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ぴかろんの日常
リレー企画 297
沸点10 ブレックファスト オリーさん
けたたましく鳴るドアチャイムに舌打ちしながらドアを開けた
シャワーの後バスローブを羽織り、鏡であちこちチェックしながら
ワックスでビンビンに髪の毛を立てて、歯ブラシを口に突っ込んだところだった
それなのに、ドアを開けたとたん、あいつの拳が飛んできた
歯ブラシが変形の孤を描いて宙に舞い上がるのを見ながら後ろに倒れた
Shit!
再び神よ、朝から下品な言葉を使ったことをお許しください
神に詫びを入れてから、あいつを目で探した
あいつは無断で部屋に入り、
あろうことか倒れた僕の上に馬乗りになった
「朝っぱらから派手にやってくれるじゃないか」
「派手なことは大好きだ」
「縁切りじゃなかったのか?」
「縁切りさ、これが終わればな」
「これ?」
「ギョンビンを見つけろ」
「はい?」
「弟を見つけろって言ってんだよ」
「こっちだって探してるんだ。知ってんだろ?」
「外に出たかもしれない」
「海外か?」
「調べられるだろ」
「美人の局長に頼めよ」
「お前んとこの方が早い」
「はん?」
「最終的にどこに入ったか知りたい。とりあえずアメリカの東側とロンドンをチェックしろ。
引っかからなかったら、もっと範囲を広げて…」
「待てよ、まだ引き受けてないぞ」
「やれよ」
「お願いか?」
「命令だ」
「僕に命令できる人間はそう多くはいないんだがね」
「もう一発殴られたいか」
「いやだね」
そう言うと同時に、僕は下からあいつの顎にパンチを見舞った
それであいつはやっと僕の上からいなくなった
起きあがって吹っ飛んだ歯ブラシを拾い上げ、歯磨きの続きをやろうとしたが、
糞ったれ野郎がまたかかってきたので、あきらめなくてはならなかった
しばらくの間じゃれあったが、
最後には二人とも息が上がって、ソファにもたれてぜろぜろした
まったく朝っぱらから勘弁してほしいものだ
僕は立ち上がった
「どこへ行く?」
「シャワーだ、汗かいた」
「それくらいとっととすませとけ」
「見りゃわかるだろ、途中だったんだよっ!」
バスルームに行く途中で電話しようと受話器を取り上げた
「どこへかけるんだ?」
「いちいちうるさいな。朝飯頼むんだよ」
「こんな時に飯だと?」
「こんな時ってどんな時だよ」
「…」
「お前もまだだろ」
「飯なんかいらない」
「僕は食べる」
モーニングを二人分頼んでから、もう一度軽くシャワーを浴びて着替えをすませた
もちろん、髪の毛もまたビンビンに立てた
部屋に戻ると、あいつはまだソファにもたれてへたっていた
だが、へたれ具合がいつもと違う
僕はあいつの隣に腰をおろした
「で、根拠は?」
「何?」
「弟が海外に出たっていう根拠は?」
「別に」
「別にって、根拠もなしに動けってのか?」
「悪いか?」
「お前な、組織ってものをわかってんのか?」
「お前に言われたくないわ」
「理由もなしに出先機関を使えるわけないだろ」
「よく言うわ。図々しくあちこちでやってるくせに」
「僕にはちゃんとした理由があるんだ、アホっ!」
「アホにアホと言われたくない、アホっ!」
睨みあったが、さっきのじゃれあいでお互い手を出す元気はなかった
しばらく意味不明の沈黙が続いたが
モーニングを運んできたホテルマンのチャイムでそれは破られた
ホテルマンはテーブルセッティングをする間、
ちらちらと僕のありがたくない客に視線を送っていた
彼がティーポットにお湯を注いでセッティングを終えると
僕は愛想よく笑ってチップを渡し、思い切り念を送った
いいかい、君
チップははずむから誤解しないでくれ
僕はこんな悪趣味じゃないからね、いいね、いいね、いいね?
念は彼に通じただろう
たぶん
それからぐたぐだしてるあいつを引っ張り上げてテーブルにつかせた
なんて親切な僕
「まず腹ごしらえだ」
「そんな気分じゃない」
「いいから食えよ、おごりだ」
「朝飯くらいでおごったなんていばるな」
「じゃあ、食べるな」
「スクランブルエッグより目玉焼きがよかった」
「カリカリのベーコンにスクランブルはイングリッシュの基本だ」
「何が基本だ、ワンパターンと言うんだ」
「トラディッショナルと言え」
「えらそうに」
「ふん、そっちこそ何にでも唐辛子いれりゃあイイってもんじゃない」
「美容と健康にいいのを知らんのか」
「健康だと?胃がやられるわ」
「軟弱だからだ」
「筋金入りに何てこと言う」
「そうは見えんがね」
「人を見かけで判断してはいけない、いくら僕のルックスがよくてもな」
あいつは、ばかっ!と怒鳴ると
僕のおごりの朝食をバクバク食べ始めた
結局食べるんじゃないか、ふんっ!
