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ぴかろんの日常
リレー企画 300
scene 2 ぴかろん
【横文字探し】
「『Une famille』。…。『u』と『n』まではオッケーだが『e』で振り出しに戻る。だめだ。フランス語じゃないようだ」
「ドイツ語は?」
「『Eine Familie』。最初の文字からして違う…」
「じゃ、ポルトガル語も違うか…『Uma família』だし…」
「スペイン語は?『Una familia』」
「やってみろ」
三文字目、『a』を恐る恐る押すギョンジン
「う…」
「どうだ!」
「いける」
「いけるか!」
「イケるかなぁ、初めてでも…ぐふ…ぐふふ」
「「「…」」」
「あの人の事は放っておこう」
「あんな人だとは思わなかった」
「チョンエさんに密告しよう」
「「「そうしよう!」」」
「そんな事より、次だ」
「『★』の後だな…」
「『f』…おおおお!いけた!」
「やった!次は?」
「『a』…おおおっおおっいけたぞ!」
「すごいぞ、ギョンジン」
「次は『m』…あうおう」
「どうした!」
「きてます!いきそうです!」
「きてっきてっ。いくぅ~ん。げへへへ」
「「「…」」」
「…。ギョンジン、無視しよう」
「…はい」
「次は?」
「『i』です」
「愛だよ、これは愛なんだ。ぁぁあん」
「「「…。ばか…」」」
「ソクさん!成功しましたっ!きいっ(>▽<)」
「そう。これは『せいこう』っていうんだよっ。ぁあん」
「「「…」」」
「げほん。…あそこまで下品だとはな…」
「脳に毒が回ったんじゃないですか?」
「とにかく、次だ!」
「はいっ!『l』」
「「「どうだっ」」」
「「「…」」」
「…。だめでしゅ…ふりだしにもどりました…(;_;)」
「そんなぁっ!ここまできたのにっ(;_;)」
「どおしてですかぁ」
「ああん、じらさないでぇん、もうすぐいきそうだったのにぃん」
「「「ぶぁかっ!」」」
「あはっ。何怒ってるの?みんなの気持ちをほぐそうとただけだよぉん」
「だからあの人は放っておいて…」
「せっかくここまできたのに…」
「もうちょっとだったのに…」
「はぁぁ…」
落ち込む3人
「あの…ほんとに『家族』なんでしょうか?」
そっと尋ねるドンヒ
「「絶対そうだ!」」
血走った目で叫ぶソクとギョンジン
「なぁなぁアニキ、『かてなちお』って何語なんだ?」
インジェの肩に凭れ、上目遣いで尋ねるホンピョ。微笑むインジェ。ムッとするドンヒ
「『カテナチオ』はイタリア語だよ、ホンピョ君」
「ふぅん。いたりあ語かぁ。アニキは物知りなんだなぁ」
「ホンピョ君は可愛いねぇ」ナデナデ
ますますムッとするドンヒ。目をキョロキョロさせるギョンジンとソク。ハタと目を合わせパンと手を叩く二人
「「それだ!イタリア語だ。ホンピョのあにきっ!イタリア語で『家族』は?!」」
「…は?あ…えっと。…イタリア語で…『Una famiglia』ですね」
「おおお!『i』の次に『g』がくるんだ!」
「おおお。そうすると『★』から右の八文字がぴったり当てはまる!」
「きっとこれだ!これに違いない!」
「よし、もう一度最初っから、慎重に…」
「ゆっくり…」
「そっとよ、そっとしてね…うふん」
「「「黙ってろ!」」」
「やぁん、怒っちゃいやぁん」
「「「どすけべ!」」」
「あぁん、ギョンジン君にそんなこと言われたくなぁいぃん」
「ギョンジン、あのクソ馬鹿男の事はほっといて集中しよう」
「ああ、手が震える…」
「あっ。だめっ。そんなふうにしちゃぁん」
「「「黙れというに!」」」
「けひっ」
「ああ、もう、集中できない」
「ギョンジン、落ち着くんだ」
「落ち着きません!あのドスケベの首を絞めていいですか?」
「僕としては構わないが…」
「やぁん、そんなことしちゃやぁあん」
「…。ギョンジン。やめとけ。絞め損だ」
「…。あい、ソクさん…」
「あは~ん」
「なぁなぁ、俺がやろうか?」
「ホンピョ…頼む。なんだか緊張しちゃって…」
「兄貴。俺があの木箱を開けてやるよ」
「ふふ。頼もしい『弟』だ。頑張ってね、ホンピョ君」
微笑み合うインジェとホンピョ。ムッとするドンヒ
「『☆☆☆☆☆una★famiglia』と」
「「「どうだ!」」」
「凹んだままだ。振り出しに戻らないぞ」
「ああん、いったぁぁん」
「「「…」」」
にやけているヨンナムを睨み付ける3人
「あぁん…睨まないでぇん」
「ギョンジン、あっちを見るな!集中だ」
「はい。ソクさん」
「蓋はどうだ、ホンピョ?」
「ん、ちょっと待って。よいしょ…」
カタン
木箱の蓋が動いた
「「「「「「「「うわわわわ、開いたぁぁ!やったぁぁ!」」」」」」」」
喜び合う皆。庭で見守っていたコワモテたちも野太い歓声を上げて抱き合っている
「奥様っ!今度こそ本当に開きました!」
別室に駆け込むジョンダル
「ななな、なんだってぇぇ?!」
別室から駆けつけるご婦人。後からついてくるテジュン
庭にいるスヒョクとラブを見つけて微笑むがスヒョクとラブは気づかない
「アニキィィ、金庫が開いたってぇ?」
「あにき!中に何が入ってたんだぁ?」
タイミングよく駆け込んできた次男と三男
木箱に手をかけるご婦人
「やだ。ドキドキするねぇ。何が入ってるんだろう…」
蓋をそっと外すご婦人
「…」
「これは…」
「…これが…宝…」
中に入っていたものを見て、神妙な顔つきになる母と3人の息子達
木箱の中には、3人の息子達が幼い頃に描いたり作ったりしたらしい父の絵や作品、父に宛てた手紙、家族の写真、母の写真などが入っていた
「…これが…あの人の宝…」
「…父さん…」
「とおおさぁぁん…」
「うぉぉんうぉぉぉん」
泣き出す三男、涙ぐむ『カテナチオ屋敷』の人々
「あたし達、大切にされていたんだねぇ、インジェ…」
「はい。お母さん…」
「オフクロ、俺ぁ親父の息子で良かったよ…」
「親父、最高…」
母と子の会話を聞き、皆、一様に鼻を啜る
「あにきっ、よかったな…よがっだなぁ…」
