ぴかろんの日常

ぴかろんの日常

リレー企画 255

てじゅ・ちぇじゅ 1  ぴかろん

小さな会議室にスヨンさんと僕の二人っきり…
どちらもイナとかかわっている
不思議な縁だなぁ…けひひっ♪
では、二日間で打ち合わせを終えて…

「カジノには外国語に堪能なディーラーを数名置き、海外からのお客様に不自由な思いをさせない事は今までにも行なわれてきたことですね」
「はい」
「これを数名ではなく、全員で勉強していくようにしてください。例えば簡単な挨拶は各国の言葉でできるように。英語は必ず習得するように」
「しております」
「…は…そうでしたか」
「…お送りしました資料に明記してありますが」
「…へ?あ…。失礼いたしました。そうでした。カジノのディーラーだけではなく、ホテルの従業員、ハウスキーパーや調理場の従業員に至るまで、全ての従業員にこれを徹底していただきたい」
「…。それは前回の打ち合わせでご提案いただいて、既に実施しておりますが」
「…。あ…。失礼いたしました…。えっと…。あ、そうそう、これだ」
「ハン・テジュンシ」
「はい?」
「…。物見遊山のつもりで済州島にいらしたのなら、今すぐお帰りください!」
「えと…」
「一体何をどう、詰めていただいたのかしら?」
「…。カジノつきホテルにおける…」
「言葉の問題は、カジノのあるホテルに於いては必然の問題です。それはこちらでも重々承知いたしております。その事は前回の」
「左様でございましたっすみません」

どうも調子が出ない
そうだった
前回先輩と訪れた時に基本的な事は確認済みだった
ああ…スヨンさんの言うとおり、僕はすっかり『物見遊山』気分だ
鋭い…うう…
それは軽く確認した後、本題に入るんだった、えっとえっと…

「テジュンシ。資料を拝見しますと、ホテルだけではなく、島民との連携による島全体の歓迎ムードを盛り上げるという企画があがってますね?」
「あ…お…そうでした。そうです!観光客から何を聞かれても、ホテル部門の従業員だけでなく、カジノ部門の従業員も全員答えられるようにするなどの接客サービスと、観光客のニーズに答えられるよう、島の産業を担う人々との関係を密にしておくべきである…と…」

ふう…

「それは済州道の方針にのっとった企画といえましょう。道の企画の中には、道民の歓待意識形成及び積極的な参加を促進するという部分がありますが、これにホテル側も加わり、済州道全体の活性化をはかるという…」

なんとか本筋に入れた…はぁぁ…やはりイナと何日も会っていないと僕ってダメっこちゃんね~くひん(*^^*)
こんやっいなとっ♪けひくひひーん♪あはっ

「なにか楽しい事でもありましたの?!」
「あ…ぐ…いえ…。けひ…げほん。…それで…、ホテル従事者だけではなく、ホテルに出入りの業者、ホテルと提携している個人業者の方々向けの研修会を開き、海外からの顧客への接客を学んでいただくのです
それによって、業者との密接な関係、従事者の意識の向上、なによりも上辺だけではない人と人との関係を築いていけるよい機会になるかと思います
これは道民、ホテル、観光客三者全てへの還元となりうると思います。ホテルマンは何よりも人を大切にしなければなりません。収益は後からついてくる
済州島は昔から、泥棒と正門と物乞いのない理想的な社会を実現しようとしてきた島民の素朴な気持ちがあります
温暖な気候とともに、人々の気持ちも元来温かいものです。その点を重視して、本土や海外のカジノつきホテルにはない接客を展開していけば、リピーターを増やせると思います

済州島のホテルのカジノは、ラスベガスなどとは違い、カジュアルな雰囲気が売り物です。普段着で気軽にカジノゲームを楽しめます
その親しみやすさはすなわち済州道の持つ気質と同じものだと思います。島全体を活性化させ、全体的な観光客を増やせば、各ホテルの顧客も増えますしカジノ収益も増えるでしょう
また、各ホテルはそれぞれの特色に磨きをかけ、切磋琢磨しながらお互いに繁栄していく方向に進むことが大切だと思います
競争しつつ連携する。観光客には多様な選択肢の中から楽しみたい事を選んでもらう…
一つのホテルの独占では観光業は成り立ちませんから、横の繋がりを重視して、島全体で観光業を盛り立てて行くよう、ホテルでの研修会・勉強会を積極的に企画するのもよい方法だと思います」

「済州島ではたくさんのスポーツ産業、イベントなどがあります。それらの事に精通したもの、また、地元住民との架け橋的なもの、そういった人材の育成も今後必要ですね」
「そこにも外国語に堪能な人材を配置したいですね」
「済州島のカジノには、日本、中国などからのお客様が大変多いです」
「日本語、中国語に堪能な人材を育成する必要があります」
「地元住民、とくに青年達にも、語学研修をしていただくと、海外から島へのリピーターも増えるでしょうね」
「そういった語学研修、接客研修を各ホテルで企画実施してはどうでしょう。地元の方々に、ホテルを知っていただくいいチャンスにもなりますね」
「そうですね。簡単な挨拶でも海外からの観光客にとってはホッとできる瞬間かもしれませんし」
「スヨンさんも海外にいらしたんでしょ?英語も日本語も堪能だと聞きましたよ」
「ええ。堪能…というわけではありませんが、不自由はしません。ですが、海外で聞く母国語というものは、やはり何かしら気持ちが落ち着きますね
観光客は短い期間の滞在ですけれど、やはり挨拶を交わせるという事はとても重要ですもの」

いい調子だ!がんばれテジュン!
スヨンさんの眉間の皺も取れてきた…
よかった…


ごさいじ・たびのきろく 2   ぴかろん

僕達は昼ご飯を食べて、ちょっと海岸に下りました
やっぱり海は気持ちいいなぁ。特に済州島の海は綺麗だなぁと思いました
僕は、砂浜に座り込んだヨンナムさんの横にしゃがみました
前によろけそうになったので、両腕をついて体勢を整えました

