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ぴかろんの日常
コラボ:ただ抱擁の時は過ぎ 3
9
それから数日後
父の身体がチューブ類から開放されたと聞きジンは病室を訪れた。
開けた窓の静かな雨音を聞きながら父の顔を眺めている。
深い皺と白い髪。
そこには昔の利己的な父の面影はない。
自分勝手は許さない、悔しかったら俺を越えてみろと
ひたすら息子に理想を追い求めた父。
全ておまえのためだ…その言葉をジンは吐き気を感じるほど嫌悪してきた。
ヒョンジュが逝った頃
ようやく息子に何が起こっていたのかを知ったジンの父の怒りは凄まじかった。
部屋のソファにひとり屍のように倒れている息子を引きずり
言葉もないまま床に押しつけた。
静止する妹の声がひどく遠くに聞こえる。
-俺はいったい…何を間違えたんだ…
その時の涙を溜めた父の小さなつぶやきが蘇る。
・・・・・・
父とたった一度だけ行った少年の日の海の情景が頭をかすめる。
どこからの帰りだったろうか
突然車が故障して海岸の側で止まってしまった。
業者が来るまで仕方なく側の食堂に立ち寄り
その後海岸でぶらぶらと時間を潰したことがあった。
その時父は哀しいほど貧しかった子供の頃の話をした。
もっと勉強がしたかったとぽつんとつぶやく父の横顔が弱々しく見え
どきどきしたのを憶えている。
そんな父を見たのは後にも先にもその時だけだ。
多忙な父とゆったりとした時間を持つことのなかったジンにとって
それは唯一の親子らしい思い出のシーンとなる。
あの時の少し曇った空と海…
忘れられない風景の原点はそこにあった。
病院のロビーを抜けるとソニが立っていた。
「この間は…ありがとう」
「私こそ楽しかったです」
「…」
・・・・・・
ソニは明るい顔で真っ直ぐにジンを見つめ返す。
思いがけないその笑顔がかえって彼を揺らし
中庭を見通せるラウンジに腰を下ろしてからも
ジンの心はざわついたままだった。
彼女は雨の滴の伝う大きな窓を子供のように見上げている。
「君は…強いね…」
「え?」
・・・・・・
「僕はいつまでたっても同じところに立っている気分だ」
「そんなこと言わないで下さい…寂しくなります」
「…」
「私は先生に会えて変わったような気がします…これからも変わりたいんです」
「ソニさん…」
「どんなにわずかでも…私も先生を変えたんだって思いたいんです」
思いがけないソニの強い視線にジンは戸惑った。
「僕は…」
言葉を飲み込み目を閉じる。
What kind of man would I be, Chicago, (
♪
) Disc 2, No. 15
何度も何度も 出発点に押し戻されるかんじがする だけど君はわかってくれる
この世のことが何ひとつ うまくいかないときは 君のもとへ駆けて行きたい
君が僕を困難から抜け出させてくれるんだ
君を自分の人生に求めない人がいるだろうか
言ってくれ どんな男になればいいのか 意味のない人生を生きるのに
僕にはわかる 君は僕なしだって絶対ちゃんと生きていける
だけどもし僕が 君なしで生きなくてはならないのだとしたら
どんな男になれというんだ (訳詞より抜粋)
迷いつつ揺れつつ歩む道のりも 寄り添う人のあると思えば
暗い闇の底から抜け出したいともがき続けてきた自分だが
そうすることはヒョンジュを忘れていくことだと
それは絶対に許されないと。
今もってどこまで遡って後悔すればいいのかさえわからずにいる。
そんな無責任な自分を放って変わっていくことなどできないと感じていた。
辛そうな影を落とすジンの睫毛はソニの心をキリキリと締めつける。
強い言葉とは裏腹にすがりたいような気持ちでもあった。
・・・・・・
どれくらい時間がかかるのだろう…
お互いの距離はまだまだ遠いような気がした。
彼女はもう何も言わずにそっとジンの手をつつみ
ふたりは長いことそうしたまま動かなかった。
