ぴかろんの日常

ぴかろんの日常

リレー企画 263

ごさいじ・たびのきろく そしてよんなむ 1  ぴかろん

抱きたいと、唐突に思ったのは事実だ
チョンエさんが好きだとかチョンエさんに恋したとか
そういう事をすっ飛ばして
触れたことで僕の中の『本能』が目覚めたとでもいうのか…

僕は口を聞いてくれないイナに、一生懸命説明した

いや、好きじゃないんじゃなくて、好きだと思うけど、その、恋ではなくて
どっちかというと友達?んー師匠?んー…
なんかその…チョンエさん自身は不思議な存在で、
喋ってると、男だとか女だとかいったことは感じないのにその…
キスが…
唇が…
やっぱりその…

イナの尖がった唇を見た

お前の唇と違ってその…柔らかくて小さくて可愛くてプルルンとしてて…
し…舌なんかこう…チョロロンと…あ…ひひん…

「ぶぁが!」

い…いやだってお前…僕、女の子とキスしたのってほんっと久しぶりだからさぁ…

「…ヨンナムさん…スヨンはダメか?」
「…へっ?」

スヨンさん?なんでスヨンさんなんだ?

イナに問いかけると、イナは、はぁぁん…と大きな溜息をついた

「なんだよ」
「…チョンエと付き合うのか?」
「は?いや…そんなつもりじゃなくてその」
「そんなつもりもないのに抱くだのなんだのって!チョンエは俺の仲間だぞ!テスの元カノだぞ!変なことしゅるなっ!(;_;)」
「泣くな!80キロ出てるんだ!しっかり運転してくれ!」
「ぶぁがっ!」
「だって…『抱きたい』って思っちゃったんだもん…」
「…」
「僕だって驚いたもん…自分がそんな事考えるなんてさ…」
「も…いい…。好きにすればいい」
「…イナ…」
「それでヨンナムさんが幸せになれるんなら…いい…」
「…」

僕の幸せ?
ふぅ…
あさましい僕の幸せ…
流れていく景色を見ながら、僕は溜息をついた


海沿いの道を3,40分走ったろうか…
ナビを確認するとソプチコジのあたりらしい
イナが昔スヨンさんと住んでいた場所
そして

「…スヨンさん…こんなところに住んでるの?」
「え?あ…うん!そう!行く?」
「いや…時間ないだろ?」
「…」

イナはがっかりした顔で運転を続ける

『あのね…ソプチコジ過ぎたあたりでね…ごにょごにょごにょ…』

別れ際にチョンエさんが耳打ちした言葉を思い出し、注意深くナビを見る

「こっから先は自分で運転したことない…」

イナが呟いた

「この道を海沿いに辿っていけば済州市に着くはずだけど…」
「心配?」
「いや…別に…」
「運転代わるよ、ずっとイナばかり運転してるもん」
「…あ…うん…ありがと…。もうちょっとしたら…」

もうちょっとしたら、この12号線を少しだけ外れてもっと海沿いを走るんだ
どこで右折すればいいか、僕はナビと睨めっこした

「イナ!そこの角、右」
「え?」
「右だ!」
「え?まっすぐじゃないの?」
「違うぞ!右だ!」
「?」

半信半疑な顔をして、イナはハンドルを右に切った

「…。道…細くない?」
「少しだけ海岸沿いを行こう」
「…。なんで?今まで十分海岸沿い走ってたよ」
「うん。いいのいいの」
「…。チョンエになんか言われた?」
「…あは…。ん。なんかね、美味しいナントカがあるからって…」
「…」

イナはほんの少し唇を尖がらせて運転を続けた

「…ヨンナムさん…なんか…ごちゃごちゃしてるけど…いいの?」
「大丈夫。えっと…この辺で停めて」
「…。ここ何?あっちの方に港あるね…」
「降りて」
「え…」

道端に車を停めさせて、イナを運転席から引き摺り下ろした

「なにさ。なに買うのさ」
「ん。あれを買う」

イナを振り返らせて、海に突き出た大きくて平らな舞台…のような岩山を指差した

「…」
「どう?上に登る時間ないけど、ここからでもかなりの迫力だよね?すごいな。海から見るとかなりいいらしいよ。時間があれば船から見たかったなぁ…」
「…」
「…ん?」

イナは唇をぷるぷると震わせ、目を瞬かせた

「…ちょっと感動した?」

僕はおどけてイナの後ろから囁いた
イナは俯いて頭を軽く振った

「走ってて気づかなかった?随分前から見えてたよ、ここ」
「…」
「ん?前しか見てなかったのか?」

イナはスンスンと鼻を啜り、本格的に泣き出した

*****

ヨンナムさんが僕を城山日出峰の近くまで連れてきました
僕はヨンナムさんの心遣いを嬉しく思いました
確かに嬉しいと思いました
お礼を言おうとしているのに、出てくるのは涙ばかりで、喉の奥から必死で絞り出した声は
しゃくりあげられて裏返り、何を言っているのかわかりません
それでも何度目かにようやく『ありがとう』が伝わったようです
礼を伝えた後、僕はそそくさと車に戻りました
ヨンナムさんは、まだもう少し時間があるよ、二人で眺めようよと言いましたが、僕は車に乗り込みました
運転席に座っても涙も嗚咽も止みません
ヨンナムさんが、運転代わるからと僕を引っ張り出して助手席に押し込みました
僕は涙を止められず、されるがままに助手席に座りました
ヨンナムさんはクスッと笑い、車を発進させました

