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ぴかろんの日常
リレー企画 306 触れぬ指
触れぬ指 あしばんさん
ここ数日、僕はすごく真面目に働いてる
胸の中のモヤモヤを消すためには、ただひたすらに働くのが一番楽
モヤモヤのひとつは、あのミンチョルさんが怪我をしたこと
ギョンビンがらみの…つまり刑事事件性のあるかなり複雑な話らしいんだけど…詳しくは知らされてない
聞いた時は頭の中が白くなって…ギョンビンのやつが心配になって…でもって…スヒョンが心配になった
朝から夜までびっしり撮影が入ってて、僕も店でほんの少ししか会えない状況で
はたから見ても疲れてるんだろうななんて思ってたのに
その話が伝わった日のスヒョンは…何て言うのか…生気がなかった
イヌセンセと頭を突き合わせて何事か話して、撮影の監督さんに連絡はしてたけど
その後、たったひとりで事務室のソファに座っていたスヒョンは蝋人形みたいだった
僕はひと言も声をかけられなかった
ダメだってわかってるから
ミンチョルさんのこと考えてる時のスヒョンに入り込むことはできないって
それは…もうずっと前からわかっていること
ギョンビンにすべてを任せようと決めて、連絡することさえ我慢してるスヒョン
そんなスヒョンを見てるのは…
…やっぱ…辛い
「ドンジュンさん、ケイタイが唸ってますよ!」
「あっ!はい!」
ギスのオフィスのデスクでぼんやりとしてると、若いやつの声にハッとした
そして、書類の山の向こうでブルブル震えるケイタイの表示を見てドキリとした
「お待たせし…」
「相変わらず遅い」
「すみま…」
「会わせたい者がいる、3時に俺のブースに直接来い」
「3時…」
「異議有りか」
「いえ、伺います、用意する書類は?」
「プレゼンの進行表、プロジェクト概略、英語版だ」
「わかりました」
そこまで言うと、いつものように電話は一方的に切られた
…これが…もうひとつのモヤモヤ
パク・ウソク
「もしかして、ウソク氏から呼び出しですか?急いで用意するものありますか?」
「大丈夫、だいたい揃ってるから」
「ここのとこ静かだったのに、何かあったんですか?」
「さぁ…なんか閃いたんじゃない?」
「いつもいきなり来ますよね、あの人と付き合うって大変そうですね」
「仕事だから仕方ない、プライベートじゃごめんだけどね」
我ながらひどい返事…ビジネスシーンにあるまじき暴言
僕は…はっきりと自覚してる
ヤツのことを意識してるってことを
このことを考えると、スヒョンのこととかミンチョルさんのこととかが駆け巡って
もう、具合が悪くなるほどモヤモヤがひどくなる
自分が何考えてるんだかわかんなくなって…落ち込む
…しばらく会いたくなかったんだけどな
足取りも重く、やつのオフィスに向かったのは3時より少し前
オフィスの真ん中を通り一番奥の硝子のブースに近づくと、何となく見覚えのあるスーツの背中が
パク・ウソクのデスク前のソファにおさまっているのが見えた
「ハーイ!ドンジュン!オヒサシブリ!」
ドアを開けた瞬間、振り返ったその男は、パリで世話になったというか世話をしたというか…のパチフラだった
僕を見てパッと明るくなったその懐かしい笑顔に、僕の口元も思わず緩む
「わおっ!いらしてたんですか!お仕事で?」
「Non!君をスカウトしに来たんだですよ」
「僕はぜったいにダメだって言ったじゃないですか!」
「はは~、相変わらず冷たいですね、日本に行ったついでに立ち寄ったんです」
笑いながら大きく広げられた腕に吸い寄せられ
がっつりハグしてくれる暖かさが何だか妙に嬉しくて、目の奥がジィンとした
何て言うのか…父親に抱きしめられたような感じだ
そんな僕らをデスクの向こうの椅子に深く腰掛けて眺めていたパク・ウソクは
再会には十分な間合いをとってから口を開いた
「ムッシュ・ロジェは、うちに用があったんだが、君にどうしても会いたいと言われてね…資料は持って来たか?」
「え…はい…ですが…」
「ですが、何だ?」
「いいんでしょうか…まだ正式には…」
「ムッシュ・ロジェは今日は俺の客としていらしてるんだ…この意味わかるな」
まだハグの腕が絡まったままのパチフラを見ると、彼は「意中の君が最近はどんな仕事をして
いるのか聞いてみたいねぇ」と言いながら小さく眉を上げる
僕はすべてを了解した
いわゆる根回しをしておこうということなんだろう…けど
「ふふん…」
数分後、パチフラが微笑みながら薄い書類の束を閉じた時には、不安がどっと広がって変な汗が出た
だって、これはこれから株主会で交渉して、その上でパチフラたちとの交渉をするものだから
今、彼にダメ出しされると非常にまずいわけで…たとえ”友人”としてでも
でも、彼は文字の大きさに少し言及した上で「最近は老眼でね」などと笑い
いい眼鏡屋は知らないかなどと妙に真剣にパク・ウソクに語りかけ
ヤツはヤツで、フィレンツェにいい職人がいるなどと、応えてる
眼鏡ひとつで国をひとっ飛びするあたりは、この人たちにはごく普通のことだろうけれど
内容にひと言も触れずにいるふたりに、僕は少々ムッとした
何か言って下さいよと口を開こうとした瞬間、パチのやつは立ち上がり
「済まないがもう時間がない、行かなくては」と済まなそうに肩をすくめた
「え…もう…行っちゃうんですか?」
「悪いね、ドンジュン君、次回会う時は約束を果たしますから」
「約束?」
「忘れた?」
「あ、タブリエ?」
「ふふ…忘れていませんから」
「僕も忘れてた」
「最高級の黒いタブリエを選んできますよ」