こいつとの食事は疲れる
やはり食事は美女と一緒がいい、ちぇつ
******
味気ないトーストにぐちゃぐちゃ卵、
おまけにスカスカスのベーコンを食わせておいて
僕に恩を着せる図々しい奴
紅茶だけは合格点だが
やっぱり食事はダーリンとしたい
ぐすっ…
じゃれあったせいで、いくらか僕の気分は持ち直した
だが、やっぱりこいつを動かさなくてはならない
紅茶をすすりながら、僕は考えをめぐらせた
が、先に話題を振ったのはあいつだった
「昨日、美人の局長に会った」
「どこで?」
「ちょっと調査に手を貸してもらって」
「お前、よくそう人ばっかり使えるな」
「人手不足なんだから仕方ないだろ」
「極秘で動いていきなり満塁ホームランとか狙ってるんだろ」
「けほっ」
「図星か?」
「ノーコメント」
「僕の頼みを聞け」
「命令から頼みに変わったな、いい兆候だ」
「弟を探し出す、世界のどこへ逃げても」
「逃げる?」
「…」
「どうした?」
「…」
「黙ってちゃわからん」
「教授と一緒に出て行った」
「何だって?」
「教授と出て行ったんだよ、何度も言わせるなっ!」
「それって、つまり駆け落ちしたってこと?」
「デリカシーに欠けた言い方はやめろっ!」
「ゴージャスからノーブルに乗りかえたってわけか」
「お前っ!」
「ううむ、むずかしい選択ではあるわなあ。僕でも迷うぞ、なんちゃって」
「やかましいっ!」
「それでアメリカ東部、つまりボストンか。後はロンドンねえ」
「教授の選びそうなところだ」
「そうさな、あの人にカリフォルニアの青い空は似合わん」
「だいたいお前がだな…」
「だけど教授とねえ…マジでか?」
「何だよ」
「だとしたら、海外はないと思う」
「なぜだ」
「あの人は昨日の朝ドイツから帰ってきたばかりなんだ」
「ドイツ?」
「突然ドイツに行きって何かしてきた。怪しいとは思っていたんだが、
帰国早々あっちから連絡がきて、昼に会う約束をしていたんだ。言っただろ」
「昨日の朝に帰国…」
「降りてから数時間で、また仁川から飛んだとは思えん。
万が一そうだとしたら、すっごいタフっ!僕よりすごいかもっ!」
「確かなのか?」
「ホテルまで行って確認した。確かに朝一度戻ってる。それから消えた。
だから弟君が何か知ってるんじゃないかと思ってたんだが」
「それでギョンビンと連絡を取りたかったのか」
「だからっ!昨日から何度もそう言ってるだろっ!なのにお前が邪険にするから」
「ちょっと待て…」
「何を?」
「いいから待て…」
「だから何を?」
「黙れっ!」
ギョンビンが店を休み始めたのは一昨日
あの人に出て行くと言ったのはいつだった?
それをはっきり聞いたか?
『あなたには隠しておけませんね』
確かあの人はそう言った
どこで二人一緒になった?待ち合わせしたのか?
だったらなぜ教授はこいつと会う約束なんかしたんだ?
「落ちあって、これから飛ぶかもしれない」
「そうだな」
「だろ?」
「お前、弟がファン・ミンスのことを調べていたのは知らないよな」
「教授に嫌がらせしてたあいつ?」
「そう、あのイケ面だよ、まあ僕より落ちるけど」
「話に偏った私見をつけるのはやめろ」
「偏ってない、事実だ」
「そんなことどうでもいい。なぜギョンビンはそいつを?」
「教授が大学を切られただろ。それで気になったんだろうな」
「そんなこと僕が知らないのに何でお前が知ってるんだ」
「たまたま行きあった」
「またお前が…」
「いちいち僕のせいにするなっ!」
「違うのか!」
「頼まれたんだよ、お前には黙っててくれって」
「え」
「お前を巻き込みたくないって言ってた」
「…」
「もう随分迷惑かけてるからだとさ」
「ばかが…」
「いや、弟はお前より賢いと思うぞ」
「そういう意味じゃないわっ!」
そんな風に考える必要なんかないのに
お前のためなら何だって…
何だってやってやるのに
僕の思考をまたあいつが邪魔しやがった
「それより、ファン・ミンスの正体知ってるか?」
「正体?」
「お金持ちの御曹司ってふれこみだったけど、全然違う」
「何だって?」
「本名はフランシス・ガードナー」
「フランシスって外人じゃないか」
「僕も外人」
「いいからっ!」
「あいつはな…」
「何だよ」
「秘密守れる?」
「約束できない」
「じゃ、やめた」
「おい!」
「わかった、教えてやる。だがいいか、この山が当たったら、僕ちゃんの逆転満塁ホームランだってこと忘れるな」
「やっぱりな。手がらを独り占めってか」
「くふっ、隠し資産が見つかればCIAにも恩を売れるし、局長も喜ぶ」
「好きにしろ。僕には関係ない」
「じゃあ教えてやる。あいつはバルガティの恋人だった」
「え」
「ロンドンの街でうろついてたのをバルガティが引っ張り上げた」
「なぜわかった?」
「教授がドイツでネタを仕入れてきたんだ」
「なぜあの人が?」
「それだよ、そこはまだ未調査なんだ。色々やることが多くてな」
「じゃあフランシスってのが教授に纏わりついてたのは…」
僕はあいつの目を見た
あいつも同じ事を考えているとわかった
「たぶんそういうことだ」
「だとしたら…」
「フランシスを探した方がいいんじゃないか」
「…」
「大学生の優男は素人とは言えないぞ」
「そいつにやられたって言うのか」
「金持ちのボンボンだと思っていたらテロリストのお友達だった。天と地ほどの違いがある」
「とりあえず、ミンチョルさんにもう一度確認してみる。いつ出て行ったのか」
「そうだな」
「あ!」
「どうした?」
「携帯がない」
「忘れたのか?」
「…」
「どうした?」
「お前のせいだ」
「はい?」
「お前のせいで携帯が壊れた」
「どうして何もかもが僕のせいなんだっ!」
「お前が無神経な電話よこすからだっ!」
「何で僕が電話しただけで携帯が壊れるんだっ!」
「それは…」
「はあん、お前八つ当たりしたね」
「…」
「備品は大事に扱え、訓練所でそう習わなかったか、え?」
「うるさいっ!」
その時だった
部屋の電話が鳴った
あいつは、備品は大事にと唇を動かしながら立ち上がって受話器を取り上げた
