ぴかろんの日常

ぴかろんの日常

リレー企画 267

無・果・儚・夢・幻 2  ぴかろん

*****

イナから離れて自分の布団に戻ろうとした
やけに距離があると気づき、僕の布団をイナの横にくっつけた

僕はイナが好き
イナが女だったらだなんて…
ごめんねイナ…変なこと言っちゃった…
丸まった塊に手を伸ばしかけてやめた
自分の布団に潜り込んで『塊のイナ』を見つめた

*****

眠りたい
朝になったら気持ちが変わる
俺はヨンナムさんを諦めて
帰って来るテジュンを待てばいい
テジュンは俺が男であっても愛してくれるもの…
テジュンは優しいもの…
俺はテジュンと一緒に歩いていくんだから
だからこれでいいんだ…
俺とヨンナムさんは平行線のまま、これから先もずっとそのまま進んで行くのだから
もう…キスも…おしまいだ…

さっきのキスが甦り
涙が込み上げた
唇を噛みしめたけれど堪え切れなくて泣いてしまった

「イナ…。ごめん…泣かないで…ごめんねイナ」

ヨンナムさんが布団の上から俺の背中を撫でた

「僕、酷い事言った…お前はお前なのに…」

もう放っておいて…
堪えようとしているのに、優しくされると涙が止まらなくなる…

「イナ…」

ヨンナムさんが俺を抱きしめる

「ごめん…」

俺の頭に額を擦り付けて呟く

俺にはテジュンがいるのに
あなたが求めているのは『女』なのに
望んだところで交われるはずはないのに
さっき諦めたはずなのに…

あなたの長い指が俺の指を掴むから
どうしても伝えたくて
みっともない泣き声で俺は口を開いた

「…あなたが…好きだ…」
「…。イナ…」

あなたと…繋がりたい…
それは叶わぬことだ…

「キスして…」
「…イナ…」
「…してよ…」

キスしたって埋められない
解ってる
もうケリをつけなくては

「泣かないで、イナ…」
「お願いだから…俺に…」

最後のキスをください…

躊躇ってからそっとくちづけたその体にしがみつき、俺は彼の唇を吸った
もうこんなキスはしない
もうあなたを惑わしたりしない
もう…

*****

震える唇からイナの想いが伝わる
離れていく…
寂しさと腹立たしさが体中に渦巻く
唇を離してイナの瞳を見つめた

「どうして?!どうして僕から離れようとするの?!僕を一人にするつもりなの?!」

我儘な僕はイナを責める

「僕を好きだって言ったじゃないか!僕を放り出すのか?!」

何を喚いている?
イナは『友達』だろう?
テジュンに『返した』んじゃないか

どうして何も答えない?どうして怒らない?
僕の言うこと、めちゃくちゃだろ?!

「なんで?お前が女だったらって言ったから?僕、謝ったじゃない!どうしてそんな目をするのさ、イナ!」
「…ヨンナムさん…」
「…二人でもう一回、城山日出峰…行こうって…。今日だぞ!今日そう言ったんだぞ!」

何をどうしたいのさ、僕は…

泣き虫の瞳が、僕を擦り抜けていく
彼は僕の頬を愛おしそうに撫でて無理に微笑んだ

「もう前を向いて…」
「…え?」
「一人にはしないから…俺はずっとここにいるから…。だからもう前向いて進んで…」

イナが離れていくんじゃない
細い針先が一点を突き刺す
ごちゃまぜになっていた寂しさや愛や諸々の感情が整然と並べられていく
自覚した
今僕は僕をひとつ拾い上げた
知らない間にイナの傍を離れてたのは僕なんだ
求めているのはイナじゃない…

****

靄がかった瞳が冷たく晴れていく
人が自身の想いに気づく瞬間を初めて見た
俺の想いは拡散する
欲張ってもしょうがない
大切にしたいのはテジュンだから

「城山日出峰はテジュンと行く。もう、あなたと行く必要なくなったもん。それから、もう…あなたとキスしない…」
「…」

揺れる瞳からぽとんと一粒涙が落ちた
想いは消えない
カタチを変えて俺の心に降り積もるのだろう

*****

寂しそうな顔を好きだと思った
いつも何か語りかけるようなその瞳を愛しく思った
ぽつんと一人、膝を抱えてあいつの帰りを待っている
その姿を僕は何かと重ねていた
僕への好意を感じ取り、僕は近づいた

あいつは全てを奪っていく
あいつのようになりたい
あいつから全てを奪いたい
奪い返したい

僕の友達
僕が好きになった人
みんなあいつに引き寄せられていった

あいつが奪ったわけじゃない
あいつにはなれない
あいつと僕とは
違う人間だ…

イナは僕の友達で
恋人じゃない

はじめから
僕はイナを
はじめから
そう捉えていたのだと呑み込んだ

友達への好意と恋愛の違いは?
『好き』という気持ちに変わりはない
ただ己を刻み付けるかどうかの…
絡み合うかどうかの…
そうなれなかった僕達は
そうできなかった僕は…

*****

「ヨンナムさん。チョンエと出会えてよかったね…。初めてじゃない?テジュンと関係のない女の子って…
あなたとチョンエがこれからどうなるのか解んないけど、よかったね。あなた、一歩踏み出せたんだよ」
「…そ…かな…」
「そうだよ。前向きな夢じゃん」

こんなもんか…
解ってみれば大したことないや…
こんなもんか…

「あなた、やっぱりさ…俺の中に『彼女』を見てたんだね…」
「…」
「もう進まなきゃ」
「…イナ…」
「俺も…階段一段昇るわ…」

唾を飲み込んでヨンナムさんをそっと抱いた

「…僕は…くだらない人間だ…欲ばっかり強くて一人になりたくなくて…」
「…。みんなそうだよ。俺だってそうだもん…」

あなたが欲しかった
踏み出すことはできなかったけど…

「お前…僕を好き?」
「…。好きだよ…これからもずっと…」
「抱いてほしい?」

『言わなきゃ伝わらない…僕たちはそういう仲なんだな…
言えば傷つけるかもしれないけど…それでも伝えたいと思う…そういう仲なんだな… 
僕はテジュンとは違う。だから…ちゃんと言葉で伝えて。どんなことでも』

