについた
あの日、スハが去った日からずっとそんな風だった

スハの残り香があるこの部屋で
かかってこない電話を待ち続ける無意味な日々

初めのうちは
気晴らしにどこかへ出かけただけで
そのうちに思い直して帰ってくるのではないか
そう思おうとした

でもその希望も日ごとに薄くなっていく
スハの香りがこの部屋から少しずつ消えていくのと同じように
なぜ僕を置いて去ってしまったのか
どうして一人で決めてしまったのか
スハの人生に僕はもう必要ないのか

『夢から醒める時がきた』
スハはそう言っていた
だからここには戻ってこない
好きだったあの場所にスハは帰ったのだ

その確信は日増しに強まり
耐え難いほどの喪失感が僕を苦しめた
孤独という現実は
僕を絶望させ、無気力にさせていた

スハの声が聴きたくて
スハに会いたくて
スハが恋しくて
抜け殻になった心はただそれだけを想う

何もかもが忘れられない
何一つ忘れたくない
はにかんだようなあの微笑
優しげな語り口
抱きしめた時のその温もり
スハの全てが僕の心に

目を閉じると甘い記憶が蘇る
その瞬間は笑みが零れ、幸せな錯覚を見る事ができた
でもそれがただの幻影だと気づく時
さらに酷い苦しみが待っていた

僕はこの苦しみから必死に逃れようとした
飲み干した空のボトルがごろりと音をたて床に転がった
手元のグラスを一息にあおり流し込む
それはこの現実から逃れられる唯一の方法
強い酒は僕の思考を停止させてくれ
ひと時だけでも孤独を忘れさせてくれた


この数日、工房には一歩も足を踏み入れてない
何かを創る気力などとうに枯れてしまっていた
皮肉な事に、あの個展がきっかけで
雑誌の特集企画やモデルルームのインテリア
映画やドラマのセットとして使用させてほしいなど
そんなオファーがいくつか舞い込んでいた

僕のこんな状態を見兼ねた、あの人のいい頑固な社長が
僕の代理人という形でマネージメントしてくれていた
「しっかりしろよ、テジン。俺が手を貸せるのはここまでだぞ。創るのはおまえ、夢を掴むのもおまえ自身だ」
電話でそう話したのはついこの前の事だ

分かってはいるけれど
今の僕にはそんな意欲など何一つ湧いてこなくて
もう何もかもが空っぽになってしまっていた

店にはちゃんと顔を出した
行かないと皆に余計な心配をかけてしまうし
スハの穴を埋めるのは僕しかいないと思ったから
どんな形でもいい
スハの為に何かしたかった
どこかで繋がっていたかった

「スハ先生は?」
誰かにそう聞かれる事は覚悟していた
遠い親戚に不幸がありしばらく田舎に帰ってる
僕はそんな嘘をついた

もし事実を話してしまったら
本当にそれがもう紛れも無い真実になりそうで
あいつの痕跡がこの店からも跡形なく消えてしまいそうな気がした

メンバーは気のいい奴らばかりだから
もともと無口な僕がいつもより無口でいても
さして訝しがりもしなかった
スハがいなくて少し不機嫌
そんな程度に捉えられていたようだ

なかには
「テジンさん、だから不精髭なんか生やしてるんだ。スハ先生がいたら叱られちゃうね。でもその雰囲気ちょっとセクシーでいい感じ」
そんな事を言う奴もいた

でもチーフは違っていた
眉を寄せ少し考え込んだ後、僕の肩に手を伸ばしてきた
僕は薄い笑いを浮かべながらするりとそれをかわした
そうされたら何もかも見透かされると分かっていたから

ソクさんにしてもそう
客が引けた合間に、カウンターの隅に腰掛け
ストレートのバーボンを頼んだ僕に
長い指でグラスをカウンターに滑らせ言った
「これが今夜のラストオーダーです…酒は何も解決してはくれない。あなたにもそれは分かっているはずだ」


チーフやソクさんだけでなく
皆にちゃんと報告しなければいけないと
頭では理解していたが
その事を冷静に語れるには
まだしばらく時間が必要だった


千の想い 185  ぴかろん


*****

車を停めても荷台から降りてこないイナを迎えに行った
イナは目を見開いてぼんやり座っていた

「どうした?」
「…え…あ…うん…ごめん…」
「一人で思いつめてたのか?」
「…いや…」

この陰に隠れてキスするか?と言うと、虚ろなままイナは「ばかやろう」と言った

「どうしたんだよ…」
「…ん…なんか…錯覚だ…」
「…」

僕はそれ以上何も聞かずに、荷台から降りようとするイナに手を差し伸べた
イナはふと僕の手を見て、それからペシンと叩き、ひらりとそこから飛び降りた

「ふぅん、カッコイイ」
「ばかやろう」
「何がバカなの?イナさん」

顔を覗かせたスヒョクにイナはキリキリと怒鳴った

「この大馬鹿野郎は俺にキスしようって言ったぞ!」
「「…」」
「スヒョク!しっかり管理しとけよ、ばかやろう!」

少しばかりいらついた様子で、イナは僕達二人を残して歩き出した
家の前でチラリと二階の窓を見上げ、それから玄関に入って行った

「…ほんとにキスしようって言ったの?」
「…あぅん…」
「…」
「冗談だよぉスヒョクぅ」
「…イナさんとだったら…貴方はきっと…毎晩のように…」
「ん?」
「…もういいですっ!ふんっ!」