ソニから消え入りそうな声で電話がはいったのは
それからひと月ほど経ったころだった。
・・・・・・
もどかしく呼び鈴を押すジンを出迎えたのは力ない視線のソニだった。
・・・・・・
ジンはソニを床に座らせ
握りしめている封筒をやっとのことで外し中味を取り出した。
手紙はソニを陰ながら見守ってくれたあの恩師の息子からだった。
母親が持病の発作で急逝したこと、
そして遺品の中にソニへの手紙が見つかったので送るという短い文が添えられていた。
手紙はいつでもソニの手に渡せるようにしてあったものだろう。
小さな写真とともに丁寧に二重の封筒に入れられていた。
これは3年前亡くなったあなたのお祖母さまからお預かりしていたものです。
あなたのご両親の写真とお父様の日本の住所です。
お祖母さまはもしいつかあなたがお父様のことを知りたいと言い出したら
渡してくれと私に託して逝かれました。
お父様からの何十通もの手紙をお母様に見せることなく焼いたことを
最後は悔いておられました。
あなたにとって苦しいこれまでの人生だったと思いますが
あなた以外の方にもそれぞれの深い想いがあったことだけはわかって下さい。
そして「あなたの気持ちに正直に生きて下さい」と締めくくってあった。
ソニの目から涙が溢れ出る。
恩師の突然の死と思いがけぬ祖母の想い
そして幻だった父の実像の手がかり。
どう対処していのかわからずジンに連絡を入れるのが精一杯だった。
ジンは混乱し泣き続ける彼女を抱きしめた。
・・・・・・
ジンはソニの横に腰を下ろし一晩中その肩を抱いてやりながら
彼女がぽつりぽつりと語る母の思い出に耳を傾けた。
「小さい頃…母が部屋の壁にいきなり絵を描き出したんです」
「壁?」
「私が友達と同じ絵の道具が欲しいとひどい我が侭を言った時です
水彩で壁いっぱいに樹の絵を描いて…ものすごく驚きました」
「それは驚くな…」
「母は描きたいものがあれば道具なんて関係ないって…子供心に納得してしまいまた」
「うん…」
「でも大家さんにはすごく怒られましたけどね」
「ふふ…」
「後で聞いたらあの絵は父との思い出の場所ですって…
樹らしきものがあるだけで私にはさっぱりわからなかったんですけど…」
「…」
「きっと…母の大事な場所だったんです…」
「うん…」
「何で…」
「ん?」
「何で笑っていられたんでしょう…そんな大事なものをなくしたのに」
「…」
「それをずっと考えてました」
「なくしたわけじゃ…」
ないのかもしれないよ…そう言いかけてジンは止めた。
何かを言ってやれるほど自分もわかっているわけではない。
・・・・・・
-肝心なことは目に見えないものなんだ
誰の言葉だったろうか。
頭のどこかにそんな言葉がよぎった。
「私…行きたい…」
「え?」
明け方近くになって顔を上げたソニはジンを真っ直ぐ見つめた。
・・・・・・
ジンは彼女が父親に会いに行くことには賛成しかねた。
「ひどい結果になるかもしれない」
「結果なんてどうでもいい…なぜ帰って来なかったのかを聞きたいんです」
「聞いてどうす…」
「私が生きていくためです!」
「ソニさん…」
「母は最後まで幸せそうだったんです、それがわからないんです
憶えていますか? " Viva la Vida "…なぜその言葉なのか知りたいんです!」
・・・・・・
空気が変わろうとしているのだろうか…
その向こうにあるものが全くわからず
言いようのない不安をおぼえる。
しかしもうその場に留まっていることも許されないのかもしれない…
そう感じてもいた。
ある夕方
デスクで長く考え事をしていたジンは急に立ち上がり
そして部屋の棚の奥にしまい込んでいた1冊の本を取り出すと
居間の椅子にゆっくりと腰を下ろした。
「肝心なことは目に見えない」その言葉の所在を思い出した。
ジンはヒョンジュの叔母から数冊の彼の本を譲り受けていた。
「Le Petit Prince」は彼が何度も読み返していたもののひとつだ。