…ヤな人だ…あなたって…

「そんな風に…僕を好き?」

応えられないくせに…ヤな人だ…

「…。そんな風に…好きだったよ、さっきまで…。でも今は違う。あなたの幸せを祈ってる、本当に…」
「イナ…」
「あなたは確実に一歩踏み出したんだ…」

ヨンナムさんは瞳を潤ませたまま俺の肩に顔を埋めた
散らばった想いが一瞬にして集まる
こんな切なさ、感じたくないのに…

「あなたに、しあわせになってほしいんだ、俺」
「…ん…」

そう願うしかないもの…それは本当だもの…
俺はずっとあなたを好きなんだろう
テジュンがラブを…ラブがテジュンを思い続けるように

*****

膝を抱えていたのは僕
僕は一人ぼっちで
何も見ずに過ごそうとしていた

引きずり出された僕は
お前に甘えてばかりで
お前を傷つけてばかりで

ぬるま湯の中に遊んでいたかった
ここにいたらお前きっと
ずぅっと僕に付き合ってくれるんだろ?

お前の言うとおりだ
僕は、進む
前に…進むよ、イナ…

*****

暫くじっとしていたヨンナムさんが急に顔を上げた

「…ね…。僕さ…」
「うん」
「もし今度チョンエに会ったときにさ」
「…。うん…」
「もしだよ。もし、ヤっちゃったら…お前、僕を軽蔑する?」

…ヤな人だ、まったく…

「…。するよな…」
「…随分素早く前向いたな」
「…だって…」
「…『男』なんだなぁヨンナムさん…」

この人を『抱こう』なんて間違いだったのかな
あの時、スヨンに似てたのに…

フッと笑って彼に言った

「そぉぉんなにスケベだったの?あなたって!」
「だってさあ!」

ヨンナムさんは膨れっ面になった
本当に…
ヨンナムさんと俺が交わることは無いんだ

ヨンナムさんは唇を尖らせて呟いた

「だめかな…人間として僕って失格かな…やっぱり…」
「チョンエとしたいの?それとも女の子なら誰でもいいの?」
「誰でもって!そんなんじゃ!」
「じゃ、チョンエとしたいんだ」
「…いや…そういう…わけじゃ…」
「チョンエ次第だなぁ」
「…」
「焦らないでね。チョンエ、ほんとに怖いから」
「…」
「ん?自信ない?」
「…イナ…」
「ん?」
「ほんとにもう…さ…」
「ん?」
「僕と…キスしない?」
「え?」
「もう…僕とキスしたくない?」
「…」
「僕、したいんだけどな…」

ああ本当にあなたって人は…

「ソクさんだってお前にキスするじゃん」
「…あれは…」
「いいじゃん、キスぐらい…」

…なんてヤな…野郎…

「してもいい?」

…ばか…

「いい?」
「やだよ!」
「んふ」ちゅ
「あ゛」

歩き出したんだろ?振り返らなくてもいいよ

「俺はあなたのおもちゃじゃないんだからね」
「僕、お前が大切だよ、だから…キスさせてね」ちゅ
「あ゛」
「んふ」
「もうっ!俺を…」

これ以上掻きまわさないでよと言いたかったのに…
我儘な唇が俺にまた深くくちづける
区切りのついた俺の心はもう乱れることはないはずだ…

…なんて簡単にいくわけがない
まだ暫くはこの波に晒される
時間をかけて少しずつ、俺の想いは形を変えていくのだろう
この人のしあわせを見届けたい
半分以上欲望で蠢いているその人の舌にも、それに応える自分にも呆れる
もう一度、『想い』を放す
そうやって磨かれていくのかな…あなたと俺は…
だといいな…
俺もあなたが大切だから…

長いくちづけを終えると、ヨンナムさんは俺を抱きしめた

まいったな…あんまりだろう?

『イナ!この手の顔はみんなスケベジジイね!』

チョンエ、どうする?お前えらいことになるぞ…

「…愛って…なんだろう…」
「は?」
「愛するってどういうことだろう…」

全く何を言い出すやら…
そんな難しい問題、俺に解るわけないだろう?

「解ってるのはね、イナ」
「うん」
「テジュンがお前を愛してるってこと」
「…そ…かな…」
「お前だってテジュンを愛してるんだ。僕には解る。だから僕はお前を諦めたんだ」

うそつけ!解るもんか!

「俺が女だったら諦めなかった?」
「ああ、テジュンから奪い取って毎晩たっぷり愛し合うさ」
「…」
「どうせ僕は欲望の塊だ!これからはそのセンで行く!」
「ヨンナムさんらしくないよ…ふはは」
「ふんっ!」ちゅっ
「あ゛」
「言っとくけど、僕、テジュンより『いい仕事』すると思うから!ふんっ!僕はお前とキスするんだ!友達でもキスしたっていいだろ?ふんっ!」
「困った野郎」
「ふんっ!」

怖いな…本気出したらヨンナムさんはきっとテジュンよりすごいだろう…
それをテジュンと2人で見てるのは案外楽しいかもしれない…

「あのさ…ちょっと不安なんだ…僕…チョンエを傷つけないかな…」
「本気で付き合う気なの?」
「いや…そういうわけじゃ…」
「夢通りとんとん拍子に進むとは思えないな」
「…。だよな…。あは。大体、チョンエは済州島にいるんだし…あは…あはは…はぁ…」