「なんだよそれ。ワンコみたいだな」

くすっと笑ったヨンナムさんは、さっき自販機で買った煙草をおいしそうに吸いました

「あ。やめるっちってたのに」
「うるへー。ワンコのままで偉そうな事言うな」

ワンコと言われて、僕は自分の姿勢を見てみました。確かにワンコのようです

「犬種は何かなぁ…うーん」
「やめるっちってたのに」
「雑種だよな、やっぱり」
「あ。そう言えば俺、アメリカでマフィアのボディガードやってた時さ…」

僕は何故だかワンコのまんま、昔の話をしました
ヨンナムさんは風に揺れて纏いつく煙を、目を細めてやり過ごし、そのまま僕を見ました

「そこのボスがさ、ドーベルマン飼ってたんだよ。知ってる?ドーベルマン。怖ぇぇの!がううがうううって」
「怖そうじゃねぇなぁ」
「怖ぇぇんだよ!食い殺されそうなんだよほんとに…。だから俺、ドーベルマンね」
「こんな可愛らしいドーベルマンがいるかっ!」
「あっ!」

ヨンナムさんは咥え煙草で、僕に襲い掛かりました。こないだのテジュンを思い出しました
僕は不安定な体勢だったので、コロンと横向きに転がってしまいました
ヨンナムさんは僕の体に馬乗りになり、僕の襟元を掴んでこの野郎!と少し大きな声で言いました
何がこの野郎なんだろう…僕はびっくりしてヨンナムさんを見つめました

「吐けよ!どこに隠した!」
「え?」
「ブツはどこなんだ!」
「ぶ…ぶつ?」
「しらばっくれるな!僕にも秘密にするってぇのか?」
「…な…」
「こうなりゃ力ずくで吐かせてやるっ」
「なにをっ(@_@;)」

ヨンナムさんは僕の襟元をグイグイと締め上げ、僕を睨みつけています
僕は何が何だか解らず、ヨンナムさんの腕をポンポン叩いて、取りあえず降参しようと思いました
が、ヨンナムさんは、何故だか僕を放してくれず、それどころか拳を振り上げて僕を殴ろうとしています

「よ…や…(@_@;)」

その拳が僕めがけて振り下ろされ、僕は思わず身を竦めました
なじぇなんら…

拳が緩み、僕の顎を掴まえます。ヨンナムさんは咥えていた煙草をフッと口で吹き飛ばし、そのまま僕の唇を塞ごうとしました
何が何だか解らないでいた僕ですが、ドーベルマン・ポーズをしていたので危険回避反応が異常に強かったようです
いつもの僕でしたら、きっとわけのわからないまま、目を白黒させてヨンナムさんのキスを受け、うっとりと虜になっていたでしょう
がその時の僕、そしてドーベルマン・ポーズの僕は、僕に課された使命を思い出したのです!

ぐぉぉぉおお

僕は力いっぱいヨンナムさんの体を押し戻しました
テジュンよりは薄いけど他の人に比べると濃厚なヨンナムさんの唇は、粘りながらも僕に到達する事無く離れていきました

ひいひいはあ

「なんだよイナっ!」
「なんだよじゃねぇよぶぁかっ!」
「僕はイナ同好会なんだからキスしてもいいはずだぞっ!」
「しなくたっていい!」
「したいからしたいんだ!」
「まず俺に、してもいいか聞けよ!」
「じゃ、してもいい?」
「だめっ!」
「なんで!」
「そんな事は後々のために取っておかなくてはいけませんっ!」
「…後々って…」
「今夜のお楽しみですっ!」
「…こん…や?」
「ぶいっ!」

上着についた砂を払い、僕は立ち上がりました

「もう行くよ!ぐずぐずしてたら観光できなくなっちゃう!」

運転席に座り、むすっとしていると、頭を掻きながらヨンナムさんが助手席に乗り込みました

「チョンエんとこも行かなきゃなんないんだからね!変な事すんなよな!」
「今夜のお楽しみってなんなんだ?」
「…そんな事…言えない…」
「(@_@;)」

僕はエンジンを吹かし、車を動かしました
黙り込んだヨンナムさんは、窓の外を見ていました
少し走り出すとヨンナムさんは急にデカい声で、ありがとぉぉぉと叫びました

「びっくりしたなぁ…なんでありがとうなんだよ!」
「食堂の親父さんたち、手、振って涙ぐんでた」
「は?」
「…言ったろ?ロケは後でって」
「へ?」

ニヤニヤと笑いながら正面を向いたヨンナムさんは、今の一件は『ロケ』なんだと言いました

「なんの!」
「親父さんたちが僕達の様子見てたからさ、サービスしたの。俳優と思われてるんだからさあ、キスシーン見せてあげたかったのに」
「キスシーンなんかなくてもいいじゃんか!」
「だって親父さんたち、期待してるみたいだったもーん」
「もうっ!<(`^´)>大体どういう筋なんだよ、さっきの話!」
「敏腕刑事の男恋人が、寂しさのあまりヤク物中毒に陥っちまってそれを敏腕刑事が命がけで更生させるっつー」
「…ありきたりすぎる…」
「なんだと?!」
「生々しすぎるし…」
「あん?!」

そんな話をしながら、僕はふとあの高慢ちきで強情っぱりで融通のきかない大親友のことを思い出しました
あいつとあの天使は『演技』をしているのだ。そう言えば台本に、海で寄添う二人のシーンがあった、ああもっと早くに思い出していたら…そしたらジンとヒョンジュの気持ちになってヨンナムさんと『演技のキス』ぐらいしてもよかったかもしれない…そんな事を思いました

