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ぴかろんの日常
リレー企画 276
なりゆき 12 ぴかろん
『癒しの時』を終え、ソクとイナは家の中に入る
「あのね、僕、二階の馬鹿の様子見てから戻るね」
微笑むソクに委ねようと思い、イナはコクンと頷いた
「『寄り道』せずに『ボクのスヒョクとチョンエさんの間』でちゃんと寝るように。いいね?」
ふふ。くすくすと笑いながら頷き、イナはソクにバイバイと手をふる
…バイバイじゃねぇよ、子供っぽい野郎だ、全く…
あんな子供相手に、よくやってるぜ、テジュン…
ソクは階段を静かに上りながら思った
部屋に戻り、座卓の上に書類を広げる
『中文観光団地および西帰浦(ソギポ)内のホテルにおける接客サービス向上及び地元道民との提携・講習について』
長々と書かれた表題を擦り、テジュンはヨンナムとチョンエの姿を思い浮かべる
にこやかな笑顔の後ろに、涙を湛えたイナの瞳が見える
あの二人の幸せはイナを苦しめる?ヨンナムがいつまでも一人でいることはイナにとって幸せ?じゃあ僕はどうなる?
頭を振り、書類を捲る。『道民との提携・講習…講師候補者』と書かれた欄に、チョンエとヨンナムの名を連ねる
うまくいけばいいのに…そうなればイナも諦めるだろう…
諦めた後、その後はどうなる?僕のところへ帰って来るという保障はあるのか?
「はあ…」
天井に目をやると、ゆらゆら揺れ続けるモビールがある
まだ返してない。返さなきゃな…
立ち上がってモビールを留めたピンを外す
ひもが絡まないようにそっと箱に仕舞う
絡まないように仕舞って、ぴっちりと蓋を閉めて、燃やしてしまいたい…
イナの持つ黒い箱も、自分のもつそれも一緒に煙にしてしまいたい
そんな事をしたって、きっとまたどこかで容れ物を見つけてくるに決まってる
噴き出す黒い思いをそのままにしておくのは耐えられないからね…
自分をいい奴だって思いたいんだ僕もあいつも…
そんな真っ黒なものは纏めて捨て去りたい…
モビールを仕舞い終え、テジュンはその箱をキャビネットの上に置いた
唯一飾ってある写真を見て、この笑顔は二度とできそうにないと感じた
…お前だってそうだ。もう戻れないだろ?ヨンナムをよく知らなかったあの頃には
イナの笑顔に触れ、それから、メッシュの髪をした可愛い男の顔に触れる
…ねぇ…あのまま逃げちゃえばよかったね、お前と…
そしたら僕ら、ずっと後悔して生きていくのかな
ううん、あまり変わりないだろうね
今の思いとさほどの差はない
どこで誰と生きていても、悩んだり泣いたり笑ったり喜んだり悔やんだり…
でも、あのままお前といれば、僕はもう少しぐらい幸せになったろうか…
馬鹿な事をとテジュンは自嘲し写真立てをパタンと伏せた
キャビネットの端に並べられた資料を探していると、大き目の封筒が出てきた
「…あ…。これ…」
鮮明に覚えている。何が入っていて何が描かれているのか…
唾を呑み込み、テジュンはそっと中の紙を取り出す
祭りの時の一場面。物静かな画家が描いたスケッチ。これはイナとのキスシーン。自分の頬がきゅぅっとすぼまっていてリアルだなと思う
改めて見てみると面白い
…僕はイナとキスする時、こんな顔になるのか…
恥ずかしさよりも興味深さを覚えた。ならば自分と同じ顔のアイツもこんな風に…
イナとよりを戻した時だったっけ…、イナはどうしてもアイツと一つになれなかったと言った
気持ちを高めようとして密着した浴場での話も、今一歩で未遂に終わった睦み事の話も、僕は冷静に受け止められたと思ったのに…
なぜ甦る?なぜ自分の絵を見ながら、アイツとイナのその場面を描いてしまうんだ?
愚かしい…自分で自分を追い詰めて…
テジュンはもう1枚重ねられている絵を見た。イナがよくやるポーズだ。テーブルに右手を伸ばし顎を乗せて唇を半開きにしている。その、甘えた顔が堪らなく好きだ。ヨンナム、お前、見たことあるか?ううん、ないだろう?
