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1709121
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ぴかろんの日常
リレー企画 252
背と腹 2 足バンさん
ギスのとこの会議テーブルが鳴った
思いっきり叩きつけた書類がそこいらに散乱し
周りの若いスタッフが息を詰めてこっちを見る
だいっ失敗っ!
こんなヘマをやらかすとは!
ここにも、ここにも、ここにもっ!
よく見りゃ全てにあの男の影があるじゃんかっ!
有無を言わせぬ低い声に、僕はおとなしくソファに座り直した
こんなとこで少々の抵抗を試みたってこの相手には何の効果もなさそうだし
中途半端に立ち上がりかけてたギスは、既に脱力してへたり込んでる
「スーツ」は蝋人形かってくらい同じ姿勢で目線だけ動かす
見下すようだと思ってたその目の冷たさは
相手に何も期待してないような醒めたものだってその時気づいた
「君は答えを出すのが早過ぎる、その気の短さで砂漠を完走したってのは奇蹟だな」
「褒め言葉と取らせていただきます」
「まぁ水と日傘さえあれば短気な猪も数日くらいはもつか」
むっかー!何なんだっこいつはっ
「ウソク、構わんでいい」
「社長も、もうよろしいんじゃないですか?こんな子供を苛めても仕方ないでしょう」
「しかし…」
「”議員の息子さん”については別口で片をつけたらいかがです?
この気の強い坊やは天井から吊るしたって言うこと聞きそうにないし」
いちいち勘に触ることを言うやつだ
「俺は正面からこのプロジェクトを叩きたいんですが、よろしいですね?」
「ふぅ…好きにしろ」
むっ
…とした僕の目とそいつの目が一瞬モロ合ったんだけど
ろくすっぽ見もしないで逸らされた
「ロジェ氏が君に惚れ込んだという話だから、どんな男かと思ったんだけどね」
いきなり憶えのある名前が出て驚いた
ロジェってのはあの「パチフラ」アル・パチーノフランス風のことだ
「彼をご存知なんですか」
「うちとあの会社の孫請け同士の繋がりまでは調べてないのか?」
「…はい」
「あのロジェ氏が引き抜きたいってほどの価値があるようにも思えないな」
「ご期待に添えず申し訳ありません」
「添ってもらわなくちゃ困るんだ、株主は慈善事業家じゃない」
「どうしろと仰るんです」
「まぁ確かによくできた構想だが、穴だらけだ」
「…」
「夢が過ぎる」
「は?」
「夢だけで動くほど世界は甘くない」
「根拠も整理してあるはずです」
「それを数字で表してみろ」
「ですから…」
やつは膝の上にあった書類ファイルを閉じて、硝子テーブルの上に放ってよこし
僅かに顎をしゃくった
「そのチェックしてある部分、全部算出して、話はそれからだ」
「それは…」
「今後10年の経営予測値などうちの新人でも弾き出せる、20年先まで見越して計算してみろ
必要ないと思ったんだろうが 中規模以下のM&Aに関する予測も抜けてる」
「…」
「頭の悪い他の連中は騙せてもうちは無理だ」
僕はファイルを努めて冷静にめくって
赤いチェックだらけの紙面を確認してから真っ直ぐ顔を上げた
「期限は?」
「明日」
「あっあのそれはちょっと…」
「いいよギス…わかりました、明日ですね」
「ドンジュン!」
「ではひとつ確認させて下さい、先ほどのばかげた取引の件ですが」
「ああ」
「忘れてよろしいですね?」
「さあ…俺は全く興味ないが…どうなんです?社長」
「う…むぅ…おまえに任せる」
「ではペンディングだ、大事なお友達の話はその宿題を忘れずに出してからだ」
この場でその綺麗な顔を張り倒さなかった僕を褒めてほしい
「もうひとつよろしいですか」
「何だ」
「あなた一体どなたです?」
そいつはため息をついて立ち上がり「社長、では後ほど」と言って歩き出した
すらりとした体躯には隙がなさそうで
スカシたスーツは側で見ると切れるほど仕立てのいいものだとわかる
やつはひと言言い捨てると、こちらに一瞥もくれずに部屋を出て行った
「単なるいち社員だよ」
んなワケねーだろっっ
パク・ウソク!