スヒョクもプリプリと怒りながら玄関へ向かった
僕は二人の後を小走りで追った

*****

玄関の戸を開けると、ヨンナムさんがニコニコと待っていた
今さっき見上げた時には、テジュンの部屋は暗かった

「…ヨンナムさん…二階にいなかった?」
「居たよ。どうして?」
「なんで二階…」
「ちょっとね」
「…」

錯覚ではなかった
何をしていたのだろう…

「イナ、先にお風呂、入る?」
「…。一緒にか?」
「今日はよく沸かしたから一緒に入ると火傷すると思う。それに…僕、先に入ったからさ」
「…」
「ソクさんたちは?」
「今来る」
「風呂、入れよ。また4人で宴会しようぜ」
「…」
「ん?」
「…ヨンナムさん、なんかあった?」
「なんで?」
「ん…なんだか…」
「なに?」
「…なんでもない…。じゃ、風呂、先に入らせてもらうわ」
「うん」

ヨンナムさんが『青年』になったような気がした
俺は『青年』を抱きしめようと前に出、『青年』は爽やかに微笑みながらくるりと背を向けた

…タイミングがずれただけだ…

火傷しないように気をつけながら風呂に入った
湯船に浸かっていると、スヒョクが入ってきた

「なっ」
「ひどいよ、一人で入るなんて!」
「なっ」
「イナさんは俺と一緒に入るの!」
「なんでっ」
「セクハラ怪人がセクハラするから!」
「口だけなんだろ?」
「返上するって言うんだもんっ!『口だけセクハラ』を」
「…」

口を尖がらせているスヒョクは、かなり可愛いと思う

「あのさスヒョク」
「なんですかイナさん」
「…ソクの奴、なんか言ってた?」
「なんかって?」
「…ヨンナムさんとなんかあったとかなんとか」
「やめてくださいよ気持ち悪い!ソクさんとヨンナムさんがあんなそんなこんな事になったら、この世の中、トルコアイスか納豆かってぐらい粘つくことになるじゃないですかっ!」
「…」
「…。げーっ」
「…なによ…」
「…冗談で言ったつもりなのに…。げー。想像したらホントに気持ち悪くなってきた…」
「…。あ…ああ…そだな…」

あの手の顔同士のラブシーンは…ちっと…なんというか…『ホンモノ』っぽいかもしれない…

「…。げー」
「でしょ?『げー』って言葉しか出てこないでしょ?」
「…ん…。物凄く『濃』そう…」
「…」

はぐらかされて、聞きたいことが聞けなかった
スヒョクが俺になんだかんだ言ったように、ソクもきっとヨンナムさんに何か話したんだろう

風呂から上がると、昨日と同じようにソクは二階でシャワーを浴び終えて廊下にいた
台所にはヨンナムさんがいて、昨日と同じようなつまみと酒を用意していた
居間に行き、昨日と同じようにみんなで酒を飲んだ
違うことといえば、ヨンナムさんが昨日より大人っぽいってことだろうか…甘えてこないもん
笑顔も心なしか爽やかに思える
ヨンナムさんの肘をつついて尋ねた

「ねぇ」
「ん?」
「なんかあったんだろ」
「なにが?」

昨日…いや、今朝まであった曇りがない

「ヨンナムさん、なにか…心の底に隠してない?」
「は?」
「なぁんかさ…変だよ」
「そ?」

眉と口角を少しだけ上げてそう答えたヨンナムさんは『可愛い』というより『かっこいい』

「何をコソコソと二人だけで話してるんだよぉ」

ソクがニヤニヤ顔で首を伸ばした

「うるさいな、お前が首突っ込んでくると話が変な方向に行くから!」
「変な方向って?えっちな話ってこと?」
「そう!」
「ひどい!五歳児のくせにっ!ええんスヒョクぅぅ」
「ソクさん、飲みすぎると頭ガンガンになりますよ」
「ひぃん…そうだ!先に薬飲んでおかなくちゃ!」
「…なんで?」
「だって、今夜は頑張らなきゃ!肝心な時に頭痛でなぁんにもできなくなっちゃうと悲しいでしょ?スヒョク」
「…」
「『口だけ』返上するから!ねっ」
「…」
「なによ、その疑いの眼は」
「それも『口だけ』なんでしょ?」
「え?」
「いいです。無理しないでください」
「ほらみろよ、お前が首突っ込むと話が変な方向に行くだろ?」
「変な方向って? えっちな話ってこと?」
「ソクさん、リピートが始まってる!いい加減にしないとホントに知りませんよっ!」
「ああんスヒョクぅ」

俺達の変な会話を、ヨンナムさんはクフフと笑いながら聞いていた
絶対何かあったに違いない
まあいいや、寝る時に聞き出そう

寝る時…今日は…俺達…どうなるんだろう…

*****

「スヒョクぅぅおなかすいたぁぁ」
「何言ってるんですかソクさん、つまみバクバク食ってたじゃないですかっ!」
「ああん、締めくくりにラーメン食べたぁい。食べに行こうか?」