「ホンピョ君、ありがとう…」
「この金庫と木箱、これからも大切にしようじゃないか、ええ?」
「はい、母さん。僕達にとってこれ以上の宝物はありませんよ」
「…そうだね…本当にありがたいよ」
「あの…」
おずおずと声をかけるギョンジン
「ぐしゅ。なんだい?端整な若いの」
「…もし、よろしければその、見せていただけませんか?」
「え?」
「その…宝物を…」
「…。あんたたちにとっちゃ、ただの紙切れだよ」
「…」
「見な」
「…ありがとうございます…」
そっと中身を見るギョンジン。ギョンジンの横に立つソクとホンピョ
「これは長男が初めて描いた絵だよ」
「うは…。母さん、○と棒とぐちゃぐちゃの線だね…」
「お父さんの顔だ。あの人の字でそう書いてあるよ、インジェ」
「下手くそだね…フフフ」
「子どもだから仕方ないさ」
「俺が描いた絵の方がうまいな」
「そうだなソクチェ…うまいな…」
「俺のだって上手に描けてる」
「ああ、そうだなギョンジェ…ぐしゅっ」
涙ぐむ三兄弟とソク・ギョンジン・ホンピョ
「僕もこういうの、持ってる」
「チフン君が描いたものか?」
「うん…」
「僕も…持ってるよ…」
「…ソクさん…」
見つめ合って顔を歪める二人
「…いいな…俺は持ってねぇや…」
「…。ホンピョ」
「しょうがねぇよな、俺の娘は赤ん坊だったんだから…」
「そうだったな、お前、娘さんが小さい時に離れ離れに…」
「ぐしっ。でもよ、きっとこんな絵、くれたんだろうな、俺にもよ…ぐしっ」
「ホンピョ」
「ソクさん」
「ギョンジン」
「「「あうあうえうえうぐしぐしぐし」」」
抱き合って泣く3人
コワモテも三兄弟もご婦人も、みな顔をくしゃくしゃにして泣いている
「…行こう、ラブ」
「え?」
「抱きしめてあげなきゃ」
「…」
「そばに行こうよ!」
「…。待って。このまま帰ろう」
「は?なんで?何言ってるの」
「いいから帰ろ」
「ちょ…ちょっとラブ!」
騒ぐスヒョクの腕を物凄い力で引っ張り、スタスタと屋敷を出るラブ
静かに見送るテジュン
【街中の二人】
「…」
「ごめん。怒ってる?」
「…。なんで帰ってきちゃったの?」
「うん…」
「泣いてたのに。抱きしめてあげたかったのに!」
「…ごめん…」
「意地張ってンの?」
「え?」
「ギョンジンさんに対してさ」
「…」
「…。怒ってないから言ってよ、どうして帰ってきたのか。いつものラブなら抱きしめに行ってたろ?」
「…。うん…」
「どうして?」
「…抱きしめてやりたかったけど…」
「けど?」
「動いちゃいけないと思った」
「…。なんで?」
「ん。あいつ、チフン君だとかギョンビンだとか、そういう、あいつだけの思い出に浸りたいのかなって思ってさ」
「…」
「なんか、どっぷり浸って一人で泣きたい時ってない?」
「…。でもさ…逆に、悲しくて寂しい時には誰かに傍にいてほしいと思わない?」
「時と場合によるよ」
「…」
「さっきは、なんちったらいいのかな…、そういう気持ちが解る人と、そういう時間を共有した方がいいんじゃないかと思ったの」
「抱きしめて泣かせてあげたっていいと思うけどな、俺」
「うん…そうだね、そうかもしれない。でも」
「でも、何?」
「俺の胸で泣いてほしいってのは俺の希望であってあいつの望みじゃない」
「そんなの、わかんないだろ?」
「だけどさ、抱きしめに行ったら…浸れないじゃん、思い出に…。どうしたって俺を意識するじゃん、あいつ…」
「…」
「だからさ…さっきはその、あいつが一人で思い出に浸る、そういう時だったんじゃないかって。邪魔しちゃいけないって思って…。お前は抱きしめてあげたかったろうけど…ごめん、お前まで引っ張っちゃって」
「…。行かなきゃよかったかな…カテナチオ屋敷…」
「ううん、行ってよかった」
「…でも…」
「あいつが何にでも一生懸命取り組むヒトだって改めてわかったしさ、それに…」
「…それに?」
「ソクさんもだけど…、やっぱり情の深いいい奴だなって思った」
「…」
「そういうあいつをね、ちょっと離れた場所から見ることができてよかった…」
「ラブ…」
「見守るって、こういうことなのかな」
「…。ふぅ…」
「ごめんな…お前の気持ち、無視しちゃって…」
「ううん。わかったよ、ラブ。一緒にいて抱きしめてあげたいっての、俺のエゴで自己満足だ」
「いや、そういうわけじゃ…」
突然ラブの唇にチュッとキスするスヒョク。面食らって固まるラブ
「うふふ。ラブったら、ただのワガママ女王様かと思ってたら全然違う」
「え?」
「ラブ」
「あ…はい?」
「ら~ぶっ」
「…な…なによ…」
ラブの首に巻きつき、顔中にキスの雨を降らせるスヒョク
「わ。わわわ。す…すひょ…ちょちょちょっ…人がっ人がっ…」
「ラブ。大好きっ」
「へっ?」
ニコッと笑ってラブの眼をまっすぐ見るスヒョク
「だぁいすき。ラブ」
「へ?…あ…あは…」
真っ赤になって俯くラブ
「行こ。ちょっと早いけど、店の掃除の手伝いしよっ」
ラブの手をグイっと引っ張り歩き出すスヒョク
その勢いでコケそうになるラブ
「おっと、大丈夫?」
「だだ…大丈夫らよ…」
「ラブったら動きは鈍いのな~」
「な!」
「そこがまた、可愛いのな~」
「む」
「うふふ。ははは」
顔を見合わせ、クスクス笑いながら繋いだ手をブンブン振って歩く二人
ある日の、BHCの面々の、様々な場面…
それからの俺 ぴかろん
絶対まだ来てないよと言いながら、裏口を開けて中に入るスヒョクの後についた
予想に反してというべきか、予想通りというべきか、イヌ先生とウシクさんは店内の舞台にいた
今日もレッスン?こんなに早くから?熱心だね、と半ば呆れながらスヒョクは厨房の仕切りから店の中を覗いた
俺はそのスヒョクの頭の上に顎を乗せ、同じように店の中を覗いた
ふくれっつらのウシクさんが舞台の上でイヌ先生を睨んでいる
イヌ先生は舞台の下でウシクさんのダンスにあれこれと注文をつけている
いつもの風景だ
掃除できないじゃん…とスヒョクが呟く
二人は俺達に気づかない
やだ。もうこれでいいじゃない!どこをどう直すのさ!