やっぱりあの男は僕が認識してた後継者じゃなかった
2年前にイタリア支社から戻った弟の方だ
パクの爺さんのことは充分調べ上げたつもりだった
決してよくない趣味も、褒められない性格も、仕事のやり方、後継者の息子のことも
なのにあのウソクってやつのことはノーマークだった
確かに弟の記載はあったけど
会社の役職欄にも載ってないし、ほとんど形跡がない
どの報道写真、パーティの写真を見ても
出てくるのはあの爺さんと、似て非なる真面目そうな兄貴
でも、そのつもりでよく見りゃ、あっちこっちの資料に申しわけ程度に名がある
それも成功した、かなりでかいヤマばかり
その上、あの男が関わり始めたとおぼしき時期から業績が急に上向いてる
そしてその頃から系列子会社がどんどん整理されて
周りが驚くような買収も後を絶たない
やつが噛んでるんだ、絶対っっ
苛つくのはあの男に指摘された内容なんかじゃない
むしろチェック部分は一理あることばっかだし
ただ…
ああいう男の存在に気づかないほど浮ついてた自分に腹が立つ
「その男ね…パク氏のいわゆるお妾さんの子よ、九つの時にパクの籍に入ってる」
「…あ?」
プリントアウトされたばかりの紙をひらひらさせるハリョンの顔を思わず見た
何となく…あの男の目を思い出して…
「敵は一枚岩じゃないのかもね…今回のうちの件もその男の担当になって
いきなり動いたんじゃなの?」
「ん…一応…その辺のことも全部調べておいてくれる?」
「了解」
徹夜になりそうな予感で、もう店は休み貰っちゃおうかとも思ったけど
今日の報告は、ラブ君に会って直にしたかった
勿論、余計なことは一切言わない
言ったとこで彼にとって気分のいいことなんてこれっぽっちもないし
「そのウソクさんって…ラブ君の従兄でしょ?」
「あ…うん…でも名前しか知らない」
「そうなの?」
「うん…小さい頃も多分…2、3回しか会ってないし…憶えてない」
「そか…」
「…何かあった?」
「ああ…ううん、すごいやり手みたいだからどんな人かと思ってさ」
「わかんない…俺…あそこの家もあまり好きじゃないから」
「ごめん」
「やだなぁ謝んないでよ…ちょっとでも役に立てたんなら嬉しいんだからさぁ」
「…ん…ありがと…」
ちょっと歯切れは悪いけどニコニコしてるラブ君に
やっぱ…あんないきさつ絶対に話せないな…
その日はイナさんとテジュンさんが撮影現場に行ったはずなんだけど
イナさんはそのことについて何も触れなかった
近くに行くと「おまえも忙しそうだな」とか「またパン作ってやるからな」とか
妙に力の入った笑顔で話しかけられるし
僕の方も「どうでした?」なんて聞くのもどうかと思って
何となくそのままになってしまった
店にはあの「ぴーちゃん」が来てて
ギョンビンたちと盛り上がったりラブ君に吸いついたりして
周りのお客さんも思わぬ「ゲスト」にすっかり楽しんでたから
店内の雰囲気はいつも以上に明るくはあった
途中から店に入った「映画組」もいつものように接客してる
向こうの席で琥珀色の灯りの中に浮かぶ横顔がすごく懐かしい
何だかずいぶん長い間会ってなかったみたい
今日あの男にに凹まされて血がのぼったおかげで
スヒョンのことを忘れてたってことを思い出す
あのね…スヒョン…
今日…むちゃくちゃ大変だったんだ
すごくヤーな空気っていうのに久々にはまっちゃって
すごくヤーなやつと知り合う羽目になっちゃって
自分が自信過剰で怠けてたこと自覚させられちゃって
でもね…スヒョン…けっこう頑張れた方だと思うんだ…
なんて…ずっと思ってたくせに
「明日…乱闘シーンなんだって?」
少しだけ早目に帰らせてもらおうとロッカールームで着替えてると
スヒョンがひょっこり顔を覗かせた
そこで出た僕の第一声がこれだもの
スヒョンはすぐ側のロッカーに寄りかかって
ポケットに手を突っ込んだまま首を傾げて笑う
「ふふ…誰がそんなこと言ったの?」
「ジホのおっさん…乱闘っては言ってないか…でも怒んなきゃいけないんでしょ?」
「うん、そうらしい」
「そういうの超苦手そうだもんね…大丈夫?」
「まぁ何とかなるだろう」
僕は幾分締まりの悪いロッカーのドアを何度も閉め直しながら
スヒョンの視線を避けて口を開いた
「ね…侮辱されたらやっぱ怒るべきだよね…」
「ん?」
「うん…すぐキレちゃうのって子供なのかなと思って」
「何かあったの?」
「ううん…」
「自分が侮辱されることには平気だけど、大事な人が傷つけられたら許さないね」
「そか…うん、わかった、やっぱいいんだ」
「…ドンジュン?」
その声で名前を呼ばれて顔を上げる
僕を見る目がいつものスヒョンの目で
いつもの穏やかなオーラに吸い込まれそうになる
「ね…僕はガキ?」
「え?」
「ただ前しか見てないのは…ガキかな…」
甘えたい
気が遠くなりそうになるほど甘えたくなった
その腕で折れるほど抱きしめてもらって胸の香りを目一杯吸い込んで
でもそんなことしたらもう離れたくなくなる
でもでもそうしたい
これっぽっちだけど捨て切れない変なプライドをどちゃっと放り投げて
どうかなるまで抱きしめてってその首にしがみつきたい
僕の靴先が微かに動きそうになった時、ドアが開いて
その口を開けた空間にミンチョルさんが立ってた
ぞわぞわと僕に巻きついてた衝動は
一瞬にして乾いた土くれのように砕け飛んだ
動かそうとしていた方の反対の足を踏み出してスヒョンの前を通る
「じゃ、早退よろしくね、今日は多分ギスのオフィスに泊まり込みだから」
ミンチョルさんの横をすり抜ける時
思わず息を止めちゃった自分に驚く
多分無意識に…その人からふわりとスヒョンの香りがしたらどうしようとか
そんな最低っにくだらないことを考えたんだと思う
これだよっ!
こんな体たらくだからあんな男の情報も見逃すんだ!