イナは僕にしか甘えられない。僕にしか…
…なんの根拠もない…。過去に縋りついてるだけだ…
テジュンはその絵を封筒に仕舞おうとした
コンコン☆
「入っていいか?ソクだけど」
ドアに振り向いた瞬間、涙が頬を伝った
…泣いてたんだ、僕…
慌てて涙を拭い、返事をする
「おや。泣いてた?」
「え?」
「…。懐かしいもの引っ張り出しちゃって…思い出に耽ってたのか?」
「…あ…。いや。探し物してたら偶然見つけちゃってさ…」
ソクはテジュンのそばに来て絵を見つめた
「可愛い顔。よく見せるよな、この必殺ポーズ」
「…え…」
「何度か見たぞ」
「…」
「ん?…ははぁん、さてはお前だけが知ってるイナの顔だと思ってたな?」
図星をさされてテジュンは素早く絵を仕舞う
「なんだよぉ、見せてくれよう。もう1枚あるだろうが」
「…何しに来た。何の用だ」
「…」
「仕事するから出てってくれないかな…」
「イナに言っといた」
「何を」
「テジュンに全部見せろって」
「…」
「あいつ、お前に中途半端な甘え方してるだろ?へんなとこ隠してさ。丸見えなのに」
「…何の話しだよ。下ネタなら宴会の時にしてくれ…」
「気持ちだよ、あいつの感じてることや考えてることやそういうもの全部をお前に…」
「…あいつは話してくれてるよ。心配ご無用だ…」
封筒を書類の間に収めながらテジュンは平坦に答えた
「お前さ」
「なんだ」
「よくやってると思うよ」
「…」
「頑張ってると思うよ僕は」
ふいにかけられた言葉に、テジュンは戸惑い、慌てて書類を探すふりをした
「…。仕事の邪魔したな。…。僕が思うに…、もうちょっとだ…。もうちょっと踏ん張れや、な?」
肩を叩いて扉に向かうソクに、テジュンはコクリと頷いた。それだけで精一杯だった
何か喋れば、きっと気持ちが溢れ出てしまう
せっかく励ましに来てくれたソクにある事ない事喚き散らしそうだ…
それでも、一つだけ聞きたいことが思い浮かんだ
テジュンは閉じかけたドアに向かってソクの名を呼んだ
パタン…
声が小さすぎて聞こえなかったのだろう…
テジュンは俯き、また嗤った
「呼んだ?」
扉が開いてにこやかな顔が覗いた
「僕、耳はいいからね。なに?」
「…あ…の…。あのさ…」
どぎまぎしながら一つずつ言葉を発した
「あ…の僕…僕さ…。間違ってるのかな…」
「ん?」
「…水と肥料のやり方…。また間違えてるのかな…」
体が少し震えている
こんなテジュンは見たことがないと、ソクは思った
「…間違えてないよ。ちゃんとタイミングよく与えてる、と思う」
「…。ならどうして…」
「育てるほうがきっちり育てても苗が我儘だとうまくいかないこともあるさ」
「…」
「あとは根気だね。チョンエさんも言ってたろ?あの苗は根気が必要だって。素直そうに見えて、どこに突っ走るかわかんない。ある程度の自由とある程度の締め付けと…立派に花を咲かせようと思ったら育てるほうも大変だ。な?」
「…。立派な花じゃなくていいのに…」
「…テジュン…」
「たった一つでいいのに…」
「心のこもった優しい言葉をかけてやると、花は喜んで美しく咲いてくれるっていわない?人もそうだと僕は思うよ、テジュン」
「…」
「お前ならできるさ」
「僕は…。そんなに大きな人間じゃない。ちっぽけで浅ましくて、思い通りにならないと顔で笑って心で罵るような、そんな人間だ…」
「…」
「失くしたくないと思ってる。いつも優しくしてやりたいと思ってるんだ。だけどできない…」
「…誰だってそうだ。お前はうまく水と肥料を与えてると思うよ。自分の思う通りにできる時も、そうはできない時もあるさ」
「…」
「お前が頑張ってるの、僕は知ってるから。もう少しだよ、テジュン」
「…」
「そだ。もし辛くて我慢できそうになかったら…」
ソクはもう一度テジュンの部屋に入り、さっきイナにしたように大きく両手を広げた
そしてクイクイと長い指先を曲げ、こっちへ来いと合図した
テジュンは苦笑し、間に合ってるよと答えた
「そう?いらない?イナは喜んで飛び込んできたのになぁフフン」
「イナが?」
「フフン。僕の魅力は健在かもよ。どうする?テジュン」
「…口ばっかりなんだからな…」
「強がるなよ。妬けるだろーが」
「全然。そうだな、思い浮かぶ図は…『おじいちゃんに甘える孫』ってとこだな…」
「…お?言うなぁ。ちくしょう…イナに電撃キッスも食らわしときゃよかったな…」
「やめろよ、ハッタリは」
「うふふ。元気出たみたいだな?踏ん張れよ。フォローはするから…」
「…。さんきゅ…」
「ん。じゃ」
「…スヒョク君」
「ん?」
「…僕の事、呆れてるんだろうな…」
「え?」
「…僕が…イナに優しくないから怒ってるんだろ?」
ソクはフッと笑うと首を横に振った
「なんなら一度スヒョクと話してみる?あ、言っとくけど話すだけだからな!一メートル以内に近づくなよ」
「…なんで僕がスヒョク君と?」
「お前、自分を許せないって悩んでないか?決心したことを覆してしまう自分がいやで堪らないって思ってないか?」
「…」
「それ、僕もスヒョクも同じだぞ。ついでに言うと、イナもな」
「…」
「ああそうだ。僕さっきイナに『逃げるな』って言ったけど、間違えてた。あいつは逃げちゃいない。ただ、そう…『ねじ伏せてる』」
「『ねじ…伏せる』?」
「あ…や…はは。それは僕がスヒョクに言われた言葉だった…。イナにはちょっと大げさかな…うーんそうだな…イナは子供だから、そこまでは知恵が回らないか…つまり…『目を逸らしてる』って言うべきなのかなぁ…うーん…」
「お前何言ってるの?」
「へ?」
「わけ解んないや。仕事するから出てって」
「は…ほ…ぉん…。んじゃ…」
「ああ、ソク」
「はい?」
「…。感謝する」
「…」
「嬉しかった…」
「…なんだよ、らしくねぇなぁ…」
頭を掻きながら照れた顔をするソクに、テジュンは抱きついた
「げええっ!なっなっテジュン!どし…どしたんだっ(@_@;)」
「うるさい騒ぐな馬鹿野郎、お前が『来い』って合図したんじゃねぇか!」
「…テジュン?…泣いてるの?」
「うるさい!」
まさか胸に飛び込んでくるなんてと面食らったソクではあったが、自分に縋りついているテジュンの震える肩をそうっと撫でてやった
変な気分だった。同じ顔の大人の男が、自分の胸で泣いている
「可愛いな、お前」
「うるさい…黙れよ…感謝してるのに…」
「…そんなにキツかったのか…可哀想に…」
「…じいさん…」
「む」
「…。さんきゅ…もういい…」
「もういいってなんだよ!ついでだから悩み事、聞いてやるぞ」
「いいよもう…ありがとう、嬉しかったんだ…『頑張ってる』って言われてさ…。気持ち、軽くなった…」
「…テジュン…」
「仕事するわ…」
「…あ…うん…」
ドアを閉じたテジュンの、涙に濡れた睫毛が視覚に残っている
「でもまだだなぁ」
かなり解したつもりだが、最後の砦には辿り着けない
階段をゆっくり降りながら、ソクは呟く
「はぁ…。力及ばず…か。手強いヤツラだよ…」
スヒョクが僕を露わにしたようにはいかない…
やっぱりお互いが向き合わないとなあ、スヒョク
居間に戻って寝床に滑り込むと、ソクの『切り込み隊長』が体を寄せてきた
イナとヨンナムが寝息を立てているのを確認してから、ソクとスヒョクは顔を寄せて小声で話した
…お帰りなさい、首尾は上々?