「はい、ロジャース…」
軽快に名乗ったあいつの声がすぐにこわばった
「何だって?」
そして顔つきがすっと変わった
沸点11 接近 オリーさん
僕は受話器を押さえてあいつに叫んだ
「ロビーに降りて男を押さえろ!」
「何?」
「いいからすぐ降りろ!ギョンビンのメッセージを持ってきた奴がフロントにいる」
「!」
「僕もすぐ行くから急げっ!」
僕の言葉が終わらないうちにあいつは部屋から消えていた
僕はまた受話器にむかった
「そのメッセージは何て?を読んでくれ、いいからすぐ読んでくれっ!」
マネージャーが受話器の向こうでメッセージを読み上げた
「わかった、とにかくそいつを止めておいてくれ、頼む!すぐ行くから!」
僕は大急ぎで準備をして廊下を走った
そしてエレベーターに飛び乗り、扉が開くと同時にフロントに走った
が、マネージャーが入口に立っているのが見えたのでそちらに方向転換した
「男は?どこへ行った?」
「すみません、呼び止めたんですが、逃げるように行ってしまって」
「車か?」
「あの黒いバンです」
マネージャーが指さす方向を見ると、黒いバンが玄関前のロータリーを抜け、
通りの角を曲がろうとしていた
「あいつは!?僕の連れが先に降りてこなかったか?」
「後を追って外に出ていかれました」
外に目をやるとジャガーがエントランスに突っ込んできた
入口付近にいた客が驚いて立ちすくんでいる
あいつが運転席から顔を出して叫んだ
「早く乗れっ!」
駈け出そうとした僕をマネージャーが呼び止めた
「メッセージは…」
「あ、ありがと」
紙切れを受け取ると僕は外に飛び出した
「もたもたすんな、見失うぞっ!」
あいつが怒鳴った
「お前にしてはすばやいじゃないか」
「どんな時にも脱出の足は確保すべし。訓練所で習わなかったか?」
フンだ、んなのケースバイケースだわ
が、僕の沈黙を無視してあいつが舌打ちした
「ちっ、曲がっちまった」
「急げっ!」
「うるさいっ!わかってるっ!」
言葉のとおり、あいつはジャガーのアクセルを思い切り踏み込んでいた
******
「何やってるんだっ!」
部屋に怒声が響いた
顔を上げると、フランシスが駆け込んできた
「勝手に手を出すなと言っただろう!」
フランシスの勢いに、君を殴りつけていた二人の男たちは後ずさりした
「やっちまったのか?」
フランシスはそう言うと、かがみこんで君の様子を見た
「やるときは俺が言う、勝手に手を出すんじゃない!」
そう言って視線を上げたフランシスの瞳が私とぶつかった
フランシスはうっすらと笑ってそのままの顔でフランシスは男たちに言った
「水を持ってこい、早くしろっ!」
男たちが駈け出し、フランシスは君の様子を見ているようだが
視界を遮る長椅子のせいで詳しいことはわからない
「お兄さん、もうちょっと踏ん張ってなよ。もっといい目にあえるからさ」
フランシスはそう言って君の頬をたぶん叩いているのだろう
私の胸はつぶれそうだった
よろめきながら立ち上がって私の方へ歩いてきた君の姿が
脳裏に焼きついて離れない
『その人には手を出すな』
その言葉には、君のあるべき姿が凝縮されていた
フランシスはうすら笑いを浮かべたまま、私の方をまた見上げてクスッと笑った
「大丈夫だよ、まだ生きてる。このお兄さん、タフだねえ」
「もうやめてくれ!」
私は叫んだ
「彼は関係ないんだ、私が代わりになる」
フランシスが立ち上がった
首をかしげながらにやりと笑った
「関係ないだって?」
そのままフランシスは笑いながら近づいてきた
そして私の目の前までやってきた
「あんたアーメッドを愛してたって言ったよな」
「それは…本当だ」
「ならあいつを助けたってことはどういうことだよ?え?
あいつのことはもっと愛してますって話じゃないのか?」
「あの時は…そうするしかなかった…」
「そうだろうな、わかるよ。だから俺もこうするしかないんだよ」
「頼む!彼だけは助けてくれ」
「まだわからないか?あいつを痛めつけてんのはあんたのためだ。
なぜかって、あんたを直接痛めつけるより効果的だからさ」
「…」
「あいつがサンドバッグみたいにボロボロになってるのに、あんたは何もできない。最高に気分いいだろ?」
「わざと見せてるのか…」
「今頃気づいたのか?」
「頼む、彼を助けてくれ!」
「言っただろ、いつか後悔するって。覚えてるかい?」
「サラが、サラが遺した物をわかってくれ!」
「あんたのサラが何を遺したかなんて知ったことか。
だけど、俺のアーメッドはこうしろって言るんだよ」
「違う!絶対に違う!」
「うるせえよっ!」
拳が私の腹に落ちた
息をつけずにいると、フランシスが叫ぶのが聞こえた
「おいっ、このうるさいオヤジの口をふさいどけ!」
君の方に戻りながらフランシスは振り返ってまた笑った
「心配すんなよ、あんたの命は取らない。やるならあっちさ」
私のノーという叫び声に応えるように
フランシスはさらに高い声を上げて笑った
******
「おい、何て書いてあるんだ!」
「何?」
「メッセージだよ」
「お前、聞いてないのか?」
「知らん、すぐ飛び出したから」
「どこかの温泉町に行けってことだ」
「温泉町にいるのか?」
「そうらしい」
「どこだよ?」
「聞いたけど忘れた」
「読めよっ!」
「読めない」
「何?」
「こんな字が読めるかよっ!」
「読めないのかよ!」
「こんなくずれたヒエログリフみたいなのが読めるか!」
「訓練所で…」
「ハングルなんか習うかっ!あほっ!それより早く追いつけ!」
「わかってるわ!」
ワゴン車は僕たちの追跡に気づいているのか、心なしか飛ばしている
兄貴の運転は文字通りぶっ飛ばしている
元からアグレッシブな運転が多いこの街でも、さらに目立ったドライビングだ
割り込み割り込みの繰り返しでとうとうワゴン車の後ろにつけた
が、とたんにワゴン車がスピードを上げた
「ちっくしょう!野郎、気づきやがったな!」
あら、なんてお下品な
「ジャガーを振りきれると思ってやがんのか、糞ったれが、へっ!」
お里が知れるとはこのことですか、赤坂の師匠?
