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ぴかろんの日常
リレー企画 245
街のいろ あしばんさん
天気がとてもよくて
人と車がとめどなく流れる街なかを歩いていても気持ちがいい
どこまでも続くビルのラインに切り取られた細長い空が
蒼いシルクスクリーンのように貼り付いてる
どこかの公園でスヒョンもこの空を見てるんだろうか
んや…見てやしないかな…空なんて
ギョンビンのやつと別れてちっとぶらついた
歌のレッスンの後はモーレツに腹が減るんで茶に誘ったのに
やつはご用があるとかで帰って行った
何となく元気がなかったのが気にかかって
昨日のデハーな唇ぷるりん坊やのことだろうかとも勘ぐってみたんだけれど
聞いたところで簡単に口を割るやつじゃないし
…
さっきあいつにジャレてやろうとした時にふと香ったのは香水だろうか
何となくインプットしてしまったのは
最近どっかで嗅いだような気がしたからかな
んなことをつらつら考えて歩いてたんだけど
謎の香りの記憶はいきなり漂ってきたうまそうなパンの匂いにかき消された
大通り添いのベーカリーカフェのウィンドウには
パンでできた小さな人形たちが賑やかに飾られていた
ほわほわの白い綿や粉砂糖の中で
天使が子供たちにプレゼントの小さなパンを配ってる
子供たちの丸い目とぷくりと膨らんだほっぺ
周りに散りばめられてる木の実や
ミニチュアのフランスパンやクリームパン
天使に差し出されたたくさんの小さな手がかわいくて
天使の顔が優しくて
また…casaに…行きたいな…
昨日のイナさんのパンうまかったな…すごく…
僕は窓に額をくっつけて
ずいぶん長いことその小さな世界に漂ってたような気がする
「なーにカブりついてんの?」
背後からの声に驚いて振り返るとラブ君とギョンジン兄貴が立ってた
「きゃはははっドンジュンさん何その顔!」
「何よ」
「ウィンドウの模様がおデコに刻印されてる~!か~わい~!」
「げ…」
ガラスに映して目をこらして見ると
装飾用のシールの模様「♪」がデコにくっきりと残ってた
散々キュートだのこれはBHCのお客様にウケるかもだの言われて
腹が減ってるからからかうと噛みつくぞと唸ると
そんじゃそのカフェでお茶でもしようと誘ってくれた
「こいつの奢りでいいからさ」
「えっいいの?」
「いいの、こいつ昨日俺を放って外泊したから」
「ひぃんっそんなっ!ミンギ君が来て僕は涙と共にひとりダーリンちを後にしてっ
それにあの外泊は言わば人命救助というか同胞救助というか人類愛…」
「そか、じゃご馳走になろっと」
「ひぃんっドンジュン君もちゃんと聞いてますかぁぁっ?」
よくわかんないけど苦し嬉しそうに言い訳をしてるギョンジン兄貴の奢りってことで
僕は初めてゆっくりこのふたりとの時間を持つことになった
陽射しが暖かい窓側の席
ラブ君にパンをあーんと食べさせたがってる兄貴と
完全に無視しながらもそんなに嫌そうじゃないラブ君を見てると幸せな気分になる
それでもそのふたりにうっかり自分とエクセレントジジィを重ねたちった時は
窓の外に視線を放ったりもするわけで微妙にブルーではあるんだけど
「車の仕事の方は順調?」
「うん、まだ難問山積だけどね」
「ジュノ君も世話になるんだってね」
「うん、あいつかわいい顔しててけっこう仕事できんのよ」
「俺も頑張んなくちゃなぁ」
「ハニー♪ハニー♪頑張るって何を~?」
「マジでガンバンなくちゃなんないのはア、ン、タ、」
「はうぅぅ…ぐしん…」
ひとしきり世間話をした後
僕はかなり迷った末に例の叔父さんの話をラブ君に切り出した
僕の構想を進めるためには筆頭株主のパクさんを何とか攻略しなくちゃなんない
パクさんの弟であるラブ君のお父さんから話を通してもらいたいけど
ただ、ラブ君とお父さんがあまりいい関係じゃないってのは知ってたから
彼に相談していいものかと思案してはいた
案の定それまで涼しげだった彼の目にすっと影がよぎった
「ごめん…こんなとこでついでみたいに話すのは反則だよね」
「ううん…いいけど…」
「ちっと何とか話繋げたくて」
「わかってるよ」
頬づえをついて小指の爪を小さく噛んでるラブ君は窓枠の光を凝視していて
少し不機嫌そうにも見える
「ごめん…コネなんてホントは…」
「コネをうまく使うのも才能のうちだよ」
思いがけずギョンジン兄貴の落ち着いた声が響いて驚いた
「どんな書類もどんな感情もコントロールしてこそ一流のビジネスマン、何の問題もない」
「あ…うん…」
「ね、そうだよね、ダーリン、ビジネスの話だものね」
「…」
「あんと…あの…でもまだ他の方法もあるかもだし」
「いいよ」
「え?」
「いいよ…親父に話通してみても」
「でも」
「叔父さんは親父が唯一信用してる人間だし、嫌な顔はしないと思う」
「そうなの?」
「うん…まぁちょっと猶予ちょうだい…あの人忙しい人だから」
「もちろんだけど…」
「ドンジュンさんの頼みだから」
「え…あ…サンキュ…」
「はい商談成立!ほれドンジュン君もサンドイッチ干涸びるよ!ダーリンも珈琲冷めるよぉ
あちゅいのかな?僕が口うつしであげようか?ん?ん?」