ソクがスヒョクに甘えだした
…やっぱりこの手の顔がこんな風に『甘える』と、『かなり濃い』ような気がする
客観視すると『こんな』だったのかな…ヨンナムさんも…それから…

「ラーメン、いいですねっ!作りましょうか?」
「え?ヨンナムさん、ちゅくってくれるの?」
「うん。僕も食べたいから」
「ソクさん…夜中に食うと太りますよ」
「ああんスヒョクぅぅ、ひとちゅの鍋からちゅるちゅるるーって二人でラーメン啜りたいよぉぉ」
「あの、ソクさん、僕も食べたいんですけど…」
「俺だって食いたいよ」
「俺も食いたいです」
「ああんスヒョクぅぅ僕はスヒョクと食べたいのぉぉ」
「ソクさん、4人とも食べたいんだったら、ひとちゅ…ひとつの鍋から4人でラーメン啜ればいいと思います」
「やぁぁんスヒョクぅぅいじわるぅぅ」
「とにかく僕、作ってくるね。めちゃくちゃ食べたくなっちゃった」
「4人分まとめてでいいですからね」
「わかってるって」
「いやぁぁんスヒョクのいじわるぅぅぅ」

ヨンナムさんは張り切って台所に行った
ソクはでれんでれんとスヒョクに頭を擦り付けている
スヒョクは迷惑そうな口ぶりでソクをあしらっているけれど、目が温かい

「ばかっぷる…」

こっそり呟いたつもりなのに、いちゃいちゃしていた二人が動きを止めて俺を見た
気まずい沈黙…

「あ…げへん…手伝ってくるごほ…」

俺は立ち上がり台所へ向かった

*****

「んもお、ばかって言われちゃったじゃないですかっ!」
「違うよぉ『ばかっぷる』っていったんだよぉ」
「同じ事です、いや、もっと性質が悪いですっ!」
「ええんスヒョクぅぅ」
「…ソクさん」
「ん?」
「ヨンナムさんに何か言った?」
「ん…まぁね。お前もイナになんか言ったんでしょ?」
「うん…」
「どうだった?」
「…頑固っていうか…情が深いっていうか…」
「…。動かない?」
「こっちの道に行きたいくせに、あっちの道を選んだからって…頭カタいんだから!」
「…あいつらしい…」

少し酔いの回った目を潤ませながらそう言ったソクさんの鼻を摘んでやった

「ふがっ…なんだよ」
「…なんか…やだもん」
「なにがよ」
「…やっぱり好きなんだ…イナさんの事」
「好きだよ。友達としてね」
「それ以上の気持ちを感じました!」
「はは。ヤキモチやきだなぁかわいいっ」

ソクさんは俺をぎゅうっと抱きしめて呟いた

あいつは頑固で情が深い
あの人は『徐々に』って言葉をしらない
もう一働きしないとうまく回らないかな…


訪問者 5  オリーさん

「ねえ、先生とどういう関係?」
そう言って青年は僕の顔を覗き込んだ
その顔は笑っているが
切れ長の目は鋭く光っていた


クランクインの日、僕は一人で店に入った
ドンジュンさんがバナナの話をしてくれた
バナナの裏にはきっと例の問題が潜んでいるに違いないのだが
微妙なテンションなので突っ込めず黙って聞いていた

そして携帯に連絡が入った
「僕だ、今終わった。遅れるけど店には出られそうだ」
「わかった」
「じゃあ後で」
「うん」
待ってる・・

ある意味ドンジュンさんの方がきついんだろうと思う
そんなことを考えたりもして
何か気の利いたことでも言いたかったけどできなかった
始まってしまったものは仕方ない
賽は投げられた
古代ローマ帝国の闘将の気持ちが・・少しだけわかる

僕はポーカーフェイスが上手いと思っているのだけれど
どうやら違うらしい
開店間際に厨房の前の通路を通ったら
厨房からすすっと出てきたテソンさんに呼び止められた
「ギョンビン、口開けてごらん」
「え?」
「いいから、口開けろっ」
ちょっといぶかりながら口を開くと
「これ、目が少し下がるぞ」
と言って何かを口の中に押し込んだ
上質なカカオんの味とブランディのほのかな香りが口一杯に広がった
「闇夜特製トリュフ。さっきドンジュンにも押し込んでやった。どう?」
「ども・・」
「甘い物っていいだろ、いい気分になれる。」

僕は口元をほころばせながらこっくりうなづいた
まるで子供だ
「美味しい・・」
「だろ?旨いものはいつどこで食べても旨いんだ」
テソンさんは僕の頬をぺちぺちとたたいてまた厨房に戻って行った
チョコの優しい甘さが僕の気分を引き立たせ
そしてそのままの気分で店に出た

店が始まってしばらくするとウシクさんが呼びに来た
「指名入ったよ」
「あ、はい」
もしかして先生かな、そう思った僕に
「今度は若い」とウシクさんが囁いた
「はい?」
「若い」
「はあ・・」
誰だろう

そう思いながらカウンターに行くと
あの青年がいた
先生にまとわりついていた薔薇の花の君・・
相変わらず黒い服を身にまとっている
黒の革ジャンにぴっちりとしたこれも黒革のパンツ
ソクさんと会話している