僕はくるっと回転して
まだドアの間に突っ立ってこちらを見てるミンチョルさんに近づいて
鼻で思いっきり「くんっ」と息を吸い込みながら「お疲れさまです!」って言って
またくるりと背を向けて出口に向かった
結論から言うと、勿論、香りなんてわかるわけなくて
思い切った行動をとったわりには
思い付きってものは成果が出にくいっていう、いい見本だ
徹夜でも何でもしますとも!って言ってくれた若い連中のために
ハンバーガーとポテトをしこたま買い込んで
タクシーでギスのオフィスに向かう
乾いた空気は街の光を綺麗に輝かせてて
流れる光跡はパリの美しい夜を思い出させる
あの頃も今も…僕は変わってないんだろうか…
「お客さん、すっごいうまそうな匂いだな~あ」
潤んだ感傷におよそ似つかわしくない匂いの充満に気づき
僕はちょっとばかしおかしくなって笑った
画策と思惑 ぴかろん
*****
夕方、ヨンナムさんに店まで送ってもらった
「昼間したから今はいいよな」
「なにを」
「キス」
ウインクしてヨンナムさんはあっさり帰って行った
無理してる風でもなく、寂しそうでもなく…
テジュンと話しただけでこうも変わるものなのか?
俺が寂しいじゃん!
店に入って、ウシクを特訓していたイヌ先生のところへ行く
イヌ先生の背広の裾を引っ張っていると、舞台の上のウシクがドドドドっと駆け寄ってきた
「なんなの?!センセに何の用なのっ?!」
「デカいよウシク」
「…デカい?…怖いじゃなくて?」
「…。スケジュールの確認したくて…」
「なんの?誰の?」
「デカいよウシク」
「怖いじゃなくて?!」
「ウシク!キミはデカいんだからしょうがないだろ!」
「…ぶぅ…」
「イナ、事務室においで。ウシクはもう一回自主練習ね」
「…。ふぁい…」
珍しくウシクが先生に従っている
不思議に思って前を歩いている先生を突いた
「ん?」
「ウシク、素直じゃん。なんかあったの?」
「…いや…いつも通り…こほ…」
「ん?」
「ん?」
「イヌ先生、今日は湿布、いりませんか?」
「いらないよ。それより昨日のドリンク剤、すっごく効いた!また頼むね」
「はい!」
イヌ先生は、出勤してきたジョンドゥとナゾの会話をして事務室へ消えた
ジョンドゥは手帳に何かを書きつけ、顔を上げてニヤリとした
俺は首を傾げながら、事務室に入った
そして、済州島二泊三日の旅が可能かどうかを打診した
*****
「うーん。どうしても?」
「うん、どぉぉぉしても!」
「今週中?」
「そ!」
「…イナは休みなしで働いてるからなぁ…」
「でしょ?正東津だってちゃぁんと日帰りだったでしょ?相当ムリしたんだよぉ、でも店に迷惑かけてないでしょ?」
「うーん。使い物にならない時も多々あったけどぉ…」
「ええん…せんせぇ…」
「あん?…なんか可愛いぞ、今日」
「えへ…みんなにそう言われる…」
「…」
「…せんせ…」
「…。ウシク…来ないかな…」
ガタン…
「…せんせ…何する気?」
「…ちょっと…」
「…せ…せん…」
「…イナ…」
「せんせっあっや…」
ドドドドドドっばったぁぁぁん!
「せんせぇぇぇっ!やだぁぁぁっ!」
ウシクが事務室のドアを蹴破って入ってきた
「何してるのっ!イナさんと何してるのおおおっ!なんでっなんでっなんでイナさんのシャツ捲り上げてるのぉぉ(;_;)」
「皮下脂肪を測らせてもらってる」
「…(@_@;)…」
「見てご覧ウシク、イナのお腹、ぺったんこだろう?」
「…(・_・)」
「それと、ほっぺ」
「…」
「ピシっとしてるだろ?あとオシリ」
「…(-_-)」
「キュッだ。ムチムチっじゃない」
「…イナさん…先生に何の用?(-“-)」
「ウシク、イナはスケジュールの確認に来ただけだよ」
「そうだよウシク…」
「お腹出してるじゃんっ!」
「だってさぁ、先生がさぁ…」
ウシクが先生を睨む
先生はチョロリと目を泳がせる
「先生、もういいでしょ?それよりどうかなぁ、俺の休み…」
「休み?イナさん休むの?」
「うん、済州島に行くんだ。できれば二泊三日で…」
「ええ~いいなぁボクも行きたいなぁせんせぇ」
「痩せたらね」
「(-_-)」
「うーん…イナ…。今週中となるとねぇ…明日はチーフと元チーフ、撮影で店休むし、スハも休暇中だしね…それに伴いテジンが調子悪くなってるから…明日はムリと」
「俺も明日はムリだよぉ」
「…あさってなら…なんとかなるかな?チーフと元チーフ、撮影休みだ」
「ほんと?じゃ、あさってとその次の日と休んでもいいかな…」
「うーん。まぁなんとかなるかな…」
「やった!じゃ、俺、2日間休暇ねっ」
「三日目は、帰って来てから出勤するの?」
「うん!三日も休めないよぉ♪」
「疲れてない?」
「大丈夫♪」
「…腰とか…痛めてないかなあ」
「え?」
「けほ。じゃあ、2日間休み…と…」
「やったぁぁ!」
俺は鼻歌を歌いながら、ジャンスさんに、あさってから二泊なら大丈夫だと連絡を入れた