「こぉんなに感激してくれるなんて思わなかったなぁ…」

本当に…
感激しました
確かに
感激したのです
でも…
僕の見たかったのはこんな城山日出峰じゃない
僕は貴方と2人で、上に登って、雄大な風景を見たかった…
こんな中途半端なのはいやだ…
こんな城山日出峰、見たってしょうがない…
ヨンナムさんの気持ちを嬉しく感じながら、同時に強く反発しました
そんな僕を『感激している』というヨンナムさんに腹が立ち、腹を立てている自分がとても嫌で
僕の涙は止まらなくなってしまいました
それは僕の勝手な感情です
こうしたい、ああしたいという僕の勝手な欲望です
僕のためにヨンナムさんはこの場所に来てくれたんだから…僕を思ってそうしてくれたんだから…
その事だけを考えて、感謝しなくては…
息と気持ちを整えようと努力しました
漸く落ち着いて深呼吸し、ふと顔を上げました
走る車の外に海岸線が見えません

「…こ…ここ…どこ?」
「んっとね、97号線。東部観光道路って書いてあるよ」
「…」
「内陸走ってる。城山日出峰からちょっと戻ってここに入ったの。こっちの方が運転しやすそうだってチョンエが言ってた」

またチョンエ…

…そんな事を思ってはいけません…
僕は…ヨンナムさんに…幸せになってほしいのだから…
ヨンナムさんがチョンエを気に入ったのなら、それでいいではありませんか…
涙が零れるのは何故でしょう
テジュン、こんな感情をどうしたらいいのですか?
昨日みたいに、さっきみたいに、この感情を僕の体に満たしてもいいのですか?
これを体の隅々に行き渡らせて、指の先や頭のてっぺんから外に出してやればいいのですか?
僕一人でできるのかしら
隣にお前と同じ顔の人がいるけれど
この人は僕の心を掻き乱す人です
…僕が好きなのはお前なのに
…この人は僕の友達で、この人が誰を思おうが何をしようが
…僕の心には関係ないはずなのに
なのに僕の心はどうしてこんなにちくちく痛むのでしょう
痛いと言ってもいいですか?
イヤだと言ってもいいですか?
声に出さなければいいですか?
心で思うだけならこの人を傷つけませんか?
テジュン
助けてください
僕は僕のどうしようもないこの気持ちを
受け止めて、手放したい
お前の手を思い出すから
手伝ってください…

息を吸って息を吐きます
留めておくのは、ヨンナムさんが僕のためにあの場所に行ってくれた事
手放すのは、あんな風に城山日出峰を見たくなかったという想い…それからチョンエへの嫉妬…
そういった僕の勝手な想いは、ヨンナムさんには関係のない事だから…

頭の奥が静かになっていきます

そう…これは僕だけの感情だから
ヨンナムさんには関係のない事だから
巻き込んではいけない…
ちゃんと…普通に…普通に接することができるように…
息を吸って…吐いて

*****

すんすん鼻を鳴らしていたイナが目を閉じて深呼吸している
なんだか可愛くてたまらない
済州市に近づいたその道路の路肩に車を停め、ちょっと休憩と言って外に出た
山道だから何もないし景色もへったくれもないのが残念だ
大きく伸びをして、助手席のイナを外に誘った
イナは僕から目を逸らしたまま外に出てきた

「なんだよ、まだ泣いてるの?そんなに嬉しかった?」

冗談交じりに聞いてみたが、イナはプイと顔を背けてただ頷いた
照れてるのかな…
僕はイナを背中から抱きしめ、ほっぺたにキスしてやった
やめろよ…なんていう反応を期待していたのに、イナは少し顔をずらしただけで何も言わない

「…どうしたの?気分悪くなった?僕の運転、下手か?」
「…ううん…大丈夫…」
「なんで元気ないの?」
「…いや…」
「ん?」
「なんでもないよ…」

イナの顔を包み込み、目を覗き込んでやった
あわせた瞳が一瞬怯えた
それでやっと解った
イナは…感激してたわけじゃないんだ…

イナの顔を離して溜息をついた


ごさいじ・たびのきろく そしてよんなむ 2  ぴかろん

15時20分発の金浦行き OZ8928便は、予定通り済州空港を飛び立った
僕達は既に機上の人になっている

あれから僕達は一言も喋らずにチス叔父さんの店に行き、それぞれの土産物を買い求めた
僕はチョンエさんから勧められていた カロッ という済州島の伝統的な作業服を買った
家でくつろぐ時に良さそうだ
僕がそれを手にとっていると、イナは唇に手をあてて、叔父貴、おれもひとつくれ、と言った

「まねすんな」

ボソリと囁くとイナは少しムッとした顔になった

「チェミさんへの土産だもん…」

唇を尖がらせたまま、イナもボソリと呟いた
ずっと喋ってなかったので、いいチャンスだと思い、僕はイナにソクさんとスヒョク君への土産物を相談した
イナは唇をムンとしてから、叔父貴、済州島限定のなんかってある?とチス叔父さんに聞き、叔父さんは、地域限定の焼酎と煙草を勧めてくれた
僕が焼酎と煙草を手に取って見ていると、お、これいいなぁ、煙草、一人一本ずつ分けてやろうかなと言いながら、イナは僕の手の中から煙草を抜き取った

「なんだよ、僕が見てるんだぞ!」
「ちょっとぐらい見せてくれてもいいじゃん、けち!」
「まぁまぁこんなところで喧嘩するんじゃないよ、それにイナ、煙草一本ずつってなぁなんだ、お前のほうがよっぽどケチじゃないか」

叔父さんに言われてまた唇を尖がらせるイナが…やっぱり可愛いと思う

「らって…店だけでも24人分だぞ、『オールイン』の方にもいっぱいいるし、オーナーと理事にもなんか買わなきゃさぁ、だから店と『オールイン』のみんなには、この煙草を一本ずつ…」
「すっげぇシケた土産!」
「…」
「まぁまぁ…。それじゃイナヤ、このチョコレートもどうだ? パイナップルに百年草、緑茶に柑橘チョコレート」
「…りょくちゃ…」
「おおイナ、チュニルさんが喜ぶぞ!」
「…うん…。ジジイたちに『百年草』とか人気ありそうだし…」
「でも…シケた土産だけどな」
「…」
「それプラス、済州島といえばコレ!」