「こんばんは」
僕は挨拶して彼の隣に腰掛けた
「ああ、やっと来てくれた。こんばんは」
振り向いた彼はとてつもなく美しい
革ジャンの下はキラキラとした銀のメッシュのシャツ
黒髪はカウンターの照明を受け光り輝いている
そして陶器のような白い肌に
形のよい薄い唇が赤くつやつやとしている

「ワインバーグ先生と一緒に会ったの憶えてる?」
「もちろん。ファン君だったね、留学したいしたい病の」
「やった、憶えていてくれたんだ。
知らないって言われたらどうしようかと思った」
ファン・ミンスという青年は無邪気に笑った
赤い唇がほころび花が開いたような錯覚に襲われた

「忘れないよ。それより君、お酒は飲めるの?」
僕は彼の持っているグラスを見て言った
「大丈夫、こう見えてもお酒はちゃんと飲める年で~す」
彼はグラスを振って陽気に答えた
「そう、ならよかった」
「ねえ何飲む?」
「僕はスコッチの水割りをもらおうかな」
「お兄さん、ギョンビンさんに水割りひとつね。僕も同じものおかわり」

ファン君にお兄さんと呼ばれたソクさんは僕を見てにこにこしてる
「ギョンビン君、いいなあ。羨ましいなあ」
「はい?あの・・どういう意味です?」
「ぐふっ、このあいだは渋くてスマート、今度は若くてキュート・・」
「けほんっソクさん、スヒョク君も案外耳がいいそうですね」
「おっと・・」
ソクさんはあわててあたりを見回してから
スヒョクさんがそばにいないのを確かめてボトルに手を伸ばした

「愉快なバーテンダーさんだね」
「そうなんだ」
「それにこのお店もすっごくいい感じだね。
ホストクラブってもっと派手なとこ想像してたんだけど」
「ありがとう」
「ねえねえ、あの人なんかめっちゃイケてる。
スーツ着て指パチパチ鳴らしてる人・・かっこいいよねえ」
「ソヌさんて言うんだ。フロアーマネージャーも兼ねてる」
「ソヌさんかあ・・マネージャーって偉いの?」
「そうだね、ソヌさんはみんなに一目置かれてる」
「だろうね、めっちゃカッコいいもん」
「呼ぼうか?」
「いいよ、照れちゃうもん」

そんな話をしているうちに水割りが出来上がり
ソクさんはそれを僕たちの目の前に出すと
さりげなくカウンターの向こうへ行った
僕とファン君は軽く乾杯した

「ところでなぜ僕がここにいるって知ったの?」
「簡単だよ。調べたんだ」
「調べた?」
「そう、尾行ってやつ」
「君・・」
「うふふ、驚いた?先生、この間ここに来たでしょ」
ファン君は相変わらず笑顔を顔一杯に浮かべている

僕は水割りをすすりながら頭の中で急いでシーンを巻き戻した
先生が来た日、ここから居酒屋まで歩いた、そして店に入って・・
店員の顔、客の顔、食事・・それからタクシーを拾ってホテル・・
メインエントランス、コンシエルジェ、エレベーター、ホテルのバー
そしてまたエントランスのタクシー乗り場・・
どこだ・・どこにいた・・
どこを探しても、彼の姿は記録されていなかった

「気がつかなかったな、君がつけてたなんて」
「ふふ、僕がやったわけじゃないよ。
お金出せばやってくれる人はたくさんいるもん」
彼は上機嫌だ
人を雇った・・
そのやり方に僕の神経がかすかに逆立った

「あまりいい気持ちはしないね」
「だって仕方ないじゃん。先生ってば全然僕のこと相手にしてくれないんだもん」
「それで?」
「先生に尾行をつけたの。学校以外でどんなことしてるのかなあって」
「・・・」
「案外まじめにホテルに帰ってたんだけど、ある日違った」
「ここへ来た?」
「くくっ、そう。そしてあなたと出てきたってわけ」
僕は青年の顔をまじまじと見つめた
赤い唇は、まるで別の生き物のように軽やかに動き、
そして人を攻撃する
美しい笑顔の下にはどんな感情が流れているのだろう
そんな事を考えた僕の顔を彼はいきなり覗き込んだのだ

「ねえ、先生とどういう関係?」

僕は彼の目を見つめ返し、ゆっくりと間をおいて答えた
「友人だよ」
「正直に答えてよ」
「本当だよ、一度一緒に仕事した。それからの知り合いだ」
「それだけ?」
「それだけ」
「どんな仕事?」
「それは言えない」
「どうして?」
「君には関係ない事だ」
「それはそうだけど・・知りたいなあ」
「悪いが言えない」

僕はそっけなく答えた
どこにでも足を踏み入れようとする傍若無人な若者・・
誰にせよ、あの事件を話す事はできない
彼でさえすべてを知っているわけではない
僕はかすかに沸いてくる苛立ちをおさえこんで
水割りを喉の奥にほおりこんだ
そんな僕に、青年はさらに驚くことを言った