「どうもあの親父さんの知り合いだか身内だかにな、こういうカップルがいるらしいんだ」
「…こういうって?」
「男同士の」
「…ああ…」
「親しい者達は理解してても、世間だの頭の堅い連中だのは冷たいそうだ」
「…だろうな…」
「だから僕達に頑張ってほしいんだって」
「…。そんな事いつ話したの?」
「トイレに行った帰りにとっつかまった」
「…」
「気に入られちゃった♪」

…。僕達は『俳優』ではありません。タダメシのお礼のつもりなんでしょうか?
ヨンナムさんは絶対曲者だと思います。スヨンは気に入ってくれるでしょうか…ちょっと心配になってきました…


撮影ーLa Mer  足バンさん

海は
まだそう高くない陽射しに凪いで薄い青紫をたたえ
水彩画のように優しい表情を見せていた


ソウルから車で2時間ほど
夏は海水浴客で賑わうこの国立公園は、夕陽の美しさで有名だ
道中眠り込んでしまった少々疲れの残る頭には
突如目の前に広がった雄大な風景が、現実でないような気さえした

「やった!シン監督!午後は雲が出ますって!」
「おおおっそうかそうかっ雨の心配はないな?」

この美しい海岸で曇ると言って喜んでいるのは我々くらいだろう
シン監督のイメージは少し曇ったブルーグレーの海
若いスタッフたちに「雲乞い」の踊りをさせようかと真面目な顔をする監督に
今日もちゃっかりついてきたチョンマンが、早速名乗りをあげていた

ジホ監督によれば、設定通りの雲間から射す光や風景は別撮影だそうで
後は「人間ワザとは思えぬ編集技術」で繋げられるらしい

「この道30年のプロの腕はそりゃぁもう…ああ、ところでチーフ、昨日の帰り際にマックス君がね」
「マ…?」
「うん、めいーっぱい膨らむマックス君」
「ああ、ふふ、なるほど」
「がね…『スヒョンをよろしくお願いします、今日ちっと苛めちゃったから』って…ぐふ、苛められたの?」
「ん…まぁ」
「かなりイジイジと言ってたけど」
「メンバーに気を遣わせるなら店に来るなって」
「くひーっアイツらしい」
「でも確かにね…」
「きっと気張ってんだなぁ、何だか自分の仕事もMAXで頑張ってたらしいし」

知ってる
昨夜、連日店で妙に浮いたり沈んだりしているあいつが気になって
散々迷った末にあのハリョンさんに電話を入れた

「まぁっどうしたことでしょう、スヒョンさんからお電話いただくなんて!
 非情な株主の担当は社長がやれとか?昨日の山のようなハンバーガー代は経費で落とせとか?
 あ、ドンジュン、オフィスに忘れ物です、ケチャップが付いちゃったネクタイ!
 ギスが朝お貸ししたらしいネクタイは『気に入ったならやる』と申しておりますけど」

僕は「お世話をおかけしています」と言って苦笑した

彼女はここ2日ばかりのドンジュンの事情について(ただし、僕がラブの従兄の件を
知ることになるのはもう少し後の話)教えてくれた

「かなりヘコんじゃって…『気が緩んでた』って自分にプンプン怒ってましたよ」
「そうですか」
「緩んだっていうより、集中できない事情があったのでしょうけれど」

初めて会った時のような刺々しさは微塵も感じさせないが
ちょっとした釘を刺すのは、相変わらずの彼女らしい熱心さだ

「でも失敗を2~3倍にして跳ね返しちゃうのが彼らしいところですけどネ
 彼の最近の口癖『言い訳するのもされるのもイヤだ!』は若いスタッフに影響与えてるんですよ
 そんなわけでご心配には及ばないと思います、彼のためにも映画のお仕事頑張って下さいね」
「ありがとうございます」

そんな風な形でも、おまえは僕に念を押すんだね
手を抜くなよと

「マックス君、見に来たいの我慢してるんだなぁ、きっと」
「でしょうね」
「若い頃の映画仲間思い出すなぁ、もう呆れるほど真っ直ぐで…
 アイツって、平気な顔して『僕を裏切るなら全力で裏切れ』とかって言いそうだもんね」
「…うん…そうね…」

ースヒョンはどう解釈したの?
ーね、スヒョンはさ…ヒョンジュが死んじゃうのってどう思うの?
ーやっぱ生きててほしいよね?


「あ、元チーフあんなとこにいた」

ジホ監督の視線の先、崖のようなところにミンチョルは立っていた
薄い色彩の空を背景に絵のように動かない

ゆっくり近づいてみれば、下方の海岸の撮影の一団を見ていた

その日は、少年時代のジンと父親が海辺を歩く短いシーンも撮られることになっており
子役の少年と父親役のイムさんが立ち位置を確認している

「あれがジンの原風景なんだな」

海岸を歩く親子
ミンチョルは、その様子を目で追いながら表情もなくぽつりと言った
…その時の彼が何を想っているのか、わかるような気がしたが
敢えて触れるつもりはなかった

「どこかで見たことのあるシルエットだと思ったら、ドビュッシーの『 La Mer(海)』!」

ジホ監督の声に振り返れば
片目を瞑り、指で作ったフレームの中にミンチョルの姿をおさめている

エサ=ペッカ・サロネン のアルバムジャケット!」
「ジャケット?」
「ちょっといいな…この色…ああ…いいな…いいなっ」
「何?」
「元チーフ!ちょっとそのまま待ってて!絶対に動かないで!」

目の色が変わったジホ監督が脱兎のごとく走り出し
まだ車中の道具の確認をしていたユン女史に何ごとか叫んだ

シノプスの如くシン監督たちにまで伝わった「アーティスト情報」は
崖に立つミンチョルを、あっという間にカメラやレフで囲むに至った

「ヒョンジュがひとり海に立つシーンイメージに使えると思ったのよぉ!
 こう、逆光の感じもいいんじゃないですかっ?」
「うんうん、とにかくロング、角度変えて撮っといて」

結局、何が何だかわからぬうちに衣装まで替えられたミンチョルは
遠くの親子に心を乱されるいとまもなく、被写体と化した

僕はクルーの遥か後方で、淡い色彩の中のヒョンジュを見ていた
ヒョンジュがひとり海に立つ…
そのシルエットが、彼の「おわり」なのかとぼんやりイメージしてみても
どうにもそんな風には思えぬまま

ーやっぱ生きててほしいよね?
ーでも触れたいでしょ、感じたいでしょ?