『おう!さんきゅ。早速手配するわい』
「三人で行くんだからね!ヨンナムさんも」
『らじゃらじゃ。今夜テジュン、ここで徹夜仕事だぞ。寂しいか?』
「そうなの?…しゃびしいけろ、旅行の用意とかしなくちゃなんないから大丈夫」
『テジュに代わろうか?』
「別に用事ないからいい。じゃあ、よろしくね」
それからヨンナムさんにも電話した
ヨンナムさんは、急だなぁ…と少し困ったように口ごもった
その後、店に出てきたスヒョクとソクに、ヨンナムさんの仕事を二泊三日分、よろしく頼む。特別手当てだすからさ…とお願いした
スヒョクは元気に「ようござんす」と言い、ソクは気弱そうな微笑を浮かべた
「ソク、どうした?元気ないじゃん」
「ちょっとセンチメンタルになってるの」
「なんで!」
「星の王子さまのせい」
「…」
「あれ、ズキズキするね…」
「お前、ガキの頃読んだんだろ?」
「うん。でも…今読むと…何度もデコピンされてるような気分になる…」
「…ふぅん…」
「…。ヨンナムさんと…旅行するんだ…」
「てじゅも一緒だよ」
「ふぅん…大丈夫?」
「大丈夫って何がよ!」
「…取り合いにならない?」
「なんの?」
「…自覚ないのかよ…ま、いいけど…。部屋は幾つ取るの?」
「しらない。一つじゃないの?」
「ひ…ひとつ?!(@_@;)」
「雑魚寝」
「…済州島でまで雑魚寝する気?」
「なんで?一人ずつじゃ寂しいじゃんか」
「…ま、いいけど…」
「くふん…ヨンナムさん幸せ化計画・第一章のはじまりだっ!おー」
「…?…」
拳を挙げた俺を、スヒョクは首を傾げて見ていた
*****
「だからロイヤル・スウィートでキングサイズですよ!」
「あーはいはい、スヨンさんがオッケー出したらね」
「オッケー出るぐらい凄い研修内容ですよ!」
「…そうかぁ?」
「とにかく電話して!僕はその隙にイナに電話しますから」
「あーはいはい!」
先輩と僕は同時に電話を取った
「もちもち、イナでちゅか?」
『なんだよ!』
「いひひん。休憩時間かなと思ってかけたら出てくれたっ。幸先いいなぁ」
『お前仕事大変なんだろ?スヨンは厳しいかんな、しっかりしろよな』
「うん。解ってる。それよりロイヤル・スウィートでいいかな?ん?」
『は?ロイヤル・ストレート・フラッシュ?そりゃ最高の手だな』
「だろ?最高の部屋だ!そこでキメような。くふん。ヅラも持っていくからな」
『ずらっと?ストレートって意味か?』
「んふ。『ズラだけ』でストレートにキメてやるよ。それとぉどこへ行きたい?んーもちろん『天国』へは連れてってやるけどぉそれ以外にさぁ?」
『あのさ、スヨンと食事できるようにセッティングしといてくれよな』
「ふぇ?なんでスヨンさんと?…まさかお前やけぼっくいに火をつけたいんじゃ…」
『あーはいはい。今行くよ。…てじゅごめん、指名入った。じゃ』
「おい!待って!今夜は一人で寝んねだな」
『あーうん、旅行の準備もしなきゃいけないし、それに台本と星の王様も読まなきゃ…。まだ理解できねぇとこだらけだし、じゃ』
「星の王さま?王子さまだろ?」
『てじゅが王さまにしちまった王子さま、もらったんだよ!切るぞ』
「あん。ちゅ」
『はいはいはいちゅ!じゃ!』
「あん…切っちゃった…つれないなぁ。僕が王さまにした王子さまって?…まぁいいや…くふん…どこに連れてってあげようかなぁ♪」
「はい…はいですから…あの…一つをロイヤル・スウィートでキングサイズのベッドで…っていうわけには…いかないですよねぇはい。すみません…ええ…三人なんで…ええ…はぁ…はい…。あ…いいです…いいですそれで…はい…あ、の、できれば二部屋に…え?あ…はい…解りました…。ふぅ…」
「先輩、ヅラ、返してよ。済州島に持っていくんだから!」
「…なんのためにだ?」
「イナのためにです!で?ロイヤル・スウィート、取れた?」
「…。ムリに決まってるだろう!」
「えええっ!イナに約束したのにぃぃっ!」
「仕方ないだろ?!なるだけいい部屋にしてもらったから…はぁぁ…」
「んふ♪ま、いっか…くふん」
僕は浮かれながらも、イナにかっくいーところを見せなくてはならないので、そのためにもと念入りに書類の確認をしたのだった
ずっとしあわせ ぴかろん
*****
テジュンの電話はほとんど意味不明だった
店ではスヒョンが撮影の影響なのか、どんよりしていた
その分を補おうと頑張っているドンジュンが可愛く思えた
『ホ○トのスヒョン』は、かろうじて微笑んでいるけれど天使の声は聞こえてこない…
『スヒョン』が磨耗して半分以上『ジン』になっちまってる
これは『犠牲』じゃないのか?
のらくらと接客しているジホのおっさんの首根っこ締め上げて問い詰めてやりたくなった
あいつ…ギリギリだ…あいつらみんな…
なあ、元通りになんてなれないんだぞ
俺が通った道より、ずっと険しいだろうに
なんでそんなに頑張れるんだ?