「ねえ、RRHの最上階に住むってどんな気分?やっぱり最高?」
「君・・」
「ふふ、あなたのお宅も調べちゃった」
「なぜ?」
「先生のホテルと大学、そのちょうど中間地点にRRHがあるんだ。
これってどう思う?」
「どうって?」
「先生は仕事帰りにいつでも寄れるってわけ」
「先生が家にきたことはないよ」
「ふうん、今までなくても、これからはどうなの?あるかもでしょ?」
「君っ」
少し声を荒げた僕に
彼は相変わらず笑みをうかべ、グラスの氷をカラカラと振った
「おかわりもらおうかなぁ」

その言葉が終わるか終わらないうちに
耳のいいソクさんが風のようにやってきて、にっこりと彼に笑った
「はい、かしこまりました。水割りおかわりっ!」
「ソクさん、僕もお願いします」
僕も残っていた酒を飲み干してグラスをカウンターに置いた

ソクさんがおかわりを作っている姿を見ながら僕は彼に言った
「さっき言ったとおり僕と先生の仲は単なる友人だ。
それと、先生が君の誘いに乗らないのは君が学生だからだと思う。
その辺のことはわきまえた方がいい」
「じゃあ学生じゃないあなたとならいいの?ミン・ギョンビンさん?」
「もう一度言おう、僕と先生は単なる友人だ」
「じゃあ先生はどうしてソウルの大学まで来たの?
あなたを追いかけて来たんじゃないの?」
「僕を追いかけて来たわけじゃない。偶然だよ」
「そうかなぁ・・」

「先生ならたぶん色々なオファーがあったはずだ。
それでもあの学校を選んだわけだから、先生なりの理由があったはずだ」
「だから、それがあなたじゃないの?」
「違う。とにかく、先生や僕を尾行するのはやめてほしい」
「はい、もうしません。知りたいことはわかったからね。
あなたがRRHの最上階で同棲中だとか」
「君・・」

「はい、おかわりで~す」
ソクさんがタイミングよく水割りを僕らの前に出した
そして僕の顔をちらっと見た
小さく微笑みながら首をかすかに横に振っていた
Easy, easy・・と小さく唇を動かしながら
おかげで僕は小さい深呼吸をすることができた

薔薇の花の君はおかわりのグラスを持ち上げると
ウインクしながら酒をあおった
水割りが彼の白く細い喉を通って
メッシュが光る胸に落ちていくのを眺めながら
棘をむき出しにしている美しい生き物を見つめた

僕らはしばらく黙ったまま、ただ水割りを飲んだ

「ねえ、ひとつだけお願いしていい?」
「え?」
「お願い聞いてくれる?」
「どんなお願いか、聞いてみないと答えられないな」
「もう先生と会わないで」

僕の神経がまた逆立った
「先生とは何でもないんでしょ、だったら・・」
「悪いけどそんな約束はできない」
「どうして?」
「友人に会う会わないは僕の勝手だ」
「だってあなたにはいい人がいるんでしょ。だったらいいじゃん」
「・・・」
「その人、先生のことは知ってる?それとも秘密にしてるの?」

僕の中で何かがはじけそうになった
突き上げてくる衝動を
グラスを握りしめかろうじってこらえた
その時、思いがけない懐かしい香りが僕を包んだ

「こんばんは」

僕とファン君の間にすっと入ってきた影は彼だった


千の想い 186   ぴかろん

*****

コンロの前にいるヨンナムさんを後ろから抱きしめようとした

「うわっ!危ない!」

ヨンナムさんは驚いた顔で俺を見た

「やめろよイナ!熱湯被るとこだったじゃないか!」

きつい口調で俺を叱った

「…手伝おうかと思って…」
「声かけてよ!調理中って危ないんだぞ!」
「…ごめん…」

しゅんとした俺をチラリと見てヨンナムさんは、しょうがないな、じゃ、お湯が沸いたら麺を入れて、僕は野菜の用意するからと言い俺にラーメンの袋を押し付けた
俺は麺を入れた鍋の前で所在無くぼぉっとしていた
彼はあらゆる方向から手を出して、もやしだのコーンだの調味料だのを入れ、食器棚から小鉢やチョッカラクやスッカラクを出し、あと一分で出来上がるからと言ってパタパタと居間に走って行き、すぐに戻ってきて、二人前だけど足りるよね?そんなに食べちゃ胃にも悪いしさ、あと三十秒だ、秒読みしろよイナと一人でくっ喋った
その横顔を見て思った

こんな人、知らない…

じわりと涙が滲んできた
なぜだかわからなかった

「よし!火を止めて!イナ、僕の後に続け、小走りだ!鍋を落とすなよ、いいな!ゴー」

言われるままに鍋を持ってヨンナムさんの後についていった
居間のテーブルの鍋敷きの上に鍋を置くと、素早く食べないと麺が伸びますからいただきましょうっ!いただきます!と、ヨンナムさんが勢いよく言って、ソクとスヒョクとヨンナムさんの三人が同時にチョッカラクを鍋の中につっ込んだ
数本の麺をすくって小鉢にとりフーフーした後、お約束のようにソクがスヒョクにあーん…とやっている
ヨンナムさんはズルズルと自分の分を食っている
俺も…食おう…
そう思って鍋に手を伸ばした