…なかなか…。やっぱりさ、愛がないと…ね
…でも助けにはなったでしょ?きっと…
…そうだといいけどな…
…五歳児は確実に癒されてましたよ。『ハグされた、ごめん』って言われたけど他には?何もしてないでしょうね
…うーん…
…え?したの?
…テジュンもハグした…
…ええっ!
…キツいんだろうな、思った以上に…
…そっか…
…あとは二人に任せよう
…そうですね…
それしかないですよね…二人の問題なんだから…
呟いたスヒョクの唇にそっとキスをして、ソクはありがとうと言った
この子が諦めずにぶつかってくれたから、今の僕があるんだ…
揺れても落ち込んでもいつもこの子がいてくれるから…
イナ、テジュン、お前らだってそうなんだぞ
ソクはスヒョクを緩く抱きしめた後、彼の体をイナの方に向けた
…五歳児は寂しがりやだから僕達が抱き合って眠ってたら、また変な方向に走っちゃうかもしれないし…
スヒョクはにっこり笑って頷くと、おやすみなさいと声を出さずに言った
きっとうまくいきますよ、愛し合ってるんですから…
頭の中に流れる心地よい声を聞きながら、ソクは眠りに落ちた…
(出張サイド)ミソ&フェルデ2 あしばんさん
☆もしもしフェルデしゃん
ーおはようございます、ミソチョルさま
☆ミルキー同士がハグでしゅ!
ーは?
☆ソクしゃんとテジュしゃんがハグしたようでしゅ!
ーさようですか、よろしゅうございました
☆よろしくないでしゅ!大事な箱を捨てて、イナしゃんを苗にして水かけるって言ってましゅ!
ーは?
☆おまけにおじいちゃんになって孫を作るって言ってましゅ!
ーそれはそれは難しそうな作業でございます
☆きいっ!それにテジュは他の子と逃げるって言ってましゅ!ゼロゼロ
ーあの…ミソチョルさま…ちょっとお待ち下さい
☆あ…あい…
ーお待たせしました
☆でもってでもって
ー今「なりゆき12」読んでまいりました
☆えっ
ー大丈夫でございます、何も心配されることはございませんよ
☆えっ?どーしてでしゅか!ミソが読んだ時は…
ーミソチョルさま、もうすぐ運動会でお忙しくしていらっしゃいませんか?
☆あい、BHC借り物競走に出ましゅ!毎日特訓で疲労困憊でしゅ
ーそれでございましょう、ちょっと休憩なさいませ
☆そですか?
ーはい、テジュさまもソクさまもイナさまも、皆さま一生懸命でございますよ
☆ホントでしゅかっ…助けてコロって声が聞こえたのでつい…
ーあれはぴかさまの愛の叫びでございます…真実の愛を描くには痛みが伴うのでございます
☆しょうでしたか
ーですから、ご安心なさいませ
☆わかったでしゅ、ところでフェルデしゃんも運動会に出ましゅよね
ー私は運動は苦手なので、貴賓席に…
☆ダメでしゅ!参加してくだしゃい!ちょっと調整してきましゅ!(テテテ…)
ーあ、ミソチョルさま!…やれやれ…
細長い闇4 あしばんさん
夕方遅くなって、ギスが到着した
ベッドの横の椅子に座って
ぼんやりと暮れていく西の空を眺めてた僕が振り返ると
病室のドアを開け放したままのギスが
今にも泣きそうな顔をして突っ立っていた
手には何も持ってない
僕との電話の後、ほんとにあのまま空港に直行したのかもしれない
ギスは何も言わずにベッドに近づき
ハリョンの寝顔を覗き込むと
その時、ようやく僕の方に顔を向けた
「薬で眠ってるわけじゃない、疲れてぐっすりだよ」
「…」
「大丈夫、出血はほぼ止まったらしい」
「…あ?」
「あとは先生に聞いて」
「ああ」
「じゃ、僕は店があるから」
立ち上がった僕を、ギスは、らしくもない、すがるような目で見た
おそらくここに着くまでの何時間か
形にならない不安でいっぱいだったんだろう
「目が覚めたら、全部聞いてあげてよね」
「…え…」
「おまえのことばっか考えて、自分のことはみんな後回しなんだ、ハリョンは」
「…」
「気は強いけど、きっと甘えたいんだと思うよ、だからちゃんと聞いてやって」
そりゃ誰のことだよ
って自分にツッコミ入れながら、僕はドアに向かった
「ドンジュン」
「ん?」
「あ…いや…その…世話をかけて…すまなかった」
「電話で言ったのはホントのことだから」
「え?」
「僕にとっても大事な人だってこと」
「ああ」
「僕が貰うってのは取り下げるけど、でもおまえの出方次第じゃ復活だからな」
「…」
「じゃあ」
「ドンジュン!」
「あ?」
「あの…医者に様子を聞いてから…相談させてもらっていいか…今後のこと」
「ばーか、ふたりで考えろ」
「…」
「あ、ベビーシッターの相談ならOKよ、店にわんさかいるから
硬軟取り混ぜていつでも紹介すっからね」
ちょっと妙な顔をしたギスに、ピラピラと手を振って部屋を出た
本当に、ギスが病院に直行してくれるのか
ほんの少し不安だったから、心底ホッとした
ホッとしたせいなのか
それとも神経使っちゃったせいなのかわかんないけど
店に着くまで僕が想像したことといったら
まるでおかしかった
ギスに任せておけなくなった僕は、ついにハリョンを奪い
彼女と子どもと生きてく決心をするんだ
小さなマンションかなんかを借りて
ハリョンは相変わらず仕事に出てるから
僕は、昼間はどっぷりと子どもの世話係でさ
夜はどっかの車の整備工場かなんかで働いてさ
そこには古いアクターなんかが、どっさり持ち込まれて
そん中にはテジュンさんの愛車もあって
たまにテジュンさんの後ろからイナさんが「よぉ」なんて顔出してさ
相変わらず仲いいですねぇ
おまえの方はどうだよ、カミさん元気?