だから、ターンのキレが悪いのと、指先がキチンと伸びてないのと、目線が弱いのと、それから、頭がふらつくのと…
センセは言うばっかり!自分はできるの?大体僕はセンセのピンチヒッターだったんだからね。これはセンセ用のダンスの振り付けなんだしっ!
ウシク…
文句つけるのは簡単だよ、気づいたトコ言えばいいだけだもん!センセはできるの?やってみてよ!最近ちっとも動いてないじゃない!
…
「ねぇねぇ、喧嘩が始まっちゃったみたい…」
「珍しいよね、イヌ先生とウシクさんの喧嘩」
先生は黙って舞台に上がり、ウシクさんが握り締めていた小道具の帽子を手にとって、ダンスの最初のポーズをとり、低い声で、音、と言った
ぼーっとしていたウシクさんは、慌ててオーディオのスイッチを押す
『Take5』のメロディが流れ出す
先生の動きは、俺が教えた時よりずっと洗練されていた
傍に突っ立っているウシクさんの体が強張っていくのがわかる
柔らかに、それでいてピシリと決まる指先や足先
帽子のツバの影から覗く妖艶な目線
滑らかなターン、無駄の無い動き
俺の顎の下でスヒョクがため息をつく
ラストのポーズを決めた先生がウシクさんに帽子をヒョイッと投げた
ウシクさんは突っ立ったまま動かなかった
「どう?参った?」
「…ずるい…センセ、ずるい…。チーフ代理で忙しいからって僕がこのダンスすることになったのに…。こんなに上手いんなら、自分が舞台に立てばいいじゃない」
「舞台の時間にはチーフの仕事しなきゃなんないもの」
「…いつ練習してたのさ!よくそんな暇があったね!」
つっかかるウシクさんに詰め寄った先生は、低く通る声で静かに言った
「お前がね、シャワーを浴びて」
「シャワーしてる間?!」
「その後どーなつをむさぼり食ってる間だよ!」
「…」
「ウシクはお菓子を食べすぎだ!」
「…だって…だってお菓子好きだもん!」
「だからそんなに重いんだ!」
「だってっ!」
「食べるなとは言わない。でも、もう少し控えたほうがいい。そうすればダンスのキレも違ってくる」
「もう踊らない!もうヤダ!」
「ウシク」
「ヤダもんっセンセがやった方がいいに決まってる(;_;)」
「…」
「かっこいいし…」
「ウシク…」
先生は微笑んでウシクさんを抱き寄せる。なぁんだ、結局こうなるのか~心配して損した、とスヒョクが言う
「よかったね、喧嘩になんなくて」
「掃除、どうしよう」
「裏のあたり、やっとこうよ、二人の邪魔しちゃ悪いし」
「そだね」
俺達は二人に気づかれないよう、控え室やトイレの掃除をした
その日の営業中、ウシクさんのダンスコーナー(元はイヌ先生のコーナーだ)で、ウシクさんは、いつもより可愛らしく踊っていた
通常なら一回で終わるのに、今日は違った。再び『Take5』が流れ出し、ウシクさんに絡むようにイヌ先生が登場した
客席からは悲鳴が上がり、BHCのホ○ト連中の冷やかしの声も混じった
素敵なダンスだった。終わってから先生に声をかけた。もうすっかり先生のモノになりましたね…
そう言うと先生は頭を掻きながら、いや、まったくダメだよ、一筋縄じゃいかないんだ、重いし…と答えた
なんの話だよ
センセ~と甘えた声がして、ウシクさんがパーンとやって来た。俺は一瞬怯んだが、笑顔を作って、ダンス、素敵でしたよ、と言った
ウシクさんは口を尖がらせ俺を睨み付けると、先生の首根っこにガシッと纏わりついて、どーしてラブとニコニコ喋るのさ!ラブだってデブだよ!と喚いた
先生は困ったような顔をしながら、ウシクさんの頭を撫でた
誰がデブだって?!ウシクさんに言われたくない!俺はドーナツ食いじゃないもん!