ちゃんと本を読まなくちゃいけない
そうしないと俺、あいつらを応援してやれない
もっとも、俺が何したって、どうにもなりゃしないんだけど…
俺にできることと言えば、にくったらしいジホのおっさんの言うように、ただ待ってることだけなんだもんな…
店が終わって外に出た
今日は一人でRRHに帰る
そのつもりだった…
まさかまたここに来るなんて思ってもいなかった
*****
テジュンが徹夜で仕事すると聞いて、僕はつい、イナを迎えに行ってしまった
RRHに送るつもりだったのに、なぜか僕の家に連れてきてしまった
でも、大丈夫だよ。今夜もソクさんたちが帰って来るから、テジュンはいないけど、4人で宴会をしようね!なんてはしゃいでたのに…
ソクさんとスヒョク君は帰るなり、今夜は調子悪いから、おやすみなさいとか言って、さっさと二階に引き上げてしまった
仕方ないのでイナと順番に風呂に入り、ちょっとだけ酒を飲みながら、あさって本当に済州島に行くのかを確かめた
二泊もできないかもしれないぞ、と言うと、イナは困った顔をした
だって見たろ?ソクさん調子悪そうじゃないか…
でもスヒョクがいるじゃんさぁ…
考えてもみろよ、二泊ってことは、三日目、いくら早く帰ってきたとしてもだ、絶対半日は潰れるだろう?…一泊ならいいけど二泊はなぁ…と渋ってやった
…明日のソクの様子で決めるってのはどう?とイナは食い下がった
…しつこいなお前
…だぁぁぁって!
わかった、明日もう一度考える!そう言って話を切った
それからイナは居間で、僕は僕の部屋で、大人しく寝ることにした
*****
居間に一人で寝るのって久しぶりだ
なんでRRHに帰らなかったんだろう…
一人なら、もう台本読めてたろうに…
けどRRHにはミンチョルとギョンビンとギョンジンがいる
スヒョンの憂い顔が頭を過ぎって、帰りたくなくなった
枕元のスタンドをつけて、台本を読む
一度はさらりと目を通した
話自体は惹き込まれる
けど…なんで『どうしてもやりたかった』のかが解らない…
『ヒョンジュ』と『ジン』と『ソニ』
三人とも『父親』との確執がある
『ヒョンジュ』はなんで海に入ったのか
なんで『箱』を残して消えたのか…
わからないことだらけだ
「はぁ…」
自分のついた溜息の大きさに驚いた
「なんだ、まだ起きてるの?」
ヨンナムさんが廊下から顔を覗かせた
「ん…ヨンナムさんこそ…」
「トイレ帰りに大きな溜息が聞こえたんだもん…。『王さま』読んでるの?」
「それ以前」
「え?」
廊下から首だけ突っ込んでるヨンナムさんを手まねきした
「えっ!だっ…だめだよ、テジュンに怒られる」
「…。話するだけ…」
「…ほんとに?」
「あのさー、今日の昼だって俺からは何もしてないんだからね!…ヨンナムさんが…俺にキスするんじゃん…」
「だって可愛かったんだもん。それに僕、イナ同好会会員だからさ」
「…何言ってんのさ!」
「入っていいの?」
「うん…」
布団の上に座ってヨンナムさんと話をした
スヒョンとミンチョルの事、映画の話、撮影現場に行った事、かいつまんで話をした
自分の辿ってきた道と重なるような気がしている事も、俺が心配したってどうにもならないって事も話した
「…僕、聞いてよかったのかな…。本とはテジュンに聞いてほしかったんじゃないの?」
「…なんかモヤモヤしてて…誰かに聞いて欲しかったの…」
「で?台本に躓いてるの?」
「…わかんないんだ…気持ちがさ…」
「誰の?」
「…ここに出てくるみんなの…」
「…お前らしくないなぁ…、同調するの、得意じゃないか」
「うん…。ある程度は理解できるんだけど…根っこがどうしても…実感できない…」
「根っこ?」
「俺、親父を知らないから…」
*****
物心ついた時には、俺はチス叔父貴と賭場を渡り歩いていた
イカサマの手助けをして食わせて貰ってた
お金がなかったからね、生きて行くためにイカサマしてたんだよな…
叔父貴は実の父親じゃないけどさ、情の深いあったかい人だ
貧乏だったし両親もいなかったけど、俺はラッキーだったと思うよ
…ムショに入っり、命狙われたり、好きな女と離れ離れになったり、利用されそうになったり…
色々あったけど、俺、いつもラッキーだった…
だからさぁ…実の親父ってどんな風に子供に接するのかってよくわかんない…
この本に書いてあることが普通なのか、それともこれは特別なことなのか…それすら判断できないんだ
イナは俯いて微笑みながら静かに話した
「親って子供に期待かけちゃうんだよね。根本的には子供の幸せを願っての事なんだけど」
「そういうもん?ここに出てくる父親達も子供の幸せ願ってたのかな?」
「純粋にそれだけを願う事ができる親っていないんじゃないかな…。自分の欲も入っちゃう…誰だってそうだと思うよ」
「…欲…」
「『幸せ』ってのがまずよくわかんないよね」
「…幸せ…」