元気ですよ、店の方はどうですか?
おう、店は…
…
そこで、バカな夢想は中断
ほんと…バカじゃん
「ドンジュンさん、もうギリギリですよ!何のんびりしてるんですか!」
店まで、ほんの20メートルほどのところで
これ以上ないってくらいゆっくり歩いてると
ジョンドゥの素っ頓狂な声がした
「いいんだよ、黙考だ、黙考」
「モッコーもいいですけど、遅刻すると先生が泣きますよ」
「何で泣くんだよ」
「最近めっきり疲れちゃってて、怒る元気ないんですから」
「原因はドーナツ?」
「それはもちろんですけど、チーフ代理もキツいんじゃないですか?」
「…」
「さぁ急いで急いで!」
イヌセンセには、ほんとに申し訳ないと思ってる
スヒョンの代理ってことじゃなくて
何も言わないけど、僕たちのこと、きっと心配してくれてるから
だから、店ではせめていつもの僕でいようと思う
それから…こいつにも…
「チョンマン、ほい、缶珈琲どう?」
「おお~!珍しく奢りか?」
「ううん、間違ってブラック買っちゃったから、僕、微糖派」
「ったく、まぁいいや、サンキュ」
「…」
「今日の撮影はどうだったって聞けよ」
「…」
「聞けよ」
それほど明るくない通路で
チョンマンはいつになくおっかない顔して僕を見つめる
「…どうだったんだよ」
「順調だよ」
「それだけかよ」
「荷物、ありがとうって言ってくれって」
「…ふぅん」
「なぁ、ドンジュン…スヒョンさん、ホテルから戻ったら1日休みだから…」
「だから?」
「かなり疲れてると思うからさ、ゆっくりふたり…」
「ひとりでゆっくりすんのがいいと思うよ」
「…」
「ってか、自分で決めるでしょ、子どもじゃないんだから」
「…まぁ…そうだけどよ」
「心配性だな、おまえ」
「チーフと同じこと言うなよ」
「…」
「今まで通りだって言ってたぞ」
「は?」
「撮影が終わったら、元通りだってハッキリ言ってた」
「そう…そうね…」
「だから…」
不意に向こうの事務室のドアが開いて
部屋の光の中に出てきたふたつのシルエットに
チョンマンは口をつぐんだ
イヌセンセとミンチョルさんが
何ごとか話しながら店内の方に向かって歩いて行く
僕は、その人の横顔から顎のラインを追いながら
その綺麗なスーツの下に隠れてる裸に
今しがた聞いた「元通り」って言葉をぐるぐる巻き付けていた
変わらなかったら、どうだっていうの
このまま、同じ想いが巡るだけじゃない
撮影が終わったら、次は何があるの
元通りって、いったいどこまで遡るの
スヒョン…どこが、元なの、あなたにとって
ほんの一瞬のことだ
そんな言葉が頭を巡ったのは
ミンチョルさんが、僕らに気づいてこちらを見た時には
僕は、それこそ「何でもない」顔に戻ってたと思う
「どうした、指名が入ってるぞ」
「はい、直ぐ行きまーす」
子どもっぽいって言われたって
くだらない意地だって言われたって
この人には、こんな自分を絶対に見せたくない
スヒョンとの間に何があろうと
この人のことで凹んでる僕なんて…絶対に見せたくない
僕の携帯にパク・ウソクから電話が入ったのは
閉店後1時間くらい経った頃だった
礼と、あの後のことを報告したくて
会社に電話をしてみたけれど、外出中だったから
「無事責任者と交代、状況小康です」という伝言を頼んだのはそのちょっと前だ
ロッカールームで、見覚えのない番号に出てみると
あの低い声が響いた
『悪かったな、携帯No.は会社で聞き出した』
「いえ…」
『今、仕事中か?』
「はい…あ、いえ、もう終わりました、あの…」
『伝言は聞いた、いい医者を紹介する』
「は?」
『知り合いの婦人科専門医だ、メモしろ』
「え…あ、はい」
慌てて、メモ帳を探そうとする僕に
携帯に録音機能があるだろう、道具は有効に使え、と
相変わらずの口調が言うんだけれど
それは、今までほど嫌なものには感じなかった
「ちゃんと彼らに伝えます」
『じゃあ、そういうわけだ』
「あ、あの!」
『どうして親切なんだ、なんていう愚問はごめんだ』
「これ、親切なんですか?」
『でなきゃ何だって言うんだ」
「いえ…なんか…ウラがあるのかなと思って」
『正直なモノ言いもいい加減にしろ』
「図星ですか?」
『ありがたいと思うなら、仕事の続きを頑張ってくれ』
「今度、お茶でもご馳走します」
『株主への退屈な接待ならお断りだ』
「じゃなくて!」
『個人的な誘いなら考えておく』
「…は?」
『安心しろ、そういう趣味はない』
「…は?」
『この番号は登録してもらってかまわない、以上だ』
「あ?」
一方的に切られた
切られたけど、ほんとに嫌じゃなかった
もしかしたら、この頃、少しは感じていたのかもしれない
自分のことも信じないっていう噂のあの男の
もの言わぬ哀しみを
To you 1 オリーさん
「なあ…」
「え?」
「やっぱ、イケテルよな」
「何が?」
「あの人さ、カッコいいよな」
ドンジュンさんの言葉に、僕は返事に詰まった
僕が感じていたある種の違和感を
ドンジュンさんがたった一言で言い表してくれた
やっぱ、イケテルよな・・・
いきなりの展開ではあるが、
今日は僕たちのレコーディングの日だった
僕らに拷問のようなレッスンをつけていた先生は