・・・・・・
ぱらぱらとページをめくれば過ぎた時が広がる。
Clair de lune(月の光), Debussy, (
♪
) No.10
降り満ちる 月の光に 染むように 君の言葉の 甦る宵
ヒョンジュは小さな王子の風のような言葉が好きなのだと言っていた。
ひとはみんな違った目で星を見てるんだ。
旅行者の目から見れば星は案内人だね。
ちっぽけな光くらいにしか思ってないひともいる。
学者の中には、星を難しい問題にしてるひともいる。
僕が出会った事業家なんかは金貨だと思ってた。
けれどその星たちは、みんな何も言わずに黙ってるんだよ。
指でそっと活字に触れてみる。
そう…
いっときは思えたんだった。
ヒョンジュに出会って。
こんな風に感じて生きていきたいと。
でもね、君にとっては星が他の人とは違ったものになるんだよ。
僕はあの星の中のひとつに住むんだ。
そのひとつの星の中で笑うんだ。
だから君が夜、空を眺めたら、星がみんな笑ってるように見えるでしょ。
するとね、君だけが笑い上戸の星を見るんだよ。
ヒョンジュ…
僕は彼女と一緒に行ってみようと思うけれど。
少し…
歩いてみようと思うんだけど
いいだろうか…
日本に発つ日の朝ジンは父の病室に寄った。
日本行きのいきさつをゆっくりと話してみた。
父を混乱させるだけかと思われたが
何かを伝えなかったために後悔することはもうしたくなかった。
思いがけずゆっくりと手を差し出した父が
かすれる声で「気をつけて行ってこい」と言いジンは驚いた。
それ以上詮索するような言葉はなく
2年前に息子を締め上げた時の不審の色はどこにもない。
父もまたこの2年間息子の「存在」について考え続けてきたのだろう。
まだコップで水分を摂れない父に
ジンはミネラルウォーターのボトルのキャップにほんの少しの水を入れ
そっと唇の間に滴らせてやった。
数滴の水で舌を潤しうまいと微笑む父。
あの海岸で見た父の横顔が蘇る。
ジンは時間ぎりぎりまでそこにいた。
10
鎌倉の駅前は思っていたような古都の風情とは少し違った。
小さなビルがロータリーを囲み
バスやタクシーが並び人々が隙間を通り抜ける。
・・・・・・
Here comes the sun, Beatles by Pedro Guasti
賑わいは心に遠く 桜木の緑影さす葛石踏む
この国の緑麗し 端正な古都の横顔 陽光(ひかり)を映す
ふたりはさほど広くないロータリーを抜け大通りに出ると
双方向車線の真ん中を通る参道、段葛(だんかずら)を歩いた。
真っ直ぐ500メートルほど先には八幡宮。
地図では反対向きに歩き続ければ海に出るようだった。
車道から少し高くなった数メートル幅の壇葛は独特の景観だ。
左右の桜とツツジは青葉をたたえ人々を迎える。
春には白いトンネルとなりさぞ素晴らしい光景なのだろう。
・・・・・・
八幡宮の中の参道には進まず右手にそれて小さな池のほとりを進み
地図を頼りに細い路地に入って行く。
そこまで来ると観光客の影はほとんど途絶え
古い民家と新しい家が入り交じる住宅街へと続いていた。
・・・・・・
そこにも瑞々しい葉を茂らせた桜の木があちらこちらに立つ。
ジンは時々先を急ごうとするソニの手を引いて立ち止まらせ
美しい緑や枝に休む鳥
時に樹々の間を移動して驚かせる台湾リスに眼を向けさせた。
・・・・・・
ふたりは記された住所の古い木の門の前に立った。
・・・・・・
中々呼び鈴を押せずにいると通りがかった婦人が
「今そちらはお留守ですよ、昼間はこの先のお寺にいますよ」
と日本語で話しかけてきた。
その古い寺は道の行き止まりにひっそりと門を構えていた。
辺りは静まり返り聞こえるのは樹々のざわめきと鳥の声だけ。
ジンは門の前で動かなくなったソニの手を取り進んだ。
・・・・・・
通りがかった寺の者らしい年配の女性に父の名を告げると
その女性は一瞬大きく眼を開き待つように言って急いで庭の奥に消えた。