「高速に逃げるつもりだな、スピードで勝てると思ってんのか、うりゃうりゃうりゃぁぁぁ!」
このお下品ぶり、ラブっちに言いつけちゃおうっと
「お前っ!何にやついてやがる!」
「いやいや、早く追いつけ!」
「わかってら!」
ジャガーが一気に加速して、
ワゴン車が高速の入口に突っ込もうとするところを猛スピードで追い越し
反転しながら割り込んで行く手を塞いだ
両方の車が急ブレーキをかけ、タイヤが激しくきしむ音と同時に大きく脇へスリップした
乱暴だわ、きゃん!
「ぶつかったらどうする気だ!ジャガーだぞ!修理代高いぞ!」
「そんなドジするかよ!それより運転手が逃げるぞ!」
「まかせろ、逃がしゃしない」
運転席から降りて走りだした男を僕も追った
でもめんどうなので、手っ取りばやい手を使った
「止まれ!止まらないと撃つぞ!」
道路の脇の草むらに逃げ込もうとしていた男の足が止まった
振り返って僕が本当に銃を持っているのを確認した
よおし、いい子だ
とその時、僕の脇を猛ダッシュで駆け抜けたあいつが、
あっという間に男に飛びかかり、道路の方へ引きずり倒した
「ギョンビンはどうした?何でメッセージなんか届けた?吐けよ!こらっ!何とか言えっ!」
あいつは男の上に乗っかって叫んでいた
どうでもいいけど、
その状態じゃ男はしゃべれないと思うぞ
******
「逃げろってどう言うことだよっ!」
「ボスがやられたんだ!」
「嘘だ!」
「嘘じゃない、俺は見てたんだ!」
「何で、何で…」
「それより、お前金のありかを知ってるだろ?」
「え…金?」
「何年か前にデカイ仕事をした。そのときの金だ」
「知らないよ」
「嘘つけ!」
「知るわけないだろ!」
「じゃあ誰が知ってる?」
「あんたがナンバー2だろ。あんたが知らきゃ誰も知らないさ」
「俺はあの金には触らせてもらえなかった。お前だろ!」
「それより誰に、アーメッドは誰にやられたのさ…」
「教えたら金のありかを言うか?」
「…」
「どうなんだよっ!」
「わかった、教えるよ」
「MI6に踏み込まれたのさ。踏み込まれたら撤収、それが原則だって言ってた本人が2階に上がってった」
「じゃあMI6に?」
「いや、人質のひとりだ」
「何だって?」
「オックスフォードの教授だよ、何で人質が銃を持っていたかわからない。
だが踏み込んで味方の援護をしたとこで撃たれた」
「何でだよっ!何でそんなドジ踏んだんだよ!」
「知るか!もう一人の縛ってたはずの人質がハリムとやり合ってて、そいつを始末しようとしたら、撃たれた」
「そんな…」
「さあ、お前の番だ、金はどこだ?」
「知らない」
「何だと!」
「金なんか知るかよ!」
「この野郎!一人占めする気か!」
「違うよ、何度言ったらわかるんだ、知らないってば!」
「言わないなら、お前もここで終わりだ」
「待ってよ、ハッサン、金ならアーメッドにもらったのがある」
「もらった金?」
「こづかいとか仕事の駄賃とか。でも使わずにとってある。1万いや2万ポンドはある」
「笑わせるな、そんなはした金じゃない、桁が違う。何個もな」
「ハッサン…」
「言わないと撃つぞ」
「やめろよ!」
「だったらさっさと言え!」
「言いたくても知らないものは言えないよ!」
「脅しじゃない、撃つぞ!」
「ハッサン!」
「言え!」
それからのことはよく覚えてない
ハッサンに飛びかかって、それから床の上でもみ合った
突然ハッサンが悲鳴を上げた
驚いて体を離すと、ハッサンはぐったりして動かなかった
「ハッサン?」
震えながら声をかけたけど、ハッサンは小さく呻いているだけだった
よく見ると脇腹のあたりが真っ赤になっている
ハッサンの手から落ちた拳銃が床の上にころがっていた
俺が撃った?
俺が?
ハッサンを?
頭がぐらっと揺れて気分が悪くなった
あわてて洗面所に駆け込んだ
蛇口をひねって水を流し、
ボウルに向かって胃からこみ上げてきた異物をすべてぶちまけた
俺が撃った?
俺が?
人を撃ったのか?
アーメッド・・・俺・・・撃っちまった…
どうしよう
助けて・・・
助けてよ!
顔を上げると洗面台の鏡の中に、まるで他人のような俺がいた
真っ青で、震えながら涙を流している俺
なんて顔だよ…
アーメッド、あんた、ほんとにいなくなっちまったのか?
ほんとに?
もう教えてくれないのか・・・
俺がどうすればいいのか・・・
いくら唇を噛んでも
涙が次から次へと溢れ出てとまらない
その時、物音がした
部屋を振り返るとハッサンが喘ぎながら拳銃の方へ向かっていた
俺は考えるより先に洗面所から走り出て、ハッサンの指先の拳銃を拾い上げた
そのままの勢いで部屋から飛び出した
ハッサンを置き去りにして
ごめんよ、ハッサン、ごめん
でも俺は捕まるわけにいかない
それに先に銃を出したのはそっちだ
ごめんよ…
通りに出て、顔を伏せてしばらく歩いた
街へ出て人ごみに紛れた方がいいような気がしたから、近くの地下鉄の駅へ降りた
あの日の夜、どこでどう過ごしたのか
いくら思い出そうとしても
地下鉄に乗ったことしか思い出せない
ナップザックの底から随分久しぶりにその包みを取り出した
厚手のタオルにくるまれたそれは、ハッサンの拳銃
こんなに軽かったろうか
出窓の棚の上でタオルを広げた
あの時俺に向けられ、そして俺が初めて人を撃った拳銃
なぜあの時これを拾って逃げたのか
たぶんそうしろと本能が囁いていたんだ
いつか役に立つ
いつか・・・
こんな風に・・・
その冷たい銃身を手のひらに感じながら
俺は体の真ん中がほてってくるのを感じた
できるさ
近くで撃てば、はずしゃしない
ハッサンだって撃てたんだ
そうだろ?