ある日突然、アメリカの友人に呼ばれたと言って渡米してしまった
ボイストレーニングは毎日やっときなさいよ、と言い残して
僕とドンジュンさんはとりあえず解放されたことにほっとして
それでも時々は店でこそこそとハモッたりなんかしてみたりしていたのだが…
そこへレコーディングだと、突然の召集がかかったのだった
先生からの電話はこんな風
「あたしさあ、今日帰ってきたのよぉ。もう時差ボケでくらくら。
やだわあ、もう若くないってことかしら」
「……」
「あーた、ここはフォローするとこよっ!そんなことありませんって」
「そ、そんなことありません」
「そぉお?やっぱりぃ?」
「先生はバイタリティに溢れていますから」
「そうよねえ、あたしってば才能の塊ですものねえ・・
でね、あんた達のレコーディングとっとと終わらせちゃおうと思って」
「はあ」
「明日よ、明日。スタジオに朝10時に集合ね」
「あ、明日ですか?」
「そうよぉ、思い立ったが吉日って言うでしょ」
「レコーディングって思い立ってやるものですか?」
「んもっ!いちいちうっさい子ねえ。こういうのは勢いでやるものなのよっ!
それともあんた、ボイトレさぼってたわけじゃないわよねぇ」
「あ、いえ、毎日腹筋鍛えてました。たぶん大丈夫・・と思います…けど…」
「よろしい。じゃ、ミンチョル君にも言っといてね」
「え・・彼も知らないことなんですか?」
「だからっ!あたしは今日、今!帰ってきたって言ったっしょっ!」
「はあ・・」
「じゃ明日、もう一人の僕ちゃんといらっしゃいね」
「はあ・・」
「わかったのっ!」
「は、はいっ!」
事情を話すと彼は涼しい顔で
明日ならちょうどいい、などと言った
「それより、ドンジュンの都合はどうなんだ?空いてるのか?」
「ああ、そうだね、話さなくちゃ」
店に出てきたドンジュンさんはちょっと疲れた様子だったが
レコーディングの件はOKだった
「仕事の方は大丈夫ですか?」
「まあ何とかね」
「疲れてるみたいだけど」
「そうよ、色々心労が重なってさ」
「……」
「マジになんなよ。冗談だよ」
「はあ」
「そりゃなあ世界に喧嘩売ろうってんだ、マジ色々あるけどさぁ」
「無理しないでください」
「そこよ、無理しないと喧嘩には勝てないからさあ」
「そりゃ、そうですけど」
「大丈夫、明日はちゃんと行くよ」
「迎えに行きましょうか?」
「いいよ、そっちはミンチョルさんと来るんだろ」
「ええ」
「こっちは気楽に一人で行くわ」
「大丈夫ですか?」
「迷子にゃならないよ」
「わかりました」
「おう」
笑顔で去っていくドンジュンさんの後ろ姿の肩は
その言葉とは裏腹に少し下がっていた
あの人のこと…
あの人から電話をもらって彼を迎えに行ったことは
ドンジュンさんには言ってない
言ってはいけないような気がしていた
言えばドンジュンさんは笑うだろう
「まったく、いっつも人のこと心配しておせっかい焼きだよなあ。
ホテルに詰めるほど入れ込んでるのにさ。まあ人の事は言えないけどさあ」
でもその笑顔の下でどう思うだろう
あの人が彼のことを心配している
ドンジュンさんにとって、それがどういうことなのか
僕にはわかりすぎるほどわかっているつもりだ
だから…
黙っていた
翌朝彼とスタジオに着くと、ドンジュンさんはすでに来ていた
「早いですね」
「思ったより道が空いててさ」
「先生来てます?」
「来てるんだけどさあ、さっきから変な感じなのよ」
「変って?」
僕と彼は顔を見合わせた
そして彼がスタジオのドアを開くと、いきなり先生の大声が聞こえた
「ねえ、どうしてBJ持ってこれないのよっ!」
「BJは今日ガンモさんのとこに入ってるんです」
「最高のスタッフ揃えとけって言ったでしょっ」
「でも昨日の今日ですから」
「無理だっていうの?」
「あっちのレコーディングに前から予定入ってましたし」
「こっちだってBJに予定入れてたわよ」
「えっ、そうだったんですか?」
「日にちが決まってなかっただけよ」
「そ、それは…」
「んもうっ!どこでやってんの?」
「Bスタです」
「呼んで来て」
「え?」
「今すぐBJ呼んで来てって言ってんのよ。ミキサーは彼じゃなきゃだめ!」
「でもガンモさんのレコーディングが・・」
「そんなの知ったこっちゃないわよ!」
「今日のミキサーはまだ新人だけど腕はいいですよ。だから・・」
「うっさいわねえ」
「突然にしてはいいメンツ揃えた…」
「あーたっ!あたしがBJ呼んでって言ってるのよ!」
「でも・・」
ふーっと大きなため息をついた先生は
スタジオの戸口に立っている僕たちにやっと気がついた
そして、僕とドンジュンさんをちらりと見てから
やおら僕らを指さし、さらに大きな声で叫んだ
「こっちはあのど素人使ってレコーディングしなきゃなんないのよっ!」
「でもガンモさんが何て言うか・・」
「ちょっと電話入れてよ。あたしがガンモちゃんと話つけるから」
「え…」
「いいからガンモちゃんに電話入れてっ!」
「あ、は・・はい」
ドンジュンさんが彼に囁いた
「ミンチョルさん、BJって誰ですか?」
「ベテランのミキサーだ、先生のお気に入りの」
「その人をこっちに呼ぶの?」
「そのようだね」
「ガンモさんて、あのガンモさん?」
「そう、バラードの帝王、ソ・ガンモ」