笑いながら僕のちょっと曲がっていたらしいネクタイを直し、握手のための手を差し出した
がっしりと握られた右手がややしばらくそのまま包まれる
「では、ムッシュ・ウソク、ありがとう、見送りはいらない」
「お気を付けて」
僕は、パチフラが放した手をそのまま固まらせたまま
彼が硝子ドアを開けてブースの向こうのオフィスの中に消えて行くのを見ていた
我にかえったのは、パク・ウソクが椅子にかけ直す小さな音を聞いた時だ
「あの…どうなってるんですか」
「問題でも?」
「や…この企画書のことは…」
「ロジェ氏は約束を果たすと言っただろう」
「だから、土産物の話じゃなくて」
「誰が土産の話をしている、もう一度来るってことは参加するという意味だろう」
「へ?」
「彼は、見込みのない仕事で飛行機代を無駄にする男じゃない」
「じゃ、OKってことですか?」
「まぁ、参加してみる価値がありそうだということだろう」
それがどういうことなのかよくわかんないけど、とにかく悪い方向じゃないってことだけはわかって
僕は、ソファのパチフラが座ってた辺りにドサリと腰を下ろした
座ってから、そこはまともにデスクの向こうのヤツと目が合う場所なんだとわかった
「君はパリで Le Reve(夢)とボードに書いたんだって?」
「え…あ…はい」
「その時の真っ直ぐな目が忘れられないそうだよ、彼は」
そう、ギスの会社を何とかしたくて…パチフラたちの前で大演説をぶったんだ
何ができるかもわからずパリに行って…
スヒョンに見送られて…
全てに真っすぐで正直で… 私は…彼という人間に出会えたことに感謝しています
いきなり、スヒョンの言葉が蘇った
パリに行く前に僕の父に言った言葉…
そして、同時にミンチョルさんのことで青白い顔をしていたスヒョンを思い出し
たった今感じていた高揚感が冷めて行くのを感じた
「とにかく…ちょっとホッとしました…ありがとうございます」
「妙に素直だな」
「そうですか」
「ロジェ氏は、次回、君の夢も聞いてみたいと言っていたよ」
夢…
「は…困ったな」
「何が困る」
「だって…夢って…」
何だろう…僕の夢…
そんな言葉…ここのところ忘れてた気がする
その延長線上にいつもあるような気がしていたスヒョンの顔がぼやけてて
胸のどこかが、すれたように痛い
「夢って、具体的に出てこなくて…まずいですね…こんなんじゃ」
「何?」
「偉そうにぶち立てようとしてる僕がこんなザマじゃ…へへ…」
「…」
「あ、すみません、余計なことです、では帰ります、今日はありがとうございました」
立ち上がった僕にパク・ウソクの低い声が絡む
「待て、何をひとりで完結させてる」
「何でもないです、もう、忙しすぎるのも良くないですね」
「おい」
「パチフラは買いかぶり過ぎなんですよね、あ、パチフラってロジェさんのことです
似てません?アル・パチーノに…アル・パチーノフランス風でパチフラなんです」
「…」
「って、くだらないですよね、では、これで失礼します」
「ドンジュン!」
初めて呼び捨てられて、思い切り驚いた
顔を上げてちゃんと見ると、ヤツはけっこう怖い顔でこちらを睨んでた
「何を隠してるんだ」
「そんな…そんなこと必要ないじゃないですか、あなたみたいに秘密主義じゃないです」
ちょっと余計なこと言ったかなと思ったけど
パク・ウソクは顔色ひとつ変えずにこちらを見てる
ほんの小さなため息をついたように見えたのは、僕の見間違いかもしれない
罰が悪くなって、今度こそ部屋を出るためにと身体を動かした瞬間にヤツはまた口を開いた
「飲みに行くか」
思いがけない言葉に、心臓が跳ねた
「先日のジャズの聴こえた店はどうだ?」
「…え…でも…まだ忙しくて…」
「忙しくても夕飯くらいはとるだろ?俺より忙しいとも思えないしな」
「…でも」
「面倒なやつだな、店が終わってから来い、そう遠くない」
「…」
「いいな」
頼むから、そんなに気楽に声をかけないで…そう叫びたい気持ちと
もっとヤツを知りたいって気持ちがごちゃ混ぜになって渦を巻く
「ふっ、ふたりはごめんですよ、あなたとふたりで飲むなんてゴメンです」
「善処しよう」
「…じ、じゃ…その…店終わったら行きます」
偉そうに応えていた僕だけれど…心臓の跳ね返りは止まらなかった
蒸し暑い夜の街の空気を吸い込んだのは、大通りの交差点まで出た時だった
そこまで来ても、まだその先のことを迷ってはいたんだけど
でも、店の方を振り返る気にもなれない
スヒョンが悪いわけじゃない
そうだよ、別にどうってことない、いつものことだ
僕が勝手にへそ曲げてるだけなんだから
その日の店じゃ、スヒョンはやっぱり元気がなかった
ミンチョルさんの怪我のことで、日本ロケの確認とかいろんなことに対応してるらしくて
でも、それは問題ないってことだからポイントはそこじゃない
すごく心配してるんだ
メンバーには大丈夫だ心配するなって言いながら、自分がいちばん心配してる
だからさ、そんなスヒョンを何気に励ましてやるのが僕の仕事なんだろうけど
また閉店後にひとり事務室でため息ついてるのなんかを見かけると
無性に…何て言ったらいいのか…
「今夜も…これから撮影あんの?」
「ん?…いや…スタジオには顔出すけどな」
「何しに?大道具係でもすんの?」
我ながら、冗談がイケてないんだけど
「妹役の子の難しいシーンがあるから、側にいてやろうと思ってね」
「ふぅん…そんなことまでするんだ…優しいんだね」
「彼女、なかなか才能があるんじゃないかと思う」
「そか…良かったじゃない」
不自然な会話
でも、スヒョンはそんなことを気にもせずその辺の書類を適当にまとめてる
その前にご飯くらい食べに行かない?