そう反論しようとした時、控え室からアイツが出てきた。アイツは俺を見とめると、緊張したように息を呑んだ
俺、今日はずーっとスヒョクとペア組むから、アンタはソクさんとヨロシクやってねと声をかけ、俺は店内に戻った
ペアルックのスヒョクと俺は、やっぱりマダム達に人気で、妖艶なラブちゃんもいいけど可愛いラブちゃんもいいわねぇだとか、時々スヒョク君とコンビ組んでねだとか言われた
スヒョクは、ラブとコンビの時は、俺のことを『すじょくん』って呼んでくださいと馬鹿丁寧にお願いしていた
アイツはチラチラと俺達を見ながら、なんとか仕事をこなしてるようだった
ドンジュンさんが細かな失敗を繰り返してた。俺が厨房に注文を告げに行った時はヌナに拳固を食らっていたし、イヌ先生にも注意されてたようだった
昼、パク・ウソクに会ってたね。仕事の話だから不自然じゃないよね。でも…
あの人も貴方も『らしくなかった』。俺がドンジュンさんを気にしてる事に気づいて、スヒョクは、そう言えばあのゴージャス氏さぁ、と抜けるような声を出した。俺は慌てて言葉を被せて誤魔化した。何度かゴージャス氏と繰り返すので、俺はスヒョクの顔を引き寄せ、それ以上ゴージャス氏の話題を出すのなら、『すじょらぶ』コンビは解散する、いいね、と一方的な宣告をした
「やだ!」
スヒョクは唇を尖らせ、涙目できっぱりと言った。周りのマダム達は、豪華な人の話より貴方達の可愛い様子の方が大事よ、解散しないでね~と騒ぎ、目を輝かせていたので、俺はサービスのつもりでスヒョクの唇にちゅっとキスした
きゃ~、可愛いキッスだわぁぁとマダム達が騒ぐ。
唇を離すと怒ったようなスヒョクが俺の頭を抱え込み、もっと濃厚にキスしてきた
ぎゃ~。マダム達の悲鳴の中で、俺はスヒョクの、かなり鍛えられた舌と唇に翻弄された。ドンジュンさんは、ゴージャス氏の話題に気づいてないようだ…
イナさんは一日中パンを作っていたとかで、営業前にまた一つずつみんなにパンを配りながら、明日、買いに来いと脅すように宣伝していた
テジュンに会えたかどうか聞くと、途端に俯いて、会ってない…としゅんとした。ヨンナムさんには?会ったの?と聞くと、浮かれながら水の配達に来たけど、別に嬉しくないし…と答えた
こないだまで好きだったのに?
うるさいな、気の迷いだったんだ…
イナさんはプイと横を向いて呟いた
変なことばっかり言ってるんだもん、かっこわるい…
変なことって何さ
しらない。チョンエとのアレコレを想像してニヤけて変なコト口走って一人であはんうふん言ってた…かっこわるい…
そして小さな声でこうも言った
あんな人を好きだったなんて…
それはないんじゃないの?あんなに悩んでたのに…
会話が途切れた時、俺は思い切って気になってた事に触れた
「あのさ…俺が言うのも変だけど…。ごめんね…」
「は?」
イナさんはキョトンとした顔で俺を見つめた
「けへん…だから…アイツのこと…」
「アイツ?ギョンジン?」
「…ん…。こないだの夜…」
「夜?」
イナさんは目をキョトキョトさせて記憶を手繰り、視線を止めてそれをピックアップすると、目を伏せてハハッと笑った
それから俺を優しい瞳で見た
「忘れてた」
「…忘れてたって…酷い目にあったのに…」
「ギョンジンとの間では解決してるしさ」
「…ほんとに?」
「ああ」
眉を上げて微笑む顔に嘘はなさそうだ。よかった…
「それに…」
「ん?なに?」
「気持ちよかったしぃ~」
イタズラっぽく付け加えた一言が、わだかまりのなさを物語る。イナさんのこういうところが俺は好きだ。そして…腹立たしくもある
「テジュンに言ってやろ」
「ぶぁか!冗談だ」
「くふふ」
「俺はてじゅ一筋だ!ちょっかいだすなよ」
じゃあ俺のアイツにもちょっかい出さないでよね、と心の中で言い返したものの、口には出さずに小首を傾げて可愛い子ぶってやった
イナさんがムッとした
「すっげぇ挑発的」
「え?なにがぁ?」
語尾を上げて更に挑発。ゴツンと頭にゲンコを喰らった
「酷ぉい、痛ぁい!」
「ふん」
ぶんむくれたイナさんに、一呼吸置いてからもう一度詫びた
「…俺がもっと気をつけてればよかったんだ…。ごめんね」
「何度も謝るなよ、過ぎたことだ」
「…うん…」
「あのな、アイツと俺は似てるんだ」
「え?」
「ほんとに好きなヒトとしか、そーゆーことはできないんだ、お前やてじゅと違って」
…。一言余計だ
「つまり…不器用なんだよな、俺達」
俺達って言うな!
「それじゃまるで俺とテジュンが浮気者みたいじゃないよ」
「そうじゃん」
むぅ…、イナさんだってこないだまでヨンナムさんの事好きだったくせに…
「…わかってる。お前とテジュンがほんとに好きあってたっての」
「え?」
「お前らは強いんだよ」
「強い?」
「正直に行動して一つ終わらせて戻ってきた。俺にはできない。怖くてさ…。多分ギョンジンも同じだよ、アイツは怖がりで弱いんだ」
アイツが弱くて俺が強い?