意気消沈したのがハッキリと解る。何度か大きな溜息をついた後、ヨンナムさんはもう眠ろうと言って俺の胸に顔を埋めて目を閉じた

「だからっ!自分の布団で寝ろよ!何なんだよ貴方はもうっ」
「ふんっ!一緒に寝るんだっ!ふんっ!」

拗ねた我儘なヨンナムさんはどうしたって可愛らしい
ほんの少しの痛みを感じながら、ヨンナムさんの頭を抱きしめて笑う
そうして俺達はいつの間にか眠りに落ちた


朝まだき  あしばんさん

あの海辺での初めての夜、初めての朝

春陽の海を反射した艶やかな瞳で振り返るドンジュン
僅かでも扱いを間違えると、どこかに行ってしまうのではないかと思った
遂に通じ合えたと同時に翻弄されそうな予感もした

「側にいてくれるか?」
「ひとの気持ちを吸ってると時々自分がその渦に巻かれる」
「いたたまれなくなって誰かに抱いてほしくなる」

あいつは僕の頭をそっと抱きしめた

「いつでもおいで」
「半分こしよう」

半分どころか…



「スヒョンさん、午後の台本の手直し部分、ここ置いとくから」
「はい、あ、シン監督、今日は夕方に終わりますか?」
「うん、あと3カットだから多分ね、お店?」
「ええ…3日も空けるので少し片付けたい仕事もあって」
「申し訳ないね」
「いえ、こちらこそすみません、集中を欠くようで」
「全く不都合を感じてないから大丈夫
 BHCさんのことはプロモの一環と考えてるからOKなのよ、リンクもさせてもらってるし」
「そう言っていただけると助かります」
「そうだ、テヨンさんがスタジオ入りしたから会ってあげて」


テヨンは、スヒョンの妹役の新人女優だ
大学で演劇を学んでいるのだが
たまたま講演に行ったシン監督の目にとまり、キャスティングされた
とびきり目立つような顔立ちではないが
柔らかい物腰と、感受性の強そうなよく動く瞳が印象的な女性だ

「今日はセリフもないから、あまり緊張しないで」
「は…あ、はい…頑張りますっ」
「ああっチーフ、もう、そんなに見つめないの!お手付きしちゃダメだからね!」
「ジ、ジホ監督、スヒョンさんはそんな…」
「わかんないわよぉ~、この人は超天然コマシだから」
「酷い言われ方だな」

「だって、あ、ほら、シャツのボタン3つ開けてるしぃ…もう2個開ける?」
「脱げちゃいますよ」
「ケチだなぁ…昨日も悩殺ペアのバスローブ姿を撮らしてくれないしっ」
「ジホさん、彼女固まってるじゃない」

「楽しいよねぇ?…で?さっきのサインって?…テヨンちゃん、もうサイン求められたの?」
「はい、さっきスタジオの入口でウロウロしてたら見学の方が」
「あ!もしかして真ん中分けの青年?」
「はい…もう、ドキドキしちゃって」
「あはは…彼、手当たり次第にサインねだってたよん」
「ええ、側にいらした守衛さんにもお願いしてました」
「うっはっは、何やってんだアイツ」
「でも、何だかすごく嬉しかったんです」
「そうなの?」
「俄然勇気が湧いてきました」

ジホは「そうかそうか、良かったねぇテヨンちゃん」と頭を撫でながら
横で、密かに微笑んでいる天然コマシの表情を盗み見た
全く…あの充電器君は、自覚なくどこまで充電して歩いていることやら

それにしても、ジホはスヒョンに感心していた
本人がそのつもりかどうかは別として
プライベートと仕事の「ひずみ」を見事なまでに活かしているように見える
それこそ自分で潰れていった役者を何人も見てきたジホには
同僚だという欲目を差し引いても、うまくやっているように感じた

「うふふん」
「何です?」
「いや、チーフ、本当にドツボに嵌ってよくやってるなぁって思って」
「それは褒め言葉ですよね?」
「モチロン」
「後戻りできませんからね」
「ケ・セラ・セラ~♪」
「”知り過ぎた男”だっけ?」
「ピンポン!…あ、ワタクシは何も知り過ぎてないから!」

「何を知ってたって構いませんよ、ジホ監督には感謝してます」
「じゃ恩返しに僕の作品にも出てよ」
「ご冗談を」
「うはは…やっぱ?」

でもそう冗談でもないんだけれどなぁ…というジホの声は
幸いスヒョンには届かなかったようだ



スヒョンが開店前のミーティングに顔を出したのは久しぶりだった
テジンとスハが並んで立っているのを確認して安心する

ミンチョルとは、事務室でごく普通に挨拶を交わしたが
特に撮影に関しての話題に触れることはなかった
ミンチョルの様子が、こころなし堅いように見えて気にはなったのだが
慣れぬ毎日に疲れているのだろうと
その疲れを本当に癒してやれるのは自分ではないのだからと言い聞かせれば
それ以上かける言葉を捜すこともできない

ギョンビンが、やはりどこか堅い表情であったことを見逃した程度には
スヒョン自身も疲れていたのだが、その時はまだ自覚はなかった


「ちーふ、みっかもおやすみですか?」
「ちょっと撮影が…その…尋常じゃなくなるので、申し訳ないけど」
「たいへんですか?」
「ジュンホ君、心配しなくていいんだよ、少しの間だけだから」
「おうスヒョン、店は任せとけ、俺がいるから心配ねぇ
 おまえは、ただ監督さんの期待に応えるべく一発狙ってくりゃいいってわけだ」
「チーフにわかったような口きくな」
「うるせぇな、スタァの気持ちはスタァにしかわかんねぇんだよ」
「こらこら、テプンもシチュンもやめなさい」
「イヌ先生に引き続きご苦労かけますが、よろしくお願いします」
「でもミンチョル、元気ねぇな」