そう言おうとした矢先にデスクの上の携帯が鳴って、スヒョンは思いのほか素早くそれを取った
そして、相手の名前を確認するとちょっと気落ちしたように耳に当てて
撮影スタッフだろうか…言葉少なに明日の時間調整みたいなことを喋って切った
ギョンビンからじゃなかったんだ
なんて言葉が頭をよぎったんだけど
それを振り払って、僕はデスクを回りスヒョンの直ぐ横に突っ立った
「ね、今日、飲まないかって誘われてるんだ」
「そう、店の連中と?」
「ううん…その…パク・ウソク」
「…」
その時、ちょっと驚いたように手を止めて僕を見上げたスヒョンの表情に
僅かに溜飲を下げた自分が情けない
「何だか気がすすまないんだけどさ」
「嫌なら断ったらどうだ?」
「別に…断る理由もないから…」
スヒョンが行くなって言えば行かないんだけど
「 おまえの好きにすればいい、いずれにしても僕のことはハッキリ言ってくれて構わないよ」
え…?
「ミス・リタのことだよ、何を言われても無理だと思うって言っておいてくれていい」
「あ…ああ、そのことか」
そんなことか…
「それはわかってるよ…うん、そう言っとく」
「よろしく伝えておいてくれ」
「…ん」
そのまま立ってる僕の顔から視線を外さないスヒョン
ほんのちょとは…何かを感じてくれてる?
「スヒョン…?」
僕…あいつに惹かれてるんだよ?
「ん?」
「その…がんばってね…撮影」
僕は両手でスヒョンの頬を挟んでキスをした
最初は軽く、そして自分の唇をねじ込むように押し付けて、少し冷たく感じる唇をこじ開ける
舌を絡ませればスヒョンの片腕が伸びて僕の首の後ろ辺りを押さえる
ちょっと息が苦しくなるほどのキス
閉じた目のずっと奥がじんわりと熱くなるほどのキス
でも、何だか泣きたくなるような気分になって
事務室に響く小さな濡れた音ほどには僕の胸の中が潤うことはなかった
交差点を真っ直ぐ渡って右に折れ、3ブロックほど行くとそのホテルは建っている
パク・グループが一番新しく…って言っても6年前くらいに買収して持ち直したとか聞いた
ひとがパラパラと行き交うロビーを抜けてエレベータホールに立って
それでもまだ行くかどうしようか迷ってた
小太りのビジネスマンらしき男が現れて上行きのボタンを押さなかったら
僕はずっとそこで思案したままだったかもしれない
最上階の高級レストランのあるフロア
その奥の一段と暗いところにその会員制クラブはあった
どう考えても僕には場違いな…ってか異世界って感じの入り口全体は
目をこらすと驚くほど細密だとわかる黒檀の花の彫刻で飾られ
小さなダウンライトに、黒い花瓶に生けられたカラーの白い大きな花が照らされている
その奥に店の空間が続いてることを証明するのは、暗闇の中に浮かぶ深紅の絨毯の道だけだった
僕はそこでもモタモタしてた
ギスに電話して小声で「今夜片付けるべき仕事はもうない?」と聞いたのは
今更ながら逃げ出す正当な理由を考えてたわけで
特にない、たまにはゆっくりしろというギスの無情な答えにため息をついたところで
店の入り口にひとの気配がして「失礼ですが」と声を掛けられドキッとした
振り向けば、声と同じくらいいい感じのおじさんが「カン・ドンジュンさまでいらっしゃいますか?」と微笑む
僕はすべてを諦めて頷いた
「今日は時間に正確だな」
重厚な、靴の底に弾力を感じるほどの絨毯を踏んで暗い店を進むと
一番奥まった、ちょっと他の客席とは差別間のある空間に
深紅のベルベットのソファにゆったりと足を組むパク・ウソクがいた
珍しく濃い黒っぽいスーツなんかを着てるやつは、貴族みたいな風格でもって座ってる
そして、その向かいにもうひとり見慣れぬ背中があるのに気づいて…
一瞬、ホントにふたりきりじゃなかったことにがっかりして…
そんなことにがっかりしてる自分にうろたえて…
相手を確認してまたうろたえた
その相手ってのはパクの会社の専務、パク・ウソクの兄貴だ
ウソクの兄貴は、先日チラッと会った時はこちらに目も向けなかったのに
意外にも「どうも」と向こうから声を掛けられ、僕も慌てて挨拶をする
どこに座っていいのかわかんなくて、ふたりと三角形になるようなとこに腰を下ろすと
さっきの老巧な感じの給仕が飲み物の注文をきいて、直ぐに下がった
離れたところに座ってる二組の客の声が聞こえるけれど
それらさえ、落ち着いたジャズの音と一緒に飴色の灯りに溶け込んでいる
「あの…お邪魔じゃ…ないんですか?」
「何がだ」
「何がって…大事なお話とかしてるんじゃないですか?…僕なんて…いていいんでしょうか」
「君が言ったんだろう」
「はぁ?」
「ふたりきりは嫌だと言ったのは君だろうが!」
明らかに苛ついた様子のパク・ウソクに、僕は思いっきり「?」って顔をしたんだろう
兄貴の方が困ったような顔で口を開いた
「仕方なく私が付き合うことになったんだよ」
「って…」
「ドンジュン君、弟に飲みに付き合えと言われてハイと応えられる社員はいないんだよ」
だって、ふたりじゃイヤだって確かに言ったけど、まさかホントに…
呆気にとられてポカンと口を開けてたんだけど、想像したら可笑しくなって思わず吹き出した
「笑うな、失敬なやつだな」
「すみません、だって…」
「そりゃドンジュン君だって笑うだろうよ、小学生じゃあるまいし」
パク・ウソクがかなりムッとしてグラスを置いたのと