「金持ちになること、世間に認められること…そういうもんじゃないよね…。もちろんお金も名誉もあるにこしたことはないし…」
「…俺…」
「ん?」
「…俺さ…」
「うん」
「…幸せに手が届きそうになると必ず…幸せが逃げてくって…」
イナはそこで言葉を切った
そして唾を呑み込み口を開こうとした
言葉より先にイナの瞳からぽろりと涙が零れた
「…イナ…」
「…俺…」
濡れた瞳が僕の方を向いた
「俺…ばかだな…」
「ん?」
「俺…ずぅっと…幸せだったんだ…」
「…イナ…」
「親がいなくても、貧乏でも、チス叔父貴が俺を見守ってくれてた。俺、いつも仲間に助けられてた。ムショにいたときも、命狙われたときも、辛い別れをしたときも、いつも傍に誰かがいて俺を助けてくれた…。俺、こんなに幸せだったのに…気づかなかった…ばかだ…」
濡れた瞳に吸い込まれそうになった
軽く目を閉じて、息を吸い込み、それから口を開いた
「気づいてよかったね…」
「…」
「チス叔父さんに感謝だな…」
「うん…」
「イナさ、ずっと解ってたんだよ、自分が恵まれてるってこと…」
「え…」
「無意識に解ってたんだよ。だから、気づいてない人をほっとけないんだ」
「…」
「僕やソクさんやギョンジン君は、お前に係わって気づいた…一人ぼっちじゃないって」
「俺は…」
「言葉にしたのは今日が初めてなのかもしれないけど、お前の中に根付いてるんだよ、幸せが」
「…」
「はっきり気づけてよかったね。これからはどんな苦しい事があっても、お前はいつも幸せでいられる」
「…そ…かな…」
「僕もだよ、イナ。辛いときも悲しいときもさびしい時も嬉しい時も、そんな風に感じる事ができるのは幸せなんだって思える」
「…ヨンナムさん…」
「ギョンジン君を見ろよ。あの人は何があっても『幸せそう』だろ?ソクさんも、ね?」
「…うん…」
「僕やテジュンもようやく気づいた。だからこの先何があっても幸せなんだって思っててね」
「…。…『ヒョンジュ』と『ジン』も…そうなのかな…」
「ん?」
僕は映画の詳しい内容を知らないから、イナの瞳が答えを乞うていても何も言えなかった
「んな可愛い顔で僕を見るな!」
「…」
「なぁ、済州島でゆっくり休んでこいよ。たまには自分の事考えろよな」
「…あ…」
イナは暫く黙り込んでから急に瞳を輝かせて話し始めた
「済州島にさ、チス叔父貴がいるんだ」
「え?ほんと?」
「でも…済州島のどこにいるかわかんねえ」
「…」
「テスに聞けば解るかな…」
「テス君?」
「テスさ、叔父貴と結婚したヒョンジャおばさんの娘とラブラブだったんだよな…それがチェミさんと祭りで出会ってああなって…その間にチス叔父貴たち、済州島に行っちゃったんだよ」
「ふぅん…テス君にもそんな過去が…」
「知ってるかな…テス…」
「明日casaで聞けばいい。よし、チス叔父さんに会いに行こうよ、イナ」
「…え…」
「僕、会ってみたい。イナをこんなに可愛く育てた人に」
「…。可愛くって…それは…ちがう」
「ん?…」
「…」
「…。可愛くしたのはスケベテジュンだって言いたいのかっこらっ!」
僕は照れくさそうに俯いているイナの肩を揺さぶってやった
それからそっとイナを抱きしめて、もう寝なさいと囁いた
イナは首を竦めてくすぐったがった
ぶぁか!そういう仕種をすると僕の…僕の…
「ヨンナムさん」
「あいっ?!」
「一緒に寝よっか」
「うえお?!(@_@;)」
「くっついて寝よっか」
「(@_@;)」
「…目が赤い。眠いんだね…ごめんね長話しちゃって。寝よう。ちゅ」
「ぶ(@m@;)」
「ん?」
「はなぢでそうだ…」
「大変!横になって」
「はうっ!(@▲@;)」
「よしよし…けひっくっついちゃおっと。おやすみぃ~」
「はう…(@◆@;)…い…いな…ぼくはいな同好会会員だから…こんなばあいやはりきすをしてもいいということになるんだがっいいんだなっ(@▽@;)」
「くーかーくーかー」
「はう?!(@_@;)」
…
イナは二秒で眠った
こどもは寝つきがいいな…
はう(@_@;)…
徐々に気持ちが落ち着いた僕は、くっついているイナの髪を撫でてニヤニヤしながら眠った
翌朝、調子が良くなったソクさんに手ひどい起こされ方をしたのは想像に難くないだろう…
撮影ー流の闇 足バンさん
怒りは苦しい
自分の心の中から生まれたにも拘らず
それは次第に内壁から支配し
どこかで薄目を開けてくすぶっていた闇を引きずり出す
「チーフが怒ったとこ見たことあったかな…チョンマン、おまえある?」
「ないなぁ…そういうイメージ湧かないし…あの人元々感情も出さない方じゃないですか?」
「撮りたいなぁ…疼くなぁ…ナマのチーフ」
「ジホ監督が言うと完璧にヤらし過ぎるっ」
今日は、ジホ監督たちはおろかスタッフまでもが
必要最小限の伝達以外、ほとんど僕に声をかけてこない
シン監督が「集中させるように」と、お達しを出したからだけではなく