叔父さんは、トルハルバンのミニチュアの置物を出してきた 
イナは途端にゲッソリした表情を浮かべた

「幸せになれるぞぉ、子宝に恵まれるぞぉ」
「…」
「あ…イナには要らんか…はは」
「…はは…」
「あんたどうです?」

叔父さんは僕にツイッとトルハルバンの置物を差し出した

「幸せになれるぞぉ」

差し出されたトルハルバン爺さんの表情と、チス叔父さんの表情がオーバーラップした
結局イナはトルハルバンキーホルダーやらトルハルバンボールペンやらを大量に購入していた

「煙草一箱ずつのが安く済んだんじゃないのか?」
「はっ…しょれもしょうだ…」
「ぷ」
「…む…。れも、煙草は体によくないし、煙草吸わないヤツもいるし…しょれに…こっちのが嵩張らないもん!」

そう言ってイナはまた唇を尖がらせて僕の抱えている荷物を見た
僕は何故かトルハルバンのミニチュアの包みを胸に抱いている
チス叔父さんの笑顔に負けて、一対のトルハルバンのミニチュアを購入してしまった…
それほどデカいものではないが、ちょっとばかり重い
何故これを機内持ち込みの荷物にしてしまったのか、自分でも解らない
そのまま空港の手荷物検査を受けた
かなり念入りな検査をされたような気がしたが、当然ヤバい物は見つからず、僕達は無事に飛行機に乗り込むことができた
席に座り、窓から見えるチス叔父さんに手を振り、僕達を乗せた飛行機は飛び立った
随分経ってから気がついた

「上から見えたかもしれないね…」
「え?」
「城山日出峰のカルデラ…」
「…」
「そんなに…上に登りたかった?」
「…」
「また黙り込む。言わなきゃわかんないじゃん」
「…ん…。見たかった」

俯くイナが可愛くて憎ったらしい
唇をぎゅっと摘んでやった

「痛いよ」
「そんなに見たいなら、今度テジュンに連れてきてもらえ」
「…」
「な?」
「…おれ…」
「ん?」
「ヨンナムさんと…見たかったんだもん…」
「…」

憎ったらしい
どうしてこいつは僕を揺さぶるんだ!

「なんで僕と?なんのために?」

答えないイナの顔を見つめた
大体この旅は一体なんだったんだろう
僕は本当にイナと一緒に来てよかったんだろうか
楽しかったのか?
…楽しかった…
楽しいだけじゃなかったろ?
…そうだ…浮いたり沈んだり…
イナと係わるといつもそう
穏やかではいられない

「ね。なんで?そもそも僕はどうして済州島に誘われたの?」
「…」
「…僕と…けじめをつけたかった?」
「え?」
「城山日出峰のカルデラ見て、ああいい思い出だった。貴方を忘れないよ、ソウルに戻ったら友達だ…とかなんとか言うつもりか?」
「…」
「…だろ?」
「…おれ…」
「もういいよ。よく解った。僕、ずっと揺れてた。来てよかったのかな、来なきゃよかったなって」
「…ヨンナムさん…」
「テジュンの顔見たとき、ホントに飛んで帰りたくなったよ」
「…」
「火山ショーの途中でお前らがいなくなった時も、僕、泣きたくなった」
「…。ごめん…」
「スヨンさんとチョンエさんに助けられた。2人に出会えたことは嬉しいと思う」
「…」

黙って唇を舐めているイナを見て気づいた

「…。もしかして、お前…僕の相手を…」

…そういう事か?

「…。ごめん…。テジュンに言われた。ヨンナムさんの事はヨンナムさんに任せろって…」
「…ほんとだ…余計なお世話だ…」
「…」
「でも…いいや。いい出会いができたから」

僕はイナに微笑んだ
僕がいつまでもイナに纏わりついているからいけないんだ
だからイナは『余計な世話』をやいて僕に『恋人』をあてがおうとして…
こいつにそんな気を遣わせるなんて…僕は…ああ…
むしゃくしゃする…

「ごめんヨンナムさん、俺、ごめん…」
「…なにが?僕を思ってしてくれた事だろ?」
「…でも余計な事だ」
「そんな事ないさ、スヨンさんの仕事に対する情熱には刺激されたし、チョンエさんにはとっても癒された」

語尾がきつくなっている
2人の女性との出会いは、本当に楽しかったのに
なのに、イナが仕組んだその真意を勘ぐって、僕は苛ついた

「僕が邪魔ならハッキリ言えよ」
「…」
「二度と顔を見せないからそう言えよ!こんな風に追い払うなよ!」
「…ヨンナムさん…」
「自分の恋人は自分で見つける!お前なんかの世話にならない!」

口をついて出る言葉に自分自身が煽られて、堪えるべき言葉までイナに浴びせている
荒げた僕の声に、前の座席の人が振り向いた
僕はイナから顔を背けて唇を噛みしめた

「…ごめんね…ごめんなさい…」
「…回りくどいやり方すんな!直接言ってくれ!…こんなの…ひどいよ…」
「…うん…」
「『うん』じゃねぇよ!」

イナは僕の背中をそっと擦った
チョンエさんの掌を思い出した
僕の背を撫でる掌から、透明な声が聞こえた

おれ、ヨンナムさんとスヨンが、バーで仲良く話してるの見て、寂しくなったんだ…
チョンエとヨンナムさんが仲良くしてるの見て、寂しかったんだ…
城山日出峰、連れてってくれたの、すごく嬉しかったのに、こんなとこから見たくなかったって腹が立ったんだ…
全部俺の勝手な気持ち
ヨンナムさんに関係ないのに一人で寂しがって、一人で怒って…
期待通りに行かないからって腐ってた…
ごめんなさい…ごめん…