「そのスタッフ横取りするんですか?」
「そんなことできるの?」
「普通はできない」
「ですよねえ・・・」
「まあ、見ててごらん」
彼は唇の端をわずかに上げた
「ああ、ガンモちゃん、あたし、ロバートよぉ。
あんたまたCD出すつもり?いい加減引退したら?」
「あははっ、嘘よ、冗談よぉ」
「それよりさあ、ちょっとBJ貸してくんない?」
「これからレコーディング?知ってるわよお。だからお願いしてるんじゃない」
「え?まだ何もお願いされてない?もうっ意地悪言わないの。BJ貸して~」
「ムリ?ムリな事ないでしょうよ。あんたなら誰がミキサーやってもグーよ」
「バラードの帝王なんて言われてんのはダテじゃないっしょ。」
「あたしってば、困ってんのよお。ほら、あの神の手君のプロデュースで
新人のレコーディングすんだけど、そいつらド素人なのよ」
「色々込み入った事情があってさあ、ド素人押しつけられて困ってんのよお」
「ええそうよ。あのイ・ミンチョル。彼の復帰作なのよお。少し箔つけてあげないと可哀想でしょ。」
「もしコケたりしたら、あたしの立場どうなるかわかる?わかるっしょ?」
「こっちのミキサー回すから。新人だけどいい腕してるのよお」
「え?だったらそっちで使えって?あんた、あたしに意見する気ぃ?」
「そう、こんだけ頼んでもだめなの?じゃあ仕方ないわねえ、ふぃぃぃ」
「あ、ひとつ大事なこと言い忘れてた。あんたがさぁ、この間お忍びで誰と日本に行ったか、まだ奥さんにお知らせしてなかったわぁ」
「え?脅す気かって?まさかあ。でもあたしってば、あんたの奥さんともお友達だもの。
だから黙ってられないのよねえ。あんたが新人歌手と一緒に日本の温泉…」
「え?何?」
「ほーっほっほっ!そうこなくっちゃ。最初からそう言ってくれたらいいのよぉ」
「あんたは誰がやっても大丈夫。全然問題なしよ」
「あら、お世辞じゃないわよぉ。年とって声でなくなったわけじゃないでしょ?」
「わかったわ、おごるわよ。何でも言ってちょうだい。
何なら兄さんのファッションショーに出れるように話つけましょうか?」
「え?それだけは勘弁してくれ?あら、残念ねぇ。でもそうね、兄さんの服着るにはあんたちょっと成熟しすぎちゃったわよねえ」
「え?お互いさま?あらっあたしってばまだまだよぉ」
「そうそう、んじゃありがとね。BJにとっととこっち来いって。お願いねえ~」
「ガンモちゃん、いつまでも愛してるからぁ!」
電話を切ると、先生は僕たちを振り返った
「あの野郎、帝王なんておだてられていい気になりくさって。
誰がスターにしてやったと思ってんのよっ!ねえ?」」
僕たちは曖昧に微笑んだ
「いい?もし万が一間違ってあんた達が売れるようなことがあったら、それはね、
このあたしのおかげなんだから、よおく覚えておきなさいよ」
「先生、僕は物覚えがすごくいいんですよ」
ドンジュンさんが間髪を入れず答えた
僕もうなづいた
「そう、若くてお利口な子は大好きよぉ」
僕たちはまた曖昧に微笑んだ
しばらくすると男の人が入ってきた
Tシャツに擦り切れたジーンズ、小柄で長髪を後ろに束ねていた
先生はその人に駆け寄り抱きしめたので、
小柄なその人は先生の影に隠れてみえなくなった
「ああんつ!BJってば久し振りっ!待ってたのよお!」
「ども」
「あんなおやじより、こっちの仕事の方が絶対楽しいから、ね?」
「は、ども」
「相変わらずねえ。もっと愛想よくできないの?」
「ども」
「そこがあんたらしくていいんだけどねえ。んじゃ早速お仕事しましょっ!」
「ども…」
「こっちがプロデューサーのミンチョル君、知ってるわよね?」
「お久しぶりです」
「ども」
「でね、こっちが今日のメニューの僕ちゃんたち。あんた達なんてったっけ?」
「カン・ドンジュンです」
「ミン・ギョンビンです」
「ども」
「BJはねえ、メカニックだから無駄なおしゃべりしないのよ。語り合うのはメカとだけなの、ねえ?」
「ども」
「いい?ドンビンとギョンジュン」
「いえ、ドンジュンとギョンビンですが…」
「んもう、どっちでもいいじゃないのぉ。とにかくあたしが言いたいのは、BJが来たからもう大丈夫ってことよ、ね、BJ?」
「ども」
「ね、この子たち、ド素人!わかる?ド素人よ」
「ども」
「救いはね、そこそこ歌えるってことだけ」
「ども」
「二人とも高音が弱いから、目一杯ひろってあげて。いいわね?」
「ども」
「BJがきてくれたら怖いものなしだわ。うふ、終わったら食事おごるわね。
支払いはあっちのミンチョル君がしてくれるって。高いものおごらせちゃいなさい」
「ども」
そんな騒ぎがやっと収まりスタッフの段取りがついたところで、
僕らは軽い発声練習をやらされ、レコーディングブースに押し込まれた
「何だかこの中って閉塞感があるよなあ」
「確かに」
「ガラス張りなのに何でかなあ」
「見られてるからでしょうか」
「動物園のパンダか?」
「なるほど」
「車だってこんな窮屈な感じはしないのにな」
「そりゃ…車は自分で動かせますからね」
「だよなぁ」
「早くここから出られるようにがんばりましょう」
「そうだな」
「こらっ!何が閉塞感よっ!生意気ぶっこいてんじゃねえっ!」