ハッサン、そう言えば思い出した
アーメッドはあんたを信用してなかった
あんたは上の組織から送られてきたスパイみたいなもんだって
だからあんたに知らせてない金があっても不思議じゃない
あんただってアーメッドを置き去りにして一人で逃げてきた
だから、おあいこさ
もやにかかったハッサンの顔を思いだそうとした時、
窓の外で光が反射したのが見えた
目をこらすと、
陽の光を受けたしなやかなスポーツカーが門の手前に差しかかっていた
来たのか
しかも随分早いじゃないか
俺の中で、ある感情がゆらりとうごめいた
あいつには引きとめにくる相手がいる
呼べばすぐ駆けつけてくる相手がいる
それが嫉妬だとわかって忌々しくなった
だから何だ?
もうすぐそれも終わるじゃないか
俺は深呼吸して、気分を整えた
そう、怒りは勇気をくれる
俺は拳銃を手のひらに納め、
それから腰の後ろでズボンに押し込んで部屋を出た
新しいゲストを出迎えるために
そう言えば、あの車は有名なドイツのメーカーだったな
メルセデスは、たしか誰かの娘の名前
世界中の人間が知っている車に名前がついてるなんて
何て幸運な娘だ
******
沸点12 迷路 オリーさん
時計を見る事もせず、がむしゃらに辿り着いたその家は
メールにあったとおり町のはずれの高台に建ち
そのあたりには見られないしゃれた感じの洋館であった
門を通り抜け玄関先まで進み、ブレーキのペダルを踏んだとたん
心の内から疑問がわき上がってきた
なぜこんな所へ?
だが、まだその時点では、湧き上がる疑問よりもはやる気持ちが勝っていた
ほんの一瞬ハンドルを強く握り締めた後、思い切って運転席を立った
車を降りるとほとんど同時に玄関の扉が開いた
その姿を振り仰いで、予想もしていない人物の姿を認めた時に
再び疑問が湧いてきた
なぜ?
「ようこそ」
嫣然と自分に微笑むその姿には見覚えがあった
黒い点が頭の中でばらばらと散らばった
自分は来る場所を間違えたのか
いや、相手はようこそと言っている
思わず言葉が口をついて出た
「なぜ君がここにいる?」
返事をせずに青年はさらに大きく微笑んだ
それに引きこまれるように、後ろ手で車のドアを閉め玄関前の階段を進んだ
そして青年の前まで行き、もう一度訊ねた
「どうして君がここにいる?」
「ご招待を受けてくれてありがとう」
「招待?」
「他のゲストもお待ちかねだよ」
「他のゲスト?」
「先生とあなたの彼氏」
「どういうことだ、ここは君の家か?
「そうね、そうとも言えるし違うとも言えるかな。まあいいじゃない。
とにかく入ってよ。詳しい話は中で、ね?」
青年が扉を開いたので、促されるまま中に足を踏み入れた
見かけどおり、天井の高い立派な屋敷だった
玄関から続く広い廊下をゆっくりと歩きながら青年が言った
「随分早かったんだね」
「何?」
「メールを見てすぐ来たんだね」
「何だって?」
「どう、ドライブは快適だった?」
メール?
意味が即座に理解できないでいると
相手はさらにたたみかけてきた
「実はねえ、彼氏の携帯借りちゃったんだ」
「何だって!?」
思わず声を荒げると同時に、青年は立ち止まった
部屋の扉の前だった
つられて立ち止まり、つくづくとその青年を見つめた
相変わらず端正で美しい顔立ちをしている
だがその時初めて、美しい青年の瞳に
ぞっとするほどの悪意が潜んでいることに気がついた
「あのメールはミンでなく君が打ったというのか?」
青年は返事をする代わりに、満足そうに微笑んでドアノブにかけた手を回した
「さあ、この部屋だよ、どうぞ」
いきなり腕を掴まれて、思いのほか強い力で引っ張られた
その勢いのおかげで部屋の中へ一気に入った
部屋は大広間で、今まで歩いてきた分の奥行があった
大きなグランドピアノが手前にあり、
反対側の奥まった壁には書棚などが取り付けられている
豪華なその部屋に驚きながらも、
その書棚の前にある物に目がくぎ付けになった
あの人が椅子に縛りつけられている
口にはガムテープが張りつけられて…
「先生」
思わず声を漏らしたとたん、後ろで笑い声が弾けた
振り返ると、青年がすでに最後の装いを振り捨てていた
「言ったでしょ、ご招待したって」
悪意と憎悪が入り混じった瞳に凄味が加わり、
皮肉にもそれが青年の顔に神々しいほどの美しさを与えていた
降りかかってきた黒い影を遮ろうと大きな声を出していた
「笑ってる場合じゃないだろう、何をしているんだ!」
体中がほてるほどの怒りが湧いてきて教授の方へ駆け出した
が、途中でその人が自分に目で必死に何かを訴えていることに気づいた
顔を横に振って何かを…
そちらに視線を移すと、さらに予想もしなかった情景が目に飛び込んできた
床に大きな水たまりがあり、その中に倒れている影があった
「ミン!」
なぜ…どうして…
これはどうしたことなんだ
かけよって、倒れている相手を抱きあげ何度も名前を呼び続けながら
わずかに考える機能を残した頭の片隅で
さまざまな事象がけたたましいスピードで駆け巡っていた
薄暗い店のカウンター
落とした照明の元で妖しく微笑む青年
知らぬ間に撮られた写真
タクシーの前で見つめ合う二人
ミンの横顔と微笑む教授、
先ほど頭の中で散らばった点がどこかで繋がりそうで繋がらない
じれったい思いに歯噛みしながら
変わり果てた姿の恋人を抱きしめた
どこで間違えた
何を見落とした
なぜ、こんなことに…
「医者を、早く医者を呼んでくれ!」
振り向いて叫ぶと、美しく邪悪な微笑みが自分をとらえた
同時に絞り出した自分の叫び声が、高い天井に吸いとられていくのを感じた
***
ルームミラーに映る自分の車を確認しながら