やつのスーツの中で携帯の着信があったのはほぼ同時だった
そのままぞんざいに切ろうとするウソクだったが
兄の「社からじゃないのか?繋がらないとここまで押し掛けてくるかもしれんぞ」という言葉に
ひとことも言わずに立ち上がると、僕の前を通ってさっさと店の入り口の方へ消える
その後ろ姿をちらっと見て、ウソクの兄貴は再びソファの背に寄りかかった
「ああいう男だからな、君も困ることが多いだろう」
「はい、かなり」
「君はあいつに正面から意見を言って黙らせたと聞いているが、その通りみたいだな
今日あいつと飲むっていう男はどんな人間なのか調べたんだがね」
「口が悪いって注意されます」
「いや、それくらいがいいんだろう、へつらう人間は山ほどいるが気を許せる相手もいない」
兄貴の言葉は何だかマジに弟を心配してるように聞こえて
やっぱり、まことしやかに言われてるパクの兄弟の確執なんて捏造されたものかもしれない
少し寂しささえ感じさせるようなその表情に、そんなことを思った
でも、兄貴はそんな僕を、観察っていうか値踏みっていうかそんな目でじっと見てる
いいかげん居心地が悪くなり始めた頃に給仕がグラスを運んで来て
僕は仕方なくそれを口に放り込んだ
兄貴がまた口を開くまで、けっこう長い時間があったような気がする
「今日は誘った相手がいると聞いて、ついに意中の女性に会えるかと思って来たんだがね」
「え…すみません…」
「いや、君が謝ることはないよ、昔からあいつは女性の話は一切しない
付き合った相手も何人かいたようだが、いつもしばらくすると綺麗さっぱりだ」
「そう…ですか」
「で…君は?」
「はい?」
「いわゆる同性愛者なんだろう?」
あまりの唐突なツッコミに、僕は半量になったグラスを持ったまま固まった
「調べさせてもらったと言っただろう」
「…」
「気を悪くしたなら申し訳ないが、あいつの周辺を管理するのが私の役目だから
今日、ここに来たのも君にぜひ会って言いたいことがあったからだ」
「…」
「最近、あいつが、どこかのしつこい令嬢対策にやっかいなことをしただろう」
「あ…えと…」
「その相手と母親がいろいろなところで吹聴して回っていてね」
あの白塗り仮面…
「最近、あいつが結婚しないのは女に興味がないからだと噂も立っていた時にその騒動だ」
「…」
「まぁ正直に言えば迷惑な噂だからね、君に否定してもらえば助かる」
「否定って…」
「君が私たちの従兄弟の店で仕事をしているのも知っている、男と付き合っているのも知っている
そんなことはどうでもいい、ただウソクとは120%仕事の付き合いだと断言してもらわねば困る」
「…」
「パクの会社を継ぐのは私だが、あれには片腕になってもらうつもりだ、のらくらと逃げてはいるが
結婚もさせ、子どもも持たせたい」
「ウソクさんと僕は変な関係じゃありません」
「それはわかっているよ、あいつにそういう趣味はない
結婚したがらないのも理由がある、誰だか知らないが忘れられない女がいるからだよ」
僕は…ふたつの理由で、頭の奥が暗くなるような気分になった
「じゃ…どう否定しろとおっしゃるんですか」
「あの令嬢に詫びを入れ訂正してくれればいいんだ」
「でも、あのひと達はウソクさんにひどい言葉を言ったんですよ」
「この世界じゃ珍しいことじゃない」
「…」
「詫びさえ入れてくれたら、あとはあの親子にはこれ以上何も言わせないよう手配する」
「手配って…」
「それは君の考えることじゃない、パクの障害は取り除くということだ」
ドキリとした
一見、穏やかそうな目の奥にある静まり返ったような冷たい部分
その冷たさは、パク・ウソクの、相手に何も期待しないようなそれとは違う
どこか押し付けがましささえ感じる盲信的なもの
それから、ウソクの兄貴は、ひと呼吸おいて続けた
「そしてもうひとつ、今後だが、ウソクにこういった席に声をかけられても一切応じないでほしい」
「…」
「くだらない噂に無用な尾ひれがつくのは早いものだ」
「でも、本当に何も…」
「この先もパクの力は必要なんだろう?」
「…」
「弟が進めたいと言うなら見込みがある事業なのだろう、それを私も邪魔したくはない
もちろん大いに期待し助力をさせてもらえると思う…パクのためになるのなら」
やんわりと、静かに突きつけられた刃
最後の部分で語調を強めたのは、わざとだと思う
なぜか…前にラブ君に聞いた話が蘇った
遠い遠い日
屋敷の中で、客にピアノを披露していたウソクの兄
そして…広い庭の樹々の下でひとり寝転がって空を見てたウソク
返事を返せぬままでいるとパク・ウソクが戻ってきた
と同時に、兄貴の目から刃の影が消える
「急ぎの用でもあったのか?」
「いや、兄さんの秘書からですが、要領を得ない質問の羅列だ」
「ああ、ベンガロールの件で直接おまえに聞くと言っていたからな」
「いずれにしろ、こんな時間にわざわざ連絡するようなことじゃない」
「悪かったな、明日私から叱っておくよ」
その時、兄貴の表情を見ていて妙な勘が働いた
もしかしたら、さっきの電話はこの兄貴がかけさせたものじゃないかって
僕とふたりで話す時間をつくるために仕組んだものじゃないかって
時々あさっての方向に勘違いする僕だけど、これはたぶん当たってる
短い時間に、この兄貴ってやつがわかった気がした