僕自身のトーンが重いものになっていたからだと思う
「難しそうだな…今日は…」
カウンセリングルームのセットを見ながらぼそりとつぶやくミンチョルに
僕は「今までと同じだから、必ずできるからね」と言うのが精一杯だったように思う
そんな根拠のない励ましに、ミンチョルは素直に頷いた
その日の最初の撮影に
院長がヒョンジュに「ジンとの別離を迫る」シーンを持って来たのは
勿論、監督の充分な思惑を反映したものだ
シン監督はそのシーンを見て感情を充分高めるようにと
モニターの横の座り心地の悪い椅子に僕を座らせた
ゆったりした椅子では満ち足りてしまいダメだと進言したのは、ジホ監督だ
「ああヒョンジュ君…申し訳ないがジン先生は留守だよ、今日は私が話したかったんだ」
院長のそんなセリフから始まるシーンは
故意にライトの白色濃度を上げ、乾いた緊張感を演出している
・・・・・・・・・・
「君はここに来た頃と比べてずいぶん良くなったように見えるね…よかった」
「どうかな…もう一段階進んだカウンセリングを受けてみないか?」
「私の友人に言葉の回復を研究してる医者がいるんだ…そこを紹介しようと思ってるんだよ
君の叔母さんの家にもずっと近いんだよ?」
首を微かに傾けてただ自分を見つめるヒョンジュに
先ほどからニュアンスを替え幾度も同じ話を繰り返している
わかっていないのか、興味の範疇外なのか
院長は飲み込みの悪い子供のような彼に尻の下から苛つくものを感じた
「叔母さんにはもう話してあるよ、是非そうしてみたいってとても乗り気だった」
その言葉の前半部分は本当で、後半は捏造だ
ヒョンジュの叔母は、ジンに懐いている甥をあまり刺激したくはないとやんわり言ったつもりでいた
「つまりね、転院を勧めてるんだ…必ず今よりずっとずっとよくなる
同じような人たちとのグループセラピーもある、きっと友人も沢山できるんじゃないかなぁ
そう、仕事だってできるようになるかもしれない…どうだい?素晴らしいだろう?」
ヒョンジュは少し躊躇してから周りを見渡した
ジンならいつも筆談用のノートを置いていてくれるはずなのだが
ジン先生の側にいさせて下さい
…たったひと言、そう書きたかった
何を捜しているのか、気をどこかに向けるヒョンジュ
その緩慢な、優雅ささえ醸し出す動きに
院長はとうとう我慢ならずに声の調子を変えた
「あのねっ…ジン先生が非常に困ってるんだよ…患者は君ひとりじゃないからね」
思いがけない言葉を耳にして、ヒョンジュは顔を上げ院長を見つめた
目下、院長にとって一番の頭痛の種であるヒョンジュではあったが
その濡れたような視線をまともに受ければ、美しいと感じてしまう
しかし、彼の底の浅い自尊心はそれを認めることなどありえず
ただ忌々しい危険なものの排除へというベクトルにすり替わっていく
「だ…だからジン先生によくないことが起こってるんだよ!」
「わかるか?彼は君に関わっていることで、すっかりペースを崩してる、論文も書けない!
このままだと彼に仕事を続けてもらうわけにはいかないんだ
彼はとても優秀で、これからどんどん世の中に出て行ける男なのに勿体ないんだよ!」
・・・・・・・・・・
「カーット!OKです!」
OKの声に
ミンチョルは幻影から解かれ、息を吐いた
このシーンのヒョンジュの感情表現は難しい
「ヒョンジュは決して嫌な感情でここにいるわけじゃないからね、院長の戯れ言も気にしてない
でもジンに関する思いもよらない話を耳にしてただひたすら考える」
「その…途中で彼は自分のすべきことを決めるんですね?」
「うん、そう、でもそれは”ああ、僕はいちゃいけないんだ”って程度だ、深刻な影はない」
「ふぅ…」
「わからない?」
「…ええ…」
「でも君、今朝言ってたよね、ヒョンジュはわからないままでいいのかもって」
「ええ…」
「いいんだよ、顔にわからないって書いてあっても、それが彼の姿かもしれないよ」
「…」
ミンチョルが少し唇を噛み
目を瞑って小さく何度も頷くのが見えた
・・・・・・・・・・
この遠い目の患者はいったい何を考えているのだろう
心を閉ざしているわけではなく、認識できないわけでもない
長年この仕事をやってきた自分にも、まるでわからないタイプだった
こういう相手には遠回しに言っても無駄なのかもしれない
「わかるね?…このままじゃ、先生の人生はめちゃくちゃになってしまう」
「私はね…最近ジン先生がすっかり変わってしまって心配してるんだ
難しい症例の君を何とかしようとして…もう彼自身に余裕がないんだよ…かわいそうに」
「彼には才能がある…君は遠くからそっと彼を見守ってあげられないか?」
ヒョンジュは、ほとんど最後まで院長の話を聞いていなかった
ジンが困っている
このままではジンの人生がめちゃめちゃになる
霞が広がったような頭が反芻した
ーおまえのお陰で、この家はめちゃめちゃだ!