テプンがいきなり水を向けたお陰で
メンバーの目は、一番隅にぼんやりと立っていたミンチョルに注がれた

「撮影、うまくいってんのか?」
「…勿論だ」
「無理すんなよ、根っから不器用なんだからよ」
「大きなお世話だ」
「そう言えば、昨日は誰も撮影報告…」
「そうそう!昨日って言えば、昨日チェリムさんがよ」
「ホンピョ、あいつの件には触れるんじゃねぇ」
「でも、チェリムさん酔っぱらって『もう私ひとりで生きてく』とか言ってたぜ」
「げっ!ホントかっっ!?」
「な?ソグもビョンウもジュノも聞いたよなっ?」
「「「さぁ…?」」」
「おっおまえら裏切る気かっっ!」
「どこまでマジなんだホンピョ!」
「ハイハイ、その話は後で!開店のお時間ですよ」

恒例の「罪なき脱線」で
前日の撮影については突っ込まれることなくミーティングは終わったが
一部のメンバーは、その日ミンチョルがいつもより口数が少なかったのは
その「撮影内容」に関わりがあるのではないかと勘ぐったりもした
勿論、深刻な影を落とすようなものではなかったが



「おつかれ、今日は寮に帰るから、ゆっくり役づくりしてちょうだい」
「わかった」

残業のスヒョンを待ち、駐車場まで送ると言ってついて来たドンジュンは
昼間の快活な雰囲気をそのまま残しているように思えた

「ちっとくらい寂しそうな顔してよね」
「そう見えない?」
「ゼンゼン」
「心外だな」
「暫く会えないね」
「たった3日の話でしょ」
「でも遠くに行っちゃうじゃない」

その「遠く」というのが、いわゆる物理的な距離の話でないことはお互い承知している

「いい仕事してきてね」
「ああ」
「んじゃ…」
「ドンジュン」

するりと伸びた手が、ドンジュンの腕を掴む

「お別れのキス?」
「おまえ、そういう言い方をしないの」
「でもキスってダメなんじゃないの?」
「ん?」
「ジホのおっさんが言ってたもん、特に今回は役のために満たされちゃいけないんだって」
「ちゃんと地の底を這ってみせるよ」
「変な会話」
「おまえも…仕事、無理しないんだよ?」
「うん」

ドンジュンには駐車場の僅かな灯りがもどかしかった
見たくない全てのものを隠して、スヒョンの優しさだけが浮き立つような気がする
橙と暗闇のはざまに、行き場のない憂いを見れば
また、どこにも行かないでくれと懇願したくなる

そんなのは、もう嫌だ

まだドンジュンの肘の辺りにあったスヒョンの右手は
手の甲を掴まれてやんわりと外された

「人生はアップで見ると悲劇だが、ロングショットではコメディだ、って」
「どこかで聞いたな」
「byチャップリン、カメラのユンさんが教えてくれた」
「なるほど」

重ねられたままの指先に小さなキスが落とされて
そして、ゆっくりとドンジュンの手は離れた
ドンジュンの指が冷たかったのは、暫く外気にあたっていたためだろうか

「んじゃ、見送りはここまで、さっさと帰って」
「ああ」
「飲みに行っちゃダメだよ」
「わかってるよ」


車に乗り、キィを回し、その場から立ち去るまで
スヒョンは、ミラーの中のドンジュンを一度も見なかった

逃げ出したい自分を
自覚させられるのは…ごめんだ


ブラックアウト  ぴかろん

記憶が途切れ途切れになっていた
正確に言うと、記憶を途切れ途切れにさせていた
浮んでくる全てのものを外にやって
俺はやっと、ここにいることを噛みしめた


朝、目が覚めてそれから…
みんなで朝飯を食った
Casaまで久しぶりにジョギングした
運動不足気味だったから…
バックパックに済州島土産と『師匠のカロッ』を入れて走り出した
勘が鈍っている
足がうまく動かない
それでも朝の空気は気持ち良い
しばらくは息切れしたけれど、徐々に体が慣れていった

工房で『師匠』にカロッを渡し、早く着て見せてと懇願する
師匠は照れくさそうな笑みを浮かべながらも二階へ着替えに行った
入れ替わりにテスが来たので、チョンエやチス叔父貴たちの様子を話した
テスは瞳を潤ませながら微笑んでいた

元気なんだね?チョンエ…。よかった…

お互いを思いやり、心から幸せを願いあう
チョンエとテスはそういう仲になっている

俺も…

思いかけた時、映像が乱れて飛ぶような感覚に陥った


パンを作っていた
パンをオーブンに入れて、カロッを着た師匠を修行僧みたいだとからかっていた
出来上がりを待つ間、二階でcasaの皆に済州島限定タバコを一本ずつとトルハルバンボールペンまたはストラップのどちらかを渡した
タバコを吸わないテソンにはタバコの代わりに百年草チョコを二粒渡した
師匠以外のcasaの連中は皆、じっと俺を見つめ、それから「どケチ!」と声を揃えて怒鳴った


昼になってヨンナムさんが迎えにきた
ヨンナムさんいきつけの店で昼飯を食う
いつか来たあのアジュンマの店だ
注文した後、アジュンマに土産を買うのを忘れたから、お前のその幼稚園バッグに入ってるおやつをくれなどと言う
俺はその申し出を丁重に断り、結局ヨンナムさんはアジュンマに、今度行った時は絶対いいものを買ってくるからと謝っていた
勿論アジュンマはそんな事を気にしていなかった

飯を食った後、公園にでも行くかという誘いを断り、BHCに向かうことにした
こんな早く行って何するんだとしつこく聞くヨンナムさんに、土産を分ける、と短く答えた
不思議そうな顔をして俺を見たヨンナムさんは、じゃあ手伝ってやると言った
その申し出も丁重に断った
ヨンナムさんはムッとして文句を言った