頭はよく超優等生だが父親を越えることはないだろうと言われている跡継ぎ
今や、実質は弟が動かしているんじゃないかと噂され、それを平然と受け止める兄
でも、きっとどこかにとんでもない間違いが紛れ込んでる
巷で言われているほど緩くもぬるくもない
本気でパクの「家」が大事なんだろう、だから弟も本気で大事なんだろう
もしかしたら、いつまで経っても消えない父親の「汚名」を必死に拭おうとしてるのか…
この男は、それらのためなら何でも…危ないこともやってのけるかもしれない
静かに…周りに気づかせぬまま
そして…
そんな彼のような「保守」な人間にとっては
僕みたいな者は、極力排除したいやっかいものなんだろう…
「で、ドンジュン君、そういったわけで君の会社の件だけれど」
「あ…はい」
「なんだ、ふたりでそんな話をしてたんですか?」
「社長もすべてウソクに任せてはいるが、楽観はしないように頼むよ
親類関係の繋がりには甘かったと言われるような結果にはしないでほしい」
「兄さん、もういいですよ、あの投資は俺が決めたことですから」
「わかっている、念のためだ」
「あの…大丈夫です…ご迷惑をおかけするようなことは…しません」
「…約束してくれるね?」
「…はい…」
胸の辺りが焼けそうだ
こんなところでおとなしく引き下がりたかないけど
自尊心のために、せっかくここまでこぎ着けたものをめちゃくちゃにするわけにはいかない
そんなことしたら…パク・ウソクの今までの助力も台無しになる
「それで安心した、それじゃ、私は帰るとするかな」
「えっ?あの…」
「今日はなるべく早く帰ると言ってあるんだ」
「あ、じゃ、僕も…」
話の流れからして、そのまま残るのはマズいんじゃないかと思って立ち上がりかけたが
横のパク・ウソクにめちゃめちゃ恐い目で睨まれてまた腰を下ろした
「5分で帰るやつがあるか、何のために呼んだかわからないだろうが」
「何のためって…」
「ウソク、ドンジュン君は忙しいそうだよ、無理をさせちゃ悪くないか?」
「あの…」
「いや、税務の件で相談しなければならないことを思い出した、30分で終わるから我慢しろ」
「…あぅ…」
深紅のベルベッドにかかる髪の毛が思ってたより柔らかそうで…
黒くてつやのあるスヒョンの髪の毛の手触りを思い出して目を逸らした
ウソクの兄貴が帰って、ふたりで座るには少し広いソファとテーブル
やつとはふたり分ほど離れた不自然な間合いがあったけど、これ以上近くに座ることも離れることもできない
「あの…税務の件って何ですか?」
「そんなものはない」
「は?」
ウソクは後ろにもたれて目を閉じたまま続けた
「飲みたかったんだよ、君と」
「…」
「普通に話ができる相手とな」
「でも…その…社外に友だちとかいないんですか」
「ふん、そんなもの信用できるか」
「…」
「君は遠慮なくものを言うからな、かなり頭にはくるが後から考えれば案外悪くない」
「褒められてる気はしませんけど…」
「白状しようか」
パク・ウソクが姿勢はそのままに、顔だけをこちらに向け目を開ける
深紅につつまれたその彫刻のような陰影にドキリとする
「君と初めて会った日、社長にたてついているのを見て胸がすっきりした」
「でも、あのとき、あなたすごく怒ってたけど」
「まぁ、どこのケツの青い小僧が来たのかと思ってたからな
無茶とした思えない威勢の良さが、中身のないハッタリかどうかもわからんし」
「まだハッタリかもと思ってます?」
「さぁ、どうだかな、いずれにしろ変なやつだって印象は今も変わらんがね」
憎たらしいこと言ってるわりには、ウソクの目は穏やかで、いつになく静かで
さっき兄貴にチクチクやられた痛みが少し和らぐような気さえした
この男に癒されるなんて、想像もできなかったことだけれど
流れるジャズのピアノの音が心地いい
どこかで聴いたことがあるなと思いながら思い出せずぼやんとしてると
またちょっと不機嫌そうな色を帯びた声がする
「どうでもいいが、もう少し近くに座ったらどうだ」
「え…」
「会議じゃあるまいし、何で声を張り上げなきゃならんのだ」
「だって…」
「何がだってだ、本当に面倒なやつだな」
…つったって「あなたの近くには寄りたくない」なんてことは言えず
僕はそろりと尻をずらして、ひとり分ほど空いた辺りまでやつの方に近づいた
ソファの中央辺りに座るやつとコの字になってる角の辺りに座る僕
直ぐ近くにある、座席の上に投げ出されたやつの左手の長い指が白く浮き出たように見えて
入り口にあった、強く、でも孤独に真っ直ぐ伸びたカラーの花を思い起こさせる
その時、ちょうど運ばれてきた上品に美味そうな小皿料理なんかがふたりの前に並べられ
いつの間にか飲み干してたやつのグラスが新しいものに替えられた
のんびりと氷をゆすってみてるウソクは、まるで僕の気持ちなんかわかっちゃいない
僕の頭の中には、兄貴の顔とか、白塗り仮面の娘とか
ひとの良さそうなギスの顔や、ラブ君の心配そうな顔なんかが渦巻いてるってのに
「あの…あの…もう、こういうとこ誘わないで下さい」
「どうして」
「どうしてって…その…何てゆーか…談合みたいでマズいじゃないですか」
「談合って、使い方が違うだろ」
「だから、その…コソコソやってるみたいで他の株主に印象悪いし」
「くだらん心配するな、こういう所でなくてドーナツ屋ならいいってのか?」