「うっさいな、帰っていいよあんた」
「やーんもうっ♪いっつもこうなのよドンジュン君~」
「文句あんなら他行けば」
「他ってどこよっ他ってぇイナはもうジジィんとこだしぃ…ぎゃあっ痛いぃん♪」
「ふんっ」
「え…あの…どのジジィ?まさかヨンナ…」
「そのジジィじゃないわよ、元祖ジジィよっ」
「テジュンさん?」
「ビンゴ」
「え…そうなの?ラブ君」
「うん、まぁ…何とか元に戻ったみたい」
「そう…」
「まったくあのドエロジジィのどこがいいのかって思…うぎゃっ痛いわよダーリン~♪」
「とにかくそういうことらしいよ」
「そか…よかった…イナさん見てるの辛かったし…」
「…うん…そうね…」
「よかった…スヒョンも気にしてたから」
何となく遠くを見てるようだったラブ君は
スヒョンの名を出した途端に僕をじっと見た
「ドンジュンさんの方は?」
「何?僕の何?」
「スヒョンさん昨日けっこう疲れてたみたいじゃない」
「ああ…うん…もう慣れないことばかりらしい」
「そ…大変そうだね」
「まぁ初日からあれじゃ思いやられるよね、うはは」
頬づえでじっと見るラブ君の視線が何かを読みとろうとするように動かない
「まぁ何とか無事にいいものができればと思ってるんだけど」
「ふぅん…ほんとに?」
「ほんとだよ」
「変なの」
「何がさ」
「何でもない」
「…」
「…」
「ちっとヤな感じ…言ってよ」
「我慢してるんじゃないの?」
「何の…」
「スヒョンさんのことに決まってるじゃない」
兄貴はまったく知らんぷりしてゆっくりと珈琲を飲んでる
「そりゃ…」
「何だか我慢が見えちゃって辛いんだよね…周りが」
「ごめん…気をつけてるんだけど…」
「気をつけたって意味ないよ、みんな知ってるんだから」
「わかってるけど…」
「もっとオープンになればいいのに」
「前に…イナさんにも言われたよ」
「スヒョンさんとミンチョルさんは…」
「ラブ君、あのふたりのことは言わないでよ」
「何よそれ」
「あのふたりは…うまく説明できないけど…簡単じゃないんだ…」
「へぇ…庇うの」
「そんなんじゃない」
「じゃ何?」
「ミンチョルさんだって…あの人めちゃくちゃ表に出すのが苦手だけど…
ちゃんと…このことを大事に考えてるってわかったんだ…ちゃんと聞いたんだ」
「…」
「僕とギョンビンとスヒョンの前でちゃんと言葉を尽くして話してくれた…あのミンチョルさんがだよ」
弟の名前が出てギョンジン兄貴はゆっくりとカップを置いた
僕は顔を上げ、真っ直ぐラブ君の目を見た
「だから僕はもう見てるしかないって決めたし、ギョンビンだってきっとそう」
「…」
「僕だって感情あるから、これ以上だめだってわかったらスッパリさよならする
だから我慢じゃない…今できることをやらずに後悔したくないだけだもん」
「…」
「みんなには…悪いと思ってるけど…そういうことなんだ」
「何か…そういうのってわかんない…」
「うまく説明できないけど…」
「説明つかなくても…進まなくちゃいけないこともあるよね…自分と相手のために」
またふと口を挟んだギョンジン兄貴の声がとても柔らかく聞こえ
ラブ君は小さなため息をついて黙り込んだ
窓からの陽射しでできた兄貴の横顔の深い陰影は
何だかんだ言いながらこの人もいろんなことを考えてる人なんだと感じさせる
「ばかみたい…もっと嫌なやつになればいいのに」
「わかってるけど…」
「よい子ばかりだ…ドンジュンさんもギョンビンも…イナさんも…」
「ラブ君だっていいやつじゃない」
「どこが」
「こんなに好きになってくれる人がいるじゃない」
「…」
「はっ…えっ?僕?僕よね?や~んいきなり振られてビックリするじゃない
そうなの!もう骨まで愛してるのよっキャッ何言わせるのっもっと言っていい?」
「ふん…」
ふんと言いながらもちょっと眩しいみたいに微笑んだラブ君は
いきなり腕を伸ばして僕のデコを人差し指でぐりぐりと押した
「似合うなぁその音符」
「む…まだ消えてない?」
「俺そういうのが似合うドンジュンさん好きだよ」
「へへ」
「ほんと」
「僕もそういうラブ君好きだよ」
「きゃ~!何コクり合ってるのっちょっとちょっと!」
それは素晴らしく晴れた日の午後のこと
ジンとヒョンジュが
くちづけを交わしている頃のできごとだった
撮影ー花の記憶 足バンさん
ようやく上げられたミンチョルの瞳は濡れ
その視線は僕の目の奥を漂う
忘れた時間の中に何かを見つけようとするかのように
僕は腕を伸ばし、親指でひとすじこぼれた左目の涙を拭う
そのまま頬に触れ続けていると
彼の唇が僅かに開いた
その人たちは、屋外からスタジオに移動した後の遅い午後
カウンセリングルームシーンの準備中に訪れた
スタジオの隅に目を留めたシン監督の目が見開き
顔をほころばせながらそちらに向かって走り出す
そこにはひとりの女性と、14~5歳の少年が立っていた
「ダディ!」
そう言いながらシン監督の腕に飛び込んだ少年に僕たちはぎょっとした
監督のお子さんはもう成人した息子さんだと聞いていたから
「彼らはあの…W.T.C.で亡くなったユウジのご家族よ」
横にいたユン女史のひと言で
僕もミンチョルもジホ君までもが思わず「ああ…」と合点した