「どうしよう…やっぱり…」
「僕が側にいる」
「でも私…」
小さな物音がしてソニが振り返ると
そこには若草色のセーターに身を包んだ長身の男性が立っていた。
ジンはソニの手を強く握った。
男性は木戸に手を掛け何の感情も読みとれない表情でこちらを見つめている。
そしてその男は
ひと言「ジェヨン?」とつぶやいた。
・・・・・・
時々風にしなる竹がぶつかるカーンという不思議な音が聞こえる。
ジンはソニの手が震え出したことに気づいた。
・・・・・・
しばらく声が出なかったソニはやっとのことで
「ジェヨンは私の母です」と言った。
男は全く事情が飲み込めていない様子でただ立っている。
聞こえなかったのだろうか。
・・・・・・
「私の父は…日本人だそうです」
こんな切り出し方をする予定では…なかった。
男の表情に初めて変化が現れたように見える。
「意味…おわかりになりますか?」
自分でも驚くほどの低い声だった。
ジンが思わず彼女の顔を凝視する。
「母はたったひとりで子供を産みました」
「…」
「必死で子供を育ててボロボロになって死にました」
驚いたジンが咄嗟にソニの腕を引き制した。
・・・・・・
Etude Op.8-12 (エチュード作品8-12, 12のエチュードより), Scriabin, (
♪
) No. 9
シナリオは 斯くもたやすく綻びて 負の感情はほとばしるまま
「どうして母を捨てたんですか…なぜ帰ってこなかったんですか」
「ソニさんよしなさい」
・・・・・・
男は凍りついたように佇み
次第に顔色が変わっていくのがわかる。
「母はずっと待ってたんです…死ぬまであなたを庇って信じてたんです」
「ソニさん!」
「36です…母は36歳で死んだんです
何であなたはそんな明るい綺麗な色の服を着て元気でいるんですか!」
「そんなことを言うために来たんじゃないだろう!」
「母はずっと待ってたんですよ!」
「いい加減にしろっ!」
ジンは乱暴にソニを抱きしめ言葉を遮った。
男はふらついて木戸に寄りかかり、その目は宙を彷徨う。
・・・・・・
「どうなってるんだ…いったい…ジェヨンは…」
男が韓国語でそうつぶやきソニ自身に視線を戻した時
ソニの目から涙が溢れ出た。
「あなたを想って想ってただそれだけで逝っ…」
ジンが自分の胸に彼女の顔を押しつけ無理矢理言葉を断った。
「もうよせ…頼むから」
ソニの身体から一気に力が抜けた。
・・・・・・
ソニは何かを言いかけたが声にならず
ジンの腕を振りほどいて門の外に走り出た。
ジンはペンを取り出し
地図の切れ端に横浜のホテルと自分たちの名を走り書きして男の手に握らせた。
「すみません、後ほど必ずご連絡します」と頭を下げて門に向かう。
一度だけ振り返ったジンの目には
香り立つ緑の中の男の姿が淡い水彩画のように映った。
来た道を泣きながら歩いているソニの腕を掴む。
「ソニさん!」
「ごめんなさい…」
「お父さんをあのままにして帰るのか」
「ごめんなさい…何が何だかわからなくなって…」
「落ち着いて」
「あんなことを言うつもりじゃなかったんです」
・・・・・・
港のホテルには2つの部屋を用意してもらっていた。
昨夜のソニにはひとりになり十分気持ちを落ち着けてもらったつもりだったが
側にいてやるべきだったのだろうかと
そんなことまで小さな後悔に変わっていた。
・・・・・・
「あんな風に…言うつもりじゃなかったんです」
「わかってる」
「ちゃんと母の話を伝えるつもりだったんです…あの人に恨み言を言うために来たんじゃない」
「わかってるよ」
「情けない…過去を罵っても何も変わらないのに…」
「ソニさん…」
「これからのためにって大口を叩いたのに…」
「…」
「母に何て謝ろう…私…」
「大丈夫だよ…」
ジンはうなだれるソニの頬にそっと手を伸ばす。
大丈夫…
以前にもこんな言葉を言ったことがある。
そう…あの時のヒョンジュに。
どうすることもできずただ自分の気休めに言い続けた。