「そういうことじゃなくて…」
「どういことだ」
「だから…」
「スヒョン氏に何か言われたか?」
「ええっ?」
いきなり、やつからスヒョンの名前が出て、飛び上がるほど驚いた
「そ…何でそんなこと…」
「いや、何か言われたのかと思ってね」
「何で…あなたがそんなこと言うんです」
「先日、彼とここのロビーでばったり会ったんだが…その顔じゃ聞いてないようだな」
「…」
「ここから君に電話をした日だ」
そんなこと、ひと言も言わなかった
「きっと…今…あのひとめちゃくちゃ忙しくて…話しそびれたんだと思います」
「なるほどね」
「何の話をしたんですか?」
「大したことじゃない、俺はしたたか酔っていたからな」
「あの時、酔ってたんですか?」
「ああ、彼にたしなめられるくらいにな」
やつが顎をしゃくった先には、あの感じのいい年配の給仕がカウンターの中に立って
静かにグラスを磨いてる
もちろん、その日、パク・ウソクにしては珍しいくらいの酔い方だったことは僕は知らないし
何でそんな酒の飲み方をしたのかも、この時はまだわからなかった
その日がどういう日だったのかを思い出してみれば
もう少し違った印象で捉えられたかもしれないんだけど
スヒョンの名前が出ちゃったその時点では、そんな余裕はなかった
「とにかく…何も言われてません…
それに…スヒョンは…僕のすることを制御したりするひとじゃない」
「…だろうな」
全身が大きく脈打つ
大したことじゃない話ってのが気になるけど、聞く勇気もない
そして…スヒョンがその話にまるで触れてなかったことにドキドキした
もしかして、僕のウソクへの気持ちをスヒョンは感じてるんじゃないかって
極力読まれないようにしてきたし、意識してからは特に注意してきたけど
スヒョンは、そんなことをいちいち口にする男じゃないってことも知ってる僕だから…
何だか、急に…掴まれてた大きなものに手放されそうになる冷たい感覚に襲われた
変な不安感を吹っ切るように
ライトに鈍く光るグラスに手を伸ばし残りを一気にあおってやつを見ると
僕の顔を見ていたらしいウソクとまともに目が合った
ウソクは、そのまま僕を凝視してる
睨む、とか、そういうんじゃなくて、敢えて言えば見透かしてるっていうやつだろうか
数ヶ月前、やつに初めて会った頃なら「感じ悪っ」と思っただけだろうけど
この男の底にあるものに触れたような気がする今は、それだけじゃない何かを期待する自分もいる
「今日の昼間から、おかしかっただろ」
「え…僕?」
「自分じゃ、精一杯つっぱって普段と同じようにやってるつもりだろうが
ハタから見れば昼と夜ほどの違いがある、バレバレってやつだ」
「そ…」
「夕方電話をしてきたロジェ氏が何と言ったかわかるか?
“ あまりこき使うなよ、プレゼンの日に今日みたいなドンジュン君は見たくないからね ”」
「パチフラが…」
「君のわかりやすさは国境を越えたわけだ」
「…」
そりゃ、ずっとスヒョンのことが頭から離れなかったけど、そんなのおくびにも出してないつもりだった
わかりやすいわかりやすいって、全然わかっちゃいないくせに
こんなこんがらがった心の中がわかるはずないのにさ
僕は返事をせずに、その辺の上品に盛られた食い物に手を伸ばし片っ端から口に入れる
そして、口の中がいっぱいになったところで聞こえた次の言葉に驚いた
「計画、やめるなら今だぞ」
ウソクは、ようやくソファの背から身体を起こして、解いた膝の上に肘をつき手を組む
まるで相談ごとを聞くような姿勢で、今一度僕の顔を覗き込んだ
僕はと言えば、物理的にしゃべれなかったってことよりも、いきなりの提言に驚いて声が出せなかった
「君には荷が重いんじゃないのか」
重いって言葉にドキリとしながらもーそのドキリの中には「仕事」と「スヒョン」って意味があるんだけどー
僕はふるふると頼りなく首を横に振った
これまでこの男には散々嫌味たらしく焚き付けられてきたけど
こんな風にすくい上げるようなトーンで言われたことはなかった
「自分をコントロールできない状況で、世界は相手にできない」
もう一度、首を横に振る
否定でも肯定でもなく、そんなの関係ない、絶対に続けるっていう意思表示だったんだけど
やつは、ちょっと違うニュアンスで受け取ったみたいだった
「そんな捨て犬みたいな目をするな、別にいじめようってわけじゃない」
僕が、思いっきり情けない顔をしていたんだろう
ウソクはちょっとだけ眉の端を下げて(それが困った表情だってことはその時の僕は気づかぬまま)
小さなため息をひとつついた
「大事なものを捨てて生きるのは辛い…どんな理由があっても」
それが、僕への言葉なのか自分への言葉なのか
やつの表情からは相変わらず細かなことは読み取れないけど、それがただの脅しじゃないってことはわかる
やつが世間で言われてるほど冷たいだけの男じゃないってこともわかってきてたし
僕なんかには想像もつかないほどの辛苦を舐めてきただろう人間の
その言葉の中には言いたいことが何千も含まれてるような気がしてズキリとした
何か答えるために口の中のものを呑み込まなくちゃと思った時だった
「これはこれは…パクのところの坊ちゃんじゃないですか」
僕の背後からかかった聞き覚えのない声に振り向けば
良さげなスーツに身を包んだかなり年配の男が、いかにもな作り笑いで慇懃に腰を折っていて