怪訝な顔をしていたんだろう、俺を覗き込んでイナさんが自信ありげにこう言った
「勘だよ。わかるんだ、アイツのそういう部分は…。わりぃな。アイツ、見つけ出したの、俺だからさ」
ポンポンと肩を叩いてフフンと笑ったイナさんのかなり向こうに、俯いたアイツの横顔がチラッと見えた
俺とスヒョクがペアを組んでいた間、アイツはどうしていたのかというと、あぶれたソクさんと、それからドンヒとホンピョのカテナチオ組で接客していた
店が賑わっていた頃、いつの間にか『カテナチオ屋敷』のマダムと息子たち、それから数名のいかつい男たちが来ていた
「あらまぁ、残念だねぇ、ほんとにあの『蜂の色男』はいないんだねぇ」
甲高いマダムの声でそれがわかった
そのボックスの『カテナチオ関係の面々』は皆穏やかな顔をしていた
俺はスヒョクと顔を見合わせて微笑んだ
マダムたちは営業終了ギリギリまで沢山飲み食いし、沢山騒いで帰っていった
控え室に戻ろうとしたとき、マダムたちを送り出した『カテナチオ組』が裏口から帰ってきた
俺は、そろそろアイツに話しかけようかなぁなんて思いながら一歩踏み出した
その時、突然ホンピョがアイツに抱きつき、アイツもホンピョを愛おしそうに抱きしめた
一瞬、何が起こったのかわからず、俺はその場に固まった
その後、ソクさんが二人を包み込むように抱きしめ、3人はぐすぐす泣いていた
ああ、まだ浸ってるのか…
3人の側で、ドンヒが困ったような顔をしていた
腕をぐいっと引っ張られ、俺は控え室に連れて行かれた
「もう!なによあれ!」
スヒョクがプリプリと怒って言った
「ホンピョの奴ぅ~、めちゃくちゃ甘えモードじゃん!なんでギョンジンさんに抱きつくのさ!ねぇ」
「え?あ…ああ。余韻なんじゃない?カテナチオ屋敷の」
「もう!俺たちの存在、無視してない?」
語気は荒いけどスヒョク自身からはそれほどの怒りを感じない。多分、俺に気を遣って怒ってるんだろうな
じっとみつめていると、ラブ、怒っていいのに、耐えてるなんて女王様には似合わないのに!と唇を尖がらせた
「え?…別に耐えてないけど…」
「…。お前、ボケちゃったの?どうしたのよ、いつものラブらしくない」
だってホンピョには嫉妬を感じないんだもん…
ぼんやりしてたらスヒョクが俺の両肩を掴んで揺さぶった
「んもぉぉぉ!しっかりしなよ!」
「ん?しっかりしてるよ」
「嘘だ。いつもなら爪咬み咬みするくせにっ」
「…そう?」
そんなにいつもキリキリしてたのかな、俺って…。にしても、スヒョクが俺を気にしてくれてることが嬉しくて、笑いながら奴をぎゅっと抱きしめた
「や。何だよ!抱きしめる人が違うよっ」
「違わない」
「な…」
「ありがとね、スヒョク。昨日と今日、俺と一緒にいてくれて」
「…なんだよ…礼なんか…」
「スヒョクのおかげでとっても和んだ」
「…。そう?」
「うん。いろんな事がわかった」
「え?」
キョトンとした隙を狙って唇にキスをする。スヒョクは俺の奇襲にすっかり慣れてしまったようでさして驚きもしない
俺は奴の顎を掴んで感謝の気持ちを込めた熱くて深いくちづけを送る。『慣れた』奴は俺に応え始める。そうくるか!ならばとばかりに本気を出してみた
その時、勢いよく控え室のドアが開いた。俺はくちづけをやめてドアを押さえたまま呆然としている男を見た
「なに?なんか用?」
「おお…おおお」
初めて見るってわけでもないのに、その男ホンピョは顔を真っ赤にして口をパクパクしていた
「ん?どした?」
スヒョクの肩に顎を乗せ、ニッと笑ってやると、ホンピョは大きく息を吸い込み、吐き出しながら叫んだ
「おにいちゃんを泣かすな!」
…
おにいちゃん?
「おおお…おにいちゃんはいい奴だ!おにいちゃんを大切にしろ!おにいちゃんを悲しませるな!おにいちゃんは…おにいちゃんは、お前の事、大切で大切でたまらないんだぞっばか!」
「…」
そのセリフ、『俺じゃない奴』に言ってくれないかなぁ…
「お前、何言ってるんだよ!」
俺よりも熱くなっているスヒョクが切り返した
「おにいちゃんって誰の事だよ。まさかギョンジンさんの事じゃないだろうな!」
「おう!そのギョンジンさんだよ!」
「なにぃ?」
「スヒョク…」
俺はスヒョクを押さえてホンピョの前に立った。ホンピョはうっすらと涙ぐんでいる。『ギョンジンさん』はいつからキミの『おにいちゃん』になったんだろう…
「こらっ!ホンピョ!」
叫び声を聞きつけたのかドンヒが控え室に飛び込んできてホンピョの腕を掴んだ
「すみません、こいつ今日ちょっとヘンで…」
「うるせぇやドンヒ!俺は、俺は、おにいちゃんが可哀想で…、こんな浮気性な男のことをよぉ…ぐすっ」
「こら!黙れ!…失礼しました。連れて帰りますから」
ドンヒはホンピョを庇うように俺から隠し、背中をトントンしてやっている。ホンピョはポロポロと涙を流している
「なんなんだよ、わけわかんない!」
「スヒョク、いいんだ」
「だってラブ」
憤るスヒョクを宥め、俺はホンピョに声をかけた
「ホンピョ、お前、いい奴だね」
「え?」
「大事にするよ、アイツの事」
「…」
ドンヒは俺に一礼すると、ホンピョを引き摺るように出て行った
「…なに、あれは…」
「だから~。余韻だってばさ、カテナチオの」
「…。…ソクさんも余韻に浸ってるのかな…」
「かもね。じゃ、そろそろオッサンたちを余韻から引き戻しますか?」
「…うん…」
「なによ、自信ないの?」
「…いや…」
「スヒョク」
「ん?」
「ちゃんと自分の気持ち、伝えなきゃダメよ、ん?」
「…。ラブこそ…」
「…。あーい」
スヒョクと俺は裏口に向かった。俯いたソクさんとアイツが突っ立っていた。俺はスヒョクに耳打ちする
「ね、また飲もうね」
「うん。また泊まりに行ってもいい?」
「もちろん」
「今夜、頑張ろうね、お互いに」
「…なにを?」
「…。いろいろ…」
「ぷ」
「くはは」
スヒョクの笑い声にソクさんが顔を上げた。思ったより明るい顔をしている。ソクさんはスヒョクに駆け寄ると奴の耳元で何か囁いた。スヒョクは、じゃあねぇ…ホ○ル!と答え、ソクさんに口を押さえられていた。…スヒョク…焦るんじゃない!