海岸に面した食堂
午前中の撮影は、ジンとヒョンジュの食事のシーンだった

最後の海、思い出の海
愛する者を記憶に焼きつける、心から幸せそうな…
シン監督に言わせれば「ひとかけらの悲壮感も感じさせない美しい笑顔」
そんなヒョンジュの「目」が欲しいと言う

いったいどんな目をすればいいんだと
行きの車中で散々悩んでいたミンチョルに、僕はそっと耳打ちをした
「目の前にギョンビンがいると思えばいい、監督には内緒にしておくから」
ミンチョルはちょっと驚いたようにこちらを見て
僕が眉を上げてみせると、呆れたように笑った

うまいと喜ぶジンのセリフの通り
その店のおかみさんが作ってくれたメウンタンは本当にうまかった
とてもいいアンコウが入った、いっぱい食べてくれと
撮影におかまいなしに勧めるおかみさんの笑顔は
ミンチョルの僅かな緊張を解くのに役立ったのかもしれない


食事をする僕の顔を穴があくほど見つめるヒョンジュ
凪いだ美しい湖面のような瞳
そこにはジンの姿が映っている
その先の、狂えぬ闇を…まだ知らないジン

彼の瞳を見つめているうちに
僕はまた次第にしんと冷たくなっていく自分に気づく

なぜこんな大事なものをなくさなくちゃいけないんだろうかと…
知りたくない小説の最後の頁
失望と後悔と、どうすることもできない苛立ち

ースヒョンはどう解釈したの?
ーでも触れたいでしょ、感じたいでしょ

ーそういうものに執着しない想いってものがあってもいいのかなと

本当にそんな風に考えられるんだろうか
触れることのできる現実に…執着しない自分などありえるんだろうか
それでも触れたくて…
抱きしめたくて…

ー綺麗ごとじゃないの?
ーそんなの頭のいい人間のエゴじゃないの?



「どうしても…ヒョンジュはそうしてしまうんですか」
「え?」

シン監督の不思議そうな顔が僕を見た
話をしていたジホ監督とイムさんが、少し離れたところでこちらを向き
チョプロデューサーとユン女史が飲みかけの珈琲カップを口につけたまま目をこちらに向け
隣に座っているミンチョルが僕を見つめた

昼の休憩、先ほどのおかみさんの小さな店で
若いスタッフたちがひと足先に外に出て行った時に僕は切り出した

「何?スヒョンさん」

「どうしてヒョンジュにそういう道をとらせるんですか?」
「え…」
「他の表現はないのでしょうか」
「チーフ…どうしたの」
「スヒョンさん」
「ミンチョル、おまえも納得してないんでしょ?」
「スヒョン…」

「スヒョンさん、シン監督はすべて考えた上で…」
「わかってます…わかっていて敢えてお聞きしたいんです
 自分で死を選ぶ者を理解してくれと…僕はそういうメッセージを送ることになるんですか?
 この映画に出るということはそういうことなんですか?」
「チーフ…」

暫く僕を見つめていたシン監督は
すいと視線を落とすと、またずいぶん長い間黙っていたが
ようやく、ほんの少し微笑んで唇を動かし始めた

「W.T.C.の後、『What a Wonderful World』や『Imagine』が自主規制されたでしょ?
 あれが嫌だった、不謹慎だって言って、こうありたいっていう想いを押し込めるなんて
 それこそエゴイズムだと思った」

「あのね…ユウジを亡くした後ね…私もう全てが嫌になっちゃったんだ
 誰かを恨めば楽になるような気もしたけど、それすら面倒でね」

監督はゆっくりと話し続けた
ビニールのテーブルクロスの赤いストライプを正確に指でなぞっているのは
ひとつひとつの言葉を捜すための手続きにも思える

「でも何がショックだったかってね…あんなに苦しんだはずなのに
 そんな想いすら、ずっと自分を縛ることはできないってわかったことだった
 一生、泥の底を這いずって行くんだって思ってたのに
 あろうことか、マルクスブラザーズの映画を観て笑ってたんだよ
 そしたら急に…ストンとね…ああ、生きるってのは『こんなもん』なのかなって…」

「人はいつから人間で、いつまで人間なんだろうって…それはユウジがずっと追ってた言葉
 受精した瞬間から人間なんだろうか、死は本当に人を分つんだろうかってね」

ユン女史が物思いにふけるようにそっと目を閉じた

「そう…私は…ヒョンジュって人物に敢えてそうさせたい
 理解なんてしてくれなくていいんだ、そんなもの理解なんかしちゃダメだもの」

「どんな肉体もそれを留めることはできないし
 どんな感情も…自分のも他人のも…それを縛り留めることはできないってね
 あ、決して諦めろってことじゃないよ?
 ジンとヒョンジュを通して一瞬でもいいから考えてほしいの
 …作品の中に正解があるなんて思ってないし」

顔を上げた監督を、ミンチョルが見つめる

「どんな反論が出ても…もしそれについて考えてくれたら、それが私の『成功』
 私…何の言い訳もするつもりはないから」

暫く口を開く者はいなかった

僕は真っ直ぐ監督の目を見ながら
頭のどこかがまるで関係のないことを考えていた
小さな木造の海の店に珈琲の香りは似合わないと思っていたけれど
でも…そんなことが案外いいものなのかもしれないなと…