その少し後ろに、あの感じのいい給仕が気配を殺して見張るように立っていた
ウソクは、あからさまに無愛想に「ご無沙汰です」とか言ったが
どうも取引先の会社の会長らしい相手は、最近世話になっただの何だのと言葉をかけ
挙げ句に、次回のなんちゃらの件も社長にどうぞよろしくお願いしますなどと続けて
相手の機嫌を損ねてることになんかには、まるで気づいていない
そんな粗忽な相手が、散々言いたいことだけ言った後に「あ、大事なお打合わせ中でしたか?」なんて
ようやく連れに気づいたような表情でもって僕に顔を向けたが
虫も近寄らぬと言われるパクの御曹司の横で、思い切り口をモグつかせてる男に驚いたんだろう
水のように流れていた言葉が途切れたまま、ぽかんと凝視して
そして、たっぷり2~3秒も後だろうか、頭のどこかで閃いたものがあるらしくハッと目を開いた
その時の僕の心情は落胆に近い
さっきウソクの兄貴が言ってた「無用な噂」ってのは、兄貴の思い過ごしじゃないかと少しは期待してたから
この粗忽じいさんの薄暗がりでもテカった顔に「あの噂の男がこいつか?」ってゴシップ系の
それもどぎついピンクだかムラサキだかの色合いが滲み出た時は
自分の肩が、どう少なめに見積もっても5センチは落っこちたんじゃないかと思う
それまで、まるで感心がなさそうにしていたウソクが
その相手の反応にこそ反応したのはその時だ
「そういうわけです」
「…はい?」
「申し訳ないが、プライベートを邪魔されるのは不愉快なんでね」
プライベートって部分を強調したのはわざとだと思う
いつもより少し低い、意味あり気な抑揚にギョッとしたじいさんは
すんごくマズいとこに居合わせたとでも思ったんだろうか
2度3度、頭を下げて、それでも「社長によろしくお伝え下さい」と言い残して下がり
離れた座席にいた連れの男ふたりをせき立てて、あたふたと支払いのサインをして出て行った
あの給仕が「気がつきませんで申し訳ありません」とウソクに言ったが
彼には、気楽そうに片手をピラピラと振ってみせただけだった
とどのつまり、やつは礼儀知らずのじいさんをからかって追い払っただけなんだけど
僕は、むせながらも何とか口の中のものを飲み込んで、お冷やを飲み干してから極力小さな声で ”怒鳴った”
「そっ、そういうわけって、どういうわけだよ!」
「何が」
「怪し気な言い回ししてさ、その場限りでそんな適当なこと言うから…」
ついさっき「白塗り仮面」の件で兄貴に言われたことを口にしそうになった
「言うから?」
「や…あ…何でもない…つまり変な噂とか、その…誤解を生むんじゃないか…さっきの人だって…」
「好きなようにさせればいい」
「それで迷惑こうむってる人間だっているってことです」
「何をムキになってるんだ」
「こういうのはムキじゃなくて、抗議って言うんです」
「専務に何か?」
「え…」
「どうせ、ろくでもない釘を刺されたんだろう」
「や、そ…んなこと…」
「どちらにしたって、どうでもいいことだ」
そう言うと、やつは残りのグラスをカッと空けて立ち上がった
「場所を変える」
「は?」
「もう1軒付き合え」
僕の意見をきく前に、さっさと歩き出したウソクはそのまま大股で出口へと向かった
そうか、やつはオーナーも同然だからノーチェックなのかなんて変な感心をしながら立つと
あの給仕が(先ほどの件のことだと思うけど)済まなそうに頭を下げる
僕が「騒がしくてごめんなさい、でもすごく素敵なお店です」と言った時の、ちょっと驚いたようにほころんだ顔に
ああ、こういう人がいるからウソクはここに通うんだろうなと
そんなことを考えながら、もうとっくに外に出たウソクを追った
緊張は、エレベーターに乗ってから1階のロビーを通り抜けるまで続いた
中に入ったら「もう1軒」は断わろうかと思ってたんだけど
エレベーターには同じ階のレストランから同乗した2名の女性客がいて、つい無言になった
彼女達がそっと見てるのは、もちろん僕の横の男
目立つとか目立たないとかいうことじゃなくて、問題は、辺りの空気を変えるオーラみたいなものを
本人が全然自覚してないかのごとくむき出しにしてることだ
どうでもいい…やつがよく使うセリフだけど
自分が思ってるより、他人は放っておかないってことがわからないんだろうか
それとも…わかりすぎるから投げ出してるだけなんだろうか
とにかく、そんなやつとホテルのロビーを通り抜けるには勇気がいる
件の白塗り仮面と鉢合わせしないまでも、さっきのじいさんたちだとか
ウソクの兄貴が言うところの誤解を招く知り合いに会う確率なんて、天気予報が当たるそれより高い
それに、もしこんなとこをBHCの連中に見られた日にゃ…ゼッタイ!に誤解される
間違いなくラブ君とかに伝わるし…
ごちょごちょ考えてる間に、ウソクはどんどこ先に行って
僕は、目立たないようにホテルの客の間を、うつむきながら追いかけた
ようやく声をかけたのは、建物を出て、さすがのやつのシルエットも夜の光と音にまぎれた時
「あの、僕、付き合うって言ってないんですけど」
おや、という感じで立ち止まり肩越しに僕を見たウソクはこともなげに言った
「まだ話は終わってないだろう」
「え…」
「感心がないならこのまま帰れ」
ぐっと言葉に詰まった僕に、にやりと笑いかけてやつはまた歩き出す