「ほら、もやしも食え」

ヨンナムさんが俺の口元にもやしと麺を持ってきた

「自分で食うよ」
「なんだよ。取ってやったのに」

そう言ってヨンナムさんはすぐにその麺を自分の口の中に入れた
…もうちょっと粘れよな…つまんねぇの…
あっちはラーメン食うにも『濃厚』な雰囲気醸し出してるのによ…

「あ…スヒョク…ここんとこにおつゆが…れろれろぉぉ」
「やめてください!自分で食べます!ふーふーしないでください!俺はアツアツをズズズっといきたいんです!」
「アツアツをちゅるるんしゅるの?くふ…ああんスヒョクぅぅ」
「いい加減にしてください!『口だけ』返上して『口ばっかし怪人』になるんですか?!」
「あああんスヒョクぅぅつめたぁぁい…ケヒっ」

そんな…ばかっぷるなソクとスヒョクを…俺はとても羨ましいと思った

「ほら…」

ヨンナムさんがまた俺の口元に麺を持ってきた
それはなんというか…『恋人同士』の食べさせあいっことは程遠い…、まるでエサを貰ってるみたいな…
俺は小鳥の『イナ』になったような気分だった

「…いいって…自分で食うから…」
「そういいながら全然食ってないじゃないか。どうしたのさ」
「…どうしたのって…」

アンタがなんだかよそよそしいからじゃねぇか!
俺は心の中で怒鳴った

「ほぉら、あ~ん」
「…」
「あ~ん!」
「…あ…」

口を開けた
冷めた麺が口に入った
味が解らなかった
なんで?
…決めたのになんで俺は味が解らなくなるのだろう…

チョッカラクを持ち直し、俺は鍋から麺をすくって食った
ヨンナムさんに食べさせるなんて『甘い』ことはしなかった

「早く食べて上にネンネしに行こうよぉスヒョクぅぅ」
「いやです!」
「いや?なんで?」
「俺、ここで寝る」
「「えっ?」」

ソクと俺は同時に声を上げた

「みんなで雑魚寝しませんか?前にしたみたいに…」

スヒョクは俺達の顔を見渡してそう言った

「ちょっと待ってよぉ…そんなぁ…今夜こそ頑張ろうと思ったのにぃ…。んでも…待てよ…という事は…あれがああでこうなってこうで…。よし!スヒョク、そうしよう!居間で4人で雑魚寝としよう!」
「…なんだよソク…お前、スヒョクといちゃつきたいんだろ?」
「あはん、どこでだっていちゃつけるもん。それよりさ、ヨンナムさんーイナー僕―スヒョクと並んで寝たらさ、僕とお前って『両手に花』だぞぉケヒっ」
「…何を馬鹿な事言ってるんだよお前は!」
「ソクさん、4人で寝るならこの間みたいに並びましょう、それが健全な眠りを得る方法かと思います」
「そうですよソクさん。貴方の言うような並び方で眠ったら…。…。いけない…。清純派の俺には耐えられない…」
「え?何で何で?」
「…しゅちにくりんになるかもしれないから…」
「いっ。やぁぁぁぁんっ。スヒョクったらぁぁぁ。そぉんな言葉、口にするようになったでしゅかぁっケヒッ」

「…おいスヒョク」
「はいイナさん、なんですか?」
「この『口だけ野郎』さ、相当酔っ払ってるのか?」
「…」
「二階に連れてってやれよ。お前と二人になりたいんだぜ、こいつ」
「いやですよ、こんなヘロヘロの怪人…」
「ヨンナムさん、布団敷きましょう!さささ!」
「そうですねソクさん、じゃ、片付けて布団運びましょう!」

この手の顔は勝手にコトを進める
俺の気持ちになんか気付かない
ソクもスヒョクも食べ終わった食器を片付けたり机を部屋の外に出したり布団を運んだり、楽しそうに雑魚寝の用意をしている
ふらりと立ち上がった俺に、ソクが声をかける

「イナ、どこ行くの」
「…トイレ…」
「そ。いっトイレ」
「…ふ…」

まったく…この手の顔は、ほざくジョークも同じだ…
何かがずれている…俺は廊下を歩きながらそう思った
なんだか変だ…
洗面所を出て居間に戻ろうとしたのに足が動かなくなった

何で急にそんな…『大人』になったのさ…貴方は…

昨日過ごした部屋の前に行き、その扉に触れた
この中に貴方が居て、寂しそうに泣いていたのは、つい最近だったろ?
この部屋で俺に縋りついて甘えてたの…昨日じゃなかったっけ?

すぐ隣の部屋で、三人がはしゃいでいる

…そう並ぶとアブナいから…だから僕とイナは端と端でいいんですよ…でもそれじゃイナがしゃびしいとか言いませんか?…だから僕の横にイナを…だめですソクさん!…ああんスヒョクぅぅ…だから僕とイナは両端に…

…そんなに…俺を遠ざけたい?何があったのさ…なんなのさ…
昨日の夜で、イヤになっちゃった?