俺は、まだ俯いているアイツの横に並んだ
「帰る?」
「あ…うん…」
「俺ンち行く??アンタのマンション?それとも…一人で帰る?」
「…一緒に…」
「ん。じゃ、とりあえずぅ、歩いて帰ろっか?」
「え?あ…うん…」
オドオドしているアイツの腕に自分の腕を絡めて裏口のドアを開けると、路地にいた可愛らしいテジュンが顔を上げた
「テジュン。…イナさん迎えに来たの?」
「うん…。お前、昼間、来てたね」
「え?」
「てじゅうううう」
テジュンとの会話がごさいじに遮られた。店の奥から走り出てきたイナさんは、可愛らしいテジュンに抱きつき、俺を睨んだ
「しっしっ!早く野獣と帰れ!」
「む…」
「てじゅうう」
「イナ。会いたかった」
「おれもおれもおれもちゅちゅちゅちゅぅぅぅ」
イナさんは俺に見せ付けるようにテジュンの唇や顔にキスをしまくっていた。はいはいはい。わかりましたよ、テジュンは貴方の大事なヒトです
俺はアイツを引っ張って店の外に出た
途切れたテジュンとの会話も気になったけど、横のコイツの方が気になる
暫く腕を組んで歩いた。アイツは俯いたまま何も言わない。うーん、どうしよう…
「どこへ帰る?」
「…マンション…」
「どっちの?」
「…僕の…」
「俺も一緒でいいの?」
「ラブさえよければ…」
「ん」
とりあえず行き先が決まった。俺達はゆっくり歩いた。アイツは一向に口を開かない
「星がきれいだね」
「…うん…」
アイツは空も見ずに答えた。ビルの灯で星なんて幾つも見えないのにな…。昨日のスヒョクと同じだ
ビルの谷間の公園を通り抜ける。ベンチはアベックに占領されている。一つ、空いているベンチを見つけたので、俺は奴を誘導した
「座ろうよ」
「…うん…」
言いなりかよ
「は~。星がほんとにきれいだねぇ」
「…うん…」
だから見えてないっつーの
俺は奴の隣に腰を降ろしたまま、奴が何か言うのを待った
けれど何分待っても何も言わない。しょうがないなぁ、俺から何か話すか…。でもいきなり『アンタが好きだ』とか『アンタを信じてる』なんて言うのも変だ
困ったな…。まるで、生まれて初めてデートするような気分だ。どんな話題を出せば、この気まずい雰囲気を和らげることができるのだろうか…なんてあれこれ考えていたら、アイツがブツブツ呟きだした
「ん?なに?どうした?」
チャンスとばかりにアイツの肩に触れて顔を覗き込む。でも奴は手で顔を覆っている
「泣いてンの?」
「…」
「怒ってるの?」
「ちがう…」
「じゃあどうしたのさ」
「ごめん」
「え?」
「昨日、ごめん、怒鳴りつけて…。僕、そんな資格ないのに…。僕、イナに酷い事した…。ごめん。ごめんなさい…ごめん…」
「…」
『イナさんに酷い事をした僕』だから、俺に『怒鳴りつける資格がない』っていうこと?
俺は奴の、あちこちに飛んでいる文章を繋げてみた
「…僕がいやになったんだろ」
「…え?」
「…僕だってこんな奴嫌いだもん!だいっ嫌い!こんな奴、こんな奴イヤでたまらない!」
奴は顔を覆ったまま、震える声で叫んだ。俺の頭はコイツほど回転が良くない。だからそう叫ばれた時、まださっきのあちこちに飛んだ文章をゆっくり理解している最中だった
怒鳴られた時は確かに悲しかったな。でも、俺もちょっとやりすぎたし言われた通りなんだ
イナさんの事は、電話で話を聞いて理解はしたものの、顔を合わせたらなんだかモヤモヤしてついツンケンした態度を取ってしまった
だからやっぱ、俺が悪いんだよな…。コイツは電話で俺に謝ったんだし
…待てよ、イナさんとの間では、もうコトが治まってるんじゃなかったっけ?だったら俺にごめんごめん言わなくてもいいんじゃないのかなぁ…
と考えていた時、ギョンジンが涙声で言った
「愛想がつきたならそう言って。僕は僕がわからない。人に偉そうな事言って自分はちゃんとできてない。頭の中がぐちゃぐちゃなんだ」
ひどく悲観的になって唸っている。俺の頭は奴の話に置いてけぼりをくらった状態だ。えっと…さっきコイツ、なんて言ってたっけ…『いやになったんだろう』とか『自分が嫌いだ』とか…えっと…
ああ、かける言葉がみつからない。こんな時、なんと言えばいいのだろう。やっぱり『アンタが好き』とか『信じてる』とか?
「こんな奴、嫌いだろ?ならそう言って。はっきり言って!」
あらら~ワンテンポどころか一小節ぐらいズレちゃってるわ、俺。何がどうしてこうなったんだ?んとんとんと…ええい!考えてる間に話が進んじゃったんだな?
とにかく今コイツは、どうしようもなく自己批判してる…。まったく、調子のいい時は自信満々なくせに…
とりあえず、背中を擦ってやってと…
俺はそぉっと奴の背中を撫でた
俺の手が触れた途端、奴はひっくひっくしゃくり上げながら、こんな奴なんか、こんな奴なんか…と自分の脚を叩きだした
「…ごめん…」
ちゃんとギョンジンの言葉を聞いていなかったことを謝ろうと思い、まず『ごめん』と言ったものの、後の言葉が出てこない。困ったな
奴の背中と腕をさすりながら奴の上下する背中を見つめた。ギョンビンはこいつのこんな姿、見たことがあったのかな…
きっとイナさんだけなんだろう、こんな姿を安心して見せられるのは…
ん?んん?俺、今コイツの「こんな姿」、見てるじゃない
ということは…もしかしてコイツ、今、俺に甘えてる?
ふとそう思った途端、心臓がドキドキしだした
だって…だってさ…そうだったら嬉しいもの…。でもでも、俺の早とちりかもしれないし…
えっと、俺、こーやってコイツを慰めたこと、あったかしら
一生懸命思い出してみた
…あー…多分、ある。少しばかりは、ある。これが『思いっきり甘えてる状態』ってぇわけじゃないかもしれない
はふ…とため息をついた時、奴は顔をあげて叫んだ
「僕が嫌いだってはっきり言って!」
は?なに?俺、またワンテンポ遅れた?
「なにが『ごめん』なの?もうつきあいきれないから『ごめん』なの?そうなんだろ?」
え?どうしてそうなる?俺はなんにも言ってないじゃん!
「何も言ってくれない…。それほど愛想が尽きたってことだね」
「…は…ちょちょ…ちょっと待ってよ、違うよ!」
「違わない!こんな…こんな僕なんか…。弟が離れていくはずだよね、こんな出来の悪い兄貴なんていらないよね…こんな…父親なんて…こんな息子なんて…」
また勝手にとっ散らかりだした。思いっきり卑屈になってるヒトを元気づける言葉って何がある?魔法の言葉を教えてほしい。アンタ、なんて言ってほしいの?