「もし、僕がこれ以上できないと言ったら…やめさせていただけますか?」
「スヒョン!」
「スヒョンさん!」

じっと僕を見ていた監督が
これまで見たことのない顔で微笑んだ
そしてその返事は
もう一度心で反芻しなければならないほど、あまりにさらりとしていた

「いいよ、あなたを感じさせられないなら、観客を感じさせることもできないから」

店の外で
子供の「ジン」が尻まで波に浸かってしまったという騒ぎが響いて
若いスタッフの「替えのぱんつがナイよぉ」という叫び声に
プロデューサーやユン女史たちまでが吹き出してしまった

背中にあったものが軽くなったような感覚を味わいながら
僕は、ほとんどいつもの調子で答えた

「わかりました」
「ん?」
「お話下さってありがとうございます、よろしくお願いします」

僕が頭を下げると
シン監督は一瞬目を開いてから、クシャリと笑って手を差し出し
テーブル越しに、僕はその思いのほか大きな手を握った




「さっきは…驚いた」

化粧室代わりの大型バンの中
メイクさんたちが出て行って少し経ってから、鏡の中のミンチョルはつぶやいた

「でも少しばかり安心した」
「ん?」
「迷ってたのは自分だけじゃなかったらしい」

その日のヒョンジュの衣装はTシャツの上にシャツを羽織っただけのもの
いつものミンチョルよりもずっと子供っぽい印象を与える

「スヒョンは…いつも完璧に理解してるものだとばかり思ってたからな」
「そんな誤解も悪くないけど」
「最近は新しい発見ばかりだ」
「ん?」
「自分は…似ていると思うか?」
「ジンに?」
「ジンに」
「うん…そうね…手は抜けないからね」

僕はまるで答えになっていない返事をして立ち上がり
用意されている厚手のスタッフコートを、ミンチョルの肩に掛けてやった

「行こう、時間だ」


Veritas   オリーさん

ボストンのローガン空港に降り立ったのは2時過ぎ
荷物を引き上げタクシーを拾う頃には3時近くになっていた

JFケネディ空港からラガーディア空港まで移動するタクシーの中で
銀行に行くのは明日ということで教授と話していたので
僕はタクシーの運転手にコプリーのマリオットまで、と告げた
運転手は黙って車を出した
ボストンのタクシーは当たりはずれが少ないらしい
ニューヨークよりは数段ましだと聞いた

タクシーに乗り込んでやっと辿り着いたという気持ちが湧いてきた
東ヘの旅は初日が厳しい
昼前に経って、半日以上ものフライトの果てに降り立つ地では
また同じ日のほぼ同時刻が待っている
もう一日過ごさなければならないのだ
機内でどれだけ休めるか、それが勝負だ
逆に言うと、初日さえ乗り切れば
ジェットラグは解消できるということだが

そんなわけで、機内では座席が空いていたのを幸いに
僕は教授の後ろの席に移ってひたすら目を閉じた

ギョンビンが黙々と荷造りをしている姿を見て
安堵したのだろうか、昨夜はそのまま寝入ってしまった
ドアが閉まるかすかな音で荷造りが終わったことを知り
それで眠りは本格的に深くなっていった
ありがとう・・
寝言でそんな言葉を言ったような・・

初めてテコンドーの全国大会に出場する日の朝
頑張れでもなく、行ってらっしゃい、でもなく
あいつは言った
「兄さんは勝つよ」
とても静かな目をして平然と言った
「だって強いもの」

あの頃から、お前はまっすぐな視線を持っていた
そして優勝して帰った僕に言った
おめでとうでもなく、すごいね、でもなく一言
「言っただろ、兄さんは勝つって」
そしてその後、にっこり笑ってもう一言
「だって僕が出ないんだもの」
それで二人で声をそろえて大笑いした

あの時の僕たちの笑い声が
飛行機の鈍いエンジン音の隙間をぬって
聞こえるような気がした

ラブ、土産は何にしよう
伝統の街の土産はやっぱりアンティークだろうか
くふふ・・
つねってくれてありがとう・・
お前は誰のところへ行っても
最後には僕のところへ帰ってきてくれるんだよね
僕は嬉しいぞ・・
ちょっとの間、お出かけしてくるから待ってておくれ
土産は何がいい?
やっぱり僕のディープなキスかな・・
くふふ・・
ラブ・・やめてくれよ、もうつねるのは・・
ラブ・・

浅い眠りの合間に食事を取り
また浅い眠りに入っていく
そんなことを繰り返しているうちに
KE081便はほぼ定刻どおり、ニューヨークに着いた

JFKに降りる直前、
上空から久しぶりのニューヨークの街を見下ろした
摩天楼がひしめきあうマンハッタン島に
双子のタワーがないのを確認して最初に思うことは
事件の悲惨さよりも、むしろ不自然さだ
2本のビルが建っていた場所の隙間が
どこか不自然だ

それから、あの地で起こった惨事がじわじわとよみがえる
失われた多くの命、それを思っただけで胸が塞がれる思いだが
あそこで失くなった人や物すべては形を変え、
今もあらゆる方面に大きくのしかかっているのだろう

一方でその地にグランドゼロと名づけ踏み出そうとしている
揺るぎない力があることも事実だ
膝をつき、座り込んで、泣き叫んでも
いつまでもそうはしていられない
立ち上がって前に進まなくてはならない

だが人は何のために進むのか
ずっと座り込んでいてはいけないのか
立って、歩いて、進まなくてはいけないのか
とても辛いのに・・


人はどこまで強くなれるのだろう
強くならなくてはいけないのか・・
本当の強さとは何なのだろうか

ぽっかりと空いた空間がこれほど雄弁に何かを語りかけるのを、
僕は知らない

ふと前の座席にいる教授の横顔が見えた
やはり、その空間を見つめている
そして端正な横顔もまた複雑な表情を露にしていたのだった

人はなぜ進まなければいけないのだろう
前に・・


「今の季節はひたすら春を待つしかない。一年の半分近くがこんな感じです」
教授がタクシーの窓の外を見ながら呟いた
僕はマンハッタンの風景から我に返り、窓の外を見た

教授は視線を外に飛ばしたまま語り続けた
「11月の感謝祭の頃には雪に埋もれ、それが3月まで続く
4月のボストンマラソンが春を告げる行事ですが、
それでもダウンを着込んでの観戦です」
「ボストンマラソンは一度だけ見たことがありますよ」