わけが解らなくなって涙が溢れてきた
その時、居間から笑顔のヨンナムさんが顔を覗かせた
目が合った
ヨンナムさんの笑顔が消えた
俺はヨンナムさんの部屋へ逃げ込んだ…

*****

イナを意識してしまう
イナを…テジュンに返さなくてはと…
普通を装っているつもりでも、敏感なイナは僕の変化を感じ取っている
居間でソクさんやスヒョク君とふざけながら布団の用意をしていた時、ソクさんが急に真顔で僕に囁いた

「下手だなぁヨンナムさんは…」
「…え…」
「ちゃんと話してからにしなさいよ、そういう振舞いは…」
「…」
「突然じゃ戸惑うでしょ?誰だって」
「…でも僕…」
「ゆっくりと…。でないと貴方の気持ちだって整理がつかないと思うよ。あいつだって混乱して変な答え出す」
「だって…」

テジュンのとこに戻してやらなきゃ…
でなきゃ僕はまた…

そんな気持ちをどう伝えればいいのか躊躇っていた時、スヒョク君が口を開いた

「…ヨンナムさん…イナさんはヨンナムさんと生きて行くつもりだって言ってました。多分自分の気持ちはなんとなく解ってるはずなんです、あの人…」
「スヒョク君…」
「…でも…誤魔化してると思います…なんとかしてあげてください…」
「徐々に…ね?ヨンナムさん。イナが貴方を解したように、今度は貴方がイナを…ね?」

ソクさんとスヒョク君に静かに言われて、僕は微笑みながら廊下を覗いてみた
僕の部屋の前でぼんやりと突っ立っているイナを見つけた
泣いているような気がした
僕はイナの方へ行きかけた
イナは僕の部屋にスルリと入って行ってしまった…


千の想い  187 ぴかろん

追いかけていいのだろうか
僕の部屋に二人、閉じこもってしまっていいのだろうか
『今度は貴方がイナを…』
僕にそんなことできるの?

扉の前でかなり躊躇った
ちゃんと話をしなければいけない…
でもどうやって?
迷いながら扉を叩いた
開けてくれと声をかけた
扉は開かない
無理に開けようとしても開かない
僕は段々ムキになってきた

「開けろよ!僕の部屋で何してるんだよ!勝手に閉じこもるなよ!開けろよイナ!」

扉を叩きながら中のイナに向かって言った
カチャリと音がして、扉が自由になった
僕は部屋の中に入り、俯いたイナの背中を見た

どうしよう…きっと泣いているんだ…
抱きしめてやってもいいのかな…
でも…でも…

「…もう…いらなくなったの?」

涙に震える声がした

「…期待通りじゃなかった?俺じゃ…だめなの?…傍にいて欲しいってあれ、嘘?」
「…イナ…」

たまらず僕はイナを後ろから抱きしめた
その途端、イナはしゃくりあげて泣き出した

「なんなのさ!傍にいるって解ったら邪険にするのかよ!…それじゃ一緒じゃんか!アイツと…一緒じゃねぇか…」

抱きしめる腕に力を込めた

だってイナ…お前はその『アイツ』が好きなんだろ?
『アイツ』のところへ戻りたいくせに…バカ…

イナの後ろ頭に額を擦り付けると、イナは身を翻して僕に抱きつき、ひっくひっくと泣き続けた
ソクさん…僕は…こんなイナに会うとまた…

「泣かないで…ごめんねイナ…ごめん…」

ゆっくりと…僕の気持ちをお前に伝えなければ…

「傍にいてほしいって嘘なのかよ!俺なんか要らないのかよっ!」
「違うよ、嘘じゃない…イナ…」
「嘘だ!嘘だもん!」
「イナ…僕は…」
「ヨンナムさん、俺、俺、貴方と一緒に生きていこうって決めたのに…、一緒に楽しいことして…あったかい気持ちで…一緒に…ずっと一緒に…」
「…」

こんなイナに会うと僕の理性が飛んでしまう…
イナの涙を指で拭い、頬を包み込む
こんな事してちゃ…僕はイナから離れられなくなってしまう…
イナの濡れた瞳を、薄く開かれた唇を、見つめる
こんな事…しちゃ…いけない…
僕はイナにくちづける
イナの腕が僕の体に巻きつく
甘く切なく疼く僕の体
それはキスのせいだ
薄暗い部屋のせいだ
僕の本心は…イナ…

「…好きだよ…イナ…」
「俺も…貴方が好き…」

今日だけ…今夜だけ…もう一日だけ…この唇を僕に与えて…
僕はイナを抱きしめて唇を貪った

*****

「何か聞こえる?」
「うん。キスしてる…」
「いいの?また逆戻りしちゃわない?」
「大丈夫。ヨンナムさんは気付いたから…」
「でもその気持ちが間違いだったって言い出したら」
「そんな事はしないしさせない」
「…」
「大丈夫」
「でも…イナさん…」
「大丈夫だよ…イナも薄々気付いてるんだからさ。それより、こんなに離れてちゃ僕眠れないんだけど…」
「…」
「ねぇスヒョクぅ」
「難しいね…気持ちって…」
「…行きつ戻りつしながら目的に到達すればいいと思うけどな、僕は」
「テジュンさん、どうしてるかな…」
「アイツは…いいよ」
「いいって…」
「ちっといい思いしたんだから少々寂しくたって大丈夫」
「…いい思いって…ラブ?」
「そーそー」
「…ほんとにヤっちゃったのかな…」
「ヤっちゃってるでしょ」
「…ギョンジン、知ってるのかな…」
「うーん、あれは究極のえむ体質だからなぁ、知ってると思うよ」
「…それでもあんなに仲がいい?」
「うん、えむ体質だけど、何が一番大切なのかって解ってるんだろうね、あの色男は」
「…色気小僧は?」
「色男に教育されたんじゃない?ジワジワと…」
「…」
「いろんな方法があるね、人を元気付けるのってさ」
「…うん…」
「で、僕、そっちに行ってもいいかな?」
「俺がそっちに行きます」
「え…」