N.Y.から到着してこのスタジオに直行したということだった
「驚いたなぁ…急に!」
「ナイショにしていてすみません、この子が驚かしたいって言って」
「でもどーしても野球の試合が休めなくてクランクインには間に合わなかったんだ」
「おっ?勝ったか?」
「Of course !」
シン監督はニコニコ顔で僕たちにふたりを紹介したのだが
彼女の名がジェヨンさんだと知って再び驚いた
「そう、ソニのお母さんの名前は彼女からいただいたんだ、経歴もそっくりだよ」
彼女は少し照れくさそうに笑った
「日系のユウジとの結婚には確かに難しいこともありましたけれど
私は幸い元気だし、息子はひとりぼっちじゃありません」
想像もできない哀しみを経験しているであろう彼女の聡明そうな目は
どこかあのウンスさんを思い出させる
十数年後、彼女もこうして笑っていてくれるだろうかと
屈託なく笑う少年を見ながらそんなことを考えていた
「ダディどう?このスタジャン似合う?」
「おおっオフコースだ!」
シン監督のそんな優しい表情を見たのは初めてだった
その様子を少し離れて見ながら彼女はつぶやいた
「監督は毎年息子にクリスマスプレゼントを贈ってくれるんです」
「いい”お父さん”ですね」
「小さい時から家族ぐるみでおつき合いしてましたが…いつの頃からかダディって呼ばせていただいて…
監督の息子さんを本当のお兄さんのように慕っているんですよ」
ミンチョルは彼女の話を聞きながら
監督と少年の楽しそうな姿をぼんやりと見ている
「本当に彼にはお世話になりました…彼自身も辛かったのに」
「…」
「でも想いを分かち合える人たちがいて救われました…失ったものは大きいですが
得たものも決して小さなものではありません」
ジェヨンさんは僕とミンチョルに向き直ると、丁寧にお辞儀をした
「監督は…素晴らしい方たちをキャスティングできたととても喜んでいました
どうかよろしくお願いします…このひと言をお伝えしたかったんです」
ジェヨンさんの穏やかな感謝の気持ちが伝わる
ぼんやりとしたままだったミンチョルは
僕が彼女と握手したのにつられるように握手を交わして
台本を確認して来ると言って中座を詫び控え室に向かった
どれほど経っただろうか
そろそろ撮影準備が整いそうだという声を耳にして
ミンチョルの様子を見に行くことにした
僕が見てきましょうチーフ!と立ち上がったチョンマンはジホ君に引っ張られた
「その前に話があーる!何ださっきのエキストラの出来はぁ」
「ちゃんとOK出たじゃないですか!」
「だめだめっ歩き方に人生が感じられない」
「ちゃんと先輩監督に苛められてる悲劇の青年を演じましたっ!」
騒がしい会話の中でジホ君は僕に目配せをし
僕はその場から抜けた
控え室の鏡前のカウンターに腰を掛け俯いていたミンチョルは
僕の顔を見てちょっと笑顔を作ってみせる
”確認”に必要なはずの台本は向こうの椅子の上にぞんざいに置かれていた
「どうしたの?」
「うん?…いや…別に…」
「どうってことないって顔じゃないけど?」
「…」
「ん?」
「ちょっと…昔のことを…思い出してただけだ…」
僕からの次の質問を待っているかのような目だったが
長い沈黙に観念したように息を吐いた
「監督たちの…ああいう関係もあるんだなと…思った…」
「…うん」
「クリスマスプレゼント…」
「ん?」
「子供の頃の話だ」
「縁がなかったとか?」
「いや…そうじゃない…そうじゃなくて…」
ミンチョルは小さなため息をつき少し唇を噛んで目を伏せた
「なぜこんなことを思い出したんだろう…」
「ヒョンジュのせい?」
「そうじゃない…いや…わからないけど…」
「僕にできること、ある?」
「いや…」
「あるでしょ?」
「…」
心細そうな目を向けるあいつに僕はいつもの笑顔を見せた
天使といわれてきた笑顔
「あるでしょ?」
「…」
「…」
「…悪い…少しだけ…このままじゃこの後…」
「わかってるよ」
視線を合わせたままゆっくりと近づき抱き寄せてやると
あいつは僕の肩に頭を預け、静かに息を吐いた
背中に回された指は控え目にシャツを掴む
こんな風にひとの心を読んだのはどれくらいぶりだろうか
クリスマスの大きな包みを拒絶する幼い反抗心
握りしめた妹の小さな手
背中に突き刺さる男の声
広い庭に積もり始めた雪と灰色の空
そして
唐突に横切る別の顔…孤独な日々…花…詩集…?
僕はその時初めてはっきりと感じた
やはりミンチョルは自分の過去とヒョンジュの砂漠を
コンフューズさせてしまっている
鏡の中のあいつの後ろ姿を見つめながら
その背中をゆっくりとさすってやる
しがみつくように僕の肩に顔を埋めるあいつに囁いてやる
大丈夫…大丈夫…
もう遠く過ぎたことだから…
もうおまえを傷つける者はいないから…
「オッケ~イ!よし、じゃあ次行こう!次~!」
ヒョンジュが昔住んでいた家には大きな桜の樹があったんだ
君の記憶はジンの話からその風景に繋がる
小さな自分が見上げる美しい桜
そして君を抱き上げる大きな手
束の間の父親との暖かいひとときだ
わかるね?
思わず涙が零れるんだ
おい、目薬の準備…うん一応頼むわ
ええとここまでで…こほっ…今日キスシーンまで行っちゃおうか!