「だってヨンナムさんきっと『シケてる』とか『セコい』とか『ケチだ』とか言うに決まってるもん!」
「え…ほんとにタバコ1本ずつ分けるのか?」
「うん。きれいな紙に包む」
「…」
「なにさ!」
「…。ま、いいんじゃない?ごさいじからのプレゼントらしくって…」
「ふん!」

アジュンマの店から、『きれいな紙』を探しがてら店まで歩いていくと言うと、ヨンナムさんはますますムッとした
なにかしらのやりとりの後、ヨンナムさんはトラックに乗り込み、本当に送らなくていいんだなと念を押した
頷いた俺を見つめて、染み入るような声でこう言った

「…。今夜、僕んちに来るんだろ?テジュンも帰って来るし」
「…。ん…。多分」

また映像が乱れて飛ぶような感覚に陥った


道すがら文具屋に入り、『きれいな包み紙』を買った
そこから走って店に行った。今度は息切れしなかった

BHCの事務室で鋏とセロハンテープとペンを調達し、店内の広いテーブルの上に土産物を広げた
タバコ一本と、トルハルバンボールペンかストラップのどちらか一つを組にして紙で包む
一つだけ耳のとがったトルハルバンストラップがあり、それを包んだ後、紙の上に『チョングヒョン』と記しておく
チョコレートは二袋ずつ買ってきたので、『オールイン』とBHCそれぞれの『おやつテーブル』に置いておけばいい
Casa組には先に渡したからいいよな…
それから…今日のBGMはコレ…

俺は舞台袖に隠してあるウシクとイヌ先生の特訓用ポータブルCDプレーヤーに、例の、トファン親父そっくりの歌手のCDを入れた
流れてきた曲は演歌もあればポンチャックらしきものもあり、要するにジャンルはごちゃ混ぜのようだ
一番びっくりさせられたのはヘヴィメタルっぽい演奏をバックに、トファンもどき親父のコブシのきいた歌声が「うわんうわん」がなられているナンバーだった
安かったからなぁ…と思いながら一通り聞いて電源をオフにした

俺は手先が器用な方だと思っていたが、こういった「包装作業」には向いていないらしい
なかなか綺麗にできなくて何度も包み直しをした

ウシクとイヌ先生が店にやって来て、俺とその周りを見て絶句した
2人に、もうすぐ終わるから、終わったらちゃんとお片づけしゅるから…と言って作業を続けた
ウシクは唇を尖がらせたまま舞台に上がり、先生は腰をさすりながらCDをオンにした
トファンもどきの演歌が流れ出し、ウシクは唖然とした

「なにこれ…」
「あ…ごめん…。地下鉄で買ったCD聞いてた…」

イヌ先生とウシクに、電車内でか?なんでそんな無駄遣いをする?普通こんなもの買わないだろう!と散々罵られた

「だって…欲しかったんだもん!」
「「なんで!」」
「だってさぁ…このジャケット見てよ!」
「「…」」

2人はジャケットを十数秒見つめた後、顔を見合わせて頷いた
2人一緒に、これなら欲しくなっても仕方ないな…と呟き、CDをダンスレッスン用の音楽に換えていつもの特訓を始めた
トファン親父もどきのCDをジャケットに仕舞いながら、ウシクのダンスを盗み見た
飽きないのかな…そろそろ新しい曲にしてもいいんじゃないのかな…と思った

席に戻って作業を続ける
包んだ紙の上に、皆の名前を書いて、それから

『いつもありがとう  イナ』

という言葉を添えた

休憩している2人に、早速その包みを渡した
イヌ先生はにっこり微笑み、ありがとうと言ってそれを受け取ると、俺が苦労してキレイに仕上げた包みをビリビリ破いた
軽い『ショック』を味わった

「あーあ、センセ。目の前で開けることないじゃん!イナさん、今し方一生懸命それを包んでたんだよ。それにさあ、これ、ちゃんと読んだの?」
「え?」

先生は懐からメガネを取り出してスイッとかけた
ウシクの膨れ面の中で、瞳が潤み始める

「…。う…うしく…へ…い…い…いちゅ…もあ…いがといな?…いちゅもあ…いが…。…。ああ!『いつもありがとう いな』…か」

再び『ショック』の感覚を味わった
俺の字はそんなに読み難いのか?そして皆にもこんな風に破られたらやだな。どうやって渡すのがいいかな…と虚ろに考えていると、ウシクがそっと包みを開けて言った

「…イナさん…」
「ぁん?」
「…。あの…。ありがと…」
「ぉん」
「けど、なんでタバコが一本だけ?」
「…らって…タバコって好みがあるだろうし…」
「これ…なんのタバコ?」
「済州島限定販売のタバコ」
「…。これじゃなんだか解んないよ…」
「…」
「…。あ…。このトルハルバンストラップ…か…かわ…かわい…」
「…」

視線をあちこちに飛ばして『可愛い』と言い切れずにいるウシクを見つめながら、俺は渡し方に工夫がいると考えた
『オールイン』分とBHC分に分けて袋に入れ、セロハンテープとマジックと紙とタバコの空き箱とチョコレートを抱えて店内から出た
どこ行くの?お片付けは?!と怒鳴る声に、すぐ戻るからと答え、ロッカールームに向かった

ロッカールームのドアにタバコの空き箱と『済州島限定タバコ』と書いたメモを貼り付ける
それから各自のロッカーに包みを貼り付ける

『○○へ いつもありがとう いな』

その文字が目の高さに来るように丁寧に貼る
BHCの皆は身長が同じだからラクチンだ
スヒョクとソク、ウシクとイヌ先生、それからcasaの連中には先に渡してあるから『いつもありがとう』の紙だけを貼り付ける
それから厨房の『おやつテーブル』に、適当な皿を四枚出し、パイナップル・百年草・緑茶・柑橘の四種類のチョコレートをばらして入れた
皿を並べた真ん中に、『一人二粒ずつ!済州島名物のチョコレート いな』というメモとチョコの空き袋を残す