「…いつもいつも空回りばかりだ…。余計な事ばかりしてしまう…。どうして僕はこうなんだろう…。どうして…」
やっぱ、甘えてンのかなぁ…
背中をさすり続けながら、俺は『空回りの得意な』男を眺めた
今日、アンタ、一生懸命『謎解き』してたよね?
謎解いて、開いた木箱の中身見て、泣いてたよね?
アンタ、あのホンピョに『おにいちゃんはいい奴だ』って言わせたんだよ
ばかだなぁ、凹むことないのに…
イナさんの言うとおり、アンタって弱っちいんだ
言ってることを聞き逃しはしたけど、背中を眺めてたら丁度いい言葉が見つかった
「アンタ、頑張ってるじゃない。いつもいつも頑張ってるじゃない。出来なんてどうでもいい。アンタ、いつも一生懸命じゃない。みんな、知ってるよ。アンタ、イイコだよ」
その後にキメようと思っていたセリフを、奴の号泣で吹っ飛ばされた
まわりのカップルの迷惑にならないように、俺は奴を無理矢理引っ立たせて歩かせた
真夜中に目が覚めて肩の重みに安堵した
そのまま俺は夢とうつつの狭間でゆらめいた
マンションが近づくにつれ、奴は静かになった
エントランスのトンプソンさんが目に入ると硬直して動かなくなった
大丈夫だからと声をかけると奴の体が緩んだ
何が大丈夫なんだかよくわからない
でもまぁいい
俺がついてるんだから大丈夫だ
超合金ロボみたいなアイツを引っ張ってトンプソンさんに挨拶をする
微笑みを絶やさない紳士は俺にごきげんようと声をかけた後、ほんの一瞬、目を見開いた
俯いてどんよりしたアイツに驚いたみたい
おかえりなさいませ
トンプソンさんの声は心地いい
そこにいつもの笑顔が添えられる
かろうじてただいまと口を開いたものの、アイツは顔を上げなかった
下がり眉毛にへの字口のごめんね顔をトンプソンさんに向けると
芸達者なこの紳士はヒョイと眉毛を上げ、あひるのような口をして
ご心配ですね
と顔で答えた
俺はくすっと笑い、アイツの腕を引っ張ってエレベーターホールに向かった
この高級マンションには他に人が住んでいるのだろうか
僕はいまだかつてここの住人と出くわしたことが無い
それは僕の生活時間が一般的でないからなのかもしれない
あるいは僕が住まわせてもらっている場所が夢の世界だからかもしれない
ダーリンが僕をエレベーターに押し込んだ
ひとりぼっちにされるのかと怯えたが、ダーリンはすぐに乗り込んできて40階のボタンを押した
イナは…
その扉の前で僕を拒絶していた
こんな僕は、誰からも拒絶されて当たり前だ
ダーリンだってきっと僕から離れて…
僕の肩にドカっとぶち当たりながら、ダーリンは僕の横の壁に凭れかかった
あまりに勢いよく凭れたので、その振動でエレベーターが止まるのではないかと心配した
僕は鬱とした気分に埋もれることができない。常に体のどこかが周囲の状況を探っている
職業病だ。嫌になる
最上階に着き、ダーリンは扉に向かって歩き出す
イナは…
僕を置いて箱から出て行った
後で手を引いてくれたけれど、寂しかった
ダーリンだってきっと僕を置いて…
ぐいっと上着を引っ張られ、僕は箱から脱出した
僕の部屋へと踏み出したダーリンは突然立ち止まり、僕はダーリンの後ろ頭につんのめった
「こんばんは~お邪魔しまぁす」
「やぁいらっしゃい」
エレベーターを降りると目に入る夜景
広いリビングに接したキッチンから、液体の入ったグラスを手にしたミンチョルさんが出てきた
穏やかに微笑む彼を見て俺は、ああ、ここはこの人の『家』なんだなぁと思った
「お酒ですか?夜景見ながら?」
「ん」
「一人で?」
聞くだけ野暮だった
ミンチョルさんは悪戯っぽく微笑んで、顎先を少し窓辺に振った
夜景が散りばめられたカウンターに、『お兄ちゃんの大切な弟君』の背中があった
「やるぅ~。おっしゃれ~」
「一杯だけね。仕事があるから」
「仕事?あ…音符関係ね?」
「一緒にどうだい?お兄さんもご一緒にいかがですか?」
「…あ…いえ…」
「やだ。邪魔はしませんって。おやすみなさい。ごゆっくり」
「そうか。おやすみ。おやすみなさい、お兄さん」
「お…おやすみなさい…」
倒れこみそうな奴の背中を押して、俺は『お兄ちゃんの部屋』に入った
部屋の入り口で固まっている奴を、とりあえず背中から抱きしめてみた
カクカクと震えている
いつからだったろう
この男の雰囲気が変わったのは…
背中に額をくっつけて考えた
原因はわかっている
ギョンビンだ
ギョンビンに何かあるとコイツは混乱する
ギョンビンの周りの大きな出来事といえば、ミンチョルさんとスヒョンさんの映画だろう
イナさんも気にしてるぐらい、チーフと元チーフの関係は微妙なんだと思う、でも
さっき会ったミンチョルさんは、安らいでいた
窓辺にいるギョンビンの存在がミンチョルさんの骨格を作っているってのかな…
必要不可欠。一番大切な宝物。そんな言葉が思い浮かんだ
ミンチョルさんはギョンビンを大事にしている。そんな事、見てればわかる
映画じゃない
ううん、映画の件も少しはあるだろうけど…それだけじゃないんだ、きっと…
いつからだったろう…
「ごめんね…」
「ん?」
「僕、こんなで…」
奴の顔を覗き込むと、うつろな瞳が揺れていた
イナさんとのことがあった後も、店ではきちんと仕事をしていたし、今日だってカテナチオ屋敷では普通だった
今のコイツは現実から浮き上がった場所を見ているように感じる
俺に発せられる、あちこちに飛び回る言葉の切れっ端
受け止めないとどんどん自分の世界に閉じこもりそうだ
「座ろうか」
俺は奴の背中を押してベッドに近づいた
奴は立ち止まり、ここはいやだと言った
「んじゃ、ソファに行こう」
方向を変えてソファに向かった
先に腰を降ろし、隣をポンポンと叩いたが、俯いて突っ立ったまま奴は動かない
やっかいだなぁ…何がそんなに気がかりなの?