ブースの中に先生の怒声が響いた
「いけね、聞こえてた」
「はい…」
僕とドンジュンさんは思わず首をすくめた
そしていよいよ始まった
何度かの短いブレークを取りながら、作業は進められていったが、
その何度目かのブレークの時に
ヘッドフォンをはずしたドンジュンさんが
僕に例の台詞を囁いたのだった
「なあ…」
「え?」
「やっぱ、イケテルよな」
確かにレコーディングブースの中から眺める彼は
対面のコントロールルームで、
今までのどれとも違う顔を見せていた
上着を脱いでワイシャツの袖をまくり
僕らに次々と指示を出し、合間にスタッフや先生と話し込む
緊張感に溢れると同時に自信に満ちたその態度は
いつもとはまた違った印象を僕に与えた
彼のイケテル姿は、
僕にとって嬉しい事であるはずだが
どこかで得体のしれない不安も感じていた
「テンポを合わせて」
「音痴っ!」
「お互いに顔を見て歌ってみて」
「音をよく聞け」
「はずしそうでいて、はずすな」
「へたくそっ!」
「もっと声をのばして!どなるんじゃねえっ! 」
僕とドンジュンさんは、
彼からありとあらゆる指示を出され
なおかつ先生からは罵声を浴びせられ、
ブースの中で歌い歌い、そしてまた歌った
かなりの緊張に加え、何度も出されるダメ出しで
何をどうすればいいのかわからなくなってきた時
またブレークが入った
「これってどうよ…」
「どうってどうよ…」
「歌一曲でこんなに手間取るか?」
「どんだけぇですよねえ・・・」
たまらずブースから出た僕たちは、
ドアのすぐ脇の椅子に腰をおろして、とりあえずブーたれた…
To you 2 オリーさん
先生と彼とBJ、そして他のスタッフは
コントロールルームで何かを話し合っている
その事が、僕たちに別の疲労感も与えていた
隣で深呼吸しているドンジュンさんもげんなりした様子で、
それを見つめている僕は、さらに情けない顔だったと思う
所詮、ド素人か…
突然間仕切りの扉が開き彼が入ってきた
「お疲れさま」
「はあ…」
僕らは返事ともため息ともつかない声を出した
彼は僕らの前に来ると片膝を折って
目線を僕らと同じ高さにした
「だいぶよくなってきたから、次は本番に行こうと思う」
「よくなってきた?」
「まじでぇ?」
「ああ、素人にしては上出来だ」
「その素人って言うのやめてほしいなぁ」
「確かに面白くないだろうが、プロとは言えない」
「…」
「だが、それはそれでいい。素人には素人の良さがある」
「そんなもんすかぁ?」
ドンジュンさんが自嘲的な空笑いをした
「本番に入る前に、外の空気を吸って少し気分を変えてくるといい。
スタジオを出て右の突き当りに休憩所がある。飲み物もあるはずだ」
「お気遣いいただきまして、どうも」
僕が言った言葉にはほとんど反応せずに、彼は続けた
「それで休憩の間、もう一度これを読んでほしい」
差し出したのは真新しい楽譜だった
「ひぇ!休憩じゃないじゃん!」
ドンジュンさんが悲鳴に近い声を上げた
「もう一度、歌詞を読み返してほしい、まっさらな頭で。
そしてこの歌のことを考えてみてほしい。いいね?」
その瞳はまっすぐに僕らを捉えていた
「さあ、もう少しだ、がんばってくれ」
僕とドンジュンさんは彼に促されて部屋の外へ出た
休憩所は、窓際に沿って長椅子が並んでいて
その前に細長いテーブルがあるだけの、殺風景な空間だった
少し離れたところに、冷水器と飲料水の自販機が置いてある
ドンジュンさんは長椅子にごろんと横になり
僕は彼の頭の先に腰をおろした
「歌詞を読めか…」
ドンジュンさんがため息まじりの独り言を言い
僕は手渡された楽譜に目を落とした
I wanna say these words to you
君に出逢うまでは
前に進むことがすべてだった
僕が見ようともしなかった
大切なことを教えてくれたね
But step by step I've realized
君の愛に 守られていたことに
原点に戻れということだろうか
I wanna say these words to you
君の愛に何も・・
何も応えられずにいたけれど
君のために歌いたい 君のためのこの歌
君に届くように 届くように
So step by step I'll come to you
今日まで歌えなかった この歌を
そうか…
軽い、テンポのいい歌だと思ってきたけれど
この歌には、深いメッセージーが込められている
映画の主題にあてはまるだけでなく…
僕は、今まで置き去りにしてきた何かを見つけ
その何かをそっと拾い上げたような気持ちになった
その時、ドンジュンさんの頭が少し揺れたのを空気で感じた
見ると彼は楽譜で顔を覆っていた
「ふんっ、結構いい歌じゃんか」
その声が微妙に乱れていたので、僕はどきりとした
「あー!ちくしょうっ!」
ドンジュンさんが泣いている…
もう少しその場にいたら
彼のすすり泣きがもれてきそうな予感がした
僕は気づかないふりをして声をかけた
「何か飲みます?」
「水…水が飲みたいな」
「わかりました」
僕は立ち上がって、冷水器までゆっくりと歩き
そこからさらに反対側の窓際まで行き、外の風景を見た
よく晴れた日で、ずっと室内にいた僕には