ただひたすらアクセルを踏み続けていた
助手席には先ほど高速の入口で張り倒した男が座っている
気がつけば、その男は思いのほか年がいっていたのだが
そんなことに頓着している余裕はなかった
男を締め上げて話を聞き出した
事態は思いのほか早く進んでいた
今になってようやく本名がわかったあの青年は、
どうやら着々と準備をし、それを実行に移していた
弟を連れ去った後で、タイミングよく教授が帰国した
それで神隠しのように教授も連れ去られた
男は二人を連れて行った時点で仲間から抜けたと言った
これ以上危ない橋は渡りたくなかったと
そんな言い訳をする男の頬を、激情にかられてしこたま打った
ロジャースが止めなければ、もっと打っていただろう
実際はそんな時間さえも惜しいのはわかっていたのだが
ロジャースとの短い会話で、すぐにその後の行動が決まった
その場所へ案内させるために、男を連れて行く
自分が先ほどまで追いかけていた黒いバンを運転する
自分のジャガーはロジャースが運転して後に続く
それで時折ミラーに映るジャガーを確認しているのだが、
目のいいロジャースが自分の視線を捉えて
その度ごとにピースサインを送ってくるのには閉口していた
例の男の方は観念したのだろうか、
大人しく自分の車の助手席に乗っている
「あんた、あの青年の兄さんかね?」
助手席の男がふいに口を開いた
「だったらどうだってんだ」
「よく似てると思ってね」
「似てる・・・か」
「もしかして、あんたもあそこに住んでるのかい?」
「あそこ?」
「豪勢なマンションでさ」
「それがどうした?」
「ああ、それで…」
「何が?」
「最初に言いかけたんだよ、RRHのミンてね」
「何?」
「メッセージを届ける相手でさ。でも弟さんは一瞬ためらった。それで外人さんの方に届けてくれって」
男の言葉が頭の中でふりこのように揺れた
最初に思いついたのは自分だったのだ
思い出してくれてはいたのだ
そしてやめた…
自分に迷惑をかけたくないのか
自分に助けられるのが嫌なのか
あいつは
あいつは本当に気が強い奴だから…
二人だけの兄弟という事実がどうしようもなく愛おしく迫ってきた
目の奥に滲んできた熱いものを何とかするために、
思い切り奥歯を噛みしめた
「本当はあんたに知らせたかったんでしょうね」
心の中を見透かすような男の言葉に、ぶっきらぼうに答えた
「どっちに知らせても、結果は同じことだ」
「親父さん、殉職したそうですね」
「何でそんなことまで知ってる?あいつから聞いたのか」
「いや、ちょっとした話のはずみで」
「赤の他人にそんな事まで話すなんて、いつまでたっても甘っちょろい奴だ」
勢いで吐き捨てた
だが、男が顔を上げて自分の方を見つめているのを感じたちまち後悔した
「変なこと言っちまって、すまなかったね」
男はそう言うと、脇を向いて黙りこんだ
わかっていた
この男がなぜのこのこと弟に頼まれたとおりメッセージを届けに来たのか
その脇の甘さが、逆に男の琴線に触れたのだ
自分はそんな弟の長所も短所も痛いほどわかっているつもりだった
「あんたには…」
言いかけて躊躇った
だが、言いかけてしまったものは仕方がない
「あんたには…その、何て言っていいのかわからんが、
とにかく弟の頼みを聞いてくれた。それだけは礼を言う」
返事はなかった
自分の声が聞こえなかったのだろうか
前を注意しながら、そっと視線を男の方へ流した
男は窓の方を向いたままだった
視線を少し落とすと、膝の上で握りしめられた男の握り拳が
体に比べて思いのほか大きい事に気がついた
あんた、何者だ?
男の素性を聞いてみたい衝動にかられたが
どうでもいいことだと言い聞かせ、アクセルを踏み込んだ
と、その時男がつぶやいた
「まったくね、何で柄にもなくあんなことしちまったんだろう。
あげくこのざまだ。やっとこ抜けて帰ってきた道を逆戻りさね」
「だから礼を言っただろ。今さらガタガタしてもらっちゃ困る、いいな」
男は窓の外を見たまま返事をせず、自分はまた一段とスピードを上げた
それから、はずみでミラーの中のロジャースが親指を立てたのを見てしまい、
思わず舌打ちした
ロジャースは、テンションが上がってくると
必要以上に陽気になるのだったと遅まきながら思い出した
*******
僕を呼ぶ彼の声が好きだ
その声の中にすべてが表現されている
受け入れる、抱きしめる、抱擁する
そして…愛する
彼は声だけですべてが表現できる
その声を聞くためだけに、
僕は一生を捧げてもかまわない
誓ってもいい
だから
たとえ陽の光が届かない海の底でも僕は耐えられる
笑っていられる
彼の声が聞こえるなら
彼の声さえ聞くことができれば
そこは暗闇でなくなるから
突然、笑っている自分に気がついて驚いた
夢なのだろうか
現実なのだろうか
声が聞こえる…
彼の声が
長い眠りから覚醒する時に、時間の感覚が麻痺するように
自分の意識もまだはっきりとしないのだろうか
願うあまり、聞こえもしない声が聞こえたのだろうか
ずぶずぶとはまっている沼地のような暗闇から抜け出そうと
神経を目の後ろに集中させて開こうとした
なぜ声が聞こえるのだろう
僕を呼ぶあの声が…
わずかに目を開くと
そこに認めたのは信じられないものだった
定まらない焦点が徐々にはっきりして
そしてついに相手との視線が絡まると、
相手の瞳の中に明るいものが灯るのが見えた
そして自分の体の中にも温かい物が流れ始めたのを感じた
自分が相手の腕の中にいることもわかり
無意識のうちに体が痙攣を起こしたように震えてしまった
遠く離れて、間違ったメッセージを受け取り