『オールイン』でも同じように土産物をセットする。ロッカールームの戸口には済州島限定タバコの空き箱とトファン親父もどきのCDを貼り付け、『済州島限定タバコ。CDは見つめてから聞いてください いな』とメモを書いた
その作業を終えると俺はまたBHCの店内に戻った

トファン親父もどきのCD


ブラックアウト 2  ぴかろん

BHCの店内に戻り、散らかったゴミを集め、文具を事務室に戻し、ウシクの掃除を手伝った
ほんとは店に来てすぐに掃除するんだからね!調子狂っちゃう、もう!と、ウシクは少しきつい口調で言った
イヌ先生が拗ねたような顔をしているので喧嘩したんだなと思い、何も聞かなかった

ウシクは突っ立っている先生の足元を邪険に掃いた
イヌ先生が咳払いして小声で何か言った
するとウシクはトン☆と箒を床に立てて息を吸い、ハキハキと言った

「せんせったら持ち上げようとするんだもん!絶対無理なのにさ!」
「ウシク!イナが聞いてるだろ?!」
「なんでもかんでも僕の真似しないでよ!」
「お前にできて僕にできないって事はないだろう?!」
「僕は若いんだからね!」
「…む…。…。努力したのに…」
「無理して潰れちゃって。何にもなんないじゃん!ふんっ」
「…。今日は大丈夫だ…」
「一週間無理しちゃダメって言われたでしょ?!ホントにぎっくり腰になるよ!」

意味深な会話を聞きながら、俺はテーブルを拭いた


今日の営業は久々に全員集合した
ロッカーに貼り付けた土産について、皆が口々に感想を言った

…手間ひまかけてあるけど変わった土産だな
…1本だけってなんでなの?

…イナさんありがとうございます!大切にします!この1本は、気分が落ち込んだときに吸わせていただきます!
…そんな時待ってたら湿気っちゃうから今日中に吸っとけよ
…大丈夫だよ、今日中に気分が落ち込むよ、コイツ

…なんかジジむさくない?このボールペン
…それがいいんだよ、きっと

…チョコ、二粒って少なくない?
…ちょっと待ってよ、僕はタバコ貰ってないんだからもう二粒食べてもいいんだよね?
…ずるいじゃんテソンさんだけ四つも
…僕は料理人として色んな物の味を確かめなきゃなんないんだから!

…この『百年草』ってどういう効能だっけ、ビョンウ
…そんな事も知らないで、よく薬屋やってられますね!『百年草』ってのは、ええっと、済州島でしか生息しないサボテンの実で天然記念物にも指定されてるんだって。それでこのサボテンの実と葉で作ったお茶は呼吸器系の疾患、鼻炎・胃炎・肝炎など体内の炎症を抑えたり、血液の循環も良くしたり、糖尿や癌も抑える作用があるらしいと。繊維質が豊富なので、便秘も解消されるし利尿効果もあってむくみも改善されるし、まさに万病に効くらしいと
…ふぅん、知らなかったなぁ、僕、蜜柑チョコと緑茶チョコにしようっと
…じゃ、僕はパイナップルと緑茶ね

…ほんとに体にいいのか?万病に効くのか?じゃあ俺は『百年草』にしよう!これで俺の気弱さも治る!
…そうなの?万病に効くの?じゃあ僕の○○も解消されるかな?
…アンタのは『精神的な不能』でしょ?!
…あっ、ラブ、そんなハッキリと…

…ちょっと!『百年草』はジジイ組にあげなよ!
…ジジイ組って誰よ、チョンマン
…監督とかイヌセンセとかソヌさんとか
…ボク、ジジイ組?(@_@)
…え…あ…
…ね。ジジイ組なの?(@_@)
…う…いや…
…ボク、パイナップルと緑茶にしたいのょ(@_@)
…あ、はい!どうぞ!お好きなのを!

そんな声を俺は聞き流していた


休暇中だったスハが爽やかな顔をして出勤し、ご迷惑をかけましたと皆に謝っていた
テジンは隣で穏やかに微笑んでいる
なんだか知らないが前より一層仲良くなったみたいだ

営業が始まった
スヒョンやミンチョルもいたので、常連のお客様は口々に、全員いると壮観よねぇと仰った

そう言えばテジュンは何時に帰って来るのだろう…

そこから営業が終わるまで、俺の頭の中には、一瞬見たドンジュンの、太陽みたいな笑顔だけが残っていた


流れるままに外に出ると、ヨンナムさんが待っていた
ソクとスヒョクも拾ってヨンナムさんちに帰る

あれ?なんで俺はヨンナムさんちに行くんだ?
あ…そか…
テジュンが帰って来るんだった…そか…


宴会準備の整っている居間に行き、順番に風呂に入る
もう十時半だというのにテジュンは帰ってきていない
どうして俺はテジュンに連絡してないんだろう…

「しかし最終便ってなぁ。随分しぼられてるんだなぁテジュン」
「え?」

最終便で帰って来るの?あれ?聞いたっけ?
…驚かないってことは、知ってたんだ俺…あれ?いつ知ったっけ?