その鮮やかな秋の青が、目と、そして心に染みた
しばらくしてから冷水器の所に戻り、水を持って戻った
彼の濡れた瞳が乾いていますように
僕の足音で、ドンジュンさんは長椅子に起き上がって
ちょっと照れた笑顔をむけた
お前、今の気づかなかったよな
気づいていませんよ、泣いたことなんか
ばっか、気がついてるじゃんかよ
知りませんって
そんな会話を目だけですませたような気がした
「サンキュ。これ飲んだら行こうぜ」
「そうですね」
「何だかちょっとだけやれそうな気分…だよな?」
「どうせ僕らはド素人ですから、怖いものなしでしょ」
「そうだな」
僕らはどちらからとなく紙コップでささやかな乾杯した
ドンジュンさんの涙の理由は聞いてはいけない
頭のどこかがそう囁いていた
僕らは再びスタジオに戻りブースに入った
「いい?本番いくわよ、僕ちゃんたち、準備はいいわね?」
先生の声が響いた
と同時に隣からドンジュンさんが声を上げた
「すみません、もう少しだけ時間ください」
振り返るとドンジュンさんが後ろを向いて
歌詞を読み直しているのが見えた
その姿になぜか僕は目の奥が熱くなった
I wanna say these words to you
君がどこかで聴いている・・
それを信じて 心をこめて
君のために歌いたい 君のためのこの歌
今日まで歌えなかった この歌を
最後の歌詞はこうでしたね…
しばらくしてドンジュンさんが振り返りOKの合図を出し、
僕らは再びヘッドフォンをつけた
「ねえ、あんたたち?」
「はい?」
「んもうっ!思いっきり愛してあげちゃうわよっ!」
本番はダメ出しもなく一発で決まった
ブースを出てきた途端、僕らは先生に大変なハグをされた
その熱烈なハグに、別の意味で怖くなった
「ねえねえ、打ち上げはどこでやるのよっ?」
「どこでも先生のお好きな場所で」
「くふふっ、いいのおぉ?どこにしようかしら…」
「お詫びにガンモさんも呼びますか?」
「いいわよ、あんなオヤジ呼ばなくて。ねえ、BJどこにする?」
「ども」
「んもうっ!あんたってば、ども以外言えないの?」
「ど、ども…」
「おばかっ!」
スタジオの中は、
先ほどとは打って変わって和やかな空気が流れていた
「じゃあ、僕らはこれで失礼しますので」
「あたしはもうちょっとBJとやってくから」
「よろしくお願いします」
「出来上がり次第、ネットで流すのよね」
「はい、さわりだけちらりと」
「わかったわ、後はまかせたんさい。打ち上げも忘れないでよ」
「また連絡させていただきます」
「待ってるわねぇ」
先生はひらひらと手を振り、最後には投げキスまでサービスした
僕とドンジュンさんは、密かに固まった
彼はそんな僕らの背中を軽く押して、外へ誘った
「ミンチョル君」
出口の所で先生が彼を呼びとめた
「はい?」
「見事だったわよ。神の手は健在ね」
彼は返事をせずに、先生の方へ向き直って礼をした
「二人とも、上出来だった。ありがとう」
廊下を歩きながら、彼は僕らの間に入り肩に手をかけた
「そりゃもう、僕らは神の手に操られた無垢な子羊ですから」
ドンジュンさんが言い返した
「無垢な子羊ねえ…」
彼は大げさにドンジュンさんを覗きこんだ
「それにしては、成長しすぎてるな」
「悪かったですね、どうせひねた子羊ですよ」
ドンジュンさんがまた言い返し、彼が笑った
そして3人で大笑いしたのだった
「じゃあ、店でな」
ドンジュンさんは駐車場の入口で手を振って自分の車に向かった
僕らはちょっとの間その後ろ姿を見送っていた
本当にお疲れさま…
店に向かう車の中で僕は彼に聞いた
「歌詞を読めっていうのは、どういう意味だったの?」
彼は窓の外を見つめたまましばらく答えなかった
聞こえなかったのかと、僕がもう一度口を開きかけた時
彼が僕を振り返った
「実は、ドンジュンの声にいつものハリがないと先生がずっと気にしてて」
「え」
「もっと伸びのある明るい声が出るはずだと」
「先生がそう言ったの?」
「ああ、あの人はすごい。それで、あの歌の原点を思い出してくれたらと思って…」
「…」
「あの歌の持つメッセージを、スヒョンの映画を応援するという意味も含めて考えてもらえたらと…」
彼はそう言って、また窓の外を見ながら頬杖をついた
「それ以上は、僕が何かを言える立場でもないだろう・・・」
不思議な人だね
まったくの鈍感ってわけでもないんだ
僕は心の中で囁いた
「やっぱ、イケテルよな」
ドンジュンさんの言葉がふと蘇った
そう…でもね、実はあの人もイケテましたよ
それを言うことはできないけど
気がつくと今日飽きるほど歌ったメロディが唇から漏れていた
I I ... ... ...
I wanna say these words to you
I ... I love you
I wanna say these words to you
I I ... ... ...
I wanna say these words to you
彼はそれを聞いて頬杖をついたまま僕を振り返り、微笑んだ
I wanna say these words to you…
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