もう二度と自分を許さないかもしれない
その彼が自分を抱き起こして微笑んでいる
あまりに思いがけない場面だった
「ミン」
彼が自分の頬に顔をつけ、自分の好きな声で名前を呼んだ
その声に
すべてをゆだねて浸っていたいという欲望が津波のように襲ってきた
だが、その欲望にもまれながら
自分がさらに追い詰められた事を知った
なぜ彼がここにいるのか
ほんのわずかな時間で、そのことを理解できたのだ
それは本能というよりも
訓練したり経験したりすることによって培われたものだったろう
彼をここに呼び寄せられる人間は一人しかいない
彼にまで、この災禍が及んでしまうのか
それだけはだめだ
何とかしなければ…
体の中に流れ始めていた温かい物を自ら断ち切るために
無駄かもしれないと思いながらも、相手に伝えた
できる限り小さな声で
「逃げて。早く…」
彼がわずかに顔を上げ、自分の瞳を覗きこんだ
その瞳を捉え、もう一度すばやく小さい声で囁いた
「ここにいちゃだめだ、早く逃げて…」
******
沸点13 標的 オリーさん
フランシスは、その男が床に膝をついて
相手を抱きあげるしぐさに見とれていた
そばに駆け寄るまでは性急であったものの
その後、相手を抱き上げるその動作は
とても静かで落ち着いていた
意図したものではないのだろうが、
その動作ひとつひとつが優雅で、かつ慈愛に満ちている
相手に対する情が深いのか、
それともいつもこんな風に愛情を表現しているのか
不思議と怒りや羨望の感情はなかった
すべて終わったら自分もまた、あの背中に会えるのだ
ただそう思った
次の瞬間、その男は振り返り医者を呼べと叫んだ
それは今までの慈愛に満ちた態度とは一変していた
男の瞳には激しい光が宿っていた
自然と笑みが浮かんでしまう
何を言っている
医者など必要ないのに
必要なのは…
もっと血を流すことだ
これからの事をもう一度頭の中でおさらいした
三番目のゲストが来るか来ないかは運にまかせた
どちらの場合でも自分にとって支障はなかった
だが、三番目もやってきた
それなら、こっちのシナリオだ
合図を送ると、金で雇った男達が動いた
二人の間に割って入り、引き離した
互いを呼ぶ声が交差し、充分痛めつけたはずのミンが
思いのほか抵抗するので、自分もそこへ行ってミンの顔に蹴りを入れた
ミンは大きく体勢を崩して頭から後ろへ倒れた
男達に腕をつかまれ憤っている男の顔を密かに観察すると
男の視線は、引き離され蹴り倒された相手を食い入るように見つめている
その瞳に浮かんでいる深い色は
自分が失くして二度と手に入れることのできない物
それを臆面もなくこの男は見せつけてくれている
憤っていても、取り乱していても、
それでもなおこの男は美しい
美しい者は何をしても美しいのだろうと思った
この男の顔を傷つけるのはやめようと決めた
それから、この男は最期の時まで美しいままなのかどうか、
無性に知りたくなった
男は決められた場所まで引きずられるように連れて行かれ
そして、そこで縛られた
だだっ広い広間の中央にたぶん支柱として必要だったのだろう、
太い柱が立っているのだ
これで3人を結ぶと、三角形ができる
そのいびつな形はお前たちにお似合いだ
男を縛り終えたやくざな二人はまた元の場所に戻り
上体を起こしかけたミンを両脇から押さえた
最後のステージが整った
三人をゆっくりと一巡してから呼吸を整えた
「さあ、これがファイナルステージだ」
三人の視線が三カ所から自分に注がれるのを感じて満足した
その中から最後のゲストの視線を捉え、言葉を続けた
「あんたにはわけがわからないかもしれない。今からそれを教えよう」
部屋の中の空気が静止するのを感じた
「ある時ある所で、あの男がある男を撃った」
あの男と言いながら教授を指した
「ある男を助けるために」
ある男と言いながらミンを指した
「撃たれた男は、俺の唯一の人だった。世間で何と呼ばれていたかなんて関係ない。
俺の大事な、世界でたった一人の人だ」
真ん中で柱に縛られた男がうつむいて小さく息を吐くのがわかった
「だから俺は、これから気のすむようにやりたいことをやる。
俺にはその権利があるし、義務もある」
静寂がさらに透明になり、空気が体にまとわりついた
さわさわと肌の上で踊っているような感覚
それは自分を祝福してくれているのか
違うのか…
だが自分はこの場を支配しているは間違いない
突然、低いけれどはっきりとした声が聞こえた
「君に何の権利があると言うんだ」
「何だって?」
「何の権利で何の義務だ?」
美しい男が顔を真っ直ぐに上げていた
「あんたにわかるように教えてやっただろ」
「理解できない」
「何だって?」
「単なる逆恨みならわかるが」
「逆恨みだと?」
「違うのか?」
美しい男はあろうことか自分を見くだしているのか
「君のたった一人の人はそれで喜ぶのか、本当にそう思っているのか?」
「うるさい!お前に何がわかる!」
美しい男は、視線を一瞬書棚の方に向けた
「世界で一番辛いのは君か?可哀相なのは君だけか?」
「うるさい!わかったような口をきくな!」
「世の中には不運や不幸はどこにでも転がっている。そしてそれは誰にでも簡単に訪れる。
だからと言って、それで何をしてもいいということにはならない」
「知ったことか。お前に俺の気持ちがわかるものか!」
自分の怒声につられる様に男は顎を少し上げた
そして冷たく言い放った
「君の気持などわからないね。だがこの状況はとうてい受け入れられない。
早くここにいる全員を解放するんだ。今なら許そう」
受け入れられないだと?
今なら許す?