目を閉じてシーンの説明を聞いていたあいつは
特に目立った反応は見せずただひと言「はい」とだけ言った
アクションがかかる前から
ミンチョルの表情はすでに演技に向かったもののようには見えなかった
もう大丈夫だと言って
スタジオへと向かったあいつの背中を思い出す
「…僕は嫌で嫌で…家を飛び出してね…大きな桜の樹に登ってやったんだ」
椅子に深く腰掛けて目の前の僕の声に耳を傾け
静かに落とされる視線
その先には床に刻まれた小さな傷がある
「大人たちが焦って自分を捜すのをずっと…夢のように美しい花の海の中で見てたんだよ…
本当に…とても美しかった」
ようやく上げられたヒョンジュの瞳は濡れ
その視線は僕の目の奥を漂う
忘れた時間の中に何かを見つけようとするかのように
自分でそれとは気づかずに
全てを諦めながらも父の愛情を求めていたであろうヒョンジュ
そしてそれは僕の想いそのものでもあって
同じように父に耐えた日々
父に暗い反発を感じながらも平気な顔をして生きてきた
それが自分の価値感を絶対だと言い切る父への精一杯の抵抗だった
目の前のヒョンジュを見れば深い虚しさを感じる
泣きたくなる…
自分もまた父に認められるために足掻いてきただけだ
自分をなくした彼と一体どれほどの違いがある…
僕は腕を伸ばし、親指でひとすじこぼれた左目の涙を拭う
そのまま頬に触れ続けていると
彼の唇が僅かに開いた
そこで一度入るはずのカットの声は
響いてはこなかった
例えそうされていたとしても僕には聞こえなかったかもしれない
もの音ひとつしない空気の中
僕はその潤いをたたえた眼差しだけを感じていたかった
見知らぬ遠くを見つめるその目に惹かれる
君を守ってやりたい
大丈夫…大丈夫…
もう遠く過ぎたことだから…
もう君を傷つける者はいないから…
目を閉じてそっと君の唇に触れる
一度…二度…触れる度に胸に波紋が生まれる
君は止めていた息を微かに吐き
戸惑うように開いた唇はゆっくりと僕を迎える
ああ…思い出した…そう…僕は君の夢をみたことがある
草の匂いとワインの香り
身体を走る熱いものをねじ伏せた美しい風と星の夜
ヒョンジュ…あれは…君だったの?
控え目に絡む舌は次第に深さを増し、息を忘れる
僕の中で耐えていた何かが溢れ出て
君に注がれていく
「…オ…オーケー!」
監督の声がどこか遠くで響いて僕はそっと唇を離した
ミンチョルはゆっくりと目を開け
赤味がかった唇は少し何かを言いかけたようにも見えた
「チクショウ~!オーケーだオーケー!ああ参った!やぁ参った!」
「かっ監督、キスの前にカットじゃなかったんですか?」
「あそこで切る勇気あんのかおまえ!くうう~!バッチリだったよユンさん!」
「ふふん…私を甘くみないで下さい」
カット割りの予定が違ったとかで何やら騒がしい監督たちの声をよそに
ミンチョルは下を向いて指の甲を唇に当てていた
リハーサルというものをほとんどしないシン監督の撮影は賭けに近い
その日の役者の出来によって左右され
瞬く間に進むこともあれば、何十倍もの時間を費やすこともあるが
幸いこの日は前者だったのだろう
何度か角度を変え撮られたその日最後のショットは
くちづけながら僕の袖をきゅっと掴むヒョンジュの左手のアップだった
控え室から出ようとして一度呼吸を整えた
これから僕はスヒョンに戻り店へと向かうのだと
僕はただひと仕事を終えたのだと意識する
そうやって唇の余韻を敢えて打ち消していたような気もする
ドアを開けた瞬間目に飛び込んできた艶のある髪に一瞬息をのむ
ミンチョルははっとしたように顔を上げた
「どう…したの?」
「いや…」
「もう出るんでしょ?」
「ああ…そうなんだが…言い忘れたことが」
「ん?」
「朝…公園の撮影で…」
「ん?」
「その…」
廊下を次々と通っていくスタッフたちの「お疲れさまです」という声に
僕がその度に応えているのでミンチョルは少し大きな声を出した
「その、ひとの心を読んでばかりいるといつか自分がって…」
「…ああ…うん…」
「すまない…」
「ん?」
「気にしてるとは…思わなかった」
「気にしてるわけじゃない、ちゃんと受け止めただけだ」
「そうか…それならいいけど」
「ん…」
「それから…」
少し安心したように微笑んで俯きながらもう一度唇が動く
撮影前とは違う色づいたその…
「それからその…今日はありがとう…」
睫毛の影を落とした穏やかな表情
ヒョンジュも…こんなだろうか…
もし口がきけたら
こんな風に言ってくれるのだろうか
ありがとう…ジン…
人の通りが途絶えたほんの一瞬
僕は俯いたミンチョルにくちづけた
あいつは少し驚いたように目を開き、先ほどのように指の甲を唇に当てた
「…」
「キスしたくなった」
「ス…」
「だって僕たちはもう恋人だそうだし」
「スヒョン!ひとが真剣に礼を言ってるのに」
「ふふっ冗談!さあご出勤だ」
冗談にでもしなければ
言い訳できない
僕はあいつの横をすり抜け歩き出した
ちょっと文句を言いながら後をついてくるあいつに
もうひとりの僕は安堵する
今日のあの寂しい想いを引きずってしまうんじゃないかと
気になっていたから
その夜は酷く冷えた
昼間の暖かさに背くかのように
セピアの残像 12 れいんさん
冷たい風が頬を刺し
吐く息は白く舞ってた
枯れ枝を踏みしめると、乾いた音が静寂を破る
頭の中では様々な出来事が交錯していた
それでも私は夢中で走った
このまま行かせてしまえばいいのにと
私の中で誰かが囁く
なのになぜ私は
あの人の事を追うのだろう
目にしてしまった光景が私を捉えて離さない
夫の全身から声のない声があふれ出す
そしてそれはいつまでも私の中でリフレインしている
さっきまで、あの人はあの部屋にいた
私には知る事のできない二人だけの時
それがとてつもなく長い時間に感じられた
今あの部屋でどんな会話がなされているの
絶え間なく哀しい予感に囚われて
私の胸は押し潰されそうになっていた
ふいにあの人が部屋から出て来る
切なげに歪められたその表情
静かに閉じられてゆく部屋の扉
あの人の手を取って夫が再びここを去ってしまったら・・
私が最も畏れていた事
でもあの人は去ろうとしていた
夫をそこに残したまま・・
さっきまで何を話していたの?