「そうですか?」
ゆっくりと教授が視線を僕に向けた
「以前ニューヨークに住んでいたことがありまして」
「そうか・・世界を股にかけるお仕事でしたね」
「いえ、結婚してしばらくNYにいたことがあって」
「結婚?」
「もう終わったことです」
「・・・」

「今は彼女も子供も新しい家庭で新しい生活を送っています」
「お子さんがいらしたんですか」
「そんな風には見えないでしょ、極楽トンボのようで」
「いえ・・・実は私の母も再婚しましてね、数年前に」
「お母さまが?」
「ええ、孫ができたと言って喜んでいます」
「お孫さんが?」
「つれあいに娘やら息子やら、子供たちが多くて。さらにその子供がたくさん・・」
「なるほど」

おかげで僕の出来なかった親孝行をしてもらっています
そう続けた男の目には優しい光が灯っていた

ギョンビン、この人はいい人なのかもしれないな・・

「ご実家にはお寄りにならないんですか?」
「感謝祭にもクリスマスにも口実を作って逃げてた息子が
何でもない時に突然帰ったりしたら・・今回はやめた方がいいでしょう」
「なるほど。親不孝は親不孝の道を行くわけですね」
「ただひたすらに」
僕たちはどこか共犯者のような親しみを感じて
思わず笑みを交わした

夕刻のラッシュ前のせいか、車は快調に走っている
あっという間にサムナートンネルを抜け、ノースエンドに入り
もうすぐダウンタウンに着く

アメリカの歴史の源であるこの街は
冬の暗い空を抱えて
じっと息をひそめているような印象だ

その昔イギリスから移民してきたピューリタンが築いた街
その街並みは本場のイングランドに似ているが
街や通りの名前にもそれがうかがえる
わかりやすく有名なものはケンブリッジだろうか
ハーバード大学、MITなど数多くの大学があるその街は、
そっくりそのまま本場から名前をもらった
ニューヨークが刺激的な変化を遂げアピールしているのに比べ
この街はその佇まいを維持していくことで存在感を示している

それでもバックベイと呼ばれるダウンタウン一帯は近代的だ
コプリープレイスと呼ばれる一角が
ボストンの新しい顔になってから、もう随分と経つ
高級ホテルと高級ショッピングモールを冠し
そこから続くプルーデンシャルセンターまでひっくるめ
ボストン一の繁華街であり、中心地でもある
近くにあるボイルストンストリート、ニューベリーストリートにも
ブティック、カフェ、ギャラリー、アンティークショップが立ち並び
ファッショナブルな雰囲気が楽しめる一角なのだ

「時間があればボストンシンフォニーでも聴きに行きたいところですが」
「今回はムリでしょう」
「お土産も買わなくてはいけないようですしね」
「こほっ、いえこれは仕事ですので」

「本番は明日です。一息入れたら、夕食がてら外に出てみますか?」
「いいんですか?」
「買い物ならコプリープレイスで足りるでしょう、多少値は張りますが」
「高いですか・・」
「請求はあの人に・・」
「ロジャースっ!」
「そうです」
「いい考えだ。あの辺りでドカンと買ってやりますか」
僕たちはまた目を合わせて笑った

ギョンビン、ほんとにこの人はいい人かもしれないな

ホテルにチェックインして部屋に落ち着いた
教授とは隣り合わせのダブルの部屋だ
くそったれ、スイートだと言っただろうが・・
それでもエグゼクティブ仕様なのか
ホテルのスタンダードが高いのか
まあまあの部屋だ

荷物を開け、パソコンを立ち上げメールの確認をした
一応報告しておくか
仕事だから

「無事着いた。万事順調。くそったれ!」

名文を打ち込んであいつに送信してやった
ギョンビンにも同じ文を送った
ただし、くそったれではなく愛する弟へとした
照れるがいいんだ
外国にいると気分は外国人だから

それからラブだ・・
さんざん悩んで結局送るのをやめた
仕事だから・・
ラブ


教授の部屋をノックすると
すぐに返事があり、教授が出てきた
「先に買い物をすませてから、夕食にしましょうか?」
「夕食はホテルで?」
「イタリアンはお好きですか?」
「大好きです」
「ではイタリア人街でピザでもつまみましょう。
ホテルより格段に安くて旨い店があります」
「はいっ」

付き添いに来たのか、付き添われてきたのか
よくわからない状況だが、細かいことはいい
僕は教授の後についてエレベーターに乗り込んだ

ラブには何か身につける物を買ってあげたい
たとえばチェーンのついた首輪とか
いや冗談だ
ブレスレットとかペンダントとか・・
教授が僕の一人笑いを見て微笑んだ
楽しそうですね、と

ティファニーは好きなブランドのひとつだ
デザインにシンプルな物が多いのと
案外男性向けの商品が多いのがその理由だ
僕は教授に話し、コプリープレイスの中の
ティファニーに連れて行ってもらった

まず見たのは腕時計だ
何種類かある中で、ラブに似合いそうなのが見つかった
だが腕時計はラブの領域だ
下手に買っていって、万が一そっぽを向かれるとまずい
値段も半端じゃないので、痛手はさらに大きいだろう

思い直して、アクセサリーに目を向けた
ブレスレットやペンダント、バックルや指輪
ううん・・
と思っていると、いかした ペンダント が見つかった
325ドル
値段も手ごろだし、Tシャツにこれをつけたラブはイカすだろう
シルバーのものと迷ったが結局ブラックの方を選んだ

教授が少し離れたところで店員と話をしていて
やはり何かを買ったようだ
何を買ったんだ?