イナの言葉は今の僕の気持ちだ
僕は僕でイナにそんな思いをさせていたのかと気づく

「イナ」
「ん?」
「言わなきゃ伝わらない…僕たちはそういう仲なんだな…」
「…」
「言えば傷つけるかもしれないけど…それでも伝えたいと思う…そういう仲なんだな…」
「…うん…」
「イナ…。僕はテジュンとは違う」
「うん」
「だから…ちゃんと言葉で伝えて。どんなことでも。お前を知れば知るほどきっと、僕、本当にお前と友達になれると思う…」
「…うん…」

僕は随分長く一所で迷っていたんだなと思う
突然道が開けて胸のつかえが下りた気がした
テジュンに対する気後れだとか、イナに対する無理矢理の友情だとか、そんなものが吹っ飛んでいく
僕は僕
僕は僕らしく居ればいい
僕は僕のまま、このままここに居ればいい
金浦空港に着陸する時、僕はイナに言った

「もう一度2人で済州島に行こう」
「え?」
「城山日出峰に登ってさ、カルデラ見よう」
「…。うん」
「やる気になれば日帰りできるし、いつでも行ける」
「うん!」
「いつ行く?」
「…」
「ふふ。今月中にもう一回行くか?!」
「うんっ!」

イナがニコニコ顔で頷いた

「俺、ほんとは日の出が見たいけど、店休むの、気が引ける…」
「日の出はテジュンと見ろよ。その前に僕とカルデラだ」
「…うん…」
「絶対行こうな」
「うん。朝イチで行けばこの時間には悠々帰れるね」
「そーそー。BHCの開店に間に合う」
「うんっ」
「僕は一泊するけど…」
「え」
「…。どっちに…泊まろうかなぁ…くふ…」
「え?!え?!!ええっ?!!」

まさかちょんえをだくつもりなんじゃぁ、それともいっきにすよんをあれか?

涙目になったイナが僕を揺さぶって叫んだ
着陸の轟音でイナの叫びは僕にしか聞こえなかった
僕はフフフンと笑ってアカンベをしてやった
到着してからも、小走りに僕の後を追いながら、イナは、ほんとに泊まるのか?そんな仲良しになったのか?一体どっちが本命なんだ?と煩かった

「イナ」
「あん?」
「…。いい旅だった」
「…」
「行ってよかった。楽しかった」
「…」
「ほんとだよ。ありがとう、イナ」
「ヨンナムさん…」
「それとね」
「うん」
「僕、お前が好きだよ」
「…」

イナの顔に浮んだ色を、僕はずっと覚えているだろう
どうしていいのかわからないといった、戸惑いの瞳

「それが好きなんだよなぁ…ったくなぁ…」
「…え…」

イナとがっしり肩を組んだ
ゆっくり『友達』になろう
僕達は一歩離れて一歩近づいた
空港のロビーを歩きながら、僕はイナの頬にキスをした
人の目も気にならないほど、僕の気分は昂揚していた

※済州島 土産物 参考
参考その2


火の鏡3  足バンさん

背中に感じるひんやりとした壁の感触
いつものスヒョンの香り
ここ数日、数え切れないほどこなしてきたはずなのに
スヒョンのくちづけに慣れるということはない

顎を下から押さえられ
深く合わさる唇と唇
強く吸われれば再び頭の中心がぼやけ
焦らされていた舌先がほんの微かに触れただけで、背筋が疼く
ミンチョルは無意識にスヒョンの袖を掴んでいた

口元はまた、すいと離れたが
しかしそれで解放されることはない
壁に強く押しつけられた身体は、まともにスヒョンと一対になっており
どうしてもスヒョンを感じてしまう
きっとスヒョンにも同じように伝わってしまっているのだろう

いつもの包むような暖かさとは、どこが違うのだろうか
なぜか、昔MVで採用したことのある紅いノイズを配した映像を思い出した
怒りにも似た琥珀の眼差しに鼓動が早くなる

「抱きたいに決まってる」
「…」

スヒョンの唇が左頬を滑る、ほんの小さなキスを落としながら
ミンチョルは力なく壁に身体を預けたまま目を閉じた

「ジンは耐えてる…ヒョンジュには想像もつかないほど」

唇の上に軽く触れ右の頬に吐息が移る

「でもそうしないのは…変わるのが怖いのか…変えたくないものがあるのか」

右頬を通り過ぎ耳の下に唇を感じた時には
小さな息を漏らしそうになった

「理屈じゃない…正解なんて知らない」
「…」
「普通…それを何て呼ぶ?…意気地なし?」

顎の線を通って戻ってきた柔らかい唇は
ミンチョルのそれに微かに触れて止まる

沈黙に目を開ければ、そこには苦渋の瞳が自分を射抜いている
その視線を逸らすことなくスヒョンの左手がゆっくりと移動し
既に2つ外れているシャツのボタンを、尚2つ外された時は思わず息を吸った
しかし、手はそれ以上動くことはなかった

「僕だけのものになれ」
「…」
「…ジンの夢の中でくらい」

黙って何度も瞬きをするミンチョル目を見つめていたスヒョンは
ふっと息を抜いて相手をもう一度抱きしめた

「さっきの彼には…劇場で納得してもらう」

抱きしめながら、散っている鏡の欠片に目を落とす
そこに写っているのは、美しく仕上げられた表面からは想像もできないほど
粗雑に溶接されたカウンター裏側の銀色の留め具
奇妙にずれたまま、ただ与えられた役目を果たす無機質

「…スヒョン…」

ようやく声を出したミンチョルだったが
スヒョンは、思いがけずニコリと笑って額に冗談のようなキスを落とす
急に身体を離されたので、前面がすっと寒くなったような気がした

「これ、片付けてもらうから手出さないで?」
「…ああ」
「じゃ、仕度できたらスタジオに」

あまりの呆気なさに戸惑いながら
ミンチョルは壁に寄りかかったままドアに消える蒼い背中を見送った
おさまらぬ動悸を抱えて


その日は見学できないとジホに言われていたにも拘らず
何とか潜り込もうとうろついていたチョンマンが
スタジオ入口の休憩室でスヒョンを見かけたのは、その少し後のことだ