二人の間に何があったの?
決別したと思ったいいの?
足早に通り過ぎていく横顔をぼんやり見てた
言いしれない不安が通り過ぎて行く
あなたは今何を想っているの?
夫の事が心配で、激しく心がかき乱された
その瞬間
閉まりかけた扉の隙間に私は見た
膝を折り崩おれていくその背中を
去ってゆくあの人を追う事もせず
切れかかった細い糸を手繰りよせる事も諦めて
夫は肩を震わせ声を殺し
嵐が過ぎ去るのを待つように
静かにじっと耐えていた
気がつくと私は夢中で駆け出していた
なぜあの人を追っているのか解らなかった
ただ、あの人を引き止めなければいけないと
このまま行かせてはいけないと
そうしなければ後悔する・・
その想いが私を動かしていた
テジンさん、と聴こえた気がして振り向いた
「ホンヨンさん・・?」
「・・よかった・・間に・・合って・・」
彼女は胸のあたりを押さえ、はぁはぁと苦しげに息をきらしてた
頬には紅色がさしている
余程慌てていたのだろう
この寒空に彼女は上着も着ていない
僕は急いでコートを脱ぎ、彼女の肩にそっとかけた
ハーフサイズのそのコートは
華奢な彼女の膝の下まですっぽりと包んでいた
彼女は呼吸を整えながら、すみませんという風に瞬きした
「どうか・・しましたか?」
「・・いえあの・・もうお帰りに?」
「ええ。急いでいたものですからご挨拶もそこそこで・・失礼しました」
「そんな事はいいんです・・」
上下に波打っていた彼女の胸が次第に静かになっていく
雲の隙間から時折覗く陽光が
木々の合間を通り抜け、木漏れ日となり
薄紅色のその唇に煌いた
木漏れ日は彼女にとてもよく似合う
さらさらと流れる川のせせらぎも彼女の声に調和する
この人の心の中も、こんな風に美しく澄みきっているのだろう
だからあいつは、この人の手を離すことができなかった
僕は思う
スハは、この人と生きて行く方が
僕なんかといるよりも
幸せになれるのかもしれないと
ホンヨンさん、と僕は言う
スハの事をよろしくお願いします
・・僕が言うのも変ですが・・
それから・・
どうかあなたもお元気で
そのコート、よかったら着て帰って下さい
風邪をひくといけないから・・
では・・ここで失礼します
これ以上ここに留まるのは辛かった
いつまで強がっていられるのか自信もない
せめて格好つけていられるうちに・・
僕は一礼し踵を返した
「待って!」
彼女らしからぬ声の調子に足が止まる
「本当にこのまま帰ってもいいのですか?」
意外な言葉だった
「夫を迎えに来たのではないのですか?」
「・・彼はそれを望んでなかった」
「あなたはそれでいいのですか?」
「これは僕だけの問題ではありません。彼がそう選択したのです」
「あなたはこれからどうなさるおつもりですか?」
「僕は・・そうですね。今までの暮らしに戻るだけです」
「あの家で?」
「ええ、あの家で」
「家具を作って?」
「はい。それしかできない男ですから」
「夫の事を・・待ちながら?」
「・・」
「夫が戻らないと分かっていても、あなたはそうやって・・一人で・・待ち続けるおつもりですか?」
「・・そんな風に生きていくのも悪くない」
「それで・・後悔はないのですか?」
「後悔・・するかもしれません。でも彼が幸せならそれでいい・・もう二度と彼を苦しめたくないんです」
「夫を想えばこそそうすると仰るのですね」
「・・かつてあなたもそうしたように、今度は僕がそうします」
彼女の瞳が哀しく揺れた
僕の瞳も同じ色をしてるのだろうか
「テジンさん・・あなたは夫を愛していますか?」
一瞬、衝撃が走った
「・・その問いには答えられません」
「あなたのお気持ちを聞かせて下さい」
「僕の気持ちは・・あなたにとっては許し難いものでしょう」
「いいえ。構いません。私はあなたの口からはっきりと聞きたいんです」
ゆっくりと目を閉じた
木々のざわめく音も
川のせせらぎも
今は何も聴こえない
僕にはもう何の迷いもない
「僕はスハを心から愛しています。これからもスハだけを愛し続けます」
僕達は同じ人を愛してしまった
僕達は同じ苦しみに喘いでいた
愛する人の手を離さなければならない苦しみと
愛する人の苦悩を傍で見守らなければならない苦しみと
僕と彼女は同じ想いを共有していた
辺りがしんと静まった
「よく・・分かりました」
「・・すみません」
「・・あなたのお気持ちが聞けてよかった」
「ホンヨンさん・・」
彼女は小さく息を吐き、一冊のスケッチブックを僕に差し出した
それはずっと彼女の胸に抱きしめられていたものだった
「これをあなたに差し上げます」
「これは?」
「夫が描いた絵です。ここに戻って来た日から毎日ずっと描いていました」
そういえばスハの部屋にはイーゼルやキャンパスなんかが置いてあった
これは誰の物だろう
その時はただ漠然とそう思っただけだった
スハが絵を描いてたなんて知らなかった
スケッチブックを開いてみた
そこには何枚もの美しい風景画が描かれていた
淡い水彩色で彩られた
繊細で優しいタッチの風景画
「この絵はここの風景を描いたものですね」