ほっといていいものかどうか迷ったけど、暫く黙って待っていた
「…なんで何も言ってくれないの?」
「へ?」
「責めたきゃ責めればいいじゃないか!」
「…」
「失敗ばかりしてる情けない奴だって。邪魔だって言えばいいじゃないか!なんで何も言わないんだ!」
奴の飛びすぎる思考に唖然としながら、今、かけるべき言葉を探してみたけど…
みつかんない…まったくもう!
俺は、奴の鼻先に向けて、勢いよく、できるだけ真っ直ぐ右足を伸ばした
この体勢、結構ツラい…
鼻先までは届かないものの関心は引いたようで、奴の視線は少しばかり『現実の世界』に戻ってきた
「跪いて足を舐めろ!」
「…」
「とか言って欲しいわけ?!」
「…舐めて欲しいなら…」
「座ンなよ、とりあえずさぁ」
「…」
「ったくもう、世話のやけるジジイだなぁ!」
俺は奴の腕を引っ張り、隣に座らせた
「あのね。誰もアンタを邪魔だなんて思ってない。それと、イナさんはもう気にしてないって笑ってたし。…アンタ、他に何が気になるの?」
ギョンビンだろ?ギョンビンが心配で心配でたまんないんだろ?
「…ギョンビン…」
やっぱり
「リビングにいた?」
「うん」
「笑ってた?」
「…。ギョンビンは背中しか見てないからわかんないけど、ミンチョルさんはとても穏やかに微笑んでたよ。ってことはギョンビンも気持ち、穏やかなんじゃないの?」
奴は俺の顔をじっと見つめた
突けば涙が溢れそうな顔で
「…ギョンビン…僕みたいな頼りない兄貴なんていらないだろうな…」
「へ?」
「足引っ張ってばかり…」
「…」
「二人きりの兄弟だってのに…。頼りなくったって相談ぐらい…」
「…相談とか持ちかけて欲しいの?ギョンビンに?」
「…二人きりなのに…」
奴の瞳が浮き上がって行く
薄暗い部屋の中で鈍い光を放ちながら
大丈夫だ
俺はここにいる
腹に力を込めて俺は奴の手を握り締めた
奴は俺という現実を振り返った
「ね。小さい頃の話、聞きたいな」
「え?」
「アンタとギョンビンの、小さかった頃の」
幸せな頃の話
それを聞いてどうしようと思ったんだろう、俺
よくわからないまま水を向けた
奴はうふふと笑ってまた瞳を浮き上がらせた
優しい声色で語られる愛しい家族との思い出
ギョンビンやご両親の登場するお話
奴は度々怒られながら、それでもご両親を慕い、敬っていたようだし
奴の話の中のギョンビンは、とても可愛らしかった
前にも聞いたことがあったっけ
でも
こんな切ない響きはなかった
離れて行く弟に寂しさを感じてる?
何も話さなくったって、兄弟は兄弟だろ?
「アンタってさ…弟離れできてないのな」
「…」
「ギョンビンはさぁ」
「とっくに親離れも兄離れもできてるって言いたいんだろ?…テジュンさんにも同じような事言われた…。ギョンビンのほうがずっと大人だって…」
「ていうか…。ギョンビンは…キチンと育ったんだよ」
「え?」
「ご両親にもアンタにもいっぱい愛情もらってさ、すくすく真っ直ぐに育ったんだよ」
「…」
「だから…キチンと大人になったんだよ」
「きちんと?」
「キチンと反抗期を迎えて、自分の事は自分でできる大人になれたんだよ」
「…」
「アンタの頭ん中じゃギョンビンはいつまでも小さなギョンビンなのかもしれないけど、ギョンビンはもう一人前の男なんだ」
「…わかってるよ…」
「わかってる?ほんと?」
「わかってるけど…」
「いつまでも『おにーちゃんおにーちゃん』って甘えてほしいのね?」
「…」
「気持ち悪いじゃん、そんなの」
「…」
「ギョンビンにしたらさぁ…もうとっくに『甘え飽きてる』んじゃないのかな?」
「甘え飽きてる?」
「うん…、『かまわれ飽きてる』って言ってもいいかもね」
「かまわれ飽きて…」
「だって、お父さんにもお母さんにもお兄ちゃんにもずうっとかまわれて可愛がられてきたんだろう?」
「…うん…」
「んで?アンタにツンケンしだしたのが高校の時だっけ?」
「…うん…」
「真っ当に幸せに育った証拠じゃん」
「…」
「俺なんか親父の締め付けばっかりキツくて反抗もできなかったんだからね。反抗ってのは受け手が優しいからできるんじゃねぇの?」
俺もアンタによく反抗するだろ?わかってんのかな
「…反抗…真っ当…幸せ…」
「でもってアンタは甘え下手だったからギョンビンの気持ちがわかんないんだよ」
「…」
「アンタに十分甘えたってことだよ、ギョンビンは」
きっと、多分そうなんだ
お兄ちゃんには沢山甘えさせてもらった
もう十分してもらった
そういうことなんだよきっと
「じゃ…もうギョンビンに僕は必要ないんだ…やっぱり…」
「…必要ないんじゃなくてぇ、見ていてほしいんだと思う」
「見てる?」
「見守るってのかな」
「…」
「手出ししなくていいっていう…」
見てる方にはもどかしくて辛いってヤツ
「…あいつが苦しんでるのに何もするなっていうの?」
「助けを求めるまでほっといてってこと。ギョンビンってヘタレじゃないから」
「…」
「気ィ、強いだろ?やれるとこまでは一人でやっちゃうだろ?」
「…」
ぼんやりと、暫く考えてから、奴は長いため息をついた
いい加減吐けばいいのに、そしたら楽になるのに
今日の俺はヤキモチも妬かない、ちゃんと話も聞く、そーゆー態勢ができてるってのに、もどかしい!
あ
いけね…
言ってる端からもどかしがってるわ、俺…
澱んだ空気を変えるために、俺は立ち上がった
「風呂入る」
ぼんやりと頷く奴。見守るって難しい、確かに
空気を変えるというより、逃げ出すみたい
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