何の説得力もないそんな言葉を彼はどう受け止めていたのだろう。
また…繰り返すわけにはいかない。
・・・・・・
港の端に建つそのホテルからは遮る物なく海が見渡せる。
心の中にある曇った情景とはまるで違う海。
こんな風景を以前見たような気がするがどこだったろうか。
凪いだ水面は空の色に幾重にも染まり
青紫とうす紅色のヴェールが無数に重なりあったような美しさだ。
右方に見える橋は白い羽根を広げるように真っ直ぐ伸び
遥か向こう岸の埠頭は夕陽を受けて橙に輝く。
そこから溶け出したような色の空はやがて上方の果てしない紺へと続いている。
ああ…そう…
あの絵。
どうしたわけかその光景はあのスイカの絵に似ているような気がした。
胸の中の深いところを包まれるような暖かさ。
そして目を閉じれば
その空気はゆるりとあの物語にも繋がっていく。
「ね…ひつじの絵を描いてよ」
初対面の飛行機乗りに砂漠の真ん中でひつじの絵を描いてくれとせがむ少年。
・・・・・・
ジンは薄紅の窓の中でひとり優しく微笑んだ。
彼は気づいていただろうか。
その穏やかな微笑みが遠いあの日以降初めてのものだということを。
振り向けばソニが涙のあとを残して眠っている。
ジンは紙に書かれたソニの父の電話番号を取り出した。
深呼吸をして部屋の電話の受話器を取り上げようとしたまさにその時
それが音を立てた。
ホテルの交換手の丁寧な声はソニの父の名を告げた。
11
ジンはソニの父の家の居間で彼と向かい合っている。
・・・・・・
ソニの父は…ひどく泣いたのだろうか、目が腫れていた。
彼は長いこと俯き黙っていたが
目を伏せたまま口を開き、ぽつりぽつりと自分の話をし始めた。
自分と彼女との間に子供がいたことは今日まで知らずにいた。
しかしソニの存在そのものは知っていたという。
「どういう…ことですか?」
必ず迎えに行くという手紙を何十通も出したが
ただ一度の返信もなく焦り辛い日々を送った。
「もう忘れてしまったんじゃないかと…何度も諦めようとしました」
彼は小さな庭に揺れる樹の影を見つめ遠い目をしている。
取り戻せない時間の哀しさはジンには容易に想像できる。
不意にジンのポケットの中の携帯が無音で震えた。
ジンはその相手を確認すると
彼の言葉を遮ることなくそっと通話ボタンを押し、そのまま手に持った。
「たった一通の手紙は彼女のお母さんからのものでした」
彼の母が亡くなったその頃に
「ジェヨンは結婚した、娘の幸せを願うならもう関わらないでほしい」
という手紙が届いたという事実にはジンも驚いた。
・・・・・・
「私…やっと自力で韓国に渡れるようになって…行ったんです」
「ソニさんの…家にですか?」
「ええ…忘れもしない…あの追い返され続けた家…」
「…」
「家の外にいた女の子がジェヨンをお母さんと呼んでいた」
「…」
「かわいい子でした…すっかり痩せていたけどジェヨンはその子を大事そうに
本当に大事そうに抱いていたんです」
「…」
「思いもしなかった…まさか…それが私の子だなんて…」
Consolation No. 3 in D Flat Major (コンソレーション第3番変ニ長調),Liszt (
♪
) No. 1
帰らざる歳月(とき)を慰すべき言葉無く 静かな父の物語聴く
遠い日の記憶に耀(あか)る面影の 貴女は今も美しいまま
父の赤い目から涙が溢れ出た。
・・・・・・
「帰りのバスの中で泣いたのを憶えています…」
彼女が幸せならばそれでいいのだと自分に言い聞かせて生きてきたが
数年後、彼女が亡くなったという知らせを受けてから暫くは
その支えの気持ちさえも失い塞ぎ込んだ。
「でも…今思えば…彼女のお母様がそんな知らせをくれたのも
私のことを気にかけてくれていたということなんでしょうね…」
・・・・・・
向こうの部屋の鴨居に架けられた父母のものと思われる古い写真は
静かにその話を聞いているようだった。