「ええ。山や谷や向こうの丘や・・窓から見える外の景色も」
「いい絵です。彼らしい優しい絵だ。きっとここの風景が何より好きなんでしょう」
「そうですね。夫はここの風景をこよなく愛してます・・そしてもう一つ・・」
「・・?」
「夫が愛してやまないもの・・この何枚もの絵には必ずその人が描かれています」
彼女は細い指で絵の片隅を指し示した
言われてみるとどの絵にも
後ろ姿だけの人物が描かれている
グラデーションを幾重にも重ね、美しい風景と一つになって
でもぼんやりとした輪郭だけではその人物が誰なのか解らない
「それは・・あなたです」
「え?」
「夫は毎日毎日あなたを想いあなたを描いてた・・片時も忘れたりはしなかった」
「ホンヨンさん・・」
「偶然それを見つけてしまった時はショックでした。この人物があなただとすぐに解ったから」
「・・」
「でも・・いつか夫の絵からあなたは消える・・あなとの事も思い出に変わる。そう思いたかった」
「・・」
「なのに・・あなたは夫に会いにいらした」
「すみません・・」
「いえ、責めているのではないのです。どんなに月日が流れても夫の絵の中からあなたが消える事はない。
夫の心からも消えたりしない。今日はっきりとそれが解りました」
「ホンヨンさん」
まだ子供だった頃・・と、彼女は僕に語り始めた
私は夫に恋をしました
それは私の初恋でした
大人になってもそれは
キラキラと眩しい宝物のように私の中にいつまでも残っていました
でもその思い出も、古い写真と同じようにいつか色褪せてしまってた
それを認めたくなくて、私の時間はそこで止まったままでした
変わらないものなんてないのに・・
変わらなければいけなかったのに・・
変わらないままでいるのはとても難しい・・僕は答えた
誰でも皆いつかは変わる。
でもそれができるからこそ苦しかった事も思い出に変わるんです
苦しみは人を強くさせ、どんな事も乗り越えられる力をくれる
ええ、そうですね。強くありたいと、私もそう思います
でもその一方で誰の心にも変わらないものもあると思うんです
・・変わらないものというより失ってはいけないもの、といった方がいいでしょうか。
例えば純粋さとか、優しさとか・・
そんな心の根っこにあるものはどんなに時間がたっても形を変えない。
いえ、変わってはいけない
「本当に・・そうですね。誰の心にもそれはある」
「失ってはいけないもの、変わってはいけないもの。
夫の心にはそんな綺麗なものがたくさん詰まっています」
「ええ。解ります」
「そして・・夫の心にはいつもあなたがいる。しっかりと根を張って」
「ホンヨンさん」
「テジンさん、お願いします。夫を・・連れて行って」
「え・・」
「私はもうあの人を見ていられないんです」
「ですが・・」
スハを連れてあの花の家に戻る
そして共に生きていく
それを願ってここまで来た
彼女のおかげで
スハの想いも僕と同じなのだと確信できた
それが解ったのだから
彼女もそう言ってくれたのだから
今すぐにでもスハの所に引き返して・・
だが・・
そんな事をしたら彼女はどうなる?
こんな形で、スハを奪うようにして
彼女を置き去りにできるのか?
・・できない
彼女の心が解るから・・
僕にはできない
「・・ホンヨンさん・・今日はこのまま帰ります」
「・・どう・・して・・?どうしてなんです?」
「一緒に帰ろうと言ったところで、彼はうんとは言いませんよ。」
「ですが夫の本心は・・」
「彼には彼の考えがある。考えた末の彼の決断なのです」
「でも・・」
「彼にもあなたにも、勿論僕にも・・もう少し時間が必要だ。そうは思いませんか?」
「テジンさん・・」
「ホンヨンさん・・あなたはとても素敵な女性です」
「・・」
「あなたのような方にお会いできて本当によかった」
彼女はコートの前を掻き合わせた
伏せた睫が哀しかった
「そうだ・・これを彼に渡して頂けませんか?」
荷物の中から、マントルピースのスケッチを取り出した
「戻ったらすぐにこれを作るつもりでいます。初雪が降る前に完成したらいいのだけれど・・」
「分かりました。必ず渡すと約束します」
彼女は僕のスケッチブックを胸に抱いた
マントルピースだけを描いたスケッチ画
他には何も書いていない
『いつまでも君を待つ』
そんなメッセージを書いてしまったら
スハ、君はまた苦しんでしまうだろう?
だから何も書かないよ
この絵に込めたメッセージを
君がどんな風に感じても
君がどんな選択をしたとしても
僕はそれを受け入れる
そして僕は作り続ける
あの花の家で
君だけを想いながら
千の想い 208 ぴかろん
フォークで長ったらしい麺と格闘している僕
パスタなんて普段滅多に口にしない
今日は特別なのだ
約束通り昼過ぎにイナをcasaに迎えに行った
イナは駐車場で、俯いて石ころを蹴飛ばしていた
そういう姿がよく似合う奴だ
長く待ったか聞くと、パン、ちょっとしか作んなかったから早く終わっちゃったとイナは笑いながら答えた
トラックに乗り、イナのナビゲーションで連れてこられたのがこのイタリアン・レストランだ
「…よく…来るの?ここ」
テジュンと?