「そちらは決まりましたか?」
「はい、ペンダントを」
「なかなかお洒落ですね。あの彼に似合うでしょう」
「でしょっ!・・けほん・・あの教授は何を?」
「ボールペンです」
「ボールペン・・」
「こちらの シルバーの細い方 を、弟さんに」

げっ・・先を越された・・

「何か?」
「いえ、あの、その、ありがとうございます・・」

ギョンビン、やっぱり油断も隙もない人かもしれない
指輪とかペンダントとかだったら理由をつけて断りようもあるが
ボールペンときやがった
拒否する理由がないっ!
油断したぞ、兄さんはっ!

店員はティファニーの綺麗な水色の紙袋に
僕の買ったペンダントと、教授の買ったボールペンも入れた
「お兄さんから渡してください」
不審な顔をした僕に教授がさらりと言った


兄さんは完敗だ
やり方がスマートすぎるっ!
やっぱり、この人は油断ならない・・

それから、僕たちは地下鉄のコプリー駅まで歩いた
「ボストンはアメリカの都市の中で唯一車がなくても生きていける都市です」
「地下鉄がありますからね」
「地下鉄とバスで大抵は大丈夫です。駐車スペースを探す心配もないし」
「車より便利かもしれませんね」

地下鉄の料金は市内はほぼ一律でトークンと呼ばれるコインを買う
一枚1ドル25セントで切符代わりになる
教授はまたそれをさりげなく買って僕に差し出すのだった
兄さんはまだちょっと劣勢だ

コプリーからヘイマーケットまでグリーンラインに乗り
ノースエンドに向かった

ボストンの名所めぐりに欠かせないフリーダムトレイル
ボストンコモンから道路に引かれている赤い線を辿って歩くと
自然と史跡めぐりができるしくみになっている
全行程約4キロのトレイル
もちろん今日の僕たちには
そんな悠長なことをしている元気も時間もないのだが

ノースエンドはそのフリーダムトレイルのほぼ中間地点にあたり
独立戦争のヒーローであるポール・リビアの生家など
史跡が多い地区でもあるが
家庭的な雰囲気の店が立ち並ぶリトルイタリアとしても有名だ

小さいが清潔そうな店に入り、僕たちはピザとパスタを堪能した
特にピザは生地が薄くパリパリとしてトマトソースが美味い
そして教授の選んだ料理と相性のいい赤ワイン
銘柄など聞いたこともないが、とにかく料理と合うのだった
さらに裏メニューっぽいロブスターのボイルしたものなんかも
教授が店の主人を呼びつけ頼んでくれた
お値段は超お手ごろときている

いや、待て
わざと庶民派ぶって油断させようという手かもしれない
さっきティファニーで使ったカードはダイナースクラブだったのを
僕はこの目で確認していた

でも、目の前のロブスターはプリプリでホカホカで
バターソースの香りがとてもリッチで
とうてい抵抗などできないのであった

兄さんはもしかしたらこの人を積極的に好きかもしれない


そんなこんなで満足の食事を終え、再び地下鉄に乗りホテルに戻った
部屋の前で明日の時間を打ち合わせて教授と別れた
明日のことはあまり・・と話しかけた僕に、
教授は考えても仕方のないことですと答え、扉の向こうに消えた


時間的にはもう少し持ちこたえてから寝れば、時差ぼけは問題なさそうだ
部屋に戻り、シャワーを浴びて一息ついた
ロジャースからメールがあった
「Work hard, A-hole!」
何て品のない奴なんだ、くそったれ野郎!

窓の外はボストンの夜景が広がっている
街の真ん中を流れるチャールズリバーを超えれば
あちら側がケンブリッヂだ
明日はあそこで何が待っているのだろうか
教授は今、隣の部屋で何を思っているのだろうか

そこまで考えた途端、突然激しい睡魔に襲われ
僕はベッドに直行した

ラブ
僕は無事についたよ
ラブ
おやすみ・・


ちぇじゅ・てじゅ 2   ぴかろん


「テジュンシ」
「はい。なんでしょうスヨンさん」

眉間の皺が取れ、にこやかに微笑むスヨンさんは、僕を慕ってくれていたユンヒに少し似ている
ユンヒはもう少しぽちゃっとしていて可愛らしかったけどね
彼女の笑みにつられて、僕も微笑むと、彼女はトントンと書類を揃えながら言った

「これは今後の展望ですね?」
「え?は…い…」
「今回ここまで出向いていただいたのは、早急に行なわなければならない研修の最終確認のため…ではなかったでしょうか?」
「え…は…あ…」
「一つのホテルのみの接客サービスの向上ではなく、済州島…特にこの中文観光団地および西帰浦(ソギポ)にあるホテル全体の接客サービス向上について…がテーマでしたわねぇ」
「は…はい…」
「道民との提携等は、それらの研修後のことではありませんか?」
「あ…はひ…そうれすね…」

いかんっ!全然だめじゃんっなんでだろう?
僕は慌てて先輩に電話しようとした

「よかったわ、ジャンスシに資料を送っていただいておいて」
「…は?」
「今朝、テジュンシがこちらに向かわれた後かしら、FAXが入りましたの」
「ふぁくす?」
「空港からのようでした」
「は?」
「お電話差し上げたところ、テジュンシはよい企画を持っていくと思いますが、今すぐに必要な研修については、なぜか浮かれ気分でちゃんと取り組んでいないように思えたので…と」
「…」
「これですわ」
「…あ…」

そのFAX用紙には、確かに、今必要な研修についての内容が的確に纏められていた
各ホテルが統一して行なうべき接客サービスの確認事項、各ホテルから数名の研修参加の義務付け、各ホテルから統一サービスのアイディアを募ること…
そういった、地に足のついたことが書かれていた