記憶が途切れ途切れになっていた

「そろそろ着いた頃じゃない?」
「だよな。手続き完了して11時か…。タクシーすっ飛ばして1時間?」
「待ち遠しいだろ?イナ」
「え…。あ…うん…そだな…」
「「「いや~んえっちぃ~」」」

声を揃えて俺をからかう3人に笑いかけた
気分と体がちぐはぐに動いていて、反応がおかしい
待ち遠しいからかな…

目の前の酒を煽った


電話が鳴る
テジュンからだ
今、着いたけど、仕事の報告するから先輩の家に泊まる
今夜中に報告済ませたら、明日は丸々休めるからさ…
明日の朝、できるだけ早く帰るから待っててね
そう言って電話が切れた
宴会中の3人に電話の内容を伝えると、その手の顔の二人が、なぁんだよあいつったら、それならそうともっと早くに連絡しろよ…とここに居ないテジュンの悪態をついた

1時前に宴会を終えた。スヒョクとソクはまた二階に上がっていく。俺はどうしたらいいのだろう…
迷っているとヨンナムさんが、テジュンの部屋で寝なよ、朝帰って来るんだろ?と言い、それもそうだと思って俺は二階に上がった
布団を敷いて灯を消し、天井のモビールを眺めた
眠くなったので俺は目を閉じた

*****

会議の報告を全て終え、明日休みますからね!と強く言い、先輩の隣で眠った
電話が鳴り、飛び起きる
4時だ
誰だ!こんな時間にっ!
僕は電話に出た

『…あいたい…』
「…。イナ?」
『…はやくあいたい…』
「…。どしたんだ!何かあったのか?」
『…。夢見ちゃって。朝帰って来るんだよな。起こしてごめん。待ってる…』☆

何かしら心がざわめいた
夢?
怖い夢?
寝ぼけてただけ?
電話を弄くりながらあれこれ考えた
それから、隣でイビキをかいている先輩を叩き起こし、今すぐヨンナムの家に送ってくれと言ってやった

大変よい睡眠を邪魔され、私はご機嫌斜めです!と『英訳問題文』のような言葉を呟きながら鋭い眼光で僕を見る先輩を
その数倍鋭い眼光で見返した
おや、どうしたことかあなたもご機嫌斜めですね?違いますか?
第二問を発する先輩のパジャマの胸元を掴み、僕はアンタのせいでジェットコースターに乗せられ悪酔いしたんだぞ!アンタ、ちっとは僕のために働けよ!と凄んでやった
そんな凄みが効くはずないけれど、先輩は、おおこわ…怖いわぁ…と言いながら、枕元の洋服に着替え始めた

「お前、その格好で帰る?」
「…」
「ん?なによ」
「…送ってくれるんですか?」
「お前が送っていけって言ったんじゃないよぉ!んもぉ…ジャンス、送るのよそうかな~♪」
「あ…いや…是非送ってください」
「んふ。ジャンスったら気のいい男だわぁ~」

先輩はサッサと着替えると、俺を急かし、玄関へと急がせた

「ママ~、ジャンスねぇ、テジュンをおうちに送ってくるから~。そのまま出勤するから~」
「…はい」
「…あら?ママ、寂しくないの?怒らないの?」
「…なんで?」
「『パパはお友達と家族とどっちが大切なの?!』って怒鳴らないの?」
「…なんで?いってらっしゃいよ…」
「ママ?もしかして…ママ…、ジャンスを愛してないの?!(;_;)」
「…うるさいな…。ああ愛してますよ。いってらっしゃい!」
「ああん…なんだか冷たいジャンスー」
「…。早く行けば?!」

怒鳴られてションボリする先輩を小突き回してエレベーターに乗せた
車に乗り込んでから先輩に、申し訳ありませんと詫びた
先輩は、今頃言われてもぉ~と身をくねらせてから真顔になり、いいんだよ、丁度いいじゃないか、俺もヨンナムさんちに泊まるっちゃ~(^o^)と叫んだ

「会社、行くんでしょ?」
「あうん(;_;)、仮眠ぐらいいいじゃないっ!」

そうして僕と先輩は、明るさを増して白み始めた空の下をぶっ飛ばしながら目的地に着いた
鍵と引き戸を開け、土間に一歩踏み入れた
ただいま、イナ…帰ってきたよ…


ブラックアウト 3  ぴかろん

僕は居間を覗き、そこに誰もいない事を確認する
念のためヨンナムの部屋を覗くと、僕の後ろからドタドタと先輩が入っていき、ヨンナムの横に寝っ転がった
ヨンナムはビクリと起き上がり、恐怖に引きつった顔で先輩を見た

「あ…え…え?!」
「おはヨンナムさん。もちっとねんねジャンスー」
「は?え?」
「あまりにダサい駄洒落ですまん、ヨンナム。今その駄洒落先輩に送ってきてもらったんだが、仮眠させてやってくれないか?
なに、布団はいらない。このまま横たえておけばいいから。それより…イナは?」
「…」

ヨンナムは目を白黒させて寝転んだ先輩を見、それから僕を見て人差し指を一本上に向けて立てた

「サンキュ」

僕は足音を忍ばせ、二階に上がった
部屋のドアを開け、薄明るい部屋の中に小さな山を確認する
そっと近づき様子を窺うと、切羽詰った声で『あいたい』と呟いた主は、携帯電話を手に眠っているではないか

こんの野郎…泣きながら待ってるかと思ったのに…

後ろからそっと抱きしめるのがいいか、それとも正面からいきなり濃いめのキスを浴びせるのがいいか、あれこれ考え顔がほころぶ
床に膝をつき、イナの頬に唇を近づける

いつもと空気が違う…

少し離れて眠っているイナをまじまじと観察する

なに?この『寂しさ』は?
僕が帰って来るってぇのにどうして『寂しい』の?

いや、寂しいと言うより…

『手に取るように』というわけではないが、漠然と伝わってくる
どうして僕は、こいつのそんな部分を感じ取れるのだろう…

枕元にギョンジンとラブとイナと僕が行った『ねずみーらんど』での写真が置いてある
これを見ながら眠ったのかな…

写真の中のギョンジンに、なんだかお前の境地に近づいてるみたいだよと語りかける
そうして僕は、イナの背中から腕を回して、彼の体を柔らかく包み込んだ
僕の体温が伝わったのか、イナの体がピクリと動いた
イナは首をゆっくりと回して振り返った

怯えた瞳が飛び込んできた
僕はずっと微笑んでいた
怯えは一瞬で消え去り、安堵の色と甘えと、抑えていたらしい諸々の感情を溢れさせ、イナは体ごと僕の方を向いてゆるやかに胸に納まった
何度も大きく息を吸っている
柔らかい髪が僕の顎を擽る
その感触を楽しんで、抱きしめる腕に少しだけ力を加えた

呼吸が穏やかになってから、僕は小さな声で彼に言った

『おかえり』は?