イナは丸い目をして答える
「初めて。ギョンジンに教えて貰った。カジュアルなとこって」
カジュアルってこういうのなんだろうか…
僕が行くのは定食屋とか屋台ばかりだから、なんだか緊張してしまう
昔、テジュンのデートに付き合わされた頃、こんな店にも何度か行ったけど、大抵コーヒー飲んで帰って来るだけだったしな…
メニューを見てもあまりピンとこないので、イナに適当に注文してもらった
「テジュンが好きなパスタだからきっとヨンナムさんも気に入るかな」
そう言ってからイナは目を泳がせて俯いた
なんで俯く
やな奴
運ばれてきたのは『カルボナーラ』だった
名前は知ってたけど、食べるのは初めてだった
イナはニコっと微笑んだ
「なによ」
「ヨンナムさんらしいと思ってさ。こういうのは不得意?」
「…どうせ僕は垢抜けてませんよ」
「そういう意味じゃなくて」
「いただきます!」
テジュンが好きだというそのパスタを食べた
何口か食べて納得がいった
なるほど
クドい
でも美味しい
「コテコテだな」
「きらい?」
「いや。美味しいよ」
イナは魚介類のパスタを食べている
美味しそうに見える
睨んでやったら、僕の皿ととっかえっこしてくれた
「こっちのが具沢山で栄養あるじゃん!」
「ごめん」
「…。謝らなくてもいいけどさ…」
暫くして、イナが僕にその具沢山のパスタを勧めなかった理由がなんとなく解った
そこに入っている貝は、フォークで食べるのか、それとも手で掴んで食べるのか…
悩んだ末に僕は貝を見捨てた
フォークでちまちま身だけを取って食べるのも、貝殻を手で掴んで食べるのも、どっちも面倒くさかったから…
「ごめん」
イナがまた謝った
「なに。なにがごめんなの」
「食べにくいもの頼んじゃった…」
「は?」
「貝」
「…。僕、貝嫌いだから」
「…」
少し気まずかった
「美味いよ、これ」
そう言う僕をイナはじっと見つめた
そして僕の唇に右手を伸ばしてきた
親指で唇についたソースを拭い取り、その指を舐め
そうしてからまた、気まずそうな顔をして俯いた
ばか
心の中で罵って、僕は黙々とそのパスタを食べた
何か話さなくちゃと思うのに、パスタに気を取られていて何も話せなかった
話す事なんて…本とは何もない…
食事を終えた後、イナがコーヒーを頼もうとした
僕は落ち着かないから早く外に行きたいと言うと、奴はまた『ごめん』と言って立ち上がった
お金を出そうとすると、今日は俺が誘ったから俺の奢りだと僕を制した
僕は店の外に出て大きく息を吸った
たばこが吸いたくなって、販売機でたばこを買ってしまった
「あーあ…辞めたはずなのに…」
出てきたイナにライターを借りて一服した
「ふぅ、緊張した」
「…ごめん…」
「なんで謝るのさ、変なの」
「…。もっと…気楽なトコのがよかった?」
「そうだなぁ。やっぱいつもの定食屋とか屋台とかのが僕には似合ってるだろ?」
「…」
「でも、今後の事を考えると、こういうトコにも慣れないとね。恋人ができたら連れてきてやんなくちゃ…。だからアリガト。また連れてきてよ。今度はもうちょっといい格好してくるからさ」
『今度』なんてあるのだろうか
イナは俯いて黙っていた
「どっか行く?漢江沿いでも歩きますか?」
黙って首を縦に振るイナをトラックに乗せて、僕達は漢江の河岸にやって来た
ついこないだ、対岸で、僕はイナとテジュンが別れる場面を見下ろしていたんだ
あの時始まったイナとの関係はもう終わった
なのに僕は今、イナと一緒にいる
これは新しい関係で…
その関係はどういうものかというと…
思考はイナの声に散らされた
「こっち側から川眺めるの、初めてだ」
「僕も」
「そういや俺、あんまり川眺めたことってないな…」
「江南はどうも苦手だなぁ。僕にはやっぱり江北が合ってる。そう思わない?」
「…。ヨンナムさん、こっちの方にも配達にくるんだろ?」
「こんなお洒落なトコには来ないよ。もうちょっと外れとかヨンドンポ辺りなら行くけど…」
「…。俺の育ったトコ?」
「そ。お前の育ったトコには行くけど、お前の住んでるトコには行かない。お前を送る以外にはね」
川を見つめながら話をした
別にどうだっていい話だ
なんで僕はイナとこうして居るんだろう
これは『友達』との会話だろうか
誘われたからつきあっただけで
なんだか気分が乗らない
溜息をついた
イナがまた『ごめん』と言った
僕はイナを振り返り、謝ってばっかりだなと言ってやった
イナは深く俯き、答える代わりに小さくしゃくりあげた
「…ど…したんだよイナ…。何泣いてるんだよ」
「…ひっく…」
「なに…どうしたのさ」
いくら聞いてもイナは何も言わなかった
泣くなよ
お前に泣かれると僕の胸は疼くんだ
唇から漏れる嗚咽が
あの時の感覚を呼び起こす
どうしようか躊躇っていた
抱きしめたくなる
抱きしめたらキスしたくなる
恋人でもないのに
『なんて言うか、イナの心にはテジュンの根っこがはびこってるって解ってるのに、あいつがしょぼくれてるとついこう、かまいたくなるっていうか』
『そぉぉなんですよっ!ハグハグちゅううですよねっソクさん』
『ねっ。するよね?ギョンジン』
そうなんですか?先輩方…
『どんどん抱きしめてやんなさい。キスしてもかまいませんから!』
そう…なんですか?先輩方…
「…泣くな」
「ひっくひっく」
「泣いてるとまた…」
俯いて泣いているイナを僕はもう抱きしめていた
「こうなっちゃうんだから…ちくしょう…」
「…ごめ…」
「謝るな!」
「だっ…て…ひっく…」
「謝ると…」
頬から唇を探し当ててキスをした
こう…なっちゃうんだ…
ああ…
友達なのに…
『いいんですよ』
よくないですよ…こんなの…
僕の背中にまわったイナの腕に力が入る
よくないよ…テジュンに返したのに…
僕は僕の気持ちがよく解らない
イナに何を求めているのか、ますます解らなくなっている
だめだ…よくない…こんなの…
唇を離してもう一度抱きしめる
「ああ…タバコやめる決心したのになぁ…まだ吸いたくなっちゃうんだよな…」
「…ひっくひっく…」
「泣くか謝るかしかしてないじゃん、お前」
「…」
「なんなのさ!何がしたいんだよ、お前は!」
「ごめ…」
「謝るなって言ったろ!」
「ごめんヨンナムさ…」
吸いたくなる
タバコもお前も
急にやめるなんてできない
僕は意志が弱いから
できない…できない!馬鹿野郎!