「…ぼく…。す…すみません…」
「でも、お聞かせいただいた企画はとても素晴らしいと思います。まずはこちらの研修を詰めて、それから道民との提携、研修についてを話し合いましょう。このFAXにある研修は、既に本土の方でもなさっていらっしゃるんでしょ?それでつい、先の事を考えてしまわれたのでしょ?」
「…。すみません…つい…その…」

スヨンさんはくすくす笑いながら、基本的な研修はお得意ですものね、と言った
それで午後からは、数名のホテルマンとカジノディーラーを集めて、既に僕の十八番になっている『地域のホテル全体の統一サービスについて』の模擬講演、個人個人が考えたアイディアの模擬討論などをすることになった…
はふ…

昼食の時、先輩に電話した
先輩の意地悪げな顔が目に浮ぶ

「なんでそっちにいる時にちゃんと言ってくれなかったんですか!」
『ジャンス、言ったもん』
「…」

なんだこの口調は…

「言ってくれましたっけ?」
『言ったもん…ジャンス…』

気持ち悪い…

『言ったけどあんた上の空だったもん』
「…」
『部屋がどーのこーの、済州島のどこそこへイナを連れていく、済州島ではこの数日分たっぷりイナを愛してやるってあんた、えろじじいそのものの顔してジャンスの言う事ちっとも聞いてなかったジャ~ンス~』
「…でしたっけ?」
『で・し・た!…ま、いいけどね。俺も今回の出張はおめぇのリハビリだと思ってるからさぁ』
「…りは…びり…」
『そ。スヨンさんの明晰な頭脳に触れて、ちっと頭クリアーにしてちょうだい。フォローはすっから』
「…」
『とにかくよかったよ。キム・イナとよりが戻って…。おめぇ失恋すっと、一年ぐらい使い物にならないからなぁ』
「…」
『だろう?彼女の時はそうだったもーん』
「…。あの時は…かえって仕事に打ち込んだと思うんですけど…」
『打ち込んでたけどポイントずれてたしぃ』
「…」
『ま、いいじゃんいいじゃんイー・ジャンスー』
「…。なにがですか」
『キム・イナとうまくいってるんだしさ。期待してますのよジャンス』
「…。頑張ります…」
『あい。頼むね。おめぇの抜けてる部分はFAXで補ったつもりだし、今回の研修はおめぇの経験、活かせば大丈夫だと思うから。それよりおめぇの主張してた道民との提携な、あっちの方、力入れろよ』
「…あい…。一応スヨンさんに話したら…とてもいいと言われました…」
『だろうな。机上の空論に終わらせんように、今回講師の件も検討してこいよ』
「…あい…」

いつもこうだ
ふざけているようで的を射ている
とても敵わない
あんな小さい目なのに視野が広い
あの先輩の頭の中はどういう構造なんだろう
きっと『僧坊筋』に『脳みそ』が詰まってるんだ
絶対そうに違いない!
あの人は…、転職して正解だった
あのままホテルにいたら…
いたらいたで豪放磊落な総支配人になってたろうけど…
一つのホテルに縛り付けておくのは勿体無い人だ
たまに変だけど、やっぱり僕はあの人を尊敬している
電話を切って、ふふっと笑った
先輩に誘ってもらえてよかったと思う

それからイナに電話をした
長いコールの後、やっと出た
あんまり電話に出なかったので、僕は多少イラついていた

「今どこだ?!」
『なに?てじゅ?』
「どこにいるんだっ!」
『てじゅど…じゃないちぇじゅどだよ』

はぁ…可愛い(>▽<)

「げほん。何時に着く?」
『えーなに?よく聞こえない』

電話越しにゴーゴー音がする
バスかタクシーに乗ってるのかな

「ホテルには何時到着だ?!」
『夕食何時から?』
「へ?」
『スヨンとの夕食何時から?』
「…7時だけど…」
『じゃ、ギリギリに着く』
「なんでっ!今済州島にいるんだろっ?!」
『ん。これからチョンエんとこ行って、テスの話するしぃ』
「…」

チョンエ?

「誰それ」
『チス叔父貴の義理の娘でテスの元嫁さんっつーか…内縁の妻っつーか…』

…テス君にもそーゆー過去があったのか…
僕はタレ目の癒し顔でチェミさんの強張り顔をマッサージする彼を思い出した

『てじゅぅ、お前って今、仕事中じゃないのぉ?』
「今昼ご飯なんだ。お前何食べた?」
『アラの刺身とぉトッペギ』
「そか…」

そか…

一人で刺身を食い、トッペギを啜るイナの顔を思い浮かべた

「可哀想に…一人飯なんて侘しかったろうに」
『いや。一人じゃなかったしぃ』
「…え?」

そうか!
チス叔父さんも済州島にいるんだったなぁ

「イナ、叔父さんに会えたのか?」
『うん。元気そうだった』

そうかそうか…久々に叔父さんに会って、叔父さん達と飯食ってたんだなぁ(;_;)
僕はしんみりとした気持ちになった

『じゃあ7時にね』
「待てよ、もっと早く来れないのか?」
『えーなんでさ~。んな早く行ったってお前仕事中だろう?』
「仕事中だけど…午後からは模擬研修会だから…お前にも見てもらおうと思ってたのに…」

僕のビシっとした姿を…
だってイナったら僕の仕事してるトコ、好きだっちってたもん(*^^*)

『なんで。やだよつまんない。じゃ、がんばってね』
「あっおいっイナ!」
『後でね』☆
「ちゅーはっ?ねぇっちゅーはっ?ああん切れてるなんだよもうっ」

僕は周りに人がいる事を忘れて叫んでしまった…

「お子さんに電話ですか?」
「は…え…ええ。ごさいじに…」
「電話でキッス…してくれなかったんですか?」
「ふ…ふぁぃ…(;_;)」
「ふふふ」

ふふふじゃねぇよ
スヨンさんはちょっとイジワルそうな顔で笑っていた
くっそー(;_;)

昼食後、僕はビシっと寂しく仕事をした







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