ん?『おかえり』は?

イナ?


答えがないので顔を覗き込むと、イナは寝息を立てていた

なんだかなぁ…随分安心してくれたようだなぁ…

僕はもう一度写真のギョンジンを見つめてフフッと笑った

*****

「あの…ジャンスさん…布団敷きますから…」
「いージャンスよ、このままで」
「いや、気になりますし。もしよければここで寝ますか?あっ!僕はもう起きますから!」

ガタイのいいジャンスさんと同衾する気は毛頭ないので慌てて断りを入れた

「もう起きる?配達行く?」
「…そろそろ…かな…ちょっと早いけど朝一の配達に…」
「ならジャンスのお話、聞いてちょ」
「…」

可愛い子ぶりっ子のジャンスさんは、正視も制止もできない

「あのねーヨンナム君の従兄弟さぁ」
「…テジュンの事ですか?」
「そそ。あいつがさー、済州島でお仕事してたじゃん?」
「はい」
「それでさースヨンさんいたじゃん?」
「はい」
「いい人よね?」
「…。はい。いい人ですけど…」

まさかジャンスさん、イナの計画の一端を担っているとか?

「でね。ジャンス、スヨンさんにヨンナムさんをご紹介申し上げたくてぇ~くふんくふん」

その『まさか』なのか?!
妙にくねくねしているジャンスさんは阻止できるだろうか…

「あのぉ…イナの計画のお話でしたら、僕、その…スヨンさんは…」

はっきりと言わなくては…
どちらかと言うと、チョンエとの方が気が合うことを…

*****

目を覚ますとテジュンの香りがした
俺を包んでいるのは間違いなくテジュンの腕だ
ゆっくりと顔をあげてみる
テジュンがすぅすぅと眠っている

ああ…テジュンだ…

手を伸ばして、彼を起こさないように、睫毛に触れる
それから唇にも…
テジュンだ…

途端に、途切れていた記憶の数々が甦ってきた
昨日抜け落ちていたそれらの出来事が次から次へと押し寄せてきた

「…おはよう、イナ…」

しゃくりあげていたのか、嗚咽を堪えていたのかわからない
目の前のテジュンがぼやけた視界の中で微笑んでいる
テジュンは何も聞いていないのに
俺はテジュンに話そうと思っていないのに
唇から『途切れていた記憶』が語られる

正確には『途切れさせていた』記憶…

微笑みを絶やす事無く、テジュンは俺を包んでいた

**

朝、飯を作るからと言って俺から離れようとしたその人を引き止めた
なあに?どうした?と優しく微笑む顔を、穴があくほど見つめた
もう少し、と俺は囁いた
ん?なぁに?
長い睫毛に縁取られた瞳が、細く撓っている

「もすこしだけ…こうしていたい…」

ぴくりと眉を上げて戸惑う
くふんと鼻を鳴らし、恥ずかしそうな顔をする
ご飯の支度しなきゃさ…お前も手伝えよ、な?…そう言って俺の肩をポンと叩く腕を掴む

「んふ…どうしたんだよ…。まだ怒ってるのか?」
「…」
「『女だったら』の方か?それとも『キス』?」
「…キス…」
「いいじゃんか、キスしたって」
「…しよ…」
「…ん?」
「キス…しよ…」

涸れた声しか出なかった
喉を鳴らしてヨンナムさんがまじまじと俺を見た

「…。ふ…。いいよ」

唇も瞳も戸惑いながら頷き、軽く降りてくる
すぐに離れようとする肩にしがみつく

「なに…お前…。どしたのさ…」
「もっとすごいキス…しよ…」
「…なんだ?今度はお前が変な夢みたのか?」
「…しよ…」
「朝っぱらから…。ソクさん達に…」

柔らかい唇に触れ、吸う
ヨンナムさんはまた唇を離して俺を見つめ、それから…
昨日の夜のようなキスをした

全ての一瞬は二度と戻ってこない
この瞬間だけじゃないのに…
なのに俺は縋りつく
確実だから…貴方と迎えるこんな朝が最後だってことが…

「…ん…。イナ…。もう起きなきゃ…んふふ…」

鼻に小さな皺を寄せ、微笑むヨンナムさんを飽きずに眺めた

「ふ。お前ったらテジュンといつもこういう感じなの?いいな…僕もこんな風にできるかな…」
「…。うん…」

額にキスをして起き上がろうとする彼に、また、もう少しだけと俺は言う

「…どうしたの?変だよ、お前」
「…ん…」

―ドドドドガタン☆
―あれ?まだ寝てるのかな?ヨンナムさぁん!朝メシ、何にしますぅ?

「あ!今行きます!待ってて!…ほら、ソクさん達、起きてきたから」
「抱きしめて」
「…イナ…」
「…も…一度だけ…」
「…」

―ヨンナムさぁん!

「しょうがねえな…」

呟いて俺を強く抱きしめ、それからもう一度キスをしてくれた
甘く痺れるキスを
頭の芯がクラクラするキスを
離れかけて何度も
軽く
音を立てて
あなたはキスを楽しんだ

それからヨンナムさんはニコッと笑い、俺の鼻をチョンと突いて、ソク達に答えながら部屋を出て行った


もう決してこんな朝は来ない

俺は未練がましい男だ
さっきクラクラした場所がツンと痛む
さよなら…
再びと望んでも得られないシーン
一つずつ、さよなら…
溢れそうになる涙と、二度と訪れない光景を、切り取って箱に入れた









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