紫煙の香りの残るひと気のない一角
安物のビニール製の長椅子に座り
曲げた片足を椅子にかけて天井を仰ぎ目を閉じている
その姿は、向こうのガラスブロックの採光の中に黒く溶け込み
絵のように静止したまま動かない

このひとのこんな風景は稀に見かける
いつだって沢山の人間に囲まれて華やかに穏やかに微笑んでいるのに
時々黒いシルエットになって羽根を休めている
そういう時は誰も近づけやしないんだ
たぶん、あの走る鉄砲玉みたいなやつ意外には

結局チョンマンは「お疲れさま」の声を掛けることもできぬまま
邪魔せぬようにその場を去った



ユン女史と照明監督が寝台の周りをぐるぐる回りながら何ごとか相談し
黒いローブを羽織ったスヒョンが、シン監督と絵コンテを確認しているところへ
ジホに付き添われたミンチョルがスタジオ入りした
こころなし赤い顔をしているが、程よい緊張感
シン監督はちらりとその様子を見て密かに安堵の息を吐いた

「ねぇチーフ…ダメ?」
「ダメです」

ジホが朝からねだっているのは「ローブ姿のふたりの記念撮影」
BHCの客に記念に配ろう、などと言っている本人は至って真面目なのだが
周りのスタッフは笑いのタネとして「緊張の緩和」に利用している
何ぶん慣れないテーマの撮影なのでそれなりに構えてしまうのだ

「初めはタオル巻いてていいから、えーと…ヒョンジュはシャツ羽織ってね」

ミンチョルは密かにギョッとした
腰にタオルを巻きシャツを羽織るなどという姿はどう考えても恥ずかしい
思わず立ちすくんでしまったが
さっさとローブを脱ぎ捨てタオルを巻いて寝台に上がったスヒョンを目にして
更に顔が熱くなった

しかし周りに目をやれば、皆自分のすべき作業を黙々とこなしている
ジホさえタイムキーパーと難しい顔を付き合わせている

ミンチョルは諦めのため息をついて寝台に近づいたが
まるで平気そうに片肘を立てて横向きに寝そべり
軽く頭を振って「来い」と合図するスヒョンと目が合い固まる
焦れったくなったジホがさっと近づいて下にタオルを巻き
ローブを剥がして白いシャツを羽織らせたのは、ほんの10秒もかからなかった

ひどくぎこちなくそろそろと寝台に上がるミンチョルは
黙っていると「お邪魔します」と言いそうで、ジホはくすりと笑ったが
こうして見ていると、彼は何とヒョンジュらしいことか…
あのビジネスモード全開のプレゼンの日にこういう彼を見抜いていたのなら
シン監督という人は恐ろしいほどの目の主だ

ずいぶん時間をかけて、ようやくうつ伏せになったミンチョルは
照度を測る手や、髪に櫛を入れる手、理想の布のしわを作る手、カット説明の声に
およそ恥ずかしいなどと言うムードじゃないよ、という監督の話を思い出す

そう、これは仕事なのだ
あの青年が必死で掴もうとしていた仕事

しかし…

指示通り自分の上に半身を乗せたスヒョンの身体は、思ったより熱く感じた
それは寝台の向こう側に仕掛けられた照明のせいだけではないかもしれない

しかし…
そうなのだ…相手はスヒョンなのだ

肩越しに小さな柔らかい声がかかる
いつだって自分を支えてくれる声

僕の動きだけに集中すればいい
…ョン…
うまくやろうなんて思わなくていい

大丈夫だから…いいね?
…ん…

しかし…
そうなのだ…スヒョンなのだから…委ねればいいのだ…
いつものように…包んでもらえばいい…

ミンチョルはシーツの中で深く息を吸った

白い布に半分顔を埋めるヒョンジュ
うなじの柔らかい髪を指でどかして落とす小さなくちづけ
左肩から静かに外されるシャツ
あらわになった肩から背中への古い傷
ジンの目が哀しみと慈しみに歪む
指の腹がそっとその傷の線に添って触れ
その後を確かめるように追う唇
目を潤ませるヒョンジュ
強く吸われる度に口が微かに開く


シン監督以下そこに居合わせているスタッフは
初心者なのだからという自分たちの気遣いが、無用だったことを思い知った

ジンの切ない視線はアップになればなるほど美しく
傷痕を這う震える唇にはゾクリとさせられる
ヒョンジュは静かに身を委ね
うす紅色に色づく肩肌をさらす
それがつい今しがたまでローブも脱げずにいた人物とは思えない

腰まで掛かった白いシーツの中で
スヒョンが自分のタオルを取って床に落とし
その後ミンチョルの分も取り去って布の間から落とした時は
それはシーンの一部でもないのに全員がドキリとする光景だった
何しろその間中ミンチョルは、寝台に目を伏せてスヒョンに任せたままなのだから

ゆっくり自分の上に重なるスヒョンを
息を殺すように見つめるミンチョル
撮影だという羞恥よりも
初めて直接全身の肌を合わせる緊張に頭が霞みそうになる
こんな時でもスヒョンはいつもの微笑みだ

大丈夫…おまえはじっとしてればいい

スヒョンの囁きが
まるで本当に自分たちがそうしている時の言葉のようで
身体の奥が熱くなる

背景に反射した白い薄明りに浮かぶ恋人たちのシルエット
お互いの睫毛と、少し開いた唇だけが僅かに動いている
モニターを見つめるジホには
スヒョンとミンチョルの風のような舞台が思い出された

ヒョンジュを見下ろすジンの横顔
僅かに触れあう鼻先
薬指の先で触れる唇
そこに幾度も落ちる、小さな果実に落とすような甘いキス

薄衣一枚の邪魔もなく感じる初めての肌には
お互いの心臓の動きが伝わる

スヒョンの目は深海のように濃く、過ぎた季節の想いを映していた
ヴィラの灯はもう遥か昔のことで
あれこそが夢だったのではないかと思うほどに遠いのに
あの草の香りには今も手が届きそうな気さえする

