工事中



  初めて、人の“死”について感じたのは、小学校1年生のときだったと思う。
  父方のおじいちゃんが、亡くなりました。

  小学校のころ、幼稚園からの友達のおかあさんが亡くなりました。

  小学校のころ、入院中の担任の変わりに来ていた、臨時の先生が亡くなりました。

  中学校のころ、クラスの友達のおかあさんが亡くなりました。

  中学校のころ、ほかのクラスメイトのおかあさんが亡くなりました。

  高校1年のころ、中学時代のクラスメイトのおとうさんが亡くなりました。

  高校の2年の秋、中学時代おかあさんを亡くした友達のおとうさんが亡くなりました。

  高校3年の夏、2学年下の後輩が亡くなりました。部活の後輩の親友でした。

  大学1年の夏、高校時代かわいがっていた後輩のおとうさんが亡くなりました。

  2003年1月、私のおばさんが亡くなりました。

  2003年6月、付き合っている人のおばあちゃんが亡くなりました。



  思い出せる「ちかい人」の“死”は、これだけ。



  いつも思うことは、“死ぬ”って言うことは、どんなときも『突然』なんだなってこと。
  当たり前のことなんだけど、“死ぬ”ってことと“死にかけている”ことの大き過ぎる違いを感じる。

  現実に亡くなった人間には、現在進行形はないってこと。
  “死ぬ”と“死んだ”だけ。
  復活はないから、“死んでいる”って言葉は、使わない。(言葉のあやではあるけど。)

  どうしてこんなにも違うんだろうって、その冷たさにぞっとすることがある。


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