ジンは何も言えずにいた。
・・・・・・
事情は全く異なってはいても
その姿は自分の姿のように思えた。
-俺はいったい…何を間違えたんだ…
父の言葉がまた蘇る。
「ジェヨンに会ってみますか?」
「は?」
長い沈黙の後ソニの父は初めて僅かな微笑みを見せて言った。
彼はゆっくり立ち上がり
奥の部屋から雑誌ほどの大きさのスケッチブックを手に戻ってきた。
中程のページを開くと
そこには白いブラウスとスカートの女性の絵が描かれている。
淡い水彩の透き通るような緑の中に座っているその女性は
陽を浴びて明るく微笑んでいた。
決して慣れた絵ではないがそこには穏やかな時間を感じる。
「おふたりで…いらした場所ですか?」
ジンはソニが話していた母親の”壁の絵”を思い出し何気なく尋ねた。
「いえ…彼女が…いつもこんな所に行ってみたいと言っていたんです…」
日本に帰ってから描いたものです
本当はこんな感じじゃないけど…
でもこれが私の中の彼女なんです
いい歳して…何だか…滑稽でしょ
「いえ…そんなこと…」
・・・・・・
「結局彼女には…何もしてやれなかった…
私にできたことと言えば…ただ正直に愛したことだけです…」
ホテルのベッドの横でソニは携帯を耳に当て泣いていた。
・・・・・・
「ジェヨンは本当に…」
「…はい」
「私を…恨んでいなかったんでしょうか」
「それは…ソニさん…娘さんに直接聞いて下さい」
「…」
「ソニさんに会っていただけますね?」
「いや…」
「そのつもりで連絡を下さったんですよね」
「そのつもりでしたが…どんなに酷い思いをさせたかと思うと…」
「過ぎたことです」
「私の中ではあの時のままです」
よくわかる。
ジンにはその男の気持ちが自分の腹の痛みのように伝わる。
しかし
だから…言わなくてはいけない。
「彼女はこれからのために来たんです」
「しかし…こんな…」
「…」
「こんな私が今更何を話してやれるのでしょう」
「お父さん…」
「沢山の人間を不幸にして…彼女を苦しませて…我が子の存在も知らずに…」
「…」
「なのにこうして生きながらえてるこんな私が…何を言ってやれるでしょう」
・・・・・・
ジンの前にいる男はもはやソニの父ではなかった。
そこには”自分”が座っている。
思い出をただ抱きこのまま静かに呼吸をしていたいと目を閉じている。
苦痛を逃れることはそれを忘れることだと言いながら。
なぜそこに留まっているのかさえわからずに。
”また笑ってくれたジン へ”
ジンは何度も唾を飲み込み…ようやく口を開いた。
「笑うこと…は…忘れることですか?」
「…え…?」
「ジェヨンさんは…大切な…」
大切なものを…
ジンの目の奥は熱く潤み唇は震えていた。
「ものを…残していってくれたんじゃないんですか?」
ジンはあの日のヒョンジュを思い出していた。
海のヒョンジュではない。
初めてカウンセリングに訪れたあの5月の彼。
ふわりと風にふくらむ白いカーテンを見る瞳がどれほど穏やかだったか。
初夏の風を受ける口元がどれほど優しかったか。
彼が置いていってくれたのは
そんな時間だった。
僕は…まだ…
「ありがとうも…」 …言っていない。
・・・・・・
男が立ち上がり
ソニに渡してほしいものがあると言った時
ジンの手の中の携帯から声が響いた。
『待って!待って下さい!』
その声はひなびた部屋の温もりに静かに吸い込まれていく。
言葉は続かぬまま小さな泣き声に変わった。
驚いて立ち尽くす父に
ジンはゆっくりと携帯を差し出した。
12
ジンはひとり
運河の中程を通る陸橋の手すりに手を掛け
港の高層ホテルの夜景の中に佇んでいる。
全ての溢れる光が運河の黒い水面に映り眩しいほど輝く。
それは時間が止まっているかと錯覚するほどの
圧倒的な美しさだった。
・・・・・・
時折橋のすぐ下の水が小さくパシャリと音を立てる。
対岸の古い倉庫前のビァテラスからはジャズの演奏がこだまし
光の中まばらに行き交う人々のシルエットさえ夢のようだ。