ウソクの兄貴に言われたことを思い出さないわけにはいかなかったけど
個人的心情とプロジェクトを、どうしても切り離して考えてもらえないことに
何らかの説明ってか抵抗を示さなくちゃいけないんじゃないかと思ったし
正直に言えば…やつがどこに行くのかって興味は捨てられず、踵を返すことはできなかった
「ウソクさん…お久しぶりです、お待ちしていました」
ずいぶん歩いて、街の喧噪もそろそろ終わりかというところのビルの上階にその店はあった
1フロアに1店舗という感じの高級クラブに見えたんだけど
やつが勝手知ったように重そうな扉を開けると、クラシックの音が響いた
でも、その向こうにまた扉があって、黒服のボーイによってそれが開けられると音は倍増した
そう広くない店内には重厚なテーブルやイスが、数人の客が座っているように見える
見える…ってのは、さっきの店よりも暗くてテーブルの上だけが明るいから
まだ慣れない目にはすぐには把握できなかったわけで
そして、店の中で唯一ほどよい照度を保ってるカウンターの向こうからウソクを見つけて
白いパンツスーツのめちゃくちゃ綺麗な背の高い女の人が走り出てきて
懐かしそうにウソクの手を取って、最初の言葉を口にした時に…
…男だってわかった
や、充分きれいな高い声なんだけど、やっぱりわかった
「もう、顔を忘れちゃうところだったじゃないですか」
「ずいぶんご無沙汰だったな」
「私を納得させるカノジョを連れて来るまで立ち入り禁止だって言ったからですか?」
「それは無理だと言っただろ」
「相変わらずですね…でも連絡いただいて嬉しかったです」
「店がなくなってちゃかなわないからな」
「あなたに黙って畳むわけないじゃないですか…で、こちらが話してらしたお連れさま?」
麗人は、ちょっといぶかし気に、でも嫌な感じは与えずに首を傾げて僕を見た
「カン・ドンジュン君、うちが投資する予定の企業の責任者だ」
「ようこそいらっしゃいました、かわいらしい方ですね」
「はっ…はじめまして!」
「さ、お席にどうぞ」
「え…あ、は、ど、ども」
長くてサラサラの髪を後ろでまとめただけのその人の
近くで見ても女性にしか思えないくらい綺麗な顔立ちにドキドキして、ついどもる
ウソクは、フロアの席ではなくカウンターに着き
僕は、すっかりその店のムードにヤラレてその隣におとなしく収まった
そっと後ろを振り返れば、壮年の金持ちそうな男女や、芸術家みたいな人たち
それからひとりで座って目を閉じて音楽を聴いてる若い男なんかがいて
いわゆるゲイバーなんかじゃなさそうだってことはわかったし
クラシックを神経質に拝聴しなきゃいけないタイプの店でもなさそうだった
「変なお店でしょう?音楽好きの変な人たちの隠れ家なんです」
若いバーテンダーがつくったふたつのグラスを、彼(って呼びにくいんだけど)が出してくれて
ウソクをちょっと懐かしそうに眺めてから、僕に視線を流した
「私、彼の伯母さんの紹介でここにいるんです、彼にもずいぶんお世話になりました」
「そうなんですか」
「かれこれ4年になるでしょうか?」
「そんなものかな」
「私は、ずーっと昔から彼に本気で恋してるのに、ちっともなびかないんですよ、ね?」
「あ…もしかして…あなたに入れあげてたオカマバーのママって…まさか…」
「ふん、よく憶えてるな」
「この人のどこがオカマバーのママなんですか!」
「一番わかりやすく表現したまでだ」
「ふふ、相変わらず失礼な人ですねぇ、でもそこが素敵なんですけどね」
そんなひどい話題にも艶っぽく笑った麗人ママは
今度は、少しウソクに何かを問うような目をし、ウソクがそれに頷くと
ではごゆっくりどうぞと言いながら優雅にフロアーの方へ出て行った
「何、ボーっとしてるんだ」
「だって…すごい…」
「まぁ、ちょっと目立つ美人だな」
「や、すごいってのはあなただよ…あんな人に惚れられて平気だなんて…もしかして不感症?」
「何とでも言え」
「信じらんない」
ウソクは、ちらっと店内を見渡して、変わってないなとつぶやいた
「ここの客は互いの興味などない連中ばかりから気楽だ」
「あの…あの…今日…ここに来るって決めてたんですか?」
「ああ、兄を帰したらな」
「…」
「ここに人を連れてくるのは初めてだ」
面食らってすっかりおとなしくなってた僕の心臓がまた跳ね上がった
ーここに人を連れてくるのは初めてだ
な、何、何なの、それってどういう意味があるの
僕の密かな混乱をよそに、やつはゆっくりとグラスを傾けてる
ぼわんとした空間の中でウソクの横顔が浮き上がって
さっきの店より白く見えるのは
飴色の中に少し青みがかったライトが混じってるからかもしれない
胸から頭にかけて脈打つ音を聞かれないように
僕は、また目の前のグラスに手を伸ばしてダブルをゴクゴクと飲み干し
その勢いで口を開いた
「それであのっさっきの話ですが言っておきますがどんなに荷が重くたって
僕はまるきりぜんぜんこれっぽっちも手をひくつもりはありませんから」
「何で棒読みなんだ」
「だっ、だから…」
「君には遠回しに言っても伝わらないようだな」
「ちっ近回しでお願いします」
ウソクは、見ようによっちゃかなり意地の悪そうな顔になった
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