何だろう…そんな言葉を自分の身体のどこかが憶えている
背中だろうか、頬だろうか、指の先か…
細い絹のような記憶の線は、乳白のモヤの中に消える
それはいかなる感情にも結びつきはしないが…
いけないこと
それはただただ、とてもいけないことなのだと
絶対にあってはならないことなのだと感じた
院長は誰へのというわけでもない同情の目を彷徨わせながらも
膝をほんの僅か揺らしている
こんな話はさっさと片付けて友人に約束の電話を入れたいのだ
「君はジン先生が…その…大切だろう?」
院長のその言葉に、はっとしたように見つめ返し
穏やかな笑みをこぼすヒョンジュ
こんな時も、透る瞳はジンの眼差しを思い出しているのだろう
そしてその耳は、おそらく院長のわざとらしい舌打ちなどは聞いてはいない
「だからね、ヒョンジュ君」
「…」
「先生を大切に思うなら、君は二度と彼の前に現れない方がいい」
・・・・・・・・・・
心拍数が上がる
モニターを見ながら僕は息苦しくなった
ベテランの俳優さんの年期の入った演技はあまりにもリアルで
そのセリフのひと言ひと言がジンである自分を暗く刺激する
幾度かの撮り直しの間も、その感情に慣れず
僕はそれから後の撮影を見ることをやめてしまった
見ているのが辛かった
目を閉じていれば、セリフのないヒョンジュの存在は消える
でも僕はヒョンジュを身体で感じていた
院長の言葉をただ一心に受け止めようとしている彼の目を感じた
皮膚の直ぐ下をどくどくと流れる悪寒で目眩がしそうだった
そしてその制御できない感情は
僕のシーンで吐き出されるのを待っていた
・・・・・・・・・・
「私の耳に入ったことは全てくだらない中傷だということにしておいた」
「どういう意味です」
「私にこれ以上言わせるな」
「何がおっしゃりたいんです」
「いいか、たいした問題に至らぬうちにカタをつけるんだ」
「院長…」
「今なら全てを忘れてやる」
「忘れていただくようなことは何もありません」
ジンのデスクの端に置かれた書類の束をいじりながら
言い出しにくそうに始まった院長の話は
敵意を露にするジンの瞳によって、単なる忠告では済まなくなっていた
「生意気な口をきくな」
「クビにしたらいかがですか」
「わからんヤツだな!君の力と将来を買っているから言ってるんだ!」
「僕は自分に嘘はつけない」
「ここまで築き上げた人生がめちゃくちゃになるぞっ」
「築いたものなどない」
「私の顔に泥を塗るつもりか!」
ようやく出た院長の本音など、とうの昔にわかっている
学会や講演の場に連れて行くことが鼻高々だった、よくできた広告塔が
ある日気づくと「普通」でなくなったんだ
パーティで「いやいや、まだまだですよジン君は」と偉いさんに捻れた媚を売る姿は
自分の父親を思い出させて吐き気がしたものだ
「辞表を出します」
「この馬鹿者がっ!あの男のために全てを捨てる気かっ」
「僕の人生です!」
「君も家族も地獄に堕ちる前に目を覚ませ!」
拳固でデスクを叩きつけ部屋を出ようとした院長の背中を
こちらを向いたままのジンの声が追う
「彼に直接何か言ったら…僕は許しませんよ」
その低い声は決して大きなものではなかったが
内蔵に響くような冷たさを持っていた
僅かな反応を悟られぬよう
院長は癇に障る音を立てて廊下へのドアを閉めた
・・・・・・・・・・
休憩になったが
僕はそのままデスクに腕をつき目を閉じて座っていた
ミンチョルに、僕とのタイミングを説明してる監督の声は
何度もジンにドアから引き入れられるタイミングを指導している
「いい?決しておっかなそうな顔しないでね、彼に恐ろしいって感覚はないから
たださっきのジンの声に驚いてるだけだから、注意して」
結局、監督は僕に立ち位置の確認すらせず
次のシーンの開始を指示した
今の僕の感情そのままに動けばいいというひと言を添えて
・・・・・・・・・・
ジンは怒りに震える自分を抑え暫く目を閉じていたが
いきなり顔を上げ立ち上がった
その表情は一瞬にして険しいものから狼狽に変わる
その部屋に続く小さな待合室のドアを開けると
壁際の椅子にヒョンジュは座っていた
弱々しく微笑む愛しい顔
ジンはドアに立ったままそっと片手を差し出し
そろそろと立ち上がって近づいて来たヒョンジュの左手をそっと握った
その時の闇のように哀しく黒い目が
ヒョンジュの一番深い場所に焼きついたことを
ジンはこの先も暫く気づかない
少し力を添え、彼を部屋に引き入れてドアを締める
その身体を思いきり抱きしめ彼の香りを吸い込む
…大丈夫…大丈夫だから…
狂うほどヒョンジュが愛しい
もう目の前の彼以外の存在を見たくないとさえ思った
こんなに大事なものをどうしてなかったことにできるのだ
一瞬、あまりに強く抱きしめ怖がらせてしまったのではと思ったが
ジンの脇の辺りのシャツを掴む指は、切ないまでにジンを煽る
覆い被さるように唇を重ねた
片腕でその腰を抱き
片手で頭の後を押さえつけ
呼吸を忘れてくちづける
院長の言葉も家族も自分の将来も全ては意味を持たない
自分は間違っていない
苦しくなり一度口元が離れた瞬間、ジンは彼を押しやり
すぐ後にある黒革のソファに倒れ込んだ
どんなに苦しくても君を手放したりしない
僕はどうなってもいい
どんなことにも耐えるから
激しいくちづけは止まらず
濡れた音が漆喰の壁に吸い込まれていく
・・・・・・・・・・
カットの声がスタジオに響き渡り
僕は息の荒い身体をミンチョルの上からずるりとずらし
ソファの横に座り込んだ
ミンチョルは横たわったまま目を閉じて
苦しげに空気を貪っていた
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