僕はここまで何に連れてこられたのか
それとも自分で歩いてきたのだろうか
羽根は…どこに置いてきたのだろう

ミンチョルが
マイクで拾えないほどの小さな囁きを聞いたのはその時だ
それは台本のどこにも書かれていないセリフ
思わず目を開いてスヒョンを見上げたが、驚いたわけではない
あまりにも自然過ぎて
ようやく聞くことができたような、安堵感さえおぼえた

 愛してる…
 ヒョンジュ…

何かを問いかけるように唇が動いた時
ジンの深いくちづけが降りてきた

ーこの夢の間だけだ…おまえに愛してると言えるのは
ー終わればもう…2度と口にすることはない

その日何度も焦らされた舌先が静かに割り入れば
ただ待つことも忘れて迎えにいく

息もつけぬほどのくちづけの音が、淡く白いスタジオに響く
呼吸のリズムさえ無視した激しいそれは
密着している身体から伝わる芳(かぐわ)しい体温で何倍にも乱された

お互いの腰骨から下はシーツで覆われていたが
シルクようの布には、絡んだ膝のシルエットが浮き出る

ー僕だけのものに

あの夜に「この先は行けない」といったスヒョンの目が重なる
真っ赤な目で一筋涙を零したスヒョン

ー今なら…それも許されるのだろうか

熱い息は、顎を通り首筋を這い小さな突起に辿り着く
ミンチョルはそれまで背中に回していた手を離し
黒い髪に指を絡ませ抱きしめた
少し気を許せば、ヒョンジュであることを忘れて声さえ出しそうになる

これは擬似なのか…
そうだ…他人が見ているはずだ
撮られているはずだ
何てことだ
これは仕事なのだ
ミンチョルは霞の中のような意識で現実を追ってはいた
しかし一度委ねた身体は素直に満ちようとさえして
請うほどに身を反らす

頭の隅に絵コンテの映像を残しながらも
ミンチョルに沈んでいくスヒョン
焦がれた肌
切り捨てつづけた想い
絡む足の先までが熱く
自分の中心を制御する異物がもどかしい
封じ込められた火は行き場を失い、身体の中でこそ盛る

スヒョン…

抱きしめているヒョンジュの身体の中から
思いがけぬ名前が流れ込んでスヒョンは一瞬動きを止めた
思い違いなのだろうと思った
しかし再びミンチョルの声はスヒョンに流れ込み
何度も自分の名を呼ぶ

鼻の奥がつんと熱くなり、喉元が詰まる
ミンチョルの滑らかな胸に頬を押しつけ
空(くう)に暗く切ない瞳を向けた

この夢は…
僕への慈悲なのか…罰なのか
夢だとわかってみている夢の行方は
誰が見取ってくれる

ジン…おまえは…どうして僕にこんな夢をみせる

スヒョンの目が赤く潤む


スタジオは静まり返っていた
彼らの映像はいつだって予想通りにはいかない
その日の撮影がこれほど胸詰まるものになると思っていた者は
ひとりとしていなかった
そして…
正直言えば、これほど美しいシーンになるとも思っていなかった

寝台の端から柔らかい髪を落とし
ジンの愛撫にすべてを委ね目を閉じるヒョンジュに思わず息をのむ
半ば開いた口から喉へのラインも
目の端に浮かぶ涙の影も
少し寄せられた眉さえ美しく、春の朝霧のような色彩の中に溶ける

絵画のように部分を切り取る映像は
尚想像を掻き立てることだろう

長い撮影の後、シン監督は絵の変更を指示した
ラストに予定している天井の高い位置からのロングショット
布を全て外した状態で重なるふたり
それを、向かい合わせに横になりジンの胸に抱かれるヒョンジューに変えた

自分の育て上げたジンという人物に
ヒョンジュとの穏やかな一瞬をやりたいと思ったのは
あの海辺での涙を撮った時から感じていたことだ
脚本の上では苦しみの象徴でしかなかったこの夢のしとねが
彼の安らぎであり
拠り所であってもいいのかもしれないと…

全てを取り払われたふたりが横たわる
ミンチョルの羞恥の感覚は、ほとんど鈍いものになっていた
スヒョンの胸に抱かれ、足の先を絡める
微妙な角度を創るために伸びてくるいくつかの手も気にはならない

スタッフが離れたその隙に
スヒョンが額に小さなキスを落とす
ありがとう、と聞こえたのはミンチョルの錯覚だったろうか

スヒョンの腰に回した指に力を込める
その指に応えて、ミンチョルを抱きしめる腕にも力が入る

こんな場でありながら
ミンチョルは穏やかな心地よさを感じていた
目を閉じれば、そのまま眠れそうな気さえする

そうなのだ…スヒョンなのだから…

薄明かりに浮かび上がる四角い寝台の真ん中に
ひとつになり息をひそめるふたり

時間の止まったようなその光景は
波に漂う小さな一対の生命のようにも見えた



「何でもない」
「どうしたんだ、スヒョン」
「少し疲れただけだよ」

長い撮影の後、スタジオは合成用の撮影の準備を始め
スヒョンたちは、大きなねぎらいの言葉をかけられ部屋を出た
ふたりの顔をまともに見られないうら若い女性スタッフが
やっとのことで2本のミネラルウォーターを手渡した時には
スヒョンの微笑みはいつものものだったのだが

黒いローブを羽織り足早に控え室に向かうスヒョンをミンチョルが追う

「その…うまくない所があったのなら…」
「ふふ…まさか、完璧でしょ」
「スヒョン」

ノブにかけた手首を押さえて自分を覗き込む目
額にうっすらと汗を光らせ、紅く染まった唇で自分の名を呼ぶ
ローブの合わせ目から覗く薄い痕は
今しがたこの自分が付けたものなのだ