イナに深くくちづけをする
恋人のようなくちづけをする
僕のものではないのに
まるで僕の恋人であるかのようなくちづけをする
心地よい柔らかな唇に溺れながら
僕は僕の弱さに涙する
あまりにも情けない
かっこ悪すぎる…
けど…
これが僕なんだね…
こんな…未練がましいしつこい男が…僕なんだね…
「ひっく…泣か…ない…で…」
「…」
「泣かないで…ヨンナムさん…俺が…俺が悪いんだから…」
「…ばか…違うよばか…」
「俺が…」
「ちょっと寂しいだけだ!ばか!」
「…」
僕はイナを抱きしめて何度もキスをした
イナに会うと、こうしたくなる
もうやめようと思っているのに
「ひとりに…しないから…」
鼻声のイナが呟いた
どうやって?
僕は十分『ひとり』を感じてるのに
「いつも…そばにいるから…ここに…いるから…」
イナは僕の胸に掌を当てて僕を見た
何も言えなかった
お前の好きな人はテジュン
僕はお前の何?
お前は僕の…なに?
気持ちが落ち着くまでイナを抱きしめていた
風が冷たかった
河岸に停めたトラックに凭れてもう一本タバコを吸った
奴に、何故謝るのか、寂しそうなのはテジュンが冷たいからかと聞いた
イナは首を横に振り、テジュンはとても優しいと言った
ならいいじゃん
なんでそんな顔してるんだよ
僕はソクさんとギョンジン君との三人で、お前の同好会を作ったんだと言ってやった
お前のゆらゆらに惑わされる心優しき男達の会だと
先輩方にいろいろアドバイスをもらったんだ
曰く、お前が儚げに見えたら、即抱きしめてキスしていい
甘えたいくせにイジイジしてる時は、引き寄せて抱きしめてキスしていい
自分が甘えたくなったら、抱きしめてキスしていい
先輩方は今までそうなさってきたらしいが本当か?
僕もお前の同好会に入ったからには、その規則を守らなきゃいけないから、今後僕の前でちょっとでも弱々しい顔を見せたらそんな風にするからな、いいな!
僕の声を聞きながら、イナはまた俯いた
なんだよ、なんで笑わない?『なにやっても抱きしめてキスするんじゃん』って言い返せよ。そんな顔すると僕は『会の規則』にのっとってだな…
ふざけた調子で声をかけると、イナは自分から僕に抱きついてきた
だから…。こんな事すると自動的に抱きしめてキスしてしまうから…
お前は…テジュンのもとに帰ったんだから…
幸せなんだろ?そんな顔するなよ…
僕はもう必要ないだろ?
言いながら無性に寂しくなった
イナの震える唇が僕の首筋に当たる
過ぎるのは僕の部屋の暗い天井
混乱する僕の頭
越えられなかったんだ、僕達は…
僕はイナの体を押し戻し、濡れた瞳を見つめて言った
「僕、タバコやめるんだ。絶対やめるんだ。お前といるとタバコが欲しくなっちゃうから、お前と会うのもタバコもやめるんだ、僕」
「いやだ!」
「…」
「いやだ…」
「お前とは『友達』でいたいんだ。こんなの『友達』じゃない」
「…」
「今夜、テジュンが家に帰って来る。これからはテジュンを交えて会うことにしよう、ね?」
顔をくしゃくしゃにしてイナは首を横に振った
いやだと言われてホッとしている僕がいる
こんな風に一緒にいてもいいのかな
『いいんですよ。かまいません。あいつはそういう奴ですから』
でも…ソクさん…
僕、結構辛いよ…
僕達は凭れあって長いことそこにいた
イナは僕を思いやり、僕はイナを思いやる
気持ちは向き合っているのに解らないでいる
お互いに何を求めているのか…何をしてあげればいいのか…
日が傾きかけた頃、イナをRRHに送り届けた
今日は一体どういう日だったんだろう…
家に帰る途中でcasaと『オールイン』とBHCに水を届けた
夜に来れないからと断ってボトルを置いてきた
チェミさんは意味ありげに口角を上げ、チュニルさんは極上のお茶は明日の夜にお出ししましょうと微笑み、テソン君は慈しみ深い瞳で僕を見つめた
家に帰り簡単な夕食を済ませた
テジュンは何時に帰るのだろう
風呂でも沸かしておいてやるか…
焚口に薪を置いて火をつける
炎の具合を見ながら、時々ふーふーと吹いてやる
小さな火がやがて大きな炎になり、水を湯に変えていく
薪をくべてやらないと炎は消えてしまう
あの夜、僕に火がついた
何日か一緒にいたから、火が大きくなった
温められた水は僕の体を廻りもっと温まりたいと望んでしまった
新たな薪はくべられず、炎も小さくなり、残り火もやがて消えた
僕が浸っているのは幻だ
「んふふ…。従兄弟同士…か…」
なるほど、似ている
しつこいところがそっくりだな、僕達…
僕の体は『冷めにくい』んだ…
僕の心は『迷いやすい』んだ…
そんな自分がいることを知れただけでもよしとするか…
僕を温めた炎の正体が何なのか、僕はよく解っていない
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