支柱の光が時を刻む観覧車にはまだ客が乗っているのだろうか。
ジンの携帯を受けとった父の手は震えていた。
暫く目を閉じ向こうの言葉に耳を傾けていたが
やがてジンに背中を向けゆっくりと畳に膝をついた。
父の声は涙を含みながらも限りなく優しい。
・・・・・・
ソニとの会話を終えた父は背中を向けたまま言った。
明日…会います…娘に…
・・・・・・
きらめく宝石の華の中に佇むような錯覚をおぼえながら
ジンは潮の香りに目を閉じた。
・・・・・・
ー私にできたことと言えば…ただ正直に愛したことだけです
ソニの父の言葉が静かに波紋を広げる。
そう…それだけなんだ…
それだけ…
何の証しもないけれど…
Intermezzo,Cavalleria Rusticana(インテルメッツォ,歌劇カヴァレリア・ルスティカーナ),Mascagni (
♪
) No. 2
不意に背中から回される腕の感触。
そしてその瞬間
その懐かしい香りに息をのむ。
ジンは目を閉じ
何度も呼吸をし
目を開き
ゆっくりと振り向いた。
そこにはあの微笑みがあった。
あの微笑みがふわりとジンの腰に腕をまわしている。
ヒョンジュ…
ヒョンジュなの…?
ジンが身体の向きを変えると
ヒョンジュの腕はジンの身体を滑り背中にまわされる。
ジンは溢れる光を映すその瞳を見つめ
暫く動くことができなかった。
そっと髪に触れ…頬に触れ…瞼に触れ
唇に触れてその感触を確かめる。
指が震える。
両手でその頬を包めば全ての身体の中から愛しさが溢れ出る。
涙でヒョンジュの顔が霞む。
今まで…
どこにいたの…
会いたかったんだよ…
君に…
会いたかったんだ…
ずっと…
こうして
抱きしめたかったんだよ…
ヒョンジュの深い瞳の色が昔のように潤み
その目はジンを真っ直ぐ捕らえて離さない。
腕がジンの背中を抱きしめ
その口もとが静かに動く
ジン…
その囁きは確かに聞こえたような気がした。
ヒョンジュ…
ふたりは静かに唇を重ねた。
・・・・・・
あの海岸のあの潮の香りに包まれる。
遠く波の音が聞こえる。
ああ
今までのことはみんな夢だったのだろうか…
そう?
本当は君はずっと僕の側にいて
僕はずっとこうして愛してきたんじゃないのだろうか。
ふたりのシルエットが光の空気に揺れる。
ゆっくりと唇を離すとヒョンジュは閉じていた目を開けた。
その瞳はあの日のように
”ずっと側にいるから”と言っているようだった。
そしてジンの腕からするりと抜け出すと
彼の身体をそっと押す。
風に押されるようにジンは一歩足を引いた。
どうしたの…?
なに…?
行けっていうの…?
ヒョンジュは何も言わずに微笑んでいる。
ジンがヒョンジュの名を声に出そうとした時
遠くの空に汽笛が響き
…それを意識した瞬間
…ヒョンジュは見えなくなった。
ジンは降るような光の中にただひとり残された。
地の祈り天に満ちませ 御(み)恵みの 地に降らせませ 地を満たしませ
満天の光降る時 哀しみの千夜を超えて 君の声聴く
ジャケットの中の携帯が震える。
暫く目を閉じて
携帯を手にする。
その向こうにはソニの暖かい声がした。
今…どちらですか。
戻ってきたよ。
ホテルの前で待っていていいですか?
すぐ行く。
ジンは携帯を閉じ橋をゆっくり歩き出した。
一度だけ振り返ってみたが
ヒョンジュの姿はどこにもなく
そこにはただ夢のような光が溢れている。
ジン…
あの声は
その光の中に祈りのように溶け込んでいた。
ソニはホテルの前の石の広場にぽつりと立っていた。
外灯に照らされたその顔は優しくゆったりとした表情でジンを迎える。
「ありがとうございました…」
「明日会えるね?お父さんと」
「はい」
ジンはソニをそっと抱きしめた。
そしてその夜は
彼女の肩を抱いてやり横になった。
朝まで…ただそうしてやった。
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