なのに…どうしておまえは

スヒョンはノブを回す手を止めてポケットに手を突っ込み
いつにも増して静かな、しかし強い表情でミンチョルを見つめた

「もう一度言おうか?」
「…」
「ジンは耐えてるんだ、おまえには想像もつかないほど」
「…」
「だから夢の中なんだ…わかるか?」

ミンチョルからの返事を待たず
自分を見つめる目から顔を逸らしてゆっくりとドアを押し部屋に入る

「お疲れ、今日は本当にいい仕事ができたと思うよ」

閉めかけた扉の向こうで尚こちらを見つめるミンチョル
時折、お疲れさまの声をかけながら過ぎていくスタッフのざわめきの中
紅潮したままの、その問いかけるような眼差しは
忌々しいほどの愛しさでスヒョンの胸をえぐる

ジン…おまえは…
どうして僕にこんな夢をみせる

細長い空間に立っているスヒョンの目に潤むものを感じた瞬間
ミンチョルの腕が強い力で引っ張られた

ミンチョルの身体がひどく強い力で抱きしめられたのは
ドアが閉まる音とほぼ同時だった

「スヒョン…」
「何も言うな…ほんの少しこうするだけだから」
「…」

苦しいほどの抱擁に少しばかり慣れた頃
ミンチョルの両腕も相手の背中に回された
ゆっくりと息を吸い込めば
ローブの繊維の香りに混ざって微かにスヒョンの汗の香りがする

初めて肌を合わせた動悸は生々しく身体に残っている
目を閉じるだけで、這うスヒョンの唇の感触を思い出す
ジホの丁寧な工作がなければとんでもないことになっていたかもしれない

すべてを断ち切ろうと意識したのはほんの初めだけだった
あとはただ
スヒョンに包まれていただけだ

僕は…
やはりヒョンジュにはなれない
この温もりを捨てることなど…

ミンチョルの思考がふわりとそこまで進んだ時
「頼むから…もう言うな」
また息もできぬほど強く抱きしめられ思わず声が出る

それからどれほど経っただろうか
もう何も言うまいと相手の肩に頭を預けていると
ふと力を抜いたスヒョンが、緊張を解いてくすりと笑い
ミンチョルの顔を正面から見据えた

「まったく…おまえは…」

呆れたような口調とは裏腹に
ミンチョルの頬を両の親指が静かに撫でる

「今日は…」
「…」
「僕のものになってくれたの?」

ミンチョルは微かに頷いた
あの時間は…確かにこの男のものだったのかもしれない
他のすべてを忘れていたのだから

「そうか…」

そう言ったきり目を閉じ動かないスヒョン
ミンチョルが背中に回していた指に力を入れれば
その深い琥珀はゆっくりと開いた

唇を近づけたのは同時だった

今日、数え切れぬほど交わしたくちづけのどれとも違う
綿のように優しいくちづけ
薔薇の花びらを解いていくかのような柔らかい舌が
お互いを愛撫するように絡む

手を伸ばしさえすれば直ぐに届く肌を意識しながら
他に触れることはない


長いくちづけの後
ふたりは額をつけて暫く黙ったままでいた
先に口を開いたのはスヒョンだった

「悪いけど…今日は送ってやれない」
「…」
「ひとりになりたいんだ」
「…」
「ごめん」
「…わかった」
「ミンチョル…?」
「…ん?」
「…」
「…ん?」

スヒョンは、何も言わずにミンチョルの頬を包み
小さな、しかし丁寧なキスをした

ジンの夢は終わったのだ
男の中に
火を残したまま


(替え歌) 「孤独の肖像」 ロージーさん

悲しみもいつか終わる...と誰かの言葉
残された僕を流れる時間の果てに...
人は皆 孤独の星 生まれそして消えてゆく
だからめぐり会えた愛に心許してしまうというの?   

    いつも僕は側にいると
    夢でいいからささやいて
    それで少しだけ眠れる
    ゆうべの淋しさ忘れて
    いつも僕は側にいると
    夢でいいからささやいて
    それで少しだけ眠れる
    つかのま淋しさ忘れて
    たぶん

ゆきずりの夜が似合い...と心は冷めるのに
痛いほど君の温もり恋しいのはなぜ...
人は皆 孤独の鳥 空を抱いて飛び続ける
だからめぐり会えた愛に羽を休めただけだというの?

    いつも僕は側にいる と
    夢でいいからささやいて
    それで少しだけ眠れる
    あしたの淋しさ忘れて
    いつも僕は側にいる と
    夢でいいからささやいて
    それで少しだけ眠れる
    つかのま淋しさ忘れて

消えないよ心の中消えやしないさ
消せないよ心の中消せやしないさ
手探りで歩き出す暗闇の中
帰らない夢だけが僕をなぐさめる

消えないよ心の中消えやしないさ
消せないよ心の中消せやしないさ
手探りで歩き出す暗闇の中
帰らない愛だけが僕をあたためる

消えないよ心の中消えやしないさ
消せないよ心の中消せやしないさ

(中島みゆき『 孤独の肖像 1st. 』) 


やがて消ゆるも  足バンさん

いつものバーに寄った
いつものカウンターの右端の席
この席は、店内に反射するハロゲンのダウンライトの光が
一番美しく見えるような気がして気に入っている

今日はお早いお越しですね、と
馴染みのバーテンがグラスを滑らせる

この店に通い始めて随分になるが、彼は客との距離を保つのがうまい
過去の僕の連れが男でも女でも
無駄な詮索の視線を送ってよこしたことすらない
ドンジュンが「綺麗な仕事をするひとだ」と言っていたのを思い出す

彼には今夜の僕はどう見えるんだろうか
ひと仕事を終えてホッとしている会社員…には見えないだろう
僕の普段の仕事には薄々感づいているだろうけれど
しかしさすがの彼でも
切なきベッドシーンをこなしてきた哀れな男だとは思わないか