ガサゴソガサ…

「あーやっぱくっつくとあったかーい♪」
「きゅううん…」
「ん?ソクさん、なんか言いました?」
「きゅううん…かわいい…」
「俺、可愛いですか?」
「とぉぉぉっても!」
「ソクさんも可愛いですよ」
「え…」
「くふふ。おやすみなさーい」
「あ…ぉん…おやすみ…」
「…」
「…」
「んもぉっ!おやすみのキスぐらいしてくださいよっ!」
「…え…」
「ほんっと『口ばっかし』なんだから!」
「…あ…お…」
「祭ン時はあんなガンガンだったのに…」
「…う…い…」
「他の人の事は解るくせに、俺の気持ちは解んないのかな」
「…らって…」
「なによ」
「…大事にしたいから…」
「じゃ俺は『箱入り恋人』ですか?!」
「え?」
「後生大事に箱にしまって手も触れずに腐らせてしまう…」
「え?え?」
「たまには箱から取り出して新鮮な空気吸わせてくださいよね」
「…え…」
「…んもおおお、なんでソクさんは俺に関してはそんなに純情なんですかっ!」
「…」
「そういうトコ、大好きなんですけどね…」
「…あぉ…ん…」

僕は、この頃僕に揺さぶりをかけてくる『清純派スヒョク』にフラフラになっているようだ
スヒョクはにっこりと微笑んで、それから僕にキスをした
僕はおずおずとスヒョクを抱き寄せ、僕を翻弄するその舌に軽く噛み付いた

*****

ヨンナムさんの部屋で長いキスをして、居間に戻った
ソクとスヒョクは窓際の布団でがっつり抱き合って眠っている
いや、狸寝入りかもしれないけどな…

ヨンナムさんは端から二番目の布団に入り、俺は扉に一番近い布団に潜り込んだ
ヨンナムさんが手を伸ばしてきた
俺はその手を掴んだ
ヨンナムさんを見ると、彼も俺を見つめていた
俺達は微笑んで、繋いだ手をニギニギと動かした
クスクスと笑う
ソクたちに気付かれないように
親指でそっと彼の手を撫でる
ヨンナムさんがフッと笑う
それを口元に持ってきて、俺はヨンナムさんの手の甲にキスをする
ヨンナムさんが俺を見る
彼の親指を握り、爪を撫でる
ヨンナムさんは俺を見つめている
彼の親指の爪を軽く噛む
ヨンナムさんは顔を顰める
俺は彼を見つめながらその親指を口に含む
ヨンナムさんはその手をグイっと引き、俺はその手を離した
こんなのは…イヤなんだっけ…
胸がチクリと痛んだ

諦めて仰向けになろうとした時、ヨンナムさんが自分の布団を少し上げた
彼を見るとかすかに頷いた
こっちへ来いと言っているのか?
俺は戸惑った
彼は微笑んで今度ははっきりと頷いた
俺は躊躇った
彼は目を閉じてウンウンウンと頷き、パッと目を開けた
俺はスルスルと自分の布団から彼の布団に移動した
ヨンナムさんは俺を抱きしめてくれた…

ヨンナムさんの胸に頭を埋め、ヨンナムさんの腕に守られている
俺は幸せなはずだ
なのに鼻の奥がツンとなる

スヨンがいなくなった
ヨンナムさんの中にいたスヨンが見えなくなった

そっと顔を上げてヨンナムさんを見つめた

「ん?なぁに?」
「…なんで…今日は俺に甘えないの?」
「ん?…今日はお前が甘える番かなって…」
「…いつものヨンナムさんじゃないみたいだ…」
「…そう?でも普段の僕はこんなだよ」
「…」
「こんな僕はイヤか?」
「…イヤじゃないけどさ…なんか…」
「なんか…なんだよ」
「…ううん…」

イヤじゃないけど…こんな風にするのなら…この人でなくても…

「はぁ…」
「なんだよイナ」

次から次へとそぐわない気持ちが浮き上がってくる
俺はもう一度ヨンナムさんの顔を見つめた

「どうしたの?」

問いかける『青年』の頬に触れる
そっと指で『青年』の顔をなぞる
『青年』はうふふと笑って俺の指の感触を楽しんでいる
眉をなぞり、額をなぞり、鼻をなぞる
『青年』は瞼を閉じる
俺はその瞼と長い睫毛に触れる

テジュンそっくり…

じわりと涙が溢れてきた
唇に滑らせた指を『青年』が噛む

そんな…テジュンみたいなこと…しないでよ…

指を抜き取ってヨンナムさんの胸に縋った



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