笑わせてくれるな
自分が縛りつけられているのを忘れているのではないか
すべて俺の好きにできるのだ
にもかかわらずあの男はこの俺に説教をたれている
バカバカしいほど愚かな奴だ
頭を振った拍子に、書棚の前のもうひとりの人質と視線が合った
その視線に思わずぎょっとした
なぜかと言えば、その瞳には憎しみでなく、別のもの
言いようのない哀しみが満ちていた
恐怖に怯えるか、憎悪に燃えているだろうと思っていた分
深い哀しみをたたえたその瞳にとまどった
突然、低いけれどはっきりとした声が聞こえた
「君に何の権利があると言うんだ」
「何だって?」
「何の権利で何の義務だ?」
美しい男が顔を真っ直ぐに上げていた
「あんたにわかるように教えてやっただろ」
「理解できない」
「何だって?」
「単なる逆恨みならわかるが」
「逆恨みだと?」
「違うのか?」
美しい男はあろうことか自分を見くだしているのか
「君のたった一人の人はそれで喜ぶのか、本当にそう思っているのか?」
「うるさい!お前に何がわかる!」
美しい男は、視線を一瞬書棚の方に向けた
「世界で一番辛いのは君か?可哀相なのは君だけか?」
「うるさい!わかったような口をきくな!」
「世の中には不運や不幸はどこにでも転がっている。そしてそれは誰にでも簡単に訪れる。
だからと言って、それで何をしてもいいということにはならない」
「知ったことか。お前に俺の気持ちがわかるものか!」
自分の怒声につられる様に男は顎を少し上げた
そして冷たく言い放った
「君の気持などわからないね。だがこの状況はとうてい受け入れられない。
早くここにいる全員を解放するんだ。今なら許そう」
受け入れられないだと?
今なら許す?
笑わせてくれるな
自分が縛りつけられているのを忘れているのではないか
すべて俺の好きにできるのだ
にもかかわらずあの男はこの俺に説教をたれている
バカバカしいほど愚かな奴だ
頭を振った拍子に、書棚の前のもうひとりの人質と視線が合った
その視線に思わずぎょっとした
なぜかと言えば、その瞳には憎しみでなく、別のもの
言いようのない哀しみが満ちていた
恐怖に怯えるか、憎悪に燃えているだろうと思っていた分
深い哀しみをたたえたその瞳にとまどった
まさか、あわれんでいるのか?
この俺を?
心の奥の襞にすいと入り込まれたような気がした
同時に顔が火照り、むらむらと怒りがこみ上げてきた
どいつもこいつも何様のつもりだ
説教をたれる愚か者と、憐憫の情を見せる偽善者と
すぐに後悔させてやる
深呼吸をしてから腰の後ろに手を回し、ベルトに挟んでいた物に触れてみた
ひんやりと冷たくて硬い感触が、安らぎを与えてくれた
指の腹でゆっくりと形をなぞり、
それからグリップを注意深く握りしめ、一気に腰から引き抜いた
何も言わせない
その時がやってきたのだ
******
フランシスが腰の後ろから取り出した物は、部屋全体に異様な緊張感をもたらした
フランシスはその空気を楽しんでいるように見えた
それから自分の方に体を向け、それをかまえた
ぴたりと自分に照準をあてて
すると自分の両肩を押さえていた二人の男の手の力が弱まった
それを感じたとたん、頭が冴え冴えとして落ち着きを取り戻した
そう、飛び道具は危険だが、使いようでは状況が一変する
こちらの手に渡ればいいのだ
口径は大きくない
シングルハンドでかまえているのは
素人なのか、それともよほど自信があるのか
短銃でもそれなりに反動はくるものだ
今相手が手に持っているグロック-おそらくはG26-でもだ
確実に当てるにはダブルでかまえるはず
そんなことが頭の中をめぐった
たぶん素人だろう
そう結論づけたが、確証は何もない
テロリストと一緒に過ごした時間、
もしかしたら手ほどきを受けたのかもしれない
無駄だとはわかっていたが、話しかけてみた
「撃ったことはあるのか?」
「心配してくれなくていいよ」
「撃つ気なら一発で仕留めることだ」
「いいの?」
「はずしたら2発目を撃つ前に蹴り倒す」
「随分強気だね、あの彼氏のせい?」
それには答えずミンは黙って立ちあがった
形だけ肩を押さえていた男たちは、それを合図に一歩退いた
誤射を恐れているのだとわかり
先ほど自分が出した結論が正しいと確信した
それでも掴まれていた腕がなくなると、わずかにバランスを崩しかけた
悟られないように片足づつ体重の移動を行い足の感覚を確かめた
体の隅々がミシミシと音を立てて割れるような気がしたが、
それがどうしたというのだ
もうここまでだ
ここで食い止めなければいけない
「お兄さんまだやる気なんだ、すごいな」
フランシスのななめに開いた唇からいびつな笑みがこぼれた
「立ち上がった方が撃ちやすいだろ?」
こちらもわざとらしい笑みを浮かべた
「ミン!やめろ!」
脇から彼の叫び声が響いた
その声は聞かなかったことにして、ミンはただひたすら銃口に集中した
準備運動は終わっている
左だ
直感がそう告げている
頭の中で慎重にシミュレーションを行った
発射寸前に左によけて、そのまま相手に突っこむ
銃を奪い取ってしまえば形勢を逆転できる
フランシスがかまえを保ったまま、声を発した彼への返事をした
「お兄さんはやる気みたいだよ」
フランシスはそう言いながら一瞬視線を先生の方へ向けた
「この三人の関係、三角形の意味がわかるかな?」
それからまた視線を戻し、笑みを浮かべた
「負の連鎖なんだよ」
腕がかすかに上がり、引き金が引かれる寸前
再び彼の声が響いた
「ミン!」
その声の主に心の中で語りかけた
大丈夫だよ、黙って見てて
すぐにけりをつけるから
わずかに目を細めて銃口を確認した時だった
フランシスが今までとは違う抑揚のない醒めた声で言った
「よかったね、お兄さん。あんた、あの人のおかげで命拾いするんだよ」
何だって?
その意味がわからないまま、ほんのわずかな時が過ぎた
次の瞬間、素早く体を反転させたフランシスが自分とは違う方向に銃口を向け
直後に乾いた音が部屋に響いた
その事象すべてを目でとらえていたにもかかわらず
それがどういうことなのか、ミンは理解できなかった
なぜならそれはあり得ないこと、あってはならないことだったから
柱に縛られている彼の体がハレーションを起こしたような気がした
だが、それは一瞬で終わった
そして、大事な人の脇腹のあたりが赤く染まっていくのが見えると、思考が止まった
なぜ
なぜ、彼が
なぜ
大声で叫んでいるのが自分なのかどうなのか、
それさえもわからなくなっていた
******
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