カウンター向こうの壁面の黒い鏡面は
あの控え室の容赦ないものとは違って僕を責めるようなことはない
少なくともそこに写る表情を読みとることはできないし
どんな感情も、どんな目も
何枚もの氷の向こうのもののようで安堵する

足を組み替えようとして苦笑
シャツに擦れた首の辺りに感じるほんの小さな違和感は
夢の中の恋人が僕に付けた爪の痕だ
相手のへその近くに唇を這わせた時だったろうか
本人には当然そんな自覚はないのだろうと思えば
心底から自嘲のおかしさを感じる

後悔していないといえば嘘になる
ひとと身体を合わせることなど何でもないと思ってきたけれど
自分の自由にならない情欲の制御などどこでも学ばなかった

撮影前の控え室で
うまく誘うはずが、逆に煽られて往生した
あんなに凶暴な気分になったのは初めてだ

帰りの控え室でのキスの後
ミンチョルは、尚僕の顔をあの目で見ながら言った

「おまえとでなければ受けられない仕事だ」

どう応えればいいんだ
僕は「そう?」と笑ってもう一度頬にキスをし
あいつを部屋の外に送り出した

忌々しくも大いに役立った「装置」を取り払って、シャワーを浴び
そのまま長いこと椅子に腰掛けてジンの顔を眺めていた
髪から滴をたらして
睫毛を濡らして
そこにはジンのふりをした自分がいる

ジンを引きずり出そうとしてどんなに足掻いたところで
やっと出てきたジンという男は、結局僕以外の何者でもないんだ
他の男の人生のふりをしたところで
そこで感じる生身は僕自身でしかない

ジンの愛情は僕の愛情だ

俳優なんていう仕事はもうこれきりにしたいとため息をつき
ミネラルウォーターを喉に流し込んだ時
シン監督のノックの音がした

「お疲れさま、今日も予想以上に良かった」
「自分じゃよくわかりませんけど」
「今ミンチョルさんの様子も見てきたけど、ほっとしてたみたいだったな」
「そうですか」

監督は椅子をズルズルと引っ張り出して座り
暫く腕組みをして自分の足の先を見ていたが、ようやく口を開いた

「明後日のヒョンジュの撮影の時、もう1回だけジンとの何気ない絡み行こうと思って」
「え?」
「うん…あなたも撮影入ってるでしょ」
「はい」
「今日さ…見てて思ったのよ、現実っていうか…ヒョンジュの欲」

思った言葉をそのまま口にするシン監督との会話は
最後まで聞かないと、主旨がわからないことはよくある

「今日はジンの側から感じたシーンでもあったわけだけどさ
 ヒョンジュだって生身な人間なんだから、当然本能はあるわけじゃない」
「ええ」
「私今日のヒョンジュ見ててさ、ああ彼も求めてるんだよなって思って」
「…」
「でね、一瞬でもいいから彼がジンを誘うショット入れたいんだわ
 あからさまじゃなくて、ものすごくさり気ない感じでさ、わかる?」
「ええ…」
「撮ってるうちに色々変わってくんだよね…こっちの気持ちも
 もう少しヒョンジュを人間っぽくしてやりたくなってきてさ」

監督はふぅと息を吐いて、腕を組んだまま片手を頬を当てがった
僕は、わかるようでわかっていないことについて聞いた

「なぜジンは躊躇したんですか?」
「ん?」
「なぜ最後まで行けないんですか?」
「ああ…うん、だってジンはそーゆー風に育てられてるんだもん
 感情だけじゃ走れない頭のいい子に育っちゃったからね」
「…」
「これでいいのだろうか、こうするべきだろうか、こうに違いない
 そういう人生が嫌でぶち破ったつもりでも、どこかが迷ってる」
「…」
「それで相手があのヒョンジュでしょ、無防備な」
「…」
「そりゃジンは七転八倒だよね、まぁ自制ってものこそが彼を苦しめるんだけどね
 それはソニの両親や周りの人間もみんな同じヨ…わかる?」
「ええ」

「じゃ、そういう感じでちょっと付け足すから」
「あ…はい」
「明後日からの楽しいホテルのカンヅメは大丈夫?」
「ええ、店も休ませてもらいます」
「冒頭のところは大変だと思うけどよろしくね」

彼が部屋を出る前に
詳細には触れずにオーディションの青年の話を出した
監督は「彼は結構いいよ、きっと近いうち使うと思う」と言い
あの青年が、落ちた時その理由を聞いて来たのだと教えてくれた

「その人のどこが良かったんですか、って言うもんで言ったの
 だって彼はヒョンジュの目してるんだもの、ってね」



スタジオの駐車場からドンジュンに電話を入れた
店は閉店間際で、留守電になっているのは当然だった

「撮影、終わったよ、少し飲んで帰る」

そう言い終えてから、そんな部分はどこにもないのに
なぜか言い訳がましいような気がして暫く沈黙してしまった
留守電はいつもひと言で済ませるので
録音時間終了の音というものを聞いたのは初めてだった


「君、ひとり?」

マホガニーの上のグラスから目を上げ横を見ると
かなり身なりのいい紳士がにこやかな表情で覗き込んでいる
いくら疲れているとはいえ
その目が「飲み相手」を捜しているのでないことくらいの察しはつく

そういう店ではないはずなのだが
その日その場で声をかけてきたのは2人目だ
僕が「待ち合わせだ」と言うと残念そうに去って行った

よほど物欲しそうに見えるのだろうか?
少なくても隙だらけだということなのだろう
あんまりおかしくなって思わず笑ってしまう

「ここ、何時までだったかな」

バーテンは「ご相談に応じます」と微笑んで
また他の客のためのシェイカーを振り始めた

その日、いつもより静かなジャズが多いのは
きっと彼の計らいなのだろう

僕は何杯目かのグラスに口をつけた












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